森 達也(もり たつや)
一九五六年広島県生まれ 九八年に自主制作ドキュメンタリー映画「A」 二〇〇一年に続編である「A2」を発表 高い評価を受ける 著書に『放送禁止歌』(知恵の森文庫)『A マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(共に角川文庫)『下山事件』『世界が完全に思考停止する前に』など多数 姜尚中氏との対談集『戦争の世紀を超えて』が最新作

メディアは、すぐに思考停止して

何も考えずに自己規制してしまう

吟味することなく「言葉」を流すメディアに異論を唱える文明批評家

 今回の同伴者は、ドキュメンタリー映画監督の森達也さん。オウム真理教を内部から撮った「A」「A2」で有名だが、最近では『下山事件』(シモヤマ・ケース)(新潮社刊=昭和二十四年七月に当時の下山定則・国鉄総裁が殺さ(・・・)れた事件。未だに他殺か自殺か真相はわかっていない)で謎に挑んだり、姜尚中・東大教授と戦争の記憶の残る場所へ行って思索する『戦争の世紀を超えて』(講談社刊)など、次々とジャンルを広げている。
  私は、彼の論理の組み立て方が好きだ。われわれのような活字人間は論理の飛躍がないが、森さんの考え方は映像的で、エッと驚かせて、思いがけない結論へと導いてくれる。『世界が完全に思考停止する前に』(角川書店刊)の「僕のオチンチンはそこまで汚くない」の冒頭で、トイレに行っても手を洗わない、と書き出し、疑わしきを罰する風潮のはびこることの怖さに警鐘を鳴らす結論へと導く。
「タマちゃんを食べる会」では、タマちゃんを食べようと思う、と動物愛護団体が聞いたら卒倒しそうな書き出しで始まり、われわれの日常がおびただしい数の他の生命を犠牲にしないことには成り立たないのだから、この矛盾に自覚的であるために、歯を食いしばってでも食べるのだとする。
  いずれも短い文章だが、うなずかされ考えさせられる。彼は、日本人やメディアが「無自覚」なことに腹を立てている。自覚なく自衛隊をイラクに派兵する政治家や、人を傷つけていることの自覚がないメディアに刃を突きつけ、自覚を迫る。「自覚や主体性のないままにこの国の歴史を変えられたくない」と書く。優れた文明批評家になると期待している人だ。

元木 『下山事件』を面白く読みました。私も一九七一年頃、下山事件をずっと追いかけていた「朝日新聞」の矢田喜美雄さんにお会いし、その当時、共同通信にいた斎藤茂男さんと事件の取材を手伝ったりして、講談社から矢田さんの『謀殺 下山事件』を出しました。森さんも矢田さんと同じ他殺説ですが、GHQだけの謀略ではなくて、いろんな人たちが絡んでいたとしています。事件の謎解きの興味はもちろんですが、本の中でも、「下山事件は終わっていない」と書かれていますが、あの事件は戦後の流れを変えましたね。

 下山事件の本質というのは、いろんな人の想いであったり、あるいはハプニングであったりとか、いろんなものが輻輳していると思うんです。僕らは、謀略史観とか悪の組織があって、あの事件が仕組まれたと考えがちですが、実は、そうではないのではないか。例えばベトナム戦争が起きたきっかけになった「トンキン湾事件」は、北ベトナムの哨戒艇にアメリカの駆逐艦が攻撃され、それをきっかけに北爆が始まるわけです。それから八年ぐらいたってから、「ニューヨークタイムズ」が、あれは謀略だったとすっぱ抜くんです。でも、その後、資料を調べてみると、単純な謀略でもないのですよ。勘違いがあって、謀略もそれに便乗してきてみたいなものです。完璧な設計図があって、それによって事細かに動いたものじゃなくて、巻きこまれたいろんな人による勘違いとか、やりすぎだとか、そんなことが重なりながら一つの帰結に向かってしまったんです。これだけの規模の事件になると、単純な黒か白かの二元論じゃない。

 自分の中でこだわり続けているのは、下山事件があって、戦後の日本というのは大きく変わったことです。ただ、その結果が良いか悪いかっていうのは論議があるところで、あの事件がなければ、たぶん、あれだけの経済成長を享受できなかったと思うし、それによって失ったものもきっとあると思うんです。その過程と現在を、みんながもっと知ったほうがいいと思う。それを知った上で日々を過ごせばいいし、せめてそのぐらいは知ってほしいなっていうのが、この本を書いた僕の中の想いですね。

元木 森さんはよく「単純な二元論じゃない」って言いますね。マイケル・ムーアの「華氏911」なんかも、反ブッシュという視点に単純化して、都合のいい所を集めてつくっているから、プロパガンダ映画としては面白いけれど、ドキュメンタリー映画として見れば出来は良くないと批判しています。ただ、日本人って善か悪か、どっちかみたいになりやすいですね。「週刊朝日」で「冬ソナ」についてコメントしていましたが、韓流ブームで「ヨン様命」と絶叫する一方で、北朝鮮は悪だから経済制裁をすべきだというと。同じ朝鮮民族で、日朝間には非常に複雑な歴史があるわけなのに、見なくなってしまう。下山事件からずっとつながっている「怖さ」みたいなものを、すごく感じますね。

一つの視点からしか物事を報道しない

 この間モンゴルに行った時、草原に数百頭も羊を飼ってるのですが、なぜかその中に、山羊が二、三頭いるんです。モンゴル人に、あれはどうしてなのって聞いたら、羊っていうのは、自分の身の周りの草を食べてしまうと、あっちに行けば新しい草があるのに行こうとしないんですって。そうすると群れ全体が下手したら飢え死にしかねない。山羊というのは自分勝手に草があるほうへどんどん移動するから、羊が山羊についていく。結果、みんなおいしい草を食べられるというのです。これには二つのシンボライズがあって、一つは、本来、共同体には山羊のような異物が必要なのに、今は、異物をどんどん消し去ろう、異物は危険なんだという発想になっていることへの警告。もう一つは、羊の属性を持つ日本人の中に、強いリーダーシップを持つ人が現れたらどうなるかというメタファーです。

元木 森さんが言っているように、この韓流ブームは突然「憎悪」に変わる

危うさを感じますね。

 横田めぐみさんの骨がDNA鑑定の結果、別人だったということがわかったとき、新聞、雑誌、テレビのほとんどに、「なめられた」とか、「恥をかかされた」とか場末の喧嘩のような述語が流通しました。北朝鮮側が仮に故意にやったにしても、高笑いして日本をなめてやったわけじゃないと思うんですよ。悪事であることは当然だけ、でも彼らには彼らなりに必死です。ところがメディアでは悪のステレオタイプへの矮小化が当然のように始まってしまう。元木さんに聞きたいのですが、薮中三十二・アジア大洋州局長(当時)が横田めぐみさんの夫といわれる人と会った際に、CIAからもらったという特殊な薬品を手につけ握手して、彼のDNAを採取したと「週刊新潮」などで報じられました。ほぼ事実なのだろうと思うのですけど、この報道を聞いた時にビックリした。外交団の代表が他国へ行って、握手しながらDNAを採取したなんて、これはとんでもないことじゃないですか。日本は世界中に相手にされなくなっちゃいますよ。そういった視点の報道は全くなくて、むしろ「よくやった」みたいな反応が多かった。

元木 おかしいっていう声がほとんど憎悪の中に飲み込まれてしまっていますね、あんな汚い国には何をやったっていいのだと。

 少し話を変えますが、森さんの代表作に『放送禁止歌』があります。私たちも、何であの歌が放送禁止になったのか、わからないものがたくさんあります。中に、赤い鳥が歌った「竹田の子守唄」のことが出てきますが、私も、昔は竹田って九州のどこかだなって思っていた。そうじゃなくて京都の竹田という被差別部落で歌われていた歌だったことを知りました。でも、あの歌を彼らが放送禁止にしてくれといったのではなく、テレビやラジオ側が過剰反応して放送しないようにしてしまった。出版社にも差別用語集があって、校閲はそれを見て、ゲラにエンピツでチェックをして編集に返すんですが、ほとんどの編集者は無自覚に、「ああ、これは使っちゃダメなんだ」と消すか言い換えてしまう。その言葉がなぜダメなのかは考えない。十二年前、筒井康隆さんが断筆宣言して、「言葉狩り」ということが問題になりました。その時「週刊現代」の編集長でしたが、差別語を考える連載をしました。その中で、例えば「片手落ち」という言葉が、なぜ差別用語で使ってはいけないのか、部落解放同盟などと話し合いました。そうすると、「われわれはこの言葉を絶対使ってはいけないなんて言ったことはない」と言う。当然のことながら、文脈上で差別するような使い方をするのは困るというのはありましたが。そのやりとりを誌面に載せて、校閲も含めて社内で話し合い、文脈上、差別的表現でないことを前提に使っていこうと決めました。一番いけないのは、思考停止してしまって、何も考えずに自主規制してしまうことです。

クレームが面倒だから慣用句も使わない

 僕は放送禁止とか、自主規制をするなと言っているわけではなくて、特にテレビなどで使う言語は、ある程度吟味されるべきだと思っています。ただ、それがあまりにも無自覚すぎる。一つ一つ普通に考えていけばいいんじゃないかって思うんですが、最近のテレビでは「八百屋」「魚屋」「肉屋」「床屋」、全部ダメですよ。

元木 なぜダメなのですか?

 八百屋は青果業、肉屋は精肉店、床屋は理髪店と言い換える。理由はわからないんです。たぶん誰かが、屋号っていうのは差別的じゃないかって言い出したのじゃないかな。だから「カワイイ魚屋さん」がもう歌えない。NHKの人から、放送で「メッキがハゲる」といった瞬間、メッキ協会からクレームの電話がきて、「今のメッキはハゲない。だから謝罪しろ」、と言われたと聞きました。明石の歩道橋が倒れてたくさんの死傷者が出たとき、「将棋倒し」っていう言葉を使ったら、将棋連盟からクレームが来た。だから、慣用句も使えない。怖いのは、クレームが来る前に面倒くさいからとやめてしまうことですね。

元木 古典落語の中にも差別語が出てくるものがいっぱいありますから、テレビでは流せませんね。

 テレビの悪さは、すぐ謝っちゃうことですよ。言葉に対してこだわりがないから。それは映像も同じです。モザイクつけて映像も汚れ放題にして、何も感じない。僕がテレビを始めたのは十何年前ですけど、この映像にモザイクつけろって言われたら、嫌だってしょっちゅう争いましたよ。

元木 結局、考える力がどんどん衰えていっている。どこかで歯止めをかけることができないものですか?

 それも十分に議論されないで進んでいって、気づいたときには手遅れになってしまっている。それが一番嫌だなって思いますね。

今上天皇を取り上げたドキュメンタリー

元木 ところで、森さんはフジテレビで今上天皇のドキュメンタリーをやるそうですね。今、天皇家が皇太子発言以来、ギクシャクしているようですし、大きなテーマですが、楽しみです。私は、今上天皇の発言に注目しています。即位した時、天皇は憲法を遵守すると言いましたね。その発言で、純粋右翼からは昭和天皇ほど支持されていないようですが、頑張ってほしい。

 是枝裕和監督が憲法九条をやって、僕が憲法一条をやるんです。天皇の内的なものを描いてみたいのですが、天皇は、今の世相に対して何か苛立ちがあるように思うのです。

元木 しかし、ドキュメンタリーで天皇を取り上げるのは、とても難しいのではないですか?

 難しさはありますが、やりようはある。例えば、「フェイク・ドキュメンタリー」というのがあるんですが、これは嘘のドキュメンタリーです。ドキュメンタリーだと思って観ていると、これには実は台本がありましたみたいなものです。日本ってドキュメンタリーというと、客観であるとか事実に忠実であるとかにこだわりますけど、ある人にビデオカメラを向けたら、もっとキレイな服を着てくるでしょうし話し方も変わる。つまりカメラがあるっていうことは現実に干渉しているわけで、そもそも現実じゃないわけですよ。カメラが介在した事実を撮っているだけだから。思い切りフェイクなもの、何これ? ドキュメンタリーでこれやっていいの? というのをカマしちゃおうかなと思っています。森達也が天皇撮るのだから、戦争責任とかやってくるんだろうとみんなが思ってるんだとしたら、思い切りスカしてやろうと思ってもいます。あまり興味ないんですよ。戦争責任があるのは当たり前ですから。

元木 天皇インタビューは難しいんでしょうね。

 可能性はあると思うので、インタビュー申請はしています。もしかしたら、最後の最後に三十分だけいいですよっていわれるかもしれない。できなければ、その過程を撮ったっていい。取材の手紙を書いたり、宮内庁に電話して、「天皇陛下いらっしゃいますか?」っていうところをメイキングするんです。当然、フジテレビの中でもいろんな声があるわけで、それもドキュメンタリーにしちゃおうと思っています。発信する僕らの側のためらいや不安も大事な要素だと思うから。

元木 象徴天皇制については、どう考えていますか?

 象徴天皇制というのは、僕は妄想だと思うんですよ。「象徴」というのはメタファーですから、ハトが平和を象徴するように、異質でなきゃ意味がない。同じものが同じものを象徴しても意味はないわけで、だから天皇というのは、あらゆる意味で違う存在になっている。苗字も、人権も、戸籍もない。だからこそ象徴として機能できるわけで、それは言葉を換えれば、僕ら一人ひとりが天皇に対してもっと妄想をたくましくしなきゃいけないわけですよ。それで初めて「象徴天皇制」という意味を持つんだけれど、もし僕らの妄想が何かの理由で止まってしまうんであれば、天皇制だけがハシゴを外された形になってしまう。そこで過去の歴史にみられるように天皇制を為政者は利用するわけです。このままいけば、また同じことになってしまうかもしれない。もしかしたら今上天皇はそれを一番恐れてるんじゃないか。

元木 憲法遵守にしても「君が代」を歌わないことも、今の天皇の強い意思を感じます。二〇〇一年の天皇誕生日直前の記者会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言しました。園遊会の時、米長邦雄に対して、「国旗や国家は強制しないほうがいい」と言ったのは、政治的に利用されるのは避けつつも、今の時代に相当な危機感を持っていると思いましたね。

 あそこまで言われたら、これは自分の信条を言うしかないっていうことで言ったのか、彼の内面についていろいろ質問したくなりますね。

元木 園遊会で声をかける順番などは事前に決まっているわけだから、ハプニングで言ったとは思えない。米長にああ言わせて、「ああ、そう」とでも言ってもらえたら、それを振りかざそうと思っていた連中への、考えた末での発言だったと思うな。

 想像をたくましくすると、百済発言の翌日に、天皇陛下が皇后に、「どこの新聞も書いてないぞ」って嘆息する、そういう会話があったのではないかな(笑い)。撮りたいですね、そういうところを。

元木 今年は憲法改正論議が高まりそうです。変なことを言うようですが、改正派の声が大きくなってくると、改正反対派は天皇が錦の御旗になるかもしれないという、ねじれたことになってくるかもしれない。いろいろな意味で天皇には注目ですね。ありがとうございました。

 

今月の同行者/森 達也氏(ドキュメンタリー映画監督)