【長崎】盲導犬アトム号の真実に迫る視座! by Ichiro Higuchi
「【長崎】盲導犬アトム号の真実に迫る視座!」とは、ネットの検索ロボットを意識してのこと。決して、特定の盲導犬ユーザをネット上で指弾する一部のアジテートに参画した訳ではない。
視座とは、「個人が、置かれた状況によって条件づけられた形で、社会に対し、社会を見る視点、座標」(日本国語大辞典)のこと。平たく言えば、物を見る姿勢、視点のこと。
長崎の盲導犬事案について、「何が何だかよく判らない」、「事の真相は藪の中」という向きもある。しかし、私は、小難しい理屈やある種の先入観を捨てて、かつ、自らを神の地位から普通の人に引き戻せば、ある程度は実相と真実とが見えてくるように思う。もしくは、実相と真実とを見る目を獲得できると思う。
盲導犬虐待疑惑の真実に迫る視座とは、「我もまたただの人!」という姿勢。
盲導犬虐待疑惑の真実に迫る視座とは、「盲導犬もただの犬!」という視点。
すなわち、全ては姿勢と視点の問題に過ぎない。
>盲導犬とてただの一頭の而今の犬!
ネットでは「盲導犬が・・・」という前置きで何がしかが語られている。仮に、それが、盲導犬が<崇高な任務意識に目覚めた犬>という理解の下に語られているのであれば、大いなる誤解というもの。盲導犬もただの犬に過ぎない。だとすれば、「お仕事をしなくちゃー」なんて任務意識など微塵も持ちあわせてはいないと考えるのが筋。実際のところ、そういう意識を持つことは脳的に無理なのである。だって、普通の犬同様に盲動犬の前頭葉は人間の四分の一以下しかないのだから。こういう脳的特徴ゆえに、盲動犬もまた、その日、その時をただ生きている「而今の犬」に過ぎないと言える。
>今日は、ちゃんと誘導出来たでしょう。褒めて!褒めて!
>ウワーッ!褒めてもらった!
午後6時になったら、「ご飯!ご飯!」と吠える犬はどこにでもいる。「午後6時になる→食事場に呼ばれる→食事にありつける」という体験の蓄積が、そういう知恵を犬に植え付けたのである。これは、三項随伴性と言われるABC理論で説明される。盲導犬にとってハーネスを付けられるということは、午後6時がやってきたようなものだ。「ハーネスの着用→誘導→報酬」という体験が脳裏を過る。だから、盲導犬は嬉々として誘導を開始するのである。
>盲導犬って、お仕事ばっかりで可哀想ね!
こういう見方は当を得ていない。盲導犬にとっては、誘導は報酬を得るためのまたとない機会なのである。「そういい子だねー!グッド!グッド!」と褒められる最高の一時なのである。ハーネスを付けられるということは、盲導犬にとっては一般家庭犬が待ち焦がれていた午後6時がやってきたようなもの。盲導犬にとって、誘導行為は食事場に呼ばれるようなもの。そういう意味では、「盲導犬って、お仕事ばっかりで可哀想ね!」は一面的。
>決して、無理して盲導犬に仕事を続けさせることはしません!
「覚えたことは忘れる」は宇宙の第二法則である。これは、車椅子の物理学者スティーブン・W・ホーキング博士の言葉だから間違いない。盲導犬の所作について「盲導犬らしからぬ」と評している諸氏は、「覚えたことは覚え続けている」とでも言うのであろうか?私は、そうではない。近頃は、歌手や俳優の名前をほとんど忘れてしまっている。私同様に、盲導犬も盲導犬ユーザも宇宙の第二法則に支配されている。そこには、映画「盲導犬クイールの一生」とは一味違う生身の犬と生身の盲導犬ユーザの世界がある。だが、心配する必要はない。「無理して盲導犬に仕事を継続させることはしない」が盲導犬協会の揺るぎない方針だからである。そのために、盲導犬協会による誘導行為の観察・点検が定期に行われている。
>ただの人間にすぎない盲導犬ユーザだって努力をしている!
付け加えておけば、盲導犬ユーザの方々の中には<盲導犬の褒め方、健康管理、迷惑をかけない消臭の工夫>等について定期に集まって経験を交換されている方々も多くいる。そして、それを支えるボランティアの方がいる。長崎市には、指弾することしかしない市民だけしかいないのか?そんなことはない。私と活動した者達も住んでいる。その者たちは、盲導犬ユーザの交流組織をいかに組織すべきか?そういう視点から、今回の騒動を見てくれていると信じている。
>何人も法律によらない人民裁判を行ってはならない!
さて、このように考えると、盲導犬ユーザに対する協会の指導と点検が定期的に行われている限り、特定の盲導犬ユーザを地球規模の公の場に晒して糾弾することは適当ではないことになる。盲導犬の引上制度と引退制度が存在する限り、種々の問題は、制度の問題、機能の働きの問題という側面が強い。明確な盲導犬の虐待という事案についても、盲導犬協会が責任を持って是正すべき問題。告発者が本人に強く抗議する手間を省いて、告発者が協会への是正を要請することもしないで、一個人が「必殺仕置き人」を気取る事案ではない。これらの一切を無視して、何人も法律によらず、結束した人民がみずからの力と意志において行う裁判(人民裁判)を行ってはならない。我々は、好きとか嫌いとかを抜きにして法律は守らなければならない。再三再四の忠告を無視して、なお人民法廷を開廷し続けるのは完全に法を逸脱した犯罪行為である。
>盲導犬協会と独裁政権とを同列視するのは誤りである!
もちろん、我々一人ひとりが盲導犬に大いに関心を持って、時には「指導と点検に疑義あり!」と盲導犬協会に対して意見を述べるのは大いにやるべきだろう。しかし、「盲導犬協会とは、れっきとした良質な盲導犬を一日も早く一頭でも多く視覚障がい者のみなさんへ無償で貸与するため努力している組織」ということも念頭に置かねばならない。盲導犬協会を打倒すべき独裁政権かのように看做し、ネットを武器にバッシングを組織する作戦に出るのは互いの信義を重んじるならば許されることではない。盲導犬協会と独裁政権とを同列視するのは、自らを革命戦士と誤認した錯覚者の専売特許。そのような誤認、錯覚に基づく盲導犬協会への攻撃を撤回しないとすれば、それは盲導犬協会を憂うる者をいたずらに困惑、混乱させるだけである。
一部に、アラブの春と形容される市民革命とオーバーラップして告発と糾弾を喝采する向きもあろう。しかし、それは違う。<話合いを持って解決しなければならない問題>と<打倒を持って解決すべき問題>。この見極めを横に置いて、ただの印象だけでアラブで展開された市民革命と同列視しする見方と考え方は間違いである。
>何事も我が身に置き換えて考えよ!
なお、最初から「そういい子だねー!グッド!グッド!」と褒めるのが上手な盲導犬ユーザもいるだろう。そうではなくて、経験の蓄積を待たなければならない盲導犬ユーザもいるだろう。盲導犬ユーザとて、我々と何ら変わらない普通の人間なのである。「こらっ!いけない!」と大声を出して犬の頭をバシッ。これを、一度もやったことがない犬の飼い主がいるだろうか?あなたは、数時間で仔犬のトイレを躾けることができる褒め上手であろうか?
近代盲導犬育成事業が本格的に出発したドイツでは、犬を飼えばドッグスクールに通うのが当たり前のこと。それに比べると何と日本の犬文化が遅れていることか。我が身に置き換えて考えた時、そこに盲導犬ユーザと我とに共通の課題が見えてはこないだろうか?激情に任せて一盲導犬ユーザをバッシングすることよりも、その共通の課題を意識することが大事ではなかろうか?人民裁判に馳せ参じても、その後に残るのは憎しみと対立のみ。それがもたらす苦々しさ。共通の課題を意識して長崎の盲導犬事案に接した時に残るそれには及ぶまい。
>パピーウォーカーの人生経験をなめてもらっては困る!
告発者は、「パピーウォーカーの方々にも知ってもらいたい。・・・」と我々に心を寄せたかのようなポーズを取って、告発を合理化して止まない。どれだけの人生経験があるのか知らないが、我々をなめてもらっては困る!我々は様々な事件の裏側を嫌というほどに見てきて、その果てにパピーウォーカーをしているのである。「盲導犬って美談だけではないのですよ!これを見てください!あれも見てください!」と言う。告発者は、一体、誰に向かって説教をしているのか?美談と一括りに出来ないことは十二分に承知した上で、なおかつ、繁殖ボランティアの方はパピーウォーカーを信じ、パピーウォーカーは協会スタッフを信じ、ただただ目の前の犬と向き合っているのだ。ここで言う信じるとは、「それぞれは絶対に誤りを犯さない」との妄信とはチョット違う。それは、決して告発者が理解できないそれである。
>一部の犬猫レスキュー団体の余りにも傲慢な検察官気取り!
一部には、「おい!盲導犬協会よ!我らに盲導犬ユーザをバッシングする材料を寄こせ!」と要求する向きもあるようだ。正に、人民法廷の検察官気取りである。
>盲導犬協会をして盲導犬ユーザをバッシングする材料を明らかにせしめること。
>そして、我が前に膝をつき謝罪させること。
>この2点が、我々の当面の課題である。
某犬猫レスキュー団体を主宰するという告発者は、一貫してこのように主張し極一部の人を我を忘れた糾弾活動へと駆り立てた。これらは、不当不法な人民法廷のそれでしかない。我々の当面の課題でも向き合うテーマではない。そのテーマを発見できるかどうかも、我々の姿勢と視点とにかかっている。
◆盲導犬もただの犬!
◆盲導犬ユーザもただの人!
◆我もまたただの人!
かかる視座を獲得することで、長崎の盲導犬事案の実相と真実とに迫ることができる。色々とした小難しい理屈を並べることを止めて、先ずは、「盲導犬もただの犬に過ぎない!」を10数回唱えてみることだ。それでも見えなければ、「我もまたただの人!」を10数回唱えてみることだ。そうすれば、視界が開けて状況がクリアに見渡せるであろう。
>犬猫殺処分ゼロの取組みをも後退させる冒険主義!
最後に、某犬猫レスキュー団体の暴走が犬猫殺処分ゼロの取組みに及ぼす負の影響について触れておく。ネットのほんの一部の反応を見て判断を誤ってはいけない。急進的で冒険をも厭わない宗派主義的な取組みは必ず失敗する。最終的には、決して多くの人々の共感を得ることはできない。
先にも述べたが犬猫殺処分ゼロの夢の実現は、盲導犬育成事業の発展と不離一体、表裏一体の取組みである。それだけではない。幼児や老人、あるいは障害者の方々の人権向上の取組みとも不離一体、表裏一体という側面もあるのだ。人権意識と動物愛護精神とは、相互に作用を及ぼす関係にある。「犬猫の救出の為なら特定の盲導犬ユーザの人権を蹂躙して顧みず」では、真の共感は得られない。結果的に、そのような冒険主義は犬猫殺処分ゼロの取組みの幅を狭める。それが、歴史の示すところである。
>私みたいな馬鹿が一人ぐらいは長崎にもいたことを願うのみ!
10年前、私は一頭のシベリアン・ハスキー犬を夜陰に紛れて盗み出した。家から20キロ東にある村の公民館。その広場に車を乗り付けた。隣接する一戸建ての裏手の空き地へと足を忍ばせた、檻の戸を開けてハスキー犬の首輪にリードを付けて外に出して車に乗せた。彼の遺骨は、今、6頭の保護犬、2頭の自家犬、計8頭と共に我が家の棚で休んでいる。9頭目はCC犬となった。10頭目は、今、初生理の真っ最中である。時には、目的の為なら手段は選ばずである。熱6分、法4分で行動しないと救えない犬猫もいる。それをやってのける前後見境ない馬鹿。そんな私みたいな馬鹿が長崎にもいたことを願うのみである。
盲導犬アトム号が無事に発見されることを切に願って結びとする。
補足:告発者の軌道修正について!
少しばかり、告発者は自らが引き起こした事態の重大性に気づきつつあるようだ。多少の軌道修正を行い、「特定の盲導犬ユーザと盲導犬協会に対するバッシングの組織は本意ではなかった」との言い訳を開始している。でも、告発者がルビコン川を渡り切った今となっては時すでに遅し。正に「覆水盆に返らず」である。「本意ではなかった」が通用するのであれば警察はいらない。写真の公開については、なお合理化に腐心して止まない。
蛇足:2チャンネルについて!
我々がただの人であれば、2チャンネルの寸鉄のコメントには真摯に耳を傾ける必要があろう。でも、この頃、ちょっと同チャンネルも変である。冷静で客観的なそれ、ウイットに富んだそれに紛れて、明らかに<やらせコメント>の類と思われるのが散見されるようになった。それを見ると、実に興ざめである。不謹慎な表現や文言に殊更に異を唱えるつもりはない。でも、<やらせコメント>はいただけない。実に興ざめである。
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