今日のテーマは、「戦争の時代」です。既に戦後70年に近づいていますが、今日のテーマである「戦争の時代」は、現在にまでさまざまな課題を残す、日本にとって重い時代でした。今日は、その時代について学んでいきたいと思います。
それでは今日のポイントです。
(1)日中戦争
日中戦争の発端になった盧溝橋事件から、泥沼化していく戦争を見ます。
(2)アジア太平洋戦争
中国での行きづまりから広げられたこの戦争が、どこでどう戦われたのかをみていきます。
(3)国民生活の状況・敗戦
戦争中、国民の生活はどうだったのか、そして、敗戦をどう迎えることになったかを見ていきます。
まずポイント(1)日中戦争の始まりです。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で、日本軍と中国軍が武力衝突しました。盧溝橋事件です。
事件から4日後には現地で停戦協定が結ばれましたが、日本政府は、増援部隊の派遣を決定します。
一方、中国国民政府の指導者・蒋介石は、日本に対して徹底抗戦する姿勢を示しました。
7月末、北京で日本軍と中国軍が再度衝突し、日本軍は総攻撃を開始。北京天津一帯を占領します。
8月になると、戦火は上海にも飛び火し、日中両国の戦争は本格化していきます。
日中戦争が始まった時の総理大臣は、近衛文麿でした。近衛は、この機会に中国に大きな打撃を与えたいと考えていました。近衛は9月に次のように演説しています。
「特に東洋百年の大計の為にこれに一大鉄槌を加えまして直ちに抗日勢力の依って以て立つ所の根源を破壊し…東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られてきたのであります」
9月、中国で、それまで内戦を続けてきた国民党と共産党が抗日民族統一戦線を結成、一致して日本に抵抗する体制ができあがりました。
日本軍は、上海を攻略した後さらに戦線を広げ、12月には、中国国民政府の首都だった南京を占領します。この時日本軍は、一般市民を含む多数の中国人を殺害し、国際的な批判を浴びました。
国民党軍をひきいる蒋介石は、政府を西の内陸部の重慶に移し、抵抗を続けていきました。盧溝橋事件が引き金となって、日本と中国は、以後8年に及ぶ戦争を繰り広げることになったのです。
前回学んだように、満州事変のときは、現地の関東軍が政府の不拡大方針を無視して戦争を拡大していきました。
ところが今回は、現地では、7月7日に起きた事件をひとまずおさめる協定が7月11日には実現することになりました。日本軍の中には、最終的な目的は中国ではなくソ連と戦うことだという戦略があり、中国で紛争を起こしたくなかったのです。
ところが、この11日に日本政府が、「重大な決意」のもとに中国への派兵を決定するのです。日本側には「一撃論」というものがありました。中国は弱い、日本が強く出ればすぐ折れてくると考えたのです。先ほど出てきた近衛首相の演説でも、中国に「一大鉄槌」を加えて抗日をやめさせる、と言っていました。
日本は長期戦の覚悟をしていたわけではなく、短期の戦いで終わらせるつもりだったのですが、予想外の中国側の抵抗の強さに出会っていくことになるわけです。
盧溝橋事件の直後に、蒋介石は蘆山談話(ろざんだんわ)というものを出し、こう言っています。
「盧溝橋事件が中日戦争に拡大するかどうかは、すべて日本政府の態度にかかっている。ひとたび戦争となれば、地に南北の別なく、年老若の別なく、いかなる者も国土を守り、一切を犠牲にせねばならない」
これは、蒋介石が、今度は満州のようにはさせないと強い決意を示したものです。そして9月には、国民党と共産党が手を結んだ抗日民族統一戦線が結成されるわけです。
上海での戦争が長引く中で、ドイツの中国駐在大使トラウトマンの仲介による和平の動きが進められ、もう少しでまとまるところまでいきました。ところが、首都南京を攻略したことで勢いづいた日本政府は、翌年の1938年に「近衛声明」を出して和平を断ち切ってしまいます。その声明を見てみましょう。
「国民政府ハ…漫リニ抗戦ヲ策シ…仍テ帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ……」
国民政府は抗戦にこだわって東洋全体の平和を考えていない。従って日本としてはもはや国民政府を相手にしない、といっているのです。そして日本と手を組む新政権ができるのを期待すると言っています。
戦争をしている相手の政府を認めないという声明ですから、和平の相手がいないことになり、日本はみずから長期戦、泥沼化した戦争にはまり込んでいきます。この間に、ヨーロッパでドイツが戦争を起こして第二次世界大戦が始まり、日本に大きな影響を与えることになっていきます。
1938年12月、日本は、国民党副総裁の汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させ、汪との間で講和しようとしました。汪は、1940年3月、南京に新政権を樹立しましたが、この政権は中国民衆の支持を得られず、戦争終結はかえって難しくなりました。
その一方で、日本は、抗日勢力と泥沼の戦いを続けました。
1940年8月には、中国共産党軍が「百団大戦」と呼ばれる攻撃を行ないました。これは、共産党軍およそ100個連隊が日本軍の交通通信網を破壊しようとした大規模な戦闘でした。
中国国民政府は、日本軍に徹底抗戦を続けるためにイギリスなどに支援を求めました。そして、南のビルマなどのいわゆる「援蒋ルート」を通って、支援物資が中国に運ばれました。この結果、日本とイギリスなどとの関係が次第に悪化していきます。
一方、ヨーロッパでは1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まります。ドイツ軍は破竹の勢いで勝ち進み、翌1940年6月には、フランスなど西ヨーロッパのほぼ全域を制覇しました。
日本はこれを受けてドイツ、イタリアと軍事同盟を結び、アジアでの支配権を認めさせました。
そして日本は、1940年から41年にかけて、フランスの植民地だったインドシナ地域に軍隊を進めました。
これに対して、日本の勢力拡張を警戒したアメリカ政府は、1941年夏、日本への石油などの輸出を禁止し、日米の対立は決定的になっていきました。
アメリカとの戦争が起こったのは、日本がインドシナに進出したことが一つのきっかけでしたが、基本的には、中国との戦争が行きづまった結果だったといえます。
地図を見てください。
ヨーロッパで戦争を起こしたドイツと手を結び、南方の資源を求め、また、イギリスなどが中国を助けている南からのルート「援蒋ルート」を断つという理由で、南進、つまり東南アジアに向かうことになります。それが、アメリカ、イギリスなどとの対立を避けられないものにしていきました。
しかし、すぐに戦争になったのではありません。1941年11月まで、開戦を避けるための日米交渉が行われました。この中で何らかの形で中国との戦争についての妥協が成立したり、最後には、中国から日本が撤兵したりすれば開戦を避ける道がありました。しかしそれは、当時の日本の指導者にとって、受け入れられないものでした。
それが次のポイント(2)「アジア太平洋戦争」になります。
日本時間の1941年12月8日午前2時ごろ、日本の陸軍がマレー半島に上陸、イギリス領への攻撃を始めました。
同じ日の午前3時25分、海軍の機動部隊がハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃、大打撃を与えました。
これらの戦いは次のように報道されました。
「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、アメリカ・イギリス軍と戦争状態に入れり」
1942年2月、日本軍はイギリスのアジア支配の拠点だったシンガポールを陥落させ、開戦から半年間で、東南アジア、太平洋の広大な地域を占領しました。国民は予想以上の勝利に湧き立ちました。
日本は、オランダ領だった現在のインドネシア地域を制圧、戦争を行なうために必要な石油やゴムなどの重要資源を手に入れました。日本軍は占領した東南アジア各地に軍政をしき、現地の人々を労動力として使いました。
また、初等教育の学校を作り、人々の教育に乗り出しました。しかし、教育内容には日本の文化や習慣を押し付ける面がありました。
計画では真珠湾、マレー半島の両方一緒に始める予定だったのですが、真珠湾の方が遅れて、マレー半島のコタバル上陸が先になりました。
真珠湾攻撃は、アメリカ軍をたたいて出てこられないようにすることが目的で、そこから日本軍が戦争を広げていったのではありません。マレー半島のコタバルの方は、その後でシンガポールを占領し、またオランダ領東インド、つまり後のインドネシアなど東南アジア支配を進めていきました。
ところで、アメリカやイギリスと戦争を始めた後も、中国でも戦争が続いていたことに目を向けておくことが大事です。
次の史料は、先ほどの日中戦争のところで出てきた共産党軍の攻撃「百団大戦」への報復、対策として示された、1940年9月の日付がある日本軍の作戦指令です。
1.敵および土民を仮装する敵
2.敵性ありと認められる住民中の16歳以上60歳までの男
→殺戮(さつりく)
3.敵が隠している武器弾薬器具爆薬など
4.敵が集めたと認められる食糧
5.敵が使っている文書
→押収携行 やむを得ないときは焼却
6.敵性のある部落
→焼却破壊。
つまり住民の姿をした敵や、敵かもしれない大人の男性の住民は殺す、また敵対するかもしれない村落は焼いてしまう、ということです。
こうした日本軍の作戦は、中国共産党の勢力範囲である解放区などに対して、ずっと続けられていきます。この作戦で、中国側に相当な数の犠牲者があったと考えられています。
中国側はそれを「三光作戦」と名づけて批判しました。三光とは、焼きつくす、殺しつくす、奪いつくすことを意味しています。
また、太平洋などで戦っている間も、中国戦線には常に60万の日本の兵士がいました。右のグラフを見てください。これは日本陸軍の地域別の配置を示したものです。
満州国を含めて、今の中国の領域内に、1943年までは南方よりも多くの兵力が配置されていました。1944年には南方が上回りますが、敗戦の1945年でも、陸軍総兵力の31%、海外兵力の67%の約170万人がいたのです。
この戦争は、最後には、アメリカの物量に圧倒されていくことになりました。軍事的には、戦局は絶望的になっていきます。
1942年6月、日本海軍は、ハワイの北西にあるミッドウェー島の攻略をめざしました。
連合艦隊の総力を上げた作戦でしたが、この計画は、暗号解読によって事前にアメリカ側に知られていました。
連合艦隊は、待ち伏せていたアメリカ機動部隊の攻撃を受け、空母4隻や多数の航空機を失うという大損害をこうむりました。
8月、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐって日米の攻防戦が始まりました。
日本は次々に兵力を送りましたが、物量にまさるアメリカ軍を破ることができず、翌1943年2月、撤退に追い込まれました。
この半年間の間に、日本軍は餓死を含む2万1千人の戦死者を出します。
1944年、制海権、制空権を完全に掌握したアメリカは、6月マリアナ諸島のサイパン島に上陸、7月には日本軍守備隊を全滅させました。
この戦いでは、住民が崖から飛び降りて自決するなど、日本はおよそ4万人の犠牲者を出しました。
サイパン島の占領によって、アメリカ軍は、日本本土を空襲できる航空基地を確保することになりました。
1945年3月9日夜から10日にかけて、東京は、B29爆撃機、300機以上による空襲を受け、下町地域が焼夷弾で焼き尽くされました。
この無差別攻撃による死者は、およそ10万人にものぼるといわれています。
国民の生活はどんどん悲惨な状況になっていきます。それが、ポイント(3)「国民生活の状況・敗戦」です。
第一次世界大戦の頃から、戦争は総力戦といわれるものになっていました。日中戦争とともに、国民を戦争に動員する取り組み、また、戦時経済統制が強められました。
年表を見てください。
1937年には企画院が設置されました。これはいわば、物も人も金も戦争最優先という仕組みを取り仕切ったところです。
ここが1938年の国家総動員法を立案しました。
そのもとで1939年に出された国民徴用令は、商業や軽工業など平和部門の労働力を、軍事産業、重工業に強制的に移すものでした。
また1943年の学徒出陣とは、学生に認められていた徴兵猶予を廃止することで、この年だけで約10万人が軍隊に行っています。
勤労動員は、中学以上の学校の学生・生徒が常に軍需工場などに配置されることが決められたもので、その数は敗戦時には、約193万人にも達しています。こうした中で、航空機、船舶などの生産は大きく伸びましたが、それは戦争のための経済でした。人々の生活に必要な物は圧迫され、生活の窮乏化が進みました。そして、食糧や生活必需品の配給制・切符制などが広がっていきました。
日本本土空襲が激しくなった1944年、大都市と工業地帯の児童を農村部へ移動させる学童疎開が始まりました。子どもたちを空襲などから守るためでした。
子どもたちは、集団生活を送りながら、勉強しました。
疎開した学童は、1945年には全国でおよそ46万人にのぼりました。
1945年3月、アメリカ軍は54万人という圧倒的な兵力で、沖縄攻撃を開始しました。
アメリカ軍の猛烈な砲撃、爆撃は、「鉄の暴風」と呼ばれるすさまじいものでした。
戦闘には、男子中学生が戦闘要員として、女子は看護要員として動員されました。
沖縄では、軍人、一般住民、それぞれおよそ10万人が犠牲となりました。中には、日本軍から渡された手榴弾などで集団自決に追い込まれた住民もいました。
1945年5月、ベルリンが連合国に占領され、ドイツは無条件降伏、日本だけが戦争を続ける状況となりました。
7月には、ベルリン郊外ポツダムで、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳会談が行われました。そして、アメリカ、イギリス、中国の名で、日本の降伏を求める「ポツダム宣言」が発表されたのです。
しかし、日本政府はポツダム宣言を黙殺します。
アメリカは、日本が降伏を拒否したとして、8月6日、広島に原子爆弾を投下、広島の市街地は、一瞬にして壊滅しました。
その3日後には、長崎にも原子爆弾が投下されました。2発の原子爆弾によって、広島、長崎合わせてこの年の内に20万を超える人々が亡くなりました。
8日、日本と中立条約を結んでいたソ連が対日宣戦を通告。翌9日に、満州や朝鮮、樺太への攻撃を開始しました。満州に住んでいた日本人の多くは、混乱の中、着のみ着のままで避難しなくてはならず、このため、後の残留孤児などの問題が起こりました。
8月9日から10日にかけての会議で、ポツダム宣言の受諾が決定されました。
15日、戦争の終結が、天皇の肉声による玉音放送によって国民に知らされました。
この戦争の犠牲者は、日本は、軍人民間人を合わせておよそ310万人でした。アジア各地域の被害も深刻ですが、正確な統計資料が残されていないため、各国政府の公式発表をもとにしたおおまかな見積もりになります。それらを合計すると1900万人以上という数字があります。
最後に、この戦争の名称を考えてみましょう。
当時の日本政府は、日中戦争以降の戦争を「大東亜戦争」と名づけました。
現在の日本では、真珠湾攻撃から始まったアメリカとの戦争として、この戦争を「太平洋戦争」という名前で呼ぶことが多いのですが、この名称は、戦後アメリカが広めたものです。
ただし、太平洋戦争という呼び方では、今回見てきたような東南アジアや中国での戦争を見落としがちになります。そこで最近では、「アジア・太平洋戦争」と呼ぶことが多くなっています。
多くの国民が戦争経済に苦しめられ、空襲などで犠牲になって、日本は敗戦を迎えました。次回は、この悲惨な戦争の後、日本がどう変わっていくのかをみていきましょう。