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教務エッセイ(算数)算数好きになるくすり

アンペール

【学びについて】
  • 2008年9月号

日能研教務部算数科 真藤 啓

本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものとそろえ、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。

けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。

『進学レーダー』9月号(みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 アンペール」
『キッズレーダー』9月号(日能研) 算数エッセー「おいしい算数 壷中天地(こちゅうてんち)」
『学校選択』9月号(全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて 縣壷済世(けんこさいせい)」

【目次】
  1. はじめに 算数の学びについて
  2. アンペールについて
  3. アンペールの失敗
  4. 『百科全書』
  5. 『壷中天地(こちゅうのてんち 道教説話)』
  6. 『懸壷済世(けんこさいせい 道教説話)』
  7. 周回における出会いの回数1 キッズレーダー9月号
  8. 周回における出会いの回数2 (1980年 学習院大学)
  9. 周回における出会いの回数3 (2008年 栄光学園中)
1. はじめに 算数の学びについて

故矢野健太郎先生は、算数が嫌いだという子は、自分にとって難しいことを自分で徹底的にわかるまで考え抜いたことがないのだろうと著書で述べておられます。

それで、「どうしたら算数が好きになってくれるのでしょう」という質問に対して、矢野先生の言葉を参考に、“何か一つを克服する。例えば、「鶴亀算」なら「鶴亀算」だけをしっかり理解して、「鶴亀算」ならなんでもこいというようにすると、だんだん、他の問題も克服できるようになり、次の習得が早くできるようになります。こうしたことを形式陶冶¶と言います”というようなことを答えています。

もうずいぶん前のことですが、電話で、「うちの子は男の子なんですが、ときに一題に三時間も考え続けることがあり困っています。」とおっしゃるお母さんがおられました。

三時間に八題位は解かせるだけでなく、ほかの科目もさせる予定が、一題に三時間も考えられたのでは予定が狂ってしまいます。お母さんのおっしゃる気持ちもわかりますが、一方、誰でも、ときには一つの問題にじっくり考えることができるように仕向けたいものだと思っていたので、「いや、それは感心なことです。ときどき、女性の学習の仕方と、男性の学習の仕方が違うのかなというような気がします。一題をじっくり考えた方がたくさん解けるようになります。」と回答しましたところ、「そうなんですか。言われてみると思い当たります。ありがとうございました。」と実に物分かりのよいお母さんでしたが、大体のお母さんは物分かりがよさそうな応対がうまいので、「何言ってるの、しょうがない回答だわね」と思っても同じ回答をなさったかもしれません。

一方、言った方の私はその後悩みました。必ずしも、適切な回答でなかったかと思われてきたからです。女性の学習の仕方と、男性の学習の仕方が違うのかなというのは、お子さんをかばいたいと思ったにしても適切ではなかったとずっと気になっていました。

ただ、その後、いろいろなお母さんとお話ししまして、大変申し上げにくいことなのですが、算数の感覚で、何か足りない感じがいつも付きまとっていました。全然問題が解けないお母さんも多いのですが、結構いろいろな問題が解けるのに全然応用が利かないお母さんが多いのです。「受験数学は暗記だ。」ということをそのまま地でいっている感じなのです。

子育てというのは、特に相手が幼い子の場合、目の前で見ているときはもちろん、離れているときでも、脳みその半分以上は子どもに向けなければなりません。どんなことを考え、何をしているのかなどと考えていなければなりません。

一方、難関校の受験算数を極めるには、受験算数に対していつも頭のデスクトップでスタンバイさせているようでありたいものです。そうして、この両立は結構難しいのではないかと思うのです。しかし、これもさすがに目の前にしてはいえません。

以前、NHKの朝の連続テレビ小説で「ふたりっ子」というのがありました。双子の女の子の成長の物語で、一方の麗子は京都大学に進み、やがて会社を興します。もう一人の子は将棋の棋士を目指します。ここでは、以下、棋士を目指した方、香子(きょうこ)について述べます。将棋の駒に「香車(きょうす)」という駒があります。まっすぐにどこまでも進むことができますが、後戻りのできない駒です。ただし、敵陣に入ると、成金になることが選択できます。

銀将(ぎんしょう)、桂馬(けいま)、香車(きょうす)、歩兵(ふ)は敵陣で成金になることが選択でき、選択する時には駒を裏返しにします。それらは、それぞれ、全、今、を、とに似たような字になります。この字は、すべて、金という字の崩し字です。金という字の崩し方の程度で駒の元の素性を表します。

香子という名は香車(きょうす)にかけてあるのでしょう。さて、この香子が恋をします。銀蔵というおじいさんは香子に忠告します。

「将棋は魔物や。色恋も魔物。二匹の魔物はお前には飼えん。どっちか一匹にするんやの」と。 しかし、香子は両立させ、プロ棋士になります。やがて、妊娠して、大事な一戦のときに臨月に入ります。

「三匹目の魔物か。三匹の魔物を飼おうとしておるのう。今度こそおまえは魔物に食い殺されるぞ。」

「魔物なんやろか?子どもも」

「魔物はやさしい顔をしているもんや。そやから魔物なんや」

やがて、大変な難産で母子ともに危険な状態になり、結局、香子自身は助かり、子どもは死産でした。記憶に基づいて書いていますので、正確な引用になっていませんが、趣旨はご理解いただけると思います。ここで魔物というのは、そのことで頭がいっぱいになるもの、あるいは頭をいっぱいにさせなければならないものということなのでしょう。

昔、愛するというような言葉を使わなかったころ、「愛する人」というところを、「思う人」などと言っていたそうです。「思う人」という方が心に占める比重が大きいような感じもします。

プロの棋士というのは、昨日までの将棋を覚えていても、今日の将棋に勝てるとは限りません。ましてや、これから先の勝負に勝ち続けることを目指すとなると、絶えず将棋を工夫しなければならないでしょう。

棋士は将棋の世界に入りきって、駒の一つ一つになりきっているのかもしれません。坂田三吉という棋士の名せりふに「銀が泣いている。」というのがあります。関根金次郎との名人位をかけての五番将棋の二番目でのセリフです。一番目は香落ちで三吉が勝ったので二番目からは平手の勝負になります。重大な任務を銀に背負わせます。結果的に、この銀のおかげで三吉は勝利を収めます。このときのこのセリフがこの将棋を有名にして『王将』という映画になりました。もっとも、映画の譜面は升田幸三が見る者にもわかりやすいものに、あらためて創ったもので、実際の譜面と違うということです。

たかが、受験算数に何を大げさなという人もいるかもしれません。事実、らくらく合格しているように見える人もいないではありません。しかし、普通の人が難関校の受験算数を見通そうとすれば、時々どっぷり考えて、頭の半分くらいを算数で満たしている位がよいように思います。少なくとも、そういう瞬間が持てる頭の切り替えができた方がよいのではないかと思われます。

「周りのことに気配りが大事だよ」というようなことを言いすぎると、どっぷり考えることが苦手に育つような気がします。

ここでは算数や将棋が女子に向いていないなどと言っていません。男子でも女子でも算数を学ぶとき、時には一題を徹底的に考えることも必要なのではあるまいかと言っているのです。そうして、その一題は誰にも共通なものではなく、各自がその問題を何とか自力で解いてみたいと思う、その人にとっての難問です。

形式陶冶¶(けいしきとうや)
何かを学ぶと、違うことを学ぶ時にも理解しやすくなる、というようなことを学習転移(がくしゅうてんい)という。学習転移を積極的に支持する説を形式陶冶という。西洋では特に算数やラテン語を学ぶと形式陶冶が起こるとされていた。形式陶冶は起こるとしても、一般の思考力という、広い範囲の力がつくのではないとする説もある。

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2. アンペールについて

『進学レーダー』では、アンドレ=マリ・アンペールについて書きました。アンペールは数学者になりたいというつもりで学習したのではなく、もともと学習が好きでしていました。そして、それをお父さんがとても喜んでくれたからでもあります。アンペールは父の許しを得て、父の持っていた、たくさんの本を読み、また、望む本を買ってもらいました。

父はラテン語が得意でしたので、アンペールにラテン語を教えました。当時、ラテン語が、ヨーロッパでの学問の共通語という側面があり、将来、読んだり、あるいは発表するような時に必要な言葉と考えたのかもしれません。また、ラテン語の学習が学習習慣をつけるのに役立つと考える人が少なくなかったようです。

あるいは、お父さんは、子供のころ、自分から率先して勉強をする子ではなかったのかもしれません。そうして、子どものころラテン語を教えられたのではないかと思います。少し嫌だったけれど我慢して勉強したのかもしれません。そうして、身に付けた学習習慣が自分にとって役立ったと実感していたのかもしれません。

ところが、アンペールを見て、「おや、この子は私と違って自分で勉強したいものを見つけられる子だ。じゃあ、やりたいようにさせておくか」と思ったのでしょう。算数がずばぬけてできましたので、ラテン語を教えるのをやめてしまいました。

しかし、アンペールは数学をどんどん勉強して、オイラーなどの専門の数学を読むためにラテン語を自分で学びました。アンペールの成長の喜びは、父の喜びになり、それがまた、アンペールの喜びになりました。

さて、アンペールが18歳の時、当時の数学の最先端まで行っていました。裕福だったので化学や物理なども学ぶことができました。ところが、時代は、「フランス革命」の真っただ中で、フランス国王やたくさんの政府高官が死刑にされました。父は「フランス革命のやり方はいきすぎだ」と言っていました。そう言っていた人はほかにもたくさんいました。しかし、言う人は殺されるか黙らされるかを迫られました。

そして、アンペールの父は黙らされる方ではなく、殺される方を選んだのでした。アンペールは、

お父さん、あなたは、
フランス革命がどうのこうのというのと、この僕と、 どちらが大切だったのですか。
お父さん、あなたなしで、僕は何のために生きていけばよいのでしょう。

と思い、一年以上も腑抜けのような無気力状態に陥ります。父は、「フランス革命」がどうのというよりも、アンペールの父として、すでに「フランス革命のやり方はいきすぎだ」と言っていた父として、主張を続けないではいられなかったのではないでしょうか。一方、革命を起こした側としては「蟻の一穴」として、あえて行きすぎた行為を続けて行ったのでしょう。

アンぺールの父はフランス法廷にも出入りしていた商人でたいそう裕福だったようです。旧政府や軍部とも商売上の交流があったことがうかがえます。したがって、交流のあった人たちが死刑になったのかもしれません。それにしても、「フランス革命」のまっただ中の、一種の狂気じみた状況の中で、「フランス革命はいきすぎだ」というのはあまりに無謀な発言に過ぎました。そのとき言い続けなければ、後々アンペールに顔向けできないと思ったのかもしれません。

しかし、アンペールの混乱は察するに余りあります。

そうしたとき、アンペールは、諳んじるほどの愛読書『百科全書(百科事典)』のもとになる原稿である手紙を見ました。差出人はジャン=ジャック・ルソー、受取人は編集長のディドロです。2人の名はすでに、この連載には出てきていますがどちらも博学で鳴る人たちです。

この手紙で、アンペールは学問の素晴らしさに開眼し、気力がよみがえります。

ところで、アンペールの文献をいろいろあたったのですが、アンペールの学歴がつかめません。おそらく、アンペールは大学を出ていないのではないかと思われます。

1796年には家庭教師で生計を立てていましたが、ちょうどそのころ、ジュリー・カロンに会い恋をします。1799年に彼女と結婚し、1800年に生まれた息子にルソーの名をとってジャン=ジャックと名付けました。

その間、いくつかのリセ(高校のこと)に就職活動していたようです。ブールのリセ・ジェローム・ラランドで物理・化学の教師になります。単身赴任でブールに行きますが、三年後に病弱だった妻が亡くなりました。アンペールは離れて暮らしたことを一生の不覚だったと言っています。

彼は、妻の死の日に、詩篇から2節の詩を書いて祈りました。

『主よ、慈悲深い神よ
私が地上で愛していることを あなたが許した人々に 私は天国で会います。』

厳しい疑問が時々彼を悩ませて、彼をとても暗くしました。このときから、教会に通うことをやめます。

この年、リオンのリセで数学の教師になります。27歳のとき『かけごとの数学的理論に関する考察』を発表して数学者として世に出ます。この後、フランスで最大のグランゼコール(高級単科大学)であるエコール・ポリテクニークに対して就職活動していたようです。

1906年にはパリで会った、ジャンヌフランソワーズ・ポトと再婚。生まれた娘にはアルビヌと名付けました。1909年にエコール・ポリテクニークで数学教師の職につきます。同学は、パリ大学など総合大学よりも難関です。ただし、初めは格下の教師であったようです。のちに教授になります。

化学では、アボガドロの法則をアボガドロとほとんど同時期に唱えました。

電磁気学では、さまざまな発見と発表をしました。そのうちの一部は同時代を超えた理論も含まれていましたので、理解されませんでした。

のちにコレージェ・ド・フランスの一般物理学の教授になります。

付記1

ところで、外国人の名に、=と・が混在しているのはなぜと思った方がおられるかもしれません。
名前には、いわゆる姓と名のほかに、宗教上の名とかいろいろありますが、それらはふつうひとつの単語(つまり、ひとつながり)ですが、中には2つの単語の場合もあります。2つの単語で1つの名の場合、外国語の場合、André-Marie Ampère(アンドレ=マリ・アンペール)というようハイフンで結びます。そのことを、日本文中にカタカナで書くときにハイフン-を=で表すわけです。知らない人もいるかと思い念のため書きました。
しかし呼ぶときにはアンドレだけでいうこともあります。

付記2

電流の単位のAはampere(アンペール)ですが、日本ではアンペアというように英語読みするのが普通です。また、メートルは英語読みではメーターです。ただし、アメリカでは、メートル法よりもヤードポンド法が普及しているせいか、日本では、フランス読みのメートルを使います。英語読みでメーターという学者もときどきいます。

付記3

以前述べたように、ジャン=ジャック・ルソーは教育小説『エミール』で有名です。それまでの「与える(詰め込み)教育」を反省させ、引き出す教育を提案し、教育界を猛省させますが、粗探しにあい、宗教上の問題で禁書になり逮捕状が出されました。
ルソーによって初めて樹立された民主主義の本質である『自由と平等』に立脚する「統治者(治者)と被統治者(被治者)の同一性」は、1789年8月26日(ルソーの没10年後)にフランス国民議会が議決した「人と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)によって実現されました。
ルソーの墓所は革命後、国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓地として利用されることが決定されました。ルソーの影響は日本にも及んでいます。『社会契約論』は、明治維新後、中江兆民によって『民約論』として翻訳され、自由民権運動に鼓舞し、『告白録』は、自然主義の文学者島崎藤村など大きな影響力をあたえました。

付記4 蟻の一穴

小さなミスや見落としで大事に至ることがあるので注意しようということわざです。

原文
千丈之堤,以螻蟻之穴潰、百尺之室,以突隙之煙焚 《非子》

言葉に即した訳
千丈の土手、虫けらの穴で崩れまる。百尺の室、たばこのふいうちで燃える。(だから、小さな見落としをしないように注意しましょう。)

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3. アンペールの失敗

アンペールもニュートンに負けず劣らず、大ボケを演じます。現代の日本でも数学者としては世界的にすごいけれども、忘れ物が多い若い数学者がいます。名前は言いませんが。昔では岡潔もかなり、うっかりミスが多かったようで、映画『好人好日』になりました。ですので、アンペールがいくらミスをしても驚いたり面白がったりする気にはなりません。しかし、面白がる人もいるようなので紹介します。主語?アンペールにきまっています。

  • 1.  講義に熱中するとハンカチで黒板を拭いたり
  • 2.  ぞうきんで自分の顔を拭いたり
  • 3.  ニュートンと同じように馬を引きながら、途中で馬に逃げられても気づかなかったといいます。
  • 4.  突然ある問題についてひらめいたことがあり、とっさに目の前の板に書いたところ、板が動いていってしまいました。それは今降りた馬車のうしろに貼ってあった板だったのです。
  • 5.  また、考えごとをするために、自分の家の入り口に「アンペール不在」と張り紙をしていました。このことを忘れて出かけ、帰ってきたとき、この張り紙を見て「あ、不在か、また来よう」と引き返したという。(これは笑えるかも)
  • 6.  暗算の天才だったアンペールは、生活上の計算には無頓着でよく間違えたということです。

5. は負けますが、他は「え、ほかの人こういうことない?」という感じが私はします。

全部笑えた人→あなたはえらい。
全然笑えなかった人→あなたはあとは数学が世界的にできるようになるだけで話題の人になれる…

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4. 『百科全書』

『百科全書』は、もとは、イギリスのイーフレイム・チェンバーズによる『百科事典(ル・ブルトン書店)』に刺激され、企画されました。当初は、イギリスで売れていた英語の『百科事典』のフランス版をということでフランス在住のイギリス人ジョン・ミルズが、フランス語への翻訳を思い立ったことによるものでした。

ところが、当時無名だった、ディドロは、編集会議で、自分たちが執筆した『百科全書』を出版したいと主張して、編集長は口論に疲れ果て辞任したので、新編集長にディドロが任命されました。ディドロは知人であり当時はるかに名声の高かったダランベールに共同編集者になってほしいと依頼しました。

ダランベールは『序論』で、

「これは、技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々をガイドすると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような事典である。」

と述べました。当時の技術的・科学的な知識の最先端を集め、それを明晰な文章で表現したこの書物は、それまでの古い世界観をうち破り、合理的で自由な新しい考え方を人々にもたらした。しかし、企画当初から、体制側との緊張関係のなかで刊行されました。そこに記された思想の意味だけでなく、その刊行自体が、政治的な意味を帯びていたのでした。

『百科全書』の執筆に参加した人々は、通常「百科全書派」とも呼ばれました。

そのなかにはルソー、ヴォルテール、モンテスキューなど、すでに著名なものも筆者に加わっていました。しかし、宗教界や特権階級から危険視され、たびたび出版弾圧されました。執筆者の離散などを乗り越えて、1751年から1772年の19年かけて完成されました。時代の過渡期を敏感に感じ、このように弾圧されるような本を書きたい、読みたいという人が当時多かったので話題沸騰でした。

『ポンパドゥール夫人肖像画(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによる)』の夫人の左手の先の書物は百科全書の第1巻であることから、夫人が百科全書の出版を保護していたことを読み取れます。 日本では『百科全書―序論および代表項目(訳 桑原武夫 岩波文庫)』が出版されています。

参考

『ポンパドゥール夫人肖像画(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによる)』
http://rococana.peewee.jp/galerie/2.html

ディドロはまた、ロシアの女帝王エカテリーナとの個人的な交流でも知られています。この女帝は人気のある美男子を呼び寄せる趣味がありました。ディドロは娘の結婚式の費用を作るため、「私の持っている値打ちのある蔵書を買ってほしい」と女帝に頼むと「いいわよ。それはあなたが生きている間あなたに貸しておくわ」と言ったと伝えられています。

ディドロとオイラーのやり取りは、『百万人の数学 L・ホグベン(著), 今野武雄(翻訳) 筑摩書房』の冒頭にあり、英語のウィキペディアにもあり有名です。そういったことは『オイラーの贈り物』のところに書きましたが、下の本にもあります。これらの記述は微妙に違いますが、同じ出典をわざと違えて書いているような印象も受けます。

『天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで』
(ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) (文庫)
アミール・D・アクゼル (著), Amir D. Aczel (原著), 吉永 良正 (翻訳)

『フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』 (単行本)
サイモン シン (著), Simon Singh (原著), 青木 薫 (翻訳)

『素数の音楽』 (新潮クレスト・ブックス) (単行本)
マーカス・デュ・ソートイ (著), 冨永 星 (翻訳)

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5. 『壷中天地(こちゅうのてんち 道教説話)』

今日、日本の多くの字典が四字熟語「壷中天地」の出典として、「壷中天地(方術伝 費長房)」による解説が載っています。次の1から4のうち3であると言っています。しかし、中国のWEBサイトによれば、この種のお話は似たようで違ったものがたくさんあるようです。そして、「壷中天地(方術伝 費長房)」は、もともとは全く違う、次の1.壷中天地、2.懸壷済世の道教説話を混ぜて作ったもののようです。そのほか、いろいろに多様で違ったものがあります。

  • 1.  壷中天地(道教説話)
  • 2.  懸壷済世(道教説話) ・・・・・・冒頭を『学校選択9月号』に書きました。
  • 3.  壷中天地(方術伝費長房)
  • 4.  壷中天地長(世界医道武学論壇) ・・・・・・『キッズレーダー9月号』に書きました。

『キッズレーダー』では、それらの中で最も面白そうな『壷中天地長(世界医道武学論壇) 』を訳出し、他のものも少し加味して再構成したものです。

なお、『キッズレーダー』の文中、伏字××××は ウジ虫 です。

『学校選択』では、もっとも真面目そうな『懸壷済世(道教説話)』の冒頭の部分をご紹介しました。

『進学レーダー』ではアンドレ=マリ・アンペールについて、書きました。

これらの物語は算数を学ぶときの気分の移り変わりを物語にしたような、さながら、算数物語というような印象を私は受けました。

本稿は、それらの小冊子を見て、「おもしろい、もっと見たい」と思った方のみがこれを読んでくれていると思いますので、なぜ面白いと思ったかという説明は省きます。

この節では、以下「1. 壷中天地(道教説話)」をご紹介します。

中国の成都は一千数里にわたる全体が山で雲台山といわれています。成都は今年の四川大地震の被害地に含まれています。そこは有名な道教の聖地です。道教の書籍の記録によると、かつて、正一天師である張道陵が370人の弟子を連れて修業をしたところです。ある時、張天師が、雲台の道教の寺院をしっかり管理する者がいないので、弟子の張申に雲台道教寺院に常在させ主宰として管理を任せます。

張申の一心の管理のもとで、雲台道教寺院はますます盛んになり、線香やろうそくは絶やされることがなくなりました。人々は、雲台山の上で張天師に属する仙人のつぼの公が駐在すると聞いて、一心に学び、不老長寿になりたいと思い、遠方をいとわず、雲台山におふせにいきました。仙人のつぼの公とは、雲台道教寺院の主宰の張申のことです。

更に不思議なお話があります。

張申は手元に一つのつぼがあって、彼は体を動かしながら念じると、つぼの中から、あらゆる天体、青空大地、高い山と険しい峰、草花の木、亭と楼閣などの各種の奇観が現れ出ます。

更に不思議なのは、晩になると、張申はその宝のつぼを置いて、呪文を唱えて、つぼの中に潜り込んで眠って、中で仙人の世界を存分に楽しみます。彼はつぼの中の天地を「つぼ天」と言っていました。だから、人々は彼を「つぼの公」と呼びました。このお話が成語の「壷中天地」の由来です。

参考文献(原文)

別有洞天話“修煉” (八斗文学)
http://www.8dou.net/html/article_show_40252.shtml

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6. 『懸壷済世(けんこさいせい 道教説話)』

懸壷済世(道教説話)は『学校選択』に書きましたが、あれは最初の一部分です。この節では『懸壷済世(道教説話)』について話します。

1. 出藍の誉れ

医聖(聖人のような医者)の張仲景(チョウ チュウケイ)は、後漢の晩期の河南省南陽地域の人です。

彼はおさないころからとても学習が好きでした。彼のおじさんの一人は医者でした。彼はおじさんの身の回りを助けて、医薬に対して小さいときから目や耳から覚えて、相当な基礎知識がついていました。

そうして、おじさんがすべてを彼に伝授していました。

ある時、大変年をとっていて、体がとても弱い、便秘の患者が来ました。どのようにしたらよいでしょうか。彼のおじさんは困りましたが、張仲景は蜂蜜を炒めて解決しました。張仲景はその時やっと十七歳でおじさん以上になったのです。出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)です。

やがて、彼は、孝行清廉(こうこうせいれん)な人柄をかわれ、長沙の太守(県知事)に推挙されました。彼の親戚は一時は二百数人いました。しかし、ここ十数年間で、三分の二が死んでしまいました。その十人のうち、七、八人はチフスが死因でした。親戚の人ががっかりして嘆いているのを見ても、救護する能力がなかったので、彼は官を捨てもっと深く医学を学ぶことを決意しました。(ここまでが『学校選択』に書いた内容のあらすじです。)

またある時、張仲景の弟が遠方に行って商売をして戻ってきたとき、兄の張仲景に聞きました。

「私は何に注意したらよいでしょう。」

張仲景は彼に言います。

「あなたは1年後に、腕に瘡(できもの)ができる。私達の手は腕に瘡ができやすいようです。」 弟は聞くとすぐにとてもびっくりしました。兄弟は医学についての代々の名門で、

『瘡というのはよく知られていますが、いろいろあって、その病名は知られていないものが多い』

これは漢方医のことわざで、名前がある瘡にかかってもなかなか治りにくいことがありますが、名前がない瘡になったらたいていなかなか治りません。

張仲景は弟に教えます。

「私は今あなたに一帳の薬をあげよう。あなたは商売をしに行って、一年後にもし背中が痛んで、腕の瘡ができたら、この薬を飲むと、腕の瘡をお尻の肉の中に転送することができます。かたまりの瘡は、もちろん痛いが、しかし生命の危険がありません。」

張仲景はさらに弟にいいました。

「もしも、ある医者があなたのお尻の瘡を上手に治療することができたなら、あなたは大至急、私にそれを知らせてください。」

張仲景の弟は湖北へ商業に行きました。兄の推測どおり、背中が痛くなり腕に瘡ができたので薬を飲むと、本当に腕の瘡がお尻に移りました。だから名医と聞くと片っ端から訪れて、最後に襄陽城の同仁堂の王神仙を探し当てます。王神仙は彼を見ますと、

「ああ! これは腕の瘡をお尻の上に移したのですね。」

王神仙は確かに非常に優れていて、飲み薬と貼り薬でなおりました。張仲景の弟は大至急これを南陽に伝えます。

2. 姓名を隠して医術を学び、弟子が師に優る

張仲景がこの知らせを受け取ると、服装を整えて、襄陽へ弟子入りします。彼もまた既に優れた医師でしたが、この瘡に関しては、彼は移転ができるだけで、治療法が完成していなかったので、更にまだ弟子入りしなければならなかったのです。その時、彼はやっと20歳余りでした。彼は王神仙の同仁堂へ行きました。そして、店主(王神仙)にいいました。

「私は遠方から来て、帰る旅費がないのです。貴店で私を仲間に入れて働かせてください。」

王神仙はこの若い人が眉目秀麗(びもくしゅうれい 美男子)で、息は落ち着いておだやかなことを見て、すぐに助手にしました。張仲景は医者でしたが、もちろん自分の身分を隠しました。

王神仙はとてもこの若い後輩が気に入って、はじめに、彼に煮て作る薬、煎じて作る薬などの練習をさせました。もちろん、張仲景はとてもうまく炒めて薬を作ることができ、煮て薬を作ることができ、また、薬を調合して作ることができたので、王神仙はとても満足でした。

その次に張仲景は教えを請って、その処方箋に従って薬を買い、件の薬を調剤しました。漢方医は伝統の教えがあって、材料となる薬は共通していました。だから、薬局で薬を買うとき、詳しく話す必要はありません。

王神仙は張仲景が医者だとは思っていませんでした。呑み込みがいいのは、もって生まれた彼の聡明さによるものと思っていました。それで、張仲景をそばにおいて色々教えました。この時に張仲景がやっと学習を始めたばかりのように謙虚にしていなかったら、王神仙はそのように教えてはくれなかったことでしょう。

それから、王神仙は、張仲景を漢方薬店の中に残してあちこち他所へ往診に出かけるようになりました。そうしたある日、ある老人はロバに乗って、彼の息子が急病にかかったと言って、張仲景のいる漢方薬店にやってきました。老人は王神仙が書いた処方箋を差し出しました。中に毒薬が記されていました。張仲景はその毒薬(虫下し)の量が間違いだと思いました。王神仙は半両分の代金の量を指示してきたのでした。しかし張仲景は1両分であるべきだと思いました。彼は言葉にはしないで、顔色ひとつ変えずに、指示通りの薬をその老人に渡しました。王神仙は往診して休みに帰ってきました。張仲景は王神仙に教えます。

「先生、あの老人はすぐやって来ます。あなたは起きていてください。」王神仙はとても驚きます。「どうして、彼が来ることがありえよう? 彼に上手に治療したのではありませんか?」

ちょうどそのとき、あの老人が来て、前後の見境もなく怒りまくりました。「私の子供の腹のさしこみは、とても危険な状態になった。どうしてくれる。」王神仙はそれを聞いて顔色を変えました。診療できなくて、恐らく裁判沙汰になって、命からがら夜逃げすることになるだろうと思った。たとえそうだとしても張仲景は勇敢に立ち向かいます。「弟子であるからには医者としてやるだけのことはやります。」

張仲景は老人の息子を診察して、長い針をへその目に刺しました。刺してどんなものに着いたでしょう。針は回虫のちょうどその頭へ刺さりました。このように刺して虫を動かないようにして、間もなく2尺の長い回虫を引き出しました。張仲景は帰って来て王神仙に報告しました。あのような毒薬を半両分だと、それをただ打つだけならば回虫の意識がぼんやりして、それが目が覚めて反撃するので、患者は死んでしまいます。だから1両分を使うべきでしたと言いました。王神仙はこれが彼の教えたことではなかったため、この時にやっと張仲景が医者だと知り、彼に聞きました。「あなたは結局どこの人ですか?」彼が河南の名医だとわかり、すぐ宴席を張ってもてなしました。こうして、張仲景は王神仙を卒業しました。

3. 無駄口を我慢するのがむかしからの医術である。

謙虚にして、仁愛の心がある者に、心のありかたを教えてもらいましょう。

張仲景には仲よしの友達がいました。役所の中で下級役人になって、いつも彼と将棋をします。ある日将棋をした時、張仲景は友達の病気の兆しを発見して、彼に言います。

3ヶ月後、あなたは頭が痛くなり、眠れなくなり、小便が近くなります。1年後に、あなたの背後に1つの悪性の腫れ物ができ、それから結局は命にかかわります。私はそうならないために薬を発見しています。私はあなたに薬の処方箋をあげます。早く飲めば、こうした問題は起こらないと言いました。

ところが、その友達は自覚できなかったので守りませんでした。処方箋を見ないでなくしてしまいました。そして、3ヶ月後、彼は頭が痛くて眠れなくなりました。

彼は「頭は痛くありません。眠れない?同じく大丈夫です。」と強がっていました。更に三ヶ月後、飢えと渇きがおこって、彼は本当に危険になると感じて、張仲景を探しました。張仲景は言いました。 「もはや、仕事をしながら病気を治療する段階ではなくなりました。あなたはよく休養するようにしましょう!あまりに頭脳を働かす必要はないです。同じくあまりに金を儲ける必要はないです。お金も使わないで、この年を無事に過ごすようにしましょう!」

この人は仕事を辞職して、貯金をおろし、お金を持って名医をもれなく訪問しました。歩いて歩いて、茅山につきました。茅山とは秦嶺、巴山の一帯で、これらの山脈、天地の精華を得て、中国の漢方薬の材料の三分の二はここから出ています。だから名医がそろっていて、道士もそこにいます。

彼は財産をすべて茅山の道士にプレゼントして出家して道士をしました。しばらく後に、その茅山の道士は彼に聞きます。「あなたはまだ若いのに、どんな縁で道士をしにきたのですか?」彼は事の次第を包み隠さず打ち明けました。茅山の道士は「その医者の言うのは少しも間違っていません。そのままでは、あなたはなくなっていたでしょう。幸いあなたは茅山に来ています。あなたは毎日茅山でとれるなしのジュースを飲みましょう。毎日一斤飲みます。季節が変わったら、乾燥したなしを水に浸して飲みます。一年続ければすべての病状が消えて健康になります。」と言いました。

病気がなおった一年後に、もう道士でいたくはありませんでしたので、この友達は郷里に帰りました。張仲景は彼を見て、びっくりして聞きました。「あなたはどのように生きて帰ることができたのですか?」彼はこの経歴を張仲景に教えました。張仲景は聞いて、すぐ旅支度を整理して、茅山に弟子入りにいきました。

このお話には一つの教訓が含まれています。

漢方医はたいへん先生を重視します。張仲景は『黄帝の内経』という本で「チフスの病気の論」を書いたため、後代の人に尊重される医聖(聖人のような医者)になって、今まで、彼を越えることができる一人の医者もありません。しかし、彼は彼が分からない所があったときには、どんなに遠くてもどんなに険しくてもすべて謙虚に教えてもらいに行きました。だからこそ医聖になれたのです。

4. 大胆かつ細心で人命を救って医者は恩に着せない

彼は茅山から南陽に帰る途中、再度襄陽城を通っていると、多くの人が囲んで一つの告示板を見ていました。その告示板には

襄陽の府知事57歳の才盼は三代にわたり男一人だけです。
やっとできた一人の息子が意識不明のまま生まれました。たくさんの医者に見せましたが誰にも治せません。
だから、どなたか、医学で彼の息子の病気を治してください。お礼はたくさんあげます。

と書いてありました。

張仲景はそばで告示板を見ている地元の人に聞きました。

「この死にそうな子の親はどのような役人ですか?」地元の人が答えました。「たいへん清廉です。」この好官は、良い政治を目指して忙しく働いていました。

張仲景は告示を引き裂いて、案内を連れて府知事に会いに官邸にいきました。官邸内には襄陽の城下の名医といわれる人たちが大勢集まっていました。みんなが張仲景を見ました。二十歳くらいの若い人なので、どうしても名医とは見えませんでした。

「私達がみんなできないことを、あなたはどのようにできますか?」

仲景は府知事の子どもを診てみました。

まずは、地面に置いた二段式ベッドの上段にむしろをひき、召使いに二杯の井戸水を打たせました。そして、氷のように冷たい濡れたむしろの上にその子を置きました。

みんなはびっくり仰天して真っ青になりました。特に府知事の夫人は「子供は死ぬかもしれない。これは医学ではない。きっと死んでしまう、やっと生まれた病気の赤ん坊です!どうして氷のように冷たい所に置くのです!みんなはすべて恐がっているのですよ!」と泣きそうに叫びます。

治療の時、張仲景は一本のとても細いこよりで子どもの鼻を刺激しました。結局、30分もしないうちに、この小さい患者は泣き出しました。子供は泣き出すとすぐに目が覚めて、すぐ生き返りました。居合わせた医者はきまりが悪くて、すべてこそこそと抜け出しました。府知事が張仲景に聞きます。「愚息は結局どんな病気だったのですか?」仲景は言いました。「母親が妊娠しているときに、酒をたくさん飲みすぎて、この子どもは酒に酔って目が覚めなかったのです。」

府知事は彼に「できるだけ多くいてください。毎日おもてなしをします。」と言いました。仲景は「それはできません。私はすでにとても長く家に帰っていませんので、すぐに帰らなければなりません。」

府知事は「それでは厚い報奨を差し上げたいのですが何を差し上げたらよいですか?」と聞きました。彼は「何も要りません。」と言おうとしたのですが、早く南陽に帰りたかったので、「良い馬を一頭だけいただけませんか?」と言いました。府知事は「それはお安いご用です!」と言って、彼に一頭の老馬を贈りました。

その馬は良い馬ではありませんでした。年をとっていました。また痩せています。しかも弱っています。そのうえ、足も不自由でした。張仲景は気にしません。お馬さんが疲れて死ぬことは忍びないので、彼はいっしょに歩いて故郷の南陽に帰りました。

「えっ!どうして?」やっと家に着いて、彼はぽかんとしました。彼のもとの家がすっかり変わっていました。彼の家は立派で堂々とした大きい邸宅になっていました。ちょうどそのとき、彼の夫人が中から出てきて、張仲景に伝えます。「襄陽城の府知事が、人を遣わしてひと山の建築材料を持って、大急ぎで大きい家を建てて、建て終わった後に、またひと山の薬の材料を送りつけてきました。」

みなさんはどうして府知事が張仲景にあんなお馬さんを贈ったと思いますか。張仲景が家に帰ることが早すぎないようにしたのです。医聖 張仲景の医者としてのモラルを見抜いたので、こうでもしないと、彼はお礼を受け取ってくれないと思ったからです。

参考文献 懸壷済世―医聖張仲景
http://bwmc.org.tw.tsc.miniasp.com.tw/Tfr/tfr_44/tfr_44_10.htm

壷中天地(こちゅうのてんち) YAHOO辞書では

こちゅうのてんち 【壷中の天地】
〔補説〕 後漢の費長房が、市中で薬を売る老翁が売り終わると、店頭に懸けた壷中に入るのを楼上から見た。長房は老人に頼んで壷中に入ったところ、宮殿楼閣をなし、山海の珍味が満ちていたという「後漢書(方術伝)」の故事から
俗界と切り離された別天地。酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ。別世界。仙境。壷中の天。

とあります。他の日本の辞典も大同小異です。原文を伝えるものに次のブログがあります。

「後漢書(方術伝費長房)」 腊八粥- 新浪BLOG
http://blog.sina.com.cn/s/blog_3da0bfa8010009bz.html

これらがどうして学びに関係あるのかというと、それについても詳しいサイトがあるのですが、却って分かりにくくなりそうなのでやめます。

蛇足1 「出藍の誉れ」の出典の著者の真意

「出藍の誉れ」の意味は、「弟子が先生を超える」という意味で、先にみたように中国の書物にもあります。しかし、出典の著者荀子(じゅんし)の真意は違います。「人間は生まれた時には不完全で、学問によって真人間になれる」というような意味です。

戦国時代(せんごくじだい)の儒家(じゅか)に荀子という人がいました。荀子は孟子(もうし)の性善説(せいぜんせつ)と反対の性悪説(せいあくせつ)を主張していた人です。その荀子の言葉に次のようなものがあります。

「学は以って已(や)むべからず。青は藍(あい)より出(い)でて藍より青く、冰(こおり)は水これを為して、水より寒し」

意味としては、「学問を止(とど)まる事がなく続けましょう。青い色は藍(藍玉と呼ばれる染色の材料)から作り出すが、元の藍よりも鮮(あざ)やかな青色をしている。氷は水から出来るものだが、水よりも冷たいものだ。」ということになります。

性悪説
荀子は、人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべきだとした。このような性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。
荀子は、「善」を「治」、「悪」を「乱」と規定し、また人間の「性(本性)」は「限度のない欲望」だという前提から、各人がそれぞれ無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は「乱」(=「悪」)に陥る、と述べてその性悪説を論証する。 そして、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。

新論(しんろん)
西暦1世紀の後半の後漢(ごかん)に編纂(へんさん)された「新論」にも同じような記述があり、「青は藍より出でて藍より青し。染めて然らしむるなり。氷は水より生じて水より冷たし。寒さが然らしむるなり。」とある。
弟子でも努力すれば師匠を超えることが出来るということです。「藍」が師匠として、そこから作り出された「青」という弟子は元(師匠)の藍よりも優れているということです。このことから、師匠より優れた弟子のたとえとして、「出藍の誉れ」という語が出来ました。もっぱら、「青は藍より出でて藍よりも青し」という言葉で表現されることが多く、水と氷のたとえは使われることはあまりありません。

蛇足2 常識逆転! お湯は水より早く凍る

水よりお湯それも熱ければ熱いほどはやく氷になるって知っていましたか?

氷を作るとき、普通は、水とお湯では水のほうが早く凍ると思うことでしょう。しかし!約20℃以上の水ならば、なんと温度が高いほど早く凍るのです。

たとえば、マイナス20℃の環境で水をまくと、液体のまま地表に水がまかれます。しかし沸騰したお湯をまくと、瞬間的に氷になってしまうため、地表はぬれません。

また、ある研究論文によると、70グラムの水で実験したところ、20℃の場合は凍り始めるまでに100分かかるのに対し、100℃の場合は30分で凍り始めたとされています(凍りきるまでには、もう少し時間がかかります)。

参考

NHK ためしてガッテン-今年も猛暑!お宅の「氷」激ウマ大革命のページ 
http://www.nhk.or.jp/gatten/archive/2008q3/20080709p.html

NHK トップページ
http://www.nhk.or.jp/

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7. 周回における出会いの回数1 キッズレーダー9月号

問題

[問題]キッズレーダー9月号よしおさんはAにいて、運動場を線に沿って4回まわりました。春子さんはBにいて、よしおさんと反対回りに5回まわりました。このとき2人は何回出会いましたか。

解法

4+5=9 答え 9回

付記

この問題では進行グラフも分かりやすいでしょう。

周回における出会いの回数1

よしおをとめて、天動説で考えると、春子だけ9回まわることになる。

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8. 周回における出会いの回数2 (1980年 学習院大学)

次の問題は、大学入試問題です。今年2008年の栄光学園中にはこの問題の発展問題が出ています。

問題

A、Bをトラックの相異なる2点とする。ランナーaはAから、ランナーbはBから、同時に出発して、反対向きに走りはじめ、aはトラックをm回まわり、bはn回まわってそれぞれ、出発点同時についた。この間にa、bは何回出会ったか。

(1980年 学習院大学)

解法

Aから見ると、Bは相対的に、(m+n)回まわっている。 よって、a、bは(m+n)回出会う。

答え (m+n)回

解説

前の回で、コペルニクスの書に対して、

地球が動いていると考えても動いていないと考えても同じ計算結果が得られ、動いていると考えると計算が簡単になる。よって計算の工夫として、動いているかのように考えて計算してもよい

という解釈でした。と書きましたが、

aは動いているが、動いていないと考えて、その分もbが動いていると考えても同じ結果が得られるのです。

付記

何人かに、30年も前の、しかも大学入試をどうして見つけたのと驚かれました。種明かしをしますと、数学セミナー2008年4月号を見た時、「あれ、これ今年の栄光学園中とそっくりだ」と思ったのでした。

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9. 周回における出会いの回数3 (2008年 栄光学園中)

では、今年2008年の栄光学園中の問題2です。

問題2

[問題]2008年 栄光学園中 問題2A君,B君,C君,D君の4人が右の図の状態から1時間,それぞれ矢印の向きに池の周りを走りました。左回りに走る3人については,A君は常にB君より速い速度で,B君は常にC君より速い速度で走りました。また,同時に同じ場所で,ある3人が出会うことも,4人全員が出会うこともありませんでした。

  • (1) A君とC君が最初に出会ってから次に出会うまでの間に,A君とB君は何回出会いましたか。考えられる場合をすべて答えなさい。
  • (2) A君とD君が最初に出会ってから次に出会うまでの間に,A君とD君が他の2人(B君,C君)と出会った回数は,合わせて何回ですか。考えられる場合をすべて答えなさい。

1時間の間に,A君とB君は15回,A君とC君は25回,A君とD君は100回出会いました。

  • (3) 1時間の間にB君とC君は何回出会いましたか。考えられる場合をすべて答えなさい。
  • (4) 1時間の間にD君は他の3人と合計何回出会いましたか。考えられる場合をすべて答えなさい。求め方も書きなさい。

ただし,(1)~(4)とも出会わなかった場合は,0回と答えなさい。

(2008年 栄光学園中 問題2)

解法

  • (1) B君を止まっていると考えて、天動説で考えます。
    A君はもとと同じ向きでやや遅くなって動くでしょう。C君は後ろ向きの姿勢で反対方向に回ります。
    A君とC君が最初に出会ってから次に出会うまでの間に、B君はA、C君にはさみうちにあいますから、A、C君のどちらか一方に1回出会います。

答え 0回か1回

  • (2) A、B、D君の関係を見てみましょう。
    B君を止まっていると考えて、天動説で考えます。A君とD君が最初に出会ってから次に出会うまでの間に、B君はA、D君にはさみうちにあいますから、A、D君のどちらか一方に1回出会います。
    A、C、D君の関係を見てみましょう。
    C君を止まっていると考えて、天動説で考えます。A君とD君が最初に出会ってから次に出会うまでの間に、C君はA、D君に1度はさみうちにあいますから、A、D君のどちらかに合わせて1回出会います。

以上から、1+1=2

答え 2回

  • (3) 1時間の間に、A君とB君は15回、A君とC君は25回出会いました。
    Bを止めて考えると、AとCが逆回りに回っていると考えてよい。
    1回目の出会い(AとCは1周はなれ)のときから、24回の、はさみうちにあうので、BはAとCに合わせて、24回会う。その後、BがCに会うことも考えられる。
    24-15=9 または、9+1=10

答え 9回か10回

  • (4) A君とD君は100回出会う間に
    Cを100回はさみうちにし、Bを99回をはさみうちにする。
    よって、CはAかDに合わせて100回出会い、BはAかDに合わせて99回出会い、その後、BがCに会うことも考えられる。
    Bは99-15=84(回)Dと出会う。
    Cは100-25=75(回) Dと出会う。
    84+75=159
    A君とD君は100回出会ったあと、BやCがDに出会うことも考えられるので、
    259か260か261となる。

答え 259回か260回か261回

なんか、大学入試より難しい気がします。「ニュートンよ、いでよ」と言いたくなりますがどうでしたでしょうか。気になったら、だれにも質問をしないでじっくり考えてみましょう。ん?

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