第11回「今月の小僧」 山宮正さん

放課後の遊び場は駒沢公園
今でも本籍地は目黒区柿の木坂。東根小学校から目黒十中と、地元の学校に通った。小・中学校の大先輩には、松島トモコ、坂本九、寺尾聡などがいる。小学校の頃、東京オリンピックのために駒沢公園が建設された。この公園は、開会中はもちろん、閉会後も公園に一番近い小学校である東根小の児童にとって、かっこうの遊び場となった。ちょうどローラースケートが大ブームで、毎日暗くなるまで遊びまわっていたという。
チャンピオンスポーツ校で出会ったサイクリング
中学時代は、セッターの猫田に憧れてバレーボール部で活躍する一方、軟式野球にも熱中するなど、いわゆるスポーツ少年だった。しかし、入学した東海大学付属相模高校は、超有名なチャンピオンスポーツ校。体育会系のクラブに入ったら、それ以外のことは一切できなくなるのが目に見えていた。そこでマスコミ志望でもあったことから新聞部に入部。
それでも根は運動好き、次第に体を動かしたい気持ちが募り、悶々とした日が続くようになる。担任の先生からも「どこでもいいから運動のクラブに入れ!」とはっぱをかけられた。とはいえ、野球部は原辰徳を擁して甲子園に連続出場するほどの強豪。柔道も1年先輩には、後に金メダルを獲得する山下泰裕がいるなど、主なクラブは途中入部などとてもできないレベルばかり。
そんな時、クラスメートからサイクリングの写真を見せられる。自転車で山の中を走りまわることがすごく楽しそうに思えた。自分の持っている5段変速の自転車でもハンドルさえ付け替えればなんとかいけそうだと、サイクリング部の仲間と丹沢へ。
こうして出かけた最初のサイクリングツアーが、彼の自転車人生への第一歩となる。
駒沢公園横の自転車店がロードレース転向へのきっかけ
とにかく楽しかった。意外にも全身を使う運動であることも知った。行って帰ってきた時の達成感もたまらなかった。
最初のサイクリングで自転車の虜になり、なんとか10段変速を手に入れようと、冬の間地元で郵便配達のアルバイトをすることにした。駒沢公園界隈を自転車で廻るうち、公園横にあるサイクルセンターエノモトを知る。
エノモトサイクルには、店主である榎本兄弟の人柄を慕って、多くの自転車好きが集まっていた。いつしか彼も常連となり、そこでフランスの雑誌に紹介されていたツール・ド・フランスの写真に目を見張る。サイクリングとは全く違う自転車レースの世界があることに驚くと同時に、大いに興味を掻き立てられた。とにかく「カッコよかった」のだ。榎本さんからも「おまえに向いてるよ」と言われ、ますますその気になってしまう。
当時エノモトサイクルに集まる年齢も職業もばらばらな仲間たちは、駒沢公園を舞台にした自転車レースで盛り上がっていた。そんな仲間とのレースに参加すると同時に、本格的なロードレースのトレーニングに挑戦するようになる。
大学は、自転車部に入学(?)
大学の入学式の日、自転車部へ直行し入部を決める。大学での部活とエノモトサイクルでの交流を通じて実力をつけ、インカレで活躍し、神奈川県の代表として関東大会や国体でも活躍するようになる。神奈川にはミヤタ工業という自転車メーカーがあり、そこの実業団チームが最強を誇っていた。県の代表も彼以外はほとんどミヤタチームのメンバーだった。
そろそろ就職という時にも、ミヤタチームとの交流が役にたつ。元々マスコミ志望で広報学科に入学したが、自転車一筋の大学生活で、放送や広告関係への就職はなかなか難しいと自覚していた。それ以上にもっと自転車で強くなれるという自負もあった。
駒沢公園での自転車レース仲間にもミヤタ工業の人がいて、その推薦を受けることもできた。
そこでミヤタ工業に入社し、働きながら自転車競技を続けることを選ぶ。
卒業旅行で見たイタリアのレースが次なる人生の目標を与えた
ちょうどその頃から始まった大学の卒業旅行で、本場の自転車レースを見ようとヨーロッパへ。 イタリアで見た屋内のトラックレースに度肝を抜かれた。自分がこれまでやっていた日本の自転車レースとは、同じ自転車を使うということ以外、全く別のものといってもよいほど違っていたのだ。
「ここで、ヨーロッパで走りたい」と、図らずも入社した途端、海外を目指して会社を辞めることを考える日々となってしまった。それにはまずお金を貯めること。食費を最低限に切り詰め、寮を出て実家からの自転車通勤に切り替えて、交通費を浮かすことにする。昼食は1食90円、会社から支給される正規の電車賃もバス代もすべて貯金に廻した。
アメリカからオランダへ
なんとか留学資金もたまり、アメリカへの留学を決める。すると、自転車レース用のウエア会社パールイズミからアメリカでの営業サポートをしてくれれば経済的な支援をしても良いとの申し出を受ける。渡りに舟とその申し出を受け、意気揚々とコロラドに向けて旅たった。まず大学付属の英語学校で英語を学び、自転車のトレーニングにも熱心に取り組んでいたが、冬になり自転車にも乗れず、高い学費に資金も底を付 いてきた。一旦帰国して短期でお金をため、春からもう一度出直そうとパールイズミの担当者(現社長)に相談すると、「それならオランダに行かないか」との申し出を受ける。ヨーロッパでレースに出ながらヨーロッパ市場の視察をして欲しいとのことだった。もともと「いつかはヨーロッパ」と思っていた彼にはまたとない話だった。
こうして、オランダでのレース生活が始まる。
いよいよプロのロードレーサーに
地元のクラブにも受け入れられ、順調にレースに参加する日々が続いていたが、皮肉なことに、パールイズミのウエアがロス五輪後のアメリカで大人気となり、生産が追いつかずヨーロッパ向けの供給は中止となってしまう。日本への帰国も考えたが、地元のレース仲間から「オランダにある日本の会社で働けばいい」とアムステルダム行きを進められる。
早速アムステルダムのワールドトレードセンターを訪ね、日本商工会議所のオフィスで事情を話すと、オランダ日通を紹介される。その足ですぐ近くの日通オフィスに行き、当事のオランダ日通の社長との面接に臨む。「自分は自転車をするためにオランダに来た」とありのままを伝えると、その意気を感じてくれたのかその場で採用が決定。労働許可が下りたらすぐに働いて欲しいとのことだったが、自転車チームの仲間に州議会の大物がいて、通常2~3ヶ月かかる労働許可が2日で下り、アムステルダムへ出向いてから3週間で、晴れてオランダ日通の正社員となった。
それから6年あまりサラリーマンをしながら自転車レースに出る日々が続いたが、いよいよプロになることを決意。オランダのプロチームからも誘いがかかる。ヨーロッパのプロチームは、強い選手だけでなく個性的な選手を揃えて観客を楽しませることを第一に考える。日本人で、体格的にもヨーロッパの選手とは大きく違う彼は、いわばチームのマスコット的存在として魅力的だったのだろう。
それから5年間プロとして活躍し94年に引退。それまで右肩上がりだった成績が、この年はじめて下がった。すでに30歳を過ぎていた彼には、すでにピークを過ぎたことが分かった。引退を発表すると、ヨーロッパ各地から手紙や電話で「何故やめるのか」と、引退を惜しむ声がたくさん届いたが、「そう言われる間にやめたい」という決心は変わらなかったという。
駒沢からベルギーへと続く人との縁
駒沢公園横エノモトサイクルの榎本兄弟、そこに集まる自転車好きな仲間たち、ミヤタ工業自転車チームのメンバー、パールイズミの担当者(実は現社長!)、オランダの自転車チームの面々、オランダ日通の社長や従業員たち、ヨーロッパのロードレースファン、これらの人たちとの素晴らしい出会いが、彼を駒沢からオランダへ、そして現在の住居があるベルギーへと導いたのだろう。そして、これらの出会いをきちんと次につなげることができたのは、彼の人柄と自転車にかける情熱があればこそ。たった一人でオランダに渡り、プロとしてロードレースに出る。これまでの日本人が歩んだことのない道を行くには、多くの困難があったと思われる。しかし、彼の話の中では、素晴らしい人々との出会いと偶然のような出来事が語られるだけ。そこにもまた彼の人柄がにじみ出る。
引退後は、日本学生自転車競技連盟「欧州遠征事業」など、若手のロード選手の育成に力をそそいで来た。すでに何人かプロとしてヨーロッパで活躍する選手も出てきているとのこと。これからも、一人でも多くの日本選手に「本当の自転車レース」を知ってもらい、世界に通用する優秀な選手を育成していきたいという。
人との出会いをきちんと結果に繋げる彼の力が、若手の育成にも大いに発揮されることは間違いないだろう。

左上:駒沢公園にて
右上:サイクルセンターエノモトの榎本兄弟と
左・右下:レース参戦中の山宮さん


インタビュアー:堀込多津子

プロフィール

山宮正 山宮正(さんぐう ただし)
元自転車ロードレースプロ選手。ベルギー在住自転車競技有資格コーチ。
世界の自転車レースを目指し83年渡米、コロラド州ボウルダーで活動後、84年オランダに渡り、以後活動の拠点は欧州に。 90年プロに転向し、94年までオランダのプロ・ロードレースチームに在籍。90年世界選手権日本代表。95年にスポーツマネージメントオフィス「JAPAN SPORTS PROJECT」をオランダに設立。 日本の自転車競技選手のヨーロッパでの活動のマネージメントと指導、ベルギーのスポーツウエアーメーカー「VERMARC SPORT」の日本輸出仲介業を主な業務としている。

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