ウオッチング・メディア

「放射能いじめ」に傷つく親子

福島に帰れない生活で高まる孤立感と無力感

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 「向こう(南相馬市)にいたら『子供たちを(線量の高い)ここに置いていいのか』と悩むでしょう。でも、避難したらしたで、またこちらで悩むんです。結局、うちの子に限らず、福島の子にはこれが一生ついてまわるんだなあって・・・」

 弾むように元気のよかった木下さんの声が少し涙声になった。あ、と思った瞬間、笑ったままの目から涙がぽろぽろとこぼれた。彼女は灰色のパーカーの袖で顔を拭った。

 「・・・私1人で子供2人を守りきれるのか・・・自信がありません・・・」

福島ナンバーで走るのが怖い

 今いるP市には、夫の兄が住んでいる。縁はそれだけだ。知人は他にいない。2回目の水素爆発の翌日、去年の3月15日、軽ワゴン車に家族6人を詰め込んで、故郷の南相馬市を脱出した。実母も夫の母もいた。2人ともてんかんや喘息、脳梗塞、高血圧など持病があった。

 当時、南相馬市は高線量のために物流が途絶えていた。2人の持病の薬も切れた。もう限界だった。雨の中、行くあてもなく、車で出発した。ホテルも一杯で休憩すらできない。泥のように疲れきったまま、13時間かけて群馬県に入って、やっと薬が手に入った。

 週末には帰ろう、月末には、1学期の終わりには、いや夏休みの終わりには、と故郷の線量が下がるのを待つうちに、10カ月も経ってしまった。同じように避難してきた仲間はほとんどが力尽きて帰ってしまった。

 「本当は、今でも福島ナンバーで(群馬を)走るのが怖いです」

 木下さんが言った。温かいドリンクを飲んで、少し落ち着いたようだった。

 「駐車場に車を入れると、子供が『ママ、福島って書いてあるよ』と大きな声で言うのが聞こえるんです。子供がそう言うのは、大人がそう言っているからですよね」

 「どうしてテレビは『福島』第一原発事故って言うんでしょうね。福島は何も悪いことをしてないのに。ちゃんと『東京』電力って言ってほしい」

 私は言葉が出なかった。

東電のおカネなんていらない

 やっと分かってきた。表情も言葉も元気がいいが、木下さんは疲れきっているのだ。取材記者である私を前に、元気そうに振る舞っているだけなのだ。無理もない。生まれ育った南相馬市をある日突然無理矢理追い出され、見知らぬ土地で子供2人を育てる生活が10カ月も続いているのだ。

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