日能研教務部算数科 真藤 啓
本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものとそろえ、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。
けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。
『進学レーダー』12月号(みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 二枚の毛布」
『キッズレーダー』12月号(日能研) 算数エッセー「おいしい算数 魔女ノンカン」
『学校選択』12月号(全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて 早すぎた数学」
アーベルはノルウェーのフィンドーで生まれました
ニールス・ヘンリック・アーベルは1802年8月5日、ノルウェーのクリシティアンサン監督官区のフィンドーの牧師館で生まれました。父セレン=ゲオルグは牧師で、母は旧姓シモンセンというリーソルの商人の娘で、名はアンヌ=マリーといいました。
父は祖父の跡を継いで、1803年にイエルスタドの牧師に任命されました。アーベルが中高一貫校の大聖堂学校(カテドラルスクール)に通いはじめた13歳の11月まで父が教育しました。この学校に通って数年間はアーベルは数学もほかの教科も、普通によくできましたが、天才というほど特に目立った生徒ではありませんでした。ところが、16歳の夏にホルンボエ先生が新任講師として来てアーベルのクラスで週に2時間数学を教えたころから、事情が一変します。
数学を自分自身で論じ始めた
毎回、生徒自身で解くように代数や幾何のちょっとした課題を出しました。アーベルは、指示どおりに全く誰にも聞かず何も読まずに解きました。先生は、アーベルの斬新な解答を見て驚き、才能を認めて大いに励まし、それならばこれはどうかと、アーベル専用の問題を出すようになりました。アーベルは問題を見て数学の面白さに開眼しました。そうして、たちまちのうちに大学数学の基礎的な部分をマスターしてしまったのでした。次に、先生とともにオイラーの『(無限小解析)入門』、『微分計算原理』、『積分計算原理』を学び、その後、先生の助けを借りずに学習を続けるようになってしまいました。ラクロア、フランクール、ポアソン、ガウス、ガルニエ、ラクランジュの物を好んで読み、やがて『エコール・ポリテクニークの雑誌』や、『ジャルゴンヌの雑誌(フランスの数学雑誌)』など当代の最先端の数学にも目を通すようになりました。
ホルンボエ先生はアーベルが卒業後も生涯にわたって長くアーベルと文通していますが、文末に、「あなたの友ホルンボエ」と書き、アーベルもまた、「あなたの友アーベル」と書きました。これは、ホルンボエ先生は中高の教師におさまらずに数学者を目指したので、師弟であることには変わりはないものの、数学者どうしであるということを強調したことによるものでした。また、すでに数学の才能が現れたアーベルが将来、大数学者になると信じていました。ホルンボエ先生は、お金の面やその他で、アーベルを支えた人でした。またアーベルは若くして亡くなったので、のちにアーベルを伝える人ともなりました。この当時のことを先生は「彼はすでに数学のさまざまな分野を自分自身で論じ始めた」と言っています。
アーベルにはよい味方が少なくありませんでしたが、特筆すべきなのは高校の先生のホルンボエ、オスロ大学教授のハンステン、クレレ誌を発行したクレレの3人でしょう。
ホルンボエについて
ノルウェー王国大使館広報部の訳によると、
「数学界に大きな影響を及ぼしたニルス・ヘンリック・アーベルの短い生涯」
Haakon Fenstad著"Niels Henrik Abel: A short but influential life"
(オスロ大学刊「Appollo」誌1996年版 抄訳:ノルウェー王国大使館・広報部)
アーベルは13才の時にクリスチャニア(現オスロ)のカテドラル学校に入学した。16才の夏、新任の講師ベルント・ホルムブーに出会い、数学の才能が一気に目覚めることとなる。ホルムブーは創立間もないクリスチャニア大学(現オスロ大学)の天文学教授のハンステンの助手を務めていたが、1818年にカテドラル学校の講師になり、アーベルに出会った。ホルムブーはアーベルの類稀れな才能をいち早く見抜き、通常の授業のほかに個人指導を申し出て、アーベルを数学の道へと導いた。その後もアーべルの親しい友人として、その人生に大きな影響を及ぼした。
(詳しくはリンク先で)
とあります。また、三重大学教育学部教授の蟹江幸博(かにえ ゆきひろ)氏のサイトによると、
ホルムボエ(Bernt Michael Holmboe, 1795.3.25-1850.3.28).
ノルウェー、ヴァングに生まれ、クリスチャニア(現在はオスロ)に死す。
牧師の息子として生まれ、クリスチャニアの大聖堂学校を卒業。短い軍役の後天文学者C.ハンステンの助手となり(1815)、母校の教師となり(1818)、そこでアーベルに数学を教える。アーベルの大学の学費を援助。後、クリスチャニア大学の講師になるが(1826)、職がなくて困っていたアーベルがつく可能性のあるポストだったことから、非難する人もいたが、アーベルはそんな感情を持たず、固い友情で結ばれていた。アーベルの死 (1829)後『アーベル全集』を編集(1839)。 1834年にクリスチャニア大学の数学教授になる。
TOSM--Teaching of School Mathematics
蟹江幸博(かにえ ゆきひろ )氏 (三重大学 教育学部教授)のHP
http://www.com.mie-u.ac.jp/~kanie/tosm/humanind/jinmeih5.htm#Holmboe
とあります。蟹江氏の記述は、科学者の人名事典で鳴るイギリスのサイトの次の記述が出典かもしれません。
科学者の人名事典(イギリスのサイト)(訳は真藤啓)
バーント・ミッシェル・ホルムボエ
生まれ:1795年3月23日ノルウェーの ヴァング
死亡: 1850年3月28日 ノルウェーのクリスチャニア(現在はオスロ)
バーント・ミッシェル・ホルムボエは、牧師の息子でした。彼はクリスチャニアの大聖堂学校(カテドラルスクール)を卒業して、そして1814年にスウェーデンで短い間軍役ですごしました。
1815年、ホルムボエは、クリスチャニア(現オスロ)大学の天文学者Cハンステンの助手でした。
1818年に、彼はクリスチャニアの大聖堂学校(中高)の先生になりました。
ホルムボエはアーベルの数学教師でした。そして、彼がアーベルの大学教育の費用を払うのをハンステンなどに呼び掛けて支援しました。
1826年に、ホルムボエはクリスチャニア大学講師になりました。
この職は、ラスムッセンが退職したので大学ではホルムボエかアーベルのどちらかにしようかと迷いましたが年長者のホルンボエにしました。それはアーベルが留学中に決めました。アーベルがつく可能性もあったかもしれないことから、ホルムボエは辞退すべきではなかったかと批判する人もいますが、しかし、アーベルとホルムボエの友情は変わりませんでした。
1826年から1850年まで、ホルムボエはクリスチャニア大学と陸軍士官学校で教えました。
1834年に、彼は大学で純粋数学の教授職に任命されました。
ハンステンがシベリアへの地磁気遠征に行った1828~30年の間、ホルムボエはハンステンの代わりに天文学の講義をしました。
アーベルの死後、ホルムボエは1839年にアーベルの全集を編集しました。ホルムボエは、教科書も書きました。
(文 J JオコナーとE Fロバートソン)
(注)
ホルンボエの表記については、私自身はホルムボエがよいと思いますが、多くの文献ではホルンボエ、またはホルムボーとなっています。また、ノルウェー大使館ではホルムブーとなっています。
ここでは、ベースとした出典を尊重してホルンボエで書きましたが、直接引用したものはそのままにしました。
高校時代に書いた論文
アーベルは高校のころから、たくさんの小論文を書きました。中でも、五次方程式の解法はアーベルの心に立ちふさがっていた重要なテーマです。五次方程式の解法は、1545年にカルダノの『大いなる技法』によって、三次方程式、四次方程式の代数的解法が公表されてから300年近くの間、数学者や数学愛好者を挑発していました。最近で言えば、少し前の「四色問題」や「フェルマーの最終定理」のようなものであったことでしょう。
アーベルはこの問題の解決を見出したと思いました。ホルンボエのすすめで、オスロ大学のハンステン教授に見せたところ、教授は、コペンハーゲンのデーゲン教授に送り、デンマークの王立科学協会に提出してほしいと頼んでくれました。
デーゲンはハンステン教授に「喜んで王立協会に提出しましょう。この研究は、正しいにしてもそうでないにしても、並外れた知性を示しています。ただし、その前にもう少し詳しい証明と、具体的な数字を含む実例を送ってください。」
オスロ大学のハンステン教授はこのあとも、家族ぐるみで、アーベルを支援する人となりました。
アーベルもまた、ハンステン夫妻を父母に対するように信頼しました。このデーゲンの返事について、ビエルクネスは著書『わが数学者アーベル』で、次のように書いています。
勇敢なアーベルの驚くべき知識と大胆な試みを大いに称賛したこのデンマークの数学者(デーゲン)は手紙の中で次のような注目すべきことを書きました。
「なお、アーベル氏には、この問題よりも解析学全体と力学とその応用に対して極めて重要な結果が見込まれる楕円超越関数を研究してほしいものです」と書き、楕円超越関数に関する自分の研究の一端も添えてありました。さらに付け加えて、
「解析学という一つの広大な大洋の広い領域へと導くマゼラン海峡を発見するでしょう」と書きました。
アーベルは一般の五次方程式が代数的に解けないことを証明したことで知られていますが、楕円超越関数の研究に関連しても多大な貢献をしています。事実、解析学という一つの広大な大洋の広い領域へと導くマゼラン海峡を発見したのです。このきっかけをデーゲンが与えてくれたということを指摘しているわけです。
五次方程式の研究は先行論文が少ないので、なかなか理解されないのです。また既に多くの人が、結実しえなかった人生を送ったのでした。楕円関数ならば、先行文献もあり研究した分だけ評価や理解がされやすいのでした。
アーベルはこの知らせに少しムッとして、とりあえず具体的な数値で検討した結果、自分の推論に誤りを見つけてしまったのでした。こうして最初の論文は失敗に終わりました。この当時書いたものはいろいろな欠陥や、時代遅れの方法も混じっていました。
これは、本格的な数学の学習をオイラーの書物で始めたことと無関係ではないと思われます。
オイラーは直観力が優れ、加えて暗算が得意であったため、あっと驚く魔法のような結論を引き出して書いていましたが、本人はしっかり確かめていました。したがって、オイラーのものを読むと、超特急で数学の高みに昇れるのですが、初心者がオイラーの書き方を真似ると、欠陥の多い論文になりやすいのでした。アーベルは、オイラーの論理を越えたような書き方が身についてなかなか直せなかったのでした。
アーベルの人生は貧困で始まって、貧困で終わりました
ところで、アーベルの父は貧しい村の牧師であったので、大変貧しかったのでした。アーベルは高校で教育費が無料で、しかも奨学金を得ていました。ところが父はアーベルが大学に入る前に亡くなったので、アーベルの家庭は生存が精いっぱいで、大学に通わせられる状態では全くなくなったのでした。
アーベルが入学準備試験に合格したとき、その才能がすでにノルウェーの数学者に注目されるようになっていましたので大学の宿舎の空き部屋に住めることになりました。ホルンボエのよびかけで、大学の多数の教授たちの個人のお金を出し合ってアーベルのために支援しました。
同じ宿舎に住んでいたラッシュ教授の証言によれば、アーベルは非常に貧しく、生活のための基本的な必需品すべてにわたって欠いており、アーベルは弟を招き入れ、2人で擦り切れた2枚の毛布を持っていたが、この毛布がたまたま洗濯中であるときには、この兄弟は毛布もなにもなしで寝たと伝えています。
英語版ウィキペディアでは
ニールス・ヘンリック・アーベル(Niels Henrik Abel)
http://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Henrik_Abel
「人生前半(Early life)」の項目の冒頭に
アーベルの人生は貧困で始まって、貧困で終わりました。
(Abel's life started in poverty and ended in poverty.)
とあります。
1821年に大学に入り1822年に卒業後、先輩の厚意で、コペンハーゲンで過ごし、ゲーデン先生に会い楕円超越関数に関して、語り合いました。
ところで、このときのことを伝える、ホルンボエにあてた差出日付が「年(小数部分もとって)」とありました。そのことを、ホルンボエは1823.567=1823年6月24日と計算して発表していますが、これについて、「わが数学者アーベル」では
ホルンボエは2重に正確ではありません。立方根を計算すると、1823.591=1823年8月3日となります。
この誤りが手紙を受け取った人によって、なされたというのは奇妙なことです。
とあります。
『近世数学史談』では
すでに書中に7月1日について書いてあり明らかに誤算がありました。
実は1823.5908=1823年8月4日であるといいます。
とあります。
どちらでもよいように思いますが、両者が1日違いになっているのが気になりました。
私、真藤啓がPC付属の電卓で計算すると、
6964321219∧0.33333333333333333333
=1823.5908275197127370603563699985
となりましたので、1823.591、1823.5908というのは先の両者とも一応正しいとして、
0.5908275197127370603563699985×365=215.65204469514902703007504945138→216日(PC電卓)
0.591×365=215.715→216日『わが数学者アーベル』
0.5908×365=215.642→216日『近世数学史談』
31+28+31+30+31+30+31=30×7-2+4=212(日 1月1日から7月31日までの日数)
216-212=4(日)で8月4日となり『近世数学史談』の方が正しいと思います。まあ大した違いではありませんが。ホルンボエにしてもあまり注意しないで書いたのでしょう。
コペンハーゲンでゲーデンや他の数学者を訪問してもどったあとアーベルはドイツとフランスで最高の数学者を訪ねるために、国に経済支援を申し込みました。「パリとゲッチンゲンで二年間、数学研究を続けるために、年に600ターラーの旅費を支給してください」と。大学評議会もこれを支持し認められました。ノルウェー初の国費留学生ときまりました。
2度目の論文を自費出版
彼は留学に先立って、2年間オスロにとどまりドイツ語とフランス語を学び、その後にドイツやフランスに2年間行くということになりました。言語を学んでいる間、1824年、彼の2度目の「五次以上の一般的な方程式を解くことの不可能なことの証明」を完成しました。記述にやや不備があるものの証明としてはほぼ完全なものでした。しかし、前の失敗の後だけに、自費出版をしなければなりませんでした。印刷代を節約するために、小さな字でなるべく短縮した文で、体裁もきれいなものにできませんでした。
これを、ガウスがちらりと見て、「よくもこんなものが書けたものだ。恐ろしいことだ」と言ったと、アーベルに伝えられ、アーベルは一生ガウスを憎んだといいます。
のちにこのときの論文が書きなおされて、クレレ誌に発表され正しいことが知られるようになり、アーベルびいきの人たちは「ガウスはひどい」ということが多いのですが、ガウス側にも弁解の余地がありそうです。
ガウスは、一般に五次以上の方程式は代数的に解けないことを知っていました。証明はしていませんでしたが多少の試行錯誤をして経験的に感じていました。経験的に感じていた人はガウスに限らず大勢いたと思います。そういうとき、代数的に解けないことを証明するという方向に意欲を燃やす人と代数的にではなくてもよいから解ける方法を目指す人がいてもよいはずです。
三次方程式ですら、代数的には還元不能に陥るのですから、五次以上の方程式の解が仮にあったとしても使い物にならないのだと想像できます。ガウスは、解析的に一般n次方程式はn個の解を持つことを証明していました。そうして、具体的数値の五次方程式を近似値を追い詰めて求める方法も知っていましたから、そうした方法を一般化すれば求められるのではないかと思っていました。それで無視したのでしょう。
アーベルの小冊子のタイトルに、「代数的に」が抜けていたのです。
また、このとき、アーベルが無名であって、他にも無名の者がしばしばわけのわからない論文を送りつけてきていましたから無視したのです。数年後にはガウスはアーベルの他の論文などを見て、アーベルを評価するようになっていました。しかし、そのことをアーベルは一生知りませんでした。
国費留学生となり、クレレと出会う
1825年9月の初めに、彼は政府奨学金を渡され海外に旅行することができました。
まず、コペンハーゲンに行きましたがゲーデンは亡くなっていました。しかし、ここで、フォン・シュミッテンからドイツのクレレの名を聞いて、クレレが書いた論文を見せてもらいました。そして、フォンの言う「あらゆる面で優れた人」クレレに会いたいと思いました。
ハンブルグを経て、ベルリンにつくと、アーベルはすぐにクレレをたずねました。ドイツの枢密顧問官である数学者クレレが、まだ新しい混乱状態の国の奨学生アーベルに初めて会ったとき、物乞いがきたと警戒しました。アーベルはこの訪問の目的がなんであるかを理解させるのに多くの時間がかかりました。当時工業学校の試験委員もしていたクレレは入学希望者かと思い直して「どの程度の試験を受けたいのか」と聞きました。
アーベルは「試験ではなく、数学をしに来ました」とやっと声を出しました。
クレレは、数学についてどんな本を読んでいるかとアーベルに尋ねました。アーベルは、数学の最も有名な書物をすらすらと答えたとき、しだいに、クレレの心は開きました。
アーベルはつい調子に乗って、「先日、お書きになった階乗関数の論文を拝見しました。だいぶ間違いもありますがなかなか面白いところもありました。」と言いました。
クレレは真っ赤になって一瞬緊張しました。それから、二人はまだ解決していない、あるいは、あまり深く取り扱われていない難問について語り始めたのでした。
アーベルは「五次方程式は一般に解くことはできないことを証明した」と言いました。そのころ、世界中でだれ一人解決できなかった問題だけに、クレレは「それはあり得ない」と言いました。そこで、アーベルは持っていたフランス語で書かれた論文を差し出しました。クレレはフランスにはいくつかの数学雑誌があるのに、ドイツにはまだ一冊もないので発行すべきだと思っていましたが、このとき、発行することを決意しました。
クレレに会ってから、アーベルは毎日のようにクレレを訪れました。
フランス語のアーベルの論文をクレレがドイツ語に翻訳して次々に発表しました。ドイツ語の数学の発表の場ができ、のちに『クレレ誌』はヨーロッパで最も有名な数学雑誌となりました。あわせて、ドイツ数学はフランスの数学を超えるようになりました。
クレレ誌が先にあってそれにアーベルの論文を載せたような表現の文献が多いのですが、事実は逆にアーベルがいたからクレレはクレレ誌を創刊したのです。
アーベルはドイツではガウスに会うことをせずに、フランスに行きました。
【注】そのころのノルウェー
1387年に黒死病(ペストのこと 体が黒くなって死ぬので黒死病と呼ばれていました)などによりノルウェー王家が途絶え、デンマーク配下となり、1450年より条約により従属化され、1536年には正式に独立を失い、デンマークの「州」の地位に落とされました。ナポレオン戦争でデンマークがナポレオン1世側についたため後敗戦国になり、1814年にノルウェー州はスウェーデンに引き渡されました。ノルウェー人はこの時、独立を願ったのですが、列強の反対により実現できませんでした。1818年にスウェーデンでは、ベルナドッテ朝が始まり、スウェーデン王国との同君連合が開始されました。同君連合とは、2つの国を一人の王が納めることを言います。
つまり、デンマークという国の「州」の地位に落とされていたノルウェーという国は、スウェーデンという国と同じ王を持つ「国」になったのでした。スウェーデンの国王がノルウェーの王を兼ねたといった方が近いかもしれません。
「新しい混乱状態の国」という意味は、当時のノルウェーのこうした事情をさします。
パリだより
1826年に、アーベルはフライブルグ、ドレスデン、ウィーンを経て、イタリアに入り、スイスを経てパリに来ました。7月より12月まで、パリにいました。学士院(コーシー)に論文を提出しましたが顧みられず、5ヶ月の滞在の間に、彼はフランスの主要な数学者に会いました。しかし、彼の仕事はほとんど理解されず、がっかりしました。
そのため、ホルンボエへの手紙には、フランスの数学者を片っ端からぼろくそになで斬りしています。
ルシャンドルは非常に愛想がいいが不幸なことに石のごとく老いている。
コーシーは×××でどうにもならない。しかし、今日、数学をいかに取り扱うべきかを知っている数学者は彼だろう。こちこちのカトリックで、数学者としては少し変だが、純正数学をやっているのは彼だけだ。
ポアソン、フーリエ、アンペールは磁気その他物理の問題に没頭している。
・・・・・・
などなど。
このころ、アンペールは数学はもうできあがっているという感じで見ていたのかもしれません。
12月末パリを去り、1827年1月より5月まで2回目のベルリン在留。行く時も帰りも会うべきだと思いながらついガウスには会わずに5月20日帰国しました。同年9月以降、大学から年額200ターラーの給費を受けた窮乏生活をしました。
(当時普通の大学卒の初任給が年額600ターラー位)
「楕円関数研究」の初めの7章はクレレ誌の第2巻、残りの3章は第3巻に載りました。
1828年ハンステン教授が旅行中の代理の講師(薄給)となります。
このとき、アーベルにとって一大事が起きたのでした。
シューマッハー編集の『天文報知123号』にヤコービが楕円積分の変形に関する1つの定理を証明なしに報告したのでした。それは先のアーベルの「楕円関数研究」でも容易に証明されるものでしたが、翌春の『天文報知127号』所載のヤコービの証明は楕円積分の逆関数とのその二重周期性とを用いたものでした。
寝耳に水と驚きました。独走していたつもりのマラソンで、すぐ後ろに走者がいたのでした。
アーベルがクレレ誌のために書くつもりだった楕円関数論続編の内容も、楕円積分の逆関数とのその二重周期性を用いたものでした。しかし中止しました。僅差で上回っていると思いましたが、それでは敵に塩を贈ることになり危険だったのでした。
チマチマ競り合うのではなく、一気に差をつけるようなものを書かなければいけないと思いました。
アーベルにとって、ノルウェーでは親友ホルンボエや旧師ハンステンが、ドイツではクレレが信じていたものの、当時の最高峰ゲッチンゲン(ガウス)に五次方程式でおり紙を付けられたわけでもなく、高等関数でパリ科学院(コーシー)にも黙殺されました。留学は、彼らに認めさせることによって、本国でも認めさせる目的もあったのでした。楕円関数は最後の切り札でした。
そこでアーベルは「楕円関数の変形に関する一般解の問題の解決」を書き、『天文報知128号』(1828年6月)に掲載されました。
別名「ヤコービ征服の論文」と言われるものです。この論文を早急に載せるようにシューマッハーに取り次いだのはハンステンでした。ハンステンの強い希望によって掲載されたのでした。
ヤコービも立派な人でした。
「アーベル氏にはとてもかないません。称賛する言葉もありません」と敗北宣言をします。
「私には批評もできない、大論文」(日本版ウィキペディア)
「これは私自身の仕事を超えており、同じく私の称賛を超えています」(訳 辻雄一氏)
「我の及ばざるところ、賞讃するに辞なし」(訳 高木貞治氏)
ヤコービは1804年生まれなので、アーベルよりも2歳年下です。ユダヤ系のドイツ人で1827年にケーニヒスベルク大学で数学の員外教授となり、1829年には正教授となった人です。つまり、このときはまだ員外教授ですが、すでに、学会に認められていましたので、この人が敗北宣言をしたことで、アーベルの評価が上がりました。
ヤコービはさらに、パリ科学院にアーベルが出した論文について「このような大発見を2年前に報告されながら注意を惹かなかったのはどういうことか」とルシャンドルに抗議してくれました。失われた論文はコーシーの手元で発見されましたが、その後、コーシーの亡命、ルシャンドルの病死などあり、1841年になってやっと出版されています。
1829年、アーベルはフローランドの鉄工場主スミスの家にあり、結核で4月6日歿(ぼっ)します。享年27歳。
クレレは貧しいアーベルのために職探しに奔走しベルリン大学教授の職を見つけ、手紙で知らせましたが、アーベルは見ることなく二日前に死んでいました。
死後の1830年には、フランス学士院数学部門大賞を受賞しました。ノルウェーが世界に誇るアーベルの業績は解析・代数学にまたがる当時の最高峰で、後の数学の発展に大きく寄与しました。
ノルウェー国は、アーベルをたたえ、切手や紙幣のモデルにしていましたが、生誕200年を記念して2002年から「アーベル賞」を設立しました。このことにより、これまで、フィールズ賞が「数学のノーベル賞」と言われていましたが、フィールズ賞と違って受賞の条件や賞金額がノーベル賞に準じていますから、今後は「アーベル賞」がそう呼ばれるかもしれません。
生前アーベルを認めなかったとされるガウスは、アーベルの死の知らせを聞いたとき、「アーベルの生涯に触れたものがあれば知らせてほしい」と言ったと伝えられています。ガウスは1828年頃からアーベルを評価するようになっていたようです。
ホルンボエがアーベルのものを整理して出版しましたが、のちにシロー群で知られるルートヴィヒ・シローやリー群で知られるソフス・リーが再編集して出版しました。
また、シローはアーベルの通った高校、大学の図書館の貸出簿を調べ、アーベルの借りた本を日付順に調べ、アーベルがどんなことをどんな順に学んだかを調べました。今日のアーベルの伝記はシローの調べたものがもとになっています。
シローとリー
ルードヴィヒ・シロー(Peter Ludwig Mejdell Sylow,1832年12月12日-1918年9月7日)は、シロー群で知られるノルウェーの数学者です。クリスチャニア(現在のオスロ)生まれ。クリスチャニア大学教授。群論の発達に貢献。1872年、シローの定理を発表。ソフス・リーら、ともに、アーベルの論文を編集。
マリウス・ソフス・リー(Marius Sophus Lie,1842年12月17日-1899年2月18日)は、リー群で知られるノルウェーの数学者です。リーはアーベル賞を最初に創設しようと考えた人です。
1843年 牧師の子として生まれる。
1872年 クリスチャニア(現在のオスロ)大学にて学位取得し、教授に就く。
1886年 ライプツィヒ大学教授に就く。
1899年 クリスチャニア大学教授に就任。悪性腫瘍のため死去。
シローとリー 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーベル賞
アーベル賞は、数学における傑出した業績に対して贈られる国際的な賞です。
「根本的な問題の解決、重要な新技術や原理の開発、新たな研究分野の開拓など、数学分野への貴重な貢献」をたたえるものです。
賞金は600万ノルウェークローネ(約1億円)です。
アーベル賞を最初に創設しようと考えたのは、ノルウェーの数学者ソフス・リーでした。しかし彼の死後、この計画は立ち消えになってしまいます。アーベルの生誕100年であった1902年、国王オスカル2世は、アーベルをたたえる賞の創設に興味を示しました。ところが、1905年にノルウェーとスウェーデンの連合が解消されたため、この計画もやはり中止されてしまいました。
アーベルの生誕200年である2002年に向けてアーベルの名前を冠した主要な数学の国際賞を創設する構想が、再度ようやく持ち上がったのは2000年8月になってからでした。
【蛇足1】
アーベルの在学中に数学教員某が体罰によって、一生徒を死に至らしめ、即時に罷免(ひめん)され、その跡に赴任したのが同校出身のホルンボエであるとする説(『近世数学史談(高木貞治 岩波文庫)』)もあります。
【蛇足2】
「私はいます。」 アーベルの大ぼけ
大学のスヴェルドルブ教授の講義中、突然席を立ち、「私はいます」と大声で繰り返しながら、戸口に走ったと伝えられています。
本稿のためのおもな参考文献
「わが数学者アーベル(C.A.ビネルクネス 現代数学社)」
「近世数学史談(高木貞治 岩波文庫)」
ガロアは、1811年10月25日、パリ近郊の小さな町ブール=ラ=レーヌで生まれました。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時36歳で、公立学校長でありながら、王や教会の権威を認めず理性を重んじるという人で、また、即興で、コウプレット(2行連詩)を作るのが得意でした。母アンドレ・マリー・ドマントは近所に住むパリ大学法学部教授の娘でした。
父母はともに当時の最高の教育を受けていましたが、数学について、特別の才能の記録はありません。もちろん、特に劣っていたという記録もありません。
ガロアは、17歳から、20歳で亡くなるまでの4年間で優れた数学の研究を残しました。
『学校選択』では、小学生のころはこうして過ごしたのだろうと想像されますとして、小学校に入る前から、1から100以上は数えられたので、小学校に入ると「1から100以上は数えられる人、手をあげて」と問われるのを待っていましたが、そういう機会もなく過ぎました。
各学年の初めに教科書を渡されると、各教科とも小1時間ほどですべて読み終えました。45分のテストは数分で解き終えました。ですから、授業はだいたい退屈でした。2年生のとき、9時から4時間たつと1時になるというのを習いました。9+4=1 という感じかとても面白く、「自分だけの作り算数」として、「5時間時計のたし算」なども考えました。
3年生のあるとき、先生が「87-38のように一の位が1小さい数をひくと、答えの1の位は9になる」と教わりました。それまで、ひけないときはとなりから10借りてきて……と覚えていたので、何と簡単なのだろうと頭に強い衝撃を感じました。
それは「算数はまとめて考えれば簡単になる」ということを知った喜びでした。
そうして、このときも、「一の位だけ」の「自分だけのたし算ひき算」も考えました。また、
1、1、1、1、1、1、1、1……
を次々にたし算していくと、
1、2、3,4、5、6、7、……
を次々にたし算していくと、
1、3、6,10、15、21、28、……
となることなどの計算をして遊びました。
自分はほかの人より、少し算数に才能があるようだと感じていました。だからといって、それほど夢中で研究するということはありませんでした。
と書きましたが、このように書いてある文献はありません。実は私の小学校の頃のことを書いてみたのです。
そもそも、ガロアは小学校に通っていません。小学生に当たる年齢のころは、すべて母親が、主にギリシア語、ラテン語を教えました。実際には天才ガロアのことですから、もっとわけのわからないことすごいことを考えたと思います。インドの天才ラマルジャンを見出した、ケンブリッジ大学教授のハーディなどは2歳で100万まで書いていたと伝えられます。1から100万まで1個書くのに1秒かかったとして、275時間かかるので、ちょっと信じられませんが、100万が書けたということなら、あるかもしれないすごいことです。しかしあまりすごすぎても、イメージがわかないし共感も得にくいと思い、レベルを下げてみたわけです。
算数も母から習ったという文献は『新しい宇宙館(著ホイル 訳和田昭允他 講談社ブルーバックス360 1978年)』のみで、ここでは、ガロアがどのようにして数学に堪能になったかとということについて長々と述べていますが、これはホイル自身の思い出話です。これについてホイル自身が、「この個人的な体験を紹介したのはフランスの数学者エヴァリスト・ガロアの不可解な死に光を投げかけるものと信じているためである。」と述べています。
さて、12歳(1823年10月6日)のとき、フランス一の名門リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王学院)に入学しました。同校は当時は6年制の中高一貫校で、ガロアはそこの寄宿生になりました。藤原正彦氏の『天才の栄光と挫折』によると、同校には現在、高校生(15歳から18歳まで)とグランゼコール受験生(18歳から20歳まで)が学んでいるようです。
同校は
シャルル・ボートレール フランス近代詩の父
ビクトル・ユーゴー 小説家「レ・ミゼラブル(ああ無情)」
ドゥニ・ディドロ 博覧強記の作家・思想家(本稿既出)
モリエール 劇作家
ロマン・ローラン 小説家「ジャンクリストフ」
ジャン=ポール・サルトル 哲学者
ヴォルテール 哲学者・作家
ロベスピエール 政治家 など多数の有名人を輩出しています。
この学校は、保守的な学校でした。
鉄格子のせいで、牢獄に見えはするが、勉学の情熱、良い成績を得ようとする情熱、自由主義思想の情熱、革命と帝制の思い出、政党王党派の反動に対する憎しみと軽蔑が渦巻いている。
『ガロア(著デュピュイ 訳辻雄一 東京図書)』
陰気くさい恐怖の空気が立ち込めていた、まるで監獄のようだった。いや実際監獄であった。
『数学を作った人々(著べル 訳銀林浩他 東京図書)』
ガロアは初めのころは成績が良かったのですが、特に母から学んでいた、ギリシア語やラテン語では何度も賞をとるなどしています。学年が進むにつれて、学校の古い体質にイライラして、学力にムラができて(中学)4年生のとき落第しました。そのころの先生ベルニエは一貫して、もっと体系的に学ぶように忠告しますが、ガロアは無視します。
不足単位だけ履修することになり、時間ができたので、上のクラスで2年間で学ぶルシャンドルの書『幾何学の基礎』を読み2日間で読み終えたと伝えられています。定理を読むと同時に証明が分かり、証明を読む必要がなかったので早く読めたのでした。普通は、証明を読むのに多くの時間がかかりますがさすがに天才ガロアです。
1年早く、フランスの最難関大学エコール・ポリテクニークを受けますが失敗します。基礎知識の取りこぼしがあったように思われます。頭が良すぎて雑な学び方をしてしまったのかもしれません。
上のクラスの特別補講に出て、名教師リーシャールに出会い、ラグランジュの書『代数方程式の解法』などを学び、リーシャールは、「エコール・ポリテクニークは無試験でガロアを受け入れるべきだ」などと言ったので、舞いあがりこのときから数学に狂うほどに熱中するようになっていきます。
論文を学会(パリ科学院)に提出しましたが理解されず、紛失されたと思われていました。当時世界一の数学者といわれていたのはドイツのガウスですが、フランスではフランスのコーシーが世界一と言っていました。そのコーシーが理解できなかったのでした。まったく新しい理論だったので、わかりやすく書く必要があったのですが、わかりやすい書き方をしっかり学んでいなかったと言えるのかもしれません。
一方、町長だった父は2行詩を作るのが好きでした。その詩をまねて、悪ふざけに改作したものが出回り、父の作と言いふらされ、父は自殺しました。その直後、心に痛手を負ったまま、エコール・ポリテクニークを2度目の受験をします。口頭試問は、かつて3秒くらいで読み飛ばしたことのある対数の問題でした。「これは自明ではありませんか」と答えると、「自明ではないとして答えなさい」と言われ、持っていた黒板消しを試験官に投げつけたというエピソードがあります。このエピソードはかなり有名ですが、未確認の言い伝えにすぎないともいわれています。エコール・ポリテクニークは2度しか受験できない決まりになっていましたので、エコール・ノルマンに進みます。この大学は今は難関大学ですが当時は格下の大学とみられていたようです。
論文無視、父の死、大学受験失敗、それ以来、ガロアは社会に反抗的になり、数学の研究は続けたもののそれ以外は不良のようになりました。20歳のときだまされて決闘することになり殺されました。
生前評価されなかったガロアの遺した理論は、いまやそれ自身が数学の一大分野であり、また、全数学に広がる基本概念で、新しい研究の中から、ガロア理論で説明できることが何度も何度も現れ、また、素粒子物理学の基本概念ともなっています。
ガロアについて、16歳以下の頃については、ほとんど何も知られていません。20歳で亡くなっていますので、わずか4年間ほどの生涯についてはいろいろ書かれていますが、解釈が分かれ、それがどこまで、ガロアについてとらえているか分からないというのが実情です。トニーロマンは『ガロアの神話』で諸説に対してガロアの伝説など作りあげる必要はないと書いています。しかし、話は印象を強めますので、ガロアについて今後もいろいろ語られるべきだと思われてなりません。
参考文献
「天才の栄光と挫折(藤原正彦 新潮選書)」
「ガロアの神話(著 トニーロマン 訳 山下純一 現代数学社)」
「数学を作った人々(著 ベル 訳 銀林浩他 東京図書)」
問題
1から52までの数字が書かれている52枚のカードを左から順番に並べます。
…
このカードを次の規則にしたがって並べかえていきます。
一列に並んでいるカードを真ん中で半分に分け,左と右の2つの組にする。
分けた2つの組を左の組から順に交互に並べていく。
たとえば,カードが8枚の場合は,
に,この操作を1回行うと,
となります。このような並べかえ方を「完全シャッフル」と呼ぶことにします。
このとき,次の問いに答えなさい。
(2008年 海城中1回目の6番)
1、3、5、7、9、11、13、15、…、51
番目になる。つまり、
2→3、3→5となる。
(1回のシャッフルで、2番目の位置にあるカードは3番目の位置に、3番目の位置にあるカードは5番目の位置に行くという意味)
よって、2回のシャッフルで2は5番目にある。
2、4、6、8、10、……、46、48、50、52番目になる。
カードの位置番号から26をひくと、左の組の番目になり、それに2をかけると、シャッフル後の番目になる。
51→50、50→48、48→44 44→36 なので、4回のシャッフルで51は36番目になる。
よって、4回の後さらに4回シャッフルすればすなわち8回で、51は51番目に来る。
答え (1)5番目にある。 (2)36番目 (3)8回目
【要点】
シャッフルするごとに、各位置のカードに書いてある数が変わるが、何番目の位置にあるカードが何番目の位置に移動するかは毎回一定である。
「カードのシャッフル」は1982年の麻布中が初出ですが、2002年に東京大学理系の第6問に出題されてから、他校の中学入試に広まっています。19世紀のフランスの数学者ガロアの考えた群論が背景になっています。
早稲田大学の客員教授に時々なっている芥川賞受賞作家の三田誠広がかつて著書『パパは塾長さん 父と子の中学受験(河出書房新社)』で1982年の麻布中の問題に対し、「徒労に終わった」と感想を述べています。
三田誠広
1948年大阪市生まれ。早稲田大学文学部卒業。
66年高校在学中に「Mの世界」で文芸学生小説コンクールに佳作入選。
77年「僕って何」で芥川賞受賞。ほかに「漂流記」「都の西北」「命」など。
芥川賞受賞作家の、ユーモアあふれる「父と子の中学受験」体験記
http://www.asahi-net.or.jp/~DP9M-MT/index.htm
東大理科の第6問はできなくても合格できるというほどの難問であることが多いという人もいます。ここでは、2002年、東大理系の第6問を先の海城中の問題文にならって小学生向けに翻訳して表記します。少し違っていて特にまぎらわしいところは赤で示しましたので、注意してください。
問題
1から52までの数字が書かれている52枚のカードを左から順番に並べます。
{1、2、3、……、52}
このカードを次の規則にしたがって並べかえていきます。
一列に並んでいるカードを真ん中で半分に分け、左と右の2つの組にする。
分けた2つの組を右の組から順に交互に並べていく。
たとえば、カードが6枚の場合は、{1、2、3、4、5、6}に,この操作を1回行うと、{4、1、5、2、6、3}となります。このとき、次の問いに答えなさい。
6枚の場合、1番目にあった数が2番目に行き、2番目にあった数が4番目に行き、3番目にあった数が6番目に行き、4番目にあった数が1番目に行き、5番目にあった数が3番目に行き、6番目にあった数が5番目に行きます。このことに、記号「f( )」をつかって、「f(初めの番目)=後の番目」と書くことにすると、f(1)=2、f(2)=4、f(3)=6、f(4)=1、f(5)=3、f(6)=5となります。
(2002年 東京大学理系第6問改題)
解法
1回の操作で {5、1、6、2、7、3、8、4}
2回の操作で {7、5、3、1、8、6、4、2}
3回の操作で {8、7、6、5、4、3、2、1}となる。
f(k)=k×2
f(k)-k×2=k×2-k×2=0 なので、(初めの枚数+1)の倍数である。
kが初めの枚数の半分よりも大きいときは、1回のシャッフルで、(k-半分の枚数)×2-1になる。
f(k)=k×2-初めの枚数-1となる。
f(k)-k×2=k×2-初めの枚数-1-k×2
=-初めの枚数-1
=-(初めの枚数+1)なので、(初めの枚数+1)の倍数である。
これは、何番目かの2倍とその次の番目が数が等しいか(初めの枚数+1)で割ったときの余りが等しいことを意味します。
1→2→4→8→7→5→1 6周期
3→6→3 2周期
1、5、7、8、4、2はその位置を順に繰り返し、3と6はその順で繰り返すので、6回の操作で戻る。
参考
1→2→4→8はすぐにわかると思います。8→7→5→1ですが、これは、右から見ると
1→2→4→8にあたるのです。
また、1→2→4→8(1)→7(2)→5(4)→1(8)
ここで、カッコつき数字は右からの番号を表します。
左からの番号+右からの番号=カードの総数+1(=ここでは9)
です。また、別な見方をすると、1を次々に2倍すると
1、2、4、8、16、32、64、……
となりますが、これを、カードの総数+1(=ここでは9)で割った余りで分類すると
1、2、4、8、7、5、1、……となります。
3はここでは出て来ないので3を次々に2倍すると
3、6、12、24、48、96、192、
となりますが、これを、カードの総数+1(=ここでは9)で割った余りで分類すると
3、6、3、6、3、6、3、……となります。
★初めの枚数が16枚のとき、
1を次々に2倍すると
1、2、4、8、16、32、64、……
となり、カードの総数+1(=ここでは17)で割った余りで分類すると
1→2→4→8→16→15→13→9→1 8周期
これを3倍して16+1=17で割った余りを作ると、
3→6→12→7→14→11→5→10→3 8周期
となるので、16枚は8回の操作で1巡する。
★初めの枚数が32枚のとき、
1を次々に2倍すると
1、2、4、8、16、32、64、128、……
となり、カードの総数+1(=ここでは33)で割った余りで分類すると
1→2→4→8→16→32→31→29→25→17→1 10周期
これを3倍して32+1=33で割った余りを作ると、
3→6→12→24→15→30→27→21→9→18→3 10周期
5倍して32+1=33で割った余りを作ると、
5→10→20→7→14→28→23→13→26→19→5 10周期
11倍して32+1=33で割った余りを作ると、
11→22→11→22→11→22→11→22→11→22→11 2周期
となるので、32枚は10回の操作で1巡する。
一般に2nのとき、
1→2→4→8→・・・→2n-1で半周期nであり、1周期はn×2である。証明終わり
答え (1){8、7、6、5、4、3、2、1} (2)解答参照 (3)6回 n×2回
なお、東大の問題の解法は同学では公表していません。上の解法は、真藤啓が東大の問題を小学生向けに書き直し、小学生向けに取り組む例を示したものです。
なお、実際の東大の入試の原文は次のようになっています。
第6問
Nを正の整数とする。2N個の項からなる数列
{a1、a2、…、aN、b1、b2、…、bN}
を
{b1、a1、b2、a2、…、bN、aN }
という数列に並べ替える操作を「シャッフル」と呼ぶことにする。並べ替えた数列はb1を初項とし、biの次にai、aiの次にbi+1が来るようなものになる。また、数列{1、2、3、…、2N}をシャッフルしたときに得られる数列において、数kが現れる位置をf(k)で表す。
たとえば、N=3のとき、{1、2、3、4、5、6}をシャッフルすると{4、1、5、2、6、3}となるので、f(1)=2、f(2)=4、f(3)=6、f(4)=1、f(5)=3、f(6)=5である。
(2002年 東京大学理系第6問)
【補足】
すこし、補足しますと、文中、2Nは、N×2のことで、枚数の総数を表します。
また、N=2n-1は、N×2=2nと同じことで、カードの枚数が2n枚であることにあたります。海城中の問題を解いて、改題を解けば、この東大の問題も解けることでしょう。
さて、先の東大の問題は、時間をかけて説明すると、日能研の普通の人(偏差値50くらいの人)に教えることができると思いますが、自分だけで解くのは少し難しすぎるかもしれません。ところで、東大入試と、中学入試では、シャッフルの決め方が少し違っています。
海城中の問題では、
に,この操作を1回行うと,
となります。このような並べかえ方を「完全シャッフル」と呼ぶことにします。
となっているのに対し、東大の問題では、
{1,2,3,4,5,6}をシャッフルすると{4,1,5,2,6,3}となる。
となっています。
前者を「中学シャッフル」、後者を「東大シャッフル」とということにすると、「中学シャッフル」の場合1と8(先頭と最後尾)が動いていません。1と8ではさまれた、234567が526374になっています。実はこの移動が「東大シャッフル」になっているのです。
したがって、東大入試の(3)番から、カードの枚数が2n枚のとき、n×2回のシャッフルで、元に戻ることがわかりますが、中学入試では、
カードの枚数が(2n+2)枚のとき、n×2回のシャッフルで、元に戻ることがわかります。
東大入試と、中学入試をまとめて覚えたければ、動くカードの枚数に着目して、
動くカードの枚数が2n枚のとき、n×2回のシャッフルで、元に戻る
と覚えておくとよいかもしれません。
動くカードの枚数が2n枚のとき、n回(半周期)のシャッフルで、逆順になる
ということも押さえておきたいと思います。
小学生と大学受験生とでは、予備知識のあまり要らない項目ではほとんど同じように教えることができます。そうして、小学生のときに気づいたことはその後に大いに役立ちます。
数学の歴史は進んでいるので、その大まかのつかみのようなものは小学生に教えた方がよいように思います。中学入試にもよく出るのは、中学の先生もそう確信するからでしょう。
東京学芸大学准教授の糸井尚子氏は著書『子どもは小さな数学者』で、
「赤ちゃんが生まれてきたときにすでに40億年の学習をすませていると考えることができるからなのです。ヒトという種は地球に生命が誕生してから,環境に適応するように進化してきたと考えられます。環境に適応しようとさまぎまな能力を40億年にわたって獲得してきたと考えられるのです。ですから,生まれてきたときにすでに算数・数学の能力を備えていることも驚くことではないかもしれません。」
「赤ちゃんは0歳で生まれてきますが,進化の歴史の中ではすでに40億年+0歳と言えるでしょう。親が20歳であろうと40歳であろうと,親の年齢は40億年+20歳,40億年+40歳とみることができます。その20年なり,40年なりの経験はもちろん尊いものですが,俯瞰(ふかん)してみれば親子の差は誤差の範囲とみることもできるのです。」
と述べています。
この本の性格を紹介するために、「おわりに」の冒頭部分を引用しましょう。
「この本では,赤ちゃん時から算数の能力が発揮されること,そして,幼児期にも数への興味が伸びていき,さまぎまな能力に支えられて学校での算数の学習が進行していくことをみてきました。また,能力は単純に伸びていくだけではなく,発達の途中でさまざまな変化を遂げます。その時々の能力を駆使して学習をすることの重要さについて考えてきました。
さらに,子どもたちが算数・数学の世界で自分の能力を発揮していくときに親や教師はどのようにかかわることが望ましいのかについても考えてきました。子どものことばや小さな行動にも数や論理の発達があることに,驚き,感動することはおとなにとっても楽しいことですし,おとなのその感動がまた子どもを伸ばしていくのではないでしょうか。この本がその驚きや感動のきっかけに役立つことを希望しています。」
糸井尚子氏の主張は私と同じように過激に見えるかもしれませんが、具体的な指導法は穏当なように思います。
思い出されるのは、発見学習の提唱者であり、教科の構造化の提唱者であるジェローム・シーモア・ブルーナーの主張です。ブルーナーは、アメリカ合衆国の心理学者で、日本にも持ち込まれた、いわゆる「現代化カリキュラム」で知られていますが、「どの教科でも、知的性格をそのままに保って、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる。」という仮説を提示しました。これは、失敗に終わったことになっていますが、群論がガロアの提唱当時ドイツ一のガウス、フランス一のコーシーにさえ理解できなかったことと、その群論が、今とても広範な分野で現れ必要であることとをあわせて考えるとき、大まかな構造を早期に伝えることが必要に思います。初等教育においても、数学史の進みの何らかの反映が必要なのではないでしょうか。
糸井尚子(いといひさこ)
東京学芸大学准教授
著書『発達心理学エチュード』(共編著)川島書店
『算数・数学能力を育てる』(共著)サイエンス社
『現代の発達心理学』(分担執筆)有斐閣
『社会化の心理学ハンドブック』(分担執筆)川島書店
『子どもは小さな数学者 子供を見つめる心理学/子どもの中の40億年』学文社
ところで、間の分数について、お茶の水女子大では今年(2008年)次のような問題が出ました。
a,b,c,dを正の整数とし
<
とする.次の問いに答えよ.
このときa-byおよびdy-c
が正の整数であることを示し
b+d≦,a+c≦y
が成り立つことを示せ.
(2008年 お茶の水女子大学全学部1番)
解法
(1)は、次の図解で明らかでしょう。a、b、c、dを正の整数とし、Aを(d、c)、B(b、a)、C(b+d、a+c)としたとき、OCは平行四辺形OACBの対角線になるから、OCの傾きは、OAの傾きと、OBの傾きの間になる。
<
より、a
-by>0、
<
より、dy-c
>0、
となる。さて、0より大きい整数は1以上の整数であるから、
a-by ≧1、dy-c
≧1
よって、
b+d≦b(dy-c)+d(a
-by)=(ad-bc)
=
a+c≦a(dy-c)+c(a
-by)=(ad-bc)y=y よって成り立つ。
【蛇足】
最近、竹内薫著『へんな数式美術館』という不思議な本を技術評論社から頂きました。この中で特に面白いと思ったのは「14 クオータニオン」と、「28 無限の不思議」です。
ここでは「28 無限の不思議」を紹介しましょう。「」を「
」乗することを無限に続けるとどうなるかという問題があります。
を
∧
と表すことがありますが、その表し方で言うと、
∧
∧
∧
∧
∧
∧
∧……
はどうなるかということです。
∧
∧
∧
∧
∧
∧
∧……=
とおくと、
∧
=
ですから、=2、
=4だというのです。
おもしろいですね。というか変ですね。この問題では答えが2つあるはずがありません。それで少し考えてみたのですが、
∧1≦
∧
≦
∧2
なので、さらにこれらを√2の指数にすると、
≦
∧
≦
∧
∧
≦
∧
∧
∧
≦2
となり、=4はありえません。
=2となりそうです。
それでは、∧
∧
∧
∧
∧
∧
……
はどうでしょう。
これは、同じ方法は使えないようです。
では、立方根∧
∧
∧
∧
∧
∧……
はどうでしょう。同じ方法が使えて
∧
∧
∧
∧
∧
∧……=
とおくと、
∧
=
となり、=3となりそうです。
では、4乗根∧
∧
∧
∧
∧……
はどうでしょう。
∧
=
となり、
=4となりそうですが、実は
=
なので、
=2となります。
では、5乗根∧
∧
∧
∧
∧……
はどうなるでしょう。
∧
=
で=5となりそうですが実はなりません。
<
=
<
なので、2より小さくなりそうです。
ちなみに、
=1.4422495703074083823163567……
=
=1.4142135623730950488016887……
=1.379729661461214832390063……
=1.3480061545972776673581342……
なのです。ということは、先の解法では危ないことに気付きます。このほか、この本には本当に変な数式についてたくさん書かれています。この本は、そういうわけで、こういうレベルの高い変な数式は中学受験生はもとより一般に受験生にはちょっとお勧めできないと思います。大学の数学科を出た人とか、その他、変な式を見せられても動じない人には面白いとお勧めできるかもしれません。逆に、大学の数学科を出た人を煙に巻くにも面白いかもしれません。まあ、ほんの蛇足です。
『へんな数式美術館(竹内薫著 技術評論社)』
竹内薫(たけうちかおる)氏 東京大学理学部物理学科卒業
本稿を、「毎回楽しみに読んでいる」と言ってくれたりすると、大変うれしいのですが、「後ろの方は単に問題解きになっているので省いては?」という人と、「前の方は算数と関係ないことがたくさん書いてあるので省いては?」という人がいて、ちょっと悩ましいところです。
以前、保護者会で、易、中、難の三段階に分けて話したところ、「最初の話は分かりやすく面白かったが、あとのほうは難しくてちんぷんかんぷんだった」と大変不評だったことが思い出されました。
どういう人にもそれぞれ少し役立つようにと考えて話したつもりだったのですが、話の場合、わからない時間を耐え忍ぶのはつらいだろうと思い反省しました。しかし、読むときには、面白くないところはとばして読めばよいので大丈夫と思ったのですが悩ましいところです。
ところで、今月号(2008年12月号)の『NEWTON(ニュートン)』で「虚数」を特集しています。本稿の先月号(2008年11月号)とかぶるところが多いです。「こちらが先でよかった、でないと真似をしたと思われるかも」とちょっとホッとしていたりします。先方では質問を大歓迎ということで、積極的に受け付けている模様ですので、虚数について何かご質問があれば、そちらにしてみると詳しくて素晴らしい回答がいただけるのではないかと思います。
それにしても、1か月がとても短く感じられます。また長くなってしまいました。今回はこのへんで。
『ニュートン』のホームページは
http://www.newtonpress.co.jp
です。