日能研教務部算数科 真藤 啓
本稿は、次のそれぞれの算数エッセーのうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。タイトルは『進学レーダー』のものをあて、WEB掲載のタイミングも『進学レーダー』の発行日に連動して毎月15日に行います。
けれども、毎月それらの文を読まなくても本稿が読めるようにも心がけています。受験算数の根っこの部分とか背景といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いていますが、今年2008年の入試を見る限りにおいては、この稿を読むことは中学受験にも有利のように思います。
『進学レーダー』6月号(5月15日発行 みくに出版) 算数エッセー「算数好きになる薬 真理に気づいて!」
『キッズレーダー』6月号(5月20日発行 日能研) 算数エッセー「おいしい算数 一対一対応」
『学校選択』6月号(5月20日発行 全国中学入試センター) 算数エッセー「算数好きのきっかけをもとめて モーザー数列」
ガリレオについては、伝記などもあるので、割合よく知られているのではないでしょうか。父親というのは、わが子は育て方で、どんな職業にもさせられるというような先入観があるようですが、実際にはなかなかそうはいかないようです。ガリレオの父親としては、わが子に裕福になるように医者にさせたかったようです。
父の怒りにもガリレオは「自分の道は自分で決めます。」と言い張ったと『進学レーダー』に書きましたが、それに対しての父の反応は書きませんでした。父の本音としては、頑固なところは自分譲りだと苦笑して一時はともかく案外あっさり許したのではないかと思います。しかし、いろいろ迷って筆が進みませんでした。
『進学レーダー』には書かなかったのですが、ピサ大学の数学の教員になったとき、医学の教員と数学の教員との給与の差があまりにも大きく、ガリレオは父の言葉が思い出されました。けれども、だからといって、もちろん数学を選んだことを後悔したりはしませんでした。
ガリレオはデル・モンテのおかげで、イタリアのピサ大学の教授になり、その間、科学読み物の小冊子を発行しました。その中に、実験をしないで誤った講義をしている先輩や同僚の風刺が入っていました。これが災いして、3年契約が満期になったときに更新されませんでした。再び、デル・モンテのおかげで、となりのベネチア共和国のバトバ大学の教授になりますが、ベネチアで名を上げました。というのは、バトバにはピネーリという裕福な貴族がいてピネーリは町中のあちこちに屋敷を持ち個人図書館も持っていましたので、ガリレオは屋敷や図書館を使わせてもらいました。またピネーリ会という科学や哲学の討論会もあり、イタリアなど外国の学者も集まるようになっていました。この中にはローマ・カトリックの長老も混じっていて、のちの裁判で、ガリレオが死刑にならないように応援してくれました。
そのころ、オランダの職人リッペルハイによって望遠鏡が発明されましたが、ガリレオはそれよりもずっと精度の良い天体望遠鏡を発明しました。その後いろいろな望遠鏡が発明されましたが、それらはガリレオのものと比べると使い物にならない単なる珍しいおもちゃにすぎませんでした。ガリレオは天体望遠鏡をお土産にイタリアにもどり、ローマの宮廷数学教授になります。宮廷数学教授はピサ大学教授も兼ね、その上位に位置します。
ガリレオはキリスト教会の中で、自分の主張を通すことがキリスト教のためによいことだと思っていました。聖書は、人が死後天国に行けるように、正しく生きるように導くためにわかりやすく書いた方便であると思っていました。
1613年ガリレオは弟子のカステッリに
「・・・・・・あなたが、聖書はうそをいったり、誤ったりしない、聖書のいっていることは絶対的に正しいということに同意したのは、賢明な態度だったと思います。だが、ひとことだけいっておきたいのです。聖書は誤ることはないが、それを解釈したり解説したりする人は、誤ちをおかすことがしばしばある、ということです。とくに重大で、しかもひんぱんにおこるのは、聖書のことばをいつも文字通りにうけとろうとすることです。だが、そうするとさまざまな矛盾だけでなく、キリスト教に対する異端や、神へのぼうとくにさえ落ちこむことになるでしょう。そして、神に足や手や眼があったり、怒りや後悔や憎しみといった人間的な感情をもたせたり、ときには神が過去を忘れたり、未来に無知だったりしなければならなくなります。
このように、聖書に述べられている多くのことがらは、文字通りに解釈すると真実とちがうように見えますが、それは世の中の大勢の人に理解しやすいように書かれているからです。
聖書のなかの多くの箇所で、文字通りでない解釈がゆるされるし、必要でさえあるからには、自然の現象についての議論で、聖書を持ちだすのは、最後にまわすべきだと、わたしは思います。・・・・・・」
ガリレオは敬虔なカトリック教徒で、聖書のことばの真の意味はけっして否定しませんでしたが、権威によりかかった学者たちが、聖書のなかの文句を勝手にふりかざして、立ち向かってきた場合には戦いました。
『伝記ガリレオ・ガリレイ(偕成社)』の解説(栗原一郎)より
ガリレオはデカルトとは時代が重なる人です。先に『座標』でデカルトについて述べたように、当時、聖書の記述と矛盾することは言ってはいけないことになっていました。ガリレオは、矛盾する実験などを不思議な実験として示しはしましたが、初めは発言にも用心していました。コペルニクスの天動説に対しても、コペルニクスの説にそって考えると計算が楽になるとしただけであって、天動説が正しいことを公に支持したり公表したわけではありませんでした。
ケプラーに対しても、個人的には支持しましたが、「そのことを公表してほしい。」と頼まれたときには無視しました。その時はまだ覚悟ができていなかったのでした。
ところが、『レーダー』にも書いたように、同僚シャイナーの挑発にのり、禁断の言葉を発してしまいます。ガリレオが地動説を公表することになってしまいました。そして、異端審問で地動説を捨てることを宣誓させられ、軟禁状態で晩年を送りました。ガリレオの、時代を超越した能力をねたむものが、聖書に書かれた方便を狭く解釈して陥れたのでした。それは、あべこべにキリスト教に対する背信行為でしょう。
のちの1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まりました。結局、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、今は亡きガリレオに謝罪しました。ガリレオの死去から350年後のことでした。このときから、ガリレオの名誉が完全に回復されたことになります。事実上はとっくに回復していましたが。
ジョルダーノ・ブルーノの処刑について
ジョルダーノ・ブルーノはイタリア出身の哲学者、司祭、天文学者です。
16世紀の後半、コペルニクスの世界観はヨーロッパ全域で知られるようになっていました。哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスが観察よりも数学的整合性を重要視したことを批判していましたが、地球が宇宙の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していました。
ブルーノはコペルニクスの理論の中にある「天界は不変不朽で地球や月とは異なった次元のものである」という意見には賛同しませんでした。また、コペルニクスは宇宙の中心はどこかにあるが、それは地球ではない。地球であるよりは太陽であろうと言ったのに対し、ブルーノは世界の中心は地球か太陽かなどという議論を超越し、3世紀のプロティノスやさらに後の時代のブレーズ・パスカルのような思想、すなわち宇宙の中心などどこにも存在しないという立場にたっていました。
ブルーノは、大筋でコペルニクスを支持し、また独自の修正案を発表したのです。これに対し、神へのぼうとく、不道徳な行為、教義神学に反する教説という理由で告発され、投獄され、拷問や説得を通じて、たびたび、自説の完全な撤回を求められました。
ブルーノは断固としてこれを拒絶したため、ついに1600年1月8日に異端判決が下ったのでした。異端審問所は判決のみで、実際の刑の執行は世俗の権力に引き渡されました。1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオリに引き出されたブルーノは火あぶりの刑に処されて命を落としました。
「私よりもこの判決を申し渡したあなたたちの方が恐怖に震えているのです」
と言い遺しました。ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられましたので現在残っていません。
現在では、カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程も再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下されました。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって進められたもので、カトリック教会が公式に判決を取り消したことで現在はジョルダーノ・ブルーノの名誉が完全に回復されています。回復されていますといっても、生き返るわけではありませんが、それでも子孫としてはうれしいものでしょうか。
付記 月の地図のジョルダーノ・ブルーノ
月の北緯36度、東経103度にはジョルダーノ・ブルーノと名づけられた直径20キロのクレーターがある。このクレーターはイギリスの修道士が目撃・記録したものによると、1178年に隕石の衝突によってできたものである。
天文学の三大古典として、
『アルメゲスト(クラウディオス・プトレマイオス)』、
『天球の回転について(ニコラウス・コペルニクス)』、
『プリンピキア(アイザック・ニュートン)』
が知られています。
この節では、『アルメゲスト』について述べ、次節で『天球の回転について』について述べたいと思います。ニュートンはガリレオ以降の人ですので、『プリンピキア』については、次号でニュートンについて述べるときにふれようかと思います。
で、『アルメゲスト』ですが、著者のクラウディオス・プトレマイオスは、トレミーの定理¶で有名な数学者です。プトレマイオスを英語読みでトレミーと言います。英語のフォニックスでPは無声音にあたるのでトレミーとなりますがこの人についてはトレミーの方がよく知られています。しかし、ここでは本名のプトレマイオスで述べたいと思います。
この本は、古いギリシア語の写本では「数学的集成」、「天文学集成」というものがあり、プトレマイオス自身がどのような題を付けたのか分かっていません。
プトレマイオスの没後、多くのギリシア語の写本が発生しましたが、7世紀なかばに、アラビア人によって、アレキサンドリア図書館が戦火にかかったときに、アラビア人によって多くの写本が難を逃れました。それらは、9世紀ころ、バグダッドに建てられたアッバース王朝の蔵書としてギリシア原典からアラビア語への翻訳が行われました。そのとき、翻訳書名として採用されたの『アルマゲスト(最大)』でした。
「おそらくアラビア人がこの書に最大の敬意を払ったことを意味するのだろう。」
と、「アルマゲスト(恒星社)」の訳者薮内清¶ 氏が解説で述べています。そのためこの書は『最大の書』と邦訳されることもあります。
また、薮内氏は同解説の中で、次のように述べています。
第1巻の「まえおき」から第7章までが一般の読者にとって最も興味ある部分であろう。ここで当時の支配的宇宙観であった天動説が説かれている。地動説が唱えられてから400年以上も経過した現在では、天動説は古代の幼稚な天文学者が勝手に考え出した独断であろうと思う人も多いだろう。しかし本文を読んでみるとそうではなくそこではいろいろな観測事実や当時の学者の合理的な推理からみて、どんなに天動説が妥当かが力説されている。その論証の仕方に幾分おかしな点はあるものの、これが西暦2世紀のころに書かれたものかと疑うほどの新鮮さがあって、今更ながら、西洋科学の伝統の深さを認めざるを得ないのである。
後述しますが、古代ギリシャのアリスタルコスは天動説を唱えましたが、測定値の精度は、アルマゲストにかないませんでした。また、引用の順序が前後しますが、薮内氏は、次のようにも述べています。
アルマゲストにはプトレマイオス自身の独創的研究も多く含まれているが、しかし本質的にはそれ以前におけるギリシア天文学を集大成してできている。それ以前のギリシア天文学について述べる余裕はないがプトレマイオスが特に多く引用しているのが、ギリシア最大の天文学者ヒッパルコス(前2世紀半ば)の業績である。この学者によって天動説を根幹とした天体運動論―――太陽、及び月の運動を数学的に取り扱うことが可能になっていた。アルマゲストには、このような偉大な先人の業績が、深い尊敬をもって引用されている。(中略)前3世紀にはユークリッドが有名な大著を著しており、少し時代は遅れるがアルマゲストは天文学におけるユークリッドの大著¶に匹敵する仕事であった。
トレミーの定理¶
「円に内接する四角形で、向かい合う2組の辺の積の和が対角線の積に等しい」このことを「トレミーの定理」という。「プトレマイオスの定理」ともいうが、日本では「トレミーの定理」としたものが多い。
「円周角の定理(1つの円で等しい弧に対する円周角は等しい。)」と「ピタゴラスの定理(直角三角形の直角をはさむ2辺の平方の和は斜辺の平方に等しい)」を使って証明できるが省く。中学入試で「円周角の定理」を使って解く問題はたくさん出ているがいまのところ、定理を回避してもすぐ解ける。
薮内清¶(やぶうち きよし、1906年2月12日-2000年6月2日)
日本の天文学者・中国科学史学者 京都大学名誉教授。
京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒 初めは天文学の研究者であったが、後に古代中国の暦法の研究へ転じた。
訳書 『アルマゲスト』(プトレマイオス著 恒星社厚生閣 1948年)
その他 単著、共著、訳書など著書多数。
小惑星 「2652 薮内」
1953年4月7日にハイデルベルク天文台でドイツの天文学者カール・ラインムートが発見した小惑星。
日本天文学会副理事長を務めた天文学者で中国科学史学者の薮内清の業績を讃え、「2652 Yabuuti」の名がつけられました。太陽系の中で火星と木星の間にある小惑星の軌道が集中している領域を小惑星帯(しょうわくせいたい)といいますが、薮内(やぶうち、2652 Yabuuti)はその小惑星帯に位置する小惑星です。
ユークリッドの大著¶
勿論、『ストイケイア(もとになるもの 原論)』をさします。ところで、薮内氏は、天文学が衰退した時期だからこうしたまとめの書が現れるとして、『原論』も同じ事情によると断じていますが、それは言いえていないように思われます。ギリシア数学はむしろ、『原論』により開花したものでしょう。
付記
それにしても、人間が文字を考えたことはすごいことだと思います。天文学は文字の記録により、何世代もそのまま引き継いでいくことができるようになりました。一人の一生で何度皆既日食や宇宙の不思議な現象を見ることができるでしょう。文字により、人類は天文学に対しては永遠の命をもったとも言えます。
そうして、翻って考えると、天文学に限らずすべての学問が文字により永遠の命を持ったとも言えます。
書を読んで学ぶことによりその先を考えることができます。皆さんも小学生のうちにたくさんの書(本)を読んで時折その先を考えるとよいと思います。人間一個人には、寿命があるけれども、文字により、人類は永遠の命をもったという感じもしますね。
科学革命という歴史的引き金となったのが、コペルニクスの「天球の回転について」です。
ギリシアのアリスタルコス(紀元前310年~紀元前230年)は、半月(上弦の月、下弦の月)のときに、地球と月と太陽を結んでできる三角形の月のところが直角になることを利用して、地球と月の距離を基線として、そのとき月と太陽がなす角度を87°と測定しました。(実際には89.95°でして、ほとんど90度です。つまり、太陽は実際にはもっとずっと遠かったのです。)直角三角形の各辺の長さの比は、直角三角形の大きさにかかわらず一定であるので、比の値から、地球-太陽の距離は地球-月の距離の20倍程度であると見積もりました。(実際には約390倍になります。)
そして、月食は地球の影に月が入る現象であることを知っていたので月食を利用して、月と地球の大きさの比を求めて、月は地球の約1/2から1/3と考えました。(実際には約1/4です)。太陽と月は見かけの大きさがほぼ同じなので太陽は月の約20倍~30倍の大きさとなるとしました。またアリスタルコスは、太陽は地球の約7倍~10倍の大きさと考えました。(実際には地球の約109倍です)。
アリスタルコスは、このような巨大な太陽の方が地球のまわりを回っているのはおかしい、地球の方が太陽のまわりを回っていると考えました。けれども、理論的にプトレマイオスの天動説に負けてしまったのでした。
天文学は長年の観測データを引き継いで築き上げられたものだったので、ちょっと割り込もうとしてもあべこべに恥をかかされてしまうのでした。こうして、ヨーロッパ社会からはアリスタルコスの説は忘れ去られていきます。しかし、ルネッサンスの時期、アラビア経由でアリスタルコスの考えも再輸入され、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスの知るところとなったのでした。 コペルニクスは父ミコワイと母バーバラの第4子としてポーランドの商都トルニーで生まれました。父は富裕な商人で、母も市の有力な商家の出でした。コペルニクスが10歳の時父が亡くなり、母方の伯父ルカス・ワッションデの保護を受けて育ちました。この伯父はのちにワーミア司教になりました。叔父はコペルニクスの生涯に多くの影響を与えたようです。
コペルニクスの『天球の回転について』が1543年に出版されました。同年5月に、出版された本が臨終の場に運ばれましたがコペルニクスはそれを見ることなく70歳で亡くなりました。同書の中で、宇宙に関するアリストテレスの理論が誤りであることが読み取れます。同書は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられました。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためです。しかし、暦を作る上でたいへん便利であったため禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになりました。地球は動いていないが動いていると考えても動いていないと考えても同じ計算結果が得られ、動いていると考えると計算が簡単になる。よって計算の工夫として、動いているかのように考えて計算してもよいという解釈でした。
というのは、コペルニクスの理論は「地球は動く」という以外は従来のプトレマイオスの研究の延長にあっただけとも見られるからです。惑星運動の調和的秩序を明らかにしたけれどもいくつかの問題を抱えていました。その最大のものは地球が動いているという根本的主張の証拠は全くなかったからでした。地球が動くと仮定すると、既存の理論では不明、不可解、複雑、バラバラな諸現象が統一的に理解でき、既存の理論では全く不明だったことにも新しい光を当てることができました。しかし、だからと言ってその仮定が正当化されるわけではないのです。
地球の自転の証拠は「フーコーの振り子」(1851年)、公転の証拠は「年周視差(ベッセル、1383年)」、光行差(ブラッドリー 1727年)などがあげられますが、こうした地動説の科学的根拠は18世紀以降に発見されたものであり、コペルニクスの時代にはなかったので、地球が止まっていても動いていても矛盾はなかったのでした。
参考文献『コペルニクス・天球回転論(高橋憲一訳 みすず書房)』
上記参考文献の背表紙には次のような文が載っています。少し微笑ましいので掲載します。
《好学なる読者よ、新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。》
(コペルニクスの序)
1543年5月24日臨終の床にあったポーランドの聖堂参事会員ニコラウス・コペルニクスの許に、印刷されたばかりの彼の主著が届けられた。『天球回転論』と題するこの書こそは、古代、中世を通して支配的であったアリストテレス、プトレマイオス流の地球中心説(天動説)に真っ向から対立する宇宙論=太陽中心説(地動説)を打ち立て、〈科学革命〉という歴史的事件を引き起こす引き金となったものであり、近代の幕開けを告げる革命の書であった。
本書は、『天球回転論』第1巻の待望の新訳と、コペルニクスが初めて太陽中心説の構想を記した未刊論文『コメンタリオルス』の初の邦訳から成り、併せて天文学における〈コペルニクス革命〉の意味を解明する詳細な訳者解説を付したものである。原著刊行および著者没後450年を記念し、ガリレオ『天文対話』、ニュートン『プリンキピア』と並ぶ科学史第一級の古典をここに贈る。
高橋憲一(たかはし・けんいち)
1946年茨城県日立市に生まれる。1970年早稲田大学理工学部電気工学科卒業。
1979年東京大学大学院理学研究科退学(科学史・科学基礎論専攻)。
1990年理学博士(東京大学)。現在 九州大学大学院比較社会文化研究院教授。
『ガリレオの迷宮(共立出版 高橋憲一)』第60回毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞[2007/11/03]
『天球の回転について』・『天体の回転について』・『天球回転論』
御覧のように高橋氏の訳書では、『天球の回転について』の書名は『天球回転論』となっています。『天体の回転について(岩波文庫 矢島祐利訳 1953年)』は、底本に誤記が多いとして、区別するために『天球回転論』としたようです。『天球の回転について』は『伝記ガリレオ・ガリレイ(マイケル・ホワイト著 日暮雅通訳)』で訳者日暮や解説栗原一郎が書いているほか、その他の書や、WEBでは特にウィキペディアなどに『天球の回転について』とあり、すでにこの書名で書いていますので私は『天球の回転について』として書いていますが、このことに対して、なんら特別な思い入れや信念を持っているわけではありません。
科学革命(かがくかくめい)とパラダイム
ウィキペディアでは科学革命について次のように述べています。
科学革命は、2つの意味がある。
1つは、科学革命とは歴史学者ハーバート・バターフィールドが1949年に考案した時代区分の名称で、コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンらによる科学の大きな変革と、科学哲学上の変化を言う。
もう1つは、科学革命とはトマス・クーンが1.の科学革命を拡張した概念。しかしこの2者の科学革命という言葉の意味や綴り方には大きな違いがある。どちらの意味で使われているのか注意する必要がある。
トマス・クーンは「科学者が一定の発想、前提、枠組み、ルールなどに従って研究を進め、できるだけその枠内で問題解決を図る傾向にある」としました。そして、このような試みが行き詰ると、枠組み自体が疑われることになり、混乱期を経て考え方の大幅な変更が起こることになる。これを科学革命、パラダイムシフトなどと呼んだのです。クーンによれば科学革命は歴史上何度も起き、また、現在も起きつつある。クーンによれば、天動説が地動説になったように、そしてその時点だけではなく、ニュートンの力学体系が行き詰まってアインシュタインの相対性理論が生まれた時点もまた科学革命ということになるとしたわけです。
バターフィールドが地動説から天動説に変わったことを科学革命といい、クーンはそれを含めて、パラダイム(考える枠組み)が変わることを科学革命と言っているわけですが、つまり、科学革命が固有名詞から普通名詞に変わったのですが、言葉はしばしば多重の意味を持ちながら使用されるので、「どちらの意味で使われているのか注意する必要がある。」というほどのことはあるまいと私は思います。というより、今日、科学革命とは、普通、クーンのいうパラダイムシフトということばで、もっと広範な事例に援用されるようになっています。
ただし、ウィキペディアのこの項目の筆者もそれほどおおげさな気持で記しているわけではないと思います。
参考文献『科学革命の構造(トマス・クーン著 中山茂訳 みすず書房、1971年)』
パラダイムという言葉は小学生には少し難しいかなと思いますが、3月号でもお知らせしましたが、今年(2008年)の江戸川学園取手中の国語の問題3題中の2番の問題文には、パラダイムという言葉がたくさんちりばめられていました。
出典の「自分のためのエコロジー」の著者甲斐徹郎さんは日本女子大などの講師をなさっている都市環境などの専門家です。パラダイムの現代的な意味や使い方がわかると思いますので問題の冒頭の部分を再掲します。いずれ知っておいた方がよい言葉だと思います。
時代時代を見ていくと、どうも徐々に変化してくるのではなくて、どこかで不連続に、ガラッと価値構造が変わる瞬間があります。どう考えても、1960年代から70年代より前の時代と現代とは、都市の価値構造が違う。その価値構造の枠組みのことを「パラダイム」と呼びます。
「自分のためのエコロジー」甲斐徹郎 2008年 江戸川学園取手中の国語の入試問題から
この本はほかに、ジュースをすぐに冷やすには、冷蔵庫に入れるよりも氷水で冷やすほうがよい。空気で冷やすよりも液体で冷やすほうが早く冷える。そのことは体を入れることを想像するとすぐわかる。というようなことも書いてあり面白いです。
氷風呂に入るのと冷蔵庫に入るのとではどちらが先に?冷たいか!?
そりゃあ、氷風呂の方がいきなり冷たいですよね。先のクーンの本『科学革命の構造』は難しいのですが、甲斐さんの本は、若者向けに書いているようで、小学生にも十分読めると思います。
『進学レーダ―』には、ガリレオは『新科学対話』という対話形式の教科書を書きました。この中に、
シンプリーチョとサルビアティという登場人物が、平方数と自然数とどちらがたくさんあるかという議論をします。シンプリーチョは、ユークリッドの『原論』に 「部分は全体より必ず小さい」と書いてあり、平方数は自然数の一部だから、平方数の方が少ないに決まっていると言い、サルビアティの方は、ある数と、その二乗数が一対一に対応しているのだから、どちらも同じだけあると言います。二人は論争をしていて決着がつきません。ガリレオは、どちらが正しいかを読者自ら気づかせようとしたのでした。
というようなことを書きましたが、皆さんはどちらが正しいと思いますか?
自然数というのは、
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、・・・・・・・・・
平方数(四角数)というのは、
1、4、9、16、25、36、49、・・・・・・・・・
です。自然数には自然数が全部入っていますが、平方数(四角数)には、自然数のうち、入っている数もあれば入っていない数もあります。
1×1=1、2×2=4、3×3=9、4×4=16、・・・・・・
を、y=x×xと考えて、グラフで表してみると、右のようになり、どんな自然数に対しても平方数が対応できるので個数は等しいのです。
ある集合とその部分集合の要素(メンバー)の個数が等しいということは有限集合ではありえませんが、無限集合ではあり得ることになります。少し変な気もしますが、これが有限の場合と違う無限の特性なのです。
では「すべての分数」の個数と「すべての自然数」の個数とではどちらが多いでしょう。
「すべての分数」の中には分母が1の分数、つまり、自然数がすべて入ります。つまり、「すべての自然数」は「すべての分数」の部分集合です。
「自然数」は数直線上にぽつんぽつんとあります。ところが、どんな2つの分数を選んでも必ずその間に分数がありますから「すべての分数」は数直線上にびっしりとあります。
さて、ぽつんぽつんとびっしりとではどちらが多いでしょうということになります。
それは言い換えると、「すべての分数」を1列に並べられるかということになります。1列に並べられるかということは、「すべての分数」に番号を付けることができるかということになります。
次のように、きまりをつけてみましょう。
きまり 分子と分母の和が小さい順に並べる、分子と分母の和が同じときには分子が小さい順に並べる、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、・・・・・・
こうするとうまく並べることができます。
この分数列には、いつまで待っても来ない分数はありません。このことを確認してください。つまり、すべての分数に番号を付けられるわけです。番号は「自然数」ですから、「すべての分数」は「すべての自然数」と1対1対応ができるので同じ個数なのです。
約分して同じものが出てきたときには除いて考えるとする書物もあります、というかそれが普通ですが、見かけが違う同じ分数を別なものと考えてもそれはそれで、また、同じ個数なのです。
先ほどから個数と言っていますが、有限の場合は個数でよいのですが、無限の個数については、濃度という言い方をします。初めに個数と言って、あとで濃度と言いかえるという教え方が普通なので、私もそのようにしました。この濃度のことを、可付番濃度(かふばんのうど)と言います。可付番の可はできるという意味の文字で、付番とは番号を付けるということです。ですから、可付番とは「番号が付けられる」ということを略した言葉です。また可算濃度(かさんのうど)とも言います。というか可付番濃度というよりも可算濃度ということの方が多いと思います。可算というのは計算できるという感じですが、1個、2個、3個、・・・と数えられるという意味と思ってください。可算濃度の集合のことを可算集合ということもあります。
ところで、数直線上の数には分数では正確に表せない数もあります。たとえば、円周率のような数です。そうした数を含む数を実数と言います。数直線上のすべての点は、つまり、すべての実数はうまく番号がつけられません。証明には対角線論法というのを使いますが省略します。
大体の感じでいうと、数直線上にぽつんぽつんある点とびっしりある点とは同じ濃度(個数)で、ベッタリある点はもっと多いということです。
ベッタリの濃度(つまり実数の濃度)を連続体濃度といいます。
ここで、可算濃度と連続体濃度の間の濃度はあるのだろうかと思った人はいるでしょうか。集合論を考え出した人ゲオルグ・カントールは「ある。」と考えました。そうして、初めは、その証明も簡単だと思ったのですが、「あれ、あれあれ?」と言ったかどうかはわかりませんがなかなかうまく証明できませんでした。
「可算濃度と連続体濃度の間の濃度はある。」という考えを「連続体仮説」と言います。
1900年、パリで開かれた国際数学者会議においてヒルベルトは有名な「ヒルベルトの23の問題」の第一番目にこの連続体仮説を取り上げました。歴史に残る難問だったのです。
その後、1940年にゲーデルは連続体仮説をみたすと考えても矛盾は起きないことを証明し、連続体仮説の否定の証明はできないことを証明しました。ここで、ゲーデルは連続体仮説はしょうもない問題だと思い、この研究をやめます。
1963年、コーエンはゲーデルの方法に強制法と呼ばれる新しい手法を用いて連続体仮説が正しいと考えても、または正しくないと考えても、矛盾しないことを発見しました。コーエンはこの業績により、1966年にフィールズ賞を受賞しています。
「連続体仮説」が正しいとも正しくないとも決められないということを証明してしまったのです。この結果というのが面白いですね。
数学では、「できる、ある」とか「できない、ない」という結論が普通ですのに、「きめられない」なんていうのもでてきたわけです。
正しいとも正しくないとも決められない「連続体仮説」自身は確かに大したことではないかもしれませんが、正しいとも正しくないとも決められないということを証明するという証明そのものは、すごいことだったのです。これまで、数学ではこういうことの証明は苦手だったのです。こういうことが証明できるとなると、数学の使い道が広がるわけです。ゲーデルは「しまった。その手柄は、私がやるべきだった。」と悔しがったそうですが、コーエンの論文には賛辞を惜しまなかったそうです。
『キッズレーダ―』には木下藤吉郎が山の木を縄を使って数えたというようなことを書きましたが、これと同様なことを日能研の「3年生の算数のテキスト」の一部にも書いています。テキストを書いているとき、ある人から、学研の「算数おもしろ大事典」に載っているのと似ているが、この本をすでに持っている生徒もいるというような指摘を受けたことがあります。
実は「太閤記」といったかどうか忘れましたが、子供のころ見た映画を思い出して書いてみたのです。どこにでもあるお話だと思っていました。先の学研の本を見て思い出したのは確かですが、特に真似をしたということはありません。学研のもまた映画かその原作などを思い出して書いているかと思います。少なくとも、創作ではありません。いずれにしろ、むしろ文献にあることを書いた方がよいと思っています。ところで、藤吉郎がいろいろなアイディアで出世したのは間違いないようですが、たくさんの有名なエピソードの多くは、江戸時代に作られたといわれています。
小六正勝(のちの蜂須賀小六)と日吉丸との「矢作橋の出会い」も当時は橋はかかっていなかったそうです。この川は川幅が広いことから、とても長い橋でたびたび流されたそうです。現在の矢作橋には、小六と日吉丸の「矢作橋の出会いの像」がある一方で、当時、ここには橋がなかったという記述もあるそうです。
さて、『進学レーダ―』で取り上げた1999年の灘中の問題について考えてみたいと思います。
問題
図のように円周上に6個の点をとり、それらをすべて直線で結ぶ。円の内部においてどの3直線も1点で交わらないとき、円の内部は31個の部分に分けられている。同じように円周上に7個の点をとり、それらをすべて直線で結ぶ。円の内部においてどの3直線も1点で交わらないとき、円の内部は
個の部分に分けられる。
(1999年 灘中 1日目7番)
解法
問題の図に7個目の点をかき加え、その点から他の6個の点に直線を引くと、6本の線が引かれる。
この6本の線は先にかかれている線と合計0+4+6+6+4+0=20(個)で交わるので交点で区切ると6+20=26(個)の線分になる。この26個の線分は1個ずつピース(かけら、部分)を増やす。
31+26=57
答え 57
別解
6本の直線が既にある直線と20個の点で交わる。この20を計算で求めることを考えます。
1つの交点は、2本の直線で決まる。1本の直線は円周上の2点で決まる。
したがって、円周上の4点を選ぶと、交わる2直線が1通り決まり1つの交点が決まる。
だから、はじめにあった円周上の6点のうち3点を選び、新しい1点との合計4点で、交わる1組の2本の弦が決まるので1つの交点が決まる。
6個の点から3個選ぶ場合の数は、
6C3=(6×5×4)÷(3×2×1)=20
31+6+20=57
答え 57
ここでは、部分を数えるかわりに線分で数えました。ところで、08年4月号「オイラーの贈り物(オイラーの贈物2 多面体の定理)」で次のように学びました。
「オイラーの多面体の定理」
多面体の頂点、辺、面の数については、必ず次の関係が成り立つことが知られている。
頂点の数-辺の数+面の数=2
これを平面で考えると、
頂点の数-辺の数+面の数=1
となります。
2が1になります。
このことを説明します。
たとえば、右の図を立体の図と見てみると五角錐と見ることができますが、五角錐と見ると
頂点の数-辺の数+面の数=2
となります。また、右の図を平面の図とみると五角形を線で分けたと見ることができます。頂点、辺、面などの用語を立体の時と同じものを使うと、
頂点の数-辺の数+面の数=1
となることは簡単にわかるでしょう。つまり、五角錐の底面は平面にしたときはなくなるからです。
立体の1つの面を外周になるように押し広げて平面にすると、平面図形としてはその面が数えられなくなるので、面の数が1つ減ることになり、「平面オイラー定理」では「オイラーの多面体の定理」の2が1になるのです。
五角錐は何も底面の5角形を外周にしなくても、例えば、右のように1つの3角形の面を広げて外周にしてもよいのです。
これを立体の図とみると、
頂点の数-辺の数+面の数=2
となり、平面の図とみると、
頂点の数-辺の数+面の数=1
となります。
もう1ついうと、立方体はつながりを保ったまま、次のように変換することができます。
ここでも、これを立体の図とみると、
頂点の数-辺の数+面の数=2
となり、平面の図とみると、
頂点の数-辺の数+面の数=1
となります。
以上で、平面の場合には、いつも
頂点の数-辺の数+面の数=1
となることが類推できることでしょう。
で、つまり、辺(線分)の数が増えた分だけ、面(部分)の数が増えるわけです。
さて、先の灘中の問題では、円周上に6つの点(頂点)があるときに31の部分(面)に分けられると書いてあるので、その続きから考えればよいのですが、もしなかったらどうでしょうか。
頂点(点)が1個のとき、面(部分)は1個、
頂点が2個のとき、面は2個、
頂点が3個のとき、面は4個、です。
頂点が4個の場合、面は8個、頂点が5個のとき、面は16個、頂点が6個の場合、面は31個です。
1、2、4、8、16、31、・・・・・・
このような数列をモーザー数列といいます。7番目の数は、57です。
公比2の等比数列に出だしが似ているので紛らわしいです。
ときどき、皆さんの解法で、「1、2、4、8、16」となるので、規則性から次は32というような解法を見かけますが、この問題を見ると少し危ない解法ということになりそうです。つまり、規則性を裏付ける式など、一般化や定理化が必要になります。モーザー数列は、日本の出版物では、『シュタイナー学校の数学教育(ベングト・ウリーン 著、丹羽敏雄・森 章吾 共訳 三省堂)』 が初出です。1995年 1月 1日に発行されています。
この本の中でも規則性だけの解法では危ないという例題として扱われています。
多分、灘中の先生もこれを御覧になって出題なさったのではないかと思います。
この本を見たときにセンター模試に出題しようかと迷ったのですが、混乱を招きそうで控えていました。今のところ追随する学校はないようですが、一応、規則性だけの解法では危ないことがあるというのは知っておいてください。灘中では、かつて『数学セミナー(日本評論社)』の「エレガントな解答を求む」に出ていた「ラングレ―の問題」、アメリカの科学雑誌に出ていた「ルージンの問題」などは、出典の翌年に出題されました。東京大学の過去問などは数年遅れで出題しています。今年(2008年)は、灘高校の20余年前の過去問をアレンジしたものが数題出ています。具体的には後述。
再掲解法
問題の図に7個目の点を書き加え、その点から他の6個の点を結ぶと、6本の線が引かれる。
この6本の線は先に書かれている線と0+4+6+6+4+0=20(個)で交わるので6+20=26(個)の線分が加わることになる。この26個の線分は1個ずつピース(かけら、部分)を増やす。
31+26=57
と解きましたが、ここで一般化を図ってみましょう。一般化とはここでは、これまで数で考えたことを文字nで表現することをいいます。中学受験算数と大学受験数学の違いは大学受験には一般化があるが中学受験には一般化を問われることはないという、かつての常識がゆらいでいるからです。
7個目の点をn個目の点としてみます。
その点とそれまでの6個の点とを結ぶと、6本の線が引かれる。
はn個目の点と(n-1)個の点とを結ぶと、(n-1)本の線が引かれる。となります。
0+4+6+6+4+0=20(個)で交わるはどうなるでしょう。これは、
0+4+6+6+4+0とは0×1+1×4+2×3+3×2+4×1+5×0であると考えられます。
それで、1×4+2×3+3×2+4×1を
1×(n-3)+2×(n-4)+3×(n-5)+・・・+(n-5)×3+(n-4)×2+(n-3)×1
とすることが考えられますが、なんだかすっきりしません。途中のテンテンテンが気になります。
そもそも、1×4+2×3+3×2+4×1をすっきり一般化した式を作りたいものです。
1×4+2×3+3×2+4×1は右の図のように表せますが、この図をたてに見ていくと、
1+(1+2)+(1+2+3)+(1+2+3+4)とみることができます。
これは、三角数の累加つまり、三角錐数だったのでした。
1×4+2×3+3×2+4×1
=1+(1+2)+(1+2+3)+(1+2+3+4)
これは、(6×5×4)÷(3×2×1)=20とできます。
したがって、
0+4+6+6+4+0=20(個)で交わるは
(n-1)×(n-2)×(n-3)÷6で交わる
となります。
6+20=26(個)の線分は
(n-1)+(n-1)×(n-2)×(n-3)÷6 の線分となります。
さて以上のことから、円周上に(n-1)の点があってそれらをすべて結ぶ面の数が
(n-1点のときの面の数)
だけあったとすると、
(n点のときの面の数)=(n-1点のときの面の数)+(n-1)+(n-1)×(n-2)×(n-3)÷6
となります。いいかえると、
(n点のときの面の数)=(n-1点のときの面の数)+(n-1)番目の自然数+(n-1)番目の三角錐数
です。
この増える分をnが1の時から順にどんどん足していくと
(n点のときの面の数)
=(0点のときの面の数)+n番目の三角数+n番目の「三角錐数の累加」
となります。これは平たく言うと、パスカルの三角形のn番目の段の端から1つおきの3個の数の和を求めればよいことになります。
nC0+nC2+nC4
ところで、パスカルの三角形の数は、上の斜め上の2つの数の和でできていますから、パスカルの三角形のn-1番目の段の端から5個選んだ数の和と見ることもできます。
nが大きいときにはどちらでも同じですが、nは小さい時も含めて、
n-1C0+n-1C1+n-1C2+n-1C3+n-1C4
結論
パスカルの三角形のn番目の段の端から5個(5個ないときはあるだけ)とった数の和となります。
いきなり求められないかというとそうでもありません。記号Cを使うと、
初め(点が1個のとき)面はnC0個、円周上の点がn個のとき線はnC2本、交点はnC4個なので、
nC0+nC2+nC4
=n-1C0+n-1C1+n-1C2+n-1C3+n-1C4
「円周上の点がn個のとき線はnC2本」とは、「n個の点のうち2個えらぶ(nC2通り)ことと、2個を線で結ぶこととは1対1対応する。」ということであり、「交点はnC4個」とは、「n個の点のうち4個えらぶ(nC4通り)ことと、4個を線で結んでバッテンを作ることは1対1対応する。」ということです。
本質的には簡単なことなのですが、小学生向けの用語が定着していないので難しく感じるかもしれません。
記号nCrを使って問題を解く練習をしてみましょう。
問題
右の図のように、たて3個、横5個の15個の点が等しい間隔でならんでいます。この中から何個かの点をえらび、その点を頂点とする図形をつくります。ただし形や大きさが同じであっても別の頂点をえらんだときは別の図形と考えます。このとき、次の問いに答えなさい。
(2008年 江戸川学園取手中)
解法
別解
長方形(正方形を含む)の個数は、3C2×5C2=10×3=30 1つの長方形で4つの直角三角形ができる。
30×4=120(個)
答え (1)14個 (2)412個 (3)120個
記号nCrを使わないときつい問題(412個も書き出すわけにはいかない問題)が今年、ぼこぼこ出始めました。授業では必要に応じて扱うことが多くなりそうです。
昨年07年8月号「涙の理由」場合の数(パスカルの三角形とその関連)に書いたものも参考になると思います。
2008年逗子開成中の2番の(1)の1行題で、
正12角形の各頂点を結んでできる三角形の個数を求めなさい。
という問題が出ました。
これは正12角形の各頂点を頂点とする三角形の個数ととらえ、
12C3=(12×11×10)÷(3×2×1)=220(個)
でよいと思いますが、頂点がどこでもよく、中に線がはいっていない三角形のことだとすると、
(8×2+3)×12=228(個)
となります。
また、別な問題になりますが、もし仮にこれが、正12角形でない12角形で、どの対角線の交点も3本以上で交わることがない場合であったとして、ピース(部分 かけら)の個数を求める場合だったとしたら、12番目のモーザー数列の数
12C0+12C2+12C4=1+66+12×11×10×9÷(4×3×2×1)=67+495=562
(または、11C0+11C1+11C2+11C3+11C4=1+11+55+165+330=562)
となります。
先に述べたように、2008年の灘中の問題が灘高校の過去問との類似性が話題になっています。問題図のみを掲載しますので参考になさってください。灘中の問題について、こうしたことは、以前から時折見られましたが、今年顕著になったようです。このことにより、どういう対策が必要かは、授業で加味されることになるでしょう。来年度は、これほどには出ないのではないかと思います。しかし、全く対策なしでは受験生に不安が残るでしょうから、過去の灘高校の問題を受験算数にアレンジして取り組ませる必要もありそうです。ただし、受験間際に意識しすぎるとはずして動揺するかもしれませんので、少し時間に余裕のあるに時期に取り組むのがよいでしょう。
いずれにしろ、中学受験対策として高校入試や大学入試で答えに根号のつかないものは中学入試にアレンジして与えることも必要になっていそうな雲行きです。
参考 場合の数小辞典
記号 | 読み | 意味 | 式 |
---|---|---|---|
nPr | ピーのエヌ、アール | 区別のつくn個の物から、 r個並べる場合の数 順列 |
n×(n-1)×・・・×(n-r+1) |
nCr | シイのエヌ、アール | 区別のつくn個の物から、 r個選ぶ場合の数 組合せ |
|
nπr | パイのエヌ、アール | 区別のつくn種類の物から、 r個並べる場合の数 重複順列 |
nr |
nHr | エイチのエヌ、アール | 区別のつくn種類の物から、 r個並べる場合の数 重複組合せ |
n+r-1Cr |
nPrやnπrなどの内容は、特に覚えようとしなくても、覚えられるでしょう。nCrではrが2の時については今までも必須でしたが、今年からは、rが3以上のnCrも覚えておいた方がよいでしょう。nHrは今のところあまり出ていませんが、念のため覚えておいた方が無難でしょう。ここまでは出ないだろうという受験算数の土俵がまたまた広がったようです。
「円周角の定理」の問題はこれまでも何度も出ていますが、それらは全て「円周角の定理」を回避して解くことができます。ところが、2008年攻玉社中特選では「円周角の定理」の証明をもろに聞いています。中学3年生の教科書のほとんどそのまま聞いています。記号なども中学生の教科書的です。特選だからこうして出すという意気込みを感じますが、微妙な感じもします。
問題2
(2008年 攻玉社中特選)
解法
証明終わり
証明終わり
円周角の定理
1つの弧に対する円周角は中心角の半分である。
1つの弧に対する円周角は等しい。
【注意】 この定理は覚えなくても、半径が等しいことを利用して二等辺三角形を見出せばたいてい解けますが、意味がしっかり分かった人は定理として覚えてもよいでしょう。
解説
まず、図1で、円周角でない、一般の角について述べています。
次に、直径がらみの円周角について聞いています。∠BPO×2=78度から明らかでしょう。
図3は、2つの直径がらみの円周角の和と考えてねというのが出題意図でしょう。
図4は、2つの直径がらみの円周角の差と考えてねというのが出題意図でしょう。
2008年東京大学前期文系の3番に、次のような問題が出ました。知識的には中学生位でも解けると思いますが、中学生だと、うっかり見落とすかもしれません。
問題
方眼に次のような4点O、A、B、Cがあるとき、角BPCと角APCが等しくなるような点Pはどこにあればよいかを示しなさい。ただし、Pは4点O、A、B、Cには一致しないものとする。
(2008年 東京大学前期文系3改題)
解法
まず、対称性から、縦の線はすぐに思い浮かぶでしょう。
次に、ABを含まない、横の線が思い浮かぶでしょう。
次に、ABを直径とする上半分に点Pをとると、角APBは直角というのはわかると思いますが。角APCと角BPCが、いつも、ともに45度になり等しいのです。
答え
もとにした問題
座標平面上の3点A(1,0),8〈-1,0),C(0,-1)に対し、
∠APC=∠BPC
をみたす点Pの軌跡を求めよ。ただしP≠A,B,Cとする。
(2008年 東京大学前期文系3)
答えの図(ただし、実際の入試の解法では赤色は使わないこと)
この問題は、大学受験生でも、見落としやすいし、他にはないか不安が残り、必ずしもやさしくないと思いますが、一方、小学生でも手が届きそうな問題でもあります。
付記
なお、今年2008年の栄光学園中の2番は30年ほど前(1980年)の学習院大学の入試問題が出典とみられますが、長くなりましたのでそのうち述べたいと思います。
中学入試の算数では、中高の先生が、日ごろから大学入試を研究しているのがついにじみ出る、という感じの問題や、ようし、東大や京大の問題を中学入試にアレンジして出してみようという、大学入試に近い問題を積極的に出そうという学校が広がり始めています。私立中高に学者並みの人材が集められていることが反映しているようです。
(注)印刷について
このまま印刷すると右側が欠けてしまうかもしれません。詳しくはこのサイトについて「プリントアウト」を参考にしてください。