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« 「風評:盲導犬虐待情報」の虚実と3つの特徴! | メイン

2012/02/03

「風評:盲導犬虐待」発信のルールと手続きについて

 昨日、盲導犬の扱いをネット上で<虐待>と告発するには4つの「すべし」が大事であるという思いでブログに一文を掲載した。だが、それは予期しない反応を招いた。虐待の有無、盲導犬の排尿管理の是非をテーマとするコメントでブログが荒れる結果となった。私は、この二つのテーマに関して言及する立場にはない。その経緯と全体像を知る立場にはないので、当然のことである。ただ、コメントが寄せられた一文とコメントを削除した手前、その事情は説明しておきたい。

 削除した一文で訴えた4つのすべしとは、次のようである。

1、事実と真実とをはっきりと区別すべし。
2、関係者の人権と心情に配慮すべし。
3、情報発信が他者に及ぼす影響も検討すべし。
4、時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし。

 私は、ネットでの情報発信においては4つの「すべし」が大事であると固く信じている。ややこしいのは、<事実と真実とをはっきりと区別すべし>である。「情報で示している10の事実が全て事実であっても、『○○である』と結論付けた発信内容が真実とは限らない」というのが私の認識。かかる、事実と真実との誤認は、私の犯した誤まりの一つである。

 私には、全て事実に基づいて確かな情報を発信した強い確信があった。でも、私は、その事実の解釈で大きな間違いをしていた。最初に描いたストーリーが正しいと信じて全ての事実を解釈し、それらを別の角度から見るという作業を省いた。結果、伝えた事実に間違いはなかったが、その結論は真逆のものであった。そのことによって、私は関係各位に多大な迷惑をかけてしまった。最初に遭遇した事実から受けた強い衝撃が、私を誤まりへと導いた。この経験は、今でも思い出す。そのことが、私に「4つのすべし」を発信させたのかも知れない。

 一番の問題は、第一の「すべし」をクリアしたが、第二、第三の「すべし」をクリアしたかどうかが怪しい時である。その場合には、「真実だが情報の発信は差し控える」という苦渋の決断を迫られることも珍しくはない。かかる判断で間違わないためには(1)その情報を発信するスタンスの選択において間違いを犯さないこと(2)個人を情報発信者という立場の上に置かない。この二点を心掛けることに尽きる。

 まあ、こんなややこしい「すべし」を横に置くことが許されるのであれば、「ネットでは何でもあり」ということになる。それが、怖い。必要とされる常識的な手順と手続きを無視し、ネット上に情報を公開する必要性というのも一切に考慮しないで、個人の思うままが許されるのであれば「ネットでは何でもあり」ということになる。正義と信ずる情報の発信にも、道義が要求されるということである。情報発信者は、特定個人に対するバッシングの組織者であってはならない。こういう自戒も必要なのではなかろうか?

 写真は、前後の関係を切り捨てた一瞬の切り取りに過ぎない。決して、事象の全体像を反映している訳ではない。それなのに、写されている事象に関する印象を2000字を越える長文の記事以上に与える一種の化け物である。写真そのものには、つらつらとした説明が書かれている訳ではない。それゆえに、写真は、時を越えて、場を越えて生き続けることも可能である。

 たかが、歩きながら排尿している盲導犬の姿。されど、歩きながら排尿している盲導犬の姿。この公開された写真は、必ずや、時を越えて、場を越えて生き続けるであろう。すなわち、かかる写真の公開によって、一地方の一盲導犬に関する出来ごとは、全国で活動する盲導犬育成組織、その関係者、多くの盲導犬の今と未来とに関するものへと変質したのである。九州の一地方の出来ごとを告発するための写真は、公開されたその瞬間から、全国の盲導犬の今と未来とに影響を及ぼす存在と化したのである。告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡ったのである。ここに、私が、昨夜、眠れなかった理由がある。眠気眼で怒りに任せた一文を書いた理由がある。

 しかし、「時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし」は、今や遅しである。覆水は盆には返らないからである。公開された写真が、全国の盲導犬の今と未来を否定する言論の武器として悪用される可能性もあるという危惧が私の杞憂であることを願う。

 事実、公開された写真の閲覧者の中には、「盲導犬道具論」や「盲導犬不遇論」を唱える向きもある。「それは、私の本意ではない」-は通用しない。また、晒された盲導犬ユーザに対する嫌がらせ電話も掛けられているようだ。「それは、私の本意ではない」-は通用しない。全てが、告発者が組織したことである。

 告発者はブログでかく述べている。「信じるも信じないもあなた次第ですね!」-告発者は、UFOの目撃情報をブログで公開した訳ではない。この軽さは、一体何なのだ!自らが、いかなる世論を組織し、人々に対して何を扇動したのかがまるで判っていない。

追記1:削除した一文に見られる問題点!


1、感情が先行しているまっただ中での問題提起の是非。

 「ユーザによる盲導犬の排尿管理については、批判よりも改善に軸足を置くべし」との思いで書いた下りがある。その下りをもって、盲導犬の排尿管理の是非をテーマとするコメントが寄せられることとなった。
 感情が先行しているまっただ中で、不具合・問題点へのアプローチの問題を提起するのは妥当ではなかった。アプローチを考えるキッカケとして提示した発想と例とが、今回の件の直接的な評価と絡めて語られることとなった。これは、冷静に考えれば想定できたこと。私の一つの誤まりである。

2、ネット炎上中に本意を語ったことの是非。

 先の一文で、「仮に私が預っているアンジーが・・・」という前書きに続けて、その場合には、写真の公開に激しく反対すると述べた。この部分については、かなり感情的なコメントが寄せられた。
 私は、この下りでもアンジー号の処遇に関する個人的な感情・感想は横に置いている。が、感情が高ぶっている方は、この下りを私の個人的な感情・感想と置換して解釈したと推察されるコメントを寄せられた。
 仮にアンジー号の一瞬を切り取った一葉の写真が盲導犬ユーザへの非難を組織する武器として使われるとすれば、それは本意ではない。そのように扱われることは、アンジー号の尊厳そのものに関わることであると書いた。結果として、この箇所が<写真に写っている光景をどのように解釈するのか?>という論争の種を提供した。しかし、私は、公開された写真についての個人的な感情・感想を語るつもりはない。怒っているのは、その扱い。目的の為なら手段を選ばない不遜で傲慢な態度について怒ってるのである。

 (1)写真は切り取った盲導犬の様。
 (2)盲導犬の所作の一瞬を切り取った写真をネットのブログに掲載する行為。

 重ねて明確にすれば、私は(1)ではなくて(2)のみを問題にしている。この事をごっちゃにされても困るというものだ。

3、火に油を注ぐことの是非。

 感情が先行しているまっただ中での問題提起、ネット炎上中の本意云々。これは、結果として火に油を注ぐこととなった。それは、多くの関係各位に多大な迷惑をかけかねない。これが、削除に至った最大の理由である。

追記2、文章表現の不備について!

 コメントを寄せられた方の中には、文章表現の不備に触れられている向きもあった。

>OOO号は、盲導犬失格犬ではない。

 これは、<写真は、前後の関係を切り捨てた一瞬の切り取りに過ぎない>ことを浮き彫りにし、それがOOO号の全てではないを伝える為に書いた箇所に関してのコメント。私自身が幾ら読み返しても、そうは読み取れない。指摘の通りである。

結び

 このような判断の積み重ねで先の一文は削除した。なお、かかる一文にも、なお感情的なコメントが寄せられる。それらは、あまりにも的外れな非難の為の非難。別に、私は告発者の思想と日頃の行動とを批判している訳ではない。現時点で強いて行う必要のない特定の個人をネット上で告発するという手段に訴えるのはいかがなものか?後々に盲導犬育成事業発展の阻害要因となりかねない全体の真実を反映しているかどうかも疑わしい写真を晒すのはいかがなものか?-私の言いたいことは、この一点のみである。いずれも、情報発信者の初歩的な心得を述べているに過ぎない。この当たり前のことを書いただけのブログになおかつ感情に任せた見当違いな反論コメントが寄せられる。よって、コメントそのものをブロックすることにした。そのことも合わせてご理解願いたい。