◆日本人で初の所長
国際司法裁判所(ICJ)判事の小和田恒氏(76)が、日本人で初めて所長に選出された。15人の判事による互選で決まり、任期は3年だという。
◆「カネの力」の妄念
外務省担当記者だった経験から、一瞬「そんな投票までカネの力が及ぶのか」という疑念がアタマをよぎった。日本が国連安保理非常任理事国に選出されたり、日本人が国連機関のトップに選ばれたりする場合、ほとんどが「札束攻勢」の成果なのである。
◆IAEA事務局長獲得に大作戦
どうやらいま日本政府は、3月に行われる国際原子力機関(IAEA)事務局長ポスト獲得に乗り出しているらしい。エルバラダイ現事務局長(エジプト人)の後任候補にウィーン国際機関政府代表部の天野之弥大使(61)を擁立して、南アフリカの対抗候補と激しい選挙戦を繰り広げているという。
麻生首相が昨年9月の国連総会演説で、天野擁立を発表。直後に開かれたIAEA総会では、政府代表の松田岩夫・元科学技術担当相が演説し「ユキヤ・アマノ、ユキヤ・アマノへの支持を」と8回も連呼したという。外務省は中曽根外相を本部長とする「選挙対策本部」を設置、作戦会議は毎週開いている。天野PRの英文パンフレットを約3千部刷り、理事国などにばらまいている。
◆「援助」で買収の例も
この選挙の場合、投票権を持つのはIAEA理事国となっている35カ国だから、「援助の約束」という買収作戦はないのかもしれない。しかし国連加盟国すべてが投票権を持つ安保理理事国選挙の場合など、「援助」名目で札ビラを切った集票活動を展開する。
◆小和田氏に高い評価
まあこれは、私が疑っただけで、ICJ判事に札束攻勢が効くとは思えない。国際法について小和田氏の学識はたいへんなものがあると聞いていた。判事としてともに仕事すると、その実力がわかるのだろう。いたずらな疑念は捨てて、まずは「おめでとう」と言おう。
◆最長記録の前任・小田氏
小和田氏の前、日本人判事だったのは小田滋氏。1976年2月、東北大教授から任命され、03年2月まで、3期27年間も在任した。ICJ判事として最長記録だという。
◆小田氏への「辞職勧告攻勢」
1990年代後半、小田氏に対する「辞職勧告攻勢」が激しく展開された。さまざまな方面から、「自発的に辞職せよ」という圧力がかかってくるというのである。それが週刊誌ネタになったりしたが、圧力の「震源地」は例外なく外務省だった。小和田氏の退官は99年2月だったが、「退官と同時に国際司法裁判所判事に就任」という理想のコースを実現させたかったらしい。日本人判事2人というわけにはいかないから、小田氏の存在が邪魔だったのだろう。
◆動かなかった小和田氏
当時の週刊誌が、小田氏の「外務省は卑劣だ。こうなったら絶対に辞めない」という言葉を記事にしていたと記憶する。小和田氏は当時、国連大使になっていたが、外務次官経験者。この辞職勧告攻勢を知らないはずはない。「現職次官に電話でもして、止めさせればいいのに」と思ったものだ。
◆旧華族の外交官夫人たち
小和田氏と同年配の外務官僚の妻には、旧華族が多い。その理由を旧華族出身の「奥様」の1人に直接訊いたことがある。答は「お后逃れなのよ」だった。
天皇が皇太子だったころ、お后選びが話題になっていたのは昭和30年代前半。現皇后(正田美智子さん)が浮上するまでは、旧華族のお嬢さんたちが噂になっていた。
◆お后にならない確実な方法
「私の家もそうだったけど、終戦後は貧しい生活になったのよ。華族制度は崩壊したんだから、旧華族という家柄はあっても、収入は伴わないでしょう。娘が皇太子妃になると、<お支度>にはたいへんなカネがかかるの。そんなことできないから、お后になんかできない。絶対に皇太子妃にならない方法って分かる? アンタ馬鹿ね。そんなこともわかんないの? 娘をフツーの男と結婚させればいいのよ。私の父も、つてを求めて独身外交官を探してきてさ。むりやりOKを言わされたのよ」
という説明だった。小和田氏もこんなことを知らないはずはない。
◆「皇室外交の主役」の道を勧めた?
その知識がありながら、雅子さまが皇太子妃候補として浮上してきたとき、どういう選択をしたのか? 「別の道を考えよ」という意見ではなかったのだろう。逆に「将来皇后として、外国の元首や元首夫人と接することこそ、最大の外交だ。一外交官であるより、大きな外交活動ができる」という積極的意見だったのかもしれない。
◆皇室は最高の外交リソース
外務官僚の中では、「日本の皇室は、最強の外交リソースだ」という考え方が根強い。リソースはresourceで、手近な英和辞典を見ると、「資源、資産」などということになっている。組織・集団のリソースということになると、一つの目的のために利用できる人、物、カネということになる。
「最強の外交リソース」というのは「外交にとって最強の武器だ」という言い方に近いだろう。
◆アンカレッジに出向いて天皇と会見したニクソン
例えば1971年9月27日、昭和天皇は欧州7カ国歴訪の旅に出たが、往路の途上、飛行機の給油のため、アンカレッジに立ち寄った。このとき米国のニクソン大統領がアンカレッジまで出向いて、昭和天皇と会見したのである。米国の大統領がこんな行動をとったのは異例中の異例で、それ以前も以後もない。
「世界最強の権力者」であることを自他ともに認めているのが、米国大統領なのだ。諸外国の首脳に対しては「会いたければワシントンに来い」という態度をとっている。それなのに相手が天皇なら、給油のため立ち寄ったアンカレッジにまで足を運んだのである。
◆「天皇のお言葉」の威力
中国・韓国の要人たちが来日するたびに、宮中晩餐会での天皇の「お言葉」が問題になる。しかし天皇が言うからこそ「過去の不幸な時代」といった言葉ですんでいる。それがなければ侵略や植民地支配に対する、より具体的な謝罪が求められているはずなのだ。
私自身は「晩餐会のお言葉」という言葉はできれば使いたくない。英語では「ディナーのスピーチ」なのである。しかし「お言葉」の威力もあることは認めざるをえない。
◆皇室外交展開の夢
こういう認識の下では、「皇室外交」は重要だということになる。外交官としての考え方、行動の仕方を身につけていた雅子さんが皇后となって、「皇室外交」を展開するというのが、父、小和田氏の夢だったとしても、うなづけないことはない。
◆「産む機械」扱いの宮内庁官僚
しかし現実に皇太子妃となった雅子さんが直面しなければならなかったのは、宮内庁官僚の「産む機械」扱いだった。宮内庁の幹部たちが、皇太子妃は妊娠・出産を何よりも優先しなければならないという考え方に凝り固まり、「外国訪問などとんでもない」という姿勢を示したという事実があったのだろう。だからこそ皇太子が「人格否定」発言をしなければならなかったのだと推測できる。
◆前向きで上昇志向が強い
こうしてみると小和田氏は、「どんな場合でも前向きで、断ることを知らない人だな」という印象を持った。言葉を変えれば、「上昇志向が強い」という意味になる。
私が外務省を担当していたとき、小和田氏は条約局長だった。もともと「学究肌」という人は苦手だから、じっくり話す機会もなかった。必然的に直接聞いた言葉で、印象に残るものなどない。
◆条約局から警告文書
小和田局長時代ではなかったかもしれないが、私の外務省担当時代に、条約局が他局にあてて「警告文」を発したことがあった。その主旨は、「さいきん各局で、条約局との事前相談なしに、相手国との共同文書を発表するケースが散見される。諸外国との共同文書については、既存の条約に違背する内容がないかどうか、条約局が確認することが原則だということを再確認してほしい」ということである。
ある外務官僚が「こんな文書を出して逆効果でしてね。<そうか、条約局に相談しない連中もいるんだ。わが局でもそうしよう>なんてところがどんどん増えましてね」と言いながら報告してくれた。
◆「外交をやるなに等しい」
他の外交官からも、「要するに条約局のやっていることは、時代に即した新たな外交展開をさせないだけ。<日英安保条約との関係で問題だ>とか<憲法に抵触するおそれがある>とかクレームばかりつけてくる。外交をやるな」と言うに等しい、という声を聞いたこともある。
小和田氏は順当に次官になったと言われるが、外交の現場で活躍したという話は聞かない。
◆一判事の仕事にこだわった小田氏
前任の小田氏にも、ICJ所長の声はかかったという。しかし「一判事としての仕事を続けたい」と断った。判事としては、多数意見に反対する少数意見、判決を補う個別意見を多数書いた、特徴的な存在だったという。
小田と小和田。名前はよく似ている2人が、同じICJ判事となった。人がらはかなり違うようだが、ともに評価の高い点が共通していることは喜ばしい。
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