漢方つぼ物語(81)
太(たい) 陽(よう)

 頭が痛い。まぶたがぴりぴりする。無理もない。「あの日」以来、一日としてぐっすり眠れた夜はなく、記憶を呼び覚ますたびに涙は頬を伝ってやまない。妻と新婚旅行で訪れた上海で本場のあん摩師がおしえてくれたコメカミのツボを指先で押してみる。目の奥に痛いながらも心地よい感触が広がる。「タイヤン」という名のツボだというので漢字で書いてもらったら、それは「太陽」のことだった。―ああ、太陽! 私たち夫婦は、まさにその「太陽」を失ったのだ。

***

 小学校に入学したばかりの一人息子は自宅のまん前でトラックにはねられて即死した。狭い道路を大きい車同士が対向しようとしたとき、息子は不運にも死角に入ってしまったものらしい。学校が休みの日の葬儀であったため、同級生の子供達がたくさんお参りに来てくれた。遺影の笑顔が一層悲しみをふくらませた。何がなんだか分からないうちに数日が過ぎ、一段落したとき何倍にもなって悲しさが襲ってきた。私たちは何日も何日も泣き続けていたのだった。

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 その朝、日付を確認するためにカレンダーに目をやった。息子の幼い書き込みを見つけたのはそのときだった。「パパとママとぼくと3人でディズニーランドへいく日」と書いて矢印をつけてあるのは、まさに今日この日だった。私は妻に言った。
「そういえばせがまれて約束していたよな。どうかな、今日一日は死んだあの子が生き返ったつもりで、『三人で』ディズニーランドへ行ってみないか?」
妻は唇をきゅっとかみしめてうなずいた。必死で涙をこらえている様子だ。

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 私たちはさすがに、乗り物に乗ったり、催しものの中に入ったりする気にはなれず、無言でただ歩き回った。お昼近くになってレストランに入った。久しぶりの空腹感だった。メニューを眺め回しながら私は妻に話しかけた。
「あいつがいたら、何を注文するかな?」
「きっとお子様ランチを注文するに決まっていますよ。あの子はお子様ランチが大好きだから。」
 そう言って妻は、ほっそり痩せてしまった頬にすこしだけ笑みを浮かべた。(うーん、お子様ランチか。それって、子供用のメニューだからなあ…。)
 迷いながらも私は注文を取りにやってきた若いウエートレスに、私ども夫婦の注文に加えて、この子供専用メニューを注文した。―後で知ったことだが、このレストランではお子様ランチは「8歳以下の子供」にだけ注文が許されるメニューで、マニュアル通りにいくなら、こう断らねばならないところだった。「申し訳ありませんが大人のお客様には、お子様ランチはお出しできません。」

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 しかしこのウエートレスはマニュアル通りに断りはせず、こうたずねたのだ。
「何かご事情がおありでしょうか?」
 そうたずねられてはじめて、私はこの深い目の色をしたウエートレスに息子の不幸な事故について告白し、今日ここを訪れた事情を打ち明けたのだった。真剣な表情で耳を傾けていたウエートレスは、やがて意を決したように言った。
「わかりました。すぐにお持ちいたします。」
 ほどなく注文の品が運ばれてきた。私どもの前にそれぞれの品を並べたあと、ウエートレスは私ども夫婦の間にお子様ランチを置いた。そして…そこにあった大人用のいすを子供用のいすに差し替えて、にっこりほほえんで言ったのだ。
「どうかお三人で、ごゆっくりお食事をお楽しみくださいませ!」

***

 私ども夫婦はあまりのことにしばらくぽかんとしていた。まさかそこまでの心配りをしてもらえるとは予想していなかったのだ。ようやくお礼を言わねば、と気がついて目でウエートレスさんを追った。すぐに見つけることができたのだが、あいにくそのときには既にレストランは最も忙しい時間にさしかかっていて、声を掛けることは仕事の流れを中断させることが確実だった。それで、後ろ姿におじぎをしてレストランを出たのだった。
 この日を境に、私ども夫婦は生きる勇気を取りもどすことができた。幼くして亡くなった息子の分までしっかりと生きることが供養だと思えるようになった。立ち直る機会を与えてくれたことへのお礼を伝えねばとの思いから新聞に投稿した私の文章は、初夏のある日の読者欄に掲載された。
「…あの日、東京ディズニーランドのレストランで、悲しみの底に沈んでいた私ども夫婦にそっと暖かい配慮を施してくださったウエートレスさんのお陰で、私どもは生きる元気を頂きました。もう一度立ち上がろうと互いに励まし合う心の余裕ができました。この紙面をお借りして心から御礼を申し上げます。」
 息子の仏前にその新聞を供えたら、写真の中の息子がいっそう無邪気に笑いかけてきた。ちょうど四十九日の法要の日だった。

                                  〔太陽(たいよう)〕正規のツボ以外で経験的によく効く「奇穴」の一つ。
取穴:眉毛の外の端と目尻を結んだ中間点から親指の横幅分後ろの凹み。
治効:頭痛、偏頭痛、風邪、三叉神経痛、歯痛、顔面神経麻痺等に使う。

《作者から一言》「最愛の人を喪った悲しみをどのように癒やせるだろうか? その心の空洞をどのように埋めてさしあげたらよいのだろうか?」 永年このテーマについて思いをめぐらしていますが、いまだ結論は出せていません。今のところ私にできることは、こう言葉をお掛けすることくらいでしょうか…。「あなたは亡くされた方を、心から大切に思っていらしたのですね。あなたの悲しむご様子から、そのことがよくわかります。」と。


 ●この文書は、当会会員である、宮本年起氏の創作です。

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