「仁徳天皇陵」に葬られているのは、本当に仁徳天皇か。半世紀前、天皇陵を巡る疑問を初めて世に問いかけた一冊が、『古墳の発掘』だった。それ以降、書き続けた一般書は100冊を超す。多くの研究者や歴史教科書に影響を与えた考古学者は、80歳を超えてなお、日々の発見に心躍らせる。
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昭和30年代、僕は大阪府立高校に勤める傍ら、奈良県橿原市で古墳群の発掘を指揮していた。その最中の1964年春、東京大の井上光貞先生が、自身の著作『日本の歴史(1)神話から歴史へ』(中央公論社)の考古学担当に抜擢(ばってき)してくれました。
その夏、発掘が終わると、扇風機もない大阪の自宅で、氷柱を毎日2本バケツに入れて机の左右に立て、1週間ほど懸命に書いた。原稿を取りに来た中央公論の編集長から、「新書を1冊書きませんか」と誘いを受けたのが、『古墳の発掘』。「『天皇陵』にしたい」と言うと、「天皇陵をいきなり書き出しても分からない」。だから前半を古墳入門編とし、後半で「タブーの天皇陵」に力を注ぎました。
小学生の頃、電車通学する車窓から百舌鳥(もず)古墳群の巨大な古墳が見えた。その最大の古墳「仁徳陵」の被葬者が仁徳天皇かどうかを疑う人はいなかった。古墳群にあるもう一つの巨大な前方後円墳、ニサンザイ古墳は「陵墓参考地」で天皇陵ではない。天皇陵の指定が完璧なら、参考地というあいまいなものを残す必要はないのに、という疑念が子ども心にわいたんです。
天皇陵は墳丘内への立ち入りが禁止されており、江戸時代の図面や石室の観察記録を丹念に読んで、知識とするほかない。幸運だったのは『古墳の発掘』を書く前年、宮内庁「書陵部紀要」が発行され、幕末の「文久の修陵図」を見たこと。そこには、天皇陵を改変する前と後の様子が見事に描かれていた。荘厳な構築物を見せることで幕府が朝廷を尊崇していることを示そうとした実態もわかりました。
初版本で思い切って「天皇陵の所在地と墳形」の一覧表を作り、信頼性の度合いを示した。多くの天皇陵に「妥当なようだが、考古学的な決め手を欠く」として、●印を付けたんです。後の11版では表に手を加え、初版で「ほとんど疑問がない」と○印を付けた仁徳天皇陵を●印に落としました。
『古墳の発掘』は売れて28版までいったが、まだまだ不満やった。本では「仁徳陵」などと表記したが、その後、「仁徳陵古墳」を使い始めた。宮内庁が仁徳陵に指定している古墳、の意味だ。たった2文字があるかないかの違いだが、多くに影響を与えたようだ。宮内庁のある人から「法律で決まっている天皇陵に勝手に古墳名を付けるとはけしからん」と手紙も来た。
それでもなお、「仁徳」の人名が付くという問題が残る。それは奈良時代に創られた漢風の諡号(しごう)で、古墳時代にはなかった。そこで、古墳の所在地で呼ばれている地名を適用し、「大山(だいせん)古墳」とする私案を出したんです。
宮内庁は天皇陵をどう考えているのか。1年ほどかけて知恵を結集し、今の仁徳陵で問題がないなら、そう言明すればいいし、疑いがあると思うなら今後、計画的に発掘すればいい。素早い決断を望みたいですな。
最後に日本の、地域のすごさ、というのを書き上げたいと思います。80歳を超えて、「もし60歳で死んでたら、こんなん知らんと死んでたんやな」「得したなあ」と思うことがようけある。「感激のない人には学問はできん」と誰か言うてたけど、ほんまやね。(聞き手・大脇和明)
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もり・こういち 1928年生まれ。同志社大名誉教授(日本考古学)。13歳から遺跡探訪を始め、同志社大在学中に学会誌「古代学研究」創刊。「関東学」など地域学も提唱。