東日本大震災の津波で壊滅的な被害に遭った、いわき市東南部の平薄磯地区。海沿いの市立豊間中学校は学校の機能を近隣の中学校に移した。「バレーボール大会出場」を祝う垂れ幕がかかる元の校舎に人の気配はない。校庭には今もがれきが置かれていた。いつ撤去するかはまだ決まっていないという。
美空ひばりさんの名曲「みだれ髪」でも歌われた「塩屋埼灯台」に近い同地区は、海水浴場や民宿が建ち並び、震災前は市内の観光名所だった。だが昨年3月11日に発生した津波は集落280世帯のほぼすべてをのみ込み、116人が犠牲になった。まだ行方が分からない人もいる。
伊達巻き工場を経営していた志賀隆一郎さん(79)は病院に行くため自宅を離れていて、震災に遭った。車のラジオで大津波が来ると知り、自宅に電話するがつながらない。集落の住民が避難していたゴルフ場に何とかたどり着いたが、自宅にいたはずの妻(77)は見当たらなかった。
翌朝、見慣れた集落は「見渡す限りがれきで、死体がいくつもあった」。妻が工場のがれきの下から見つかったのは震災から10日以上後だった。「悲しいのを通り越して、ただぼうぜんとした。でも見つかってよかった」。妹(70)、弟(65)も津波で失った。
津波で亡くなった区長に代わり、遺体収容やがれき撤去などに休みなく取り組んだ。だが、同じように津波被害のあった宮城、岩手両県や、原発事故で避難を強いられた福島県内の他の市町村に比べ、地区の被害が報道などで取り上げられることは当初ほとんどなかった。「見捨てられているんじゃないか」と不安が募った。その後取材に来た報道関係者に「今ごろ何をしに来たのか」と声を荒らげたこともあった。
その中で忘れられない人たちにも出会った。7月ごろ熊本から高速道路を飛ばして駆けつけ、がれきの撤去を手伝ってくれた3人の親子ボランティア。「わざわざ九州から来てくれるなんて。われわれにはできないなと思った。感動して言葉にならなかった」
現在、この地区では裏山を削った高台に地域を移転させる計画が持ち上がっている。だが漁師たちは原発事故の影響でいまだに漁ができない状態が続いている。既に別の場所に引っ越すことを決めた人もいるという。
「土地があっても仕事がなければ人は戻ってこない。この先どうなるのか」。志賀さんの悩みは深い。
支援の問い合わせは地区の災害復興本部0246・39・4577。【勝野俊一郎】
毎日新聞 2012年1月31日 地方版