2011-09-15
焚書坑儒はじまる
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http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110914-OYT1T00906.htm
京都府、児ポ所持禁止へ
“18歳未満の猥褻画像や動画”の所持は罰金30万円
児童買春・児童ポルノ禁止法は、18歳未満のわいせつ画像や動画を提供する目的で製造・販売する行為だけを禁じている。府の条例案は、画像や動画を持つこと自体を禁じ、知事が廃棄を命令し、従わない場合に30万円以下の罰金を科すことができる。
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以前にも書いたことだけれど
http://d.hatena.ne.jp/boxingfan-law/20080322
単純所持禁止というのは、
表現の自由とあまりに鋭い対立をする危険なものであることを、
ちゃんと自覚しなければならない。
持っている人間全員に廃棄を義務付けるということだから、
その表現物がこの世から消えてなくなるということになる。
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きわめていかがわしい「作品」であっても、
そこには一定の人の精神作用が込められる。
表現物の一種である以上、
その尊重は人間の人格の尊重と同義になるし、
社会の何らかの変革を訴えるなど、
他者にとって存在自体が利益となる契機を含んでいる。
いかに「被害者」がいるといっても、
表現物の存在自体を消してしまうことまで許されるのか。
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もちろん存在を消してしまうべき表現物もあるだろう。
単なる権利侵害でしかない表現物もあるには違いない。
しかしその線引きはきわめてむつかしい。
当局は
「よほどひどいものしか破棄命令は出しません」
と言うだろう。
しかし、「わいせつ」という文言の曖昧さについて、
これまでどれほどの議論が重ねられてきたか。
その周辺部分の適用不適用のラインの不明さへの不安は、
決して拭い去れるものではない。
そういう時代とともに動きうる感覚を根拠にした基準により、
ある表現物を永遠に消してしまう効果まで付与するという。
後の時代に
「あれは別にどうってことなかったね」
「むしろ今の時代必要な“考え”だね」
ということになっても、
もう取り返しが付かなくなってる可能性もあるわけだ。
少なくとも、表現物を永久に消滅させるなど、
一事的な「感情」で強制してよいものでは決してない。
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そして、児ポ法を社会道徳維持の装置にしか思えず、
「被害者がかわいそう」を口実にしている連中には、
想像の外にあることかもしれないが、
おそらくは児童ポルノに属する作品の被写体に、
未成年時代に従事していた人が、
成年後に「同じ」仕事をする例もあると聞く。
それって判断能力と責任を備えた後に、
自分の「作品」を追認しているということにならないか。
真意で追認をできる人はマレかもしれないが、
「被害者」個人を守るための法である前提からは、
そのような追認は可能でなければならない。
ならばその「子ども」が成年するまでは、
少なくとも内容自体は保存されている必要があるはずだ。
しかし表現物を永久に破棄せよと言う。
失われた物を追認することはできない。
もちろんこれはそれなりに強引な理屈の面はあるが、
そういう理論的な問題があることを、
規制者が平気で無視するのは確かなことだ。
だってこの連中は
「自分の見たくない物を消せ」
言ってるだけだからね。
理屈に合わない部分は無視できるんだよ。
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麻薬・覚せい剤や拳銃については、
その危険性の大きさから所持しているだけで犯罪とされている。
しかしそれらは工業製品だ。
金属を型に流し込んで部品を作り、
組み立てれれば何度でも同じ拳銃を作り直せる。
野生植物を栽培採取して、
成分を精製すれば何度でも麻薬は作り直せる。
それは、拳銃の設計図や、
化学的研究の成果までは、
廃棄がされていないからである。
あくまで結果として出来上がった物の所持を禁じているだけ。
だからこそ本当に必要が生じたときには再生できる。
医療目的での麻薬使用や警察等の拳銃使用は可能となっている。
しかし、人間が一度心に描いたことは、
その場で何らかの表現物に変えた後、
別の場所で再現しろといわれてもほぼ無理である。
似たようなものはできるかもしれないが同じ物は絶対に無理。
まして今回規制対象になるような「被写体」がある表現をや。
工業製品とは違う。
その意味で表現物の単純所持禁止は、
いわば拳銃の設計図や麻薬の研究の永久廃棄に近いが、
それらはあくまで科学であるから、
記憶さえあれば再現可能性があるわけで、
もっとひどいものだ。
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もちろん、今回問題となっているのは、
一自治体内だけで通用する条例の問題であるから、
上に書いたほどのシビアな問題にはなりにくい面はある。
他府県に所在する表現については破棄されないからだ。
しかし、その表現物が京都府内にしかなかった場合、
同じ問題が生じるのであって、
少なくとも理論的には問題は同じである。
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児童ポルノをめぐっては、
不十分な判断能力につけこまれた、
きわめてシビアな事案があるのは確かだ。
その再発防止や被害者のケアをどう行っていくかは、
非常にむつかしい問題と思う。
しかし、表現物規制として行いうるのは、
とくに営利目的の販売を中心とした「流通の阻止」にとどめるべきだ。
販売業者の所持する「作品」については、
犯罪の目的物として、現行法でも当然に没収ができるはずだろう。
一般人の表現受領にまで踏み込んで規制するのは、
半歩間違えただけできわめて危険な事態が生じる。
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表現物を根こそぎ奪うことは、
人権思想の欠片もない古代中国で、
焚書坑儒という名で行われた圧政の典型だ。
そんな危険な武器を使ってもよいと考える感覚は、
僕にはきわめて恐ろしい。
未開の国の人権感覚である。
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表現物の単純所持禁止には、
僕は断固反対だ。
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ちなみに、京都は昔僕が住んでいたところだ。
京都って、ある意味、人権意識が高いのだけど、
変な方向にだけ高い部分があって、
奇妙奇天烈なことをするイメージがある。
僕は高校に入る瞬間に所沢に引っ越してきたので、
実際に高校以降の生活を京都ではしていないけど、
あくまで所沢の高校は編入だったりする。
高校入試は京都でした。
昔から僕の周辺にはお金がないから、
当然に公立高校だ。
今はどうなっているのか知らないけど、
当時、京都の公立高校は、
受験生が自分の行きたい学校を選べなかった。
「公立高校入試」を一律で行ってた。
で、受験者の住所と定員とバスなどの交通網とを「考慮」して、
一方的に「あなたは○○高校合格です」と命じられた。
理由は公立高校の「レベル」を一定にするためだったらしい。
つまり、公立のA高とB高とで、
大学進学率などに違いがあるのは「不平等」だから、
全部を平等にするための仕組みだと。
アホな話である。
高校間にレベル差を生じさせるものとしては、
入試段階で集まる人間の偏差値の高低も大きいけれど、
高校の立地条件や教育環境などの別の要素の影響も大きい。
それをスタート時点だけ平坦にしたところで、
学校間格差などなくなりはしない。
にもかかわらず、それなりにできる人間を、
行政処分によって無理矢理「低進学率校」に押し込むわけだ。
それも歩いて通える高校をスルーさせて、
わざわざバスなどの公共交通機関を利用しろと、
少し離れた高校に押し込んだりする
(まあ、関東の感覚では京都なんて狭いものだが)。
僕はこんなの教育の機会の侵害以外の何物でもないと思うが、
それが平等推進として人権尊重に資すると考えていたアホが、
少なくとも当時の京都の教育行政を支配していた。
人権尊重だと心から信じながら、
すさまじい人権侵害を平気で行える、
それが京都の行政の伝統なのかもしれないね。