[風土] 富士北麗・河口湖大石ではぐくまれた互助精神
湖越しに富士山を仰ぎ見る風光明媚な土地・河口湖大石地区。今では都心からの日帰りも可能。手軽なリゾート地として人気のこの地も、かつては険しい山々に囲まれ、周囲から隔絶された集落だった。しかしだからこそ人々がうまく折り合い、助け合う術を築いてきたようだ。この地のことを、少し踏み込んで眺めると、そのことがよく分かる。
おごそかな空気を身にまとい、社殿で踊る少女たちを見た。
その日の朝、河口湖のほぼ中央に浮かぶ鵜の島へと、地元の消防団がこの日だけ出す渡し舟に乗って向かった。毎年4月25日に行われる「稚児の舞」を見学するためだ。
小さな島は、おわんを伏せたようなこんもりした形で、島につくとすぐに坂道が続く。それを登りきったところに鵜之島神社があり、拝殿内で少女たちによる奉納の舞が舞われるのだ。境内付近には、すでに今回稚児をつとめる子の家族やクラスメイトで賑わい始めていた。舞い手は基本的に小学生と定められている。(この日は例外的に中学生もいた)
観光目当てではない地元の人だけが集まる儀式
かつては稚児になるためには厳しい基準がもうけられていたそうだ。だが今では大石に住む小学生の少女で、この舞を後世に残したいと考える家の子なら誰でも参加できるようになった。衣装も平成9年には大石地区にある日月浅間神社によって作られ、持ち回りで使用できるようになったのだそうだ。
しばらくすると同じ小舟に乗って、華やかな衣装を身につけた少女たちがやってきた。幼さが残る顔に浮かぶ真剣な表情が、とても初々しい。
やがて太鼓の音が境内に響き、式典が始まる。宮司による祝詞があげられ、玉ぐしが捧げられ、「御幣の舞」「扇の舞」「剣の舞」の順番で、少女たちの舞が繰り広げられる。観光客のいないおごそかな儀式を眼にして、身が引き締まるような気がした。
鵜の島の稚児の舞はなぜ行われるように?
ところで鵜の島の「稚児の舞」はいつごろから、何の目的で行われ始めたのだろう? 素朴な疑問を抱いて、古くから大石地区に暮らす人々に話を聞いて回った。
稚児の舞保存会の会長を務める渡辺綱司さんによると「私の母が大正6年生まれで稚児をつとめた話をしていたから、たぶんその頃に始まったのだと思う」ということ。その後、第二次世界大戦に差し掛かる頃に中断し、昭和58年に復活したのだそうだ。
調べていくと「稚児の舞」そのものは、大石地区の隣、河口地区にある河口浅間神社で江戸時代から行われていたらしい。富士河口湖町教育委員会・学芸員で山梨県考古学協会員でもある杉本悠樹さんによると「もともと浅間神社(「あさま」と呼ぶところと「せんげん」と呼ぶところがある)は、平安時代初期、864年から866年に富士山が大噴火(貞観の大噴火)したことで甲斐の国から<富士山への祭祀が足りないから噴火するのだ。だから神社を建立せよ>という勅令が下って建てられたのです」ということ。
つまり浅間神社はそもそも「鎮火」「火ぶせ」を祈願する存在だったわけだ。杉本さんはさらに「稚児とは京都では男児のことを言います。ですから本来的な意味では「巫女の舞」と呼ぶのが正しいのではないかと思う」と教えてくれた。
富士参拝に訪れる人々のため舞われた舞が原点かも
江戸時代に入ると、富士山参拝は江戸庶民にとって、生涯の夢となった。
「朝な夕な、遥かかなたに眺める富士山に、一生に一度はお参りしたい!」
その夢を果たすために「富士講」を作り、みんなでお金を出し合って、毎年富士山へ行く人を選出し、送り出していた。その受け皿となったのが「富士山御師」と呼ばれる人々だった。彼らは富士を目指してやってくる人々が無事に参拝できるように、禊(みそぎ)を行い、宿泊施設を提供し、さらには山岳ガイドの役目も果たした。その際、御師の娘たちが巫女として舞を舞うこともあったという。それが変じて現在の「稚児の舞」となったとも考えられるのではないだろうか。
渡辺さんから教えてもらい、代々氏子代表を務めてきた貴家(さすが)清隆さんに電話でお話をうかがったところ「もともとはお祭の日に貢納されていて衣装も今とは全然違っていた」ということだった。
かつては裕福な家の娘が自前で用意した長い袂のある着物に五色の布を垂らした鈴を持って踊っていたという稚児の舞。それがなぜ鵜の島でも行われるようになったのか。それは依然として不明だった。その謎が徐々に明らかになっていったのは、この地に伝わる大石紬についてのお話を聞いてからのことだった。
稲作に向かない土地で盛んだった養蚕。機織は女の仕事だった
大石紬は地域の一大産業だった
ヒト編でご紹介した吉野さんのアトリエから目と鼻の先に「大石紬伝統工芸館」がある。以前は少し奥まった場所にあったようだが、今は車が往来する通り沿いに移り、観光客の目を引いている。
紬と言えば結城や大島が有名だが、昭和40年(1960年代後半から1970年代前半)前後までは、全国各地に養蚕や機織で生計を立てているところがあったもの。日本の高度成長期とともに衰退していったものの一つだ。今、大石はどんな状況なのだろう。工芸館を訪ね、職員の広瀬初江さんにお話をうかがった。
「昔はそれぞれの家で行っていた養蚕から機織りまでの行程を、今はここだけで続けています。でもこの行程を細々とでも続けているのは、全国でも数少なくなりましたね。ここの織り手も70代から80代と高齢化しています」(広瀬さん)
大石の場合、戦前まではそれこそ村をあげて行っていた養蚕と紬織りだが、第二次世界大戦の食糧増産政策によって、絹の原料である蚕が食べる桑の畑を麦やとうもろこし畑に変えざるを得なくなった。それを機に戦後の経済復興期から成長期にかけて衰退の一途を辿ったようだ。
「けれど地域の伝統を残さなくては、ということで平成元年(1988年)に大石伝統工芸館が建てられました」(広瀬さん)
紬はもともと二等繭から作られた
昔ながらの紬の生地には、必ず表面にボツボツとした節が出ている。これは、紬が本来、売りに出せない玉繭から糸取りして家族が着る物を作っていたから。縦糸にも横糸にも玉繭からの糸を使うと、織り上げた布に、たくさんの節がでてくるのだ。
「昔は蚕が繭を出す時期になると、ダンボールなどで囲った場所に一匹ずつが入っていくようにしていました。でもその方法では二匹が同じ場所に入って繭作りすることも多かったのです。それを玉繭と呼びました。二匹の蚕が出した糸が絡まりあっているため、大釜で煮て糸を取り出すのも大変。なので、商品として外に出せなかった。つまり玉繭とはくず繭のことです。でも捨てるのはもったいないから、各家庭で紬を織るようになった。昔はオムツにも家で織った紬を使っていたのです」(広瀬さん)
絡まった糸を「うつぎ」というざらざらした葉のある木の枝を乾燥させ、その枝についた葉で糸目を引っ掛けて、糸を取り出すその技は、かなりの経験者でないとできないのだという。
「今では紬と言えば高級品ですが、長いこと正装にならないと言われてきたのですよ。90年代以降になって、紬でも紋をつけたら正式なお茶会にも出られるようになったのです。もちろん技術が飛躍的に発展して紬独特の節が出る玉繭自体が少なくなり、今ではわざわざ紬らしさを出すために横糸の中に玉繭からとった糸を混ぜる程度になったため、正絹のような光沢が出るようになったという背景もあると思います」(広瀬さん)
後継者が育つかどうかが大石紬の未来を決める
工芸館設立と同時に、後継者を育てようということで、90年代の半ばぐらいまで紬塾を開校していたこともある。
「一時は30人ほど集まって、賑やかだったのですが、皆さん何かの事情でおやめになって今でも織り手でいる人はほとんどいないのです。韮崎にただ一人、当時の生徒さんで今でも年に二、三回ここへいらっしゃる方がいるくらいで、その方もすでに70代になっていらっしゃいます」(広瀬さん)
生徒だった人の多くが、脱サラや定年退職してこの地でペンションを経営していた方たちだったこともあり、技術が根付く前に一人減り、二人減りしていったのだそうだ。
復活の試みが始まったときに、すでに30年間途絶えていたという大石紬。紬塾の生徒が織り手になっていない今、これでは後継者が絶えてしまうということで、2009年に募集をかけた。やってきたのは隣町の河口出身の若い男性。33歳の堀内寛士さんだ。彼は今、養蚕から機織までの勉強を始めている。大石紬の未来は、彼の手にかかっているといっても過言ではない。
大正6年の大火が、大石紬の衰退の原因?
だがいったいどうして大石紬はここまで衰退してしまったのだろうか。背景には日本の伝統的着衣である着物文化の衰退など、複合的な要因があるようだが、大石の場合、そこにもう一つの要因があった。
「大石紬は、江戸時代から続いているにもかかわらず、伝統工芸品としての国からのお墨付きである機印がもらえないのです。というのも申請に必要な過去の資料がまったく残っていないからなのです。なぜかというと、大正6年に大石地区が大火に見舞われ、それ以前の文献がすべて消失してしまったから。もともとこのあたりは富士山の度重なる噴火で土壌が貧しく、農作物を育てるのには不向きだったから養蚕が始まったというのは事実です。ですが資料がないから国からの認定がもらえない。だから織物一反の値段も高額にできず、織物だけでは生活が成り立たなくなってしまいました」(広瀬さん)
大正6年の大火と聞いて、脳裏に浮かんだのが、稚児の舞のことだった。確か稚児の舞が鵜の島で行われるようになったのもその頃のはず。明治維新以降、日本が近代化を推し進めていた時代である。東京ではそろそろモボやモガと呼ばれる若者が洋装で町を闊歩し始めるという頃だ。もちろん廃仏毀釈の流れも続いていただろう。
その時代に稚児の舞という過去の宗教的な儀式を改めて始めたのには、何か切実な理由があったのではないかと思っていた。もしかしたら、その大火をきっかけに、江戸時代から河口地区で行われてきた稚児の舞を、大石地区に属する鵜の島でも行おうという機運が生まれたのではないだろうか…?
その推察を前出の河口湖教育委員会の杉本さんにぶつけてみたところ、「はっきりとは分からないけれど、本来浅間神社が火ぶせの目的で建立されたことを考えると、大火が稚児の舞を始めるきっかけになった可能性は高いと思う」という答えだった。
この大火事によって大石紬は国の機印に必要な資料が失われたことで衰退の道をたどり、一方で江戸時代から隣の河口地域で行われていた稚児の舞が大石地区で舞われるようになった。この地を象徴する二つの文化の一方が誕生し、他方が衰退をたどったという事実に感慨深いものを感じるのだった。
富士山がそこにあるということ
大石女と河口男がベストカップル?
富士山が、今の形になったのは数千年前のこと。大石地区は河口湖の北側にあり、前に富士山、後ろに御坂山系・十二ヶ岳を控えた山間の村落だった。弥生時代の土器が見つかっているので、その頃から人が暮らしていたようだ。そしてその頃も富士山は今と同じ形をしていて、水面に逆さ富士を映していたわけだ。
交通網がなかった近世末まで、他地区からの情報も入ってこないこの土地では、誰もが「山の向こうは唐・天竺」だと信じて疑わなかったそうだ。
だが富士山の存在は、遠くからでも眺められ、古くから崇拝の対象だった。
この地では、いつの頃からか「大石女と河口男」の組み合わせが理想だと言われるようになったようだ。というのも大石地区と河口地区は隣り合わせの地域ながら、異なる背景を持っているから。河口地区は、江戸時代から、富士講のメンバーを迎えてもてなし、参拝する人たちの無事を祈願する「御師」を輩出してきた。彼らは農作業とは無縁で、着物姿で全国を配札して回るので、お洒落で情報通な伊達男が多かった。一方大石地区は養蚕が盛んで、機を織るのは女性の役割。終日家の中で機を織っているため、日焼けしていない白い肌を持ち、働き者の女性が多かった。だからこの二者の組み合わせは、理想のカップルだったのだ。
観光地の顔の向こうに穏やかな大石気質が見える
時は変わり、今や河口湖は都心から気軽に行けるレジャーの地となった。「この前ゴルフで行ってきた」「マラソンで行った」という人も多いだろう。その場合、たいていは目的であるレジャーを楽しんだら、帰り道にちょいと「道の駅」によって土産を買って帰るというパターンが多く、実際にこの地で暮らす人たちと交流することはほとんどないというのが現状だろう。
大石地区で生まれ育ち、小学校校長として長年勤め上げ、15年前にリタイア。今は悠々自適の暮らしをする梶原憲十郎さん・昌子さんご夫妻を訪ねて、お話をうかがった。
「バブルの時代までは、観光立県ということで大きなホテルがどんどん建って、大勢のお客さんが出入りして大変賑やかでした。ただ都会から近いということで、長逗留される方が少ないのです。日帰りか一泊がほとんど。できればゆっくり休みながら、ここで暮らしている人との交流を楽しんでもらいたいなと思うのです」(憲十郎さん)
確かに、こうして取材していると、表向きの観光地としての顔の向こうにある、長い歴史を積み重ねてきた土地としての素の顔が見えてくる。大石の人たちはみなのんびりとたおやかで、話をしているとひと時、都会のあくせくした感覚を忘れられるのだ。
不便さと貧しさが互助の精神を育むということ
梶原さんの話によると、大石には独特の風習が、かなり最近まで残っていたという。
「このあたりは一つの村にお寺が一つで、村民はすべてそのお寺の檀家でした。その年亡くなられた方がいる家では新盆の提灯が出されます。その提灯を見れば、誰もが「あの家では今年誰かが亡くなったのだ」ということが分かる。それでごく自然に、日頃交流のない村人でも、お盆の13日にその家を訪れて、ろうそくを渡して帰るという風習ができたんです。後にそれはお金に変わりましたが、この風習があるからこそ、地域のつながりが密になったのだと思いますね」(憲十郎さん)
「この風習は河口湖畔でも大石だけです。お盆のときも、家で迎え火を焚くのではなく、必ず家族がお寺に行ってお墓にお線香を上げてお参りして、残りのお線香を家に持ち帰って、家の仏壇へ上げるの。そうすると、本当にご先祖さまを連れてきたという感じがします」(昌子さん)
赤ちゃんが生まれた家では、名づけが行われる時期に、料理を作って待っていると、見知らぬ村民がお祝いに訪れるという習わしもあったようだ。いつ誰が訪れるか分からなくて大変だから、一時はなくそうとする動きもあったが、今ではその風習を懐かしみ、お祝いに出かけてお茶だけ呼ばれてくることも多くなったのだという。
昔ながらの助け合いを今も続ける大石の人々
大石地区で暮らす人々は、このように昔ながらの風習を残そうとする意識が強いのかもしれない。考えてみると、戦後長らく途絶えていた「稚児の舞」が復活したのが、昭和58年(1983年)で、大石紬伝統工芸館ができたのが平成元年(1988年)のことなのだ。日本各地でリゾート開発が行われ、観光客を呼び込むことに必死だった時代に、古くからの習わしを復活させたということ自体が、ここで暮らす人たちの願いを映し出しているように思える。
前出の稚児の舞保存会会長で、自らも笛を担当されている渡辺さんも、大石には助け合いの気風が根強く残っていると教えてくれた。
「大石には「用作り」という言葉があります。たとえば親戚やご近所の誰かが、急に病に倒れて、その時しなくてはならない農作業が滞ることになると、頼まれなくてもみんながやってきて、その作業をやってくれるのです。去年も、遠い親戚が稲の植え付けを済ませ、脱穀を待つ頃に亡くなったから、うちで「用作り」しました」(渡辺さん)
お互い様というか、持ち回りというか、無理強いしなくても自然に助け合う土壌ができているというのは、素晴らしいことだ。だがそれは長い年月によって築かれたものなのだろう。
大正14年、この大石地区から眺める富士の美しさに惚れこみ、最初に別荘を建てたのが、島津家31代当主、島津忠重氏だった。戦後の財閥解体によって別荘を維持できなくなったとき、譲り受けたのが地元の有志で、今はそこがホテルとなっている。そのホテルのオーナーからお借りした蔵書の中に、貰い風呂の風習を記したものがあった。
山間の村だから、水を運ぶのは重労働。特に大量に水を使う入浴では、家々が持ち回りで風呂を沸かし、ご近所みんなに使ってもらうという習わしがあったのだそうだ。
ヨッチャア(寄り合い隣保)という互助の精神が作り出した習俗らしい。「今日は、山道にあるあそこの家で風呂を立てる」と聞くと、夕飯の後に近隣の家から人々が続々集まってきて、順番にその家の風呂に入るのだ。するとその家の炉辺が集会所のようになり、独身の男女にとっては出会いの場ともなったのだそうだ。使い切った湯は、農作物の肥料として使われた。
さすがに今では貰い湯の風習はなさそうだが、こうした長年の積み重ねによって出来上がった互助の精神は健在だ。
2011年3月11日の大震災以降、多くの人が助け合うことの大切さに気づくようになった。その精神を持ち続けている大石の人々から学ぶことは多いだろう。もしもあなたが河口湖を訪れることがあったら、一度大石地区で暮らす人たちに接する機会を持ってみてはいかがだろうか。