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日本労働年鑑 第53集 1983年版
The Labour Year Book of Japan 1983

第二部 労働運動

VII 公害反対闘争


6 土壌汚染公害闘争

加害企業の故意責任を認めた安中公害判決

 安中公害訴訟は、群馬県安中市の東邦亜鉛安中製錬所から四〇年余にわたって排出された鉱煙、廃水中のカドミウム等の重金属、亜硫酸ガスによって田畑を汚染された被害農民が、農業破壊の責任を追及して前橋地裁に提起した訴訟である。農業被害と生活破壊にたいする損害賠償請求というかたちをとってはいたが、この判決をテコにした直接交渉によって安中公害問題の全面解決をはかることが主眼とされていた。そのため、判決前から全面解決をめざして運動を大きく広げる努力がなされた。

 地元では群馬地評などの労働組合がこのたたかいを支援していたが、東邦亜鉛本社と監督官庁の通産省、農水省、環境庁のある東京都中央区と千代田区での運動づくりが急務とされた。被害農民の要請にこたえて、中央区労協と千代田区労協が中心となり、東京地評も加わって、東邦亜鉛本社要請抗議行動などの東京行動の支援活動を強力に展開した。

 安中公害判決は、一九八一年三月三〇日に言渡されたが、被告東邦亜鉛の損害賠償責任を認め、公害裁判史上初めて故意責任により加害企業を断罪した。被害農民の画期的勝利は、全国の土壌汚染地域でのたたかいを大きく励まし、汚染土壌の復元事業を推進する足がかりになるとして歓迎された。しかし、判決は、他方で、損害額については、請求額のわずか五%しか認めなかった。あまりにも低額で、社会常識にも反する認容額にたいしては、マスコミも被害者の救済にはなり得ないと批判した。被害認定と損害評価の再検討は、控訴審の東京高裁でおこなわれることになった。

画期的な安中公害防止協定

 安中公害判決後、その当日から翌日にかけて、被害農民、弁護団、研究者、支援団体は東邦亜鉛本社で社長と全面解決についての大衆交渉をもった。判決に向けて大きく広がった運動と世論の力、また、故意責任を認めた判決の力を背景にした交渉によって、被害農民の念願の公害防止協定が東邦亜鉛とのあいだで締結されるにいたった。公害防止協定は、つぎにかかげるように、原告らの指定する科学者をふくむ立入調査権を骨格とするものであり、発生源対策への大きな足がかりとなるものと期待されている。全国の公害闘争をみてもこの種の公害防止協定の締結は画期的なものと評価された。

【安中公害防止に関する基本協定】

 安中公害裁判原告団、安中公害被害者対策協議会および安中公害弁護団(以下甲らという)と東邦亜鉛株式会社(以下乙という)は、安中製錬所から発生する公害を防止するため、次のとおり公害防止に関する基本協定を締結する。

一、甲らおよびその指定する科学者は、安中製錬所に立入調査をすることができる。
二、甲らは、立入調査に関し、乙に対し資料の提出を求めることができ、また、自ら資料を採取することができる。
三、公害防止に関する調査費用は乙の負担とすることを、乙は基本的に了承する。

四、前三項に関する具体的細目については、甲らと乙は別途協議する。

勝訴した小野田セメント公害判決

 小野田セメント公害訴訟は、小野田セメント株式会社藤原工場(三重県員弁郡藤原町)から排出されるセメント粉じん、重金属、亜硫酸ガスなどによって、田畑を汚染され、家屋を損傷された被害農民が、津地裁四日市支部にたいして、農業被害と家屋被害につき損害賠償を求めた裁判である。これは全国で初めてのセメント公害訴訟であり、各地のセメント公害被害者から注目されていたが、安中公害判決後の一九八二年六月二五日、判決が下された。判決は、「会社は、昭和七年の操業以来、セメント粉じんをまき散らし、原告らの家屋や農作物に多大の被害を与えてきた」として、セメント粉じんと家屋被害、重金属と農業被害との因果関係をともに認めたうえ、会社の故意責任は退けたものの、過失責任を認定し、損害は個別に算定した被害額とその慰謝料について、請求額のおおむね三分の一まで認めた。原告のほぼ全面勝訴といえる内容であった。

日本労働年鑑 第53集 1983年版
発行 1982年11月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2001年9月4日公開開始


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