まちの概要 |
東海市は市域の北部に位置した上野町と、南部に位置した横須賀町が合併して、昭和44年(1969年)4月1日に誕生しました。
「東海市」という市の名前は、公募によって決められたもので、東海市・名南市・愛知市・知多市・平洲市の上位5市名から、「東海地方を代表するようなスケールの大きい名である。全国的によく知られ知名度が高い。中部圏の中心となるにふさわしい名称である」という理由で選ばれました。 |
[1]位置 |
知多半島の西北端に位置し、東西8.06キロメートル、南北10.97キロメートル、面積43.36平方キロメートルであり、西は伊勢湾に面し、北は名古屋市、東は大府市、東浦町、南は知多市に接しており、名古屋市の中心地区まで約15キロメートルに位置しています。 東経136度54分09秒 北緯35度01分23秒 (東海市役所の経度・緯度 世界測地系) また、愛知県の主要な工業地域である名古屋南部臨海工業地帯の一角を形成しており、産業上の拠点都市としての役割を果たしています。 ■アクセス
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[2]気候 |
年間降水量は、約1,200ミリメートル、年平均気温は、16〜17℃であり比較的温暖な地です。 |
[3]沿革 |
東海市に、いつごろから人が住み始めたのでしょうか。 現在のところ、市内で最も古い遺跡は、大田町の愛知県立東海商業高校の南に伸びる丘陵上に位置する高ノ御前遺跡で、今からおよそ6000年前(縄文時代前期前半)に、人が住み始めました。その後、ほとんど空白の時期をおかず、この地に人の営みが続いています。 古代には、東海市北部の名和町から鳴海、笠寺・熱田の台地をめぐる一帯に干潟がありました。この干潟を「あゆち潟」といい、愛知県の県名の語源でもあります。この地は、干潟と伊勢湾を一望できる要衝の地であり、4世紀ころには、相当な勢力を持った豪族が治めていました。また、万葉の時代、海岸部では製塩が行われ、取れた塩は調塩として遠く平城京(奈良)へ送られていました。 江戸時代、尾張藩2代藩主徳川光友が、馬走村(まはせむら・現在の横須賀町及び高横須賀町の一部)に御殿を建てて、この地を訪れ、景勝を賞したことから、横須賀町は町方と称され、農漁村から商業の町へと変わりました。 また、江戸中期には、米沢藩9代藩主・上杉鷹山の師である儒学者の細井平洲を輩出しました。 横須賀には、大正年間から昭和初期にかけて警察署や旧制高等女学校などが置かれ、西知多の政治経済の中心地として発展しました。当時、この地域では酒、みそ、しょうゆなどの醸造業や木綿などの織布業が盛んでした。 また、明治期に始まったタマネギやトマトなどの西洋野菜栽培が盛んに行われ、トマト王と呼ばれている蟹江一太郎を生んでいます。 昭和20年代には、県下で初めて球根や観葉植物の栽培が始められました。昭和30年から始まった愛知用水事業は、この地域の農業の高度化、近代化を進め、フキ栽培は、生産量全国一を誇っており、洋ラン栽培と共に都市近郊農業地帯としての地位を確立しました。 また、ノリの一大生産地であった遠浅の海岸部は、工業用地造成のために埋め立てられ、本市漁業の歴史に終止符を打ちました。 さらに、愛知用水の整備は、工業振興に対する新たな可能性を高めることになり、臨海部には、東海製鐵梶m現新日本製鐵竃シ古屋製鐵所]を始めとする企業立地が進み、中部圏最大の鉄鋼基地となっています。 昭和44年4月1日、上野・横須賀2町の合併により東海市が誕生し、新しいまちづくりが始まりました。以来、臨海部の工業従業者を中心とした全国各地からの急激な人口流入に対応するため、学校、保育園、公民館など地域施設の充実と共に、市民病院、文化センター、勤労センター、農業センター、商工センター、市民体育館などの整備を図ってきました。平成9年には、高齢社会に対応するため、健康と福祉の活動拠点としてのしあわせ村をオープン。介護保険に対しては、東海市・大府市・知多市・東浦町の知多北部3市1町で広域連合を設立し、事業に取り組んでいます。さらに、下水道の整備を始め土地区画整理事業の推進など、10万都市にふさわしい都市機能も整いつつあり、現在は、市の表玄関としての太田川駅周辺整備に全力で取り組んでいます。 平成16年度には、市民の皆様が一層安全で快適に暮らしていただけるよう「元気あふれる 快適都市」をテーマに第5次総合計画を策定。市民、企業、団体など東海市に関わるすべての方々と共に、協働と共創の理念によって、それぞれが役割を担いながら、素晴らしいまち、きれいなまちづくりを進めて、次世代につないでいきます。 |
[4]人口の推移 |
人口は、昭和40年代前半は年間増加率10パーセントを超える急激な増加をしましたが、昭和40年代後半からは自然増のみで社会減が続き、増加率が下がりました。昭和50年代中ごろから後半までやや減少傾向が続きましたが、昭和60年代からは自然増が社会減を上回るようになり、平成に入っても引き続き人口の微増が続いています。 ■鉄鋼業の進出
■まちの変貌に伴う人口の増加
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[5]まちのシンボル |
■市 章
■市の花:さつき ■市の木:くすのき(準市の木:きょうちくとう)
■市のシンボルカラー:グリーン
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[6]まちの名の由来(出典:東海市史) |
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