三河島と焼肉・在日
荒川区の外登者数は1万130名、在日同胞数は6895名。荒川区は都内有数の在日居住区である。三河島近隣は戦後の動乱期〜昭和30年代は日雇労働者、職人の多く住む地域で、在日でも特に済州島出身者が非常に多い土地柄。理由はすでに伝説になっているらしいが、戦前、済州島北済州郡涯月面の高内里という村の若者が三河島に渡って来たのが始まりといわれる。その人物が軍需関係の仕事に携わっていたため日本の当局に顔もきき、彼のコネで故郷、高内里の親族・友人たちに渡航証明書を発行させて呼寄せたからと語り継がれている。もちろん済州島人の移住のピークは1948年の済州島4・3蜂起の翌年。三河島では現在53軒の(荒川民団調べ)焼肉店が小路に2、3軒づつ肩を寄合うように点在し、三河島独自の下町焼肉文化が今も栄えている。
1883年(明治16年)、三河島に日本家畜市場株式会社・笠原工場が最初に設立。1887年(明治20年)には大野製革工場、1890年(明治23年)には現在の尾久変電所付近に屠殺場、関連事業の皮革工場、肥料工場、油脂工場が作られ、のちにカバン製作を中心とした皮革業が地場産業として三河島へ分散していく。昭和54年には三河島の皮革工場数は456軒にも激増した。当時の日本人にとって食習慣のない地場産業の副産物といえる屠殺場から排出される豚の耳、しっぽ、内臓等は在日にとっては、思いもかけぬ貴重な食材だった。これらの上手な食べかたを知っているのは彼らだけだった。三河島の焼肉文化は地場産業をささえ居住する同胞たちが、貧しさのなかから、工夫し、そして故郷をなつかしむ食べ物として1960年代の高度成長期を境に発展していく。
三河島駅ができたのは1905年。その最初の目的はぼろ、紙屑等の貨物移送が目的だった。ホームから見える20年ぐらいはかかげっぱなしの「補身湯」の看板に敬意をはらい、駅を出る。右手には荒川民団事務所である韓国会館ビル、左手にはハングル看板ひしめく東京一物価の安い仲町商店街とコリアマーケット。三河島の戦後の歴史はコリアマーケットと共にある。1950年代にはバラックではあったが営業を開始、60年代半ばにマーケット全体が燃える火事があったものの、それを機会に在日同胞たちが一丸となり、区に二階建の建設申請をした。戦後の復興、南北の動乱、共和国への帰還、現在とマーケットは全てのうつりかわりを見ていることになる。
焼肉で町興し
三年ほど前からか三河島では町興しイベント、焼肉がたったの500円ぽっきりで食べ放題「焼肉フェスティバル
in 荒川」という民団主催の催しが11月末に行われ、毎年1000人以上の人々が列をなし、押すな押すなの大にぎわいとなる。炭火で焼いたあつあつの焼肉、キムチの無料配給、ビールは別料金〜!!とまるで「ヨーデル食べ放題」(桂
雀三郎)の歌にでもでてきそうなノリでみんな興奮する。これからもずっと三河島の年末の風物詩になるだろう。
三河島在住40年、町興しネット「日暮里ネット」(http://www.nippori.net/)の主催者、許寿卿(日本名:坂)さんは「基本的に町並みも路地の道幅も昔と全然変わってないね。在日居住区と長屋が混在する通りはハングルばりばりで、周囲の町の環境とは明らかに違う雰囲気をかもしだしたまま。僕が子どものころの焼肉屋といえば、ホルモン焼の印象が強くて「じゃりん子チエ」にでてくる、汚いけど安くておいしい、人情味があるといった店の感覚が一番近い。」と語る。
許寿卿さんが幼なじみだからという、口添えで、三河島の焼肉屋で一番古く、「東京一安くておいしい」と評判のお店、知る人ぞ知る、焼肉「山田屋」のご主人、山田昌治さんがインタビューをしぶしぶ承知してくださった。
今回はお店本来の方針で、長年取材全面拒否を守り続けてきたということにより、住所、電話番号等もあかせないし、写真も限定、もちろんレシピはなしであるが、読者にはご承知いただきたい。(根性あれば探しだせるだろうし。) |
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1.お店はどのぐらい古いのでしょうか?
ワンオーナーという意味では三河島で一番古い店といえます。1964年(昭和39年)にオープンしました。お店の“のれん”は現在も開業当時のものを染直して使っています。父は済州島からきた在日1世で、母は日本人。当時の1世は半島に残してきた「複雑な事情」も沢山あり、それを母は理解したうえで父と所帯をもちました。ですからわたしは日本国籍の日本人です。わたしが5歳の時に千葉・勝浦に家を建てて、ラーメン屋でも始める予定だったのですが、新築中に家が火事にあい、家もない、家財もない、お金もないというひどいありさまで、一家は親戚を頼って三河島に住みついたのがきっかけです。店をオープンして翌年には父が突然の急死。その後を母が一人できりもりし、わたしも高校を卒業してすぐに家業を手伝い、6年後に二代目になりました。
妻とは近所の知人が経営する喫茶店で知合い、結婚しましたが、ごく普通の家の娘さんが急に焼肉屋でグロテスクな内臓などをあつかって、酔っ払いとか在日の人とか相手に接客業もしろというのはビビリますよね。結婚式の2、3日前に逃げられそうになったのですが、なんとか思いとどまってくれました。妻は「逃げ切れなかった。」とかいっていますが。(笑)家族全部で店にかかりっきりなので子どもたちには寂しい思いをさせていますが、それなりにわかってくれているとは思います。ですから、子どもはいますけど、三代目はどうなるのでしょうね?未定です。 |
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2. お店独自のメニューを教えてください。
山田:父が済州島の食べ物をなつかしんで、お客さまにだしたのがはじまりですが、トセッキフェとモンクク(600円)というのがあります。
高:朝鮮半島の食肉ですが、半島本土は今では豚も庶民の間でよく食べられますがもともとは牛が主流。一方、済州島は養豚が歴史的にも有名で、豚食が主流ですね。もちろん大昔は、牛でも豚でも肉が食べられるのは一部のお金持ちや高貴な人々に限られていましたが。
山田:豚食のなかでも豚の胎児、子袋刺などの生もの料理は済州島独特の郷土料理といっていいでしょう。一般にセッキフェというと牛の胎児を想像しますが、正確には牛の場合ソ・セッキフェといい、済州島ではト・セッキフェといって豚の胎児のことをいいます。
豚を大量に屠殺したときに、何匹かは妊娠したままの豚がいますのでその腹子(胎児)を使います。胎児を刺身のタタキにして羊水とユッス、酢醤油でのばして食べるのですが、この羊水というのがちょっと味をみるとうっすら塩味があって、無菌状態なので生で食べても安全なわけです。
高:セッキフェは話だけで私は食べたことがないのですが…ちょっと…うぅ。
山田:胎児というとゲッと思うかもしれないですが、脂のはいった、ひんやりしたトコロテンのような食感で、とても精がつく食べ物です。一頭の豚から多くても7〜8匹しかとれません。10cmぐらいの大きさのものがおいしいです。
高:セッキフェというのは屠殺するときに栄養価がとてもある部分を捨てるのはもったいない、有効に食材をとろうという朝鮮・韓国独自の昔からの生活の知恵でしょうか。
山田:豚の小袋も新鮮なものは臭みがないので、済州島では刺身にしますし、子袋の上部卵管は焼くとザクザクした噛みごたえのある珍味になります。これをうちではコリコリ焼といって出しています。モンククという海藻のホンダワラと豚の小腸で煮込んだ黄味がかった白いポタージュ風味のスープもうちの店ならではの冬の済州島の名物料理です。 |
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3. 全盛期のようすはどうでしたか?
ト・セッキフェが全盛期の人気メニューでした。一杯500円で1日60kgも売れました。昭和44,5年でセッキフェだけの売上げが平日は日に4万円、日曜は7万円ありました。東京近辺の在日1世でうちのセッキフェ食べていない人は“もぐり”です。あははは。
行列は10人から20人程度しかできないですね。みなさんグループでくるから。朝鮮総連と民団の仲が特に悪かった時代、昭和30年代ごろかな?故郷の味をなつかしんで彼らが北、南関係なく来てくれていました。でもね、やっぱりイデオロギーの違いで最初は野次や口論なんだけど、後は手がでるケンカになり、キレた母が「亭主は韓国人だけど、わたしゃ日本人なんだよ。おまえたちの争いにはわたしは関係ないんだから出て行け!!」とすごい剣幕でお客さんたちを外へ引きずり出したりしていました。
わたしが二代目になってからは、酔ってグデングデンの不法就労の1世の人を店で酔いつぶれて警察のごやっかいになっては身元がバレて強制送還されてしまうと、つい心配し、なんとか引きずって家の車庫にかくして寝かせておいたりとか。ちょっと想像できないと思うけど、電信柱に抱きついてオシッコもらしてそのまま寝ている浮浪者に近い酔っ払いが通りのあっちこっちに、といったすごい風景がこの界隈に見られた時代もありました。
お父さんが早くに亡くなったことを思うと、1世の男たちの姿がマスターにとっては父の姿にかさなるのだろう、なんだか切なくなってくる。 |
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4. お店のウリは?
88年のオリンピックを境に、食堂、居酒屋などニューカマーのお店が堂々と界隈に増えました。それはそれで、うちにはない、おいしいメニューを提供しているわけですから共存できればそれでいいです。「これがおいしい」「これがトレンド」だとか、心配してうちもやったらというお客さんもいますが、よそのマネをして韓国料理のなんでも屋になってしまえば、景気に左右されて共倒れになりかねないし。2002年とか、あまり全体的な景気には頓着していません。
父親の代から大宮の中央食肉市場(当時は屠殺場とよんだ。)に特別なコネがあって出入りが自由なんで、毎朝7:30には大宮へ仕入れにでかけます。卸業者さんしかはいれないところを、包丁をもって抜け目なく歩きながら、好みの肉の部分を自分で切ってもってきます。普通の肉の卸屋さんがあつかわないような部分をバケツにどさっと仕入れてもってきたり、自分の目でみて、一番いいところの肉を値切り、もう有無をいわせないで買ってきちゃいます。牛のコメカミ蒸しなんか、市場のまかない食だったのをこれはイケルと思ってメニューにしたんです。しかし、一日にわたし一人が仕入れる新鮮な肉の量は限られます。そんなわけで、うちは予約を中心に、材料がなくなり次第、お客様には申し訳ないですが20〜30人でも断ったこともあります。
でも、全くお客さんが来ないという日もありますよ。そんな時は「神様がきっと今日は休みなさいっていっているんだよ、みんな休もうよ。」とのん気にすごしています。セッキフェは在日1世がお年をとってきたこともあり、食べる人も徐々に減り、O157事件もあったりして3、4年前からやめました。時代のうつりかわりを感じます。 |
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5. 最後になにかありましたら…
開業以来、雑誌・新聞・テレビも全面取材拒否という方針です。
そういえば、勝手に2度ほど載ったことで生前の母が激怒したこともありました。許寿卿さんとはかれこれ20年以上のつきあい。この町では古くから住んでいる在日はみな知合いだし、親戚付合いに近いものがあるんです。新鮮な内臓・ホルモン類には材料入手の限界がありますので、お客様にまんべんなく食べてもらえるようにお客様には、予約の時間と人数はかならず守って来てくださるようお願いします。
牛のセキズイ刺、100頭つぶして1、2頭しか手に入らないしっかりとした霜降で、分厚い極上ハラミ、姿はレバーに似ているが、レバーよりも弾力があり、ほんのりミルクの香りもして食べやすいチレ(脾臓)焼き、やわらかいアワビのような第一胃袋のコーナー部分のみを使った贅沢なヤン焼き、一頭で2つしかとれないミルク味の牛のコメカミ焼き&蒸し、テール蒸し、いったいどこの焼肉店がこんな極上の焼肉アイテムをいくつももっているだろうか?親から子、子から孫へ、地元の長いつきあいを大事にしているご主人。焼きものも、生ものも厳選された極上品。奥様、スタッフはみな気さくでいて、やさしい。山田屋は総合的にいっても「東京で一番おいしいっ!!」と大絶賛するお店といえる。
だから本当はわたしだって、だれにも教えたくないとういうのが本音だ。ご主人からも「あまり広めないでくれ」といわれているし…。
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