薔薇戦争


 

薔薇戦争という響きをはじめて耳にしたのは、中学だったか高校だったか、ともかく学校の歴史(世界史)の授業であったと思う。対立する王家を赤薔薇と白薔薇に擬え、内戦の名称に花の名を冠するという感覚が、「元号+の乱(役)」に典型的な日本史流の命名に慣れていた当時の自分には非常に新鮮なものに思われた。(このとき「プランタジネット」というのがエニシダを意味すること、あわせてエニシダなる植物が存在することも知った。)爾来、この美しい名をもつ中世イングランドの内戦に対する関心を温め続けてきたのだが、十数年を経て英国に留学する機会に恵まれ、ひとつ腰を据えて研究してやろうと考えたのが、この小記事作成のきっかけである。
このサイトのタイトル"Gather ye rosebuds while ye may"は17世紀のイギリスの詩人ロバート・へリックの詩の一節である。「時のある間に薔薇の花を摘むがよい」と詠じ、「時は矢のように過ぎるのだから。今日微笑んでいたその花が、明日には枯れているのだから。」と続く。歴史の中で今や永遠の命を与えられた紅白の薔薇は色あせることはないが、生きてこれに真向かう人間の命こそ有限、矢のように過ぎ去るのである。幸いにして時が緩やかに過ぎていると思われる今、二色の薔薇に象徴される中世イングランドの人々の営みについてゆっくりと思いをめぐらせたいと考えた次第である。

 

薔薇戦争の人物
 

注)これらの項については、管理人がwikipedia(English)の該当箇所を訳したものをそのまま掲載する。(日本語版wikipediaには投稿済み)

H
HenryY
ヘンリー6世(Henry VI, 1421年12月6日 - 1471年5月21日 5月20日との説もある)はランカスター朝のイングランド王(在位:1422年 - 1461年、1470年 - 1471年)。1422年から1453年までフランス王を兼ねる。1437年まで摂政が後見。ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリンの子。同時代人からは、平和主義で敬虔だが、自身が直面した苛烈な抗争には不向きな人物として描かれた。彼の精神錯乱と生まれ持った博愛心は、やがて自身の没落とランカスター家の崩壊、ヨーク家の台頭につながった。

 幼君
ヘンリーはヘンリー5世の唯一の子であり後継者であった。彼は1421年12月6日、ウィンザー城で誕生し、1422年8月31日、生後9ヶ月でイングランド王位を、1422年10月には祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。当時20歳の母キャサリン・オブ・ヴァロアはシャルル6世の娘として疑惑の目を向けられ、ヘンリーの養育に十分な役割を果たすことは許されなかった。
1423年9月28日、貴族たちはヘンリーに忠誠を誓った。彼らは国王の名の下に議会を召集し、王の成年まで摂政会議を置いた。ヘンリー5世の存命の兄弟の一人ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターは王国の摂政に任命され、フランスでの戦争継続に当たった。ベッドフォード公の不在中は、イングランドの政府の首班は、護国卿に任じられたヘンリー5世のもう一人の兄弟グロスター公ハンフリーであった。彼の任務は平和の維持と議会の召集に限定された。司教ヘンリー・ボーフォート(1426年以降、枢機卿)はヘンリー5世の叔父(管理人注:ヘンリー5世の父であるヘンリー4世とボーフォート司教はともにジョン・オブ・ゴーントの子であったが、彼らは腹違い)であり、摂政会議の重要人物であった。1435年のベッドフォード公の死後、グロスター公は摂政の座を要求したが、これは摂政会議の他のメンバーの反対にあった。
1428年からヘンリーの傅役はウォリック伯リチャード・ビーチャムで、彼の父トーマスはリチャード2世の統治に反対する貴族勢力の中心人物であった。
ヘンリーの腹違いの兄弟エドムンドとジャスパーは、未亡人となった母后がオーウェン・テューダーとの間にもうけた子であり、後に伯爵に叙された。エドムンド・テューダーは、後にヘンリー7世としてイングランド王位に就くヘンリー・テューダーの父である。
ヘンリーは1429年11月、8歳の誕生日の1ヶ月前にウェストミンスター大聖堂でイングランド王の戴冠を受けた。そしてヴァロア家のシャルル7世が1429年7月17日にランス・ノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行したことを受け、1431年12月16日、パリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠した。

親政の開始と対仏政策
母后が亡くなった1437年、ヘンリーは成年となり統治を開始した。しかし、間もなく彼の宮廷は、対仏戦争をめぐって衝突しあう一握りの寵臣たちが牛耳るようになった。
ヘンリー5世の死後、ジャンヌ・ダルクの勝利に始まるヴァロア家の失地回復の中、イングランドにおける対仏戦争継続の機運は失速していた。若い国王はフランスとの平和政策を好むようになっており、同様の志向を持つボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールの派閥を贔屓にしていた。一方で、戦争の継続を訴えるグロスター公ハンフリーやヨーク公リチャードはないがしろにされた。

 マーガレット・オブ・アンジューとの結婚
ボーフォート枢機卿とサフォーク伯はフランスとの平和を求める最善の道は、シャルル7世の王妃の姪にあたるマーガレット・オブ・アンジューとの結婚であると国王に説いた。ヘンリーはマーガレットが驚くほど美しいとの報告を受けた時にはとりわけ結婚への同意を示し、サフォーク伯をシャルルのもとに派遣した。シャルルはフランス側からは持参金を提供せず、かわりにイングランドからメーヌとアンジューを割譲されるとの条件で結婚に同意していた。これらの条件はトゥール条約で同意されたが、メーヌとアンジューの割譲はイングランド議会には秘密にされた。イングランド臣民から大きく不興を買うことが明らかだったからである。結婚は1445年に行われた。
ヘンリーは、メーヌとアンジューの割譲が不人気であり、グロスター、ヨークの両公爵から反対されることが分かっていたため、その実行をためらっていたが、マーガレットは国王にやり通すように仕向けた。1446年に条約が公になり、民衆の怒りはサフォーク公に向けられたが、国王と王妃は彼を庇護することにした。

 サフォークとサマセットの台頭
1447年、国王と王妃は議会の召集に先立ち、グロスター公を反逆の容疑で召喚した。これは、グロスター公の政敵であるサフォーク伯、老ボーフォート枢機卿とその甥であるサマセット伯エドムンド・ボーフォートにそそのかされたものであった。グロスター公はベリー・セント・エドムンズに監禁され、審理の前におそらくは心臓麻痺のためそこで亡くなった。
ヘンリーの推定相続人であるヨーク公は、宮廷のサークルから締め出され、アイルランド統治に派遣された。一方で彼の政敵サフォーク、サマセットの両伯爵は公爵に昇叙された。公爵位は通常、君主の直系の近親のみに与えられるものであった。公爵となったサマセットは戦争指導のためフランスへ赴いた。
ヘンリーの統治の後半、法と秩序の崩壊、汚職、王領の寵臣たちへの分配、王室財政の窮乏、フランスでの恒常的な失地といった要因で、王政は次第に不人気になっていた。1447年、この不人気は、国王の取り巻きの中で最も不人気で、反逆者とみなされていたサフォーク公への庶民院の反対運動という形で表出した。ヘンリーはやむなくサフォークを追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡で襲撃された。殺害されたサフォークの遺体は、ドーヴァーの浜辺で発見された。
1449年、フランスでの軍事行動を指揮していたサマセット公は、ノルマンディーで再び戦端を開いたが、秋までにはカーンまで押し返された。1450年までにフランスはヘンリー5世が苦労の末勝ち取ったすべての州を奪還した。往々にして報酬を支払われることがなかった帰還兵たちは、イングランド南部諸郡における無法状態を助長した。そして、ヨーク公に共感しジョン・モーティマーと自らを称するジャック・ケードが、サザークのホワイトハート・イン(「ホワイトハート」は王位を逐われたリチャード2世のシンボルであった)を本拠として、ケントの反乱を率いた。ヘンリーは反乱を鎮めるため軍を率いてロンドンに向かったが、彼は軍の半分がセブンオークのケードに面会している間、残りの半分を待機させておくよう説得された。ケードは勝利し、ロンドンを占領するため軍を進めた。結局、反乱は何の成果もなく、数日間の無秩序の後、再び王軍の手に帰した。しかしこの反乱は不満が高まっていることを示すものだった。
1451年、ヘンリー2世の時代からイングランドの手にあったギュイエンヌ公爵領がフランス側の手に陥ちた。1452年10月、イングランド軍はギュイエンヌに進攻しボルドーを奪還し、いくらかの軍事的成功を収めたが、1453年までにはボルドーは再び奪われ、大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなっていた。

 精神錯乱とヨーク公の台頭
1452年、ヨーク公は摂政会議での正当な地位を主張し悪政に終止符を打つためにアイルランドから帰還するよう説得された。ヨーク公の主張は広く受け入れられており、彼はシュルーズベリーで挙兵した。宮廷の一派はロンドンで同規模の軍を起こした。ヨーク公は不満と宮廷の一派への要求を記したリスト(サマセット公の逮捕も含むものであった)を示し、ロンドンの南部で事態は膠着した。国王は初めはヨーク公の要求に同意したものの、マーガレット王妃がサマセット公の逮捕を阻止すべく干渉した。1453年までにサマセット公は影響力を回復し、ヨーク公は再び孤立した。宮廷の一派も王妃懐妊が宣せられたことでその力を増した。
しかし、1453年8月のボルドー失陥の報を受け、ヘンリーは精神疾患に陥り、自身の周りで起こっていることをまったく認識できなくなってしまった。これはその後一年間続き、エドワードと名づけられた自身の後嗣の誕生にも反応できなかった。ヘンリーのこの病は、おそらく母方の祖父で、その死の前の30年間にわたって断続的に精神錯乱を起こしたフランス王シャルル6世から遺伝していたと考えられる。
ヨーク公はこの間、ウォリック伯リチャードネヴィルという重要な同盟者を得ていた。ウォリック伯はもっとも影響力をもった大諸侯の一人であり、おそらくヨーク公自身よりも豊かであった。ヨーク公は護国卿として摂政の座に指名された。ヨーク公の支持者たちが国王の子の父親は実はサマセット公であるとの噂を流している間、王妃は完全に排除され、サマセット公はロンドン塔に監禁された。そのほかヨーク公の摂政としての任期は政府の支出超過問題の解決のため費やされた。

 薔薇戦争
1454年のクリスマスの日、ヘンリー国王は正気を取り戻した。ヘンリーの治世下で実力を増していた不平貴族たち(最重要人物はソールズベリー伯、ウォリック伯父子であった)は、ヘンリーと対立するヨーク家の要求−はじめは摂政位に対する、そして次には王位自体に対する−を支援することで事態を掌握した。
ランカスター、ヨーク両家の軍事的抗争の後、1461年3月4日ヘンリーは王位に就いた従弟のエドワードによって退位させられ、幽閉された。この時までにヘンリーは、第二次セント・オールバンズの戦い(この戦いにより国王は解放される)の最中に笑い出したり歌ったりの錯乱の発作に襲われていた。 エドワードはスコットランドに逃げた国王と王妃を取り逃がしたものの、王位を得ることはできた。エドワードの初めの治世下で、ランカスター派は、マーガレット王妃といまだ彼女に忠誠を誓うイングランド北部とウェールズの貴族たちの指導で抵抗運動を続けていた。ヘンリーは1465年にエドワードに捕われ、続いてロンドン塔に監禁された。

 
 王位への復帰
スコットランド、次いでフランスに逐われていたマーガレット王妃は、夫と息子に成り代わって王位を奪還することを誓っていた。彼女自身でなせることはほとんどなかったが、エドワード4世は主要な支援者であるウォリック伯と弟クラレンス公と仲たがいしていた。フランス王ルイ6世の後押しで、彼らはマーガレットと秘密同盟を結んだ。ウォリック伯は娘をヘンリーとマーガレットの息子と結婚させた後イングランドに戻り、戦闘でヨーク派を破り、1470年10月30日、ヘンリー6世を復位させた。しかし、潜伏とそれに続く幽閉の日々は、ヘンリーの健康を蝕んでいた。ウォリック伯とクラレンス公はヘンリー6世の名の下で事実上の統治を行った。
ヘンリーの復位期間は6ヶ月も続かなかった。間もなくウォリックはブルゴーニュ公国に宣戦を布告し、ブルゴーニュ公はエドワードに王位奪還に必要な軍事的支援を与えることで応じた。エドワードは1471年5月4日、テュークスベリーの戦いで決定的な勝利を収め、ヘンリーの息子エドワード皇太子は殺された。

 幽閉そして死
ヘンリーはロンドン塔に幽閉され、1471年5月21日あるいは22日にそこで亡くなった。エドワード4世寄りの公的年代記Arrivallによると、テュークスベリーの戦いとエドワード皇太子の死の知らせを聞き、鬱病になって死んだとされる。しかし、エドワード4世が暗殺を命じたということが広く疑われている。一世紀以上の後、シェークスピアの史劇「リチャード三世」は、エドワードの弟グロスター公リチャードを下手人として描いてる。ヘンリーはチェルトシー寺院に埋葬された後、1485年にウィンザー城のセント・ジョージチャペルに移された。

 遺産
後世まで残るヘンリーの業績は、教育の発展である。彼はイートン校とケンブリッジ大学のキングス・コレッジを設立した。父王ヘンリー5世が始めた建築への支援を引き継ぎ、イートン、キングス・コレッジや彼の支援になる他の建築物の大半(ヘンリー5世が着工し、ヘンリー6世が完成させたシオン寺院など)は、単一の後期ゴシックあるいは垂直様式の教会に修道院と(あるいは)教育機関としての基盤が付与されたものであった。毎年ヘンリー6世の命日には、イートン校とキングス・コレッジの総長が、白百合と薔薇そして花を象った両校の紋章をロンドン塔のウェイクフィールド・タワーにあるヘンリーが祈祷中に殺害されたとされる現場に手向けている。
 

N 

Neville, Richard(リチャード・ネヴィル)
第16代ウォリック伯、第6代ソールズベリー伯

ウォリック伯リチャード・ネヴィルは「キング・メーカー」の名で知られるイングランドの貴族、軍司令官である。父第5代ソールズベリー伯の子として、ウォリック伯は当時のイングランドにおいてもっとも豊かで強大な貴族であった。薔薇戦争の主要人物の一人であり、二人のイングランド王の退位に関与したため、後に「キング・メーカー」の渾名で呼ばれることとなる。
結婚と相続の恵みによって、ウォリックは1450年代にイングランド政界の中枢に躍り出る。元来はヘンリー6世を支持していたが、サマセット公との領土紛争のため、国王と対立するヨーク公リチャードと協力関係を持つようになる。この紛争により彼は戦略的に価値のある官職であるカレー司令官の地位を手にする。このことはその後彼を大いに利することになる。サマセット公との紛争は後に全面的な反乱へと発展し、ヨーク公とウォリックの父ソールズベリー伯は戦死する。しかし、ヨーク公の子は、ウォリックの支援を得て勝利を収め、エドワード4世として即位する。エドワードは当初はウォリックの補佐をうけて統治していたが、両者は外交政策とエドワードの結婚をめぐって対立するようになる。エドワードの弟クラレンス公ジョージを即位させる陰謀が失敗した後、ウォリックはヘンリー6世を復位させる。しかしこの勝利はつかの間のものであり、1471年のバーネットの戦いでウォリックはエドワードに敗死する。
ウォリックには男子はなかった。彼の年長の二人の娘のうちイザベルはクラレンス公ジョージと結婚し、アンはヘンリー6世の皇太子エドワードとの短い結婚の後、後にリチャード3世となるグロスター公リチャードと結婚した。
ウォリックの歴史的遺産は大いに議論の的になってきた。歴史的見解は彼を自己中心的で軽率な人物とみるか、恩知らずの国王の気まぐれの犠牲者とみるかで常に揺れてきた。しかしながら、当時にあって彼が社会のすべての層から人気を勝ち得ており、政治的支援を得るため大衆にアピールするのに長けていたというのが一般的な見方である。

 ウォリック伯爵位襲爵
ネヴィル家はスコットランド人との戦争によって14世紀に台頭したダラム地方の一族である。1397年にラルフ・ネヴィルはウェスモランド伯に叙された。ラルフの子リチャード(後のウォリック伯の父)は二度目の結婚によって生まれた年少の息子であり、伯爵領の後継者ではなかった。しかし彼は第5代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートの女後継人であるアリスとの結婚によってソールズベリー伯爵位を手にした。 
このソールズベリー伯の子、後のウォリック伯は1428年11月22日に生まれたが、彼の幼少期についてはほとんど分かっていない。リチャードは6歳のとき第13代ウォリック伯リチャード・ビーチャムとその妻イザベル・デスペンサーの娘アン・ビーチャムと婚約した。これによってリチャードはソールズベリー伯爵領だけでなく、モンターギュ家、ビーチャム家とデスペンサー家の遺産のかなりの部分を継承する立場となった。
しかし彼はさらに幸運に恵まれる。1446年、ビーチャムの息子でリチャードの姉と結婚していたヘンリーが亡くなった。そのヘンリーの娘であるアンが1449年に亡くなったため、リチャードは妻の権利によりウォリック伯爵位をも得ることになったのである。だが、リチャードの領地継承には疑問がさし挟まれた。継承に関する長引く争いは、特に初代サマセット公エドムンド・ボーフォートとの間に起こった。サマセット公はリチャード・ビーチャムが初めの結婚によってもうけた娘と結婚していた。(管理人注:リチャード・ビーチャムはエリザベス・バークレーと結婚し、その間には3人の娘が生まれていた。サマセット公はそのうちの一人、エレノアと結婚していた。)。紛争はウォリック伯爵位に対してではなく、領地に対するものであった。ヘンリーの腹違いの姉たちは継承権から排除されていたためである。
1445年までにリチャードは騎士に叙任されている。おそらくはその年4月22日のマーガレット王妃の戴冠式においてである。1449年までには彼はヘンリー6世に仕え始めているようである。彼は父親とともに北方での軍役に従事し、1448年から1449年までのスコットランドとの戦争に参加した。1452年にヨーク公リチャードが国王に対し反旗を翻し不首尾に終わったときには、ウォリックと彼の父は国王の側に馳せ参じている。

 内戦
1453年6月、サマセット公に対してグラモーガンの領主権の後見人たる権利が与えられた。これはこの時までウォリックが有していたデスペンサー家からの遺産の一部であった。両者の間には公然の対立が勃発した。同年の夏、国王は病に臥した。サマセット公は国王と王妃の寵臣であり、国王の健康状態が悪化していたため、彼は事実上完全に政府を支配していた。これはサマセット公と紛争を抱えるウォリックにとっては不利なものであり、ヨーク公との協力関係に向かわせることになった。フランスにおける軍事的敗北をうけた政治情勢はサマセット公には逆風となりつつあった。1454年3月27日、王室顧問官の一団がヨーク公を護国卿(protector of the realm)に指名した。ヨーク公はいまやウォリックだけでなく、北方でパーシー家と対立を深めていた彼の父ソールズベリー伯の支援も頼れるようになっていた。
ヨーク公の護国卿としての初めての任期は長くは続かなかった。1455年の初め、国王は権力の座、少なくとも正気を取り戻した。これによってサマセット公は再び真の権力者の座に返り咲いた。ウォリックはヨーク公とソールズベリー伯同様に領地に戻り、三者とも軍の召集を開始した。ロンドンへの進軍途中、セント・オールバンズで彼らは国王と遭遇し、両軍は戦闘を開始した。戦闘は短時間のものであり特に熾烈なものではなかった。しかし、これが薔薇戦争の名で知られる紛争において、ヨーク、ランカスター両家の武装化された敵意が初めて衝突した瞬間だったのである。また、この戦いは国王が捕われ、サマセット公が戦死したという点においても重要なものであった。
ヨーク公の護国卿としての二期目は、一期目よりさらに短いものであった。1456年2月の議会で国王(今では王妃マーガレットの影響下にあった)は親政を再開した。この時までにウォリックはヨーク公の主要な同盟者としての地位をソールズベリー伯から引き継ぎ、ヨーク公を報復から守るためこの議会に出頭しさえした。この紛争はウォリックの経歴においても転換点となった。というのも彼がカレー総督に任命されたことで解決されたためである。このポストはその後続く争いにおける力の基盤を彼にもたらした。1347年からイングランドの占領下にあった大陸の町カレーは、戦略的に極めて重要であるのみならず、イングランド最大の常備軍を擁していた。当初、守備隊やstapleとして知られる独占羊毛業者との間に支払いの延滞をめぐる争いが起こったが、7月にはウォリックはこの任に就いた。
一連の事件のあと、マーガレット王妃はいまだにウォリックを王権に対する脅威とみなし、彼に対する供給を削減した。しかし1457年8月、フランスはサンドイッチ港を攻撃し、フランス軍による全面侵略の恐怖を引き起こした。ウォリックは再び守備隊の保護とイングランド沿岸警備のための資金を供給された。王室の権威を無視し、ウォリックは1458年5月にはカスティーリヤ王国艦隊に対して、数週間後にはハンザ同盟艦隊に対して海賊行為を働き、非常なる成功を収めた。また大陸において彼はフランス王フィリップ7世やブルゴーニュ公フィリップ善良公との関係構築に時間を費やした。確固とした軍事的名声と良好な国際関係を築き、守備隊の一部をイングランドに帰還させ、1459年夏、彼は父及びヨーク公と対面した。

 ヨーク家の勝利
1459年9月、ウォリックはブロア・ヒースの戦いでランカスター家を破って間もないソールズベリー伯及びヨーク公と合流するため、イングランドへ渡航し、ラドローを目指し北上した。ラドフォード・ブリッジの近くで彼らの軍はランカスター軍に打ち負かされた。これはアンドリュー・トロロップの指揮下にあったウォリックのカレー派遣部隊が敗北したことに一因がある。これが明らかになったとき、兵士の大部分は王に武器を向けることに気乗りしなかったのである。国外に逃亡することを余儀なくされたヨーク公はダブリンに向かい、ウォリックとソールズベリー伯はヨーク公の息子マーチ伯エドワード(後のエドワード4世)とともにカレーへ落ち延びた。ウォリックにかわってサマセット公ヘンリー・ボーフォートがカレー総督に任命されたが、ヨーク側は何とかこの要塞を維持した。
1460年3月、ウォリックは今後の計画について協議するためアイルランドのヨーク公を訪ね、その後カレーに戻った。6月26日、彼はソールズベリー伯、マーチ伯とともにサンドウィッチに上陸し、ロンドンへ向け行軍した。ソールズベリー伯はロンドン塔の統制を任され、ウォリックはマーチ伯を伴って国王の追跡を行った。7月10日、ノーサンプトンにおいて国王は捕われ、バッキンガム公その他は戦死した。
9月になりヨーク公はアイルランドから帰還した。そしてこの年の10月議会において、ヨーク公は玉座の前まで歩み出て、手で触れるという挙に出た。簒奪を示すこの振る舞いは議会の出席者に対し衝撃を与えた。ウォリックがこのヨーク公の計画を事前に知っていたかははっきりしないが、前年の3月アイルランドおいて両者の間に合意があったことは推測される。しかしながら、まもなくこの政権転覆が議会の貴族たちにとって受け入れがたいものであることが明確になり、妥協案が合意された。1460年10月30日に成立した合意令(Act of Accord)は、ヘンリー6世がその死まで王位にとどまることを認めるが、彼の子であるエドワード皇太子の継承権は認められない。かわりにヨーク公が王位を継承し、それまでは彼は摂政の任にあたるというものであった。
この妥協案は双方にとって満足いくものではなく、さらなる紛争は避けがたいものであった。12月30日のウェイクフィールドの戦いでヨーク公とソールズベリー伯はヨーク公の次男ラットランド伯エドムンド、ウォリックの弟トマスとともに戦死した。ウォリックは北方に行軍したが、第二次セント・オールバンズの戦いで敗北し、逃亡を余儀なくされた。その後彼はいまやヨーク側の新たな王位主張者となったエドワード(彼はモーティマーズ・クロスの戦いで重要な勝利を収めたばかりであった)の軍と合流した。
マーガレット王妃が次の行動を躊躇している間にウォリックとエドワードはロンドンに急行した。ロンドン市民はランカスター軍の粗暴な振る舞いに恐れおののいていて、ヨーク側に同情的であった。3月4日、エドワードは速やかに召集された議会においてエドワード4世を宣した。彼は国王の座を確固たるものとするため軍を北方に進め、ヨークシャーのタウトンでランカスター軍と衝突した。ウォリックはその前のフェリブリッジの戦いで足を負傷していたため、このタウトンの戦いでは大した役割は果たせなかった。
このイングランド史上まれな血なまぐさい戦いはヨーク側の完勝に終わり、ランカスター方の重要人物、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、アンドリュー・トロロップといった人々が戦死した。マーガレット王妃はヘンリー6世とエドワード皇太子とともに辛くもスコットランドへ落ちていった。エドワードは戴冠式のためにロンドンへ帰還し、ウォリックは北方の鎮定のためとどまった。

 絶頂期
エドワード4世即位後のウォリックの立場はこれまでになく強固なものであった。彼は父親の財産を相続し、1462年には母親の所領とソールズベリー伯の称号を継承した。彼は所領から年7000ポンドを超える収入があったが、これは国王以外のイングランドのどの貴族よりも遥かに大きいものであった。エドワード4世はウォリックのカレー総督としての地位を承認し、他のいくつかの官職とともにイングランド海軍総司令官及びランカスター公領執事長に任命した。彼の兄弟たちも恩恵を受けている。モンターギュ卿ジョン・ネヴィルは1463年にイースト・マーチの長官に任じられ、翌年ノーサンバランド伯に叙された。エクセター司教ジョージ・ネヴィルは大法官としての地位を承認され、1465年にはヨーク大司教に昇格された。
1461年後半までに北方での蜂起は鎮圧され、1462年夏にはウォリックはスコットランドとの和平交渉を行った。同年10月、マーガレット・アンジューはフランスからの軍でイングランドに侵攻し、アーンウィックとバムバラの城砦を占拠した。ウォリックは両城の再奪還の手はずを整えなければならなくなったが、これは1463年1月までには達成された。ラルフ・パーシーを含む反乱の指導者たちは、赦免され、そのまま奪還された城の守備を任された。この時点でウォリックは南に移っても十分に安全であると確信し、2月には父親と兄弟の遺体をバイシャム修道院に埋葬した。3月にはウェストミンスターの議会に出席した。
しかし同年の春、北方で再び反乱が起こった。ラルフ・パーシーがノーハム城を包囲したのである。ウォリックは北方に戻り、ノーハム城を救援したが、ランカスター方はノーサンバランドを占領したままであり、政府はかわりに外交交渉を行うことを決めた。スコットランド及びフランスと個別に和平交渉が行われ、これによりウォリックは反乱軍に占拠されていたノーサンバランドの諸城を奪還することができた。今度は慈悲が与えられることはなく、約30名の反乱の首謀者が処刑された。

 決裂の兆し
フランスとの交渉においてウォリックは、エドワード国王がフランス王室との婚姻に関心を持っているとほのめかした。意中の相手はルイ6世の義理の姉妹でサヴォイ公ルイの娘ボナであるとされた。しかしこの縁談は実現しなかった。1464年9月、エドワードが既にエリザベス・ウッドヴィルと結婚したことを公表したからである。この結婚はウォリックにとって大変な侮辱であった。彼の進めていた計画が妨害されたためだけでなく、国王が秘密に事を進めていたためである。同年5月1日に婚約が成立していたこの結婚は、顧問会議においてウォリックがフランスとの縁談を国王に勧めるまで公にされなかった。その間にウォリックは国王が縁談に真剣であると結果的にフランスを欺いてしまうことになってしまった。エドワードにとっては恋愛結婚であったろうが、結局彼はウッドヴィル家をウォリックから独立した権門にしようとした。
この出来事は両者の関係にとって決定打とはならなかったが、この時を境にウォリックは次第に宮廷から遠ざかるようになっていった。ウォリックの弟ジョージがヨーク大司教に昇進したことは、いまだウォリックが王の寵臣であったことを示している。1465年7月、ヘンリー6世が再び囚われの身となったとき、落魄した元国王をロンドン塔へ連行したのはウォリックであった。
1466年春、ウォリックはフランス及びブルゴーニュ公国との交渉のため、再び大陸に派遣された。交渉はエドワードの妹マーガレットにかかわる婚姻の提案を中心に行われた。ウォリックは次第にフランスの外交筋に好意を持つようになっていた。その間、エドワードの義父で大蔵卿に任命されたリヴァース伯リチャード・ウッドヴィルは同盟者であるバーガンディー側寄りとなっていた。このことはイングランド宮廷内での紛争を引き起こした。この紛争は、10月にエドワードがブルゴーニュ公国との秘密条約に署名し、一方でウォリックはフランスと偽りの交渉を継続することを強いられたという事実をもっても緩和されることはなかった。その後、ジョージ・ネヴィルは大法官を罷免され、一方でエドワードはウォリックの長女イザベルとエドワードの弟クラレンス公ジョージとの縁談を考慮することを拒否した。こうして宮廷の支配者としての地位がリヴァース伯に取って代わられていることが次第に明らかになっていった。
1467年秋、ウォリックはランカスター方に共鳴しているとの噂が流れた。彼は喚問のため宮廷に出頭することを拒絶したが、国王は噂の内容を否定する書状をウォリックから受け取った。同年7月、ウォリックのカレー総督の地位を代行するウェンロック卿がランカスター方の陰謀に関与していることが明るみに出た。また1469年初めにはオックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアが関与する別のランカスターの陰謀が明らかになった。エドワードの治世への不満が広がっていることが次第に明らかになっていた。これはウォリックがつけ込む隙のあることを意味していた。

 反乱そして死
今やウォリックは、彼の不在中リデスデールのロビンに率いられたヨークシャーの反乱に共鳴していた。ウォリックの計画はエドワードの弟クラレンス公ジョージを玉座に即けることを前提に自陣に取り込むことであった。19歳のクラレンス公は、兄のような才能の持ち主であることを示してはいたが、嫉妬深く、野心が勝ちすぎていた。7月、二人はカレーに渡り、そこでクラレンス公はイザベルと結婚した。彼らはイングランドへ戻り、北方の反乱に加わるためケントで兵を徴集した。その間、国王軍はエッジコートで敗北し、ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートは殺された。その他の指揮官、デヴォン伯ハンフリー・スタフォードは捕われ、群集のリンチに遭った。その後リヴァース伯とその息子ジョンも逮捕され処刑された。軍が打ち負かされ、国王は大司教ネヴィルによって逮捕された。彼はウォリック城に軟禁され、8月には北方のミドルハム城に移された。しかし、結局国王なしに統治することは不可能であることが分かり、1469年9月、政情不安からウォリックは国王を釈放することを余儀なくされた。
数ヶ月間、国王とウォリックの間に暫定的な小康状態がもたらされたが、ヘンリー・パーシーにノーサンバランド伯爵領を回復させたことは、完全な和解の芽を摘んでしまった。リンカーンシャーでの騒擾のため国王が北方に向かったとき、罠が仕掛けられ、国王はウォリックの手の者に襲撃されていたかもしれない。しかし、この陰謀はウェリス卿がルーズコート・フィールドの戦いで敗北し、計画を漏らしたために国王の知るところとなった。
ウォリックはまもなく計画を諦め、クラレンス公とともに再度国外へ逃げようとした。しかし、カレーに入ることを拒否され、フランスのルイ6世の庇護を求めた。ルイはウォリックとマーガレット・オブ・アンジューとの和解を調停し、協定の一部として、マーガレットとヘンリー6世の息子エドワードとウォリックの娘アンとの結婚が決められた。この同盟の目的はヘンリー6世を復位させることであった。再びウォリックは北方での反乱を仕組み、国王を排除すべく彼とクラレンスは9月13日、ダートマスとプリマスに上陸した。ウォリックの側に殺到した多くの者の中に彼の弟モンターギュ侯がいた。彼は先の反乱には参加していなかったが、ノーサンバランド伯爵領の回復の件で王への忠誠が報われなかったことに失望していた。今回は国王への罠は有効であった。国王が南へと急いだとき、モンターギュ侯の軍が北から接近したのである。国王は自らが包囲されていることを覚った。10月2日、エドワードはネーデルランドへ落ち延びた。ヘンリー元国王が返り咲き、ウォリックは側近としての才をもって真の統治者として振舞った。11月の議会でエドワードは領地と称号を剥奪され、クラレンスはヨーク公爵領を与えられた。
しかしこの時、対外関係が割って入った。フランス王ルイ6世がブルゴーニュ公国に宣戦布告し、シャルル豪胆公は王位を奪還するのに必要な遠征軍をエドワードに与えた。3月14日、エドワードはノーサンバランド伯の同意を得てヨークシャーのレイヴンスパーンに上陸した。ウォリックはマーガレット・オブ・アンジューとその息子エドワードを待っていた。彼らはフランスから援軍を連れてくるはずだったが、悪天候のため大陸に足止めされていた。この時点でエドワードは弟クラレンスの支援を受けていた。彼は新たにランカスター方に与したことで不利な立場に置かれていることに気付いていた。クラレンスの離脱はウォリックの力を殺いだが、彼はいまだにエドワードを追っていた。4月14日、両軍はバーネットで衝突した。霧と視界不良のため戦場は混乱に陥り、ランカスター兵は同士討ちを始めた。敗戦を目の当たりにしウォリックは戦場からの逃走を試みたが、馬から落とされ討ち取られた。

 その後
ウォリックの遺体は、同じくバーネットで戦死した弟モンターギュ侯とともに、彼らがまだ生きているとの噂を打ち消すためロンドンのセント・ポール大聖堂に晒された。彼らの遺体はジョージ・ネヴィル大司教に引き渡され、父祖の眠るバイシャム修道院に埋葬された。同年5月4日、エドワード国王はマーガレット・オブ・アンジューとその子エドワードが率いるランカスターの残党をテュークスベリーの戦いで打ち破り、エドワード前王太子を殺害した。その後まもなくヘンリー6世がロンドン塔で死亡したことが報告された。ランカスターの王統を根絶やし、エドワードは1483年のその死まで心安く統治することができた。
ウォリックの官職は国王の弟たち、クラレンス公と後のリチャード3世となるグロスター公の間で分けられた。式部卿とアイルランド総督はクラレンスが、イングランド海軍総司令官とウェスト・マーチの長官はリチャードが引き継いだ。クラレンスはさらにウォリック、ソールズベリーの両伯爵領も引き継いだ。ウォリックの所領は没収され、王の直轄下に置かれていた。1472年、グロスター公がウォリックの年少の娘でエドワード王太子の死により未亡人となっていたアンと結婚したとき、両王弟の間でビーチャム家、デスペンサー家の遺産をめぐって争いが起こった。最終的に調停によって領地は分割されたが、クラレンスは不満であった。1477年、クラレンスは再び兄王に陰謀を仕掛けた。今回はエドワードは慈悲をかけず、クラレンスは翌年処刑された。
生き残ったクラレンスの二人の子のうち、息子のエドワードは1499年、大逆罪で処刑され(管理人注:このときの王はヘンリー7世)、1541年、娘のマーガレットも同じ運命を迎えた。(管理人注:彼女はプランタジネット家最後の生き残りであったが、ヘンリー8世の命で処刑された)。モンターギュ侯の息子ジョージはネヴィル家の男子相続人となったが、遺産を相続することなく1483年に亡くなった。ネヴィル家の遺産の多くは今や王となったリチャードのもとに帰し、ネヴィル家は絶えた。

 歴史的評価
リチャード・ネヴィルに関する初期の資料は二つに分けられる。一つは初期のヨーク派についての同情的な年代記、あるいはこれらに基づく「王侯の鑑」(1559年)のような作品である。もう一つはエドワード4世の命でウォリックの没落後に編纂された「エドワード4世帰還史」といった年代記であり、ウォリックに対してはより否定的な立場を取っている。「王侯の鑑」はウォリックを偉大な人物として描いており、人々に愛され、王座に押し上げるのに手を貸した相手に裏切られたとしている。もう一方の見方はシェークスピアの「ヘンリー六世」三部作に見られるものであり、自尊心と利己心に駆られ、思うままに王位を操ったとするものである。
しかし時とともに後者の見方が優勢となった。18、19世紀の啓蒙主義者あるいはホイッグ史家は、中央集権化された立憲君主制への発展を妨げた(ちょうどウォリックがエドワード4世との争いの中でやったように)者はいかなる者でも糾弾した。デイヴィッド・ヒュームはウォリックを「国王を威圧し、正常な民政を不能にした大諸侯たちの中でもっとも強大で同時に最後の人物」と称している。後世の作家たちは、ウォリックの性格的特質を賞賛する者とその政治上の振る舞いを非難する者とに分かれている。ロマン派の小説家リットン卿は、彼の歴史小説「諸侯たちの終焉」の中でヒュームの主題に理解を示している。リットンはウォリックを騎士道を体現した悲劇的英雄として描いているが、それでもやはり彼はもはや過去の遺物なのだった。19世紀後半の軍事史家チャールズ・オマンはウォリックの民衆の感情に訴えかける才能を認めているが、彼の軍指揮官としての欠陥も指摘している。オマンはウォリックを「教え子のエドワードが示したような軍事的天才の高みには至らなかった」伝統的戦略家としている。1957年から刊行されたポール・ケンダルの有名な伝記はウォリックに同情的な見解をとっているが、結局彼は自身の行き過ぎた野心の犠牲者となったのだと結論付けている。
マイケル・ヒックスやA.J.ポラードといったより近年の歴史家たちは、現代の理念に照らすより当時の基準でウォリックを捉えようとしている。ウォリックがエドワードから受けた侮辱―エドワードの秘密裏の結婚、フランスとの外交ルートの拒絶を含む―は重大である。国事において重要な地位を求めたのは、偉大さに幻惑された結果というより、大陸の君主たちの間でウォリックが享受していた高い地位によって認められたものであった。さらに、ウォリックの主張は当時の人々からは不当なものとは見なされていなかった。それは1469年の一回目の反乱時には彼は国王をしのぐ人気があったことから見て取れる。一方で、ウォリックが国王からの仕打ちに容易に我慢ならなかったように、エドワードも政治の舞台でウォリックが突出することは受け入れ難かったのである。ウォリックが権力の座にとどまろうとするかぎり、エドワードは国王の権威を十分に行使することはできず、結局争いが起こることは不可避だったのである。



 


プロフィール

名前
陶山昇平
性別
現住所
London,UK
職業
某省職員、現在英国留学中

ブログ

1234
567891011
12131415161718
19202122232425
26272829

カテゴリー

QRコード
携帯用QRコード
Yahoo!モバゲー 通報・削除依頼