扇の舞。10人程度の人が入るのがやっとの拝殿内で、ご神体に向かって舞を舞う。この舞は通常小学三、四年生たちが舞うことになっている。
大石の湖岸から小舟に乗って降り立つ少女たちの表情は、寒さからだけではなく、少し緊張しているようだった。それは舞の披露を控えてのものかもしれないが、それがまたおごそかな雰囲気を醸しだしていた。
御幣の舞。これは通常小学一、二年生の初心者たちが舞うことになっているという。かつては拝殿内を斜めに動く舞いもあったらしいが、難しい舞なので「稚児の舞」が中断されていた40年近くの間に、伝承されなくなったという。
舞の前の式典では、ご神体に捧げる玉ぐしや供物が、氏子から宮司へと手渡される。
拝殿へ向かう緩やかな坂道には、注連縄が張り巡らされ、人々を神聖な場所へとうながしている。
稚児たちが到着する前に、太鼓が拝殿まで運ばれていく。鵜の島神社の拝殿は大変小さいので、中には入らず拝殿脇の土の上で音を出すようになっている。
77歳になる堀内やよいさんは、織り手の中でもベテラン。大石で生まれたものの、結婚するまでは機織をしたことがなかったという。嫁ぎ先の姑が機を織る人だったから、当然のように自分も織るようになった。そんな話をしながら機を織る姿が手馴れていることを物語る。
織り機には縦糸が張られ、そこに杼(ひ)を用いて横糸を織り込んでいく。熟練した人は、何本もの杼を用いて、様々な色を織り込んでいけるのだ。
左の無地の反物が、27万円。右の縞模様の反物が20万円。織り手が高齢化したため、一反織るのに、数ヶ月かかるという。その手間を考えると、この値段は安すぎるのではないかと思える。全盛期の頃には、三日で一反を織ることもあったという。
大石紬伝統工芸館の職員である広瀬初江さんも、もちろん織り手の一人。手に持っているのは、ご自身で織った反物だ。最近では西湖にできた「癒しの里・ねんば」の方の店舗に出ることもあり、なかなか腰を落ち着けて機織に専念できないことが多いらしい。「今年は織りたいなあと思っています」という広瀬さんの反物が工芸館を飾る日が待ち遠しい。
2009年に工芸館の一員となった、若き大石紬後継者・堀内寛士さん。この時期は、蚕が旺盛な食欲を見せる時期だったので、桑の刈り取りや蚕に桑を与える作業で大忙しだった。「いつかちゃんと紬を織れるようになりたい」と語る彼の双肩には、大石紬の未来がかかっている。
かつては一面桑畑だったという大石地区。だが、今ではこのわずかな土地だけで栽培され、大石紬伝統工芸館で織られる紬のための養蚕を支えている。時には桑が足りなくなり、遠くまで貰いに行くこともあるという。
蚕が糸を出す時期になると、一匹ずつ篭もるようになっている「回転まぶし」と呼ばれる機械。これが登場したことで、二等品の繭である玉繭が劇的に少なくなったという。蚕が糸を出し始めるまでに、体内の汚物をすべて排泄することで、美しい絹糸ができるのだというが、「回転まぶし」はそこも考慮された素晴らしくよく出来た道具なのだそうだ。
都会で生まれ育ってしまった筆者にとって、蚕を間近に見たのは、これが初めてだった。よく眺めてみると幼い頃見た怪獣映画に登場したモスラそっくり。あの映画は、養蚕を一大産業としていた農業国から、工業国へと転換していく日本という国に対する痛烈なメッセージが込められていたのだと改めて納得した。
四季折々、刻一刻と表情を変える富士山。それが日常的な風景となっているのが大石地区だ。ここから眺める富士山は、最も美しいと言われ、大正時代に島津家31代当主が、別荘を建てたこともある。戦後の財閥解体時に、河口地区の名士が買い取り、今は「サニーデリゾート」というホテルとして観光客の人気を集めている。
河口浅間神社脇には、樹齢800年の杉の大木が立ち並ぶ。七本杉と呼ばれ、天然記念物となっている。これはその中の夫婦杉と呼ばれる二本で、男女でこの木の周囲を回ると、恋愛が成就するという言い伝えがある。
河口浅間神社の社殿には、水面の映る逆さ富士の絵とともに、「鎮爆」の二文字が書かれた書板が祀られている。浅間神社が本来富士山の大噴火を鎮めるために建立されたことが理解できる。
梶原さんご夫妻。代々大石地区で暮らす梶原家。ご夫妻は、養蚕のことや男たちが行っていた林業のお話を、たくさんしてくださった。
梶原さんの家の入り口にあった「向こう三軒両隣」と書かれた看板。かつてはどこの地でも「向こう三軒両隣は助け合わなくちゃ」という意識があったが、大石ではまだその気風がしっかり残っている。
大正14年に、大石地区からの富士山の眺めに惚れこんで、島津忠重(31代当主)が別荘を建てた。その経緯が記されている島津忠重著の書籍「なみかげ」がこれ。