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教務エッセイ(算数)算数好きになるくすり

大いなる技法

【数の拡張】
  • 2008年11月号

日能研教務部算数科 真藤 啓

本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものとそろえ、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。

けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。

『進学レーダー』11月号(みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 大いなる技法」
『キッズレーダー』11月号(日能研) 算数エッセー「おいしい算数 0をなかまに」
『学校選択』11月号(全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて タルタリアの贈り物」

【目次】
  1. 0をなかまに『キッズレーダー』の記述に関連して
  2. カルダノについて『進学レーダー』の記述に関連して
  3. カルダノはなぜきらわれたのでしょうか。
  4. 虚数と還元不能 三次方程式の解法がもたらしたもの
  5. タルタリアについて『学校選択』の記述に関連して
  6. タルタリアの三角形
  7. 立方数の差(2005年 京都大学前期数学2題)
  8. たし算の中の-1
  9. かけ算の中の-1と虚数
  10. 0が特別であることについて
1. 0をなかまに 『キッズレーダー』の記述に関連して

キッズレーダーでは『0をなかまに』ということで、0について書いてみました。一度は書いておくべきだと思ったからです。一部の元ネタは張君達という人の書いた中国の重点小学校の2年生用の補助教材を訳出して参考にしたものです。ペンギンやカエルは思いつきで加えたもので、また、午後 0 時云々は日本の事情です。

0でわることは考えないと書きましたが、あえて、考えると、0を0でわる割り算 0÷0=□ は、□×0=0 ということになるので、□は何でもよいことになります。また、あるきまった数を0でわるとき、たとえば、3÷0=□ は □×0=3 ということになるので、□は何でもだめということになります。

  • 0÷0=□ 不定(何でもよい)
  • 3÷0=□ 不能(何でもだめ)

(3と書きましたが 0以外の数の例として3としているのは大方のお察しの通りです。)
ということなので、0でわることは考えないと押さえておきましょう。

日本では現在「午後0時」という表現は法律上にはないことになっているようです。日本の低学年向け教科書では午後0時は出てきます。

日本の「国立天文台」や「日本標準時プロジェクト」のWEBサイトでは「午後0時」という表現は法律上にはない、その根拠として、午前と午後を定義している法律は、明治五年に出された 太政官布告三百三十七号以外には見当たらないとしています。ややこしい取引の契約などをする場合には正午に午後0時は使わない方が無難かもしれません。

参考1
質問 正午は午前12時?それとも、午後12時? 国立天文台
http://www.nao.ac.jp/QA/faq/a0401.html

参考2
午前12時? 午後0時? 日本標準時プロジェクト周波数標準課
http://jjy.nict.go.jp/QandA/12am-or-0pm-J.html

キッズレーダーでは『0をなかまに』ということで、小学低学年の人にそのまま語れるようくふうしました。これまでのテイストとあまりに変わっているではないかと思われたかもしれません。かなりレベルが低いと思われた方もおられるかもしれませんがそんなことはないと思っています。

小学生の低学年向けのものを書くことには、やや苦手意識を持っています。しかし最近、世間でも小学低学年向けの本や講座が増えているようなので、そうしたものを書けるように励みたいと思います。

小学低学年向けのやや程度の高い算数読み物、というのがまだ少ないようなので、希少価値があるのかもしれないと思っています。(すでにたくさんあるのを見ていないだけかもしれませんが)

『キッズレーダー』は新横浜の駅ビル三省堂書店に置かせていただいているそうです。この本屋さんは児童書もそろえています。新横浜では、横浜国際総合競技場(日産スタジアム)でのサッカー、横浜アリーナでのコンサート、新横浜ラーメン博物館のラーメンで、大変多くの人を各地から集めて、さながら、「人の海」のようになりますが、新横浜においでになった方はぜひ新横浜駅ビルの三省堂書店で『キッズレーダー』をお求めください。WEBで見たといえば、無料でもらえます。

新横浜名物のようになって、新横浜に来た記念に持って帰ろうなんてことになったら面白いと私は思っています。

キッズレーダーに載せた問題についての解法は不要でしょうが、一応形式的?に載せておきます。

キッズレーダーに載せた問題

もんだい
いま 9じです。あと 7じかんたつと 何じに なりますか。
ごぜんとか ごごとかを 使わないで、12より 小さい数を 使ってこたえましょう。

かいほう
ふつうにたしざんをして、12をこえた場合には12をひきます。

9+7=16 16-12=4

こたえ 4じ

かいせつ
いってみれば、9+7=4という感じがおもしろいですよね。剰余系(じょうよけい)というおべんきょうに関連があります。

『0について』など書いてもやさしすぎる、と思われた方も多いかもしれませんが、気温の-1度や-2度にも触れているのでやさしすぎるということはないのではないかと思っています。あとでも、述べますが0は注意すべき特別な数です。

参考1
お昼の0時は正午(しょうご)と言いますが、真夜中の0時は何と言う?

北極点と南極点を結ぶ点を子午線(しごせん)というのはご存知でしょう。子(ね)は北を表し、午(うま)は南を表します。真夜中の0時は正子とかいて「しょうし」と読みます。ここでは「しょうこ」とか「まさこ」とは読みません。

参考2
『数学オリンピック小学教材』

算数教育で有名な守屋誠司氏(山形大学)は、中国の小学生においては、日本の小学生をすべての面で大きく上回っている。日本の教科書と中国の教科書では内容はほぼ差が無く、特別な項目があるわけではない。中国の「数学オリンピック小学教材(主編 張君達)」で授業外において論理的思考が育成されているのかもしれないと述べておられます。

論理パズルの回答からみた日本と中国の小学生の論理的思考力の比較調査
守屋誠司氏(山形大学)他
http://www11.ocn.ne.jp/~logic/logic/papers/pages/19981010fall.pdf

参考3
張君達、男性、58歳、江蘇省人。
首都師範大学科学研究所所長、教授。
現任中国管理科学研究院知力開発研究所所長。
中国数学教育研究開発発展中心常務理事。
主な著書(すべて中国語)
『数学教育実験設計』、『数学教育論集』、『域論導引』、『初等数論』、『初等数学概論』
編集主幹『北京数学オリンピック小学校教材』(練習問題と解析)、
『中高校数学オリンピック特別講座』など。

(注)書名などの中国の文字(簡体文字)を日本の漢字に置き換えてあります。

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2. カルダノについて『進学レーダー』の記述に関連して

三次方程式の解法で重要な二人の先駆者の最初の一人は、ジロラモ・カルダノ。彼は哲学の熱心な学徒でもあり占星術師でした。一流の代数学者でありインチキギャンブラーでもありました。厳格な観察をする自然科学者であると同時に極端に信頼できない言説の人で、腕のよい内科医師であるが、殺人者の父であり擁護者でもありました。あるときはボローニャ大学の教授であり、ある時は救貧院の収容者であり、非科学的な盲目の迷信の犠牲者でもあるが、ミラノ医科大学の学長でもありました。キリストに対してホロスコープという星占いで占ってその結果を敢えて出版して異端者として投獄されましたが、教皇から年金を受け取っていた人でもあるというように、常に両極端な面を併せ持っていました。少々あやしげな人ですが、法廷の顧問のようなことを頼まれたりもしています。それは何と言っても医学的な知識が豊富で実際に医者としての力があったからでしょう。

父が社会的に地位のある人ですが、幼少のとき厳しく育てられたせいか、独力で地位や名誉を獲得したかったようです。しかし、実際には時折、父の権威によって救われることもありました。

彼の『大技法あるいは代数学の規則に関する一書』は通称、『アルスマグナ(大いなる技法)』と言われていますが、代数だけを扱った最初のラテン語の論文であり、1545年、ニュールンベルクで出版され、当時知られている限りの代数の方程式の理論が書かれています。三次方程式の解法も含まれ、それは、彼が絶対に公表しないという約束のもとに、タルタリアから聞き出し、その6年後に約束を破って出版したのでした。また、彼の弟子、フェルラリによって発見された四次方程式の解法も含んでいます。

この著は、多くの数学者に「五次方程式の代数的解法」の探求を促した数学史上欠かせないものです。

3. カルダノについて『進学レーダー』の記述に関連してカルダノは1500年9月24日イタリアのパビアで生まれました。カルダノの母キアーラ・ミケリアは叔母(母の妹)マルゲリータとミラノの小さな家に住んでいました。

父ファチョ・カルダーノは法律家でミラノ大学の法律学教授であり、弁護士でもあり、ジョン・ペッカムが書いたヨーロッパで有名なペルスペクティヴァ・コムニスという本を校訂編集したこともあり、若いころ数学の講義もしたことがありました。カルダノが生まれたときには、カルダノの父と母はまだ結婚していませんでした。

母はカルダノがおなかにいたとき、薬を使って中絶しようとしました。しかし、うまくいかず、母は三日間苦しみ続け大変な難産の末、夜の12時半を少し過ぎたころカルダノは母のおなかからほとんど死んだようになって引っ張り出されました。産湯(うぶゆ)代わりの熱いワインに浸けたところ、びっくりして生き返ったのでした。

このことについて、カルダノはこの種の産湯などはほかの赤ん坊には命とりであったかもしれない。と書いています。まねをすることのないようにお願いします。こうしたことが原因か、カルダノは病気の絶えない体になりました。

カルダノが生まれると母はミラノに帰りました。すぐに乳母に預けられましたが、生まれて一か月もしないうちに、乳母がペストにかかりその日のうちに死んでしまいました。そのとき、カルダノは顔に五つの悪性のおできができていました。パビアの貴族で少し医学に興味を持つイシドロ・レスタという人がカルダノを裸にして、熱い酢で消毒して、次の乳母に引き渡され、モイラーゴの乳母の家に連れて行かれました。そこで、カルダノは腹が固くなってふくらみ、全身の色がどす黒くなりました。乳母は、あまり乳が出なくなっていたことがわかり、カルダノはもっとよい乳母に渡されました。その三番目の乳母のもとで、三歳の時にカルダノは乳離(ちちばな)れをしました。

四歳になると、ミラノにいる母と叔母との三人で暮らしました。叔母はいつも優しく、怒った顔を見せたことがありませんでした。しかし、父はときどきこの姉妹の家に来てましたが、カルダノにやさしくしませんでした。

七歳のころ、父は、ミラノに立派な家をたて、その家で父と母と叔母とカルダノの四人で暮らすようになりました。それ以降、住まいは変わりましたが、カルダノは父と暮らすようになりました。七歳になるころからカルダノを召使のように扱い、たくさんの仕事をさせました。

病弱なカルダノ少年は静かな生活から仕事に明け暮れる毎日となりました。八歳の初めに、内緒で酸っぱいブドウを食べたせいか、赤痢(せきり)になりました。そのとき呼ばれた医師が「おきのどくですが、これはもう助かりません」と言いました。

父はいつも「よろずの魂、神を頌すべし、神はあまねき徳の源なればこそ」と口癖で言っていました。

父はこのとき、父の信仰に従って、お祈りをしてくれました。カルダノはその御利益(ごりやく)ではけっしてないと思っていますが、とにかく回復に向かいました。ちょうどそのとき、外はフランス軍が勝利の凱旋(がいせん)をしていてにぎやかでした。父はそれを見ていてよいと言いました。

もうすぐ全快だというとき、カルダノは鎚(つち)を持ったまま階段から足を踏み外してしまい、鎚で頭を打ち頭の骨にひびが入ってしまいました。その傷はいくらか小さくなった傷でそのままずっと残りました。その傷が回復してすぐ、今度は隣のうちの屋根からクルミくらいの小石が落ちてきて毛のたくさん生えている方に新しい傷を作りました。「呪われている!」驚いた父は父の信仰するおはらいをして、道路向かいに新しい家を建てなおしました。

その後もカルダノは、いろいろ治りにくい病気に悩まされました。皮膚(ひふ)病や赤痢(せきり)やペストや、名の知れない大量に汗の出る熱病や、異常な不眠症にかかりましたが、しぶとく生きぬき、そのたびに死を断言した医者に恥をかかせてしまいました。

いつしか、薬のびんに書かれた模様や文字や、効能説明書に書かれた文章を見つめて、そのままイメージとして記憶していました。

父は、あるとき、カルダノにラテン語で数学を教えました。カルダノは、見覚えのあるものが文字であることを知って知識の吸収に没頭したのでした。

カルダノは自分が長生きできない体質であると感じていました。そうして、だからこそ、この世に名を残したいという希望がずいぶん早くから芽生(めば)えていました。その希望から、書くことに興味を持ちました。読み手が読むに堪(た)えるものを、そしてそれをずっと語り継(つ)がれるものを書きたいと思いました。そうして、なるべく生きながらえるように、医学を学びました。

カルダノは父から認めてもらいたいという思いもあって、必死で学びました。父は、時々「お前は私の子だ」と言うようになりました。相変わらず仕事をさせたのですが、学習の時間も作ってくれました。

カルダノの学力は父の期待以上になり、パビア大学の医学部に進みました。医学部を出てすぐミラノ大学教授になりました。学長になるには金がかかることを知って、賭(か)けごとでもうけることを考え、勝つ方法を研究しました。新しいずるい賭けごとを提案し、だまして大金をもうけて、そのお金で人脈を築き学長になりました。

父は、法学者になれとカルダノに頼みましたが、カルダノは医学に向かうことを宣言します。カルダノが父にはじめて背いたのでした。そのとき、父はカルダノの前ではじめて泣きました。この父は、代々名門の出で、数学も大学で教えたこともあるほどでしたが、法律学で名をなしていました。しかし、自分の築き上げた法律学について、十分な後継者がいなかったので、急速にカルダノに期待を寄せるようになっていたのでした。

しかし、カルダノは、自分の体を持ちこたえるために、また直接お金を稼ぐために医学の研究はすてられなかったのでした。

参考文献
カルダーノ自伝(平凡社)、ボイヤー数学の歴史3(朝倉書店)

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3. カルダノはなぜきらわれたのでしょうか。

三次方程式の代数的一般解法「カルダノの公式」を発表したジェロラモ・カルダノは多くの人に支持されていた一方、多くの人に嫌われています。次のようなことが攻撃材料となっています。

1. カルダノの母の素性

その1つはカルダノの母についてのよくない噂によるものです。

カルダノが生まれたころ、カルダノの父と結婚していなく、何人かの男の人から贈り物やお金をもらって生活していたのでした。カルダノ自身の「自伝」でも、否定していません。自伝では、ともかく幼い頃両親に大事にされなかったことが綿々と書かれています。カルダノはそのことについて、うらみ言を言わずに、人ごとのように淡々と書いています。それなので、私も淡々と書きました。思いを入れ込んで書くにはあまりにも気の毒だったのです。しかし、カルダノの母がどうであったにしろ、それはカルダノのせいではないわけですが、あまり積極的に支持しにくい人も多いようです。こうしたことが、攻撃材料に使われることもありました。

2. カルダノは賭けごとが大好き

カルダノは賭けごとが好きだったのは確かでした。当時、賭け事は禁じられていましたが、イタリアの貴族は大なり小なり賭け事が好きな人が多かったようです。建前はともかく公然と行われていたようです。そして、そのことで逮捕されるというようなことはほとんどなかったようです。賭け事はそのころの貴族の交際のたしなみのようなものでしたが、ガリレオやフランスのアンペール、パスカルなども賭け事について研究しています。

カルダノは、確率論の基礎のようなものを築いていたのでしたが、インチキについても研究して、賭博師の手引き書のようなものも書いているので、「あ、カルダノはずるい。悪い」となったのかもしれません。カルダノは確率論を学問とは考えていなかったようで、数学の分野に入れていませんでした。たくさんの本を書いていて、自伝では書いた本を分類して一覧にしていますが、確率論は「趣味の雑多な本」に分類していました。当時としてはぬきん出ていましたが、パスカルなど後の人はカルダノとは別で独自に考えたようです。つまり、カルダノの確率論は後世にあまり影響を与えなかったようです。

短いだろうと思った寿命の間に、後世に名を残したいと思い詰め、お金がほしかったということではじめた賭け事でしたが、のちにはかなり賭け事そのものを積極的に好むようになりました。賭けごとに嫌悪感を持つ人がカルダノを嫌いというのは仕方がないかもしれません。

3. カルダノは「約束」を破った

16世紀の中頃、イタリアでは数学の問題を出して、解いて、討論する一種の公開討論会のような試合が盛んに行われていました。30の問題をお互いに出し合い、相手の出した問題を答え合うというものでした。ここでは賞金が稼げるし、数学師として名をあげることができました。たいていの場合、数学選手にパトロンと言って、ひいきのお金持ちが付いていて、試合にかかる諸費用を出してくれました。

問題は、だんだん難しい問題に煮詰まっていきました。つまり、解きやすい特別な三次方程式からだんだん解きにくい一般的な三次方程式になったのでした。

そのころの、イタリアの算数数学といえば、0より小さい数、マイナスをつけて表す数、つまり、「負(ふ)の数」でさえも、おっかなびっくりで、できるだけ避けながら、二次方程式を解いていた時代でしたから、三次方程式は大変な難問でした。だから、当時は数学者が解法を発見しても、すぐには公表しないというのが一般的でした。つまり、試合に勝った者が解法の優先権を確保することができたのです。

三次方程式の解法はイスラム代数学に端を発するアラビア渡りの秘術であるという説もあります。ボローニャ大学の数学教授のシピオーネ・デル・フェルロ(1465~1526)がその術を会得していましたが、それを公表しないで弟子のフロリドに教えて亡くなってしまいました。フロリドは三次方程式を解けることをいいふらしていました。タルタリア(1499~1567)はフロリドの出す問題や答えを見て、フロリドがどんな問題が解けてどんな問題が解けないかを見抜いて挑戦しました。

タルタリアは努力家で独学で数学を身につけた数学者でした。タルタリアはフロリドに圧勝して三次方程式のチャンピオンになりました。

フロリドが=p+q の型だけならっていたのをタルタリアは見抜いて、

+p+q=0

の型で出題して負かしたとされています。

当時の秘密主義の風習から、タルタリアは三次方程式の術を公表しなかったのですが、この試合のあとに彼のもとにその方法を教えて欲しいと申し入れる人が殺到しました。

その中にカルダノがいました。カルダノはうるさいほどにタルタリアにつきまとい、だましたり、ときにはいくつかのいやがらせができると脅したりして頼み込み、とにかく「タルタリアが公表するまで絶対に公表しない」と誓って、証明を教えず方法だけを教えてもらいました。それは次のように詩のようなものです。

立方と物とが合わさって
或る離散数に等しくなるとき
これだけの差をもつ他の二つを見つけよ
ついで汝は次のことに常に従うがよい
その積は常に物の三分の一の立方に等しいことに
そしてそれらの立方根が引かれた
その残りが一般的に
汝の元の物になるであろう

「解説――数学者カルダーノ」(『カルダーノ自伝』の解説 三浦信夫氏)より

カルダノはこの詩をしっかり解読し、三次方程式の解法を追発見し、そのことにより虚数を発見し、また、カルダノの弟子ロドヴィゴ・フェルラリ(1522~1565)が四次方程式の解法を見つけました。また、教えてもらった三次方程式の解法に似たものを、フェルロの遺構から見つけ、「なあんだ、三次方程式の解法はタルタリア独自の発見ではないではないか」とわかり、教えてもらってから6年後(10年後とする説も)に、約束を破って自らの著書である『大いなる技法』にこの術を掲載し出版してしまったのです。

「カルダノはきらい」という人の理由の多くは、この「約束を守らなかった」ことをあげます。しかし、タルタリアの名も明記されていますし、虚数とか四次方程式の解法とか、タルタリアが考えたこと以上のことも記述され、今日の感覚ではこのけんかはタルタリアに分はないように思います。後述しますが、カルダノ自伝では

ニッコロ・タルタリア。私を誹謗したが後ミラノで公に謝罪することとなった。

という記述がみられます。つまり、法的にも問題ないのではないかと思います。

そのほか、カルダノはキリストを茶化した占いの本を書いて投獄されたこともあり、また、ばくちで大負けをして救貧院に入ったりしました。また、カルダノ自身のことではありませんが、カルダノの息子がその妻から「3人の子はすべてあなた子の子ではない」と聞かされて、息子はその妻を殺しました。カルダノは息子を援護する論陣を張りましたが、カルダノを批判する者には攻撃材料となり、なやみがつきませんでした。また、カルダノの妹がフェルラリをヒ素で毒殺した唯一の容疑者といわれています。

他にもあまり書きにくい色々なことがあります。

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4. 虚数と還元不能 三次方程式の解法がもたらしたもの

三次方程式の一般解というものは、簡単な答えであっても、みかけがひどく違った形式で現れ、実際の簡単な答えに直そうとすると新たな三次方程式に解くことに戻ってしまいます。一般には、三次方程式は形式的には解けることは解けるのだけれど、その形式的な数を具体的な値に戻すことができないのです。こうしたことを、還元不能(かんげんふのう)と言います。このことにこだわれば三次方程式は解けないということになります。高校で、三次方程式の代数的一般解を学ばないのは、この還元不能の意味が難しいからだと言われています。

ラファエル・ボンベッリ(1526~1573)は、この事情を詳しく研究し1572年に出版した『アルジェブラ(代数学)』に記しています。形式的な計算ではありますが、当時はまだ知られていない虚数の計算と同じ扱い方を示しています。ボンベッリは自ら、「奇抜な思想」と名付けていました。

三次方程式=15+4は、=4を解に持ちます。それは式に当てはめると。=4×4×4=64、15+4=15×4+4=64ですから、容易に確かめられます。

しかし、もとの三次方程式 =15+4を「カルダノの公式」にあてはめて解くと、1つの解は

5. 虚数と還元不能 三次方程式の解法がもたらしたもの

となります。ちょっと驚くかもしれませんが、これは4なのです。

これが4であることを、計算で求めようとすると三次方程式が現れるため、カルダノはこの事情を還元不能と呼びました。この還元不能を回避するために様々な努力がなされましたが、実は、虚数を避けて実数の冪根と四則演算を有限回用いただけで解を書き下す事は不可能であるため、全て徒労に終わったのでした。フェルラリが解けたというのは、おそらく、いろんな還元パターンを暗記していたからでしょう。

怒ったタルタリアは、翌年公刊の自書でカルダノの誓約違反を責めつづけ、カルダノと試合をすることになったのですが、カルダノは逃げ、弟子の若いフェルラリを代役にたてました。タルタリアはフェルラリが「大いなる技法」で四次方程式の解法を考えついた人であることを知っていましたから、彼にはかなわないので避けたかったのですが、世間の状況が許さなかったのでしょう。結果的に、タルタリアは、フェルラリに一方的に負けてしまいました。

フェルラリは数学の才能だけについてはカルダノやタルタリア以上であったといわれています。

付記1 ジェロラモ・カルダノの名の読み

カルダノはカルダーノと書かれることもあります。実際参考文献の『カルダーノ自伝(平凡社)』ではカルダーノと書いています。しかし、今はカルダノとする方が多いかと思います。

ウィキペディア日本版では「三次方程式」、「四次方程式」のページではともにカルダノとなっていますが、その内部リンク先の「ジェロラモ・カルダーノ」のページではカルダーノとなっています。(2008年10月15日現在)早晩統一されることでしょうが。

名前のほうもジェロラモとしましたが、ジロラモなど微妙に違うものでも呼ばれています。自伝の原書では中世ラテン語で書かれ、ヒーロニムスというかなり違う読みになっています。この中世ラテン語というのがとても訳出しにくいそうです。日本訳『カルダーノ自伝』の中の「第50章 座右の銘と息子に寄せる挽歌」で、カルダノとスキピオの問答式のやり取りがあり、カルダノはH、スキピオはSで書かれていて原書の名残りを見ることができます。

付記2 カルダノ自伝におけるタルタリアの記述

カルダノについては何しろ先に述べたように自伝があるので、調べようと思えば調べやすいのです。ただし、この本にはときおり「そんなことはどうでもいいではないか」ということが、こと細かにたくさん書いてあるところもあります。カルダノという人間に強く興味を持って細かなことも知りたいという人には面白いかもしれません。カルダノはそのつもりで書いたようです。

一方、ふつう、カルダノについて知りたいことと言ったら、タルタリアとの論争だと思うのですが、長い自伝の中で、タルタリアについて書いてある部分はとても少ないです。

54の章からなるこの自伝の第45章は

著書―その執筆年代および動機と評判
と題されていて、冒頭に刊行著書一覧、第二行に数学の部、第三行にアルスマグナ(「大いなる技法」)

と書いてあります。すなわちこれら9ページにわたる著書一覧のうち筆頭が『大いなる技法』でした。

著書一覧のあとそれらの一部を焼却処分したなどの記述の後、

その後『数学総論』に着手した。その間、わたしはジョヴァンニ・コッラやタルタリアと論争した。第一章の題材はタルタリアから得ていたが、彼はわたしのなかに感謝の気持ちで結ばれている仲間や、だれにもまして忠実な友人よりも、むしろ恰好の競争相手を認めたのだった。

と書いています。

「大いなる技法」にはタルタリアの名もはっきり書いてあり、むしろ感謝すべきであるなのに反発していると言っているわけです。

第48章 有名人による評価 では、「書物に見る私への証言」という節で、13ページにわたって、自分(カルダノ)のことをほめて引用してくれた著書名・著者名が1から73までの番号を付けて並んでいますが、その中の65、66で、

65 ボローニャの人ミケーレ・ボンベッリ「代数学」

ミケーレ・ボンベッリ16世紀の数学者でタルタリアとの論争ではカルダーノを擁護する。

66 ニッコロ・タルタリア。私を誹謗したが後ミラノで公に謝罪することとなった。

・・・(略)・・・

ほかにもわたしの名前を著作のなかで公にしてくれている人々がたくさん存在することは知っているが、一つ一つ著作名を憶えていない。わたしをけなす連中には、だれ一人としてその学識が文法の域を出ている人を知らない。次のような人々が、なぜ厚かましくも学識者の仲間入りをしているのかさっぱり理解できない。

ロンドレ、ブロドー、プテオ(ボレル)、フックス、フルクサーダ(ド・フォワ)、シヤルパンティエ、タルタリア、チュルネーブ。

スカリジェーロ、ドウーノ、イングラッシア、ガウリコ、ゾーレナンダーは、きっと自分たちの名前を世間に広めようとして、わたしに楯突いたのだった。

とあります。

というわけで、カルダノの自伝ではタルタリアのことを、さも重要視していないような書き方になっています。それにしても学識が文法の域を出ていないとはどういう意味でしょうか。文脈からなんとなく判断できますが。文法の域を出ていないという表現は日本語のWEB上では頻出です。しかし、多くは語学に関することであって、カルダノのような使い方は見あたりません。

ともあれ、カルダノを非難する者は、カルダノの言葉を借りると、学識が文法の域を出ていないということになるようです。カルダノの人生が「文法の域を超えている」ということなら分かるような気がします。確かに、カルダノの人生は「破格」に満ちているといえましょう。

この自伝本は、最初、海鳴社で発行され、しばらく絶版になっていましたが、現在は平凡社ライブラリーの93番にはいっていますので入手しやすいと思います。

『カルダーノ自伝』には異なる邦題のもう一つの『わが人生の書』(青木靖三・榎本恵美子訳社会思想社)という訳書もあります。本稿を書くに当たって、せめてその解説とか訳書あとがきなどを参照すべきところでしたが、今回なかなか筆が進まず、労を惜しんでしまいました。

54章中の53章(章のタイトルは話術)、言い換えると最後から2番目の章、の真ん中あたりに

私は、数学の分野で少しとは言え何らかの示唆をニッコロ兄(タルタリア)から得ている。

とあります。多くの文献に、カルダノにとって、『大いなる技法』はたくさんの本の中の一つにすぎないとあります。『自伝』は確かにそうも読めますが、『大いなる技法』こそがカルダノの名を後世に残す唯一の本であると私は思います。そうしてもちろん、カルダノもそう思っていたであろうと思います。

付記3 負の単位の架空の平方根

カルダノの著書『大いなる技法』で示されている三次方程式の解法は、アラビアの代数と同じように言葉で説明され、幾何学的な証明が与えられていますが、負の数が使えなかったので、多くの場合分けをして解いています。負の数を自由に考えられる現代人には、ほとんど同じような解法が延々とくりかえし載っていて冗長に感じることでしょう。そのいずれも虚数解が混じります。カルダノは虚数解について、次の言葉を残しています。

「それによって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれらの量(根号内が負の解)を導入せよ」

こうして、二乗して負になる新しい「数」が数学上の概念として導入されることとなりました。

ライプニッツ(1646~1716)はこれを「負の単位の架空の平方根」と呼びました。1777年にオイラー(1707~1783)が、『ルート-1』と言われていた数にiという記号を導入し、ガウス(1777~1855)もこれを採用してひろまりました。

数学者たちの方程式の術は当時は実用性のない、いわばゲームにすぎなかったのでしょうが、数の世界に複素数が加わり、それは、はじめは文字通り虚数と思われましたが、それがいまや半導体の設計や量子力学の定式化などで、実際に存在する数として、現代の最先端技術に多大な貢献をしています。

なお、電気数学ではI(アイ)は電流に使いますので、虚数単位には普通i(アイ)の次の文字j(ジェイ)を使います。

付記4 ロドヴィコ・フェルラリ (フェラリとかフェッラーリとも書く1522年2月2日‐1565年10月5日)

卑しい身分とされる境遇に生まれましたが15才のときに、ミラノのカルダーノの家に引き取られました。カルダーノは、すぐに彼の著しい才能を認め、彼を自分の弟子としてまた友として受け入れました。フェルラリは数学の才能を認められ、カルダノの書記に、またのちにボローニャ大学の教授となりました。彼の発見した四次方程式の解法は、四次方程式の解法を三次方程式の解法に還元し、平方根、立方根によって解くものでした。つまり、

「この四次方程式を解くのにはこういう形にすればよい。そのためには、こういう三次方程式が解ければよい。よって、この四次方程式は解けた。」

というものでした。

18才の時に、一人でミラノで教え始めました。彼は、そこでまた当時の数学の競技会で非常な成功を収め、マントゥヴァの宮廷や枢機卿の注目をひくことになりました。後者の恩顧を得て、彼の地位は確かなものとなり、多くの収入を得ました。それから、彼はボローニャ大学で数学の教授になりました。しかし、そこでの勤務の一年目に、33才でヒ素で何者かに毒殺されました。犯人は、カルダノの妹が、唯一人の容疑者であるとも言われています。

参考文献
カルダーノ自伝(平凡社)、ボイヤー数学の歴史3(朝倉書店)

付記5 高精度計算サイト(カシオ計算機株式会社)

今日、三次方程式や四次方程式はカルダノの公式やフェルラリの公式を使わないで、近似値を追い込んで求めることが普通です。今年2008年4月から高精度計算サイト(カシオ計算機株式会社)ではだれでもWEBで無料で三次方程式や四次方程式の解を求めることができるようになりました。

次のサイトにある検索窓に「三次方程式」とか「四次方程式」とか打ち込んでみましょう。

高精度計算サイト(カシオ計算機株式会社)
http://keisan.casio.jp/has10/Menu.cgi

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5. タルタリアについて『学校選択』の記述に関連して

6. タルタリアについて『学校選択』の記述に関連して16世紀イタリア最大の数学者の一人、タルタリアは、ブレシアで生まれました。生まれた年ははっきりしていませんが、カルダノとほぼ同時期に生まれたようです。本名はニコロ・フォンタナです。彼の父は郵便配達夫であり、勤務中にフランス軍に殺されました。タルタリアはガストン・ド・フォワによるブレシアの占領に子供ながら参加していて、その時にフランス兵から顔をサーベル(刀)で斬りつけられ、それが原因で話すことが不自由になったと言われています。

『学校選択』では、二つの事件をつなぎましたが、実際には多少の時差はあります。しかし、タルタリアにとってはどのみち二つの事件はひとつながりであったと考え、紙面の都合でつなぎました。

こうしたことから、彼はタルタリア(どもる人)というあだ名が付けられ、その名が彼自身が公に出版した著作の中で、また、カルダノの著書でもタルタリアという名が用いられています。

タルタリアは独学の人でしたが、数学において非常な能力を得ていました。ヴェローナやヴィチェンツァ、ブレシアやヴェネチアで学問を教えることで生計を立てていました。

タルタリアは、三次方程式の解法を実質的に完成していました。すでに述べたように、タルタリアは自分が公表するからそれまでは公表しないでくれと約束してカルダノにその秘密を告げましたが、6年後の1545年にカルダノがその誓いを破り出版しました。

それにしてもタルタリアはなぜ6年もの間、公表しないままでいたのでしょう。

それは、還元不能の問題が解決できなかったからでしょう。それはカルダノも同じでした。しかし、カルダノは見切り発車をしたのでした。フェルラリの助言があったのかもしれません。

タルタリアは、また、数学を砲術に応用した最初の人でもありました。そのテーマは、ガリオ・ド・ジェヌイラックとジャン・デストレによって、経験によって完成されたばかりでしたが、タルタリアは二次関数で裏付けました。これによって大砲の命中率が格段にアップしました。これにより、国から、研究助成金が与えられました。また、その世紀、イタリアに現れた算術についての最良の論文も書いています。それは、数の操作(演算)と、算術によるイタリアの商業規則についてのべていました。人々の生活、商人たちの習慣、そして16世紀の算術を改善しようという努力が、すべてこの注目すべき著作には書かれています。

タルタリアは、また、エウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスの版も、エウクレイデスやアルキメデスの名を出さずに彼らの書を引用して、自分が教えるための教科書として出版しています。ベロナ大学からビツェンザ大学、さらにベネツィア大学教授として招かれました。

カルダノの『大いなる技法』は、こうした一連のタルタリアの著作をふくめて「従来の小技法」として、それをこえるものだと言いたかったのです。タルタリアはだから怒り出したのでしょう。

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6. タルタリアの三角形

「パスカルの三角形」はイタリアでは「タルタリアの三角形」といわれていますが、「パスカルの三角形」以外にも「タルタリアの三角形」と言われているものがあります。日本で、「タルタリアの三角形」と言われているのは次の2つです。このことは、本稿2007年8月号「涙の理由」でも触れましたが、ここではもう少し詳しく見てみましょう。

中学入試で2度ほど見たように記憶していますので、たぶん5回くらいは出ているのではないかと思いますが、あまり出題例の少ない三角形状に書かれる数式です。

タルタリアの三角形1

日本でタルタリアの三角形と言われているものの1つは次のようなものです。

7. タルタリアの三角形

各行の先頭(いちばん左の数)が、1、4、9、16、……というように平方数になっていることに着眼してこの秘密を図解すると次のようになります。

7. タルタリアの三角形

この図を見ただけで成り立つことが明らかでしょう。

これはまた、各行のまん中の数が、2、6、12、20、……と矩形数になっていることに着眼して次のように図解することもできます。

7. タルタリアの三角形

このようにすることもできます。

タルタリアの三角形2

日本でタルタリアの三角形と言われているものの2つ目は次のようなものです。

7. タルタリアの三角形

ここで、各行の=をはさむ両側の数の差をとりますが、ここでは、「平方の差は、和と差の積と等しい」ことを使いましょう。このことをまず説明します。

7. タルタリアの三角形

となります。この式は、計算の工夫にも使えますので、中学受験生の読者の中には、知っている人もいるでしょう。

このことをふまえて、「タルタリアの三角形2」を見てみましょう。各行の=をはさむ両側の数の差は

52-42=(5+4)×(5-4)=9=32
142-132=(14+13)×(14-13)=25=52
252-242=(25+24)×(25-24)=49=72
412-402=(41+40)×(41-40)=81=92
612-602=(61+60)×(61-60)=121=112
・・・・・・・・・

となり、奇数の平方になっています。以下どれでも同じですが、4行目の式で、真ん中から順に外側の数の差をとりましょう。

4行目の式 362+372+382+392+402=412+422+432+442

412-402=(41+40)×(41-40)=81×1
422-392=(42+39)×(42-39)=81×3
432-382=(43+38)×(43-38)=81×5
442-372=(44+37)×(44-37)=81×7

7. タルタリアの三角形

となるので、81×(1+3+5+7)=81×16=(9×4)2=362

「タルタリアの三角形」に関する中学入試対策の知識としては以上のことを押さえておけば十分だと思います。

「タルタリアの三角形1」の方の図解は、これを見た瞬間に思いついていたので、「タルタリアの三角形2」もちょっと考えると、小学生でもわかる説明がすぐわかると思っていました。しかし、本稿を書く段になって、数が大きくなるので単純な図解はできないことに気づき、かなり考えて思いつきました。たぶん、現在、他ではタルタリアの三角形の解説はあってもすべて文字式で説明されたものばかりで、本稿のようなものはないはずです。

さて、2つの「タルタリアの三角形」を見ると、読者の中に、3乗のタルタリアの三角形はできないものだろうかと類推した人もいるかもしれません。そうして、おそらくタルタリアもそう考えたでしょう。そうして、それはできなくてタルタリアはあきらめたのでしょう。

これはできないのです。フェルマーの最終定理(さいしゅうていり)(フェルマー・ワイルズの定理)が、「3乗のタルタリアの三角形」の第1行に当たるからです。

タルタリアは、フェルマーが生まれるちょうど100年前に生まれていましたが、フェルマーの最終定理に気づいていたことになります。

さて、「3乗のタルタリアの三角形」の第1行はできないとして、とびとび行でもいいから、「3乗のタルタリアの三角形」はできないかというと、これは単にいま思いついたばかりで、価値ある疑問かどうかもわかりませんが、今のところ解いた人はいないのではないかと思います。

「n乗のタルタリアの三角形は、nが3以上のときできない」といえそうな気がします。ただ、少なくとも、連続する整数や等差数列では「3乗のタルタリアの三角形」はできないでしょう。そのことは、3乗の数は大きくなればなるほどみるみる大きくなるから容易に予想がつきます。次に述べる、京都大学の入試問題からも予想されます。

そういう制限をなくし、(n+1)個の立方数の和とn個の立方数の和とが等しくなることがあるか。というと、こういう風に考えていくうちに、これは、難しいかもしれないが、あまり美しくない問題なのではないかと思えてきます。しかし、予想に反して、ある行からどんどん見つかって、それが思いがけなく美しい「3乗のタルタリアの三角形」ができるのかもしれません。

何かを学んだとき、ときおり、少し広げて考えると、学習が主体的になって面白いと思います。それが本当に新しい発見につながるかもしれません。算数数学を単に与えられた問題解きの学習だと考え、それが解けることで「算数数学が好きだ」と思っている人も多いように思いますが、それは受身の学習態度であり主体的な学習態度ではないと思います。

コワレフスカヤの「数学は最も想像力が要求される科学です。詩人が他の人の見逃すことを見つめるように、数学者もそうでなければなりません。」という言葉は既に紹介済みですが、ときどき、数学が好きで大学の数学科に進み、「大学の数学科の数学は高校までの数学とまるで違う」となやむ人が少なくないといいますが、いつも、主体的に考えるようにしておくと、また、少し違うのではないかと思われます。

参考 フェルマーの最終定理(さいしゅうていり)(フェルマー・ワイルズの定理)

フェルマーの最終定理とは、「3以上の自然数 n について、+yn=zn となる 0 でない自然数 (、y、z) の組み合わせがない」ということである。

n=2 のとき、上の式を満たす整数の組をピタゴラス数といい無限に存在する。

17世紀、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1601年~1665年)が、ディオファントスの著書『算術』第2巻第8問
+y2=z2の有理数解を求めよ」の欄外余白に

「n が3以上のとき、一つの n 乗を二つの n 乗の和に分けることはできない。この定理に関して、私はまことに驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」

と書き残した。

1994年にイギリスの数学者で、現プリンストン大学教授(整数論)のアンドリュー・ワイルズ(1953年4月11日~)によって証明された。

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7. 立方数の差(2005年京都大学前期数学2題)

2005年京都大学前期の数学の問題に文系と理系で似たような「立方数の差の問題」が出ました。まず、『学校選択』に載せた、文系の問題の方の類題について考えてみましょう。

問題1
a×a×aというように同じ数を3個かけ合わせた積をa3と書き「aの3乗」と読むことがあります。
a3-b3=63であるような自然数a、bの組み合わせ求めなさい。

(2005年京都大学前期文系数学4番改題 『学校選択』)

解法
立方数を順に書き並べると、

1、8、27、64、125、216、・・・・

となる。

その階差数列をとると、

7、19、37、61、91、・・・

となるので、

a、bの候補は、1から5に限る。

64-1=63なので、a=4、b=1

答え a=4、b=1

(注)
ここでは小学生の問題として解きました。自然数でなく整数であれば、大学入試の場合には負の数も考えるので、a=-1、b=-4も答えになります。

答え (a、b)=(4、1)、(-1、-4)

もとにした問題は次のような問題です。

4 a3-b3=65を満たす整数の組(a,b)をすべて求めよ。

(2005年京都大学前期文系)

答え (a、b)=(4、-1)、(1、-4)

改題では、負の数に触れないようにするために数値替えをしました。京都大学の問題では、a、bの候補は、-5から5に限ることになります。

問題2
a×a×aというように同じ数を3個かけ合わせた積をa3と書き「aの3乗」と読むことがあります。
a3-b3=217であるような自然数a、bの組み合わせ求めなさい。

(2005年京都大学前期理系数学4番改題 進学レーダー)

答え a=9、b=8

解法
立方数を書き並べると、

1、8、27、64、125、216、343、512、729、・・・・

となる。

その階差数列をとると、

7、19、37、61、91、127、169、217、・・・

となるので、

a 、bの候補は、1から9に限る。

729-512=217なので、a=9、b=8

答え a=9、b=8

(注)
ここでは小学生の問題として解きました。自然数でなく整数であれば、大学入試の場合には負の数も考えるので、a=-8、b=-9も答えになります。

また、216+1=217なので、216-(-1)や、1-(-126)から、a=6、b=-1やa=1、b=-6

も考えられます。

もとにした問題

4 a3-b3=217を満たす整数の組(a,b)をすべて求めよ。

(2005年京都大学前期理系)

答え (a、b)=(9、8)、(-8、-9)、(6、-1)、(1、-6)

参考
この問題では、立方数はもとの数が大きくなればなるほど、それにもまして大きな数になるので、二つの立方数の差は113-103=331、1013-1003=30301というようにめきめき大きくなりますから、差が65になるにしても、217になるにしても、もとの数どうしは0に近い限られた小さな数どうしになります。このことに気づけば、小学生にも届く問題といえます。大学入試であっても、そうした考えを付け加えて記述すれば通用する解法と思います。

高校生らしい解き方としては、

絞り込みに、a3-b3=(a-b)(a2+a×b+b2)と217(=7×31)を対比させ、約数の場合分けをするとよいでしょう。

しかし、この問題のポイントは、立方数はもとの数が大きくなればなるほど、とても大きくなるという大局観です。こうした感覚は、算数を主体的に遊んでいれば強くなると思います。

なお、京都大学では解法を公表していません。上の解法は小学生向けに真藤啓が独自に書いたもので、このまま大学入試の答案としては記述することをお勧めするものではありません。

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8. たし算の中の-1

先月、ご紹介した、『数学はいつも苦手だった』(アルブレヒト・ボイテルスパッヒャー 日本評論社) で、次のようなジョークも載っていました。

空(から)の教室に学生が一人入り、二人出てきた。それを見ていた数学者が言う。
「もう一人入っていったら、教室は空になる」

8. たし算の中の-1つまり、-1というのは、「ある数に1を足すと、0になる」というときの、その数のことであるというわけです。言い換えると、

「ある数に3を足すと、2になる数」

「ある数に100を足すと、99になる数」

でもあります。

たし算における(-1)の印象をよく伝えるジョークだと思います。

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9. かけ算の中の-1と虚数

2は4の平方根だと書いたことがありましたが、平方根とは何乗のことでしょう。何乗というのは

41=4
42=16
43=64
44=256
……

ですが、4の平方根は4の乗(=2)なのです。4を「半分個かけ算した数」なのです。このことを記号ルート(√)を使って =2と表します。実は、4の平方根は2個あって、1つは2で、もう1つは-2なのです。2×2=4、(-2)×(-2)=4なのです。

しかし、むかし(ここでは、16世紀中ごろのイタリアのこと)は、0より小さい数なんて考えていなかったので、そういう数を無視してきました。つまり、数の範囲が今の小学生の数と同じまま、2次方程式というものを考えていたのです。

10. かけ算の中の-1と虚数

ところが、三次方程式を考えると、どうしても、負の数について考えざるを得なくなってきたのです。それどころか、虚数といって、数直線を飛び出す数も考えなければならなくなったのです。

(-1)をかけるということは、数直線上の点を原点0を中心として対称な点に対応させることと考えることによって、-1も1も=1にあてはまるの値だと気がつきました。

10. かけ算の中の-1と虚数

-1をかけるということは、ある数を、原点(0)を中心に180度回転した数に対応させるという意味がわかってきました。

10. かけ算の中の-1と虚数

さて、ここで、=1にあてはまる数について、考えてみましょう。

=1だとすぐ思った人も多いでしょう。1×1×1=1ですから、=1が答えであることは明らかですが、ここで、1のほかにもあると空想してみましょう。その1つをω(オメガ)とよぶことにすると、ω、ω2、ω3(=1)の3つが、=1の答えになります。

10. かけ算の中の-1と虚数

ここで、ω、ω2、1の3つの数のうち、2つのかけ算を考えてみましょう。

ω×ω=ω2、ω×ω2=1、ω×1=ω、
ω2×ω=1、ω2×ω2=ω、ω2×1=ω2
1×ω=ω、1×ω2=ω2、1×1=1

このかけ算を表にすると、

10. かけ算の中の-1と虚数

となります。ここで、ω、ω2、1のうちのどれとどれをかけ算しても、必ずω、ω2、1のどれかになり、新しい数が出てこないことがわかります。

A×B=Cのとき、C÷B=Aですから、上のかけ算をわり算で表してみましょう。

ω2÷ω=ω、1÷ω2=ω ω÷1=ω
1÷ω=ω2、ω÷ω2=ω2、ω2÷1=ω2
ω÷ω=1、ω2÷ω2=1、1÷1=1

となります。ここで、ω、ω2、1のうちのどれとどれをわり算しても、必ずω、ω2、1のどれかになり新しい数が出てきません。

こうした計算をほとんどの小学生は理解できますが、大学生になってはじめて学ぶとひどく難しく感じて、このような数はないと感じるようです。

ωのような数を虚数(複素数)といって、交流電圧など周期のある関数に現れ、コンピューターやテレビ等など、半導体を使う多くの電気機器に広く使われている実在の数なのです。

虚数(複素数)は実在しない数だと考える大人も多いので、あえてここで取り上げました。

地球は動いていて、虚数は実在する。

例えば、地球が動いているということは子どもも知っています。ではその説明はというと知らない人も多いのではないでしょうか。同じように、虚数は実在し、毎日身のまわりのもので活躍しています。

地球の自転はフランスの物理学者ジャン・ベルナール・レオン・フーコー(1819年9月18日~1868年2月11日)による「フーコーの振り子」の実験で理解することができますが、その理由の説明となると大人でも結構難しいと思います。

フーコーはほかにエディカーレント(渦電流)の発見などでも知られています。「フーコーの振り子」はどこで見られるかというと、「日本のフーコー振り子調査リスト」という大阪市立科学館運営の次のサイトで確認できます。「地球が動いている」という証拠を一度見るのも面白いと思います。

日本のフーコー振り子調査リスト(大阪市立科学館)
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~yoshiya/foucault/list2.html

=1にあてはまる数のうち、4乗して初めて1になる数の1つを(アイ)とよぶことにすると、、(=-1)、 (=-)、 (=1)の4つが、=1の答えになります。

10. かけ算の中の-1と虚数

10. かけ算の中の-1と虚数

1、、-、-1のわり算

1÷1=1、1÷=-、1÷(-1)=-1、1÷(-)=
÷1=-÷=1、÷(-1)=-÷(-)=-1、
-1÷1=-1、-1÷、-1÷(-1)=1、-1÷(-)=-

1、、-1、-のどの2つ数のかけ算の答えも1、、-1、-のどれかになり、1、、-1、-のどの2つのわり算の答えも1、、-、-1のどれかになり、そのほかの数になることはありません。

オメガ(ω)
オメガとは、ギリシア語のアルファベット、
α(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)、……、ω(オメガ)

の最後の文字です。数学では角速度や、本稿のように、1の虚n乗根に使われます。本稿では、1の虚立方根をωとしていますが。1の虚5乗根をωとしてかけ算の表を作ってみると面白いと思います。

数学以外の文章では、「究極的な到達点(物事の最後)」といった意味でオメガという言葉が使われることがあります。

ωの大文字はΩで、おもに電気抵抗の単位に使います。電気抵抗の単位に使われるときにはオームと読みます。これはドイツの物理学者ゲオルグ・ジーモン・オームの名に由来します。

ルート(√)
植物の「根」という意味の英語ルートの頭文字のrを変形してできたものです。ルートの複数形のルーツという語は「(物事の)根元」とか「祖先」を表します。平方根という意味でのルート(√)はルドルフ・ファン・コイレンが『代数(1525年)』という本で使ったのがはじめです。

そういえば、『博士の愛した数式』で主人公の息子のあだ名がルート君でしたね。

コイレンはドイツの数学者1540年ヒルデスハイムに生まれ、1610年ライデン(レイデンとも書く)で亡くなりました。

コイレンは、正32212254720(=60×229)角形の辺の長さを計算し、35桁目まで π の正しい値を計算しました。この計算はコイレンの生涯をかけた計算であり、コイレン自身これを大変誇りとし、墓標にこの値を刻ませました。墓標はその後失われ、碑銘のみが伝わっています。

ドイツではコイレンという姓で呼ぶよりもルドルフという名で呼ぶことが多く、彼の名にちなんで円周率をルドルフ数と呼んでいます。

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10.0が特別であることについて

キッズレーダーで「0をなかまに」ということを書きましたが、今回はやさしいのですねという感想を多くの人に言われました。必ずしも否定的な反応ではありませんでしたが、……。

節1でも書きましたが、この節では、0って意外と難しいのですよということを補足したいと思います。

1.「0」は何けたの数

ひとけたの数は、1、2、3、4、5、6、7、8、9 です。0 を入れないのが普通です。

「ひとけた」という解釈によって微妙なところがありますが、たとえば、5 けたの数というと、34567 というように数字を5個並べた数ですが、先頭の万の位の数字に 0 は来ません。

2 けたの数というと、79 というように数字を2個並べた数ですが、先頭の十の位の数字に 0 は来ません。

したがって、ひとけたの数に 0 は入りません。

2.0の0乗は「わからない」?!

00 は1なのでしょうか。0なのでしょうか。

例えば、3の0乗は何でしょう。3を1個もかけ算しないので、30=1です。初めの数が1で公比3の等比数列は、1、3、9、27、81、……ということからもわかるかもしれません。

どんな数nについても、n0=1です。

では、0 のn乗は何でしょう。0 は何個かけ算しても0ですから、0n=0です。

さて、00 は1なのでしょうか。0 なのでしょうか。

大人の人に聞いてみると、だいたい、

「0」、「1」、「わからない」、「きめられない」

という4通りのうちのどれかの答えが返ってくるでしょう。「わからない」とか、「きめられない」というのが正解ですが、「わからない」とか、「きめられない」ということが大嫌いな大人も多く、そういう大人は「0」とか、「1」とか言って頑張ることがときどきあります。

「わからない」というのは、ちょっと情けない感じもしますので、これを読んだ大人の人は子どもに聞かれたときは「きめられない」と答えるようにするとよいのではないでしょうか。「0」か、「1」のどちらか一方を言って頑張ると、すぐに、あるいは時差があるかもしれませんが、少し関係がこじれるかも知れません。逆に言うと、これを読んだ子どもは、大人に「0の0乗はなあに」などと質問しないほうがよいでしょう。0はまた無限大と密接な関係があります。そういうことを含めて考えると、0って意外と難しい数なのです。

最後に

三次方程式の代数的一般解法については、二次方程式の解の公式を知って少し使い慣れたころに学ぶべきで、逆に言うと、その程度の予備知識で導くことはできることはできます。しかし、その導かれたものに対する意味把握は悩ましいと思います。

ですから、高校でも教科書には載っていません。しかし、自分で三、四次方程式の代数的一般解法などに一応取り組んでおいたほうがよいと思います。文字式の変形としては理解できると思いますが、もやもや感が残ると思います。そして、いつかすっきり分かってやろうという気になることでしょう。そして、そういうもやもや感が残るようなものは教科書には載せられないのです。しかし、自分で楽しむのはよいと思います。すると、カルダノやタルタリアが悩んだことがよくわかると思います。

一方、それと切り離して、1の虚立方根、1の虚5乗根などについては、乗法演算表(かけ算の表)を作って遊んでおいたほうが難関大学受験にはよいと思います。そうしたことを背景にした問題も出るからです。

こういう感じの計算は、小学生でもできると思います。「自分だけの作り算数」の感じでやっても面白いと思います。これは、時計の計算などから思いつくかもしれません。

『0をなかまに』に、

いま 9じです。あと 7じかんたつと 何じに なりますか。
ごぜんとか ごごとかを 使わないで、12より 小さい数を 使ってこたえましょう。

という問題を出しましたが、これは、この問題を見て、みなさんにも「自分だけの作り算数」を思いついてほしいと思ったということもあります。

そして、こうしたことを背景にしたような問題が受験算数にもときどき顔を出しています。

虚数の立方根など、ここまでは少し書きすぎであるという人もおられることでしょう。また、どうせここまで書くならもう少し徹底的に書けという人もいるかと思います。ある意味で書き足りないのはもっともですが、しかし、ここまで書くと道筋ができているので、いろいろ考えを巡らせることができると思います。根源的なことは、大人も子ども同じように難しく、どちらかというと先入観がない分、子どもの方がわかりやすいと思います。軽く目を通して、さらに自分でも何かに気付くようにすると、のちに大きな力が発揮できると思います。

算数は空想で広がり、現実がやがてその空想に追いついてくるのです。

これらの感覚が、受験算数にどう結びつくかということは追って述べたいと思います。

ざっと読んで自分でも少し考えてみる、というのが、本稿を読む秘訣です。

小学生の皆さんに、「知らなかった、知ってよかった」と思えることが1つでもあるとよいなあと思いつつ……。

参考サイト
啓林館という教科書会社のサイトで、「発展的内容の授業の一例 カルダノの解法について」と題して、カルダノの解法について述べられています。教科書には載せられないけれども、ぜひ皆さんにも挑戦してほしいものだと教科書会社が言っていると私は受け止めています。

発展的内容の授業の一例 カルダノの解法について
宮城県第一女子高等学校教諭 髙橋富彦氏 (教科書会社 啓林館のサイト)

高等学校では新課程になって3年目を迎え、一昔前までは当然のように知っていたであろう数学知識の欠落に目を疑います。日々の授業を通して、数学に興味・関心を抱かせ続けることが大切であると感じています。

http://www.shinko-keirin.co.jp/kosu/mathematics/jissen/jissen40.html

蛇足 9月号で紹介した映画のあらすじが「goo映画」で読めます。

1.数学者 岡潔(おかきよし)をモデルにした映画「好人好日」のあらすじ
好人好日(1961) goo映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20406/story.html

2.棋士 坂田三吉(さかたさんきち)をモデルにした「銀が泣いている」で知られる映画「王将」のあらすじ
王将(1973) goo映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19891/story.html

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