日能研教務部算数科 真藤 啓
本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものとそろえ、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。
けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。
『進学レーダー』7月号(みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 ひょうせつ(剽窃)」
『キッズレーダー』7月号(日能研) 算数エッセー「おいしい算数 隣村の尖塔」
『学校選択』7月号(全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて 面積図と積分」
アイザック・ニュートンは1643年1月4日(旧暦1642年12月25日)イギリス東部リンカンシャー州の寒村ウールスソープで未熟児として生まれました。その年はイギリスでは貧富の差が広がってどうしようもなく、ピューリタン革命が起こり治安が乱れ、混沌とした年でした。やがて、それは1649年にはイギリス史上空前絶後の国王処刑につながっていきました。
小さな自作農であったジェントリー(下級貴族が地主化して形成した階層)の父はニュートンが生まれる3か月前に亡くなり、亡き父と同名のアイザックと名づけられました。その後ニュートンが3歳の時、母ハナは30歳以上年上の裕福な隣村の教会の牧師バーナバス・スミス氏と再婚しましたが、スミス氏は前妻がなくなって半年後の六十三歳でした。スミス氏とニュートンの相性が悪く、ニュートンは母方の祖母に育てられました。このころニュートンは母をはげしく憎みました。一方、母が帰ってくる夢を見続けました。また、夢ではなく、ドアを開けると、ふいとそこに母が現れる、あるいは物陰からふと母が現れるという幻想を抱いていました。母とスミス氏の住む隣村の教会、小高い丘の上に美しくそびえるその尖塔は、ニュートンの村のところどころから見えていました。ニュートンは見ないようにして過ごしました。ある時、思い余って2キロ歩いて母に会いに行ったとき、スミス氏は「アイザック(ニュートンの父のこと)は無学で意気地無しだった。」と悪しざまに言い放ちました。
自分と同名の父を悪しざまに言われたので、怒りと悔しさで張り裂けそうな気持になりながら坂道を帰らなければなりませんでした。このとき、ニュートンは母とスミス氏を殺して、教会を燃やしてしまいたいと思いました。こうした生活はニュートンの性格形成に影を落としました。
学齢期になると、学校の成績は悪くなかったのですが、父母がなく、猜疑心(さいぎしん)†が強く、ひねくれていたので、(それが理由で)いじめにあうなどしました。友達もできず内向的で孤独な思いで暮しました。祖母に連れられないと学校に行けなくなっていました。一人で、物思いにふけったり、工作をしたりして過ごしました。ねずみを動力にした粉ひき機を作ったり、ちょうちんつきの凧を作ったりしました。ちょうちんつきの凧は村人を驚かせました。いつも何かを考えていないとさびしくて仕方がなかったので、一人ぼっちでいろいろなことを考えて、寂しさを紛らわせていました。
ニュートンが十歳の時、スミス氏は亡くなり、ニュートンは再びこの母と暮らすようになります。しかし、母にはスミス氏との間に三人の子ができていたので、ニュートンの母に対する思いは3歳のままだったのでしたが、ニュートンは愛情を独占できませんでした。今度は時折、母がふといなくなる夢を見ました。
十二歳のとき、母はニュートンを十キロほど北のグランサム村のキングズスクールという中高一貫校に行かせたのでした。そのため、グランサム村の薬屋に寄宿することになりました。キングズスクールは田舎の名門でしたが、文系で、グラマー(文法)スクールといわれていました。
薬屋の主人のクラーク氏の薬の調合を見て覚えたり、たくさんの化学や薬学の専門書を読ませてもらいました。理系の本は深く考えれば考えるほど応えてくれる気がしてニュートンは好きでした。クラーク氏には、ニュートンより三歳年下の娘ストーリがいました。目の澄んだ顔立ちの整った子でしたので、いつしかニュートンは意識をするようになりました。ところが、母はこの学校を途中でやめさせ、呼び戻して、ニュートンを牧童にしようとしました。別れのとき、ニュートンは「好きでした」と告白しました。ストーリはほほを染めたのでニュートンはうれしくなりました。
牧場では、羊をぼんやり眺めて問題を作って考えて見たり、羊を連れて行く途中で本を読んだりしました。時々ぼんやりする癖のあるニュートンには牧童は向いていませんでした。
母の弟、ニュートンの叔父は、世界でも名高いケンブリッジ大学のそのまた最高のトリニティカレッジの出身でした。この叔父は、ニュートンの父自身はつまらない人だったけれども、ニュートンの父方の親戚には社会的に優秀な人がたくさんいたことなどから、ニュートンも才能があるはずだと思っていました。それで、文法スクールの校長に会いに行きました。学業がしり上がりに伸びていたので校長も学業を続けるべきだと言いましたので、ニュートンを高校にもどし、大学進学させるように、ニュートンの母を執拗に説得し、一方ニュートンを励ましたのでした。校長も熱心に説得しましたので、学校に戻ることになりました。ニュートンは今度は校長の家に寄宿し、同年齢のクラスメートよりも遅れて卒業し、ついに叔父の出たトリニティカレッジにサブサイザーという資格で入学します。サブサイザーとは学費が免除される代わりに学僕として奉仕することが義務付けられた奨学制度でしたが、学習時間は十分取れたようです。
当時の大学の授業はギリシアやラテンの古典語が中心でした。数学はユークリッド、自然科学はアリストテレスのままでした。数学や自然科学はまだ重視されていませんでしたが、重視されようという機運は高まっていました。このころのニュートンを知る人は、いつも憂鬱そうな表情をしていたと伝えています。
ニュートンは、デカルトの解析幾何学やケプラー、ホイヘンスといった当時の新しい科学者たちの書物を読みこなしました。その内容に驚き、また研究の仕方を学びました。
大学2年の時、ルーカス講座ができ、初代ルーカス教授職†アイザック・バローのルーカス講座ができ、「未来の数学」に興味を持ちました。バローもまた同名のニュートンに興味を持ちその才能と境遇を知り大変気にかけ好意を寄せてくれました。
もともと考えることの大好きなニュートンにバローによって考える方向が与えられました。大学の上級生の頃には当時の数学の最前線に到達しました。
ニュートンは卒業前に「広義の二項定理」を発見しました。
二項というのは、a+bのaやbをいいます。
二項定理というのは、
a+b=a+b
(a+b)2=a2+2×a×b+b2
(a+b)3=a3+3×a2×b+3×a×b2+b3
(a+b)4=a4+4×a3×b+6×a2×b2+4×a×b3+b4
(a+b)5=a5+5×a4×b+10×a3×b2+10×a2×b3+5×a×b4+b5
・・・・・・・・・・・・
というように2項の累乗(a+b)nの係数が
・・・・・・
というようにパスカルの三角形になるというものですが、ニュートンの場合は(a+b)nのnが分数の場合についても考えた「広義の二項定理」で「ニュートンの二項定理」ともいわれます。
また、数学に限らず、デカルトの屈折光学や、ボイルの多数の著作も読み、科学実験や天体観測も行いました。大学卒業後も大学で研究を続けていましたが、1665年の8月から1年半の間、おりからのペストの大流行のため大学が閉鎖されたので故郷リンカンシャーに帰りました。
『世界体系』 科学の事典(岩波書店)
大学で得ていたさまざまな着想について思い巡らせていたとき、窓から見えるリンゴの木からリンゴの実が落ちました。
そのころ、ニュートンはケプラーの法則から重力は距離の二乗に反比例するのではないかと考えていました。リンゴの実が落ちて月が落ちないのは、月が落ちる場所がないからだと考えました。たとえば、水平に打たれた大砲の弾が強く打たれたならば、赤道に届くかもしれません、もっと強く打つと、地球の裏側に落ちることでしょう。それよりももっと遠く飛ぶように打たれたとき、落下点がなくて地球を回るのだと思ったのです。
リンゴの実も、月も共通な法則で動いているのだとする万有引力の法則を発見しました。
しかし、万有引力の法則をどういうきっかけで思いついたのかと聞かれたときには初めのころはだまっていましたが何度か聞かれているうちに、「実は、リンゴの実が落ちたのを見て気付いた」と言いました。
また、アルキメデス、カバリエリ、そして、デカルトを読んでいて、バローの話などから、無限小の概念に基づいて微分法を発見しましたが、間もなくこの考えを捨てて、運動体の瞬間的な速度である「流率」の概念に基づく「流率法(微分)」と、「逆流率法(積分)」を発見しました。
こうして、ニュートンは大学が閉鎖している間に、万有引力の法則と微分法と積分法と色と光の新理論という三大発見を一挙に行ったのでした。これは、ニュートンがそう言っているからまるっきり嘘ではないでしょうが、その都度その都度発表したわけではありません。この時期に書いたと思われる論文は残っています。しかし、「大学にいたときに構想を持っていて書いたのではないか、また大学に戻ってからも修正したのではないか」と指摘する文献も多いです。実際、当時の書いたものに、地球の大きさや重量などの値に勘違いが見られるそうです。
しかし、ニュートンは書きながら新しい発見もできる人なので、大学が閉鎖している間にまとめているうちに考えが進み、ある種の結論が得られたという意味だと見ることもでき、あながち違っているとはいえないでしょう。
岩波書店の「科学百科」では、
「ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力を発見したという逸話は本当の話だとされている」
とありましたが、はじめ、この記述を見て、私は、ひとひねりして、「ニュートンは、万有引力を発見したきっかけはと何度も質問されたころ、リンゴの実が落ちるのを見て、これを、万有引力を発見したきっかけということにしようと思いついた」という話にしようかなあと思い立ちましたが、調べながら書き進めていくうちに、どうも「ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力を発見したという逸話は本当だ」と思うようになりました。
さて、これらをニュートンは誰にも話さなかったのですが1669年に初めて解析についての論文を書き師のバローに見せました。バローは自分が何年もかかってかすかに光を感じたまま完成させられなかった理論を、ニュートンが自分よりはるかに先に進んでいることを認め、すぐにフェローにし、まもなく自分が就いていたルーカス教授職を譲ってニュートンに継がせました。
ルーカス教授職とはケンブリジ大学の数学関連の最高の教授でルーカス講座だけ行えばあとは自分の研究をすることができる名誉ある地位でした。それは、いいかえると、イギリス一のすなわち世界のトップレベルの研究者であることの証明でした。
このとき1つ問題が起こりました。
ニュートンはキリスト教について独自に研究し解釈しました。キリスト教を否定こそしませんでしたが、イギリス国教の三位一体を否定していてアレイオス派(古代キリスト教の一派 父と子は異質であると主張したが,同質とする論敵に敗北し異端とされました。)の考えに近い結論を出していました。三位一体を信じないのは当時も今も異端ですから、追放される運命に立たされます。まして、厳格なことで鳴るその名もトリニティ(三位一体)カレッジで、三位一体を信じないのはまこと不都合でした。別段、公の場で三位一体を批判するようなことはしませんでしたが、さりとて積極的に三位一体を進める発言はできませんでした。
そのとき、英国国教の最高の聖職者でもありギリシア語の教授でもあった恩師の数学者バローは、学長としてトリニティカレッジに戻り、ルーカス教授職を認定した国王チャールズ2世を動かしました。国王は「ルーカス教授職に就くものは教会で活動すべきではないとのハンリー・ルーカスの遺言により、本教授職に就く者全員が今後上位聖職者への叙階を拒否できる」と異例の宣言をしました。
バローはニュートンを法を変えてでも守るべき歴史的天才と認め、国王もまた理解したのでした。ニュートンはバローを生涯の上司(superior)と仰ぎました。
2代目、ルーカス教授職ニュートンの最初のルーカス講座は光学でした。
ところが、そのころ、ドイツのライプニッツが微分法、積分法を発見し発表した。その内容は、その十年前、ニュートンが故郷に帰って発見したものと結果的に同じでした。ただし、ライプニッツのものは、独自の表現記号を考えてあり、格段にわかりやすいものでしたのでたちまち普及し始めたのでした。
驚いたニュートンは多分に被害妄想に陥ります。「ライプニッツが私の理論を盗んだのだ、そうして、さも自分で考えたように、飾った書き方をしているのだ。」そう思わないではいられなかったのでした。
そして、そのとき、書きあげていた『光学』を出版することにし、そして、ライプニッツのものを熟読し、ライプニッツが記述していないことを見つけて、『光学』の付録に「曲線図形の求積について」と「3次曲線の計算」を付け加えて発表しました。
そして、これら、ライプニッツと同じことやより深いことを私は10年も前に発見していたと付け加えました。というよりもこの一行のために発表したのでした。
ニュートンはそれまでは謙虚でした。少なくともそう装ってきました。しかし、ルーカス教授職について取り巻きが増えて、性格が変わってきました。あるいは、押さえつけてきたもともとの性格がむき出しになってきたのかもしれません。ライプニッツからは丁寧な手紙がきました。しかし、ニュートンは収まらずに裁判を起こします。ライプニッツの反論は公明な態度に満ちていましたが、それもニュートンには気に入りませんでした。速記体の謎めいた脅しの文を送りつけたこともありました。長い長い争いになりました。ニュートンは、はじめはライプニッツの剽窃(ひょうせつ 自分の考えを盗んで発表すること)を疑っていました。やがて、ライプニッツも独自に考えたものと気がつき始めたのですが、引っ込みがつかなくなって自分の権威をもって押さえつけようとしました。そもそも、自分が発表していないのを盗まれたというのが、無理があるようですが、ライプニッツが発表してから、二十五年間もの長い間争ったのでした。
結論として、ニュートンもライプニッツも独自に微積分を発見したことがはっきりしました。しかし、ライプニッツの方が記号などの表記法が優れていたために、現在、微積分は世界中でライプニッツの考えた記号表記で学ばれています。
猜疑心(さいぎしん)†
相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ち。猜の文字は、「猜む」と書いて「ねたむ」と読む。
『世界体系』†
プリンピキアは当時の学問の言葉であったラテン語で書かれたが、『世界体系』はプリンピキアの第3部の内容を平易な英語に翻訳した本で、ニュートンの死後に刊行されている。
ガリレオの本には平地で発射された大砲の放物線が描かれているものがあるが少し似た印象である。この『世界体系』に載っている図は、『科学の辞典(岩波書店)』に掲載されていた図であるが、この図によってリンゴは地面に落ちるが、月は着地点がなく地球を回っているという感じがつかみやすい。
岩波書店からは掲載の許可をいただている。
ところで、ニュートンは、他の人の目から見ると、ボーっとしていることが多かったと言われ、次のことが有名です。よく知られていることですが、山賀先生の「ニュートン略伝」†にも取り上げられています。先生もあちこちの文献から集めれたことと思います。
ニュートンうっかりエピソード
「卵と間違えて懐中時計を茹でた」、
「ズボンをはいていないことに気がつかず、そのまま役所に出勤した」、
「馬がつながれていない手綱を引いて歩いていた」、
「夕食を忘れるのはしょっちゅうだった」
実は、私は、これがなぜ面白いのか分かりません。こういうことって誰しもあることなのではないでしょうか。これについては、いずれ述べたいと思います。
「ニュートン略伝」†
山賀進先生(麻布中高の地学の先生)のWEBサイトです。トップページからはたどれませんので、許可をいただいて次のように該当ページに直リンクさせていただいています。
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/sonota/newton.htm
ルーカス教授職(きょうじゅしょく)†
ケンブリッジ大学の数学関連分野の教授職の一つ。
ルーカス教授職は1663年にイギリスの下院†議員ヘンリー・ルーカスによって設けられた。
ルーカスは、1639年から1640年まで、ケンブリッジ大学の大学選挙区選出議員を務めた。ルーカスは遺言によって、自らの蔵書4000冊余りをケンブリッジ大学の大学図書館に遺贈し、さらに本教授職を設置するにあたって年に100ポンドを提供した。
歴代のルーカス教授職は、そのときの、数学関連の教授で最大の教授が任命されている。現在のルーカス教授職は、1980年に専任された理論物理学者のスティーヴン・ホーキングである。
なお、ルーカスは長音記号を除いてルカスと表記されることも多い。フランス語読みではリュカとなる。同じスペルの「ハノイの塔」の考案者のフランス人リュカとはもちろん別人。
下院†
上院下院の両院制の一方で、下院は、日本では「衆議院」にあたる。
参考文献
ウィキペディア
世界大百科事典(平凡社)
科学の辞典(岩波書店)
天才の栄光と挫折(藤原正彦 新潮選書)など
08年4月号「オイラーの贈り物」(グラフ理論など)「オイラーの贈物4 ベン図の原作者」の【補足1】ジョン・ベン
のところで、
ジョン・ベンは(ケンブリッジ)に入学し1857年に卒業しました。そして、その後まもなく、彼は大学の特別研究員に選ばれました。
と書きましたが、特別研究員の記述の出典は英語のWEBサイトで、そこにはfellow(フェロー)に選ばれたとなっていました。ここでいうfellowとは何か、わからないまま、最初とりあえず「会員」としておきましたが、アップロード直前に「特別研究員」としてもらいました。
某辞書に、特別研究員という訳もあり、そうしたのです。
藤原氏は、著書「天才の栄光と挫折(新潮選書)」のニュートンについての部分には、フェローとカタカナに直したままで書かれています。
また、山賀先生のサイトの中のページ「ニュートン略伝」†で、先生は
ニュートンは1667年に偶然に空きができたフェロー(教員)となり大学に残っていた。
となっています。ここでは、藤原氏にならって、無難なフェローとしておきました。
おそらく、山賀進先生のいわれるように教員であろうと思いましたが、どういう範囲の教員かが私には特定できていませんでした。別な数学者に対する和文と、その出典とみられる英文で、フェローが教授と対応する文章も見つかっていました。
ところが、藤原正彦氏は、著書「天才の栄光と挫折(新潮選書)」のラマヌジャンについての部分には、
ラマヌジャンが、王立協会のフェローに選出された、大変に名誉あるもので、ノーベル賞級と認知されたことを意味する。(略)その後、トリニティ・カレッジのフェローにも選ばれ、毎年250ポンドずつ6年間にわたって支給されることになり、その間いかなる義務も課さないという破格のものであった。
とあります。
とここまで書いて、ケンブリッジ大学におけるフェローについて新しい情報が入りました。
『進学レーダー5月号』の特集記事「教養教育とは何か?」に、同大学トリニティカレッジに滞在された恵泉女学園 前学園長の大口邦雄先生に対するインタビュー記事があり、その中にフェローの意味や同大の雰囲気がつかめる記事がありました。この記事はケンブリッジ大学について、フェローについて、特にニュートンのいたトリニティカレッジについて書かれています。全文興味深いのですが、ここではフェロー関連の部分だけ抜粋します。
学位を授与する、そしてそのための試験を行うのはユニバーシティ。試験に合格するための勉強を行うのはすべてコリッジ。これが、いまでもケンブリッジでは厳然と区別されているのです。
それでは、コリッジではどういう勉強をするのでしょうか。まず、「チューター」が、日本の大学にはない特徴的な存在でしょう。チューターは、学生にアドバイスする役割を担い、大学院などで研究をする学生であることが多いようです。年上の人が年下の人を指導する、世話をする、12世紀にコレギオで生まれた「訓育」の伝統が生きているのです。チューターは、入学してきた学生に「何が勉強したいの?」「だったら、こうい文献を読めばいい」「あの先生の講義を開いた方がよい」と、こと細かにアドバイスしてくれます。
教授はすべてコリッジに所属する「SeniorFellow(シニア・フェロウ)」、学生は「JuniorFellow(ジュニア・フェロウ)」、つまり教授も学生も仲間(Fellow)なのです。コリッジの源流、コレギオは生活共同体、ここでもその伝統が生きているのです。生活共同体ですから、お互いに面倒を見るのは当然。そして、私にも体験がありますが、若い研究者にとって、人に教えるという体験は非常に役に立ちます。世話を受ける方もする方もメリットがある、チューターとは、とてもよくできた制度なのです。講義は、数学であれば「Department Of Mathmatics」が提供するユニバーシティの講義がありまして、さまざまなコリッジからやってきた教授が講義をします。日本のように講義単位で試験はありませんし、もちろん出席などはとりません。なぜなら、学生が聴こうが聴くまいが勝手だからです。学位を取る上で、必要なら聴く、不要なら聴かなければいいという考えなのです。
私は、研究指導を受けていたアダムズという教授の講義を聴かせてもらっておりましたが、30人ほどいる学生のうち、一人も欠席者がいませんでした。最初から最後まで、もちろんみな真剣です。試験はありませんが、レポート課題はあります。その課題について、学生一人ひとりを呼んで講評して返します。その返し方がおもしろい。先生が所属しているコリッジの部屋に学生を呼んで、お酒をちびちび飲みながらなのです(笑)。「シンポジウム」という言葉も、もともとは「共に飲む」という意味のギリシャ語から生まれた言葉ですから、このような先生も珍しくないのかもしれませんね。
『進学レーダー5月号(みくに出版)』「教養教育とは何か?」より
付記
ケンブリッジ大学がらみの数学者について調べると、しばしば遭遇するフェローという語について積年の疑問が晴れました。そういえば、遠い昔、聞いたことがあったような気がしないでもありません。
フェローという言葉には、仲間意識という意味が取れますが、裏返して言うと、それ以外の人を仲間はずれにするという意識も付きまといますが皆さんはどう感じるでしょうか。
ニュートンは、ケプラー、ガリレオ、ホイヘンスの研究を統合し、『プリンピキア』を書きました。
ニュートンは、数学のユークリッドの『原論』を見たときとても感心しました。ニュートンは、学問はこういうふうに整頓されるべきものだと思うようになりました。そうして、そのようなものが、物理学ではいまだ見当たらないので、作り上げられるべきだと考えました。『プリンピキア』は着想以来20年後の1687年に刊行されました。この書は、数学のユークリッドの『原論』に対し、物理学でも同様なものを作りたいという意図が随所に見られます。
プリンピキアはラテン語のプリンピキニウムの複数形ですが、今日では、むしろ、ニュートンの著書「自然哲学の数学的原理」の略称として、固有名詞として使われています。
この書物はニュートンの力学と宇宙論上の多年の研究の集大成です。万有引力の原理を初めて世に広く知らせたものであるとして有名です。
なお、プリンピキアには分かりやすさを意図して図が多用され微分積分はほとんど使われていませんでした。この著は発表当初から、近代科学における理論的系統性を示したものとして不朽の名作と言われました。
『プリンピキア』が世の絶賛を受けたことに対して、ニュートンは、もしも私が、ほかの人たちよりわずかでも遠くを見たとすれば、それは巨人たちの肩の上に乗っているからなのですといいました。
このことばは、ニュートンの謙虚な人柄を表したものとして伝えられていますが、当時、イギリスに「巨人の肩に乗った小人は巨人よりも遠くのものが見える」という諺(ことわざ)があってそれをもじったもので、ニュートンの発言により、この諺が使われなくなったのだという説もあります。ニュートンを少し知ると案外、それが本当の話のような気もしますが真偽のほどはわかりません。この諺については科学翻訳家の青木薫†さんが詳しいようですので参考になさってください。
この書物は『原論』と並び称され、幾何学をユーリッド幾何学というように、力学をニュートン力学というようになっています。やがて、それぞれ、拡張され、非ユークリッド幾何学(ボヤイ、ロバチェスキー、リーマン)がでてきたように、一般相対性理論(アインシュタイン)を生み出すことになります。
ニュートンはイギリスの誇る世界的な偉大な科学者ですから、一点の曇りのない光輝く伝記もたくさんありますので、先に書いたように人間らしい側面を描くことに躊躇しましたが、半面、ニュートンも悩み多い愛すべき人間であったという一面に触れても今の小学生は大丈夫なのではないかと思い書いてみました。というのも最近の情報量のすごさは、日進月歩ならぬ分進秒歩であるといわれて久しいので、虚飾された伝記などすぐに見破れてしまうようになっているからでもあります。また、私自身はこれを書いていて、ニュートンが好きになったからでもあります。
ところで、ユークリッドの原論がすべてユークリッドの発見ではないと同様に、プリンピキアの記述内容がすべて、ニュートンの発見ではありません。このため、もめごとがおこりましたが、ニュートンは「建物を作るとき、人が作った建築材料を使ってもよいだろう」と突っぱねました。
話は変わりますが、ニュートンについて確認しているうちに、人は支援してくれる人がいたおかげで成り立っているのだということに思い至ります。確かに、ニュートン自身が、「一を聞いて十を知る」というような洞察力(どうさつりょく)のある偉大な科学者であることは疑いないのですが、その折々で、偶然よい理解者・協力者に恵まれていたということに気づきます。大学進学を勧めてくれた叔父さんがそうです。また、ルーカス教授職を譲ってくれた、師のアイザック・バロー氏もそうです。
人は、よく「おかげさまで、・・・・・・」ということばを使いますが、ニュートンもまた、支援してくれた人がいてこそ、あのニュートンになれたのだということを感じます。
親が貧しかったり、理解がなかったりして進学できない場合もあります。また、いま、特に外国には勉強したくてもできない子がたくさんいると聞きます。本稿の読者の皆さんは、学習をする上でバリアがほとんどない環境にあるのではないでしょうか。そうできる環境に感謝する心を持って、ぜひ思いきり学習してほしいと思います。
青木薫† (あおき かおる、女性、1956年 - )
翻訳家。山形県生まれ。京都大学理学部卒業 同大学院修了。理学博士。専門は理論物理学。
翻訳書多数(以下は一部)
『物理と数学の不思議な関係』マルコム・E・ラインズ著 ハヤカワ文庫(2004年)
『ケプラー予想 四百年の難問が解けるまで』ジョージ・G.スピーロ著 新潮社(2005年)
『フェルマーの最終定理』サイモン・シン著 新潮文庫 (2006年)
『ビッグバン宇宙論』サイモン・シン著 講談社 (2006年)
ことわざ「巨人の肩」のルーツ
シャルトルのベルナールへの遙かなる旅(青木薫氏のWEBサイト)
http://homepage2.nifty.com/delphica/cahier/shoulder1.html
付記 ニュートンの墓碑銘(作 詩人アレキサンダー・ポープ1688年5月-1744年5月30日)
原文
Nature and Nature's laws lay hid in sight;
God said, ' let Newton be', and all was light
Alexander Pope
訳1
「自然と自然の法則とが闇夜の中に隠されていた。
神が言った「ニュートン出でよ」と。かくて、すべてがあかるくなった」(小倉金之助訳)
訳2
「自然と自然の法則は闇に横たわっていた
神は言い給うた、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた」(藤原正彦氏訳)
さて、その後、ニュートンは科学的な活動をほとんどしなくなり、造幣局などに勤めて、こっそり、金を作ることに熱中したといいます。そもそも化学は錬金術から発展したといいます。こっそりとしたのは、そのころの常識ではすでに、金はできないとされていたからです。また造幣局などに勤めていたこともあるでしょう。ですから、ニュートンは最後の錬金術師だったと否定的なニュアンスで伝える文献も多いのです。「最後の」とは当時の常識で「できない」と結論づけられていることであったからでしょう。けれども、そうした常識は十分知った上での研究でしょう。老後のひそかな楽しみだったのかもしれません。結果的にできなかったけれども、必ずしも、科学者の態度としては否定できないのではないかという見方もできるかもしません。
初め、ニュートンの授業は難しくて理解できる学生はいませんでした。それで、やさしい導入を入れたのです。これで二ュートンは評判をあげました。そうした工夫の中で生まれた講義録がのちの1707年に出版された『普遍算術(アリスメティカユニバーサルス)』という本でした。この中には「アルキメデスと王冠調べ」に続いて「牛が草を食う問題」というのがありました。今日これは日本でしばしば『ニュートン算』と称され、典型的な難問文章題の1つのパターンとして中学入試算数にもよく出題されています。
中学入試のニュートン算には、「牛が草を食べる問題」から、「窓口に並ぶ客をさばく問題」「泉から水を汲みだす問題」などがあります。
ニュートン算は広義の「追いつき旅人算」ともみられますが、「旅人算」自身初めは難しいと思われがちなので、別々に教えてある程度それぞれを理解したころ合いを見計らって、関連付けた方が分かりやすいかと思います。
「追いつき旅人算」は位置を移動する2つの者(物)の隔たりの推移に関する問題と言えますが、移動以外のものの「広義の追いつき旅人算」と言えます。
『普遍算術(アリスメティカユニバーサルス)』は、大学での講義録です。ニュートンはこの出版はとても恥かしがって嫌がったといいます。
問題
ある量の水が入った水そうがあります。この水そうに水道から一定の割合で水を入れると同時にポンプを使って水をくみ出します。水そうを空(から)にするには、6台のポンプでは65分かかり、8台のポンプでは45分かかります。使用するすべてのポンプは同じ割合で水をくみ出すとき、次の各問いに答えなさい。
(2008年 明治大学付属明治中)
解法
答え (1)3:2 (2)39分 (3)14台
加比の理†
大学受験生でも「加比の理(かひのり)」を知らない人がいたりしますが、知っていると、計算が楽になることが多いです。
A:B=C:Dのとき、A:(A+B)=C:(C+D) 加比の理
が基本です。
A:B=C:Dのとき、A:(A-B)=C:(C-D)
のようにも応用できます。
線分図は中学でも使いますが、面積図は中学数学で取り扱うことはほとんど皆無ではないでしょうか。また、「塾で面積図を教えるので、中学でなかなか方程式を覚えてくれない子がいます」という私立中学校の先生もいます。実際、面積図はほとんど使わなくても大抵の問題が解けます。ところが、一方で、中学入試の中には、解き方を誘導したり、面積図を出してそれに沿って解けという問題もあり、なかなか一筋縄ではいかないのが実際です。
ところで、面積図は将来まったく使わないかというとそうでもありません。高校の数学の総仕上げ単元と見られる積分法は、実は面積図なのです。積分が中学入試に出るのかというと出ました。
次の問題は、2008年南山中学校女子部の問題です。
問題
ドーベルマンのドーベくん(体重25kg)、ルマンくん(体重35kg)、グレートデンのグレーくん(体重70kg)のいたずらな犬3匹(びき)組は、あまりのいたずらにしかられて、縦4m、横11mの長方形の部屋(へや)に閉(と)じ込(こ)められてしまいました。しかし、3匹は全力で走り体当たりして、壁(かべ)を壊(こわ)して逃(に)げ出そうと考えています。
この部屋は、縦の壁は10m/秒(毎秒10m)の速さで85kgのものを、横の壁は10m/秒の速さで35kgのものをぶつけると壊すことができます。また、壊す力は、重さに比例し、速さの2乗に比例します。
下のグラフは、3匹が走り始めてからの時間と速さの関係を表したものです。
(2008年 南山中学校女子部)
解法
答え (1)11m/秒 27.5m (2)(ア)9m (イ)12m/秒 (3)(ア)ルマン君 (イ)ドーベ君
参考 面積図と積分
南山中学校女子部については、あまり詳しく知りませんが、幸い、最近東海地区にも日能研ができたので、過去6年ほどの同中の入試問題を頂きましたところ、2005年にも、同じような問題(等加速度運動)が出ていました。この問題は、「中学受験の面積図は高校の積分につながっているのだよ」と教えるためには、都合のよい問題です。きちんと教えると、わかる人もけっこういると思います。この問題はあらかじめ教えておけば、ほかの受験算数と比べ難しいかどうかというと、必ずしもそうはいえないと思います。しかし、出題頻度がごくまれなので、カリキュラムに取り入れてじっくり対策するということは現時点ではちょっとしずらい感じです。ほかにもやることが多すぎるからです。頻度が上がるようであれば取り入れることになり、面積図解法による問題練習ももう少し多くなるかもしれません。
一方、まっさらな状態でこれを見て意味が分かるなら、学校はいらない位な感じです。難関進学高校の授業でも数時間かける内容ではないかと思います。普通の「時間と距離」の進行グラフに対して、「速さと時間」のグラフもまれには出ますが、等速度運動がほとんどです。
この問題のように、等加速度運動は前にも一度見たことがあるけれども、それは簡単でした。
一応今後にそなえて、そして、面積図は将来の学習に関連するのだという意味を含めて、授業で「速さの面積図」を指導する際に軽く触れる程度は必要かもしれません。
一応説明してみましょう。
などとすれば、理解させられると思います。授業ではあまり触れる余裕がないかもしれませんが、気になる人はひまなときにぜひここを読んでおいてほしいと思います。
この学校は2005年にも、同じような問題が、もう少し短く単純な構成で出ていますので、それを前提にさらに進めさせて出題したものとみられます。連続しては出ないと思います。しかし、同中受験生は一応やっておいた方がよいでしょう。
キッスナンバー(接吻数)とは、「一個の球のまわりに、同じ大きさの球をいくつ接触させられるか」という問題の答えの値のことで、この問題は三次元接吻数問題ともいわれ、1694年に行われた「ニュートン=グレゴリー論争」から起こったという説があります。この問題の解決は20世紀半ばになってようやく答えは12個ということで解決されました。やはり、ニュートンは正しかった、ということで、三次元に限らず何次元でも、一個の球(超球)に接触できる同じサイズの球の個数はすべて「ニュートン数」と呼ばれることもあります。しかし、本当はニュートンもグレゴリーも13個と考えていました。
近年多数の科学の洋書の翻訳書を出している前述の科学翻訳家の青木薫氏は氏の運営するWEBサイトで次のように断言しています。
いったい誰が、「ニュートンは正しく12個を主張した」と言い出したのだろうか? あのニュートンが間違うはずはないと考えたのだろうか? いずれにせよ、ニュートンとグレゴリーの対話は「論争」ではなかったし、ニュートンは12個とは言っていないということは間違いない。
接吻数の謎(青木薫氏のWEBサイト)
http://homepage2.nifty.com/delphica/cahier/newtonkiss.html
【その他】力の単位としてのニュートン
ニュートン(記号:N)は、力の単位である。その名前はイギリスの物理学者アイザック・ニュートンに因む。1ニュートンは、1キログラムの質量をもつ物体に1メートル毎秒毎秒 (m/s2) の加速度を生じさせる力。ニュートンは組立単位であり、基本単位で書き表すと N= kg・m・s-2 (キログラムメートル毎秒毎秒)となる。
2008年京都大学前期文系の5番に、ひと筆がきの問題が出ました。まず、この問題を解く前に次の練習問題を考えてください。
練習問題
5つの円がくっついている右のような図を一筆書きでかきたいと思います。
(1)Aからかきはじめたときは何通りのかき方がありますか。
(2)Bからかきはじめたときは何通りありますか。
(2008年 京都大学前期文系5改題)
解法
答え(1)384通り (2)192通り
もとにした問題
正n角形とその外接円を合わせた図形をFとする。F上の点Pに対して、始点と終点がともにPであるような、図形Fの一筆がきの経路の数をN(P)で表す。正n角形の頂点をひとつとってAとし、a=N(A)とおく。また正n角形の辺をひとつとってその中点をBとし、b=N(B)とおく。このときaとbを求めよ。
注:一筆がきとは、図形を、かき始めから終わりまで、筆を紙からはなさず、また同じ線上を通らずにかくことである。
(2008年 京都大学前期文系問題5)
解法
ヒント 練習問題の5のかわりにnとして式を作ればよい。
答え a=(n+1)×2n+1 b=(n+1)×2n
『学校選択(全国中学入試センタ―)』で「算数好きのきっかけを求めて」という連載記事を書いていますが、皆さんにわたっているでしょうか。参考になると思いますので、ここに今回の分を再掲します。
「算数好きのきっかけを求めて」第5回
面積図と積分
積分というのは高校3年生が学び、大学でもさらに学びますが、2次関数の積分にあたる等加速度運動については中学入試にも出ます。面積図から積分まで駆け足でおさらいしましょう。
「図1のアとイのたての比と図2のアとイの横の比が等しく」すればよい。
12%と22%の食塩水A、Bを混ぜ合わせて、18%の食塩水Cを作りたい。混ぜる食塩水A、Bの比を求めなさい。
「A、Bのアとイのたての比とCのアとイの横の比が等しく」すればよいから、
(22-18):(18-12)=2:3
といえます。
行きは毎時3km、帰りは毎時2kmの速さで往復した時の平均の速さを求めよ。
Aのかかる時間の比は2:3になるので、
3-2=1(km/時)を2:3に分ける。2.4km/時となる。
等速度運動の場合、1時間に3km進むのであれば2時間3時間で6km、9km進む。
変速するとき、1時間ごとに、時速を1㎞、2km、3kmになるときは階段状の面積になり、等加速度運動では三角形の面積になる。
『学校選択(全国中学入試センタ―)』「算数好きのきっかけを求めて」より
今回はニュートンに関連して、ニュートン算と面積図(積分)の話題でした。
ニュートンのしたことなどについてはもっと多くてとても書ききれないのですが、ただ、ニュートンを知らない人はいないくらいに有名で、ニュートンのことについては書物も多いので、直接間接的によく知っているでしょう。積分ということばも使うべきかどうか、迷ったのですが、あえて使った方が検索しやすいと思って使いました。
ニュートンは確かに「一を聞いて十を知る」といった洞察力の持ち主でしたが、幼い時にはどうも天才というほどではなかったようです。
考えるときは徹底して考えるという習慣は、不幸な生い立ちの中で、暗い性格と抱き合わせで身に着いたようです。
叔父さんやバローという好意的に思い込んでくれる味方がいたこと、その人たちが与えてくれた方向をけなげに真に受けて徹底的に集中して学習したニュートン、そういうよいめぐり合わせで、イギリスの誇る偉大なニュートンができたのだと思います。
時々は、自分を追い込んで集中して考える習慣をつけると、ニュートンのような天才になれるのかもしれません。頑張ってください。
ところどころ、小学生には難しすぎるのではないかということも混じっているかと思います。
昔、「おしん」というNHK の朝の連続テレビ小説(原作・脚本 橋田壽賀子)がありました。日本で大変な視聴率だっただけでなく、多くの外国でも放送されました。おしん(小林綾子)の二度目の奉公先である酒田の米問屋・加賀屋の娘八代加代(志喜屋文)は、おしんとは同い年。画家になることをあこがれ、おしんに大きな影響を与えますが、その加代の祖母くに(長岡輝子)はおしんの理解者で、広い心で、幼いが向学心のあるおしんを見守ります。ときに社会・経済のしくみなどを話します。「そんな難しいことを教えてもおしんにはわからないでしょう。」という人に対して、くには「今のおしんにはわからないだろうが、いま、話しておきたいのだ」というようなことをいいました。とても印象に残りました。ただし、記憶で書いているので正確な引用ではありません。
また、赤ちゃんにはたくさん話しかけ、赤ちゃんの「あう。あう」という言葉にはどんどん返事をするとよいといいます。わからないところを、あまり分からなくても、とりあえず読んでみると、時間がたつとひょっこり芽が出ることもあるのではないかと思います。兄弟の子どもがいるとき、兄に教えていると、弟の方が意欲的に学び、弟もわかってしまうことが多いようです。
わからないけど、何となく気になる、きっと、そのうちわかってやろう
という気持ちは、子供のとき必要なだけではなく、数学者になってからも必要なのだろうと思います。そんなことを考えたりしながら書きました。わからなくてもよいからざっと読んでほしいと思います。
《蛇足1》 牛吃草(ニューツウチャウ 牛が草を食べます)
「ニュートン算」を中国語では「牛吃草(ニューツウチャウ)」と書きます。日本式にはギュウキツソウと読めます。文字の意味は「牛が草を食べます」という意味と、「牛が食べる草」という意味があると思います。吃は日本では「吃(ども)る」という字ですが、中国では、「(牛が)食べる」ということに使います。日本語の「どもる」ということは「口吃」というように2字で表します。
また、中国ではニュートンは牛頓と書きます。(これではギュウトンじゃないか、ニュートンなら乳頓じゃないかという気にもなります。)中国の方に「牛頓はニュートン、えらい科学者のニュートン、乳頓は読まない。乳と頓を組み合わせても何の意味もない。」と教えていただきました。
日本人にとって、中国では筆談が結構通じるのが面白いです。
ところで、たとえば、関数(かんすう)は英語のファンクションが中国で函数(ハンスー)と訳され、そのまま日本に輸入され、函数(かんすう)とよばれていました、現在は日本では関数という文字が使われています。このように昔は、日本の数学用語は英語を中国語に直したものをそのまま日本で使われることが多かったのですが、最近は日本で訳したり作ったりした言葉も増えているばかりか、中には、それをそのまま中国でも使われることもあるようです。
《蛇足2》 聞一以知十(いちをきいてじゅうをしる)
「一を聞いて十を知る」とは、物事の一端を聞いただけで、そのすべてを知ってしまうという事です。
ですから、これはとても聡明(そうめい)である事を言い表す言葉です。「聡(そう)」はよく聞ける、「明(めい)」はよく見える、という意味の文字です。出典は「論語」です。日本では、日本古来の神やインド発祥で中国で栄え韓国を通じて輸入された仏教による行事がありますが、多くの道徳規範は論語の影響が強いようです。
孔子(こうし)には、顔回(がんかい)や子貢(しこう)などすぐれた弟子がたくさんいました。
孔子はあるとき子貢に問いかけました。
「お前と回とでは、どちらが優れているか。」
子貢は答えました
「私はとうてい回の足元にも及びません。回は一を聞いて十を知る事が出来ます。私は一を聞いてもニしか知り得ません。」
すると、孔子が言いました。
「その通りだ。私もお前と同じで顔回には及ばない。」
ここに出てくる「顔回」という人こそ「一を聞いて十を知る」人だというわけです。論語の中には、孔子が顔回を褒めた言葉が他にもあり、孔子の一番弟子でしたが、若くしてこの世を去ってしまいました。それだけに顔回が亡くなった時の落胆(らくたん)ぶりはひどかったようです。
原文
子謂子貢曰 汝與回也孰愈 對曰 賜也何敢望回 回也聞一以知十 賜也聞一以知二 子曰 弗如也 吾與汝弗如也
(出典「論語三巻 公冶長第五」)
では、今回はこの辺で。