カットシーンがゲームに与える悪影響とは?
今では完全にゲームの一部として定着したカットシーン。しかし、本当にカットシーンは必要なのだろうか?IGNによるコラムを。
想像してみて欲しい。君は映画館の暗闇の中で、大迫力のスリラーにすっかり没頭している。すると突然、映画館の明かりがつき、前の席の背もたれがパカッと開き、中に紙切れが入っている。手に取って読んでみると、次のような文章が書かれている。
『デビッドは引き出しから拳銃を取り出した。振り向いて狙いを定めるが、彼の目に映ったのは開かれた窓とカーテンだけだった。犯人は姿を消していた。』 どれほど腹立たしく、滅茶苦茶で、奇妙だろうか。怒り狂うはずだ。チケット代を返せと暴れ、(もしかしたら)映画館に火を点け、焼け落ちた残骸を足蹴にするだろう。だが考えてみると、ビデオゲームにおけるカットシーンは、これと同じ事をしているのだ。ゲームをプレーしていると思ったら、次の瞬間には映画を見ているのだから。異なるメディアを混ぜるのはとても危険。そろそろゲームも、映画監督のやり方を真似るのではなく、自分たちのやり方を確立すべきなのではないだろうか? キャラクターが急に立ち止まり、トレイの中のディスクが回り始めるとカットシーンが現れ、君はコントローラーを置いてしばらく待つか、スタートボタンを連打してスキップすることになる。どちらにせよ。こうした反応を強いるようでは、ゲームはもはやゲームではない。演劇、TV番組、コミック、映画など、ゲームが突如として他のものに姿を変えてしまう。急に明かりがつき、いぶかしげに紙切れを眺めるのと同じなのだ。 このコラムは何も「カットシーンは生まれつき悪なのだ」と読者を説得するものではない。カットシーンは、目を見張る極上のエンターテイメントであることも多い。いや、多くはないかもしれない。目を見張る極上のエンターテイメントであることもある。だが、誤用や乱用が目立ち、それが現代ゲームの質に悪影響を与えていると私は考えている。
かつてのカットシーンは、プレーヤーの入力を一切受け付けない、事前に撮影された短いビデオだった。1997年にFinal Fantasy 7が我々を驚かせた時、我々はその驚異的なフルモーション・ビデオにすっかり心奪われた。30分おきに我々の目を優しく愛撫してくれる、ちょっとしたピクサー映画のようだった。だが、フルモーション・ビデオの製作には途方もない時間がかかるため、時が経つにつれ、ゲーム内のグラフィックを使用したカットシーンが一般化することになる。
それにより、ゲームはより一貫性を得ることとなったが、考慮すべきマイナス面は、カットシーンにゲーム内グラフィックを使用するのはフルモーション・ビデオよりも容易かつ安価なため、ゲームをプレーさせることに興味を失ったデベロッパーが出始めたことだろう。 Battlefield 3のシングルプレー・キャンペーンは正にそれだ。ステージの合間に挟まれたプリレンダのカットシーンでは、主人公のBlackburnが尋問されている。ここでは、机を叩いたり、ため息をついたり、怒鳴られたりといった矢継ぎ早の台詞の応酬をひたすら見続けることになる。私はBattlefield 3のプロットに全く感情移入できなかった(実際は殆ど理解すらしていなかった)が、それが実際のゲームの楽しさを奪うようなことは全くなかった。これらのカットシーンは全く持って不要であり、これらで語られる情報は、全てゲーム内でも語ることが出来たものばかりだ。
そして更に、映画的なステルス・キルや肉弾戦を繰り出す必要がある時は、奇妙なQTEのカットシーンもどきが現れる。Battlefield 3にはこれが非常に多い。いや、Battlefield 3だけでなく、Modern Warfare 2、Bulletstorm、Biohazard 5にも沢山あった。実際には、最近のアクション・ゲームの殆どに登場する。
これは、四角いねじを丸い穴に入れようとしているようなもの。1人称視点は直線的な動きやエイミング、シューティングには最適だが、クライミング、パンチ、ロールには向いていないのだ。 だが、アクロバティックな動きをさせたいなら、自然に3人称へと移行すれば良いだけではないか。なぜプレーヤーから操作を奪うのか。エキサイティングなシーンを見せたいからといって、わざわざQTEにしなくても、ゲームの範疇で十分可能なのだ。映画などに頼らずとも、ビデオゲームはエキサイティングなものなんだぞ、と声を大にして言いたい。 Half Life 2でValveは、決してカットシーンに頼ることなく、エキサイティングな場面を作り出している。Gravity Gunのような魅力的な武器、嵐のビーチや不気味なRavenholmといったバラエティに富む舞台設定、そしてしっかりと描きこまれたキャラクターたちを最大限に活用しているのだ。キャラクターと話す時も、じっと立ったまま聞く必要もない。プレーヤーから操作を奪うことがないのだ。 重要なのは正にそこだ。Assassin’s Creedなら、プレーヤーに暗殺やクライミングをさせるべき。Haloなら、銃を撃ちまくったり、グレネードを投げたりさせるべき。GTAなら、ドライブや爆発をさせるべき。我々はそのためにお金を払っているのだ。僅か30秒でもそれを奪うと、プレーヤーとゲームの間に壁が出来てしまい、プレーヤーは主人公から傍観者になり、ゲームという趣味における最もユニークで素晴らしい要素「インタラクティビティ」を犠牲にしてしまうことになるのだ。 もちろん、カットシーンの一部はスキップが可能だし、QTEの中には良く出来ていて楽しいものもある。だが多くの場合、それらは手抜きの言い訳に過ぎない。プレーヤーが通常の操作を維持したままでは不可能なアクションやシークエンスを含むカットシーン、ちょっとした想像力さえあれば避けることが出来るカットシーンが実に多い。殆どはゲーム中の会話で済ませることが出来るものだ。ただ会話をするだけなら、Skyrimのように相手に近寄ったり、一緒に椅子に座って会話をするのではなぜ駄目なのか?RPGでなくとも、会話システムくらい導入できるはずだ。 もしそれが大迫力のアクション・シーンなら、私にプレーさせて欲しい。そのために私はコントローラーを手にしているのだ。もし高層ビルが崩壊してニューヨークを破壊しているなら、その様子をただ眺めるのではなく、私自身がプレーしたい。ほぼ全てのカットシーンは、少しでも頭を捻って想像力を働かせれば、プレー可能な没入感のある実際のゲームの一部として実現できるはずである。
それもまたカットシーンの問題点だ。私が実際にプレーしているものとは全く別の世界や体験を描くカットシーンが実に多い。例えばDeus Ex: Human Revolutionだ。カットシーンのAdam Jensonは、誰にでも気の聞いた台詞を吐く口の上手いタフな男で、冷静沈着なイカレ野郎。しかし私が実際にプレーする時のAdamはというと、Eメールをじっくり読んだり、壁際に箱を積み上げたり、バルコニーから自販機を落としたり、ロッカーを開けたり、科学者の前で屈伸を繰り返したりする。まるで唯心論者だ。
これもまた、カットシーンがゲーマーに植えつける無意味な遮断感覚を増幅してしまうものだ。 カットシーンやスクリプト・イベントについての最大の主張は、それらのお陰でデベロッパーは物語を語ることが出来る、というものだ。Gears of Warのようなゲームの場合、カットシーン無しでどうしたら物語を語れるのか?ということだろう。だがそうした主張は、一部のゲーマーはアクション・メカニックに集中しすぎるあまり、物語に注意を払ったり、キャラクターに話しかけたりといった、敵を撃つ以外の行為をゲーム中には行わないと言っていることになる。 だがそれは現実ではない。その証拠がBioshockだ。水中の都市Raptureの堕ちた栄光は極めて美しく事細かにデザインされている。見捨てられた部屋を探索し、壁の落書きを読み、古い録音を手に取り、古いニュース映画に目をやると、悲劇的な物語の全貌が徐々に明らかになっていく。そこにカットシーンは必要ない。 究極的には、全てのゲームが何らかの物語、何百という物語を語っている。パズルなら、あと少しでクリアできるとか、発想の転換でステージをクリアできたとか。シューターなら、敵のジープに向かって仲間と同時に投げた2つのグレネード。フットボールなら、相手選手を文字通り破壊する強烈なタックル。物語というのは、ゲームをプレーする上で非常に魅力的なものではあるが、カットシーン以外にも物語を語る方法は存在するのだ。カットシーンは没入感があり、感情に訴えかける道具になりえるが、デベロッパーに忘れないでもらいたいことがある。ゲームにおいてプレーヤーの脳裏に深く刻まれる物語というのは、往々にしてデベロッパーが押し付けてくるものではなく、プレーヤー自身が作り出した何百万と存在する新しい物語なのだ。 [ソース: IGN]
【今週のスペシャル】F.3.A.R. (X360) 【Play-Asia.com】
業界ニュース/コラム 最新記事