戦国合戦余話(其の一 足軽登場)
「刈田」と「人狩り」という無法に満ちた戦国時代、合戦の日々。そこで生み出された戦争奴隷。一気にこの話を煮詰めてしまいたいところだが、一息入れよう。あまりの悲惨な実態に、気分を滅入らせた方もおられることだろう。一時(いっとき)話題を変えたい。
この小シリーズの最初にも触れたが、戦国時代とは、畿内に於いては「応仁・文明の乱」がその端緒とされる。私どもの学校時代は、単純に、戦国時代は「応仁の乱」から、と教えられた。「応仁・文明の乱」は、応仁元年(1467)に勃発し、文明九年(1477)まで十一年間も続いたのである。「応仁」という年号は、この争乱のお陰で年号としての知名度は高いのだが、実は二年しか存在しない。応仁元年と応仁二年しかないと覚えておけばいい。西暦1469年は文明元年であり、文明は十八年まで続いた。つまり、十一年間続いた「応仁の乱」という争乱は、大部分が文明年間に行われていたのだ。そこで、近年の歴史教科書では「応仁・文明の乱」と記述されるようになった。
応仁元年に勃発したから「応仁の乱」――それで差し支えないと思うのだが、この争乱の原因は実にややこしい。室町幕府の中枢を為す有力者の中でも、細川家、斯波家、畠山家というのは「三管領」(三かんれい)と呼ばれ、格式が高い。将軍家で家督争いが起こると同時に、斯波、畠山両家でも家督争いが起きた。いつの世も格式と実力は別物である。斯波、畠山両家は格式は高いが、実力はない。幕府内での実力者は、細川勝元と山名宗全である。詳細は割愛するが、将軍家と斯波、畠山両家の家督争いと細川VS山名の主導権争いが絡まって、抜き差しならぬ状況に陥ってしまった。全国の守護大名たちは、東軍=細川、西軍=山名の“二択”を迫られ、旗色鮮明を求められたのである。態度をはっきりさせるとは、具体的には東軍か西軍のどちらかに味方して参陣することである。かくして、東軍=細川に十六万人、西軍=山名に十一万人、両陣営合わせて二十七万という大軍が狭い京に集結して対峙したのである。しかし、この数字は俄かには信じ難い。関ヶ原の二十万弱という数字でさえ私は信じていないが、それを遥かに上回る大軍が十五世紀半ばの京に集結して、逆に戦闘が展開できるのか。
そう言えば、妙である。実は東軍と西軍との間で、本格的な武力衝突はほとんど起きていないのだ。両軍は、文字通り対峙していたのだが、とはいえ十一年もの間、ただにらみ合っていただけではない。では、何をやったか。放火合戦である。敵が陣取っている屋敷や寺を放火する。そうすると、やられた方は報復の放火を行う。これの繰り返しである。これによって、都は焼け野原となった。「応仁・文明の乱」という戦乱で都は焦土と化した訳ではないのだ。互いに放火をやりまくって、京の都は焦土と化したのである。ま、放火合戦も戦乱の内ではあろうが、名だたる守護大名が討ち死にしたという類いの史実は全く存在しない、実(まこと)に不思議な東西の大会戦であったのだ。勿論、所謂合戦=戦闘が全くなかったということではなく、それより熱心に放火合戦を繰り広げていたということである。尤も、これまで触れてきた「乱獲り」にみられるように、戦国の合戦に於いて放火は主たる戦術の一つであり、放火を行うこと、放火作戦に従事することを「焼き働き」と言った。従って、私たちの今の感覚で「放火」という言葉と行動を認識すると、この戦乱を誤解することになりかねない。
では、こういう「応仁・文明の乱」が全国規模の戦国騒乱の端緒となったのは、どういう要因によるものか。私は、大きくは二つあると考えている。
一つは、守護大名が京での覇権争いに執心し、永年に亘って領国を離れていたことである。中央の政局に現(うつつ)を抜かしている間に、国人領主たちが力をつけ、領国が乱れた。守護大名の被官人であった者たちまでが権力を求めて台頭し、ここから下剋上が始まった。
いま一つは、「足軽」の登場であろう。食いぶちを求めて武士階級に奉公する百姓たちが増え、「侍」と言われる下級の武家奉公人が成立したのである。それまでは、小者を引き連れていたとはいえ合戦はほとんど武士と武士が戦っていた。従って、その頃は合戦といっても数百人規模同士で戦っていたことが多いのである。規模に於いて敵より優位に立とうという必死の思いが「侍」=「足軽」という階層を生み出したのである。戦乱が全国規模で続くようになった要因として、このことは非常に大きかったのではないかと考えている。その端緒となったのが、「焼き働き」主体の「応仁・文明の乱」であり、やはりこの乱は、戦国争乱の大きなきっかけを作った歴史的な性格を帯びていると言っていいだろう。
足軽が登場し、数の上で一軍の中心的な位置を占めるようになると戦い方が変わってきた。鑓(やり)足軽、弓足軽、鉄砲足軽という風に、足軽が機能別に分けられ、数百人規模で戦っていた時代の個人戦から集団戦、組織戦へと変貌していった。組織戦への転換を最も早く成功させたのが、織田信長であったとされる。
このことと関連して、信長以前は実は「兵農分離」が進んでおらず、武士が職業軍人化することによって「武士」として成立し、「兵農分離」が完成したのは信長以降であるとする学者は非常に多い。実は、かつてはこの考え方は新しかった。土佐の「一領具足」の例なども、「半農半士」という説を出されると理解し易かったのである。しかし、今はこの考え方は、旧い。私は、誤りであると考えている。「兵」と「農」、即ち、武士と農民は戦国期には既に十分分離していた。既に、異なる精神文化をもっていた。武士が百姓をしていたから「兵農未分離」であったとするのは、あまりにも表層的な見方であって、明白な精神文化の違いは、実に大きな社会階層の相違があったことを示している。静岡大学;小和田哲男教授は『戦国の合戦』(学習研究社)に於いて以下のように述べておられるが、これほど誤解を招く言い方はないであろう。
――戦国時代とはいっても、毎日毎日戦いが続いていたわけではなく、戦いのない日もあった。つまり、戦いのときは武士として出ていくが、戦いのないときは農民として農作業に従事していたのである。戦国大名としても、農作業が忙しい農繁期に戦いをすると収穫にさしさわりが出るので、できるだけ農繁期の戦いを避け、農閑期に出陣するよう工夫しているのもそのためであった――
この記述は、ちょっとひどい。武士階級が百姓仕事をするのは生きるためであって、それは幕末まで同じことである。これまでも、上杉謙信の出陣の季節性については述べてきたが、今後も戦国期の「百姓」と「武家」の関係をつぶさに見ていき、上述のような論の反証としたい。
さて、武士階級ではない「足軽」が戦闘の中で重要なウエイトを占める頃になると、軍の規模も拡大していた。それまで数百人規模で戦っていた戦闘が、千人規模、万人規模に膨れ上がったのである。尤も、桶狭間の時の今川軍=二万五千だとか、長篠の合戦時の信長軍=三万、家康軍=八千だとかいう数字はデタラメもいいところで、文字通り「話半分」と理解しておいた方がいい。しかし、数千人規模の戦いが出現したことは、戦術だけでなくいろいろな変化をもたらした。その一つに食糧、即ち兵糧の問題がある。
数百人規模の合戦が主力の時代は、合戦そのものがそれほど長期化することはあまりなかったようだ。一日、二日で決着がつくことも多かった。その程度なら、軍として組織的に大量の兵糧を用意する必要はない。敵地での掠奪で十分賄えるのだ。ところが、軍の規模が拡大し、長期に亘る遠征も増えると、掠奪だけに頼ってはいられない。敵軍も、兵糧を残してはおかないのが普通である。そこで、出陣する兵たち個々が一定の食糧を持参するようになった。これを「腰兵糧」と言う。文字通り、腰に、今で言えば弁当を巻きつけて参陣するのだ。通常、三日分の兵糧を、兵個々の責任で用意することになっていた。従って、組織的に食糧が支給されるのは、四日目から、ということになる。(あくまで一般的な事例である)
では、雑兵たちは「腰兵糧」としてどういうものを持参したのだろうか。主なものは、にぎり飯、梅干し、干飯(ほしいい)、炒米(いりごめ)、餅、味噌といったところである。これらは、明らかに「保存食」である。干飯とは、普通に炊いたご飯を水洗いして、乾燥させたもの。行軍中にもお菓子のようにポリポリ食べることができ、お湯をかければ今で言うインスタントご飯にもなる。炒米は、玄米を鍋で炒ったもので、やはり行軍中でもポリポリ食べることができる。戦争はいろいろな智恵を発達させるところがあり、兵糧についても例外ではない。例えば、「陣立味噌」なるものがいろいろな資料で紹介されるが、これは、味噌の原料となる豆を煮て擂粉木(すりこぎ)ですりつぶし、これに麹をまぶして団子のように握っておく。この状態で「腰兵糧」として腰にぶら下げておくと、戦場へ着く数日後には味噌になっているというものである。また「いもがら縄」なるものがあった。里芋の茎を原料とした縄紐である。百姓仕事を知っている人ならお分かりだろうが、里芋の茎なんて、確かに縄の原料ぐらいにしかならない。ところが、これを味噌で煮しめて天日で何日も乾燥させる。梅干の天日干しのように干す。これで縄を縫う要領(説明割愛)で紐を編むと、立派な縄ができ上がり、腰紐として使えるし、縄の代用となるのだ。いざ兵糧が尽きた時、これを適当な長さに刻み、湯で煮出すと、里芋の茎を具とした味噌汁となるのだ。いざという時のインスタント味噌汁とでも言えようか。腰紐を解(ほど)いて適当な長さに切って、湯に放り込めば当座の飢えは凌げるのだ。
腰兵糧は、三~四日で尽きる。足軽の登場によって軍の規模が拡大した結果として、「兵站」(へいたん)という概念、機能が発達した。具体的には、軍の中に「小荷駄隊」が生まれ、兵糧の輸送に当たった。百姓が「陣夫」として徴用され、この任に当たったのである。現代の軍事用語で言えば「輜重隊」(しちょうたい)と言えるだろう。急な敵襲を受けるような合戦は例外だが、「小荷駄隊」は本隊より先に出発させるのが普通で、指揮官には合戦がどの程度長引くかを見通す能力、予定戦場を見通す能力など、武力以外の組織マネジメント能力も求められるようになった。この機能を分担して担ったのが、豊臣政権でいえば、奉行たちである。石田三成、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家などの近江衆が特にこの分野で高い能力を発揮したことは「近江侍列伝」でも述べた。天正十八年(1590)、秀吉が北条攻めを敢行した時、攻め手の総勢は二十二万とも二十三万とも言われているが、この「天下の軍勢」の数の精度はともかくとして、その兵糧米が海路駿河の江尻湊へ運び込まれ、その量が米三十万石であったことは事実であるようだ。三十万石もの膨大な兵糧を、どこでどう調達し、船便をどうコントロールし、荷揚げ作業をどう差配したのか、これを指揮したのが石田三成たちの奉行である。つまり、軍の規模が大きくなるに伴い、単に武辺だけの者だけでなく、高い官僚的能力を備えたディレクターが必要とされるようになった。もし、三成がいなかったら、秀吉の朝鮮出兵はできなかったはずである。何故なら、船便の差配が複雑となり、それは加藤清正や福島正則といった「武闘派」にはどだい無理な相談なのだ。特に、秀吉没後、朝鮮から撤退する際の船便の差配は三成ならではの仕事であって、これがなければ加藤、福島たちは朝鮮で野たれ死んでいたはずである。
足軽の登場は、兵具、つまり戦いに於ける武器のウエイトも変えたが、この余話はどうも一回や二回では無理そうである。この種の合戦の実態につながる話も、並行して続けていくことにしたい。今日は、あくまで一息入れていただくことが目的である。
| 固定リンク
|
「武家の佇まい」カテゴリの記事
- 華の二本松(其の十 少年隊、壊滅!)(2012.01.22)
- 華の二本松(其の九 少年隊、出陣!)(2012.01.12)
- 華の二本松(其の八 木村銃太郎門下)(2012.01.01)
- 華の二本松(其の七 降伏か討ち死か)(2011.12.20)
- 華の二本松(其の六 三春ミツネに騙された)(2011.12.09)
コメント