 |
 |
 |
 |
 |
| 門田 博光(かどたひろみつ) |
1948(昭和23)年2月26日 山口県生まれ
左投左打 外野手
背番号の歩み
(南海)27→(南海)44→(南海)60→(オリックス)78→(ダイエー)53 |
| 小学校の頃からプロ野球を目指し、中学、高校(天理高校)と野球部に籍をおいたが目立った成績もなく、ホームランも公式戦はおろか練習試合でさえも打つことは出来なかった。 |
 |
1966(昭和41)年倉敷レイヨン入社
プロを目指し野球漬けの生活を送る
1969(昭和44)年南海ホークスからドラフト2位指名され念願のプロ野球選手となる。(ちなみに1位指名は佐藤道郎投手で、この年は田淵、星野、山本浩二などドラフトの当たり年でした) |
プロ1年目は、ゲームの途中ヘッドスライディングで右肩脱臼の故障の為79試合と公式試合の半分しか出場できなかったが・・・
2年目には129試合に出場、打点120で打点王、ベストナインを受賞するなどの活躍で、南海の中心打者となる。
以後、強打の外野手として70年代に5度の3割と4度の20本塁打以上を記録パ・リーグの看板打者として活躍し、1976(昭和51)年オールスター第2戦では4安打を放ちMVPも獲得。 |
 |
 |
しかし、10年目の1979(昭和54)年2月のキャンプ練習中に、右アキレス腱切断のアクシデントで約3ヶ月の入院と約半年のリハビリを経験。
|
その休養期間には、今までの野球中心の生活から一転、時間に余裕が出来たこともあり、お酒を飲みに行く機会や人との交流を通じて、他人の意見や考え方を素直に受けいれる門田に成長し、心身共にリフレッシュして、9月に一軍復帰
野球が出来なかったこの期間が門田の野球人生で一番のターニングポイントとなった |
再起後は、'走れない'ならホームランバッターとして一発長打にかける野球人生が始まった。その復帰戦は対近鉄戦で日生球場、鈴木啓二より、カウント0−3からまっすぐに狙いを絞り再起戦でいきなりホームランを打つ。
その年は19試合しか出場機会がなかったが打率0.278、ホームラン2本(内1本は満塁ホームラン)と周囲を驚かせた。 |
 |
翌1980(昭和55)年には自己最多の41本塁打を放って完全復活翌1981(昭和56)年には7月に月間16本塁打の日本記録をマークするなど、シーズン44本塁打で初の本塁打王に輝いている。
さらに1983(昭和58)年には40本で2度目の本塁打王となる。 |
 |
40歳を迎えた1988(昭和63)年には打率.311、44本塁打、125打点で2冠王に輝き、チームが5位ながらMVPを獲得。「不惑のアーチスト」「中年の星」と賞賛された。
そして、1989(平成01)年にオリックスに移籍。
1989・90年に33・31本塁打と2年連続30本塁打以上を放っている。 |
1989・90年に33・31本塁打と2年連続30本塁打以上を放っている。
翌1991(平成03)年は再び古巣のダイエーに戻って2年間プレーし、1992(平成04)年に目の衰えを理由に44歳で現役引退。 |
2006年(平成18)年殿堂入り。
左打席で豪快にバットを力いっぱいボールに叩きつける打ち方は、常に本塁打を意識したフルスイングで、普通なら体力が衰える40代になっても豪快な本塁打を放ち続けた。
ホームラン記録は王氏(現ダイエー監督)、野村氏(現楽天監督)に続き史上3位の567本を打った。 |
|