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教務エッセイ(算数)算数好きになるくすり

オイラーの贈り物

【グラフ理論など】
  • 2008年4月号

日能研教務部算数科 真藤 啓

このページは、「進学レーダー4月号」に連載している算数エッセー「算数好きになるくすり オイラーの贈り物」のうち、問題や解説など、紙面で書ききれなくなったことを補足するために、開設しています。

【目次】
  1. オイラーの情熱
  2. オイラーの贈物1 グラフ理論
  3. オイラーの贈物2 多面体の定理
  4. オイラーの贈物3 8番目の完全数の発見
  5. オイラーの贈物4 ベン図の原作者
  6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式
  7. オイラーの贈物6 新しい科学教育の萌芽 『あるドイツ王女への手紙』
  8. ベルヌーイ親子の葛藤
  9. オイラー、失明する
  10. 一筆がき (2007年 甲陽学院中/1999年 開智中/2005年 フェリス女学院中)
  11. 「一筆がき」3題の関連
  12. 本稿が東京大学入試問題を的中!?(2008年 東京大学前期理系第5問)
  13. 付記 情報誌「キッズレーダー」、「学校選択」の補足と本稿の関連記事へのLINK
1. オイラーの情熱

「鷲が空を飛んでいるとき、人が呼吸をしているとき、オイラーは計算している。」とアラゴがいいました。
フランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ(1786年2月26日-1853年10月2日)はフランスの数学者、物理学者、天文学者で政治家であり、物理学では光学や創成期の電磁気学に大きく寄与し、また政治家としても業績を残した人ですが、国際的な計量単位メートル法を作るために、エラトステネスの方法で、ビオ(電磁気学者)らとともに、地球を測量した人でもあります。1825年にコプリ賞を、また1850年にランフォード賞を受賞しました。1830年にはまたパリ天文台長にも任命されました。同年ジョゼフ・フーリエの後任として科学アカデミーの終身会長にも選ばれました。彼を記念して、火星と月のクレーター「アラゴ」、および海王星の「アラゴ環」が命名されています。(ビオは、弟子のサバールとともに、電磁気学のビオ・サバールの法則を発見した人です。サバールはまた、音響学にも手を染め、音楽の間隔(サバール)における計測単位に名を残しています。)

有名な数学者が、必ずしもいつも研究ばかりしているわけではないでしょうが、それでも多くは研究をしていたことでしょう。ですが、オイラーの研究熱心は並外れていました。アラゴのこの言葉はこうしたことを表しています。
鷲はそれほどいつも空を飛んでいるかどうかは知りませんが。

ところで、オイラーの数学の情熱はいったいどこから来たものなのでしょう。

2. オイラーの贈物1 グラフ理論

オイラーの考え出した一筆がきの理論は「グラフ理論」といわれています。しかし、グラフ理論は一筆がきだけについての理論ではありません。きちんと説明するのは、意外に難しいのですが、簡単にいうとつながり具合の理論と言えるでしょう。

20世紀のうちに解決された難問に、「いかなる地図も隣接する場所を高々4色で色分けできる、か?」という「四色問題」がありました。5色で色分けできることはヒーウッドによって100年以上も早くから知られていました。また、4色で塗り分けられそうだということは、地図業者などの間では古くから経験的に言われていました。

この問題は、後に南アフリカ大学の数学教授となったフランシス・ガスリーが提唱したもので、のちにロンドン物理学会の設立者となった物理学者である弟のフレデリック・ガスリーに、この種の問題の権威者ド・モルガン教授に質問させたもので、ド・モルガンが1852年に友人の物理学者、ハミルトン卿に宛てて書いた手紙によりこの難問は知られるようになりました。以後120年余り、数学上の未解決の問題として多くの数学者を悩ませていました。

ド・モルガンは、学生から、「一つの図形を任意の方法で分割して各部分を色に塗るとき、境界線を共有する部分どうしが違う色になるようにすると、四色が必要になることはあっても、それ以上必要になることはない」という「事実」の理由を聞かれ、それに答えられないことに悩み、「わたしは自分の間抜けさに絶望して、スフィンクスに倣うしかなくなるかもしれません・・・・・・(自殺したいと言うような意味、もちろん、本気ではない)」と記しています。

この問題は、後の数多くの数学者たちを悩ませましたが、1879年に、ロンドンの法廷弁護士にしてアマチュア数学者であったケンプによって、その証明が発表され、たちまち数学神話の一部として広く受け入れられるようになります。ところが、この証明は、発表から11年後に、ダーレム・カレッジの数学講師ヘイウッドによって間違いを指摘され、解決は20世紀に持ち越されます。

アメリカ人数学者によって、不可避集合、可約配置という2つのアイディアが登場することで進展を遂げます。1960年代には、地図の塗り分け問題だけを扱った最初の主だった本として『四色問題』が出版されるなど、多くの進歩があったエキサイティングな時代になります。1971年には、当時最高のコンピュータがあった原子力委員会ブルックヘブン研究所のコンピュータ・センター長であった日系二世のヨシオ・シマモトによって、「シマモトの馬蹄」として知られる配置が発見されます。そしてついに1976年、アメリカ・イリノイ大学教授アッペルとハーケンが四色問題の証明を肯定的に成し遂げました。これにより今日「四色問題」は「四色定理」と呼ばれるようになっています。こうしたことを考えるのも「グラフ理論」です。

ただし、証明には、コンピュータの使用時間が1000時間も費やされ、その出力紙は約1.2メートルに達しました。問題提起以来124年後、ついに解決された証明は、熱狂を持って迎えられた一方、コンピュータを用いたことに対しては、「あんな解は数学とは言えない」「あんなひどい方法で、この定理が証明されることを、神がお許しになるはずがない!」等の深い失望の声もありました。その証明は1995年にロバートソンらによって改良されてかなり簡単になりましたが、いまだ手計算で証明を完成させた人はいません。ともあれ、四色問題がグラフ理論を発展させました。

これはユークリッドの幾何学にはなかった理論です。

(参考文献 『四色問題(ロビン・ウィルソン 新潮社)』)

2. オイラーの贈り物1 グラフ理論【補足 ド・モルガンの法則】
ド・モルガンは集合論の、次のド・モルガンの法則で有名
ド・モルガンの法則
「Aでありかつ、Bである」の否定は、「Aでない、またはBでない」である。
「Aであるかまたは、Bである」の否定は、「Aでない、かつBでない」である。

3. オイラーの贈物2 多面体の定理

3. オイラーの贈り物2 多面体の定理また、グラフ理論に関連して、平面で囲まれた立体を多面体といいますが、どんな多面体であっても、(面の数)と(頂点の数)と(辺の数)の間には
(面の数)+(頂点の数)-(辺の数)=2
という関係があることを発見しました。これを「オイラーの多面体の定理」といいます。

3. オイラーの贈り物2 多面体の定理《注意》
平面を多角形で分けた図では、(面の数)+(頂点の数)-(辺の数)=1となります。
トーラス(平面で囲まれたドーナツのような立体)では、
(面の数)+(頂点の数)-(辺の数)=0 となります。

4. オイラーの贈物3 8番目の完全数の発見

1+2+3=6、1+2+4+7+14=28のように、6より小さい6の約数の合計は6、28より小さい28の約数の合計は28というように、ある数より小さいその数の約数の合計がその数になるような数を完全数といいますが、オイラーは8番目の完全数を発見した記録保持者でもあります。
「完全数を発見することが、大数学者の分かりやすい証である」と思ったリュカが人生を懸けて取り組み、オイラーが8番目の完全数を発見した100年後に12番目の完全数を発見したことで記録を更新しました。オイラーの発見した完全数でさえ、人間業ではありませんが、リュカの発見は大変な記録です。

しかし、オイラーのすごさを追体験する人はあっても、リュカのすごさを追体験しようとする人はありませんでした。この分野の重要性があまり評価されず、やがて、コンピュータが未知の完全数の間隙を埋めていき、リュカの正しさも確かめられています。いまでは、完全数を見つける道中の重要性は問題にされずに、コンピュータの性能を競うための問題とされています。

5. オイラーの贈物4 ベン図の原作者

論理学では「オイラー図」を発案しました。このことによって難解だった論理学の主要な部分や全体が、コミックのように簡単になりました。

オイラーの没後、60年後に生まれたゲオルグ・カントールは「集合論」を提唱しましたが、このとき、ジョン・ベン ‡はオイラー図を利用して、「ベンの図法」を提案、集合をわかりやすくしました。図を「ベン図」ということになりました。「オイラー図」を長方形(全体集合)で囲むと「ベン図」になります。「オイラー図」は論理にしか使いませんが、「べン図」は集合に広く使います。

【補足1】
ジョン・ベン ‡

現代で3番目に偉大な数学者?

ベンの母親は、幼いときに亡くなりましたが、ベンは、厳しく育てられました。彼もオイラー同様、家系を継いで聖職に入ることを期待されていました。

ハイゲート学校の後、ベンは1853年にゴンビルアンドカイウスカレッジ(ケンブリッジ)に入学し、1857年に卒業しました、そして、その後まもなく、彼は大学の特別研究員に選ばれました。彼は1858年のイーライ(地名)の助祭として運命づけられて、1859年の聖職者になりました。1862年に、彼は道徳科学の講師として、ケンブリッジに戻りました。

しかし、ベンの関心の中心は神学ではなく論理でした。そして、論理に関して3つの論文を発表しましたが、1881年の論文にベン図を導入しました。1928年の「最近のBBC世論調査」の「現代で3番目に偉大な数学者」では、アイザック・ニュートン(1位)とL・オイラー(2位)についで僅差で第3位となりました。また、1686~1687年にはオックスフォード大学の副学長でした。集合論のゲオルグ・カントールについてはいろいろ知られているのに、ベン図のベンについては日本ではほとんど知られていないので少し書いてみました。

【補足2】
ケンブリッジのケンは川の名前で、ブリッジはもちろん橋のこと、ケンブリッジとは、「ケン川橋」とその付近という意味の地名でした。その学園都市ケンブリッジ市で、カレッジ(単科大学)がたくさんありました。それらがのちにケンブリッジ大学になりました。現在もカレッジ制がとられていますが、「ケンブリッジ大学という名前の大学はない」「ケンブリッジ大学とは複数のカレッジの集合体に過ぎない」という言い方は正確ではないようです。学院生の入学の権限や、学部生・大学院生への学位授与の権限は、個々のカレッジにはなくケンブリッジ(総合)大学に属していますし、また、大学における研究活動の中心を担っているのは各学部学科・研究科であり、これは単科大学ではなく総合大学ケンブリッジの下位機関だからなのです。いまだカレッジ制を維持しているとは言っても、現在のケンブリッジ大学はカレッジの集合体ではありません。昔、東京大学ができたときに、カレッジ制を真似たような表現がありました。帝国大学(今の東大)ではかって、法・医・工・文・理の5分科大学からなっていました。

【補足3】
ベン図は、2つの集合や、図1のように3つの集合について描かれますが、そうして、時に塾の授業などで「4つ以上はかけない」とか言われていますが、図2から図4のように理論上は無限にかけることが知られています。

オイラーの贈物4 ベン図の原作者

ただし、どの3つの集合とも交わったり、どの4つの集合とも交わったりする図がかけることはかけるという意味であってこの図を使って推論するのは困難です。

6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式

オイラーはまた、「オイラーの公式」というのを考えました。円周率πと自然対数の底eという2つの超越数と虚数と三角関数を結びつけた、広くて深い意味を持つ数式です。

数学の公式の中で最も美しい公式をあげよといわれたら数学者の多くは「オイラーの公式」をあげるだろうと言う人がいます。小川洋子さんのベストセラー『博士の愛した数式』の中での「博士の愛した数式」もこの「オイラーの公式」です。オイラーの公式とは、

6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式
というものです。この式に、=πと代入すると、cosπ=-1、sinπ=0ですから、
6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式
となります。また書き換えると、
6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式
となります。これらの式のこともオイラーの公式といいます。
昔、京大助教授の小針晛宏氏がこの公式は「マイナス(-1)はいいのいっぱい愛情」
6. オイラーの贈物5 博士の愛した数式
と覚えるとよいといっていました。

【補足1】 超越数 代数的数でない数を超越数といいます。
代数的数とは、整数どうしを加減乗除したり、根号(平方根や立方根)を付けたりすることを有限回くりかえしできるすべての数をいいます。どんな代数的数も、それを解とする整数係数の高次方程式が作れます。ただし、逆に整数係数の高次方程式に対し、一般に5次以上の整数係数の高次方程式の解を整数と加減乗除と根号を組み合わせて表すことはできません。ガロア(フランス)とアーベル(ノルウェー)によって同じ時期に証明されています。

超越数として1文字で表される数は、π(円周率)とe(自然対数の底)の2つしか見つかっていません。
π=3.1415926535897932384626433832795028・・・・・・
e =2.71828 18284 59045 23536 02874 71352・・・・・・
(もちろん、超越数に代数的数を加減乗除してできる数も一般に超越数になるのでその意味では超越数はすでに無限にあります。)

eはオイラー(Euler)の頭文字をとったもので、オイラーが考えたものですが、ネイピア数と呼ばれることもあります。「オイラーの数」と呼ばれることもありますが、「オイラー数」や「オイラーの定数」と言うものが別にあるので、「ネイピア数」とか、「自然対数の底」と呼ぶのが普通です。

【補足2】 虚数
実数でない数を虚数といいます。
実数とは数直線上の点に対応する数を言います。πやeも実数です。
これに対して、平方して負の数になる数やそれに実数を加減乗除してできる数は虚数です。

そうした普通の虚数は、代数的数です。言い換えると超越数ではありません。虚数は、交流電流など周期のある関数では、意味のある存在になります。交流電流は高校の物理でも軽く習うことになりますが、大学の電気工学などの応用数学でないと「虚数は実在する」ということは実感しにくいかもしれません。

【補足3】 小針晛宏(こはり あきひろ 1932年~1971年)氏
氏は京都大学の助教授の在任中に若くして亡くなられた数学者です。大学受験生向けの受験雑誌「大学への数学(東京出版)」に連載したものをまとめた『数学I・II・III・・・∞-高校からの数学入門』(日本評論社)や、『確率・統計入門』(岩波書店)など、高度な数学を大学受験生向けに、かなりユーモアのある文章で書かれた方です。

森毅(もり つよし1928年1月10日-数学者、評論家)京都大学名誉教授は、小針晛宏氏の名前を、晛は覗く、宏は空に似ていたので「のぞそら」さんと呼んでいました。そのため、京都大学の学生は影で小針晛宏氏を「のぞそら先生」の愛称で慕っていました。これは、逆に学生が先に呼んでいたのを聞きつけて、森毅氏が真似をしたのかもしれません。ともあれ、当時、大学受験生に人気のあった氏の書により、オイラーの公式オイラーの公式はいっとき意欲的な高校生にも広まったことがあります。小川洋子さんの小説により再び関心が高まったかもしれません。ただ、この公式を前提とした面白い関係式はいろいろ示せても、肝心のこの式自身の説明は高校生に対しても難しいと思います。

《注意》
本節における「代数的数」の説明は厳密なものではありません。伴って「超越数」についても厳密なものではありません。きちんと説明し、実感を持って理解したい方は専門書をご覧ください。「高次方程式」についての少し知識が必要ですので省略するものです。

7. オイラーの贈物6 新しい科学教育の萌芽 『あるドイツ王女への手紙』

オイラーの著書の中で、最も読まれたのは、彼の、時代を切り開いた数々の価値ある数学論文を押さえて、『あるドイツ王女への手紙』でした。

オイラーの説明はわかりやすい、難しいことが簡単になってしまうということが評判になり、ドイツの大王の親戚でもあり、オイラーの友人でもあるベルリン宮廷のシュヴエート辺境伯に懇願され、二人の娘に家庭教師のようなことをしていましたが、その後、折からの七年戦争のため、ベルリンの宮廷がマグデブルグに避難することになるなどして、家庭教師を続けられなくなりました。しかし、一人の娘はぜひ引き続き習いたいということで、やむなくオイラーは文通で教えることになりました。

これが、後に有名になった『あるドイツ王女への手紙』です。全部で234通の手紙を本にしたもので、初版は、1768年に一巻と二巻、1772年に三巻というように三分冊になって出版されました。この初版にはなぜか筆者オイラーの名はなかったといいます。

フランス語で書かれたこの本は、大成功を収めオイラーの名をつけてさらに多くの多くの版を重ねました。各国語に翻訳されて、一冊になったものは500ページに及ぶ大書でしたが一大ベストセラーになりました。

これは、それまでの押し付けがましい詰め込み教育でなく、引き出そうと言う意図があふれた記述だったからでしょう。

オイラーの書に先駆けて、ジャン=ジャック・ルソーは1762年はじめに教育論『エミール』を刊行しました。「家庭教師とその生徒」の小説のような形で、これまでの教育を批判して、子どもには教育しようとしないで、子ども自身が自分の意志で学ぶように支援すべきであると主張しました。とても歓迎されましたが、一方、批判されたそれまでの教育界の人たちはたまりません。『エミール』のなかの「サヴォア人司祭の信仰告白」の部分の自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定され、ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命しました。しかし、単なる純理論にとどまらない多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命にも多大な精神的影響を及ぼしました。ルソーの教育観はそれまでの教育者を反省させて広まりました。ただし、梅根悟氏も「ルソー『エミール』入門(明治図書)」で指摘するように、『エミール』は追実践不可能な机上の空論に満ちていました。つまり、趣旨は分かるがやろうとしてもそうはできないというものでした。そうしたときに、オイラーの「王女への手紙」を与えることは実践可能な折衷案的な書物であったのでしょう。

その後、オイラー全集にも収録され、おかげで?オイラー全集もまた売れました。全集には、オイラーの同時代の知識人コンドルセー(1743年~1794年)の文章も巻末に載せられ、オイラーという数学者について知らせるとともに、フランス語を母国語とはしないオイラーの叙述スタイルと同時代のフランスの学者のそれとを比較させ、オイラーの文章によって、フランス語はより明晰な文章を書くのにとても適した言語であると指摘しました。このことにより、フランス語の評価が上がりました。2007年がオイラーの生誕300年にあたりましたが、現在でもその明晰性も洗練性も色あせていないことがみてとれるそうです。

オイラーの著作の表現が十八世紀、十九世紀の科学教育に大きな影響を及ぼしました。この『王女への手紙』には、オイラーの教育者的な資質がよく現われているといえましょう。

この手紙で取り上げられているテーマは数学本来のものは少ないのですが、当時の哲学(いまの物理学)のさまざまな部門について、オイラー自身の研究をふまえて、基礎的な事実と実例からはじめて、当時知られていた最先端にまで話が及んでいます。

これらの手紙が書かれたのは王女が十五歳から十七歳になる頃でした。ところで、読む人も書く人もフランス人ではないのになぜフランス語で書かれたのか?高橋礼司(現放送大学教授、元東大教授)によれば、「当時フリードリッヒ大王の宮廷では(ほかのすべての宮廷と同じように)フランス語のみが唯一の文化のための言葉と考えられていたから」でした。カント(1724年~1804年)、ゲーテ(1749年~1832年)、へーゲル(1770年~1831年)達の登場する前にはドイツ語が広く用いられることはなかったのでした。

野球は英語で、柔道は日本語で、というのと似たようなことなのでしょうか。

王女の若い年齢を考慮してオイラーはどのテーマについても、予備知識なしで近づくことに十分留意しています。もちろんあるテーマについては議論の展開が通常の水準をはるかに越えることもありました。しかしこの簡単から複雑への移行がオイラーによって非常に巧妙になされていたのでした。

手紙の内容は多岐にわたります。「ひろがり」「速度」「音楽」「空気」「光学」「重力」「哲学、論理」「色彩」「電気」「経度、緯度」「羅針盤と磁気」「望遠鏡、顛徽鏡、レンズ」などのテーマが、あるときは一通で、あるときは、二十余通で述べられていました。

これらの234通のそれぞれの手紙には、内容を要約するリードがついていました。たとえば、第一通の「ひろがりについて」のリードをそのままご紹介すると、
「姫さまに幾何学をお教えする機会はまたも先送りにされてしまい、まことに残念でありましたが、その代りにお手紙をさし上げたいと存じます。それも取り扱う主題の許すかぎりにおいてではありますが、まず試みの意味もこめて、今回は今この世界でわれわれが見出すことのできる範囲で、もっとも小さいものから、もっとも大きいものまでをこめて、ものの大きさということについて姫さまにご説明申し上げようと存じます。」
というものです。例えば第十六通の「どこでも、季節を問わずいつでも、高い山に登ったり、あるいは深い洞窟の中に降下するとき、寒く感ずるのはなぜか」とかというように、身近な体験を呼び起こさせてそれに関連付けて語られることが多いのも特徴です。こうした書き方はその後世界中に広まりました。というか、すでにあたりまえのように普及していますが、オイラーが書き始めたものと言われています。

【補足1】
逃亡中、ルソーは『告白』を書き上げ、自分の子を捨てたことを告白します。ルソーは貧しく、経済を女性に支えられて、育児に対しても主導権がありませんでした。そうしたことが原因でしたが、ルソーを批判する人にとって、この本は恰好の攻撃材料になりました。

ルソーは音楽にも詳しく、日本でおなじみになっている童謡「むすんでひらいて」の曲は、ルソーの作品であるオペラ「村の占者」の一節が、「ルソーの新しいロマンス」と言うタイトルで歌詞が付けられ、その旋律がヨーロッパ各国へ広まり、日本にも伝わったものです。

【補足2】
梅根悟(うめね さとる、1903年9月12日~1980年3月13日)は教育学者。専門は西洋教育史。
東京教育大学教授(教育学部長も就任)。
和光大学初代学長(1966年~1980年)。

【補足3】
ダニエル・ベルヌーイによる評
論理に関する第102~108通の手紙ではいわゆるベン図がいわば世界の先取りの形で現われています。オイラーはそれを用いて三段論法の型の分類をしています。ベン図はその100年後に集合論で浮上します。
この手紙は、子ども向きなので、当然、学術論文に比べ十分に厳密とはいえませんが、そのことを友人のダニエル・ベルヌーイ(1700年~1782年)は「幾何学と解析学においてかくも偉大な天才(オイラー)が、形而上学においては学童にも劣っていた」と酷評しますが、あたらないように思います。

8. ベルヌーイ親子の葛藤

ここで、ヤコブ、ヨハンの兄弟に続いて三人目のベルヌーイの登場です。ダニエルはヨハンの息子です。ヨハンはオイラーの父を説得してオイラーを数学者にしましたが、さて自分の子はどうでしょう。息子ダニエルの数学の才能が目立ってくるに及んで、また、とかく息子と比較されたりすることによって、父ヨハンは息子ダニエルをねたむようになります。「この論文は発表するな」と邪魔をしたり、息子ダニエルの論文の内容をぬすんだりしたこともありました。数学は優劣がつきやすい厳しい学問でもあります。そして、息子ダニエルに勝てないのが我慢できなくなり、やがて、父ヨハンは数学をやめて、植物学・物理学教授になってしまいました。

思い返せばオイラーの父がオイラーが数学者になることを反対したのはどんなことを想定したものでしょうか。自分の後を継がせたいだけで反対したのでしょうか。自分が数学者の道を断念したように、息子も行き詰まると思ったのでしょうか。数学者は、先々難しくなるので苦労が多いということもあったのでしょうか。ヤコブ、ヨハンの兄弟にしても、こと数学については仲が悪かったとも伝えられます。数学者の厳しさを懸念したのかもしれません。

それはともかく、オイラー自身は、ヤコブ、ヨハンの兄弟の予言どおり、当代随一の数学者になったのでした。

9. オイラー、失明する

各国の切手や紙幣のオイラーの肖像は、ほとんど右を向いた横顔です。肖像からもうかがえるように、オイラーの右眼は見えなくなっていました。そしてやがて左眼も見えなくなってしまいました。しかし、オイラーは負けませんでした。生涯、膨大な論文を書きましたが、その多くは全盲になってからでした。けたの多い小数や分数の計算はもとより複雑な記号の混じった計算も頭の中でしなければならなかったのでした。それはできました。ただ、イメージはあっても、口述筆記で図は伝えにくかったようです。どんな思いが、彼を駆り立てたのでしょう。数学の世界の奥深さ、美しさを、そうして、学ぶべきものであることを伝える使命感のようなものがあったのではないでしょうか。もって生まれた才能もさることながら、みんなが見えていないことが見えているという自覚が使命感につながっていったのではないでしょうか。あるいは、全盲になってから著述が増えたということには、「俺はまだ役立つぞ」と示したかったということもあるのかもしれません。

少し、忙しすぎる文章になってしまったかもしれません。あれこれ想像して読んでいただきいと思います。

付記 オイラーのことば

フランス革命の思想運動の立役者で博覧強記(はくらんきょうき 物知り)でなる唯物論者のディドローが無神論者にありがちな冗談を言ったときに、オイラーは女王からディドローをへこますように頼まれて、次の一言でへこましたといいます。

これは『百万人の数学(L・ホグベン)』や英語版の『ウィキペディア』などにも載っていてよく知られていますが、英語版の『ウィキペディア』では、「逸話としては、面白いかもしれないが、ディドロが数学的な論文も発表した有能な数学者でもあるわけで、この話はきっと間違いだろう」と付け加えられています。

10. 一筆がき(2007年 甲陽学院中/1999年 開智中/2005年 フェリス女学院中)

[問題] 2007年 甲陽学院中問題
右の図形を点Pから出発して一筆がきする方法は通りあります。

(2007年 甲陽学院中)

[解法] (2007年 甲陽学院中)解法
もう1つの交点をQとすると、PからQまで2往復することから、道ア、イ、ウ、エの順列になる。

4×3×2×1=24(通り)

答え 24

[問題] 1999年 開智中問題
図1のような図形を「一筆がき」でかくとは、たとえば図2のように12345のように筆を紙面から離さずつなげてかくことです。点Aを出発点、点Bを終着点とするとき、次の問いに答えなさい。

  • (1) 図1の図形を一筆がきでかく方法は何通りありますか。
  • (2) 図3の図形を一筆がきでかく方法は何通りありますか。

(1999年 開智中)

[解法] 1999年 開智中解法
  • (1) 1→(234の順列)→5
    234の順列は 3×2×1=6(通り)
  • (2) A→I→I→I→II→II→II→Bの型では(3×2×1)×(3×2×1)=36(通り)
    A→I→II→II→I→I→II→Bの型では(3×2×1)×(3×2×1)=36(通り)
    36×2=72(通り)

答え (1)6通り (2)72通り

問題
線から鉛筆をはなさずに、同じ線を1回しか通らないで形をかくことを、一筆がきといいます。たとえば、図アを、点Aから始めて一筆がきする仕方は、左回りと右回りがあるので2通りです。
次の、□にあてはまる数を求めなさい。

  • (1)図イを、点Bから始めて一筆がきする仕方は□通りです。
  • (2)図ウを、点Cから始めて一筆がきする仕方は□通りです。

[問題] 2005年 フェリス女学院中

(2005年 フェリス女学院中)

解法

[解法] 2005年 フェリス女学院中
  • (1)1→I→I→I→5
    3×2×1=6(通り)
    5→・・・→1
    も同じ
    6×2=12(通り)
  • (2)図のように道を1から7まで名づける。大まかには1から始めて7で終わるのと、7から始めて1で終わるパターンがあり場合の数は同じになる。1から始めるものを考える。23をIの道、456をIIの道と呼ぶ。IIの道に入るための道と出るための道は1本ずつしかないのでとIIの道は3本連続して通る。
    すると、1から通り始める場合は次の3つの方法に限られる。
    [解法] 2005年 フェリス女学院中1→I→I→II→II→II→7の型
    1→I→II→II→II→I→7の型
    1→II→II→II→I→I→7の型
    2つのI を23に決める決め方は2通り
    3つのII を456に決める決め方は
    3×2×1=6(通り)
    よって、(2×6×3)×2=72(通り)

答え (1)12通り (2)72通り

解説
一筆がきなど一般にグラフ理論では、見かけの形にとらわれないで本質的な単純な形にかき換えて考えるのがオイラー流の解法です。こうすることで非常に考えやすくなります。

一筆がきの問題で、「次の図が一筆がきでかけることを示しなさい。」とか「次の図のうち、一筆がきでかけるものを記号で答えなさい。」というものが多かったのですが、つまり、かけるかかけないかを問われることが多かったのですが、そうしてそれは非常に簡単なのですが、つまり、

一筆がきでかける図その1 偶点ばかりある図 どこからはじめてもかける。(単純モデル 輪)

一筆がきでかける図その2 奇点がただ2つある図 一方の奇点からかき始め他の奇点で終える(単純モデル 線分)

ということだったのですが、甲陽学院中(や1999年開智中、2005年フェリス女学院中、2007年埼玉栄中など)のように場合の数で問われることもあり、「一筆書きには自信あり」と油断していた受験生を驚かせたようです。

オイラーは算数数学を学びやすくしてくれました。そうしたことを参考に、「ようし今度は、自分でも見つけてみるぞ」なんて考えながら問題を解くと楽しいと思います。道に名前をつけて、樹形図のように場合分けをして解けばよいでしょう。

2004年にオリンピックがあったので、2005年には五輪関連の問題が散見されました。フェリス女学院中も初め五輪で考えて、「これは難しすぎるわ。三輪にしておきましょう。」と思いとどまったものと想像されます。(うかがってはいませんが。)

11. 「一筆がき」3題の関連

さて、上に見た「一筆がき」3題の関連について考えてみましょう。

1 偶点の一筆がきの起点はどこでもよい。
ところで、フェリス女学院中の問題は起点が与えられていますが、これはすべて偶点ばかりの一筆がきですから、結局は1つの輪になります。輪にする仕方は何通りあるかと聞いているわけです。すると起点はどこでもよいのです。つまり、2007年の甲陽学院中と2005年フェリス女学院中(1)とは同じ問題になるのです。

11. 「一筆がき」3題の関連

2 偶点の一筆がきはどの点でも一ヶ所ちょん切って2奇点一筆がきにかき換えられる
甲陽学院とフェリス女学院の問題は起点が与えられていますが、これはすべて偶点ばかりの一筆がきですから、結局は1つの輪になります。1つの輪にする仕方は何通りあるかと聞いているわけです。すると起点はどこでもよいのです。さらに言い換えると、これはどこかの辺で1ヵ所でちょん切っても同じ「場合の数」になります。
つまり、2007年の甲陽学院中と2005年フェリス女学院中(1)と1999年開智中は同じ問題になるのです。(ただし、開智中はBからAはないので、「場合の数」は半分になる。)

11. 「一筆がき」3題の関連

フェリス女学院の問題の(2)は起点が与えられていますが、これはすべて偶点ばかりの一筆がきですから、結局は1つの輪になります。輪にする仕方は何通りあるかと聞いているわけです。すると起点はどこでもよいのです。さらに言い換えると、これはどこかでちょん切ってもよいのです。
すると、フェリス女学院中(2)は開智中の問題と似た形に変形できます。

11. 「一筆がき」3題の関連

I の道ア、イ、ウに順番をつけ、II の道に順番をつけると(3×2×1)×(3×2×1)=36
逆回りもいれて36×2=72(通り)

1999年 開智中似ているようでも、開智中の場合は少し違いますね。
I→I→I→II→II→II と進む場合と、I→II→II→I→I→II と進む場合の2通りあります。
I の道とII の道の順番のつけ方はいずれも(3×2×1)×(3×2×1)=36

逆回りはないので、36×2=72(通り)

問題を単純化したり関連付けたりすると、いろいろな問題が見通しよく、楽に解けるようになるのです。こういう考え方も「オイラーの贈物」なのです。

12. 本稿が東京大学入試問題を的中!?(2008年 東京大学前期理系第5問)

本稿の07年12月号「ハノイの塔」 4. 完全数とメルセンヌ素数についてで、以下のようなことを述べましたが、

メルセンヌ数Mnは、一般に、Mn=2n-1 の形で表されます。

10進数の計算で、9999=10000-1というのがありますが、2進数では、似たように11111(2)=100000(2)-1(2)となり、これを10進数になおすと25-1となります。

メルセンヌ数には、素数であるものと、そうでないものがあります。素数のメルセンヌ数をメルセンヌ素数と言います。nが合成数のとき、明らかにMnは素数になりません。たとえば、n=10のとき、次のように、
1111111111(2)=11111000000(2)+11111(2)=11111(2)×100001(2)
などと書けるので、合成数とわかります。Mn=2n-1という形で表せる数のうち、nが合成数のものは除いて考えればよいということで大幅にラクになるのです。

これが、今年(2008年)の東京大学理系の第5問(東京大学理系の第5問といえば、合否を分ける問題の場所)に出題されました。

問題
自然数nに対し、[問題] 2008年 東京大学理系nで表す。たとえば1=1、2=11、3=111である。

  • (1)mを0以上の整数とする。3mは3mで割り切れるが、3m+1では割り切れないことを示せ。
  • (2)nが27で割り切れることが、nが27で割り切れるための必要十分条件であることを示せ。

(2008年 東京大学前期理系第5問)

解法

  • (1) 111は、各位の和1+1+1=3が3の倍数で9の倍数でないから3で割り切れて9では割り切れない。
    111 111 111=111×1001001で、1001001が3の倍数で9の倍数でないから、9で割り切れて27で割り切れない。
    111 111 111 111 111 111 111 111 111=111 111 111×10000000100000001で、
    10000000100000001が3の倍数で9の倍数でないから、27で割り切れて81で割り切れない。以下同様
    よって、mが0以上の整数のとき、3mは3mで割り切れるが、3m+1では割り切れない。
  • (2) nが27の倍数であれば、nは1のみが27の倍数個並ぶ。
    n=(1だけが27個並んだ数)×(いくつかの1の間に0が26個ずつ並んだ数)(=27の倍数)である。
    また、nは1のみが27の倍数個並ぶとき、その個数自身がnであるから、nはの27の倍数になる。1のみが27の倍数個並んでいなくて27の倍数になることがあるかというと、27で割っていくつか余る数は、その余り27個未満の1の並びは9の倍数になっても27の倍数になりえない。
    よって、nが27で割り切れることは、nが27で割り切れるための必要十分条件である。

付記
東大入試を的中させてしまったのでしょうか。ちょっとすごいことですね。中学受験生だけでなく、東大受験生も読んだ方がよいことになります。的中したのではなく、東大が合わせてくれたのでは?
それはそれでもっとすごいことですね。そう続くことではないと思いますが。

13. 付記 情報誌「キッズレーダー」、「学校選択」の補足と本稿の関連記事へのLINK

情報誌「キッズレーダー4月号」で「階段を昇る場合」について書きましたが、詳しくは本稿の07年7月号「階段を昇る場合」をご覧ください。

「キッズレーダー4月号」本文中の問題についてはここで答えましょう。

問題

1 1、3、5、7、9、11、13
この並びの規則とこの次の数を答えなさい。

2 ( )を埋めなさい。
5、10、15、20、25、( )、35

3 1、2、4、7、11、16、( )

4 1、4、9、16、25、( )、( )

5 1、1、2、3、5、8、( )、( )

答え 1 1、2ずつ増えている。15 2 30 3 22 4 36 1 13、21

情報誌「学校選択4月号」で「等積移動」ということで、「平面敷き詰め」について書きましたが、詳しくは07年9月号「空間図形の不思議(ふしぎ)」5. 立体の敷き詰めをご覧ください。ここでは、どのような形が平面で敷き詰められるかを扱いました。

情報誌「学校選択4月号」で扱った問題の変化球は、次のように解けます。

類題研究

[類題研究] 2007年 灘中右の図の四角形ABCDは1辺5cm正方形で、AE、BF、CG、DHの長さはすべて2cmである。斜線部分の面積は□cm2である。

(2007年 灘中)

[解法] 2007年 灘中解法
正方形ABCD:影の面積
=(8×8-5×3÷2×4):2×2
=34:4
=17:2

答え

この問題は2007年灘中1日目の11番です。他にも色々な解き方が浮かびますが、10番の問題がヒントになっていますので、それを活かして、こういう解き方にしました。

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