日能研教務部算数科 真藤 啓
本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものとそろえ、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。
けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。
『進学レーダー』10月号(みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 女性数学者 知子」
『キッズレーダー』10月号(日能研) 算数エッセー「おいしい算数 女性と数学」
『学校選択』10月号(全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて ドーナツ型の体積」
ロシアの女性数学者知子さん
「数学を学ぶ必要を感じなかった人は、数学を算数と同じような、きまりきったつまらない科学と思っているかもしれません。しかし、実際には、数学は最も想像力が要求される科学です。詩人が他の人が見逃すことを見つめるように数学者もそうでなければなりません。私自身に関して言えば、私は生涯ずっと、自分が文学に向いていたか数学に向いていたのか決められませんでした。」
作家でもあった、ロシアの女性初の数学者ソーニヤ・コワレフスキーは日本ではほかの国と同じようにふつう英語読みのソフィア・コワレフスカヤあるいは単にコワレフスカヤと言われています。
偏微分を考えた数学者として知られています。
ソフィアというのは知という意味です。哲学はフィロソフィーと言い、これの直訳がフィロ(愛)ソフィー(知)であることからも知っている方も多いと思います。ですから、ソフィアというのは日本語に直すとさしずめ「知子さん」に当たります。
裕福な家庭に育った知子さん
この知子さんは、1850年1月15日にモスクワで生まれました。お父さん(ヴァシーリイ・ヴァシリエヴィチ・クルコフスキー)はポーランド系の砲兵隊将校でした。のちに将軍になります。ハンガリー王国国王マーチャーシュ・コルヴィヌスの遠い子孫にあたり、ロシア政府当局から貴族としての地位を認められました。
お母さん(旧姓エリザヴェータ・フョードロヴナ・シューベルト)はドイツ人で、お母さんのお父さんはアカデミー会員で、お母さんのおじいさんはサンクトペテルブルク科学アカデミーの数学者・天文学者であり、お母さんの夫つまり、お父さんよりも教養豊かな女性でした。
知子さんは父方の祖父がポーランド人だったこともあり、19世紀当時ロシアに制圧されていたポーランドの革命運動に対しては、他のロシア人に比べて深い関心を持っていました。
壁紙の教科書
家を改装するとき子ども部屋の壁紙がたりなくなったので、お父さんは大学のときに使った数学の教科書を切り取ってはりました。知子さんは幼いころから毎日それを眺めていました。意味は全然わからないけれども時々じっと眺めることもありました。
知子さんの叔父さんは、独学で数学を研究したアマチュア数学者でした。知子さんはこの叔父さんが大好きでした。この叔父さんに壁紙を読んでもらい、その意味を聞きました。叔父さんは意味を説明するかわりに小学一年生の算数を教えてみました。すぐにあきらめると思ったのですが、知子さんはどんどん理解しました。それで、叔父さんも面白がって、時々、知子さんに算数を教えますと、とどまることなく理解するのでした。
知子さんは、お父さんやお母さんにあまり愛されていないことを知っていました。知子さんはお姉さんと弟の3人兄弟でした。知子さんが、生まれる時、今度は男の子が生まれてほしいと思っていたようです。知子さんが女で生まれてきたのでお母さんが泣いたそうです。そうしたことを知子さんは何となく感じていました。お姉さんや弟は、お母さんやお父さんに甘えるのがとても上手でしたが、知子さんはぎこちなくうまく甘えることができませんでした。叔父さんは、丁寧に算数を教えてくれたので叔父さんと算数が大好きになりました。
三角関数を自分で理解
知子さんの近所に物理学の教授が住んでいました。何かの折、叔父さんはこの教授に知子さんのことを話しました。知子さんが十二才になったとき、この教授は面白がって、自分の書いた本を知子さんに上げました。それは大学生向けの光学の本でした。知子さんは熱心に読みましたが、途中で三角関数のところで、つまずきました。そのときはまだ、三角関数は学んでいなかったのでした。叔父さんに三角関数の初歩的な知識を教わりました。「わかったわ。あとは自分で考えられそう。」知子さんは、三角関数の初歩を少し教わっただけであとはすべて自分で考え、光学の本を理解して読み終えました。
教授に会ったとき、本のお礼を言い、どのように理解してどのように面白かったかという感想を述べました。知子さんが、数学の歴史において三角関数が展開されてきたのと同じ方法で説明してみせたので、教授は目を丸くして驚き、彼女を「パスカルの再来」と呼び、家庭教師をつけて数学の研究を続けさせてやれと彼女のお父さんに嘆願したのでお父さんも折れました。というか、お父さんは、むしろ喜んで言う通りにしました。
しかし、知子さんが大学で数学を学びたいと言い出したので、数学の勉強をやめさせてしまいました。当時のロシアではどれだけ才能があっても女性は大学に入れなかったのでした。そのため彼女は、家族が寝静まった夜中に、借りてきた代数学の本などをこっそりと読んでいました。
生涯、これ以上の数学を学ぶことができないと考えるとぞっとしました。何のために生きているのかわからないと思えてきて涙が出て仕方がありませんでした。
初恋
お姉さんのアンナは懸賞小説に応募し入選しました。アンナはその時の審査員だった、文豪ドストエフスキーから交際を求められました。ドストエフスキーは従順な妻像をアンナに求め、それを嫌うアンナといつも口論していました。知子さんはそのドストエフスキーと知り合って彼にあこがれと淡い恋心を抱き、関心を引くためにドストエフスキーが好きなベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」の練習までしましたが、ドストエフスキーは姉のアンナにしか関心をもちませんでした。
父母からも、ドストエフスキーからも、姉へのような愛情を得られないことは心にしこりを残しました。
偽装結婚
当時のロシア人女性は国内で高等教育を受けることができませんでした。しかも、夫や父親の許可証なしに家族と別居して外国へ行くこともできなかったのでした。できないとなるとあきらめる人も多いのですが、かえって、何としてもやりたいと思う人もいるものです。知子さんもその一人でした。「父親の許可」が絶望的でしたので、あとは、「留学を許す夫」が必要になります。やむをえず偽装結婚することにします。ドイツやフランスの大学へ留学することに憧れていたロシアの上流階級の進歩的な女性たちの間では、こうしたことは少なくなかったようです。
1868年に、知人の紹介で知り合った若き地質学・古生物学者ウラジミール・コワレフスカヤと契約結婚しました。形式的には正式な結婚であり、知子さんの名はソフィア・クルコフスキーからソフィア・コワレフスカヤに変わります。だから、本当に好きな人が現れても2人はそれぞれ、そのままでは結婚できないことになります。
知子さんにとってはともかく、夫コワレフスカヤはなぜ結婚したのでしょう。進歩的な女性を応援することに意気を感じていたのです。
非公式の聴講生、教授を驚かせる
「結婚」した翌年、知子さんはハイデルベルク大学へ出発しましたが、ここでも女性の入学は受け付けていないということを知らされました。しかし、必死に食い下がり、講師の許可を得た上で非公式の聴講生として受講する許しを得ました。レオ・ケーニヒスベルガー教授から楕円関数を学んだり、グスターブ・キルヒホッフ教授、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ教授の物理学の講義も受けました。また、ローベルト・ブンゼン教授とも知り合いました。そして、三学期間を優秀な成績で修了しました。彼らはみな当時珍しかった女性数学研究者の才能に驚いていました。
学位をとる
ケーニヒスベルガー教授は講義の中で、自分の師であるカール・ワイエルシュトラスに対する尊敬の念をつねづね語っていたので、知子さんは先生の先生であるワイエルシュトラス大先生のもとで学ぼうと思い、ベルリン大学へ向かいました。
大先生は、はじめ知子さんの弟子入りを断ろうと思いました。それで、テストを兼ねてわざと大学院試験なみの難しい問題を出し諦めさせようとしました。ところが、彼女が難なく解いたのを見てその才能を確認して、以後、大先生は知子さんをむしろ積極的に応援しようと思うようになりました。手始めに大先生は彼女を自分の講義に迎え入れようとしました。大学評議員会に申し入れましたが、ここで拒否されたため、大先生は知子さんの家庭教師として、四年間にわたって個人的に指導しました。
1874年、知子さんの三つの論文に対し、ゲッチンゲン大学から数学の学位が与えられました。これらの論文のテーマは
この中でも、特に『クレレ誌』に発表された偏微分方程式についての研究は初期値問題の解が一つであることを示したもので、現在では「コーシー・コワレスカヤの定理」として知られています。コーシーが特異解を、知子さんが一般解を与えて理論を完成させたのでした。今日、専門の教科書の最初にいつも出てくるほど有名な定理です。
数学からはなれた6年間
同年に彼女はロシアへ戻りました。この学位と大先生の強い推挙により数学者としての名声は知れ渡っていたので、男なららくらく教授になれるはずでした。しかし、サンクトペテルブルク大学で職を得ることはできませんでした。高校や中学の教師にもなれず、OKが出た職の中で最もマシな職は小学校の算数の先生でした。がっかりしていたちょうどそのころ、悪いことが重なるもので、お父さんが亡くなりました。知子さんは、しばらく何も手に付かずにいましたが、やがて、気晴らしのために社交界デビューしたり文学に手を染めたりなどしてしました。
以後六年間にわたり、大先生との交友も途絶え、数学からは手を引くこととなりました。美人だったので社交界ではたちまち有名になりますが、虚しさをひきずっていました。この間に、父から残された遺産の半分は消えていきました。そのころ、夫コワレフスカヤに本当の結婚を申し込まれ、心を動かされて結婚して娘を産みました。
再び数学へ
しかし、同居してから、次第に知子さんと夫は意見が合わなくなりました。
夫は事業を起こしましたが、ことごとく失敗しました。知子さんの資産の残りの半分も消えていきました。ますます、二人の意見が合わなくなり、知子さんは再び数学への情熱に目覚めました。
知子さんは単身モスクワへ行きますが、大学で博士号試験を受けることは認められませんでした。翌年、教授職を得るため彼女はモスクワを去り、大先生を頼ってベルリンとパリへ向かいました。ロシア・モスクワを去ったのには、事業に失敗して以降彼女と意見の合わなくなっていた夫との別居という意味も含まれていました。
誤った論文、夫の自殺
1882年から、彼女は結晶体における光の屈折に関する研究に打ち込み、三本の論文を執筆しますが、前提としていたガブリエル・ラメの研究と同じ誤りが含まれているとヴィット・ヴォルテラによって指摘されました。
翌年3月、パリ滞在時に夫コワレフスカヤが自殺しました。ショックを受けた彼女は、引きこもり、拒食、失神、という荒(すさ)んだ生活を続けることになりましたが、同年の秋には立ち直ることができました。
ゲスタ・ミッタク=レフラーの強力な支援
知子さんと同じく大先生の弟子にゲスタ・ミッタク=レフラーがいました。当時ストックホルム大学の学長だった彼の招聘により、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、まもなく同大学の教授になりました。初めは学校当局に反対され、ためしにということで非常勤講師として採用されましたが、女性でも問題がないということが確認され、教授になりました。ロシア人女性としては初の大学教授でした。知子さんはゲスタ・ミッタク=レフラーの伝記を書きました。
ノーベル賞に数学部門がない理由
そのころ、ノーベルはニトログリセリンに対して制御装置をつけたダイナマイトを作りましたが、これが、戦争に使われたために、莫大な資産を手にしました。これを優秀な子どもに残したいと思い、四十三歳ころから、優秀な女性と結婚しようとして行動しますが、ことごとく失敗しました。六十才のとき、三十三才の知子さんにも結婚を申し込みますが、そのころ、知子さんは数学者ミッタク=レフラーの保護下にあり、断られました。
結局、ノーベルは生涯独身で子どももいませんでした。ノーベルの遺言はわかりにくく遺産相続に固有名詞がなく、一方、膨大な遺産が知れ渡るとともに親戚を名乗る人が増えていたので、親戚の間でもめることになりました。遺言には資産の一部を基金にして賞を設立したい旨が書かれていたので、故人の意志を尊重して、ノーベル賞が設立されました。賞のいくつかの部門に数学部門がありませんでした。そして、その理由が書かれていないため、あれこれと俗説が流れています。
そうした中には、知子さんとミッタク=レフラーが原因であるとする説もあります。
晩年の自叙伝が好評
知子さんは終生の地となるストックホルムで教授職を務める一方、アーベル関数についての新しい理論を適用することにより論文『固定点をめぐる剛体の回転について』を完成させ、1888年にこの研究論文に対してパリの科学アカデミーからボルダン賞が与えられました。また、この分野における第二の研究成果によってスウェーデン科学アカデミー賞を受賞しました。また同年、チェビシェフらの推挙によって知子さんはサンクトペテルブルグ科学アカデミー初の女性会員になりました。
晩年には幼少期の思い出をつづった自伝的小説を執筆していて、ミッタク=レフラーの妹で友人の文学者アン・シャロット・レフラーが執筆に協力しました。ロシアやスウェーデンをはじめとして世界各国で極めて高い評価を受けています。日本にも翻訳がある『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想(訳 野上彌生子 岩波文庫)』です。他に小説と戯曲が一篇ずつ残されています。
1956年と1985年にはソ連で知子さんの伝記映画が作られています。
1891年、知子さんはストックホルムでインフルエンザと肺炎を併発し、41歳の若さでなくなりました。
付記
ソーニャ・コヴァレフスキーは、外国(アメリカなど、ロシア以外)ではソフィア・コワレフスカヤとか単にコワレフスカヤとかよばれていますが、ここでは、知子さんとしました。
ある高校の授業で、コワレフスカヤを日本語で言うと知恵子さんにあたるから、知恵子さんといって、講義をしたところバカ受けだったということをWEBで見つけました。私は、知恵子さんよりも、知子さんなのではと思い、知子さんとしてみました。進学レーダーでは初めコワレフスカヤと書いたのですが、すべて知子に直しますととても読みやすくなりました。また、文字数も節約できました。その授業がバカ受けしたというのは、ひょっとして、そのクラスに知恵子という名の素敵な女生徒がいたからではないかと想像されます。読者の方の中に、身近に素敵な知子さんがおられたらバカ受けするかもしれません。
女性が学ぶことに偏見が強かった時代に、女性でも、高度な数学を学ぶことができることを示した記念碑的女性でした。お金持ちで大邸宅の家に生まれ、数学や文学の才能に恵まれていたのに、岐路にあってしばしば、惜しまれる選択をしてしまったような気がします。また、数学発見適齢期とされる年齢のときにみすみす無為に過ごしたのも惜しまれます。
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年5月6日 - 1985年3月30日)小説家。
大分県臼杵市の造り酒屋に生まれる。14歳の時に上京し、明治女学校に入学。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚する。『ホトトギス』に『縁』を掲載して作家デビュー。以来、99歳で逝去するまで現役の作家として活躍する。法政大学女子高等学校名誉校長も努め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残している。女性の自律の意気を感じます。弥生子はソフィア・コワレフスカヤが大変好きだったという。
最晩年には、自らの少女時代の周辺のひとびとから材料をとった『森』を執筆していたが、完結には至らず、それが絶筆となった。また、『迷路』が完結した後に舞台となった中国を訪問し、延安まで足を伸ばすなど、行動力も旺盛であった。
長男野上素一はイタリア文学者、次男野上茂吉郎は物理学者であり、哲学者の長谷川三千子は三男の娘である。戒名は天寿院翰林文秀大姉。墓所は鎌倉の東慶寺。
主な作品
「大石良雄」「迷路(第9回読売文学賞)」「真知子」「秀吉と利休(第3回女流文学賞)」「海神丸」「森」「若い息子」
1971年 文化勲章 1981年 第51回朝日賞
翻訳
★『ギリシア・ローマ神話 付 インド・北欧神話』に改題
『The Age of Fable』の翻訳。日本で最初のギリシア・ローマ神話集。序文は夏目漱石。
★『中世騎士物語 (トマス・ブルフィンチ著、1942年、岩波文庫)』
『The Age of Chivalry』の翻訳。日本では最も古い部類に入るアーサー王物語集。
★ソーニャ・コヴァレフスカヤ 自伝と追想(ソフィア・コワレフスカヤ著)
今では、日本にも女性の数学教授はたくさんいます。東工大の大学院教授で、このほど、数学が苦手だった人で数学に関心ある人向けに『数学はいつも苦手だった』という訳書を出された石井志保子氏は世界の最先端の数学の研究をなさっています。WEB上でいろいろ調べてみましたが、子どものこととか、数学の知識を身につけていった過程とか、心構えができた過程とか、それにまつわるエピソードとか、そのようなことはまだあまり公表されていません。
『キッズレーダー』には、「女性と数学」と題して、日本にもこんなに素晴らしい女性数学者がいるということで、WEB上で拾い集めた石井志保子氏の言葉などを並べてみましたが、本邦初公開は、小学1年生の時、モジュライ理論のもとになるイメージを楽しんでおられたということです。「キッズレーダー」の特ダネです。
氏はたくさんの論文を発表なさっています。また、『特異点入門』という専門書を既に出されていますが、大衆向けのものは、『数学はいつも苦手だった』が初めてのようです。が、これをきっかけに、たくさん出してほしいと思います。氏には特に女性で数学が好きな子の励みになるようなものも期待したいとつい思ってしまいます。
東工大の先生では、遠山啓、矢野健太郎両先生も数学の普及に力を注がれ、「数学セミナー」の創刊や数学ガイドブックを書かれましたが、そうした空気のようなものが同学内にあるのかもしれません。
石井志保子氏(いしい しほこ、1950年12月25日 - )
数学者。富山県高岡市生まれ。
理学博士
東京工業大学大学院理工学研究科教授
専門は代数幾何学「特異点の研究」で有名
猿橋賞受賞
著書「特異点入門」
訳書「数学はいつも苦手だった」
夫君(ふくん)は富山県知事の石井隆一氏
付記
夫君(ふくん)とは、他人の夫の敬称。従来、ご主人、旦那様。
細君(さいくん 妻君)とは 親しい人に対し、自分の妻をいう語。同輩以下の人の妻をいう語。
今年2008年の灘中1日目の算数7番の問題の背景は2の平方根を求める「流れ図(フローチャート)」です。これについて説明します。すでに知っている人もいるかと思いますが、説明に先立って、3つの予備知識をあげます。
(1)平方(へいほう)・平方根(へいほうこん)
平方、平方根は逆の対応になります。
平方という言葉は、平方センチメートルという言葉もあり、四角数は平方数ともいうことなどから大体想像がつくと思いますが、同じ数どうしの2個の積のことで、そのため平方のことを自乗(じじょう)ということもあります。たとえば、
1、2、3、4、5、6、……
の平方はそれぞれ、
1、4、9、16、25、36、……
です。
このことを逆にいうとき、たとえば、
1、2、3、4、5、6、……
はそれぞれ、
1、4、9、16、25、36、……
の平方根であるといいます。
2の平方は4
2は4の平方根
では、2の平方根は何でしょう。言い換えると、
×
=2
のとき、は何でしょう。
1、2、1.5、1.4、1.414、1.415などを平方すると次の表のようになります。
は大体1.414だとわかります。試行錯誤で、
×
が2より小さくなる数と大きくなる数を調べていくと時間をかければ、誰でもできます。
こうした平方根を求めることを開平と言います。開平はもう少し気の利いた方法もあります。
(2)「間の分数」
「間の分数」についてはすでに述べたことがあるように思いますが、バックナンバーを調べるのも面倒なので、もう一度ここに書きますと、
は
と
の間の分数です。
ということです。間の分数というのはほかにもいろいろ見つける方法もありますが、たとえば足して2で割るなどは、分母の異なる2つの分数が近付けば近付くほど、その間の分子や分母がメキメキ大きくなって使いにくくなります。
(3)積が2になる2つの分数
と
の積は2です。
×
=2
次に、積が2になる2つの分数を近付けることを考えたいのですが、その前に、練習として、36の約数を求めることを思い出してみましょう。
36の約数を求めるとき、2数の積が36のものを書き並べて、
1×36、2×18、3×12、4×9、6×6
と求める人が多いと思いますが、これが、積が36になる2数を近付けることになり、平方数の平方根ならこういう方法で解けます。
積が2になる2つの分数を見つけ、次にその2つの分数の間の数を見つける。
a×b=2になるような a、bについて考えてみましょう。初めのa×b は1×2でOKです。この2つの数をだんだん近付ける方法を考えてみましょう。
1と2の間の分数で最も簡単な分数はです。これは、1と2を足して2で割っても結果的に同じことですが、
と
の分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母として
と求めます。
次にこのに対して、これとの積が2になる分数を考えます。
と
の積が2です。次にこの2つの分数の間の数を求めます。
分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母とするとと求められます。次にこの
に対して、これとの積が2になる分数を考えます。
と
の積が2ですので、次にこの2つの分数の間の数を求めます。
分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母とするとと求められます。
もうわかりましたか、
つまり、と
の積は2になり、
と
の間の数は
となるので、
初めの数Aつまりの後継者の分数Aは
とするとよいです。
このようにして得られる分数を書き並べると、
……
となります。
はじめのAをとして、その次の後継者のAを
とすることを、簡単な手順を繰り返して求めることにしましょう。次の「3つの流れ」をさせるとよいでしょう。
さて、次の問題は2008年灘中1日目の7番の数列ですが、ちょうど今考えたのと同じ感じの問題だと気付きます。
問題
右の手順で計算することを1回の操作とよぶ。Aを最初1として,この操作を5回くり返したとき,Aは,仮分数(かぶんすう)で表すと
となる。
さらにこの操作をあと回くり返したとき,Aの分母がはじめて5桁となる。ただし,Aは最初の値を除(のぞ)いて,これ以上約分できない仮分数で表すものとする。
(2008年 灘中1日目7番)
この操作でできる数を書き並べると、
……
となる。
答え ア イ 6
入試問題を解いたとき、それをしっかり理解して、少しそれを広げて何か気付いてほしいものです。
たとえば、3の平方根を求めるフローチャートを自分で作れるだろうかなどと、考えてほしいと思います。
a×b=3になるような a、bについて考えてみましょう。初めのa×b は1×3でOKです。この2つの数をだんだん近付ける方法を考えてみましょう。
1と3の間の数で最も簡単な数は2です。これは、1と3を足して2で割っても結果的に同じことですが、と
の分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母として
=2と求めます。
2との積は3です。
と
の間の分数を求めるために、分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母として
と求めます。
と
の積は3です。
と
の分子どうしを足して分子とし、分母どうしを足して分母として
=
と求めます。
と
の積は3です。
と
の間の数は
となるので、
初めのAをとしたとき、その次の後継者のAを
とするフローチャートを考えます。
となります。
入試問題を解いたとき、少しそれを広げて何か気付いてほしいものです。などというと、そんな能率の悪い学習をしていられないとおっしゃるかもしれません。実は非常に効率がよい学習なのです。算数の力が強くなり、目新しい問題にも強くなれると思います。時々、暇を見つけて心がけましょう。
お母さんがうるさい場合には、学習時間にはやらないで遊び時間にやりましょう。算数の遊びは別バラです。「算数は勉強するな、算数で遊べ。」この意気です。運用力と応用力とかいろいろ呼ばれていますが、習ったことを少し広げておくと、目新しい問題が、見た瞬間にあるいは見る前から解けるようになるのです。
コワレフスカヤは
詩人が他の人が見逃すことを見つめるように数学者もそうでなければなりません。
と言いましたが、算数もそのように楽しく主体的に学ぶことができるのです。そうしてそれは、受験にも役立つのです。
【関連問題】
略解
問題
たてが30cm、横が40cmの長方形の紙があります。図1のように,形も大きさも同じ2つの長方形(水色の部分)を切り取り,残った紙を折って必要な辺にセロハンテープをはり,図2のようなふたのあいたはこを作ります。ふたになる長方形の1つの辺の長さが4cmになるようなはこは何種類できますか。
(2008年 広島学院中5番)
解法
次の図1のア、イ図2のイがふたになる3種類
答え 3種類
注意 図3のようにはできない。
次の問題は今年(2008年)の栄東中の東大選1の4番の問題です。
4 下の(図1)と(図2)の立体は1 辺の長さが12cm の立方体です。点P、Q、R、S、T、U は立方体の各辺のまん中の点を表しています。これについて、次の各問いに答えなさい。
(1)(図1)の太線で示された六角すいC-PQRSTU の体積を求めなさい。
(2)(図2)の太線で示された四角すいC-QSTU の体積を求めなさい。
(2008年 栄東中東大選1の4番)
解法
(1)先ず、裏返して、大きな三角すいの一部とみると、
なので、18×18×18÷6×=324×2=648(㎝3)
別解1
別に裏返さなくても、これはどんな形の一部かと考えると、
なので、18×18×18÷6×=324×2=648(㎝3)
別解2
逆に底面の正6角形を6等分した三角すいを考えると、
なので、(12×12×)×(12×
)÷3×6=81×8=648(㎝3)
別解3
全体の半分のうち、6角すいからはみ出した3つの3角すいの体積の和は1つの3角柱と同じ体積になるから、
なので、12×12×12××
=81×8=648(㎝3)
(2)
648×=432(㎝3)
答え (1)648㎝3 (2)432㎝3
この問題を見たとき、まず、六角すいだから底面積×高さ÷3と考えると、底面積も高さもわからないので解けません。こういうときは、この図はどんな形の一部分か、逆に、これを等分するときに1つの部分の体積はどうか。あるいは、立方体の体積のどれほどの割合かなどに着眼します。
「直方体の3つの辺を3辺とする三角すい」というか、「互いに垂直に交わる3辺を持つ三角すい」の体積は3辺をa、b、cとすると、a×b×c÷6と求められます。
答案に書くときは、a×b÷2×c÷3としましょう。しかし、a×b×c÷6としても答えは同じになることは覚えておいたほうがよいです。
たとえば、直方体の容器を利用して、そのをつくりたいときの
や
を知っておくと、
-
=
とできるのです。
半分を捨てて、改めてを残すと
を得る。
さえ知っておけば、その倍数として、
=
、
=
、
=
、
はできます。
しかし、試験に出るか出ないかという狭い勉強をする人が、これも言われたから覚えておこうという感覚だと、ただ、脳に負担をかけるだけになるかもしれません。「1つのマスで、いろいろ量れる。面白い。」と思ってほしいところです。
(1)正八面体のひとつの面を下にして水平な台の上に置く。この八面体を真上から見た図(平面図)を描け。
(2008年 東京大学前期理系 数学第3問(1))
解法
見た瞬間に答えがわかる人も多いことでしょう。しかし、立体が大の苦手という人も少なくありません。頭の中に図形を描くのが苦手な人は、理詰めで考えましょう。もし、わからない時には、とりあえず、大体の様子をつかむために、見取り図を描いてみましょう。
立方体を書き、6つの面の中心を頂点とする立体が正八面体です。立方体の8つの頂点のうち、1つ置きにとって頂点とすると正四面体が2通りかけて、その交わりが、正八面体です。
正八面体の正三角形の面が二つずつ逆向きで平行になっていることに気づきますね。
ここまでくると、下の図アのようになると気付くでしょう。……と思うと、図イになってしまう人もいます。2つの正三角形の中心どうしが重なって見えることに注意しましょう。
わかりにくいときには立方体ごと平面図を描いてみたらどうでしょう。立方体、内接正四面体、その内接正八面体、これなら、どうにも間違えないでしょう。
立方体の一番離れた2つの頂点が重なる方向から見た図、つまり正六角形を描いて各面の中点を結びます。
この立体の名は正八面体ですが、正反三角柱(せいはんさんかくちゅう 特にアルキメデスの反角柱)とみたものです。正反三角柱は今年の灘中にも出ています。すでにこの連載に取り上げ済みです。
《注意》
東京大学は入試問題の解答解説は一切公表していません。本稿掲載の解答解説は真藤啓が中学受験生向けに独自に書いたものです。東大入試において、このまま答案として記述することをお勧めするものではありません。
先に、1874年、知子さんの三つの論文に対し、ゲッチンゲン大学から数学の学位が与えられました。これらの第二番目の論文のテーマに「土星の環の形についての研究」と書きましたが、これは英語の出典をそのまま直訳したわけですが、土星の環の形とは、トーラス(ドーナツ型)のことをいうのではないかと思いそのように訳すべきか迷いましたが、直訳の邦文も見つけましたので、私もそのままにしました。
で、関係あるかどうかわかりませんが、ここでは、ドーナツ型関連の回転体を取り上げます。2007年開智中3の(2)です。
問題
次の図1図2のような位置にある半径が1cmの半円を直線の周りに1回転させてできる2つの立体の体積の合計は何cm3ですか。円周率は3.14とします。
(2007年 開智中3番の(2))
解法
2つの回転体を、回転軸を含むたくさんの平面で切り分け、互い違いに積み上げると、半円柱ができる。
底面積 1×1×3.14÷2
高さ 2×3.14
体積 (3.14÷2)×(2×3.14)=3.14×3.14=9.8596(cm3)
この種の問題のものの最初は、次の1970年灘中2日目の4番でしょう。
問題
半径3cmの円の中心が直線ABから7cm離れている。この縁をABの周りに1回転させたときにできる立体の体積を求めよ。ただし、円周率は3.14とする。
(1970年 灘中2日目の4番)
解法
できる回転体を、回転軸を含むたくさんの平面で切り分け、互い違いに積み上げると、円柱ができる。
底面積 3×3×3.14=9×3.14
高さ 7×2×3.14
体積 (9×3.14)×(12×3.14)=108×9.8596=1064.8368(cm3)
参考 パップス・ギュルダンの定理
付記
本稿の敬称について、数学者・数学教育者の故遠山啓先生には、数学教育について教わるとこと絶大だったので、また実際に数度お会いしているので、先生の敬称をつけています。
また、数学者の故矢野健太郎先生には、数学について、書物でたくさん教わり、また2度ほどお便りしましたが、そのたびにお返事をいただきましたので、先生の敬称をつけています。
そのほかの数学者には氏をつけています。また、外国の数学者は現在の方には氏を、歴史上の人は呼び捨てにしています。私立中の先生には先生としています。仕事上よくお会いして入試について教わることが多いか、またはそういう可能性が高いからです。
というかあまり意識していませんでしたが、振り返るとそのようになっています。作家については、「氏」とか「さん」とかそのときの気分で書いているかもしれません。
もっとも、遠山啓先生とは面と向かっては、初めから「遠山さん」と呼ばせていただいていました。なぜか周りの皆さんもそうしていたからまねしたのですが、「遠山先生」とお呼びして、「遠山さんで結構」と言われてから、「遠山さん」とお呼びすべきだったのかもしれません。しかし、心ではいつも、「遠山先生」とお呼びしていました。
石井志保子氏については直接には「石井先生」とお呼びしているのは言うまでもありません。
進学レーダーで1年半ほど連載して、たいてい、男性を主役に書いてきましたが、ここらで、女性数学者を取り上げようと思いましたが、どうでしたでしょうか。女の子が「ようし。私もがんばってみるわ」と言ってくれるとうれしいところです。本稿は初めはほとんど読まれていない感じだったので、さびしい反面、気楽だったのですが、最近は結構多くの方が読んでくださっているようで、本当は少し疲れてきたのですが、気が抜けない感じになっています。
では、今回はこの辺で。