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  作成日時 : 2005/07/27 15:46   >>

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 「宗教学」は「哲学」や「倫理学」にくらべるとずいぶん新しい学問です。「哲学の祖」とされるタレスも「倫理学の祖」とされるソクラテスも紀元前の古代ギリシアに生まれた人物ですが、「宗教学の祖」は19世紀のヨーロッパに登場しました。「宗教学」は近代の学問のひとつとして生まれたわけです。
 一般に「宗教学」の提唱者(学祖)はマックス・ミュラー(1823-1900)とされます。1870年ミュラーはイギリスにおけるある講演中に「諸宗教の比較研究」の重要性を指摘し、Science of Religionを提唱したとされています。この提唱を受け、わが国でも1896(明治29)年には「比較宗教学会」が設立され、今日の「日本宗教学会」にいたっているわけです。日本大学では1917(大正6)年、専門部宗教科が設置され、以後幾度かの組織変えを経ながら今日の文理学部哲学科の中の宗教学にいたります。
 宗教学はヨーロッパに生まれました。宗教学の教科書の多くは宗教学成立の遠因に16世紀の「宗教改革運動」やヨーロッパ人にとっての「地理上の発見」をあげます。「宗教改革運動」は西ヨーロッパを覆っていたカトリック教とは異なるキリスト教(プロテスタント)を生み出し、権力ある者はその国家の宗教を選ぶことができるようになりました。また「地理上の発見」はキリスト教やユダヤ教、イスラームといった同種の「一神教」とはまったく異なる類いの宗教が世界に存在することをヨーロッパの人びと(知識人)に知らしめたできごとでした。16世紀ヨーロッパの二つの出来事は「宗教」を「多様化」し、また「相対化」する第一歩となったと考えられます。もっともこの段階はいまだ「宗教学」には遠いものです。「多様化」したとはいえ、カトリックとプロテスタントとは「どちらが正しい宗教か」を競い、「相対化」したとはいえキリスト教以外の宗教はなお「異教」であり「誤った宗教」として、せいぜいが「劣った宗教」として「発見」されたに過ぎないからです。
 この「正しい」とか「誤った」とか、「優れた」とか「劣った」とかそういった価値判断を捨てて比較することから宗教学は生まれました。「価値中立的」にといわれます。もっとも「価値中立的」に宗教を観ることは思いのほかに難しいものです。特に、自分の生まれ落ちた文化の宗教を宗教と認識して客観的に観ようというのははなはだ困難なことです。日本人は「無宗教」だという者が多くいます。しかし、その日本人の81%がこの1年間に墓参りにいったと回答し[朝日新聞、1995年 (石井1997:188)]、56.9%が「家の祖先には強い心のつながりを感じる」と答えます(NHK放送文化研究所1997:65)。それでいて「何か宗教を信仰している」という者は36%にとどまるわけです(同:69)。祖先崇拝の行動を取りながらそれを宗教とは観ていないというのは単に「習慣」あるいは「習俗」だからという意識とともに、自分の生まれ落ちた文化の宗教は当たり前すぎて、自然にすぎて特に「宗教」とはみえないということを示しているのかも知れません。イスラーム教徒のメッカ巡礼をすごく宗教的だなと感心しながらながめる日本人の多くが1月のわずか3日間ほどに神社に巡礼する。それでいてイスラ−ム教徒は分からないと思うわけです。
 自分の生まれ落ちた文化の宗教を「宗教」として客観的に観るには異なる宗教という「鏡」が必要になります。そこに、「比較」の重要性があります。それでも自分の宗教が当たり前な「習俗」で他者の宗教は変わっていると思うのでは客観的に比較しているとはいえないでしょう。自分の生まれ落ちた文化の宗教をも「宗教」として一度はつきはなして、他の文化の「宗教」と同じ立場から比較してみる、そう出来てはじめて客観的に比較したといえるのではないでしょうか。
 宗教を研究するにもいろいろな立場があります。自分の宗教を信じる立場からの研究もあるし、特に宗教を信じてはいなくとも特定の哲学的立場から宗教を論じようとする者もいます。「宗教学」はといえば、そのどちらの立場もとりません。自分の宗教をつきはなして観ることについては上に触れましたが、何らか特定の「哲学的」立場から観ることもしません。多くの哲学者が神を論じ、宗教を論じてきました。しかし、そのほとんどは実証的なものではなく、思弁的なものにとどまっていました。宗教学は思弁的ではなく、実証的であろうとします。だから、宗教学は神の存在を論じたりはしません。そもそも宗教学には神の存在を証明したり、否定したりすることなど「出来ない」のです。
 宗教学はScienceたることを標榜します。ということは、観察することも実験することも出来ないようなものはその研究対象とはならないということです。宗教学は「公開性をもった、実証的に観察可能な対象」(岸本1961:3)を研究すると表現されています。もちろん宗教学者が対面する研究対象者は神を信じていたり、霊的存在の活動を信じていたりします。信じているということは事実であり、そのような人がどのようにものを考え、行動するかということは観察できます。しかし、その人の信じている神なり霊なりの存在は実証的に観察し得るものではありません。宗教学者はそれらの存在については「留保」的態度をもって臨むのが普通です。
 宗教学は「記述的」学問であるといわれます。上に触れたように宗教学は宗教の正誤・優劣は問いません。宗教学は宗教がいかに「あるべき」かを問う学問ではなく、宗教がいかに「あった」か、あるいはいかに「ある」かを問う学問だといわれます。
 宗教学は様々な学問的方法を用いて宗教現象を探究します。それが過去の現象ならば文献学、歴史学、言語学といった学問の方法が役に立ちますし、今生きて動いている宗教現象ならば心理学、社会学の方法が有益でしょう。地理学やら精神医学やらがかかわってくることもあります。もちろん、ひとりですべての方法論を用いた研究などできるわけがありません。近年はいろいろな学問の立場にたつ研究者が共同研究のプロジェクトを組んで研究にあたることが一般的となったようです。
 これから宗教学の基礎を学ぶみなさん。宗教学という学問の立場を理解して、基礎的用語や理論、それに研究の方法をきちんと学んでください。まず、宗教現象に対する「思い込み」を捨ててほしいと思います。その上でScienceの目で宗教現象を観る面白さを感じ取ってもらえれば幸いです。

*日本大学文理学部哲学科における宗教学関係の授業は哲学科内の宗教学としての立場から宗教の哲学(思想)を中心に扱っています。

石井研士1997『データブック 現代日本人の宗教』(新曜社)。
NHK放送文化研究所1997『現代の県民気質 −全国県民意識調査−』(NHK出版)。
岸本英夫1961『宗教学』(大明堂)。



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