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家族的国家観 [雑感]

家族的国家観というのを漠然とイメージして以下の記事書いて、今 Google で検索したら、天皇と臣民の関係を「家族主義的国家」とか呼ぶような考え方があるみたいです。

僕のはそれとは関係なく、適当な思い付きです。

以下、、、

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とあるニュースサイトの記事で「東京都への瓦礫受け入れ反対者に対して石原知事が「黙れと言えばいい」と言ったことについてどう思うか?」というコメント欄があった。

200ぐらいのコメントにざっと目を通したら、ほとんどが「石原知事えらい」とか「賛成」とかばかりで、薄気味悪くなった。

「町内会のゴミ当番やらないやつなんかただのわがままだ。そんなやつは東京から出て行け」とか、原子力発電所の事故を、まるでゴミ清掃みたいに考えてるようなものもあったが、こういう人は、本当に原発も放射能も、心の底から「たいしたことない」と思ってて、反対する人は全員「異常者」に見えるのだろう。

しかし何よりも不可解だったのは、

「ちゃんと調べて安全なレベルの瓦礫を持って来てるのに何でケチつけるんだ?」
「反対と言っているやつらは感情的に反発してるだけ。『科学的データ』を出せ」
「プロが調べて大丈夫だって言ってるのに、素人が口出ししてもしょうがない。自分で調べられますか?」

というように、「こっちには安全だって『データ』があるんだから、文句あるなら危険だっていう『データ』だせ」みたいなのが、繰り返し出てくること。

彼らは「瓦礫汚染は科学的に安全であることが証明されている」と言っているのだ。

僕はしばらく考えてしまった。

この人たちが「科学的データ」と偉そうに言っていることが一体何を意味するのか、よく分からなかったからだ。

こういうコメントをする人間が、都民なのか一般人なのか工作員なのか分からないが、

瓦礫に関しては、その一部を鉛の箱に入れて「γ線計測」しただけで、

それがもう「科学的証明」にまで高められてしまう。

奇妙だ。

しかし似たような例はある。

ICRPが緊急時の被ばくを「年間1mSvから20mSvとし、できる限り1mSvを目指す」という言い方をしているところを、

「年20mSvまで安全だ」と解釈している人がいる。

つまり、学者も政府も誰も「絶対に安全」などと言ってないのに、庶民の方で勝手に「安全だ」と言い切るのだ。

おそらく食品検査にしてもそうだ。

「検査済み。基準値以下」とすれば、庶民の方で勝手に「全て科学的に安全性が証明されている」とまでに拡大解釈してしまう。

これはプロパガンダとか洗脳なんていう抑圧的なものではないだろう。

そして僕は、しばらく考えて、もっとずっと恐ろしいことに気が付いた。

これは、いわゆる、以心伝心というやつなんです。

信じられないことに、国民が「国家の心」を読むんです。

マスコミがある種まぎらわしい「含みのある」言い方をすると、それがヒントになって、庶民が自発的に与えたもの以上に、積極的に先を読んで、「お上の言わんとすること」を汲み取ってくれる

日本民族の類い稀な「頭の良さ」が遺憾なく発揮されて、国もマスコミもその「頭の良さ」を前提にした心理的駆け引きを挑んでくる。

理想的な支配ー被支配の関係で、高度過ぎて、マトリックスの世界どころじゃない。

頭にチップ埋め込んだりする必要なんかない。

(いや、だから、このまま世界が破局的な差別社会に突き進んで行くと、本当に頭にプラグ差し込んで家畜化されるなんてことになりかねないから、それを先読みして、無意識的自己保存が働いているのかもしれない。とにかく、そういう頭の回転の良さが日本人にはある)

政府も、学者も、メディアも、誰も「絶対安全」とも「科学的証明がある」とも言ってない。

「ただちに影響はない」「100mSv/年以下では有意な発ガン率の上昇は見当たらない」「放射能との因果関係は証明できない」

そういう「ぼやかした」言い方の背後にある真意は、むしろこうだ。

「もう、どうしようもない。どうすることもできない。科学でも証明できないし、安全とも言い切れない。避難させようにも、その金も、土地もないし、補償もできない。原発は爆発して、燃料棒がどこにあるのかも分からない。だけど、とにかく冷やしてることにするしかない。冷やしてるって言ってるんだから、『冷えてる』ってことでいいでしょう? 大丈夫って言ってるんだから、『大丈夫』ってことでいいでしょう?『安全』ってことでいいでしょう?それに全部津波のせいってことでいいでしょう?」

すると国民は、

「学者先生や政治家先生っていうプロがやってるんだから、俺たち素人がああだこうだ言ったってしょうがない。ちゃんと測って大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫だろうし、津波って言ってるんだから文句言ってもしょうがないだろう」

と納得してくれる。

原発事故対応で言うなら、ICRPの言う「最適化」「自助努力」を、国民が勝手にやってくれる

国の気持ちを「おもんぱかって」、国民自ら進んで除染作業参加を申し出てくれる。

そして、それに参加しない人間を、「おまえは日本から出て行け」と脅して、まるで自警団のような働きをしてくれる。

いやはや、実に、これほど支配者層にとって理想的な奴隷がいただろうか? そしてTPPにとって理想的な植民地があるだろうか?

そうやって、お互いを思いやるような「家族的国家観」が、日本人の民族的理念として染み付いていて、そういった「心のやり取り」で成立してるような国民国家にあっては、「主体性」とか「人権」とか「自由」は国家が規定するもので、規定に沿って自己表現がなされ、国家がお墨付きを与えたものが「客観的データ」とか「科学的証明」になる

「これは科学だ。なぜなら国がそう言ったからだ」

「これは安全だ。なぜなら国がそう言ったからだ」

「科学でしょう? 科学だよね? 科学以外ないでしょう。だってもうこれ科学って思わなかったら、科学なんてなくなっちゃうよ。偉い先生たちが『これしかない』って決めたんだから、もう『科学だ!』って思うしかないでしょう。だから、科学! 科学なの!」

では、政府や御用学者が放射能について「絶対安全」と言い切っていないなら、彼らが言っていることは何なのだろう?

例えばこの『科学史研究家』の話(放射線許容量をめぐって 科学的言説には限界 村上陽一郎)などに書いてあるように、

科学に決定的な答えを求めることは、今の段階では難しい、、、。安全の基準の明確な数値化は、今の科学の立場では至難ということになる。そこから『余計な放射線は浴びないにこしたことはない』という非科学的な言説が現実味を帯びるが、、、そこで重要視される原則が、『社会的合理性』だ」

政府や原子力推進派に雇われた「科学者」は、自分の科学的知見を土台に、たいていこの「社会的合理性」、つまり「お金のこととか仕事のこととか病気のリスクとか移住のリスクとか考えた上での我慢しなければならない限度」について述べているのであり、ICRPの「最適化」も「緊急時20mSv/年」もこれにあたる。

だから、はっきり言って「科学的根拠」なんかじゃないのである。

しかしまさか国も「我慢してください」とは直接言えないから、ずらずらと数字を並べて「これ以下では疫学的知見がない」とかぼかす。

その心を読んだ国民は、「国が言うんだから根拠があるはず。だから科学的なのだ」と思い込む

そう「断言」できる人々にとっては、科学とは国家が認めたことであり、「国家が認めないこと」は全て「非科学」になる。

だから、彼らにとっては、国家のお墨付きをもらっていないがゆえに「少数派」であるECRRも小出裕章も、全て「非科学」で、「妄想」で、「非現実的」なのだ。

そして、原発と放射能の危険性を訴える人は全て、国が原発を推進する限り、「利己的」で、「気にし過ぎ」で、「煽り」なのだ。

(小出助教を『教授にもなれないくせに』と罵倒するコメントを何度見たことか。つまり、そう言う人間にとっては、権威=科学であり、データや言説など何の判断基準にもならない。だから、最初から認める気がないから『科学的データ』を出せなどとふっかけてくる)

こういう日本人は間違っているのだろうか?

もし、何も考えず、ただ国の言うことに従っているだけなら、僕は「頭がいい」などとは思わない。

たぶん、今のこの格差社会で、「理想」とか「革命」とか著しく困難に思えて、それでも金に縛られて、ただ生活のために働かなきゃ生きて行けないような時代に、日本人というのは(いや日本人の一部は)、この近代国家、ハイパー資本主義社会、グローバル社会の住民として、そういう自分の立ち位置を俯瞰しながら、にっちもさっちもいかないのを知りつつ、「やけくそ」で、「身もふたもなく」、「どうせ俺なんか何にもならないんだ」と「ぶっちゃけ」てる人種なのだ。

要するに、ニヒリストなのだが、そこに自己憐憫怠け癖強制的な自己表現欲が渾然一体となって、自分を国家に重ね合わせる

搾取された人間が、搾取した支配者のために、労働のみならず、自分の心も差し出す。

絶望的だが、手っ取り早い自己救済。

奴隷道徳ここに極まれり、だ。

そして、この「都知事の発言」について言うなら、

日本人は「議会制民主主義」というものを、無意識によく洞察しているのだ。

つまり、「民意」というのは、「選挙」の時にすでに反映されているのであり、後は国政なり都政の判断は、議員の裁量に任せられる。

言ってみれば、「政治のプロ」におまかせする仕組みが、すでに存在するのであり、そこで議決されたことに文句を言うなら、次に選挙で落選させるとか、リコールするとか、それなりの手続きがいる。

ここでは「個人の意見」というのが、選挙を通じてすでに選別され、その代表者である議員に集約されていることになる。

そういう政治の仕組みを前提にすれば、「個人の意見」「少数派の意見」など、別に黙殺しても何の変化も起きない。

「知事がそう言ったんだから、従え。嫌なら東京から出て行け」

「原発反対というなら電気使うな。日本から出て行け」

などという「極論」が至る所で目につくのも、「家族会議で決まったんだから、嫌ならあんた家出てきなさいよ」と国家を正に「国=家」と考えるような傲慢さがあるからだろう。

「代表会議でもう結論は出ているのに文句を言うな」と少数派を攻撃し、狡猾に体制派に寄り添ういやらしい術策なのだが、表現の自由も権利もあったものじゃない。

長いものには巻かれろ、とはよく聞くが、巻かれると同時に、巻かれていない「個人」を執拗に攻撃するのはなぜだろうと思っていた。

勝手に巻かれてればいいじゃない、と思うのだが、

おそらく「個」を主張されると、国家をあたかも「自己」の延長であるかのように捉え、自己もまた国家の一部であると思って行動している人間にとっては、国家に逆らう人間はつまり「自分」を否定する存在であり、だからこそ、すぐさま排除しないと、心が休まらないのだろう。

「国家の心」と「エゴ」を同期させる。あたかも家族の関係のような「家族的国家観」。

まるで戦時中の日本みたいだから、これが伝統なのだろうか?

「少数派」にとっては、実に生きづらい社会だ。

しかしながら、反原発派は、こういう社会で生きながらえることを強いられている。

考えなければならない。

生き延びて、やがて体制を変えない限り、「原発への怒り」を心に刻んだ人たち、そしてその子供たちには、未来は訪れない。


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ペルソナ

はじめまして。よそ様のブログに投稿するなど滅多にないのですが、今記事があまりに素晴らしいので思わず書きこみたくなってしまいました。
100%共鳴、納得です。と同時に、私が常日頃考えていたこと、感じていたこと、そして3月のあの原発事故をきっかけに、よりはっきりと私が実感したことを、的確に文章化したあなたに嫉妬さえ覚えます。
私には半分アメリカ人の血が流れていますが、日本で生まれ日本で育ち、外国に親族もいなければ今年60歳を迎えるまで他国で暮らしたこともありません。
私はずっと自分は日本人だと思い、誇りを持ち、日本が大好きでした。でも一方で、「なにかがおかしい」「なぜ、こうなるのだろう」という疑問を常に抱えながら違和感を持っていたことも事実です。
そして歳を重ねるごとにそれは強くなり、ついにあの日を境に、自分はやはり日本人ではなかったのだ、と思いました。
なぜなら私がどんなに日本人であろうと日本人は私を日本人とは認めていないからです。あの原発事故で私には日本人の国民性や本質が焙り出されたような気がしています。
個人の主義、主張を認めない息苦しい国です。主義や主張(というよりもっと単純に考え方と言ってもいいのですが)の、その内容を聞く以前に、まず日本人は引いてしまう、わずらわしいと思ってしまう、或いは聞いても本当のところ理解しないのか理解したくないのか、とにかく真剣に向かい合おうとはしません。
表現の仕事(音楽家)をしているので、なおさらよくわかります。自分の作品に反映させたり、ブログで訴えたり、友人と話したりと、いろいろ自分なりに声を上げ試みてきたのですが、今では、やはり国民性というものは変わらないものなのだ、というところに至りました。少なくとも私が生きている間は、多分。
金持ちだったらすぐにでもどこか外国に逃げ出したいというのが今の正直な心境です。
長々とすみませんでした。






by ペルソナ (2011-11-17 02:00) 

colin

3月11日以降、全ては変わったと思います。国の原発対応、国民の反応を見ると、いろんなことがはっきりしてきました。日本に住むこと、日本で生きることについて、ある意味、究極の選択を迫られていると思います。
by colin (2011-11-17 21:43) 

Ohana

ペルソナさんのコメントですが、それはあなたにアメリカの血が入っているという問題ではないと思います。それは日本人の少数派だって感じている "違和感" なのだと思います。

私は日本で生まれて日本で育ち小学校高学年頃から強い "違和感" を感じながら育ってきました。両親ともに生粋の日本人です。ちょっとしたきっかけで海外留学を体験。(20日程ですが)そのとき受けた衝撃的な感覚は今でも忘れられません。

これ迄 "出る杭打たれる"だった私の存在が100%受け入れることを初めて海外で体験しました。日本では "変わった人" だった私もアメリカでは "普通の人" なのです。

ただ自分の思っている事を言う!という単純な事なのですが、みんなと違うその意見は日本では邪魔にされるのです。

その後、私はこの窮屈な日本からの脱出を夢みて20代前半に渡米しアメリカの大学をでてそれからずっと海外生活です。たまたま長い海外生活から戻り日本で生活していた矢先に3.11が起きました。

東京で最も危険とされていた3/15日の翌日、お母さんグループの間で子供を登校させるかさせぬかで携帯メールが行き交っておりました。

自分の子供を危険にさらすことでさえみんなで決める。非常に違和感が残りました。"先生に連絡したら先生は問題はないので登校させてください。" ということなので登校させるという結論でした。

私ども一家はすぐに子供を休校させ、17日に羽田からアメリカに避難して現在に至ります。

こちらですこし心も落ち着きネットで情報をみております。東京に残るか否かというものは、0.001%のリスクを重視するかしないか。本当にそのレベルです。

反原発を意識すればまるで人類全滅のような気になりますし、原発推進を意識すれば放射能は安全物質となるでしょう。

放射能が人に及ぼすことでよい事は一つもありませんが、逆に0.001%のリスクを自分でどう受け止めてゆくか?また子供にリスクを負わせた形で残してゆくのか?リスクが形になるのは数十年先の話です。今の生活を壊すリスクと0.001%の30年後のリスクを天秤で計るという行為は、自分の意見をもって生きてこなかった日本人には計り知れない難しい課題なのでしょう。

恐らく今後も日本人は平時を装い暮らしてゆくでしょう。東京から出る人間は恐らく今回のことで0.001の危険を回避したいと願う少数派になるかと思います。

今年の漢字は "絆"だそうです。大勢の人が病気になればみんな病気だから自分も仕方がない。。。。そう思える国民性というものが浮き彫りになった3.11の出来事だったのではないかと思います。


by Ohana (2011-12-16 06:05) 

As

でも明らかに東京よりも空間線量低い所も多いのにそこの瓦礫すらダメとか何にも考えてなくて反対してる人もいると思います。
正直気仙沼市より東京都の方が汚れてる、、、
瓦礫のままほおっておくより燃やして灰をコンクリートで固めて埋めてしまった方が、マシなんじゃないかと思うんですが。
もちろんその根底には政府や自治体への不信感が存在するのはよくわかるんですけどね。

by As (2012-02-04 10:07) 

colin

「空間線量が低い方にがれきを運んで燃やして灰を固めて埋めた方がマシ」とそっくりそのまま国も東京都も言っています。「マシなんじゃないかと思う」のは、「東京がそう決めたからマシのような気がする」のではないでしょうか。「考えなくて反対する人」もいますが「考えなくて賛成する人」もいます。そして「考えなくて賛成する人」はこの場合国と東京都と同じ主張になります。国も東京都も「経済」を優先します。「考えて反対する人」は「子どもの健康」を優先します。そして全ての人にとって「経済」も「子ども」も大切です。その人にとって「どうしても譲れないもの」を主張すればいいと思います。
by colin (2012-02-04 12:22) 

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