インタビューに答えるマイケル・サンデル教授
著書「これからの『正義』の話をしよう」が日本でも40万部近いベストセラーとなっている米国の政治哲学者、マイケル・サンデル氏。大学の入学資格を金で買うのは悪か。家族が罪を犯したら警察に通報すべきか。現代人も過去の戦争責任を負うべきかなど、日常の言葉で「正義」を問う。今日、なぜ正義について語ることが重要なのか、来日した氏に聞いた。(聞き手は文化部 白木緑)
▼身の回りの出来事で哲学を
――何が正義かという道徳的な議論を哲学者だけに任せてはいけない、市民一人ひとりが身の回りの出来事について論じ合うべきだと訴えていますね。とりわけなぜ今、必要だと考えるのでしょうか。
ここ30年ほどの社会においては、経済的議論が真に政治的な議論を凌駕(りょうが)し、押しのけてしまう傾向がありました。往々にして政治の議論は官僚的、あるいは経済的な懸念に支配され、その対局にある生きる価値や正義や共通善といった問題が語られなくなっていました。だから今こそ、私は公の場でより多くの人が哲学の討論をすべきだと思うのです。
今日、民主主義をより深め、強化したいと願うのであれば、私たちは公共の場において、真剣に道徳的な問題の熟議を行うべきです。特に公的な生活を営む市民、社会人が取り組むことが重要です。
――あなたの著書がベストセラーになったように、正義について語りたい、耳を傾けたいという人々の欲求は高まっているようにみえます。最近では、リーマン・ショック後の金融危機の際、大手銀行のトップが「強欲(グリード)」という道徳の用語で非難されたのが印象的でした。
著書の「これからの『正義』の話をしよう」(早川書房)
確かに最近の一連の出来事によって、一般の人々の間に、真剣に正義について議論をしたいという渇望、飢餓感のようなものが広がっているのではないかと思います。金融危機の例を借りるならば、米国の大手銀行が破綻したとき、彼らに救済策を施したことで、米国民の間に不正が行われているという強い感情、道徳的な怒りが広がりました。私自身、正しい見方だと思うのですが、人々はこう感じたのでしょう。大手の銀行は金融制度そのものを破綻のふちに追い込んだにもかかわらず、納税者のお金を使って助けられていると。その上、ボーナスを受け取る人間がいるなど、とんでもないことだと。政策的にはさらなる経済危機を防ぐために必要な対処だったと考えている人々でさえ、銀行のトップは税金で扶助されるに値しないと考えていました。非常に強い不公正を感じたのです。
もう一つの背景は、米国だけでなく日本でも広がりつつある格差、貧富の差です。不平等の増大が、正義について、あるいは正しい社会とは何かといった重要な問題を提起し始めています。
▼行きすぎた市場主義に警鐘
「何が善き社会か積極的に論じよう」
――あなたは「コミュニタリアン(共同体主義者)」の論客と呼ばれ、1980年代から市場主義や個人主義の行きすぎに警鐘を鳴らしてきました。その主張の社会的背景は何だったのでしょう。
私が研究者として取り組もうとした80年代初めは、いわゆるレーガン=サッチャー時代で、ネオリベラリズム的、市場原理主義的な社会がちょうど幕を開けるころでした。私は自分の主張によって、市場志向型の社会の行き過ぎに抵抗できれば、という希望を持っていました。以来、一貫して過度な消費主義と個人主義に反対を唱えています。
市場は生産的活動を組織するには有益な道具ですが、社会の共通善、公共善を追求するための一義的な手段と考えるべきではありません。言葉を変えるなら、市場は豊かさを促進するための価値ある手段ではあるけれども、何が正しい社会か、何が善き社会かを教えてくれるわけではないのです。
東大・安田講堂で特別講義を行った=25日午後(NHK提供=共同)
――コミュニタリアンは政治の言説の中に道徳的な言葉を取り込み、何が善き社会かを積極的に論じるべきだと唱えていますね。近代社会では長くタブー視されてきた考えですが、実際に近年は、道徳的、精神的言葉を口にする政治家が登場しています。米国のオバマ大統領は就任前から貧困と人種差別、無保険者と失業者といった問題に対処するには道徳的、精神的な信念が必要だと語り、フランスのサルコジ大統領はブータンが提唱した「国民総幸福(GNH)」の理念を推し進め「国内総生産(GDP)」とは異なるハピネス(幸福)を経済発展の指標とする試みを始めました。コミュニタリアンの「予言」が当たったのでしょうか。
興味深い指摘だと思います。それは政治に道徳的、あるいは精神的なものを取り入れてほしいという渇望が一般市民の間に広がっている表れでしょう。そして、そういう意識をくみ取り、対応できる政治リーダーが最も国民に影響力を持ち、インスピレーションを与えうるということです。オバマ大統領が演説の中に、道徳的、精神的な言葉を取りこみ、今までの政治に欠けていた理想主義を公の議論に導入したことは、大きな意味を持つと思っています。
▼夕食時に子どもたちと議論
「哲学を学ぶ最良の学校は食卓」
――ただし、あなた自身が指摘しているように、政治家が道徳的な言葉を用いることには危険が伴います。特定の善き社会の構想を国民に押しつけ、それ以外を排除する可能性があります。日本でも数年前に「美しい日本」という理念を掲げた首相が登場しましたが、一部には戦前のナショナリズムを想起させると反感を抱く人々もいました。
確かに危険は常にあります。政治家が道徳的、精神的、共同体的価値観を打ち出し、その必要性を強調するときには、往々にしてナショナリズムや、昔に対するノスタルジーをはらむ恐れがあります。そしてナショナリズム的な情熱は、いろいろな表現を通じて人気を博す場合があります。それは政治や日々の生活において、道徳的な生活が空疎になっていると人々が感じるときです。生活から道徳的な意味や生きる目的が欠落している場合、その症状としてナショナリズムが現れることがあるのです。
最大の防衛策は、健全な公共の議論に根ざした言説を作り出すことです。すなわち、重要な問題である正義や価値観について、市民一人ひとりが公の言説を築くのです。そうすれば、安易に生きる意味や目的を訴えようとするナショナリズム的試みが入り込む余地がなくなります。
何が善き社会か、政治家が与えようとするのを待っていてはいけません。政治家が与える前に、市民の側から善き政治を要求すべきだと私は考えます。そのために学校、大学などの教育機関は責任を負っています。公民教育を通じて、そのような問題を考え、公共の場の討論に参加できるような能力を持つ市民を育てなければなりません。また、メディアにも公共の議論の場を提供するという大きな責任があります。
――一般家庭でも実践できる哲学の議論の例を教えてください。サンデル家では、どのように子どもたちと正義について語り合ってきたのでしょうか。
哲学を学ぶ最良の学校は夕食の食卓です。私には今、24歳と22歳になる2人の息子がいて、2人とも大学院で学んでいますが、彼らが幼いときから、家族でよく議論をしました。ときにはニュース、ときには学校や家庭であった出来事を題材に、その状況の下で何が正しいのかを論じあうのです。
例を2つあげます。1つ目は、野球チームに入ってプレーに熱中していた子どもたちを、私と妻がもっと試合に出してやりたいと望んだときのことです。両親が監督に直接電話をして文句を言った方がいいのか、それとも息子たち自身に監督とかけあわせるべきか、が議題になりました。
もう1つは、7~8年前の話です。中国の首脳がハーバード大学に来て、演説をすることになりました。私は大学を代表して、その後に質問をする役をおおせつかったのですが、1つ問題がありました。質問はあらかじめ提出しておかなければならず、その場の思いつきでしてはいけない決まりだったのです。そのような制限が加えられた状況で、私は演説に参加すべきかどうかがテーマになりました。そして、家族で評決をした結果、ノーということになり、私はその演説に参加しませんでした。家族の決定は重要ですからね。
■マイケル・サンデル 1953年米国ミネアポリス生まれ。ハーバード大学教授。ブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学で博士号を取得。80年代にリベラリズムを批判するコミュニタリアン(共同体主義者)の論客として脚光を浴びる。2002年から05年のブッシュ政権下では大統領生命倫理評議会委員を務めた。ハーバード大の講義「正義」は同大史上最多の履修者数を誇る人気科目で、その様子を記録したテレビ番組が今年、日本でも「ハーバード白熱教室」としてNHK教育テレビで放映された。著書に「リベラリズムと正義の限界」、「これからの『正義』の話をしよう」などがある。
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