実戦刀譚                      成瀬関次著
本書は、昭和13年2月13日に出立し、軍属(尉官待遇)として、北支、蒙疆(もうきょう=蒙古の境)の全戦場を9ヶ月間に亘って軍刀の修理を行った記録「戦ふ日本刀」の姉妹編として昭和16年1月27日に刊行された。
 
「戦ふ日本刀」は「花」であり、この「実戦刀譚」は「実」 であって二つは不可分であると述べている。
前者は「陣中日記」が、本書は「日本刀修理の記録と日本刀の考察」が中心となっている。
 
徐州・胡山々麓、黄河陳留口渡河点、蘭封縣の激戦で、兵器部に従った修理班は部隊と共に全滅を覚悟している。大敵に重囲され、家人知人に別辞(遺書)を書き錻力缶(ぶりきかん)や雑嚢(ざつのう)の底に入れ、「これだけは世に残れ」と念じ、三度死に直面して、不思議に命を永らえ得た記念物であり、この「命がけの記録」から「戦ふ日本刀」と本書が生まれたと述べている。
14項目に亘り、軍刀及び日本刀の考察を詳細に記述している。
日本刀の本阿弥鑑定、山田浅右衛門家の欺瞞(ぎまん)の実態が良く解る。
美術鑑刀・鑑識に偏重した「作為された常識」の目を覚まされる筈だ。
 
                                            (旧漢字再現不可のものが多い為、要約は新漢字・仮名遣い表記とした。以下同様)
成瀬氏は、激戦での日本刀の実戦使用は二件しか目撃していない。徐州・胡山、開封・原武の二つの戦場で各々曹長が使用し、決着は兵の銃剣の助けを借りている。
「戦ふ日本刀」も本書も、軍刀戦果は修理に来た本人又は代理人の話や自慢話、部隊での伝聞であり、「戦果」は過大になる事を前提に斟酌(しんしゃく)して読む必要がある。
時代背景から、「軍刀成果」は戦意昂揚にも配慮された内容である事も勘案する必要がある。
「戦ふ日本刀」には断片的にしか出てこない刀銘も240例が出てくる。中心(茎)を外して修理した物は全修理品の二割(約400振り)で、銘の記録はその一部である。茎を外さずに修理した物、記録に漏れた物が多数ある。中心(茎)を抜いて銘を改める余裕は殆どなく、いずれも一刻一秒を争う緊急修理が多く、刃こぼれ、刀身の曲がり、柄巻き替え等は、大抵そのままで修理を施してさっさと渡して了った為である。
記載刀銘例は最後の数十刀を除いて、南下徐州戦線陣営中の刀である。
又、記録した「これ等の事は詳細な統計として軍に報告し、各部隊の戦況と軍刀破損状態等も統計に現したのであるが、それ等は今のところ全部を発表する自由を有しない」、「軍機上其の他から、内容の一部には削除した部分がある」と述べ、当時の世相から、当然軍の検閲を受け、記述に制約があった。
 
軍刀修理実施中に於ける観察考究の概要
軍刀三様式佩用数比率            (内訳)  将校   准士官  下士官  兵
  新制式(新軍刀)        40.8%        60.0%     18.5%     16.5%      5.0%
  旧制式(サーベル軍刀)      8.8%        72.7%     11.4%     13.6%      2.3%
  古様式(江戸期以降の打刀) 50.4%                  26.4%      9.6%       46.8%    17.2%  
 
軍刀柄三様式の損傷比率
  新制式(新軍刀)        41.5%
  旧制式(サーベル軍刀)     10.0%
  古様式(江戸期以降の打刀) 48.5%
 
外装損傷の概要
修理の実際より見て、上記三者中堅牢なるは旧制式にして、新制式は最も新しき割合に、各部分にわたりて毀損率多く、且つ重量も重くして、将来改良すべき点多々認められたり。古様式に至りては徳川中期以降のもの多く、柄鞘共に虫穴のあきたるものありて、毀損数相当に多かりしが、年代の割合より見れば、新制式軍刀よりも寧ろ堅牢なるが如し。武士が立ち合い、吟味して造られた古様式柄は強い。
 
毀損の個所及程度
外装の毀損最も多かりしは柄の部位にして、柄の折損、柄糸の摩滅、目釘穴を中心とする諸故障は其の数修理全部の七割に達し、柄の如何に大切なるかを切実に感ぜしめたり。しかも此の事実の新制式外装に殊に多かりしは、甚だ遺憾とする処にして、只徒に外装上の美に囚われ、戦闘に対処するの実質的方面を閑却せるは、畢竟、治に居て乱を忘れたる外装業者の堕落なると同時に一面佩用者が営利に汲々たる御用商人に一任して、注意と吟味とを怠りし自責また決して軽からず。
玩具の白虎刀の柄のような物に、化学漂白の質の脆い鮫皮を巻き、器械製のくるみ糸で巻いた柄では何になろう。
一撃で柄は折れ、然らずんば一戦で糸は切れてバラバラになって了うのである。
柄の折損は、新古ともに『中心(茎)』短き為其の先のあたり(筆者注茎尻) より折れたるもの、新制式にして柄頭金具の下部に柄巻き止め (筆者注頭掛巻留) の穴を穿ちたるものに限り、その穴の辺より折れたるものに一の例外なかりしは、以て後車の鑑戒とするに充分なり。
目釘穴を中心とせる諸故障中の主たるものは、目釘穴の摩滅、目釘の折損、目釘と中心(茎)穴と柄穴の太さの不一致による鍔元の緩みにして、其他鯉口、発條(筆者注駐爪装置)、鞘の故障も相当にあり。
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刀身評価と斬る心
軍刀実用の成果
刀柄の神秘性
「日本刀」という一般の概念は、刀身だけを指して云っているが、本当の業物としての刀の機能は、柄と刀身と鞘の総括されたもののなす業で、「葉隠れ」の中には、切り死にした武士の刀のどこの部分よりも柄の破損していた事実を挙げて、後の人々の鑑戒としている。
 学会の権威、(東京帝大)俵工学博士が、日本刀の本質と、切れ味の神秘さとを科学的に究明せんがため、幾多の古名刀を犠牲として、多年実験的研究に没頭したが、結局、所期したような成果は得られずに匙を投げ、「分析して見ても、科学では解決の出来ない点がある」と、科学者らしい率直な表明をしている。
遂に其の神秘の本体は解き得なかったのだ。
切れ味の神秘さが、日本刀の刀身に単独に質的に存在しているとは考えられない。切れ味は刀の全体から、そして刀と人と合致した時に出る、そこに神秘さがある。刀の切れ味の神秘の一片鱗を、自分は刀の柄に見い出した。
東京帝大の成形外科医局長で、軍医として今度の事変に出征した伊藤京逸博士は、聞こえた剣客で、実戦場裡から得て、斬るという事の根元は、刀の柄を握る手のその“にぎり”にあるという事を発見し、「にぎり私考」と題して雄山閣の「刀と剣道」誌に発表した。伊藤氏はいう「どうすれば刃筋がよく立つかは、多くの伝書を繙(ひもと)いて見ても、結局“能々工夫あるべし”に終わっている。力線の方向に刃筋を立てる事、及び斬り下げて行く間に於いて、刃筋を狂はす不慮の障害が蟠踞するとも、よく其の正しき軌を調整し行くには、右手の拇、示、中指の三指が主体をなすのだと確信する。腕力は第一、二、三掌骨から刀柄に移行する。日本刀全体を生かす所のものは、その人にあり、両手にあると認めた」と結語している。現行竹刀剣術と併行して、そうした真剣の扱い方を修行せしめなければならない。刀の切れ味は柄から出る。(筆者注: 「一に腕、二に刀」と項目名をつけ、腕の重要性を指摘している。このことは、古岡二刀斎師(軍刀雑抄参照)の言う「手の内」と同じことを述べている)
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修理刀身比率
 古刀                           25%
  新刀・新々刀          60% (著者は二三流刀工作が多いと云っている)
 現代刀・昭和刀等    15%
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この二千振近い破損刀の中に、戦って折れたものは一振りもなく、又派遣出張三十二部隊中で、幸いにも戦って刀の折れた事を一回も耳にしなかった。上海方面に一二あったと聞いたが、全支(注: 支那全域)の皇軍中にもそう多くはなかった事と思われる
「折れず曲がらず、之を名刀という」・・・これも刀剣家十人が十人口を揃えていう言葉である。が、こうした刀が果たして実在するかどうか、自分の乏しい経験を要約すれば、「折れぬ刀は曲がる」という点に帰結する。 
その程度はあるかも知れぬが、日本刀は必ず曲がる。もし曲がらぬ刀があるとすれば、それは必ず折れる刀でなければならない。
折れず曲がらずなどという事は畢竟(ひっきょう)理想論であって、そんな刀は在り得ない。
 
刀身概要 (要約)
焼巾三分以上もある荒錵(にえ)の新刀・新々刀には大きな刃こぼれがつき物であった。細直刃中直刃、焼巾がせまく、匂い出来のもの、世間でよく云う焼の甘そうな刀、ねむそうだと云わるる刀には刃こぼれ少なく、然も良く切れる物があった。そうした点では古刀は断然よい。
古刀は多少痩せ身でもよく切れて戦える。数打ちの無銘でも古刀は最も戦いよい。殊に備前物の古刀がよい。
祐定は新・古とも数に於いては第一位であり、先ず実用刀中の白眉であるように思えた。
新刀新々刀の中、カンカンしたかたい刀、焼刃の巾の広い刀は先が折れたり大きな刃こぼれが出来易い。
総じて、新刀・新々刀は、江戸や大坂の鍛冶の打った物に損傷刀が多かった。それは、刀の本来の使命を忘れて、ただ泰平の世に迎合せんとする美術刀の製造に憂き身をやつした輩が多かったからである。新刀新々刀中に、武用刀の多かったのは地方鍛冶であり、就中(なかんずく)九州鍛冶には平均して業物が多かったように思える。
刃こぼれは、新刀より新々刀に、現代刀に多かった。現代刀のそれは、所謂‘あらみ’であった為かも知れない。
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鉄の神秘 (昭和刀、無垢鍛刀など)
昭和刀は一撃直ぐに折れるもの、という宣伝が一時相当にあった。
刀剣家の一概に昭和刀とけなしている物の中に、相当研究したらしい刀のある事を第一線の陣中で知った。
現代の剣聖中山博道先生の試し銘の入った、源良近という刀を戦線で見た。将士はいずれも切れ味がよく強靱だと云っていた。
この刀は無垢鍛(むくぎたえ)、即ち一枚鍛が多くて、昭和刀と同列に論じられているらしいが、自分たちは相当慎重に之を研究した。
陣中では数振りに接したが、切っ先も元も折れたものはなく、刃こぼれしたものはあったが、それとても小さかった。どうした造り方か、地鉄が非常にねちっこい。
この刀に首をひねっている頃、それは昨年(昭和13年)の3月の事で、兗洲(えんしゅう)に川口隊という移動修理班がいた。
兵器修理班の鍛工場で、工員(制規上軍刀の吊れない人達)が、日に日に危険にさらされて来るので、必要に迫って、廃物の古自動車のスプリングを利用して刀を打った。勿論鍛えもせず、焼いて延ばした上一様に焼を入れ、それを適度に戻したもので、自分の助手をしてくれた加古という鍛工軍曹(其の当時伍長)が指導した。愛知縣小牧に住む刀匠で、造刀については深い研究を積んでいた。 
白研ぎに仕上げ、そうした焼の刀であるから、勿論刃文もなく、若い人達の手に合うようにというので、ある刀の如きは元身幅が一寸二分、重ねが二分二三厘もある大切っ先の浅反り二尺三寸、虎徹の大業物そっくりなものが出来、それに木工場で楊柳(ようりゅう=柳の総称)材の鞘をつくり、軍刀修理場で外装を引き受けて、実用堅固に外装した。
兎に角吊れるようにし、いつ敵襲があっても心配ないという事になったが、その刀が不思議に粘硬で何を切ってもよく切れる。樹木や、本物の試斬りには、常に満点であったので、誰云うとなく兗洲刀の名が高くなった。
ある兵隊が戦場で試したが、骨までズンと切れたというので、にはかに“兗洲虎徹”の名が高くなって、あちこちで聞き伝えた人達がほしがって希望者が殺到するという有様であった。
どこかの工兵隊の人たちが、支那鍛冶の工場で、支那鋼で造って見たが、切れ味や刃性が遠く及ばず、材料は自動車の古スプリングに限ると云って漁(あさ)りつくして刀にした。間もなくこれが全支の日本軍に流行した。
自分等は暫くこの隊に同居した後、濟寧に移動した。ある日、件(くだん)の兗洲刀を手に入れた下士官が持って来て見せた。
二尺二寸位の大だんびらで、刀の釣り合いもよく、既に敵を斬って血を見ていると云っていた。
加古伍長と福田上等兵と自分とで、市民学校の植え込みにあったヒバの直径一寸内外なのを三十本程伐(き)りまくったが、心持ち刀身が曲がったのみで何ともなかった。この刀の粘硬さと、前記の良近(注:現代刀匠)とは実によく似ている。
異なっているのは、前者に刃紋があり、後者にはそれが無いという点だけであった。
斯様な事については、既に水心子正秀が書き残している。
水心子曰く、「大工のてうな、斧(おの)・鉈(なた)などの刃味は、鎌・包丁の刃味より格別に甘く火を戻し候物にて大業にかけて能く切れ候ものに御座候 依て刀の刃味も斧・鉈の位にて可然候(しかるべくそぅら)へども、當今は真剣の勝負も希なる故にや鎌・包丁の如き刃味を宜しと致し候 それ故にためし物にも頭或は脛(すね)などの堅き所を切ては刃損じ易く候」 とあるのは、玩味すべき記述である。
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要するに、美術刀の美術的鑑刀眼だけを以て、武用一切の批評をせんとするは、武用眼で美術刀を見るより、刀の本来性から考えて無謀な事である。実用日本刀の大量生産を必要とする今日、良近刀と兗洲刀の事実と、水心子の書き残した事とは、一脈の連携でもありはしまいかと思われる程である。
こうした事情は、色々な事を考えさせた。ずっと古い頃の古刀は、後世の如く鋼材を組み合わせずに一枚鍛えで、それでいて強靱であった。
無垢鍛の古備前等の名作は卸し鉄という複雑な手法を用いた物がある。
名刀と云はれている数々の刀の鍛法中には、或いはこうした物質の慣熟性を不知不識の間に応用して霊剣を得たものもあったのではあるまいか。
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※筆者注: 「実戦には、鎌・包丁のような鋭い刃ではなく、斧・鉈のように鈍い刃が向いていて良く切れるが、当今(江戸後期)は真剣勝負が無いので、鎌・包丁のような鋭い刃を良いとしているから、頭や脛の硬い処を切ると刃が損傷し易い」
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(筆者注) 成瀬氏は内地出立の時、軍刀の損傷は刀身が大部分で、其他は極めて僅少なものと思っていたが、実戦では全くその逆で、外装故障が7割 (柄にまつわる故障6割、鞘の故障1割) に達している事に驚き、本書ではかなりのスペースを割いて柄の問題を詳述している。
 
要点(筆者)
柄長は7寸5分〜8寸が理想、中心(茎)も同寸で柄先まで通すようにすべき。茎の短い物は茎尻付近で柄が折れ、頭掛巻留の穴付近も同様で、例外無しに両方共、その部分で柄が折れている。茎を長くして、刀緒穴と茎尻の穴を一致させるのを理想とする。
柄材の朴の木は弱い。厳選された柾目物は良いが殆ど確保が難しく、新軍刀に使われる斜め取りの不良朴材は不可。柚(ゆず)、梓(あずさ)、胡桃(くるみ)、樫(かし)材が良い。
目釘は竹の節の根本に近い太い物を用いる事。細い目釘は殆ど破損する。
柄糸は木綿を絹糸で包んだ物が9割を占めていた。例外なく目貫の辺より切れ始める。
諸捻り巻きは直ぐに捻りの部分から磨耗する。「一線巻(筆者注一貫巻)」が良い。目貫は大きく長い物が柄補強に有利。
柄の形状は立鼓型が良い。柄巻鮫皮は水分に極めて弱いので漆を塗り、柄糸にはすき漆に片脳油をまぜて薄めたものを塗ると丈夫になる。
柄を金属薄板(筆者注旧軍刀の背金の様な物)で包むのが良い。
こうした成瀬氏の柄の損傷原因と改良提案の幾つかは、後の三式軍刀柄の改良に生かされている。
北支派遣・笹沼市三歩兵軍曹は雄山閣発行「刀と剣道」昭和14年9月号に「戦場の軍刀」と題して日本刀の体験と見聞録を記述している。
本人は現地で色々な材料で刀を造って試験もしている。○(伏せ字)位切るならば青龍刀、昭和刀や北支で造るスプリング刀で充分だと述べている。
古刀良作が最も良く、新々刀と現代刀(戦中に造られた本鍛刀)の中に官給下士官刀に劣る物があって困ると述べ、この見解は成瀬氏と共通する。
「昭和13年、清化鎮の戦いで或る特科隊の将校の鎬にかかる大五ノ目の焼きの無銘新刀で敵の頭に切りつけたら切先一尺位で氷のように折れ飛んだ。驚いて残部の刀身で切りつけたら鍔元から再た折れた。某部隊の軍曹の山城か大阪かと思われる焼出直刃の大五ノ目の新刀は、便衣兵の肩に斬り付けた時中央より折れた。其他にも2〜3聞いているが皆な太い丈夫そうな刀だった。
私の実験して打折った刀は三本や四本ではない。野州住荒川行秀二尺五寸の巾広く重ね厚い豪刀で赤銅の小さい鍔を切ったら一撃で三つに折れた。全部とは云わないが新々刀の見たところ豪刀が(実際は)豪刀でないのは以上の通りである。現代刀匠の日本刀展で特選になった人の作が雑誌を切って中央から折れたこともある。北支で私の見聞した三四の折れた数と云うのは全体から見て決して安心の出来る数とは思えない。
何故なら軍刀を振っての白兵戦がそれ程多くないからで、日本刀を以ての戦闘が充分(多く)あったなら相当の折損が出来た事と思う」。
一軍曹の見た狭い範囲でこうだから、北支全体では刀身折損が相当あったであろう事が想像出来る。
当時の世相から、日本刀の不味い実態を公表するのは刀剣界と軍部への批判にも繋がりかねないので相当の勇気が必用だった。
成瀬関次氏の著述は軍部に対する配慮もあってかなり自粛されているように思われる。