高校講座HOME >> 世界史 >> 第36回 朝鮮半島の20世紀 〜開国から南北分断へ〜

今回の学習内容

第36回

朝鮮半島の20世紀 〜開国から南北分断へ〜

講師:フェリス女学院大学教授 並木 真人
19世紀後半に日本の圧力で開国した朝鮮は、20世紀前半には日本の植民地となりました。その後、南北二つの国家に分断された状態が続いていますが、両国は経済などの関係を深めてきました。国際情勢に大きく影響されてきた朝鮮半島の近現代史をたどります。

学習ポイント

 朝鮮半島の20世紀〜開国から南北分断へ〜
今日のテーマ
韓国併合第36回テーマ朝鮮年表

今日のテーマは、「朝鮮半島の20世紀〜開国から南北分断へ〜」
19世紀の終わりから21世紀はじめにかけての朝鮮半島について学習します。
日本は、日清・日露戦争以後、軍事力でアジア大陸に進出していきましたが、1945年、アジア太平洋戦争に敗れました。そして、戦後は、経済大国への道を歩み始めます。
朝鮮王朝は、1876年に日本と日朝修好条規を結んだことを皮切りに、欧米諸国とも条約を締結して開国しました。そして、日本・清朝・ロシアなどが、東アジアで繰り広げた勢力争いの波に、翻弄されていくことになります。
やがて、国名を大韓帝国と改めた朝鮮は、1910年に日本に併合されました。日本による統治は、1945年、アジア太平洋戦争の終戦まで続きます。
その後、南北2つの国家に分かれ、戦争と対立を経て、現在に至っています。

<今回のポイント>
・朝鮮の開国と近代化の挫折

欧米列強や日本からの圧力で開国した朝鮮王朝が、どのような形で近代化を目指したのか、そして、それがなぜうまくいかなかったのか考えます。
・韓国併合と日本の植民地支配
まず、日清戦争と日露戦争という2度の戦争の結果、清朝とロシアの影響力を排除することに成功した日本が、朝鮮半島を支配していく過程をたどります。
続いて、35年にわたる日本の植民地支配の実態について見ていきます。
・分断国家の成立と南北関係
第二次世界大戦の終結後、日本の植民地支配から解放された朝鮮半島に、韓国と北朝鮮という2つの国家が誕生するようになった経緯と、その後の両国の関係について考えます。

<年表>
・1876年 日朝修好条規の締結によって、朝鮮王朝が開国。
・1894年 甲午農民戦争。日清戦争が勃発。
・1905年 日露戦争の結果、日本による保護国化が進み、それに対して反日義兵闘争といわれる抵抗運動が活発になります。
・1910年 日本が韓国を併合し、朝鮮総督府を設置します。
・1919年 日本からの独立を目指す三・一独立運動が起きます。
アジア太平洋戦争が終わった後は、北緯38度線を境界として、アメリカとソ連によって分断統治されましたが、1948年、南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。
1950年から53年にかけて、朝鮮戦争が起こり、その結果、南北の分断が固定化しました。現在では、南北の対話も実現し、経済協力なども少しずつ進んできています。

    朝鮮の開国から日清戦争へ
    景福宮日朝修好条規の締結甲午農民戦争

    19世紀に入り、欧米列強がアジアに進出してくると、清朝と日本が相次いで開国しました。一方、朝鮮王朝は開国に消極的で、欧米勢力を武力で撃退していました。
    しかし、近代化を進めた日本によって、開国することになります。
    1875年、朝鮮沿岸を航行していた日本の軍艦が、江華島に設けられた砲台から砲撃され、その砲台を破壊して占領するという事件が起こりました。
    この江華島事件を受けて、日本は朝鮮との間に、不平等条約である「日朝修好条規」を締結。朝鮮は、欧米列強とも同様の条約を結びました。
    この後、朝鮮の支配層では、国内の改革を行なうにあたり、これまで通り清朝との関係を重視しようとするグループと、日本にならった近代化を目指そうとするグループとの対立が生まれました。
    そして、朝鮮への影響力をめぐって、日本と清朝の対立も激しくなっていきます。
    1894年、朝鮮国内で、政権を倒し西洋や日本を追い出そうと呼びかける農民の反乱「甲午農民戦争」が起こりました。この反乱の鎮圧などのために、日本と清朝が軍隊を送り、朝鮮領内で衝突しました。日清戦争です。
    この戦争で勝利した日本は、清朝と朝鮮との冊封(さくほう)関係を解消させ、朝鮮への影響力を強めることに成功したのです。

      日清戦争を招いた政治の混乱
      日朝修好条規の主な内容朝鮮王朝の人

      日朝修好条規は、第一条で、朝鮮が独立国であることをうたっています。
      清朝は、冊封関係に基づいて朝鮮王朝を属国としてきました。この第一条は、清朝の政治的影響力を排除することをねらったものです。
      また、江戸時代から日朝間の貿易が行なわれてきた釜山(プサン)に加えて、新たに2つの港を開くことを定めました。開港場では日本の貨幣も使えるようにしたので、日朝の貿易量は増大しました。その結果日本は、経済的な面でも、清朝の影響を徐々に弱めることに成功しました。
      そして、領事裁判権に代表される治外法権や、関税の免除といった項目は、日本が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約と同様の性格を持っていたのです。

      開国した結果、各国との貿易が盛んになりましたが、特に主食である米が大量に日本に流出したために、米の不足と価格の暴騰が生じました。
      こうした状況で、都市の民衆の生活難から不満が高まり、兵士と民衆が一緒になって、王朝政府に対する反乱を起こしました。

      当時の朝鮮王朝は、国王の高宗(コジョン)の父親である大院君(テウォングン)を支持する勢力と、高宗の妻である閔(ミン)妃の一族とが互いに争うなど、対立が続いていました。また、その対立を利用して自国の影響力を増大させようと考えた日本や清朝、ロシアなどが朝鮮の国内政治に介入したために、朝鮮王朝の混乱は、さらに複雑になっていったのです。

      日清戦争も、もともとは朝鮮国内の反乱に、日本と清朝が介入して起こりました。
      日清戦争に敗れた結果、朝鮮半島における清朝の影響力は減少しました。
      1897年には、国王の高宗が皇帝となり、国号を「大韓帝国」と改めました。以後、これを略して、韓国と言います。こうして、韓国は清朝や日本と対等の存在となりました。
      清朝の「属国」ではなくなりましたが、その後、朝鮮半島に影響力を及ぼそうとする日本とロシアの対立に関わって、韓国の支配層の内部では、ロシアに近づこうとする勢力と、日本と結ぼうとする勢力との対立が、次第に激しくなっていきました。
      これが、日露戦争、さらには韓国併合につながっていくのです。

        日露戦争から韓国併合へ
        列強の勢力範囲初代統監、伊藤博文京城

        このころロシアは、中国東北部=満州に軍隊を置き、さらに朝鮮半島への勢力拡大をねらっていました。
        日本は、もしロシアが朝鮮半島を支配したら自国の安全も脅かされると危機感を持ち、1904年、ロシアとの戦争に踏み切ります。
        この戦争中、日本は、大韓帝国と「第一次日韓協約」を締結。韓国は、財政と外交の顧問に、日本政府が推薦する日本人などを任命しなければならなくなりました。

        日露戦争は、日本が優勢のうちに講和条約が締結されることになりました。
        日本は、韓国に対する優越権を列強に認めさせると、「第二次日韓協約」で、韓国の外交権を手に入れました。これによって、韓国は日本の保護国となりました。
        1906年には、首都・漢城(ハンソン)、現在のソウルに統監府が設けられ、伊藤博文が初代統監に就任します。
        韓国国内では、日本に対する反発が高まり、各地で武力による抵抗運動「反日義兵闘争」が活発化していきました。
        日本は、義兵の活動を軍事力で抑える一方で、1907年、皇帝・高宗を退位させ、さらに「第三次日韓協約」を結びました。
        これには、韓国の軍隊を解散することや、統監府が韓国の内政を支配することなどが盛り込まれていました。
        解散された軍隊から、軍人が義兵闘争に参加し、日本に対する抵抗運動は全国に拡大。1909年には、中国・ハルビン駅構内で、韓国の民族運動家・安重根(アンジュングン)が伊藤博文を射殺しました。この事件を機に、日本政府は韓国併合の方針を実行していきます。

        1910年8月、「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれ、韓国は日本の領土となり、名称も「朝鮮」とされました。
        首都であった漢城は「京城」という名に改められ、後には朝鮮王朝の王宮・景福宮の前に、朝鮮総督府が置かれました。
        以後、1945年まで、35年に及ぶ日本の植民地支配が始まったのです。

          日本の植民地支配
          朝鮮総督府の統治政策1930年頃のソウル洋服を着る人

          朝鮮総督府は、陸軍大将や海軍大将など軍人の総督を頂点とする体制で、軍隊と警察の力を使って、人々の暮らしを厳しく統制しました。この時代の統治は、武力を背景にしていたので「武断統治」と言われます。
          統治政策の主な内容を見てみましょう。
          ・言語・出版・集会の自由を認めない
          朝鮮半島の人々の言論・出版・集会の自由は、認められませんでした。
          違反する者は、厳しい取り締まりの対象となりました。
          ・日本語習得、天皇への忠誠を求める同化教育
          朝鮮半島の子どもたちに対しては、日本語の習得を義務づけ、天皇への忠誠を求める同化教育を行ないました。
          ・土地調査事業(土地所有制度の近代化)
          この時期、朝鮮総督府は土地調査事業を実施し、土地所有制度の近代化を図りました。すべての土地について所有者を確定し、地価を定めて税金徴収の基礎にしようとしたのです。
          その際に、所有者が不明確であると判断された広大な農地や山林が国有地として没収され、日本人の植民者や日本の企業に貸し付けられたり、譲渡されたりしました。
          ・米の増産(日本への原料・食料供給)
          朝鮮半島を日本の資本主義発展のための、原料と食糧の供給地に改編しようとしました。とりわけ、米の増産には力を入れ、大量の米を日本に運びました。この米の増産政策は、1920年代に入ると、いっそう盛んになります。

          こうした政策(武断統治)は1919年まで、およそ10年間続きました。
          1919年3月から4月にかけて、「三・一独立運動」という運動が、朝鮮半島の各地で起きました。
          発端は、3月1日、現在のソウルに宗教代表者たちが集まり、独立宣言書を読み上げたことです。その後、民衆のデモ行進、就業拒否、学生のストライキ、商店の閉店などが行なわれました。それに対し朝鮮総督府は、多くの軍隊・警察などを動員し、武力によってようやく鎮圧しました。
          しかし、日本はこれ以後、言論・文化・経済活動などに一定の自由を認める「文化政治」と呼ばれる新しい統治の方式を採用し、支配を安定させようとしました。

          1930年ごろ、「文化政治」に移行して10年ほど経ったころのソウル(当時は「京城」)は、1930年代の後半には、人口70万を数える大都市に成長しました。道路が拡げられ、路面電車が運行され、自動車や自転車が行きかうようになりました。この時期には、洋服を着てデパートやレストランに行くなど、近代的な生活を楽しむ人々も現れました。
          しかし一方では、都市の周辺部には農村などから多くの貧しい民衆が流入し、粗末な小屋で不安定な暮らしを営むことを強いられていました。
          また、「文化政治」による支配の安定を求める朝鮮総督府の意図に反して、朝鮮の人々がなおも、繰り返し独立運動・抗日運動を試みていたことも忘れてはなりません。

          1931年の満州事変以降、朝鮮半島は日本の大陸政策のための重要な拠点となりました。北部を中心に工業化が進み、戦争に必要な物資などが朝鮮半島で生産されました。そして、1937年に日中戦争が始まり、アジア太平洋戦争に発展すると、朝鮮半島の民衆もさまざまな形で戦争に動員されるようになっていきました。

            戦時下の朝鮮
            水豊ダム日本語の強要学徒勤労動員・女子挺身勤労令

            戦時中の朝鮮について、昔の「日本ニュース」の映像を見ていきましょう。
            中国と北朝鮮との国境にある水豊ダムは、1941年に完成しました。 当時、世界最大級の発電量を有し、朝鮮及び南満州に電力を供給しました。これは、日本が進めていた朝鮮北部の工業化に、大きく貢献しました。
            ダム本体は、60年以上経った現在も稼動しているといわれます。

            日中戦争から太平洋戦争へと続く戦時下、日本政府は、朝鮮の人々を天皇の臣民として戦争に動員しました。そのための政策を、「皇民化」政策といいます。
            たとえば、各地に日本式の神社が建てられ、そこに参拝することが求められました。
            また、戸籍制度を日本とほぼ同じ形にする「創氏改名」が行なわれました。このとき、多くの人々が、名前を日本風に改めたのです。
            そして、「国語は戦力だ」として、学校での日本語教育が徹底されました。

            1938年から、朝鮮では志願兵制度が採用されていましたが、1943年に徴兵制がしかれました。
            戦争末期には、朝鮮の人々にも参政権が与えられましたが、選挙は結局実現しませんでした。
            戦争が長期化して日本の労働力が不足すると、多くの朝鮮人が強制的に動員され、日本の炭鉱や工場、土木工事現場などで働かされました。

            1944年には「学徒勤労動員」「女子挺身勤労令」が実施されました。
            多くの学生や女性が軍需工場などに勤労動員された他、慰安婦として戦地の慰安施設に送られた女性もいました。

              戦時下の独立運動
              戦時下の抵抗運動・独立運動金日成、李承晩

              アジア太平洋戦争の時、日本は「国民総動員」で戦争に向かっていましたが、それは朝鮮の人々にも適用されました。労働者や兵士などとして、多くの朝鮮の人々が動員されたのです。

              朝鮮総督府による「皇民化」政策や戦争動員政策に協力する朝鮮の人々も一部に現われました。
              しかし、朝鮮の人々の抵抗運動や独立運動は、根強く続けられていました。
              国内では、神社参拝を強制する政策に対して、キリスト教徒たちが頑強に抵抗しました。獄中で亡くなる者も、少なくありませんでした。
              1944年には、解放後の新国家建設を目指す秘密結社である「建国同盟」が結成され、
              数万人が加わりました。
              この組織は、日本の統治の終了と同時に、朝鮮総督府に代わって、治安の維持や生活の安定など、朝鮮の人々の自治機関の役割を果たすことになります。

              また、国外にあって、独立運動や抵抗運動を行なう人々もいました。
              後に北朝鮮の首相となる金日成(キムイルソン)は、満州で「抗日パルチザン」という一種のゲリラ組織を率いて、日本や満州国の軍隊と戦いました。
              金日成は後には、ソ連領内に移って解放後の準備を進めます。
              後に、韓国の初代大統領となる李承晩(イスンマン)は、アメリカにあって、連邦議会に、朝鮮の独立に対する支援を働きかける活動などを行なっていました。

              さらに中国の重慶では、国民政府の蒋介石と協力して、大韓民国臨時政府という団体が独立運動を続けていました。
              中国の延安で、中国共産党の毛沢東たちと一緒に抗日戦争を戦った朝鮮人もいました。これらの抵抗運動は、終戦まで続きました。

              1945年8月15日、日本の敗北によって、アジア太平洋戦争が終わりました。
              そして朝鮮半島は、35年間に及んだ日本の植民地支配から解放されました。
              しかし、解放の喜びを味わう間もなく、朝鮮半島の人々の前には大きな苦しみが待ち受けていました。

                分断国家の成立〜現在
                金日成日韓基本条約南北首脳会談

                1945年8月、アジア太平洋戦争の終戦間近に参戦したソ連は、満州から朝鮮北部へと兵を進めてきました。
                ソ連が朝鮮半島全土を占領することを恐れたアメリカは、北緯38度線を境とする分割案を提示。南側はアメリカ、北側はソ連が占領統治することになりました。
                米ソの対立=冷戦が激しくなっていくと、朝鮮半島に統一国家を作ることは難しくなります。
                1948年には、南で大韓民国、北で朝鮮民主主義人民共和国が、それぞれ建国を宣言し、対立する状態となったのです。

                1950年、北朝鮮が南への攻撃を開始。朝鮮戦争が始まりました。
                一進一退の後、戦争は膠着(こうちゃく)状態に陥ります。
                1953年7月27日、休戦協定が結ばれました。
                この結果、北緯38度線付近で南北の分断が固定され、現在に至っています。

                朝鮮戦争後、北朝鮮では金日成に権力が集中し、社会主義経済建設が進められました。当初、経済成長は順調でしたが、1970年代半ばから停滞し、国民生活の困難が続いています。1994年に金日成が死去した後は、息子の金正日(キムジョンイル)がその地位を受け継ぎました。

                一方、南の韓国では、1961年に軍の若手将校がクーデターを起こして政権を掌握。
                以後、軍人出身の大統領による政権が続きました。
                1965年には、日本と「日韓基本条約」を結び、国交正常化や経済協力などを取り決めました。
                その後、韓国は、日本・アメリカと結んで経済成長を遂げていきます。
                1993年には軍事政権が終わって民主化され、国民生活も豊かになってゆきました。

                南北の対話は、1971年以降断続的に行なわれ、1991年には両国が同時に国連に加盟。2000年、戦後初めて、金大中韓国大統領と金正日北朝鮮総書記との南北首脳会談が行なわれました。
                両国の経済協力も進められています。南北対立のため線路が分断されていた京義(キョンウィ)線が再び開通し、2007年12月には、定期貨物列車の運行が始まりました。

                  まとめ
                  第36回テーマ

                  南北別々の国となって60年。韓国と北朝鮮の人々の暮らしぶりや考え方には、大きな違いが現れています。国の仕組みも、まったく違います。
                  南北の対話が重ねられる一方で、協力や統一がそれほどたやすいことではないことも明らかになっています。

                  <今日のまとめ>
                  ・朝鮮の開国と近代化の挫折
                  ・韓国併合と日本の植民地支配
                  ・分断国家の成立と南北関係


                  日本と韓国との間では、1980年代以降、歴代の両国の首脳が相互に訪問し、会談を行なっています。
                  日本と北朝鮮との間では、いまだ国交がありませんが、2002年以降、首脳会談が開かれるようになりました。
                  その一方で、韓国との間では、竹島・独島問題や教科書問題、北朝鮮との間では日本人拉致問題や核開発問題など、未解決の課題も少なくありません。
                  日韓・日朝相互、それぞれの国内でも、人々の間で歴史認識が対立し、問題を複雑にしています。
                  これをすぐに解決することは容易ではありませんが、基本的な史実を正確に把握することが、隣国との対話の出発点になると思います。

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