南相馬市では小学生は制服だった。こちらは私服だ。指定の道具も全部違う。夜になって「お母さん、明日、給食着入れがいるんだけど」「音楽バッグがいるんだけど」「国語ノートが」「裁縫道具」「名札」と言い出せば、そのたびに右往左往する。どこに買いに行けばいいのか分からない。市役所の避難者相談窓口は5時で終わりだ。翌朝、子供の登校前に何とかするしかない。途方に暮れる。そんなストレスが、次から次へと襲いかかってきて、心の休まる時がない。「普通に生活していれば何てことないもの」が突然牙をむく。
そんな神経を張り詰めた生活をしていると「小さな無神経」が大きくこたえる。例えば、小3の息子の授業で「P市のお祭りについて書いてみましょう」と宿題が出る。もちろん、避難してきた木下さん一家は群馬県P市のお祭りを知らない。福島からの避難者がクラスにいると教師は知っているのに、何でわざわざそんな宿題を。
教師に悪気はないのかもしれない。単なる「うっかり」なのかもしれない。聞くとすぐに「福島のお祭りでいいです」と訂正したから、きっとそうなのだろう。
しかしそんな時、木下さんは重い孤立感と無力感を感じるのだ。
向こうに戻れば友達もいるし病院も知っている
木下さんの話は続いた。
家族の連絡用に携帯電話を増やしたら、携帯代金が月1万円から4万円に増えた。福島では灯油で暖房をしていたので月3000円だったのに、こちらはガス代が8000円だ。
2時間の話の間に「もう、疲れちゃった」という言葉を何回聞いただろう。
「どうにかして帰れるようにしてちょうだいよ、もう」
木下さんは誰に言うでもなくひとりごとを言って、弱々しく笑った。
「向こうに戻れば、相談する友達だってたくさんいるし、病院も知ってるんだから」
お迎えの時間になった。もう行かなくてはいけない。私は東京から持参したブルーベリータルトの箱を手渡した。木下さんは深々と頭を下げ、律儀にドリンクバー代230円をテーブルに置いて、駆け足で去った。
私はしばらくテーブルに座ったまま呆けていた。あまりの問題の多さに、頭が混乱した。なぜこの人がこんなにつらい目に遭わなくてはいけないのか、どうしても理解を超えていた。
東京に戻る東武鉄道の中で、木下さんからメールが来た。
今日は話を聞いてもらってありがとうございました。あのあと、親子3人でブルーベリータルトをまるごと全部食べました。おいしかったです。
そう書かれていた。
(登場人物は仮名です)
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