「今、夏だよね、お兄ちゃん」  美咲は家の窓から外を見ながら言った。 「そうだな、美咲」 「あんまり夏っぽくないよね」 「梅雨は明けたんだがな」  数日前に梅雨は明けたものの、まだはっきりしない天気が続いている。美咲はこちらに振り向くと、 「今年も三人で海行けるかな?」  と、ふと思い出したように言った。美咲がそういうことを口にすると、俺はどう言っていいかわからなくなる。 「ああ……たぶん大丈夫だろ」 「お兄ちゃんはサークルとかも熱心じゃないし、いつも暇してるから、大丈夫なのはわかるよ。でも由依ちゃんはどうだろうね」  由依は昔から近所に住んでいる俺と美咲の幼馴染だ。俺の一つ年下、美咲の二つ上で、今は俺と同じ大学の後輩に当たる。 「由依もそんなに忙しそうには見えないけど」 「大学に入って、彼氏とかできたかもよ」  これはあまり良くない方向に話が進んでいるかもしれない。 「美咲よりはあり得るな」 「私を引き合いに出さなくていいから。そもそも、由依ちゃんに彼氏がいないほうが不思議だよ」  話の流れを変えようと思ったが、美咲は乗ってこない。 「人見知りで控え目だし、あんまりそういうこととは関係なさそうだけど」 「由依ちゃんは美人なんだから、積極的に行動しなくても告白されるよ」 「まあ、高校の時にも由依に告白したやつは何人かいたみたいだしな」  由依は断っていたようだが。 「わかってるんなら、由依ちゃんに彼氏ができたらどうするの?」  美咲の眼が俺をじっと見ている。 「みんなで海は諦めてくれ」 「私じゃなくてお兄ちゃんの話だよ」  やはりこうなったか。話の流れでこうなる気がしていた。美咲は今までに何度も、俺と由依が付き合えばいいと言っていた。だが俺にその提案は受け入れられなかった。俺と由依は変わらずに、幼馴染のままいたほうがいいと思うからだ。由依もそう思っているはずだ。 「俺と由依は幼馴染だ。由依に彼氏ができても、俺は少し驚くだけだ」  美咲は俺の答えが不満のようだ。 「いつも似たり寄ったりの答えだね」 「昔から友達でやってきたのに、俺と由依が付き合うなんて不自然だろ」 「顔のつり合いはちょっと取れてないかもね」  かなり酷いことを言われた気がする。 「変わらないほうがいいんだ。どんなことも」 「そう……なのかな?」  美咲は珍しく、考え込むような表情をしたがすぐに、 「そうかもしれないね」  と結論を出したようだった。  俺と美咲は不幸ではないが、恵まれたとは言えない家庭に育った。  父さんは、美咲がまだ母さんのお腹の中にいるころに母さんと離婚した。その後父さんとは連絡を取っていない。母さんは俺が幼いころから、俺と美咲を託児所にあずけて働いていた。俺と美咲はそのせいで少しばかり寂しい思いをした。父がいないこともあり、しょうがないことだったと思う。だが、母さんは忙しい人ではあったが、決して悪い母親ではなかった。休日にはよく遊んでくれたし、学校行事などは必ず出るようにしていた。俺と美咲と母さんは、ごく普通の生活を送っていた。  しかし高校一年の五月。日曜日だった。俺と美咲は来週に控えた母の日のために、プレゼントを買いに行っていた。俺たちが出かけている間に、母さんは心筋梗塞で倒れた。母さんの体内の健康監視用インプラントが、すぐに異常を知らせて救急車を呼んだが、結局は助からなかった。  葬儀は小規模に済まされた。美咲は泣いていた。俺は茫然としていた。母さんが骨になり、全てが終わったことだと理解した後でも、俺の思考は同じところをぐるぐると回っていた。何かできることがあったはずだ。なぜ何もしてあげられなかったんだ。そんなことばかり考えたが、何ができたのか、何をしてあげられたのか、全く見当がつかなかった。しかしそんな中、俺は一つ心に決めたことがあった。  俺が美咲を守らなければいけない。  使命感にも似た気持だった。その決意のおかげか、俺は葬儀が終わると案外早くに、母さんがいない生活に慣れていった。美咲は葬儀が終わってからもふさぎこんでいたが、しばらくすると立ち直り、俺たちは日常を取り戻していった。  それから四年後、美咲は殺された。  安全な社会は暮らしやすいに違いない、と昔の人は考えたらしい。念じただけで機械が動いたら便利だろう、と昔の人は思ったらしい。その結果、今俺はあらゆる角度で監視されているはずだし、脳内の毛細血管に通された超極細のワイヤがニューロン一つ一つと繋がれて、電気信号を性格に読み取っているはずだ。俺はそのことにとても満足していて、疑問を抱くこともない。検挙率が十割でない国には住みたくないし、マウスを使ってコンピュータを操作したいとは思わない。だがそれは数ある理由の中で小さなことだ。こんな時代でなければ、俺は美咲に再び会うことはなかった。どこからも監視されて、皮膚感覚対応型双方向BCIが一般化しているこの時代でなければ。  皮膚感覚対応型双方向BCIが発売されたのは三年前。BCI、すなわちブレイン・コンピュータ・インターフェースは、脳内の微弱な電流を読み取り、電気信号に変換し、コンピュータにそれを伝える装置だ。つまり、考えただけで機械を操作できるようになる。誰でも脳内に埋め込んでいるが、それだけでは電源を入れたり鍵を閉めたり程度の、簡単な指令にしか対応できない。文章や映像の出力には外部の補助装置が必要となる。もっとも、文章の出力に関しては、未だにキーボードを使ったほうが速いので、大抵はそちらを使う。また、脳内のBCIだけで脳からコンピュータへは情報を送れるが、コンピュータから脳へ情報を送ることはできない。そのため脳とコンピュータで双方向の情報のやりとりを行うためには、やはり外部に補助装置が必要となる。この装置を双方向BCIと呼ぶ。そしてそれまで視覚、聴覚の情報しか扱えなかった双方向BCIに、触覚、温度覚の皮膚感覚情報を扱えるようにしたもの、それが皮膚感覚対応型双方向BCIだ。そのままだとあまりに長いので、一般的には「ベッド」と呼ばれている。その名は使われ方に由来する。ベッドが従来の双方向BCIより優れている点は、もちろん皮膚感覚情報を扱えることにある。だが、それが何の役に立つのかと言うと、ほぼ一つのことしかない。仮想現実だ。脳内のBCIによって脳からの電気信号を読み取り、コンピュータにつながれたベッドによって脳内の適切な箇所を刺激する。また、体から脳への電気信号と、脳から体への電気信号のそれぞれ一部をカットする。それによって、視覚、聴覚、触覚、温度覚を伴った高度な仮想現実が完成する。仮想現実に入っている間は、脳への外部からの情報は、大部分がカットされている。大きな音がしても、触られても気づくことはない。それが寝ているように見えること、そして仮想現実は夢みたいなものだということから、皮膚感覚対応型双方向BCIはベッドと呼ばれるようになった。  仮想現実がなければ、俺は美咲と再び会う場所を失っていたし、美咲に触れることもできなかった。なら美咲自体を再び創出したのは何なのか。監視社会、それと人工無脳ということになるのだろう。  人工無脳は、人間のようにおしゃべりするプログラムだ。しかしその仕組みは人間とはかけ離れている。人工無脳は真の意味で言語を理解しているわけではない。人工無脳は文章中に出てきたキーワードを拾い上げ、データベースと照合し、最も適当な返答を選択している。近年の人工無脳はプログラムの進歩と、データベースの膨大化によって著しい進化を遂げ、人間と区別がつかない領域にまで達した。  国民生活の監視はフィグ・セキュリティサービス、通称FSSに一任されている。現実、ネット上を問わず、FSSに監視されていない場所は地球上には存在しない、とさえいわれることもある、超巨大企業だ。FSSはベッドが普及を見せ始めると、ダミー作製サービスを開始した。ダミーとは特定の人物をモデルにした人工無脳のことだ。作製にはモデルの許可が必要となるが、多くの場合モデルは故人なので、その場合は故人の家族の許可によって作成される。FSSの持つ監視記録より、モデルの行動、話し方、思考パターンなどを解析し、人工無脳にそれを組み込む。またモデルの記憶についても、監視記録から再現する。見た目のエディットだけは別の会社が受け持っているらしい。そうして作られたダミーは、本人と全く同じ見た目、記憶を持ち、同じ振る舞いをする。差異は意識を持たないことだけだ。  仮想現実とダミーが結びつくと、もはやダミーは、誰がどう見ても本人と変わらなかった。仮想現実はダミーを感覚的に人間に近づける。誰だって意識がどうとかいう見えない理屈より、今そこにあるものを信じたくなる。俺もそうだ。それが普通のことのはずだ。 「お兄ちゃん、お帰り」  リビングに入ると、美咲はまだ少し幼さが残る顔で明るく笑っていた。 「ただいま、美咲」  俺は美咲の前の椅子に座る。 「お茶いる?」 「いや、お茶はいい」 「お兄ちゃん、最近お茶飲まないよね。なんで?」 「……特に理由なんかない。ただ気分じゃないだけだ」 「残念だな。せっかく新しいお茶にしたんだけど」  俺にはお茶が変わったところで、どうやっても味の差は分からないが。 「悪いな。また今度にするよ」  なぜか今日の美咲は機嫌がいいようだった。不思議に思っていると、美咲のほうから話しかけてきた。 「今日嬉しいことがあったんだ」 「へぇ、どんな」  彼氏という不穏な単語が頭をよぎったが、すぐに打ち消す。 「駅の東口をまっすぐ行ったところのケーキ屋さん、知ってるでしょ?」 「ああ、わかるよ。でも今はもう閉じてるだろ。作ってる人が妊娠したから」 「そうだったんだけど、今日たまたまお店の近く歩いてたら、開いてたんだ。お店に入って聞いてみたら、子供も大きくなってきたから、お店また始めることにしたんだって」 「よかったな。美咲は昔からあそこのケーキ好きだったな」  母さんが生きていたときは、よく三人で買いに行ったのを思い出す。 「うん。だからなんか嬉しくて」  美咲はちょっとしたことでも、それがとても大事なことのように喜ぶ。 「せっかく店まで行ったのに何も買わなかったのか?」 「うん。今日はいいかなって思って。今度、一緒に買いに行こうよ」 「ああ、それもいいかもな」  それが不可能だと知っていて、俺はあいまいな返事をする。 「遠藤歩様。深見由依様がいらしています。どうなさいますか」  突然、頭の中に秘書ソフトの合成音声が響いた。もちろん美咲には聞こえていない。 「ちょっと待ってるよう伝えて」 「了解しました」  俺は心の中で美咲に別れを告げた後、想念して仮想現実との接続を切った。頭から装置を外して「ベッド」から立ち上がる。ベッドは、足かけから背もたれまでが一体となった、なめらかな椅子の形をしている。ベッドはそこに座り、頭にヘッドギアのような装置を被って使用する。自室からリビングに降りたところで、秘書ソフトに由依を入れるよう指示する。玄関のドアが開く音がして、そのまま由依はリビングに入ってきた。身長が高く、黒い髪は腰近くまで伸びている。切れ長の目が目立つの整った顔立ちで、肌は透き通るように白い。 「お邪魔するね、歩くん。元気?」  最近、会うたびにそんなことばかり聞かれている気がする。あんなことがあって、俺が心配なのは分かるが。 「大丈夫。俺はいつも通り」 「ならいいんだけど……。ケーキ買ってきたから、一緒に食べない?」 「いただく。紅茶でも淹れるから座ってて」  俺はキッチンに向かいカップを用意し、ポットに茶葉を入れる。世の中いろいろと便利になったが、お茶の淹れ方は変わらない。電気ポットからお湯を注ぎながらそんな事を思った。おいしく淹れるのは面倒なので、淹れ方は適当だ。  紅茶の入った二つのカップを持っていくと、由依は手を膝の上に乗せて行儀よく座っていた。少し静かすぎると思い、想念してテレビをつける。 「じゃあ、食べるか」 「そうだね」  ケーキを食べながら他愛もない会話をしていると、テレビのニュースが耳に入ってきた。 「本日の特集は仮想現実についてです。よくいわれます通り、オンラインゲーム、そしてダミーが仮想現実に傾倒する人々を……」  由依のフォークの動きがが止まった。 「どうした?」 「……実は、今日は歩くんに聞きたいことがあってきたの」  なんとなく内容は予想できたが、一応聞く。「なんだ?」 由依は言葉を選んでいるのか、少し間をおいてから話し始めた。 「そろそろ美咲ちゃんが亡くなってから、二か月になるね」  そう。二か月前、美咲は殺された。お互い顔を見たこともない、赤の他人に。 「そうだな。この前四十九日も済ませたし」  話を少し遠いところから始めたのは、由依なりの気遣いだろうか。それとも俺の反応を見ているのか。 「三週間くらいは、歩くん、ずっとボーっとしてた。大学の講義には出ないし、私がなに話しかけても、上の空だったし」 「悪い。あの時は心配かけたな」 「そのことは別に気にしないでいいから。  ただ……なんで急に元気になったのかな、って思って」 どうとでも言うことはできたが、俺はありがちなことを言って、適当にこの場を誤魔化すことにした。 「なんでもないことだ。三週間もするといろいろ落ち着いて、気持ちの整理ができたってだけ」 「そう……だよね。ごめんね、思い出させちゃって」  由依がまだ、本当に聞きたい事を聞いていないのはすぐに分かった。そして本当に聞きたいことが何なのかも。由依はまだはっきりしない顔をしている。後でもう一度突っ込まれるのは勘弁したいので、俺の口から由依の聞きたいことを言うことにした。 「由依は、俺が美咲のダミーを作ったんじゃないかと思ったのか?」  由依は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに落ち着いて言った。 「うん。もしかしたらそうかもしれないって思って」 「そんなわけないだろ。ダミーはどんなに似ていても、美咲とは違う。それに覚えてるだろ。俺が前に、人工無脳なんかにハマるやつの気がしれない、って言ってたのは」  よくもこう心にもないことをすらすらと言えるものだと、我ながら感心する。由依は俺の言葉を聞いて、少し安心したように見えた。 「変なこと聞いて、ごめん」  由依は座ったまま、丁寧に頭を下げた。 「別に気にしないよ」  その言葉の後は、また二人でケーキを食べ始めた。 帰り際、由依はついでといった感じで、 「そういえば、明日って暇?」  と言った。  明日は日曜日。特に用事はなかったので暇だと答える。 「じゃあ、よかったら私と一緒にどこか行かない?」 俺は最近ほとんど外に出ていなかった。美咲がいなくなってから、大学の講義はさぼり気味だ。料理もしなくなったので、大学以外では、近所のコンビニまでしか出かけることはない。由依もそのことは知ってるので、俺を心配してわざわざ誘ってくれたんだろう。 「行くよ。ずっと家にこもってるのもよくないし。何か気を遣わせたみたいで悪いな」 「気なんて遣ってないよ。ただ私がそうしたかっただけ」  最後に由依はくもりのない笑顔で、さよならと言って帰って行った。  由依と会ってその言葉を聞いて、俺は改めて思い出さざるを得なかった。美咲が殺されたこと。そして今の美咲は、ダミーに過ぎないということを。  美咲が殺された日、俺はいつも通り大学に行って、夕方ごろには帰ってきていた。美咲の死を知らされたのは、夕食の準備をしているとき。携帯に警察から電話がかかってきて、美咲が殺されたことと、犯人はすぐに捕まったということが伝えられた。現実感というものがまるで無かった。すべてが自分と関係ないことのような気がした。だから俺は、警官からの質問にも取り乱さずに答えることができた。  警察署に着くと警官に案内され、美咲と対面した。美咲の顔は生きているときとあまり変わりなかった。すでにエンバーミングが施されていたのかもしれない。その顔を見ても、まだ美咲が死んだことを実感するには至らなかった。その後、俺は警官から美咲の死の詳しい状況の説明を受けた。  美咲は、人通りの少ない道を独りで歩いていた。高校で嫌なことがあって、わざわざそんな道を選んだらしい。その時間その道を歩いていたのは美咲と、犯人の貴田雅也という男だけだった。犯行は単純だった。貴田は美咲の後ろから近づき、その手で美咲を絞め殺した。貴田が美咲の首に手を掛けてから警官が来るまで、三分とかからなかったが、人ひとりを殺すには十分な時間だった。  この監視社会において、犯罪が発覚しないことはありえない。だから普通の人は犯罪に手を染めることはない。何か目的を達成するための手段としてみると、犯罪は必ず失敗するからだ。だが犯罪そのものが目的となっている場合、この論理は通用しない。そして、そうしたことが最も起こりうるのは殺人だ。 貴田の場合もそうだった。貴田は動機について、 「人を殺したかった。誰でもよかった」  などと、使い古されたことを言った。  貴田が憎くなかったと言えば嘘になる。だが俺には、貴田のことなんて考えている余裕はなかった。俺の頭はただひたすら、美咲のことで埋め尽くされていた。母さんが死んでからずっと、俺にとって全ての中心は美咲だった。別に依存していたわけではなかったが、美咲が死んで結果的にそうだったと分かった。美咲の葬儀が終わっても、喪失感は変わらず残り続けた。由依もいろいろと気を遣ってくれたが、俺には美咲の代替物を見つけることも、今までの生き方を変えることもできなかった。  そんな俺がダミーに思い至ったのは当然の話だった。俺は葬儀が終わったその日に、美咲のダミー作製をFSSに注文した。ダミーが出来上がったのはそれから十日ほどたってからだった。  初めてダミーと会話しようと思ったとき、ベッドに接続しながら、自分はなんて意味のないことをしているんだろうと思った。美咲に代わりなんてあるはずがない。どんなに美咲に似ていてもどこかに違いがあるはずだ。そんなまがい物の美咲で俺の喪失感は埋まらない。そう強く確信していた。そして俺は別にそれでもよかった。俺は微かに期待していたのだ。美咲の死を強く再確認すれば諦めがつくんじゃないかと。  俺が仮想現実にアクセスするとそこは自宅のドアの前だった。後ろを見れば見なれた家々がある。といっても、仮想現実はこの家の敷地内しか設定されていないので、外の景色は書き割に過ぎない。俺はドアを開け玄関に入る。慣れ親しんだ我が家があった。間取りも装飾も、薄気味悪くなるほどに一緒だった。そのままリビングに入ると、聞きなれた声がした。 「おかえり、お兄ちゃん」  まぎれもなく美咲の声だった。ハッとしてその声の主を見る。美咲のダミーがお茶を飲んでいた。  大きな目。血色のいい肌。高校二年生のわりには童顔といっていいだろう。生まれつき茶色っぽい髪は、肩までのセミロングになっている。昔はショートカットだったが、由依の真似をして伸ばしていたからだ。その見た目はどう見ても美咲だ。何も言えないでいると「美咲」は、 「お兄ちゃんもお茶飲む?」  と聞いてきた。 「ああ、飲むよ」  つい素で返事をしてしまう。俺は椅子に座り、お茶を入れる「美咲」を観察したが、その造作も本物の美咲と変わらないようだった。 「はい、どうぞ」  「美咲」はお茶の入った湯呑を俺の前に置いた。飲んでみたが、何の味もしないただのお湯だった。当り前だ。今の仮想現実は味覚、嗅覚の情報を扱うことはできない。  お茶を飲んでいる「美咲」を見ていて、俺は急に「美咲」に触れてみたくなった。まだ俺はこの「美咲」が本当に美咲だと納得していなかったのだ。どうすればいいか考えたが、しょせんダミーに感情はないと割り切り、強引な手段でいくことにした。「美咲」がお茶を飲み終わったのを確認し、近づいて声をかける。 「なぁ、美咲。ちょっといいか」 「なに?」  俺は少し躊躇してから、何も言わずに「美咲」を抱きしめた。確かな手ごたえを感じる。「美咲」は短く驚きの声を上げると、すぐに俺の腕から抜け出そうとする。 「ちょっと、やめてよ。お兄ちゃん、いきなりどうしちゃったの?」  予想していたよりも抵抗は少なかった。声にも怒りより困惑の感じが強い。痩せているのに美咲の体は柔らかい。体温を身に感じる。こうしてみて初めて、美咲の体がこんなにも小さかったことを実感した。そのまま左手で美咲の髪に触れる。最後に美咲の髪を触ったのはいつだったろうか。俺には美咲の全てが愛おしく思えた。もう一度美咲を抱く腕に力を入れる。確かに美咲はここに存在している。 「お兄ちゃん、何か辛いこととかあった? 私でよければ、悩み聞いてあげるけど」  いつの間にか美咲は抵抗することを止めていた。 「辛いことは、もうなくなった」 「そうなの?」 「ああ……もう大丈夫なんだ」 「だったら、離してくれない? 私もさすがに苦しいし、あと恥ずかしいし……」 「そうだな、ごめん」  俺は美咲から手を離すと、気まずくなってやや距離をとった。美咲の顔にはまだ赤みがさしている。何と言っていいかわからない。俺は何でこんなことをしたのかと自問自答するばかりだった。しばしの沈黙の後、美咲が口を開いた。 「お兄ちゃん、覚えてるかな。お母さんが死んだとき、私もお兄ちゃんに抱きついて泣き出しちゃったことがあったよね」  もちろん覚えている。俺の返事を聞かずに美咲は続ける。 「立場は逆だけどその時のこと思い出して……。だから一瞬、もしかして由依ちゃんが死んじゃったのかな、って思っちゃったくらい。本当にもう大丈夫なんだよね、お兄ちゃん」 「大丈夫じゃないって言ったら、どうするんだ? 胸を貸してくれるのか?」  俺は笑ってそう言った。美咲も安心したように、 「ハンカチくらいならいつでも貸してあげるよ」  そう言って頬を緩ませた。  俺はコンビニで買ってきた夕飯を食べた後、仮想現実に入った。リビングに入ると、美咲はソファに座ってテレビを見ていた。その時なぜか、俺には美咲の姿がとても不確実で朦朧としたものに見えた。気のせいだということはもちろん分かっていた。それでも俺は美咲の実在を確認せずにはいられなかった。 「なぁ、美咲」 「なに?」 「美咲は美咲だよな?」  予想外だったろう質問に、美咲は一瞬あっけにとられた。 「お兄ちゃん、頭大丈夫? BCIが壊れて脳に変な電流でも流れた?」  本気で心配そうにで言われるとは思ってなかった。 「違うって……。去年の夏、由依と三人で海に行ったの覚えてるか?」 「もちろん覚えてるよ。由依ちゃん受験なのによく来てくれたよね」 「一昨年は俺が受験で行けなかったしな。でも由依が行くって言わなきゃ、俺は去年も海には行かなかったろうな」 「え、何で? 私がいるけど」  冗談だろうと思い、俺も軽口で応じる。 「美咲と二人で海ってのもなぁ」  すると美咲はあからさまにムッとした表情をした。案外冗談ではなかったのかもしれない。 「どういう意味よそれ。  ……あれ? そういえば聡さんは、何でこれなかったんだっけ」 聡というのは、俺の中学時代からの友達だ。由依ほどではないが、美咲も懐いている。聡は遠い大学に進んだので、今は会うことは少ない。去年は一緒に海に行くはずだったが、突然駄目になった。そしてその理由というのが、 「不幸な事故だったな……」  美咲は哀れみの視線を俺に向ける。 「お兄ちゃん、現実を見ようよ。聡さんは彼女と海に行ったんでしょ」  覚えているんなら聞くなよ。あれは酷い裏切りだった。その彼女とは今も続いているらしい。その後もいろいろと昔話をしたが、美咲の記憶と俺の記憶はどこまでも一致していた。  俺は仮想現実から出て、ベッドとの接続を切った。それから冷静に考えてみて、さっき自分が無駄なことをしたと気付いた。俺は時間をかけて、当たり前のことを確認したにすぎなかった。ダミーは表面的にはモデルとなった人間と同じだ。俺と美咲が話しているときに、その差が意識されることはない。そう、確認するまでもなく美咲は美咲だ。あれが美咲でなくて何だというんだ。  由依と一緒に昼ご飯を食べてから、適当にぶらぶらするというのが今日の計画だ。おおざっぱ過ぎて、計画と呼べるかは怪しい。時刻は現在十一時半。待ち合わせ場所の噴水に着いたが、約束の時間まではまだ三十分ほどあった。由依はいつも待ち合わせよりも早く来るから、このくらいでちょうどいいだろう。梅雨も明けたはずなのに、空はどんより曇っている。そのため公園には人もまばらで、そこらをうろつく鳩のほうが多いくらいだ。雨さえ降らなければいいが、と思っていると遠くに白いワンピースを着た、由依の姿が見えた。由依もすぐに俺に気づく。すると由依は、まず自分の腕時計を確認した。続いて噴水の中央に立っている大きな時計を見る。そしてゆっくりとこっちに歩いてきて、俺に向かって微笑みかけた。 「こんにちは、歩くん」  由依は多くを言葉にはしない。だがあまりに行動が分かりやすいので、そこから意思が読み取れてしまう、ということがよくある。そのことを指摘されるたびに本人は驚くが、俺からすれば、それで隠せていると思っていること自体が驚きだ。 「今、俺のことを見て遅刻したかと思ったよな」  案の定、微妙に表情をこわばらせた後、 「そんなことないよ」  と否定する。 「ついでに言えば、自分の時計が壊れてるんじゃないか、とか考えただろ。そんなに俺が早く来ることは珍しいのか?」  由依はかぶりを振るが、その態度も怪しい。 「そんなことないって。でも歩くん、いつから待ってたの?」 「五分くらい前だ。そんなに待ってたわけでもない」 「三十分も早く来てどうするの」  いつも自分がやっていることを、理解して言ってるんだろうか。 「由依だって同じような時間に来ただろ。俺がいつもみたいに、時間ぴったりだったらどうしたんだよ」 「私は待つの好きだし、別に構わないけど。それと歩くんはいつも、時間よりちょっとだけ遅れて来てるからね」  言われてみればそんな気もする。 「それで、昼飯はどうするんだ。どこか行きたいところとかあるのか?」  ないと言われたら、俺は過去の経験から適当な店を選らばなくてはならない。しかし俺がそういう店を考えると、ほとんど由依に教えてもらった店になってしまう。俺としては、由依に何かアイデアを出してほしいところだ。 「この近くに新しくイタリアンのお店ができたんだって。そこにしよう」  由依は迷う様子もなく答えを出した。最初から決めていたのだろう。俺は由依に連れられて、目的の店に歩き出した。  その店は待ち合わせ場所から、歩いて五分くらいのところにあった。洒落た感じの小さいお店で、料金もそれほど高くない。最近開店したと聞いていたので、相当に混んでいることを覚悟したが、想像したほどではなかった。時間が昼時には少々早目なことが幸いしたかもしれない。店員に案内され席に着くと、メニューを渡された。俺はサッと眺めて手早く注文を決める。逆に由依は、メニューをじっくり見つめて悩みこんでいる。毎度のことなので何も言わないことにしている。長考の末、由依は注文を決めた。近くにいた店員を呼ぶ。俺はピザマルゲリータを注文する。面白みのない選択だが、聞いたこともないものを頼んで、口にあわないものが出てくるよりはいいだろう。と思っていたら、由依は聞いたこともないものを注文した。 「どんな料理を頼んだんだ?」  俺が知らないだけで、由依は知っている料理なのかもしれない。 「よくわからないけど、おいしそうな名前だったから」  名前からおいしそうかどうか分かるのか。 「なんていう料理だったっけ」 「メバルとあさりのアクアパ……あれ? アクア……なんとかっていうお料理。おいしそうだよね」  にこやかに同意を求められても困る。  しばらくして料理が運ばれてきた。由依の頼んだメバルとあさりのアクアパッツァは、要するにイタリア風煮魚だった。 二人とも同じようなころに食べ終わり、食後にコーヒーが来た。 「おいしかったね、歩くん」  俺はそこで、ふと感じた疑問を口にする。 「由依はたいてい知らない料理を頼むよな。失敗とかしないのか?」 「たまに口に合わなかったりもするよ」 「じゃあ、なんで食べたことのある料理にしないんだ?」 「変化があったほうが楽しいと思うから」  たまに失敗しても楽しいのか。 「俺は変わらないほうが安心するがな」  由依は控え目に笑みをこぼす。 「価値観の相違だね。私も変わらないことがあるのも、いいことだと思う。でも変わっていくほうが自然なんだよ。ほら、熱力学の第二法則」  由依が含みを持った目でこちらを見るので、俺は期待通りの答えを返す。 「エントロピーは増大する。永久機関は作れない」 「そういうこと。自然の流れには逆らわないほうがいいと思わない?」  個人の信条と物理法則を結び付けるのはどうかと思うが、 「それに関しては、俺も同意しておく」  昼を食べた後は、とりあえず映画を見ることになった。海外の有名なSF小説を映像化したものだった。由依が選んだものだったが、由依は原作を読んだことがあるらしく、しきりにネタをばらそうとしてくるのには困った。なかなかに見ごたえがあり、特に結末は予想外のものだった。由依によるとラストは大幅な改変があったらしく、由依も驚いていた。原作の結末も気になったので教えてもらおうと思ったが、自分で読まないと面白くない、ということで教えてもらえなかった。今度書店で見かけたら買ってみようか。  それからは目的もなく買い物をして、夕方ごろに由依を家に送り届けた。  何も変わらない日々だ。俺がいて、由依がいて、美咲がいる。俺は家に着くと仮想現実に入った。美咲は自分の部屋にいたようで、俺が帰ってきたことに気付くと下に降りてきた。 「おかえり」  俺がソファでだらけていると、美咲はその隣に座った。 「ただいま」 「由依ちゃんと、どこ行ってきたの」 「ご飯食べて、映画見て、後は買いものとか」  美咲はぼそりと感想を漏らす。 「普通のデートだね」  またこの流れになるのか。 「別に俺と由依は付き合っているわけじゃない」 「知ってるよ。でも男と女が二人で出掛けるのを、一般的にはデートって言うの。付き合ってなくてもね」 「……知ってる」  ちょっとぐらいの発想の飛躍は誰にでもある。揚げ足を取らなくてもいいだろうに。美咲はそれからしばらく、うつむいて押し黙っていた。だがいきなり立ち上がり、 「私、部屋戻るね」  そう言うなり部屋に戻っていった。 「なんなんだ……」  美咲のことはよく理解しているつもりだが、俺と由依が付き合ったほうがいいという考えだけは解らない。俺がいて、美咲がいて、由依がいて、美咲と俺は仲のいい兄妹で、俺と由依は幼馴染で、由依と美咲も幼馴染で……なぜそんな関係を変えてしまうかもしれないことを言うのか。俺と由依が付き合ったとして、美咲は居心地が悪くなるだけのはずだ。本当に何で美咲は、 「歩くん、見える?」  文字列が何の前触れもなく俺の目に飛び込んできた。空中に踊る文字列。なんだか滑稽な光景ですらある。俺がどの方向に目を向けようがそれは変わらず見え続けている。 「誰だ? どうやってここにメッセージを送っているんだ?」  俺は思わず叫んだ。ここには俺のパソコンからしかアクセスできないはずだ。俺以外の人間は入ることはできない。 「最初の質問については聞かないでも解ってほしかったな、歩くん」  まさかとは思うが……。 「由依なのか?」 「私以外の女の子が、歩くんを下の名前で呼んでいるのを、見たことがないんだけど……思い違いだったかな?」 「俺からは文字しか見えないから、男か女か判断がつかない」 「あ、そうだね。最初に、私は女です、って言っておくべきだったね」  間違いなく由依のようだ。 「どうやってここに入った?」 「簡単な方法だよ。直接歩くんのパソコンから、キーボードでそっちに文字を送ってるの。ディスプレイに歩くんが映ってるよ」  確かにそれなら、ここに文字を送ることはできる。 「じゃあ、どうやって家に入った? 鍵は?」  家の鍵を開けるには、俺か美咲が想念するか、後は滅多に使わないが、カードキーもあるか。カードキーならパスワードも必要だ。 「昔カードキーの場所、教えてくれたよね。昨日ケーキ持っていったときに、歩くんお茶淹れてくれたでしょ。その間にちょっと借りさせてもらったの」  目眩がする。 「パスワードは?」 「それも昔教えてくれた。変わってないとは思ってなかったけど。歩くんと美咲ちゃんの名前と誕生日を並べただけなんて、防犯性の面ではどうかと思うな」  なぜ由依はこんなことをしている。訳が分からない。 「なんでなんだ? いくら由依でも無断で人の家に入るなんて、いいわけないだろ」 「それは悪いと思ってる。ごめんね、歩くん。でも歩くんも私に嘘ついてたよね」 「何のことだ」  自分で言っていて白々しいとは思う。 「美咲ちゃんのダミーのことだよ。そんなものは作っていないって、歩くんは言った」 「確かにそれは嘘だ。だけど由依に何の権利があって、俺が美咲を作ったことを責めるんだ」 「美咲ちゃんは、私にとっても妹みたいなものだった」  そんなことは知っている。美咲は由依のことを慕っていた。 「でも美咲にとって、本当の家族は俺だけだ。俺は俺の権利で美咲を作った。由依がどうこうすることはできない」 「だったらなんで、歩くんは私に嘘をついたの?」 「由依が俺の行動を否定することは目に見えていた」  なぜ俺は美咲のことを由依に隠したんだ。 「否定されたとしても、今みたいに突っぱねればいいだけ」 「由依との関係を悪くしたくなかった」 「そうかもしれない。でも今は説得力のない言葉だったかな。歩くんは怖かったんだよ。歩くんが目を背けている事実を、私に指摘されるのが」  俺は言葉を失う。どうしてなんだ。変わらないはずだったのに。うまくいっていたのに。 「……由依はいつ、俺が美咲を作ったと気づいたんだ?」 「はっきりとは言えないけど、最初に変だと思ったのは、美咲ちゃんが亡くなってから三週間くらい経ったとき。歩くんが急にいつもどおりに戻った。それからしばらくして、もしかしたらダミーを作ったのかもしれないって思った。よくテレビでも取り上げられてたし」 「でもそれだけじゃ確信には至らない」 「疑いを深めたのは昨日。歩くんに美咲ちゃんのダミーを作ったのか聞きたかったけど、私はなんだか直接には聞きにくくて、遠まわしに質問した。そしたら歩くんは、すぐに私の質問の意図が解って、核心を突いてきた。あれはちょっと勘がよすぎたかな」  俺の失敗、ということになるのか。 「でも、確信したのは今日だよ」 「俺はまた何かやったのか?」 「ううん。今日ずっと一緒にいて、歩くんはいつもと変わらなかった。変なところは何もなかったよ」 「だったら何で?」 「歩くんは全然変わっていなかった。美咲ちゃんがいなくなる前と」  そのはずだ。それの何がおかしいんだ。 「人は変わっていくのが自然なんだよ、歩くん。いくら時間がたっても、もう美咲ちゃんはいないんだから、美咲ちゃんがいたときと同じように振る舞えるわけないよ」 「そんなはずない。母さんが死んだときだって、俺は何も変わらず日常に戻ってこれた」 「歩くんも、もちろん美咲ちゃんも、おばさんが亡くなった後と前で変わったよ。どこがどうとか指摘するのは難しいけど、前のままの二人じゃなかった。歩くんには同じように見えても、日常は変わってるんだよ」  俺には分からなかった。変わりゆくものの内側にいた俺には、不可能なことだったのかもしれない。 「それで、由依は何をしに来たんだ」 「歩くんが本当に美咲ちゃんのダミーを作ったのか確かめに」 「それはすぐに分かったろ。そっちからなら、この家のどこだって見れるはずだ」 「うん。ダミーって本当に美咲ちゃんそっくりなんだね」 「俺が言ってるのは、ダミーの存在を知ってどうするのかってことだ」 「ダミーを消して、歩くん」  やはりそうなるのか。 「誰にも迷惑はかかっていない」 「そうかもしれない。でも美咲ちゃんはもういない。ダミーは存在自体が不自然なんだよ」 「いる。いまこの家に美咲はいる」 「ダミーを美咲ちゃんだって主張するの? それは美咲ちゃんに対する冒涜だよ」 「由依が決めることじゃない。今の美咲と前の美咲で、いったい何が違うっていうんだ」 「美咲ちゃんのダミーにに料理でも作ってもらえば、すぐに分かるよ」 「それはこの世界の問題であって、美咲の問題じゃない。由依がここで料理を作っても同じことが起きる」  反論を考えているのか、次の文字が続かない。 「ダミーには意識がない。そんなことぐらい、歩くんも知ってるでしょ」 「なぜ美咲に意識がないとわかる?」 「当たり前のこと。ダミーはただのプログラムなんだから」 「今そのことが証明できるのか?」  俺は間髪を容れずに由依に問う。 「無理だよ。意識は外部からは観測されない」 「なら由依に意識はあるか?」 「なに当たり前のこと言ってるの。あるよ。人間なんだから」 「そのことを俺に証明できるのか?」 「それも無理だよ。私に意識があることは、私にしか証明できない」 「そうだ。だが俺は今、由依に意識があるという前提で話をしている。意識の存在が確かなのは、百億の人間の中で自分ただ一人だっていうのに、百億全ての人間に意識があることを、俺は信じて疑わない。なら俺が美咲に意識があるという前提で話して何がおかしい?」 「おかしいよ。意識は人間の脳に宿る。プログラムに意識はない」 「意識がどのようなメカニズムで人間の脳に宿るのか、明確に説明できた人間はいない。ならプログラムに意識がないことを証明できる人間もいないはずだ」 「だったら路傍の石に意識があっても不思議じゃないね」 「全くその通りだ。あいつらはちょっと無口なだけかもしれない」  不毛な議論だ。不在を証明ができないからといって、存在を証明したこといにはならない。 「歩くんは私を混乱させてどうしたいの?」 「……俺にとって美咲は美咲だ。客観的に否定できる人はいない。そう言いたかっただけだ」  しばらく間を置くが、由依からの返答がない。 「おい、由依聞いているだろ」 「そうだね、美咲ちゃんのダミーが美咲ちゃんとどう違うか、私には説明できない」  由依だけでなく誰にも不可能なはずだ。 「でも、歩くんはダミーを消す以外に選択はないはずだよ。いつまでも変わらずになんていられないんだから」  そんなことは最初から知っていた 「そんなことない。美咲は変わらない。消去する必要なんてどこにもない」  知っているはずなのに、なおそれを認められないのはなぜなのだろう。 「あるよ。歩くんは、美咲ちゃんが死んだ悲しみを先延ばしにしているだけ。ダミーはいずれは消さないといけない。こんなこと、続ければ続けるほど空しいだけだよ」 「違う。美咲は美咲だ。空しさなんかない。消すこともできない」  俺は上ずった声で否定する。 「どうしても私の口から言わないと駄目なのかな」  言いたいことは分かる。だが待ってくれ。 「歩くんは今年で二十歳だよね。もうお酒も飲めるし、立派な大人。私も来年は二十歳になる。歩くんはそうなったら二十一歳。お互いに変わっていく」 「その先は言わなくていい」  俺は弱々しく呟いた。 「でもダミーはどう?」  由依は俺の言葉を無視する。 「来年はいいかもしれない。その次の年もまだいいかもしれない。なら十年後はどう? ダミーは決して変わらない。でも私たちは変わる。時間がたつにつれて、ダミーと私たちとのずれは大きくなる。ダミーの時は止まっているから」  分かっている。 「それにこう考えることもできるよ。今、美咲ちゃんが生きていたとして、そのダミーを作ったとする。ダミーにはそこから先の美咲ちゃんの監視データを反映させない。それから十年して、美咲ちゃんは成長する。ダミーは変わらない。そうなったときに、そのダミーは本当に美咲ちゃんのダミー? 考えるまでもなく明らかだよ。ダミーは時間を経るごとに、変化しないことによって、モデルの忠実な再現という性質を変化させていく。そうなったダミーに存在価値はあるのかな?」  答えを聞くまでもない。 「それでも……俺には美咲を消すことはできない」 「私にもその権利はない。選択するのは歩くん」  俺が美咲を消す。本当に? 「私が歩くんに言えることはこれくらい。勝手に家に入って、酷いこと言って、ごめんね。歩くんに、嫌われてもしょうがないことをした。でも私は」  中途半端なところで由依の言葉は止まった。 「本当にごめんね。さよなら」  それからもう、文字は現れなかった。 「お兄ちゃん。電話の声、大きすぎだよ。二階まで聞こえてた。誰と話してたの?」  自分の部屋から出てきた美咲は、リビングに入るとそう言った。俺は茫然としてソファに座っていた。 「由依だ」  美咲は俺の前に立って、心配そうな視線をこちらに向ける。俺は美咲の顔から思わず目をそらした。 「大丈夫? 疲れたような顔してるけど、喧嘩でもした?」 「まぁ、そんなところだ」 「本当に?」  美咲は何となく納得がいかないようだ。 「まぁ、ちゃんと後で謝っておくんだよ。どうせお兄ちゃんが悪いんだろうから」 「酷い決め付けだな。確かに俺が悪いんだが」  今、俺は美咲とうまく話ができているだろうか。  美咲は落ち着かなく視線を漂わせていたが、表情をただすとこちらに向き直った。 「私ちょっと、お兄ちゃんに言いたいことがあるんだ」 「改まってどうした?」  美咲は迷いなくこちらを見据えている。 「なんでお兄ちゃんは、由依ちゃんと付き合わないの?」  またか。どうしてそんなに拘るんだ。 「何回も言ったろ。由依は幼馴染だからだ。話はそれだけか?」 「ううん、まだある。なんで地元の大学に行くことにしたの?」 「学力的に合っていたからだ」 「でもお兄ちゃんなら、もうちょっと上の大学狙えたよね」 「狙えたかもしれないが、落ちる可能性も上がる。俺は確実に受かりたかったんだ」 「高校の時も部活に入らなかったし、大学でもサークルとかあんまりやってないよね。それはどうして?」  美咲の目は相変わらず真剣そのものだ。こんな質問にどんな意味があるっていうんだ。 「好きじゃないからだ。俺は無趣味だしな」 「中学時代は部活やってたよ」 「中学でやって飽きたから、高校ではやらなかった。なぁ、さっきからの質問攻めはなんなんだよ」  美咲は俺の質問には答えない。そしてなぜか、似合わない無表情でいる。 「……お母さんが死んでからだよ。お兄ちゃんがそんなに、私のことばっかりになったのは」  息が詰まる。頭が重い。 「ちょっと待ってくれ美咲。意味が分からない。そんな事実はどこにもないだろ。ただの美咲の思い込みだ」  美咲がなぜ寂しげな顔をしているのか、俺には分からない。 「思い込みじゃないよ。いくら私でも、口に出さなくても分かるよ。部活もサークルもやらなかったのは、私のため。私のために早く帰らなきゃいけなかったから、できなかった」 「違う」 「違くない。中学の時部活をやってたのは、お母さんがまだ生きてたから。地元の大学に行ったのも、私のため。お兄ちゃんには、本当はもっと行きたい大学があったけど、私のために諦めた」 「ただの妄想だ」  いや図星だ。 「お兄ちゃんの部屋に、その大学の過去問集があった。対策本も。それに確か、オープンキャンパスにも行ってた」  美咲はこんなことを俺に言って何がしたいんだ。 「最後にお兄ちゃんが由依ちゃんと付き合えない理由。それも私」 「違う。俺は変わりたくなくて、変えたくなくて……それで」  美咲に言ってやればいいだろう。人の心を決めつけるなって。美咲の言ってることが、嘘なら言えるはずだ。なぜ俺の口からははろくな文句が出ないんだ。 「由依ちゃんのことは、傍から見てて不自然だよ。由依ちゃんがお兄ちゃんのこと好きなのは、私から見ても明らか。お兄ちゃんも由依ちゃんのこと、嫌いなはずない。あんなに仲がいいんだから。でも二人が付き合うことは絶対ない。お兄ちゃんは私に気を遣ってる。お兄ちゃんと由依ちゃんが付き合ったら、私が二人の間に居辛くなるから」  由依の好意を知らずに、俺はそれを無視した。もしかしたら、知っていて無視したのかもしれない。違う。こんなのは嘘だ。 「お兄ちゃんが、私のことを思ってくれているのは嬉しいよ。でも私のために、いろんなことを諦めないで。もう私も今年で十七歳だよ。お母さんが死んだときとは違うんだから」  俺が何も言わずとも、由依はあふれだす言葉を声にする。俺の自己満足が美咲を傷つけたのか? 「俺はそんなつもりじゃ……」 「別にお兄ちゃんのこと、責めてるわけじゃないよ。責めてるわけじゃなくて……何ていうか、伝えたかったの」  美咲は顔をくしゃくしゃにして笑う。 「私はもう、一人でも大丈夫だよ」  聞きたくなかった。聞いてはいけなかった。美咲にもう俺は必要ないのか? 俺の思いは一方的なものに過ぎなかったのか? これは本当に美咲なのか? そうだ。こいつが美咲ではないなら、俺は美咲から必要とされていた。こいつが美咲ではないなら、俺の行為は美咲を傷つける自己満足ではなかった。こいつが美咲ではないなら……。  俺はすぐさま仮想現実から出て、ベッドとの接続を切った。そしてそのまま自室から出て、階下に降りるとFSSに電話を掛けた。  俺は美咲のダミーを消した。一時の感情に身を任せた行為だった。間違ってはいなかったはずだ。そうでもしなければ、俺はダミーを消すことはできなかっただろう。しかしあれから時間をおいて冷静になればなるほど、本当にそれでよかったのかという疑問が、鎌首をもたげてくる。疑問と言えば他にもある。最後にダミーの語ったことは、生前の美咲の思いと同じだったのだろうか。想像に過ぎないが、俺はあれが美咲の本心だったと考えている。おそらく美咲は友達に、ひょっとしたら由依にかもしれないが、今日言ったようなことを相談していたのだと思う。そして監視記録のその発言を基に、ダミーはあんなことを言った。そうでなければ、いくらなんでも出来が良すぎる。俺はダミーがそこまで人間的ではなかったと信じたい。  ダミーが忠実な美咲の模倣だったとしても、そこからずれた存在だったとしても、俺にダミーを消す以外の道はなかった。勝手なことだとは思う。自分の都合で作っておいて、自分の都合で消したのだ。俺は二度、美咲を失ったのだろうか。分からない。俺の感じている痛みがどこから来たものなのか、判断する方法はない。だが確かなことは、俺の世界にもう美咲はいないということだ。いや、正しくはあの日からずっといなかった。俺は美咲が生きている夢を見ていた。俺は変わらざるを得ないだろう。それが自然なことなのだろう。美咲を失った空虚な思いは、未だ癒えることなくありつづける。だがそれもいつかは薄れていく。美咲の死は過去になる。しかし忘れるわけではない。さまざまな変化の中で、日常の一部になる。  明日、由依に会おう。今日俺は相当にきつい言葉を飛ばしたが、会ってくれるだろうか。何となく会える気がする。もし会えたならどうするか。まず謝らなければならないだろう。それから聞きたいことがある。言いたいこともある。聞いてしまうことで、言ってしまうことで、俺たちの関係は変わるだろう。どう変わるのかは分からない。でも俺には、それが悪いことのようには思えなかった。