2012.1.30

■ 経営の哲学としての学説・理論 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 11:15:57 ( 企業経営問題の分析・研究 )

 ◎ 日本的な経営理論としての山本安次郎の提唱 ◎

 【 戦争と学問,歴史と学者 】

 ① 経営哲学学会編『経営哲学の授業』2012年1月

 1) 経営学者の経営哲学しらず
 先日,経営学史学会創立20周年記念として企画・刊行されはじめた,その第1冊めの「経営学史叢書」Ⅳ,経営学史学会監修・藤井一弘編著『バーナード』(文眞堂,2011年12月30日)が,著者より献本されてきた(感謝!)。実は,その数日まえには経営哲学学会編『経営哲学の授業』(PHP研究所,2012年1月12日)も,こちらはこの学会に所属する全員に配本(配達)されていた。

 本ブログの筆者は,最近たいそう評判になっている〈サンデル教授の特別授業〉風をまねたかのような題名を付けた後著,経営哲学学会編『経営哲学の授業』の中身のうちでも,とくに関心のある箇所のみさきに目を通してみた。そのまえに本書の「詳細」と「主要目次」を紹介しておきたい。

 日本の企業経営は大丈夫か!? 経営哲学という視点からみた重要経営者・キーワードを厳選・解説。経営の「いま」と「これから」を探る格好の手引書。混迷・激変する日本社会。これからの企業経営の指針となる,経営哲学・思想とはどういうものか。本学会員による論考をまとめた1冊。

特別インタビュー 野中郁次郎が語る-いま哲学に何ができるのか-
第1部 経営哲学の「現場」を辿る
 特別インタビュー 由井常彦が語る-日本の経営者にとっての「経営哲学」。
 稲盛和夫の経営哲学
 「妻と子供以外はすべて変えろ」-サムスン李健煕会長の変化を求める人材経営- ほか
第2部 経営哲学をめぐる議論-いまなぜ経営哲学が必要なのか-
 経営哲学とバーナード
 ドラッカーの経営哲学 ほか
第3部 いま,経営哲学に何ができるのか-経営哲学学会の歴史とその貢献について-
 経営哲学の未来に向けて-経営哲学の諸部門と基礎的課題-
 経営者自己統治論の「これから」 ほか

 本書,経営哲学学会編『経営哲学の授業』のうち本当に読む価値があるのは,厚東偉介の執筆した「経営哲学の未来に向けて-経営哲学の諸部門と基礎的課題-」(285-304頁)だけだと思えてしかたない。もっとも,この論稿は,本書に収録されている他稿とは顕著に異なっており,純粋理論志向の筆致に徹底している。ただし,その点:特徴について苦言を呈するならば,いったいなにを核心において主張したいのか分かりにくい。

 その論稿「経営哲学の未来に向けて-経営哲学の諸部門と基礎的課題-」は末尾において「『信頼』と『多様性』の保持にその基礎を求め,社会生活全体の安全・安心を確保しなければならない」(303頁下段)と主張している。けれども「経営哲学」なる学域が,社会科学の他分野および人文科学の諸領域における研究成果を,どのように摂取・消化しているのか,とりとめのない衒学的な議論に聞こえてならない。

 同稿は「経営哲学-経営思想-経営理念」という一連の基本用語に関する説明に関しては独自性もあるものの(289頁中段-291頁下段),そこに定座させたい基軸を据えるための吟味にまでは至っていない。論旨の構成をもう少し整理し,読みやすい体裁で説明してほしかった。研究者=大学の先生によくある自己満足・自説内充足的な論述になっていないか?

 2) 野中郁次郎の無知にもとづく「問題発言」
 もう1点気になる発言を「特別インタビュー」「野中郁次郎が語る-いま哲学に何ができるのか-」が語っている。野中がどれほど偉大な経営学者かはしらないが「今回の大震災は,実際のところ『想定外』だったと思います」と論断していた。
 出所)写真は野中郁次郎
    http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/skillup/meeting/070125_nonaka/ より。

 地震学や地質学の研究はすでに,東日本大震災級の災害が,この日本という国土を,数百年ごとに襲ってきた歴史的事実を解明しつつあるなかで,門外漢の野中がどれほど災害研究をしているかはともかく,暴論に近い感想的な論評を「3・11」にくわえたとなると,これは醜態にも近い,かなりうかつな発言と指弾されてよい。以下にその問題性を説明しておく。

 話は,NHKが2011年12月25日22時から放映した『ETV特集「大震災発掘」を見た』に言及することになる。この番組は「▽巨大津波新たなる脅威徹底分析  ▽密着! 池と崖の発掘 ▽2千年前の巨大津波 ▽魔のサイクルとは?」と題し,いまでも地質に残る過去の大津波跡の研究をつづけてきた2人の研究者による地道な研究を紹介している。2011年3月11日に発生した東北から関東にかけての大地震・大津波を受けて,研究はさらに加速されているという。
 註記)NHK番組表では当時の番組内容に関する解説が掲載されていないので,
    http://js30.at.webry.info/201112/article_14.html 参照。


 その1人は,南海・東南海・東海の3連動地震による津波跡を研究している高知大学理学部教授の岡村 真である。もう1人は,十勝・根室沖の連動地震による津波跡を研究している,地理学者の北海道大学名誉教授の平川一臣である。

 a)「岡村 真教授の研究」は,こう紹介されていた。イ) 三連動地震津波には周期があり,しかもこれがこの300年間起きておらず,いつ起きても不思議ではない。ロ) 2000年前の古墳時代における超巨大津波の痕跡も発見されている。これと同規模の津波が現在に起こったら,太平洋岸の壊滅的大災害が予想される。

 b)「平川一臣名誉教授の研究」は,こう紹介されている。イ) 歴史的記録がないためにまったく分かっていなかった北海道の十勝,根室沖連動地震の周期の解明や,400年前の慶長の三陸津波の震源域が,いままで考えられていた東北沖でなく,北海道十勝,根室沖であったらしいことである。ロ) 2011年の震災後の三陸海岸を調査して証明したのは,今回の津波があったからといって,三陸ではもう1000年間は津波が来ないなどとはいえない。というのは,その北海道沖の連動地震による大津波の周期も近づいていることを警告していた。
 
 出所)左側の図解は,http://ja.wikipedia.org/wiki/東海・東南海・南海連動型地震 より。
    右側の図解は,http://www.izumikensetu.com/archives/20120126.html より。

 c) 平川一臣(現在,北海道大特任教授:自然地理学専攻)は「M9級の超巨大地震」が北海道から三陸沖の過去3500年間に7回以上発生しており,大津波が沿岸を繰り返し襲っていたことを地質調査で突きとめている。これに「東海・東南海・南海連動型地震の震源域」による大地震・大津波の発生可能性をからめても想定する確率は,1世紀かあるいは半世紀単位でもって,その襲来があることを覚悟しなければならない。

 2教授とも,こういった事実が科学的に明らかになっているのだから,もう「想定外」などということばを使ってはいけない,と語っていた。とくに岡村教授はつぎのように語っている。私たちは自然のすばらしさとともに,こういった大災害を引き起こす大地の上に住んでいる。そういった両方のことを理解しないといけない。そうでないとこの日本列島には住めないと。

 「3・11:東日本大震災」をとらえて,なにを根拠にいったつもりか不鮮明であるが,野中郁次郎「想定外」など理解したのは,門外漢の勇み足どころか,最近では危機管理の問題が経営学入門書のなかにも記述される時代であるゆえ,経営学者としての資質さえ疑わせるものになりかねない

 ② 戦争の時代と現代の経営理論

 1) 歴史の制約,学問の性格
 本ブログの筆者がとくに関心を惹かれたのは,第2部「経営哲学をめぐる議論-いまなぜ経営哲学が必要なのか-」に収録された,藤井一弘「山本安次郎と経営哲学」である経営哲学学会編『経営哲学の授業』179-185頁)。限られた字数のなかで論及するのであるから,山本安次郎経営「学説の思想と理論」を全体的にくまなく解説するのは,とうてい無理であったかもしれない。ともかく,この経営哲学学会編『経営哲学の授業』で読んだなりに,その藤井の論稿を批評しておく。

 藤井一弘は,以下のように述べる。1940年から1945年の日本帝国敗戦まで「満洲〔帝〕国」の建国大学に経営学者として勤務・奉職した山本安次郎,この「山本の一生は,まさに近現代日本の興亡と軌を一にしている」。山本がその「建国大学で任にあたっていた」ことじたいに「批判もある」と指摘するさい,惜しいことに,完全に誤導的な解釈をほどこしている。

 建国大学は暴虐な植民地支配の先兵ではなく,それをかえようとしたのだ,という思いをおもちの方もいました。なかのお1人は「もう少し満州国がもって自分たち建国大学の卒業生が満州国を運営するようになったら違ったはずだ」ともおっしゃっていました。でも,日本人が満州を支配し酷いことをやっていたことや満州が傀儡国家であったとの認識は皆さん共通におもちでした。
 註記)http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2010/06/post-f6d3.html

 
  出所)http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2010/06/nozawa22-7.html

 本ブログの筆者が山本にくわえている批判は,山本の学問内容,それも時代のなかで「それが果たした学説・理論の中身や実質」じたいについてとりあげているのであって,「建国大学に勤務した事実」そのものが「批判の対象」であると,即自的に理解するのは,方向違いの受けとめかたである。前段の引用は,満洲国の建国大学のなかで,この学生たちを教える側に立っていた山本の存在意義を問うているはずである

 「満洲国」立建国大学の教官であれば,くわえて,戦時体制期から被るほかない絶対的な制約のなかに放りこまれていた経営学者であれば,歴史必然的に,いいかえれば,否応なしに・被強制的に「国家全体主義の立場」に立たざるをえなかったのであるから,当時このような研究環境に置かれていた山本安次郎という経営学者が保持していたはずの「価値判断:社会科学としての志向性」それじたいが,まずさきに問題にされてしかるべきである。  

 2) 戦時体制期の経営学
 満洲国建国大学の関係者が敗戦後の日本〔帝〕国において,一律に白色パージされた事実はさておいても,太平洋〔大東亜〕戦争が始まる1年ほどまえの昭和15年10月22日,山本安次郎が,日本経営学会で「公社問題と経営学」という論題をかかげて研究報告した学問の成果は,その大戦争が開始される寸前,昭和16年11月20日に日本経営学界『利潤統制』(同文館出版)に掲載・公表されてもいた。

 山本は当時「公社経営論の歴史的意義」を「存在を媒介にしない当為は全くの抽象にすぎない」し,その「主体は常に個の性格をもつと同時に種の性格をもち,種の性格と同時に類の性格をももたねばならない」(山本安次郎「公社問題と経営学」,日本経営学会『利潤統制』同文館出版,昭和16年,248頁,245頁,251頁)。すなわち,経営の「主体は個人,家族,民族,国家の性格ともつと同時に世界史の性格をもち,従って一面『閉ざされた世界』に属すると同時に『開かれた世界』に連るのでなければならない」と喝破した。さらに要言するならば,経営の「『行為の立場』は国家的『行為の立場』,国家的『主体の立場』でなければならない」。「公社経営論はかゝる意味にて『行為の立場』に立つのである」(251-252頁)との確信をこめて論決していた。

 戦時体制期におけるこうした山本「学説・理論」の基本的な観点は,「その後の彼の経営学の骨格となる『主体の論理』もこの時代に獲得されたものである」だから,当時における「いわゆる内地とは異なる新たな経済体制--批判的な視点を欠いてはならないが--のなかでの経営学を考えるにあたっては,いまの言葉でいえば『ビジネスそのものの性格』を新たに問いおなすことに迫られたもした」「彼の経営学体系のユニークさの一端を形づくっている」経営哲学学会編『経営哲学の授業』180頁)というふうに,藤井一弘が解釈するさい,慎重な注意が要求されている。

 3)「満洲国」体験と学問の本質
 いわゆる「1940年体制」問題を今日的に論じるとき「満洲国体験」の反映・活用が強調される。これと同種のあつかいが山本「学説・理論」にも要請される。それゆえ,これは「彼の経営学体系のユニークさの一端」などという生やさしい次元・程度で観察すべき問題の対象ではない。

 敗戦後,シベリア抑留を経て復員できた山本安次郎は,長期間その「公社経営論」を前面にもちだすことは,それほど強くはしていなかった。なぜか? 山本自身も事後的に回顧して,「満洲国」の時代的性格,中華人民共和国風の言辞でいえば「偽満(偽満洲国)」の歴史的な本質を,最低限は認識していたのではないか。

 民俗学者の宮本常一は,満洲国建国大学から助手での採用話が出たとき,あいだに入った渋沢敬三に独断で断わられてしまった。というのも,渋沢は「日中戦争の泥沼化と太平洋〔大東亜〕戦争の開戦,さらには日本の敗戦まで予見し,そうなれば『満洲』は手放さなくてはならないといって」,宮本に対して「建国大を諦めるように諭したという」のである。
 註記)井上 俊・伊藤公雄編『日本の社会と文化』世界思想社,2010年,143頁。

 山本は経営学者として,戦時期「満洲国経営問題」に骨がらみでかかわってきた体験を有する。ところが,自分自身にとっては過去における深刻な経験=問題要因であるはずの『歴史的要因』〔E・グーテンベルクが体制関連的要因として概念規定した対象〕を,あえて1945年8月以前に置き去りにしていた。
 出所)写真は,エーリッヒ・グーテンベルク
    http://www.chikura.co.jp/ISBN978-4-8051-0064-6.html より。

 そうではあっても,敗戦後になって山本が「公社経営論」の骨格(脱け殻?)だけは再度もちだしていたという事実経過,それも「理論上の虚脱的な操作」をとらえて,藤井一弘が「彼の経営学体系のユニークさの一端」が継続されているかのようにもちあげるのは,経営学史学会に所属する経営学者としてはもの足りない観察・分析である。

 山本「学説・理論」は「非常にアカデミックな性格なものであ」るし,「決して衒学的ではなく」「経営学の『実践性』を強調することにおいて」,この「山本が人後に落ちなかった」。というのは,山本が「自己の学問の社会的役割をいかに真剣に考え」ていた(180頁)からであると,藤井が山本を評価していうとき,格別に気を付けなければいけないことがある。山本は,まさしく「満洲国建国大学の教官」時代において,真剣に国家のための「公社」論=「経営行為的主体存在論」をもって「理論的にこそ実践していた」。

 「山本安次郎は自分自身の生きた時代における経営学の役割というものに真正面から向き合った」し,「それが,彼をして『経営』を『哲学した』人たらしめたといえる」(181頁)と高く評価してみたところで,これと同時に,満洲国建国大学教官時代における山本の「学問の社会的役割を〔も〕いかに真剣に考え」ておかねば,21世紀の時点から回顧する山本「学説・理論」のまっとうな学的評価はおぼつかない。

 日本帝国主義時代において国許的な学説・理論を発想し,構築した山本「学説・理論」の棚卸作業をおろそかにしたままで,高度経済成長時代においても高らかに「再」提唱された「経営行為的主体存在論」を,後進の経営学者が復唱するというのは,先達の学問成果を克服すべき任務を有する立場にあるはずの者としては,ひどくもの足りない理論の解釈である。

 4) 体制無関連的に変身していった山本「学説・理論」の問題性
 最後に参考にまで断わっておくが,山本はこういっていた。

 私見によれば,むしろ社会主義経済こそ経営学の沃野であり,その将来性を期待せしめるものというべきであ」って,「そのときは経営学方法研究論も新たな構想をもって始められるべきである」。「経営学はこれからの学問である」
 註記)山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,341頁。この引用箇所は同書,本文の最末尾である。

 また念のためにも断わっておくが,山本安次郎流の経営学思念は,戦時体制期においても,さらに敗戦後から高度経済成長時代においても,実質的に変身した内容はなにもなかった。「満洲国」時代の要求する実践に裏切られていた山本「学説・理論」は,さらにくわえて「社会主義経済体制」からも再び裏切られていたのではなかったか? 

 しかも「社会主義経済体制」は,1945年以前にも存在したではないか? 山本はその時期,それにはいっさい触れず,ただ「国家全体主義」に依拠する「経営行為的主体存在論」を高揚させるための「経営学の思想と理論」を「公社経営論」として具体的に提唱していた。一見「摩訶不思議」な,換言すれば,時代ごとにそのご都合によって,いかようにでも理論研究の対象を交換していく〔すり替えていく!〕だけの様相が,顕著・露骨である。

 
  出所)書斎の西田幾多郎
     http://ocw.kyoto-u.ac.jp/nishida/tope-page より。


 西田幾多郎の哲学,それも『哲学論文集第一,第二』(本書は主に 1936~1937年に『思想』に公表された論文からなる。筆者の手元には『哲学論文集 第8巻-哲学論文集第一 哲学論文集第二-』岩波書店,昭和40年版がある)を,満洲国建国大学の教官のとき読みこみ「経営学の基本構想」に開眼したという山本安次郎は,戦争中の「国家全体主義」に従順な「経営学の立場」を,敗戦とともに置き去りにした。そして,こんどは「平和の国」になった日本経済のなかで「経営行為的主体存在論」にのみもっぱら依拠する経営「学説・理論」を提唱することになった。いずれにせよ,1945年以降「国家の立場」は忘れられたかのようでもあった。

 ところが,1975〔昭和50〕年の著作『経営学方法研究論』では,「国家の立場」を当然視する社会主義経済〔体制〕こそが「経営学の沃野」であるとも再言していた。山本は自作他著のなかでも「国家の立場」をちらほらと啓示することを止めてはいなかった。建国大学時代,日本帝国の属国であった満洲国的全体主義の全面的な影響下においてこそ誕生したのが「山本経営学『経営行為的主体存在論』」であった。

 この源泉は,敗戦後における山本の理論展開との関連で考察されねばならなかった論点であった。にもかかわらず,まともに解明することが忘れられ,無関心の圏域に置かれてきた。その意味でいえば,藤井一弘の山本「学説・理論」に関する議論は,一歩前進しているといえなくもない。

 とはいえ,現時点:21世紀における「『企業志向経営』から『事業志向経営』へという〔山本の〕『提言』は,どのように活かすことができる」かと問うたところで,この設問形式だけではまだ,画竜点睛を欠いた提言にならないか?

 ちまたの経営学界では「環境経営論」だとか「社会経営学」だとか「市民経営学」だとかが,あたかもきわめて斬新な提唱として登場してきているが,これら経営学の新展開を試図している学者たちのほとんどが〔ただし高齢者に限るが〕,脱マルクス主義経営学者から輩出(排出?)されている事実にも注目したい。山本「学説・理論」のばあい「脱理論の段階・契機」は,2段階もしくは2種類を経てきたはずである。

 ③ 要 約

 要は,本ブログの筆者は,山本学説・理論に学ぶことはもちろんかまわないし,他者がそのことを妨げる筋合いも全然ないと考える。だが,学問・理論の歴史を研究している,それも経営学史学会にも所属している研究者が,学史的な研究視点に曇りがあるのではないかと疑わせるような論究はいただけない。この点は率直に忌憚なく批判している。

 藤井は「戦時統制経済」という用語ではなく「統制経済」という用語しか,戦争の時代の日本経済体制に関して使用していない。また,戦争中の日本「国家が間違った意図〔何をもって間違っているというかは,それ自体,大問題であるが〕とすれば,それを志向する『経営』は,私的な金儲けのかわりに,間違った国家意思の奴隷になってしまうにすぎない(経営哲学学会編『経営哲学の授業』〔藤井一弘〕182-183頁)と指摘していた。

 けれども,そうなのであれば,戦争の時代における山本「学説・理論」が,いったいどのような「思想と価値観と立場」に立って経営学研究に従事していたのか,もっと真正面からとりくんで解明しておくべきではないか?
 出所)左側の画像はヘーゲル
    http://blog.goo.ne.jp/ilbon007musa/e/cb4db923e6125dc357fb70a950796cc4 より。

 いまさらのように「歴史に学ばない者は歴史を繰りかえす」などといいたくはない。しかし,ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel:1770-1831年)が「歴史から学ばない人間」に対する警句を放っていたことに,ここであえて触れておきたい。

   ☆「歴史から学ぶことができるただひとつのことは

            人間は歴史からなにも学ばないということだ」☆


2012.1.29

■ 文書管理もできない国家:日本 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 13:20:34 ( 政府高官の行動把握 )

 ◎ 千年に一度(2~3度)かもしれない自然災害の記録 ◎

 【 ここまでだらしのない国だったのか 】

 ① 稗田阿礼(ひえだのあれ)は,いまの政府にいるのか

 1) 偽書扱いされたらどうする?
 昨日〔2012年1月28日〕の『日本経済新聞』朝刊1面「春秋」欄は,東日本大震災後において日本政府が,関連する諸会議の議事録を忘失してきた出来事を,つぎのように批評していた。

 日本最古の歴史書,古事記が完成したのは奈良時代,712年の今日だとされる。ときの天皇が,一度見聞きしたことはけっして忘れないという稗田阿礼(ひえだのあれ)に天皇家の系譜や神話・伝承を覚えさせ,それを太安万侶(おおのやすまろ)が書き記したといわれる。

 ▼ 古事記をめぐっては,由来を偽った偽書であるとの説がしばしば主張されてきた。同じ時期に,同じ歴史書の日本書紀が編纂されたのはおかしい。のちの世に作られたのでは,というようなことだ。由来はどうであれ,因幡の白兎(しろうさぎ)や八岐大蛇(やまたのおろち)が登場する,人間くさくて奇想天外な神話の魅力はいささかも薄れない。

 ▼ 古事記の誕生から1300年。いまの政府は,現代の神話だった原発の安全が崩壊していく過程の編纂作業を怠った。原子力災害対策本部など震災関連の10会議で議事録を作っていなかったのだ。地震発生から何カ月分もの記録がないとは,驚きだ。追及材料が残っていては困るから,と勘繰られてもしかたあるまい。

 ▼ 福島でなにが起き,政府がどう対応したかを検証し,発信することは国際的な責務のはずだ。さすがに政府も慌てて,さかのぼって記録を作るという。だが会議のメンバーに稗田阿礼はいない。どこまで再現できるだろうか。後付けで作った議事録が,世界中から偽書扱いされないことを願うばかりだ。

 2)「震災10会議,議事録残さず 政権,ずさんな情報管理」2012年1月28日〔『朝日新聞』夕刊の報道〕
 東日本大震災を受け,政権が対策を協議するために設けた15の会議のうち,10会議で議事録を残していなかった。このうち3つの会議では,議事概要すら作っていない。震災や原発事故の検証作業にも影響を与えかねず,野党側は国会での追及を強めていく構えだ。

 「岡田氏,権限不明確と釈明」--公文書管理担当の岡田克也副総理が1月27日の閣僚懇談会で,15会議中10会議で議事録がないことを報告。2月中をめどに,当時の議事概要の取りまとめを求めた。原発事故への政府の対応を決める原子力災害対策本部は,首相が本部長で,経済産業相や原発相ら関係閣僚や官僚をメンバーにする。昨〔2012〕年3月11日から12月26日まで計23回開かれ,事故収束に向けた工程表をまとめたが,議事録も議事概要も残っていない。  

 事務局の経済産業省原子力安全・保安院は「非常事態だった」(幹部)と釈明するが,議事録がないことは昨年5月の時点で分かっていた。当時の枝野幸男官房長官は「プロセスも含めて全面公開したい」と約束したが,保安院は「明確な指示は下りていなかった」とし,「会議のテープもとっていないので,関係者から聞きとって資料を探すしかない」と話している。

 震災後19回開かれ,地震や津波への対応を決める緊急災害対策本部(本部長=首相)についても,議事録や議事概要がない。事務局は平野達男防災担当相に対して「記録を残す慣習がなかった」と説明。「全部の発言記録があるわけではない」としており,正確な記録づくりは難しい状況だ。

 昨年4月に施行された公文書管理法は,閣僚で構成される会議について「意思決定に至る過程を合理的に検証できるよう,文書を作成しなければならない」と義務づける。菅政権が決めた復興基本方針でも「地震・津波災害,原子力災害の記録・教訓の収集・保存・公開体制の整備を図る」としていた。

 岡田氏は1月27日の会見で「きびしい環境のなか,(会議の)権限もはっきりしないなかで起きた不幸な事件だ」と,緊急時でやむをえない状況だったとの認識を示した。当時の閣僚や担当者は処分しない方針だ。ただ,民主党政権になってから始めた各省の政務三役会議でも,多くは官僚を入れず,議事録は「決定の場でないので作っていない」(藤村修官房長官)。今回の記録不備は,脱官僚にこだわった民主党による不透明な政策決定システムが背景にあるといえる。

 野党側は,ずさんな政権運営の現われととらえ,「重大な問題だ」(塩谷立・自民党総務会長),「政権運営をしているとの自覚が欠けている」(井上義久・公明党幹事長),「情報公開の土台が崩れる重大な法律違反」(志位和夫・共産党委員長)と批判する。早くも国会審議の火種になっている。
 註記)http://digital.asahi.com/articles/TKY201201270670.html?ref=comtop_middle_open 2012年1月28日『朝日新聞』夕刊,03時00分 配信。

 日本政府には『文書管理法』があるというのに,東日本大震災という緊急事態だからこそ,その文書管理法の基本精神が発揮されねばならないときに,議事録を残さない会議が多くあったということであれば,この政府には文書管理能力を欠いていたと判断されざるをえない。

 その『公文書等の管理に関する法律』(平成21年7月1日法律第66号,最終改正:平成21年7月10日法律第76号)は,第1章「総則」(目的)第1条で,こう規定している。

 「この法律は,国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が,健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として,主権者である国民が主体的に利用し得るものであることに鑑み,国民主権の理念にのっとり,公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により,行政文書等の適正な管理,歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り,もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに,国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」。

  こうした国家の行為に関して文書を記録して残しておくように定めた法律,それも東日本大震災発生した2年度まえに施行されたその基本精神が,時の政府によってまともに尊重されず,記録がきちんと保存されていなかった。どう説明していいのか分からない体たらくである。

 ② 関連の報道にみる批判

 1) 文書記録の忘失という失態
 朝日新聞は2012年1月27日に「震災関連10会議,議事録なし 3会議は議事概要もなし」と報道し,26日の「社説」を「原発議事録-「検証」阻む政権の怠慢」と題して批判していた。読売新聞は1月26日に「震災議事録,27日にも公表へ-8組織を調査」との見出しで報じていた。

 2012年1月25日のテレビ・ニュースは,『テレビ朝日系(ANN)』「が震災関連の議事録不備,官房長官『経緯を検証』」,『フジテレビ系(FNN)』が「原子力災害対策本部の議事録未作成問題 緊急災害対策本部でも未作成の疑い」,『TBS系(JNN)』が「緊急災害対策本部も議事録ない疑い」などと報じていた。

 文書・記録の管理面でこうした失態を犯した民主党政府に対しては,つぎのような批判を突きつけておく必要がある。これは『Business Media 誠』(2012年1月23日11時46分配信)の見解である。

 a)「文書・記録の必要性」--「官僚であれば,なにはともあれ記録をとっておくのが当然だ。政治家に責任を押しつけられそうになったときに唯一『保険』となるのは議事録である」。「まさか緊急事態に直面して対策会議を開くときに,『おい,誰か録音機をもってこい』などという間抜けな命令をしなければならないというような状況が現代のこの世の中にあっていいはずがない。しかも官邸は最新の装置を組みこんで建て替えられたばかりだ」。「要するに,たまたま間の悪いときに総理大臣をやっていた菅 直人首相や経産省のお役人も含めて,政府のガバナンスとかコンプライアンスがまったくなっていないということだ」。

 b)「役人:官僚を遠ざけたせいか?」--「これではなにを根拠に避難指示を決め,なにを根拠に『健康にただちに影響はないから屋内待機するように』といったのか,誰も検証できない。政府や国会の事故調査委員会は,どうやって当時の状況を再現するのだろうか」。「なぜ一刻を争うような事態のときに,一度の会議で政府のすみずみにまで官邸の意思が伝わるようなかたちにしなかったのだろうか。政治主導にこだわる総理が,役人中心の危機管理センターを嫌がったのだろうか」。

 c)「ヘンリー・キッシンジャー〔アメリカの文書管理〕の方針」--「一国の政策を決める場で,記録をとらないというのはまさにコンプライアンス違反だと思う。米国のキッシンジャー元国務長官は著作のなかで,自分がおこなった『電話外交』の録音をすべて書き起こし,それを国立公文書館に渡したとしていた」。
 出所)映像は,http://tng-party.blog.so-net.ne.jp/2011-01-10

 「さまざまな判断や決定は,結果的に正しいこともあれば,間違っていることもある。さらに時間が経てば,正しかったことも誤りになってしまうこともある。そしてなによりも肝心なことは,すべての記録はつぎによりよい判断や決定をするための材料になるということだ」。

 「米国のホワイトハウスは,会議などは徹底して録音されているはずだ。そして記録の削除は相当の理由がなければできないはずである(ニクソン大統領の執務室でおこなわれた会話の録音テープが,大統領弾劾の1つの有力な証拠になった〔ではないか!〕」。

 d)「官 直人前首相の感覚的な発言」--「菅首相は『歴史が自分を正しく評価してくれるだろう』という主旨のことをいったが,議事録がないという事実で評価は大きく下がると思う。歴史家は客観的資料がないところで判断しなければならないからである」。「こうなったら,政府事故調も国会事故調も当時の出席者のすべてのメモを回収し,徹底的に『尋問』してでも記録を作らなくてはならないと思う。歴史的な大事件の重要な資料がないなどという恥を後世に残してはならないのである」。

 2) 後世の歴史家に判断を任せるという「政治家の遁辞」
 日本の政治家は,自身の政治責任をもってそのときどきに実行してきたはずの施策について,自分なりの判断や個人的な評価を問われたさい,よくつぎのように答えることがあった。「歴史の評価は後世の歴史家に任せたい」と。しかし,こういういいぐさは「自分にとって都合の悪い歴史の進行」や「その歴史が自分に対して下すほかないきびしい審判」から,「ひたすら逃亡・回避するための方便:せりふ」である。

 たとえば,1988年に竹下 登首相のもとで「消費税導入が可決された」。竹下政権は,当時のリクルート事件の影響もあって国民からきびしい批判を浴び,内閣支持率は史上最低に落ちこんでいった。しかし,竹下首相は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際,現在において竹下内閣の最大の功績は,大平 透と中曽根康弘の両内閣が実現できなかった消費税導入を実現したことだ,とする評価がなされている。
 出所)画像は,http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/74.html より。

 しかし,竹下が消費税を導入して「後世の歴史家の評価」をもちだしたやりかたと,今回「東日本大震災」後における一連の内閣関連の諸会議において文書・記録が残されなかった〈事件〉の性質とは,まったく性質を異にする問題である。今回「会議の記録」をとり忘れた出来事は「後世の歴史家」に聞くまでもなく,政府の大失敗であって,単に現政権のだらしない体質を物語ったに過ぎない。

 民主党政権は官僚に頼らない執権を実行すると宣言していたものの,実際の運営においては内閣次元に関しての行政管理の初歩的手順すら,うまく采配できていなかった。まことにみっともない日本政府の失態は,諸外国に対して芳しくない印象を与えるに違いあるまい。民主党政治は《事業仕分け作業》に熱心だったのはよいとしても,国家の基本を揺るがすような大震災・大事故が発生したとき,これにまともに即応できない態勢であることを露呈させた。

 3) 日本政治のポピュリズム的な危険性
 1月28日の報道によれば「石原知事『新党結成へ協力』『政治構造シャッフル』」という見出しの記事があった。

 東京都の石原慎太郎知事(79歳)は1月27日の記者会見で,国民新党の亀井静香代表(75歳),たちあがれ日本の平沼赳夫代表(72歳)と3月中に新党結成で合意したことについて,「国会の政治構造をシャッフルする必要がある。いくらでも協力する」と語った。新党の党首になる予定の石原氏は「政治家は必然性があれば1人でもやることをやる。東京より国家が大事だ」と指摘。

 大阪維新の会を率いる橋下徹・大阪市長については「非常に共感する。東京と大阪,愛知が組み,中央集権をぶっ壊していく」と述べ,橋下氏に加えて愛知県の大村秀章知事との連携にも意欲を示した。ただ,「不満分子を集めて数をそろえても政党にならない」とも話し,3月までに勢力結集が進まない場合は,党首就任を見送ったり,参加を見合わせたりする可能性もある。

 一方,橋下氏は27日,新党との連携には明言を避けたが,大都市制度についての協議には意欲を示した。同日夕,記者団に「石原氏は誰もがしっている自治体の長の一番の顔。大阪都構想に理解を示し,大都市の統治機構をかえないといけないといってもらえるならありがたい」と語った。
 註記)http://www.asahi.com/politics/update/0128/TKY201201270781.html

 21世紀も第2期めの10年期に入ったところであるが,日本国の人口が2005年あたりから減少しはじめたのと軌を一にしたかのように,国家経済社会全体そのものも凋落・衰退の兆しをみせている。若者たちにあっては不幸感・不満感すら感じなくなるほど,覇気がないと心配されてもいる。

 こうした日本社会の元気のなさに反比例したかのように,内攻するばかりで捌け口のみつからない不安感・窮乏感は,まだ40歳代前半で精気みなぎる橋下 徹大阪市長(1969年生まれ)が,老体の石原慎太郎や亀井静香,平沼赳夫と連携するかたちで,いまさらのように「人気とりの政治:ポピュリズム」に迷走していく危険性もある。

 
  出所)http://blogs.yahoo.co.jp/aquarius1969newage/64669381.html

 2009年9月に民主党が政権を奪ったものの,その政治の運営ぶりが以前まで長期間政権をにぎってきた自民党とたいして違わないのであれば,橋下大阪市長を先頭旗手とする「老人政治家集団」が,今後「人気とり政治」に突っ走るかもしれない。一般大衆の側に目を向ければ,あのあらゆる類の人間差別発言を放って恥じることをしらない石原慎太郎を都知事として4選するほどであるから,「双方の政治的な対面関係」はまさしく〈ミーハー的な典型例〉である。

 4) 差別発言マシーン:石原慎太郎
 ウィキペディア「石原慎太郎」を瞥見すれば分かるように,この男は「自分以外のすべての人間」に対する偏見と差別の意識を堅固にもち,しかもこれを堂々と披露して憚ることをしらない。傑作なのは「老人に対する発言」である。

 1975年(昭和50年),初めて東京都知事選挙に出馬した際の演説にて対立候補の美濃部亮吉に関して「・・・もう新旧交代の時期じゃありませんか,美濃部さんのように前頭葉の退化した60,70の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言した。しかしながら,彼自身は78歳になってもなお,みずからの東京都知事4期目当選を狙って,2011年都知事選への出馬を表明し,当選した。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/石原慎太郎。
 出所)写真は,http://news.qq.com/a/20110316/000086.htm より。

 石原の差別発言は多種多様である以上に,前段のようにみずからも「天に唾した」ような「老人に対する差別発言」をはじめに,「在日外国人・諸文化への態度」「ニートやフリーターに対する見解」「震災の被害者に対する発言」「ジェンダー・性について」「同性愛者に対する発言」など,それこそ盛りだくさんである。

 ただし,こういうふうな諸発言から自分だけは確実に除外できている気分でもいられるところが,石原の唯一,本当に自慢できることがらといえる。

 それでも,こんな石原でも都知事に4回も選ぶ都民たちのことである。「都民→国民」であるということになれば,くわえて石原慎太郎は以前国会議員でもあったことから,『「橋下 徹+石原慎太郎」新党』も夢ではなく,相当に現実味がある。もっとも心配もある。この個性豊かな連中が仲間うちで,なにかをきかっけにバトルを始めやしないか。とくに橋下以外はご高齢,ご老体,過ぎる。もっとも「年寄りの冷や水」も,意味の受けとりようか。


2012.1.28

■ 靖国神社の神仏習合性 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 13:29:36 ( 歴史の記憶をたどる )

 ◎ 日本の宗教的伝統を破壊した靖国の仮りの無宗教性 ◎

 【 島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』2012年12月 】

 ① 島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』筑摩書房,2012年12月

 1) 本書の概要
 阿修羅像はなぜ博物館にあったのか? 伊勢神宮に仏教の儀式をおこなう場所があった? 天皇家は代々,仏教を信じていた? 近代以前には,日本人の生活に溶けこみ,密接に結びついていた神道と仏教は,「神仏分離」により無理やり引きはがされてしまった。このことは,どんなダメージをもたらし,日本人の信仰にどんな影響を与えたのか。仏教や曼荼羅・神社・寺の姿を丹念にみることでその実態を解き明かしていく。

 以上に記述されているこの島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』の解説においては,「?」を付けてある文節も実は,そのとおりの現実なのであった。たとえば伊勢神宮は「仏教の儀式をおこなう場所でもあった」事実は,歴史のなかで確認されている。「神道と仏教がどのように融合し分離されたか,その歴史をたどることで日本人の隠された宗教観をあぶり出す」。

 この本を読んだ本ブログの筆者は,自分の住む市の中心街にある,それも地元では有名な寺の〈そば〉というか〈わき〉に,敷地は狭いけれども小さな神社が寄りつくように建っているのを思いだしつつ,これに抱いていた未知の疑問に気づくだけでなく,少しはその不思議さが解けたようにも感じた。島田はその実例として「浅草寺のなかにある浅草神社」を挙げている(57-62頁参照。つぎの図解も参照する。ここには浅草神社は指示されていないが,右上隅,浅草寺福祉会館のすぐ下のところ:右上の一角にある境内(鳥居がみえる)と建物がそれである)

  
 出所)左側は浅草寺,右側の浅草神社
    http://www.senso-ji.jp/guide/index.html
      http://www.asakusajinja.jp/asakusajinja/root.html
 
 仏教の寺院と神道の社殿とが敷地を接して隣り合わせ,あるいは寺院のなかに神社があるというその不思議さは,この本を読めば,それなりにまっとうな宗教的な理由,深い歴史的な事情があることが分かる。本書の目次はこうである。

  第1章 阿修羅像が愛される理由   第2章 神社こそが浄土なのだ
  第3章 密教の示した圧倒的な魅力  第4章 伊勢神宮の正体を見きわめる
  第5章 近代が創造した伝統宗教

 2) 島田裕巳の経歴関係
 著者の島田裕巳[シマダ ヒロミ]は,1953年東京生まれ,宗教学者・作家。東京大学文学部宗教学科卒業,同大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学,放送教育開発センター助教授,日本女子大学助教授,東京大学先端科学技術研究センター特任研究員・客員研究員などを歴任。
 出所)写真は,http://digital.asahi.com/articles/TKY201112180180.html より。

  オウム真理教(現アーレフ)に対して終始好意的な評価をし,地下鉄サリン事件発生後もオウム真理教の関与を否定するコメントをマスコミに発表し,警察の強制捜査を批判するなどして擁護をした。これらの言動が毀誉褒貶を招き,批判や中傷を受けた。1995年のオウム事件にさいし,事実誤認報道にもとづくメディアのバッシングに遭い,日本女子大学を辞任。その後,オウムの考察を糸口に,探求の対象を現代日本社会全体に拡げて『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)に結実した。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/島田裕巳。
    http://www.bunka-kaigi.com/archives/002special/018_1/ 宗教学者・島田裕巳(1)。

 3) 本書の基本的な問題意識など
 本ブログの筆者は,島田裕巳という宗教学者を,オウム真理教に関連づけて議論する論点に興味をもたない。問題の焦点は,島田が本書『神も仏も大好きな日本人』(筑摩書房,2012年12月)をもって強調する論点は「日本の宗教の深層,とくに神と仏,神道と仏教,神社と寺院との密接な関連性」である。島田みずからいうに,本書の「画期的な」「問題意識」は「宗教美術を積極的にとりあげた」点にある。「日本人の宗教史は,思想や教養だけを問題にするのではなく,宗教美術をとり入れることで,根本的に刷新されなければならない」(215頁,214頁)

 日本の神についての島田の見解は,こうである。「そもそも創造神ではないが,当初の段階では,かたちあるものとしてはいっさい表現されなかった。祭祀をおこなうたびに,古代の日本人は神を祭場に呼び出した。神はいずくともしれない場所から,そこに降臨した」。「けれども,やがて神は神社に祀られるようになっていく」。かといって「日本人は,けっして偶像を崇拝しているのではな」く,「信仰対象とのあいだに距離を置くことを,もっとも重視してきた」(213-214頁)

 日本人が自分たちのことを無宗教と考えるのは「信仰をもっていないと錯覚している節がある」ためである。日本には「長い歴史を経た周強施設がこれほど残っている国は少ない」。それも「歴史上の遺物になっているわけではなく,現在でもほとんどが生きて機能している」(212頁)

 ② 島田裕巳「神仏習合」論の基本的見地

 1) 国家神道は原理主義の道」
 島田は,日本の庶民が感覚的にさえ自覚できていない「日本国・日本人・日本民族の宗教観」を分析し,こう説明する。日本の「神仏習合は諸教混淆とはいえない」。なぜならば「神道と仏教が,それぞれ独立性を保っていたからこそ,のちに神仏分離が可能だったといえる」からである。「ひとつの宗教だけを優位なものとする考えかたは,究極的に原理主義にゆきつく」。その点では「神仏習合という日本に特有な信仰の価値は,原理主義への傾斜を妨げるという」作用を果たしていた(96-97頁)

 ところが「明治維新にさいして起こった廃仏毀釈の背後で働いていたのは」「偏った愛」への「執着であった」ために,「古代の神道の信仰をいきなり現代に甦らせようとした国学者や神道学者」が「日本の社会に深く根づいてきた仏教を,外来の宗教として排除しようとした」のである。「現代における,いわゆる『原理主義』の台頭には,さまざまな宗教が混じりあうことを嫌い,自分たちが信仰する宗教以外を一掃しようとする願望が働いている」。「日本人が近代以前に愛してきたのは,原理主義的な宗教のありかたではな」く,「神道と仏教,さらにはそこに道教や儒教に入りまじったかたちの信仰」であった(54-55頁)

 「明治以前に神仏習合の信仰形態がとられていたのは」「近代より日本人の宗教世界は神仏習合が基本で,神道の信仰と仏教の信仰とは入りまじっていた」。「神道の影響を受けていない仏教の寺は存在しなかった」し,「反対に,仏教の影響を受けていない神道の神社も存在しなかった」。だから「神社と寺が同じひとつの空間にあることも珍しくなかった」(56頁)

 1) で触れておいた,浅草寺のなかに位置する浅草神社は,別の宗教法人になっているが,その建つ場所は間違いなく浅草寺の境内である。つまり,浅草寺では,仏教の寺のなかに神道の神社が祀られているわけである。ここで重要な要点は「そこには神仏習合の時代の名残をみることができる」ことである(58頁)

 2) 明治維新が神仏習合の日本宗教の伝統を変改した
 日本の仏教は1500年以上の歴史をもつのだが,神仏習合の伝統を破壊しはじめた明治「維新」からまだ140年しか経っていない(100-101頁)。問題はその明治維新にある。伊藤博文は旧日本帝国を構築していく過程で,イギリスやフランスの民主主義にはみならわず,ドイツの半封建制を引きずった帝政的な中途半端の民主主義を,日本帝国風に導入して編成した。その結果「国家神道」は「宗教にあらず」という詭弁を使い,実質では国家思想観であるその国家神道を国家政策面の前面に打ちだした。

 日本の仏教よりもさらに長い歴史をもつ土着・民俗の神道のなかから,国家観として都合よく「国家神道」価値観を創造した明治政府は,天皇を〈絶対神〉まがいに打ちすえた結果,「教育と宗教の衝突」を起こした。それだけでなく,神道以外の諸宗教各派に対する圧政を,必然的な国家政策としてとらざるをえなくなった。

 「明治大帝」が「神もどき」の存在に祭り上げられ,絶対的に崇敬されるべき対象となった。それまでの「日本の八百万の神々」のありかたとはまるで性格の異なった「一神教の神」,すなわち「この世界を作りあげたとする『創造神』である絶対的な存在」が具現された。「国家神道」は,政治的世界との絡みを意識したかたちで,絶対神にいちばん近い「人間存在として」「明治天皇」を位置づけた。そうした国家神道を創造したために,あわせて無理に用意せざるをえなくなったのが,その国家神道は「宗教にあらず」というみえすいた,稚拙な理屈であった。

 それでも,いまの平成天皇や昭和天皇などは本気で,自分たちがアマテラスという女神の末裔であると信じてきた。これは,まことにもっておめでたい「国家神道」観である。島田は『神も仏も大好きな日本人』第4章「伊勢神宮の正体を見きわめる」において,伊勢神宮でも歴史的には「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が唱えられていたことだけは間違いない,と論断している(159頁)
 補注)本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」とは,神と仏と同体とみなし,ともに祀る「神仏混淆の宗教思想」である。奈良時代から始まり平安時代に成立した「神仏を習合させる信仰行為」である。神道と仏教を両立・和合させるための理論づけをおこない,その整合性をもたせた「一種の合理論」である。

 明治時代に入って天皇を「絶対:立憲君主」制政治の中核におこうとした帝国政府は,国家「神道が理論として仏教から自立するのは容易なことではなかった」けれども,「近代」国民国家を政治理念的に牽引するための国家宗教として,伊勢神宮に代表される「神道」に求めたのである。

 3) 日本人が自分を無宗教だと認識する意識
 「現在の大神神社〔おおみわじんじゃ,別名「三輪明神,三輪神社」:奈良県桜井市〕や伊勢神宮では,神仏習合や密教の信仰の痕跡を探ることはひどくむずかしい」。過去の仏教との密接な関係の「歴史を覆い隠してしまう作業が完璧に遂行されてしまっているから」である。これらの神社では「神仏習合というありかたは,いまではタブーになっている」し,「まして,大神神社や伊勢神宮が,両界曼茶羅〔りょうかいまんだら:密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現した曼荼羅〕にたとえられるなどということは,神社の側からは触れてほしくないことがら〔歴史の事実〕になっている」からである(180頁。〔 〕内補足は筆者)

  
  出所)http://www.google.co.jp/search?q=両界曼荼羅&hl・・・ より。曼荼羅の実例。

 一般の日本人は,1000年以上にわたって信仰してきた近代以前のありかたについて十分な認識をもっていない。日本人がどのような宗教を愛してきたのか,その実態は隠されている。私たちは,現代の信仰が昔とかわらないと思いこまされている。つまり「実はそこに,現代の日本人が自分たちを無宗教だと錯覚してしまう原因があるのだ」(180-181頁)

 日本宗教史に関するこの島田の説明を聞くと,明治維新以降の日本においては格別に,帝国政府によって国家政策的に宣布された「明治国家の国営神道」は「宗教にあらず」といった,別言するならば,その《虚構の神道観:虚説の宗教政策》が批判されねばならない。明治維新以降,伊勢神宮を代表格とする「国家神道」的な世界観を裏づけていた日本神州思想は,古来から存在しつづけてきた民間・民俗の,すなわち八百万のための「一般の神社神道」の存在史を,強く圧迫し,ひどく歪曲してきた。その影響は,庶民の意識層において「自分たちは〈無宗教〉である」という,まったく現実的には根拠のない固定観念」を植えつける〈歴史的な原因〉を提供してきた。

 またいえば,日本帝国の敗北によって,明治維新以来,国家次元における帝国臣民の宗教意識とされてきた神道概念が,全面的に否定されるという歴史も重ねられてきた。こうして,日本の庶民の意識表相においてはなおさらのこと,日常生活のなかにまさに浸透している民間・民俗の神道宗教の遍在が,本当は深層の底流を形成する実体でありながらも,なお意識面においては配慮されず無自覚に「自分たちは無宗教の人間」だと勝手に思いこんできた。

 ③ 伝統の危うさ-皇室のために創られた伝統-

 1) 明治政府の創造した神道観
 島田は,神社参拝するさい正式なやりかたである「二礼二拍手一礼」も,実は「明治になってから定められたものだ」と指摘している(187頁)。明治政府は,伊藤博文を代表格とする政治家たちが中心になって,帝国政府の神聖性を人格的に象徴させる存在に明治天皇を据えた。明治時代当初における「廃仏毀釈の前史」を踏まえたうえで,一般の神社神道に向けては,あれこれの『伝統の創造』に励んできたわけである。その一例が「二礼二拍手一礼」であった。

 島田は,明治以来であるから「いまのやりかたは,わずか140年程度の歴史しかもっていない比較的新しいものなのだ」。たとえば昔は「伊勢参りに訪れた人たちの姿」は「皆,合掌している」。「神社の社殿のまえであろうと,寺や仏堂のまえだろうと,まったく同じで,拍手を打っているような人はまったくみかけない」とも指摘している(187頁)わずか140年程度の明治以来における日本の神道宗教史をもって,換言すれば,今日われわれが観察できる日本社会の表相面においてみられる神道の様相をもって,古代日本から連綿と1000年以上も継続する神道史を軽くみてはいけない。これが島田の見解である。

 神仏習合の時代には,神道と仏教とが複雑に混じりあい,両者を区別することはできなかった。仏と神を同時に祀っているようなところがほとんどである以上,そのまえでは合掌するという統一されたやりかたをとるしかなかった。神道なのか,仏教なのかをはっきりと区別して,それぞれで参拝のしかたをかえるなどということは,とても不可能であった。〔そもそも〕神道と仏教を,それぞれ独立した宗教としてとらえるというみかたじたいが近代になってはじめて生まれたものだ。・・・近代以前には,宗教ということが事態が存在しなかったのだから,神道や仏教を異なる宗教として区別することなど,とてもできなかったのだ(187-188頁。〔 〕内補足は筆者)

 だから「『伝統』といわれるものはかなり怪しい。日本の宗教については,近代以前と近代以降とでは,決定的な断絶がある。江戸時代までの日本人の精神世界は,近代化の影響を受けた明治以降の日本人のそれとは根本的にちがうものなのだ」。「伝統の強調は政治的な意味合いをもつ。伝統を強調する人たちは,それが昔から受けつがれてきたことに価値をみいだし,それによってその存在意義を高く評価しようとす。だが,それには歴史の歪曲があ」る(188頁)

 2) 近代天皇と国家神道の役割
 特別の理由も示されることもなく,これまで「古式ゆかしき皇室の行事」とかいう美辞の表現が乱用されている天皇一族の儀式・祭事は,眉唾的なみかたで接する余地がある。島田は,神社の建築様式のうちたとえば「棟持柱」(図解参照)は,江戸時代のに復古の動きで生まれた時代の産物である可能性が高いという。本居宣長や平田篤胤などによって復古神道が唱えられ,神職のなかかには神社から仏教的な要素を極力排除しようとする試みに出る者もあったのである(189頁)

   
  出所)左側の画像に「棟持柱」が指示されている。
     右側の画像は出雲大社本殿の復活想像図として推測された棟持柱。
     http://www.pref.toyama.jp/sections/3009/3007/digital/02-gallery/bunzai-txt/02-gallery_002_5.html
     http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/312/29/1/izumo10.jpg
  
 「伝統が作られたものである点は,天皇と神道との関係にも示されてもいる。いまでは,天皇家の信仰といえば,神道に限定されるが,これも昔からのことではなく,近代以降に作られた新しい伝統なのだ」。「現在天皇が生活しているのは東京の中心にある皇居だ。そこには,江戸時代には江戸城があった場所で,その時代には江戸幕府が置かれていた。明治になって新政府が誕生し,幕府が消滅すると,京都から移ってきた天皇が皇居に住まうことになった」(189-190頁)

 1879(明治12)年に皇居の造営が決定されるが,そこには新たに「宮中三殿と呼ばれる祭祀のための場が設けられた。この宮中三殿は賢所(かしこどころ),皇霊殿,神殿からなっている。中心となるのは賢所で,そこには皇室の祖神である天照大神と,その孫にあたる瓊杵尊(ににぎのみこと)が祀られている。皇霊殿には,代々の天皇や皇后をはじめ,皇妃や皇親(親王,内親王などの皇族)の霊が祀られた。また,神殿には,八百万の神々が祀られた。この宮中三殿の左手には,その年のはじめての収穫を神に感謝するための「新嘗祭」が挙行される神嘉殿も設けられた(190頁)

 
 出所)http://www.hls-j2006.com/koukyo/003/ 南西部に宮中三殿がある。

 「賢所→皇霊殿→神殿」という皇室神道内部における〈神々の秩序〉は,日本の神々を天皇家の都合の合わせて構成させ序列化している。明治以来「創られてきた」このような「日本帝国→日本国」の神道思想は,天皇一族を中心・頂上に位置づけ,この国を近代精神的に原則化,組織化してきた証左である。それも,宗教的な観点から国家体制を固めておこうとする政治意識である。近現代における日本の国家形態は,民主主義の基本原則に照らしていえば,21世紀の現段階はむろんのこと,明治33年という20世紀に入いる歴史の段階においても,まだまだ前近代的・半封建的な政治態様でしかなかった。

 ④ 日本国憲法における天皇・天皇制の根本矛盾

 1)「政教分離」などおかまいなしの天皇家の神道教
 島田は,日本国憲法における天皇・天皇制の問題にも立ち入る議論に進む。宮中祭祀は天皇家の私的な行事である。ところが,一部の大祭には内閣総理大臣など三権の長が列席していると「いわれている」。このあいまいな表現:「いわれている」が使われるのは,その詳細が明らかにされていないせいである(192-193頁)。現代日本の政治状況のなかにあって,日本国憲法の条文に定められている天皇家の存在には,説明しかねる「そのような暗部」がある。この事実についてわれわれが,不安・不信・不審を抱いて当然である。けれども,島田のようにその所在を明確に指摘する人はきわめて少ない。

 佐藤栄作首相は,その在任期間中,春季と秋季の皇霊祭と新嘗祭にはほとんど欠かさず出席していた。最近の例では,麻生太郎首相が春季皇霊祭に出席していたことも明らかになっている。戦後の日本国憲法のもとでは,天皇は「日本国の象徴」であるとされている。また,信教の自由が基本的人権のひとつとして認められ,政教分離の原則が採られている。宮中祭祀に総理大臣などが出席することは,この政教分離に違反する可能性がある(193頁)。島田はあえて抑えてなのか,そのように「可能性がある」などと表現しているものの,皇室の宗教行事に首相などが参加するのは,その「可能性の発生」に鑑みれば「止めておくべき」である。
 
 天皇は,明治の近代化以降,宮中祭祀を司ることを重要な役割としており,しかも昭和天皇や平成天皇は,明治天皇や大正天皇以上に,こうした宮中祭祀に熱意をもっている。宮中祭祀じたい,天皇が京都にいた時代には京都御所のなかになかったものである。明治以前におこなわれていた祭祀も,大祭では「神嘗祭と新嘗祭」,小祭では「歳旦祭と祈年祭と節折,賢所御神楽」だけであった。

 要は「明治以前におこなわれていた宮中の祭祀と,明治以降今日まで受けつがれている宮中祭祀とを比較したとき,はっきりとした違いがある」。「明治以降では,天皇家の祖先を祀る祭祀は,紀元節のように日本の国の始まりにかかわるような国家的な祭祀が含まれるようになった。そこには,天皇家の祖神や祖霊を神格化し,さらには天皇自身をそれにつらなる現人神として信仰の対象にしようとする意図が働いていた」(193-194頁)

 2) 明治を境に仏教から神道へ宗旨替えした天皇家
 島田はさらにこうも述べる。日本の歴史を振りかえってみたとき,こうした天皇のありかたや,その神道との関係は,けっして伝統的なものではなく,まったく新しいものだった。むしろ天皇や天皇家は長く仏教と深い関係をもってきた。もちろん,そこでいう仏教は,神道をはじめ儒教や道教とも習合した信仰である(194頁)

 明治以前の宮中においては,現在の宮中祭祀に含まれる神道式の儀礼ではなく,仏教や陰陽道,あるいは民間信仰に由来する雑多な祭儀や行事が営まれていた。それが節分・端午の節句・盂蘭盆会・八朔などで,天皇が病気にかかったときには,祇園社(現在の八坂神社)で祈願がおこなわれたし,密教僧による祈祷もおこなわれた。

 天皇や皇族の霊にしても,平安時代以来,宮中にある「お黒戸(くろど)」と呼ばれる仏壇にその位牌が祀られていた。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺(せんにゅうじ)で,天皇や皇族が亡くなったときには,泉涌寺の僧侶たちが葬儀をおこなった。天皇家は間違いなく仏教を信仰していた(195-196頁)

  
  出所)http://www.mitera.org/

 それが,明治維新の神仏分離によって根本からあらためられる。位牌は移動され,最終的には泉涌寺に落ちつくが,皇族の葬儀は仏式ではなく神式で営まれるようになり,天皇家からは仏教は一掃された。こうして「従来の伝統が否定され,天皇家はもっぱら神道を信仰するように変化していく」。「日本に仏教が伝えられて以来,長くつづいてきた天皇家と仏教の親密な関係は断ち切られた」。「神仏分離と廃仏毀釈は,このようなかたちで,宮中においても徹底したかたちでおこなわれたの」である。しかも「それは,天皇家に連なる個々の皇族の個人的な信仰を否定することにもつながった」。「皇族には信教の自由はなかった」(196-197頁)

 3) 靖国神社の神仏習合
  靖国神社は毎年7月13日から16日にかけて「みたままつり」を開催する。これは,戦後,靖国神社が平和を希求する空間〔!?〕であることをアピールするための始まった。最近では20歳前後の若者が大挙して押し寄せているが,その期間は新暦の盆の期間に当たる。盆の行事は中国において生まれたもので,インドの仏教にはなかった。それでも仏教の行事であることにかわりない。「みたままつり」がこの時期に開催されるのは,明らかにお盆の影響である。その点で,靖国神社は仏教の信仰をとり入れている。
 出所)画像右側は2007年7月「みたままつり」用の宣伝「ポスター」。
    画像左下側は2011年7月の同上。
    http://kazu77.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_80a6.html
    http://swingbooks.jp/2011/07/14/mitama/

 そもそも,戦争に従事して亡くなった人間の霊を慰めるということじたい,神道の教えにもとづくものではない。仏教の教えである。靖国神社といえば,近代以前の神仏習合からもっとも遠い場所かと思いきや,かえってその距離は近い。それほど仏教の考えかたは,日本人の精神世界に深く浸透し,神道にも影響を与えている(209頁)

 日本人は神道と仏教が分離され,一時仏教がないがしろにされた時代もあったものの,ふたつの宗教を現代まで守りつづけ,両者ともに愛してきた。神道は,戦前のような国家の保護を失ったけれども衰退することなく,今日まで受けつがれ,最近ではパワースポットのブームの恩恵を被っている。そこで関心をもたれる神道や神社は,国民を戦争に駆り立てたような国家主義的なものではない。靖国神社でさえ,年を追うごとに,都民の憩いの場としての性格を強めている(210頁)

 もっとも,島田のこのような靖国解釈は,遊就館のごとき戦争博物館の付設されている事実を度外視してのものである。靖国神社の「みたままつり」でここに集う若者たちは「英霊」を祀る気持などなくとも,神社側ではそのような参拝者として彼らを勝手に解釈しているに違いない。

 ⑤ 明治新政府の時代錯誤

 1) 国家神道の蹉跌
 島田も「近代国家を建設するさいに,古代国家の〔政治:律令〕体制をモデルにしようというのは時代錯誤の試みにほかならなかった」「けれども,明治新政府はそれを強行した」。明治政府は「天皇を中心とした祭政一致の国家のありかたを一般国民にしらしめること」にする(198-199頁。〔 〕内補足は筆者)という,完全に時代錯誤の方途を採った。

 そうして,欧米先進国の植民地にはならずに済んだものの,その欧米に倣って推進させた2流帝国主義路線のゆきついた末路が,第2次大戦=大東亜戦争での完全敗北であった。その間,神道に関しては,日本の国民全体にその儀礼への参加が強制され,日本国民であれば神道の祭祀にかかわることが義務として課され,それに反すれば,治安維持法や不敬罪に違反することになった。「皇室神道」や「国家神道」は「宗教にあらず」と既定されていた。この宗教路線は,帝国臣民のみならず植民地の人びとにも拡大され強要されていった。

 島田はさらにこう批判する。--『古事記』や『日本書紀』といった神話に描かれていることがそのまま歴史的な事実とみなされ,天皇は神々の血を受けつぐ神聖な存在,現人神として国民全体の信仰の対象に祀り上げられていった。宮中祭祀において神主の役割を果たしていた天皇は,その祭祀の対象となる皇祖神と一体化することで,同時に神としての性格をもつようになった。

 江戸時代の庶民は,天皇のことなどほとんどしらなかった。直接に政道にたずさわっていなかったので,その存在を意識する必要もなかった。それが,明治時代になって,現人神という信仰対象として祭り上げられたのである。こうした体制は戦後,神道が国の宗教として強制されたという面から「国家神道」と呼ばれるようになる。この国家神道は戦後解体され,その特権的な地位を奪われた。天皇にしても,みずから「人間宣言」をおこない,その神聖性を否定した。

 けれども,天皇家の信仰が,明治以前のありかたに戻ることはなかった。信仰体制という面で考えてみれば,戦前と戦後とではほとんど変更がくわえられていない。まして,近代以前の仏教信仰が皇室において復活することもなかった(200-201頁)

 2) 自分は神の子孫といまだに思いこんでいる天皇たち
 さて,昭和天皇の「人間宣言」(1946年元旦)は,天皇裕仁が自身の口から〈現人神〉である点を否定はしたけれども,「天照大神の子孫である自分」が〈現御神〉である点を否定はしなかった。こうした神話の世界に遊ぶのが天皇家の人びとなのである。

  天皇が神であることは否定された。しかし,天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。天皇と国民 との相互の愛による永遠結合の主張はむしろ伊勢神道の肯定であり天皇的神格の肯定でさえある。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇がおこなう神聖な儀式 を廃止するわけわけでもなかった。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/人間宣言

  「明治以来に創造してきた作り話=神話的な歴史の観念」が,この21世紀における日本の政治社会のなかで大手を振って闊歩・跳躍している。この様相につい ていうならば,いまの平成天皇も無縁ではなく,その「歴史の観念」を共有する人なのである。この事実を,われわれが異様と感じるか否かは,1人ひとりの政 治感覚・理解の度合によっても大きく異なる。だが,民主主義の政治原則を「日本国憲法」においてまともに徹底させたいのであれば,本日に論じてきたような 「近現代における天皇・天皇制」の存在じたいを許している日本国の現状は「異常現象である」と痛切に感じて当然である。


2012.1.25

■ 原子炉の耐用年数 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 15:16:16 ( 企業経営問題の分析・研究 )

 ◎ 原子炉に限って60年もの耐用年数は危険である ◎

 【40年の耐用年数でも危ない】

 ①「廃炉法案,了承見送り 民主党内『最長60年』に異論」2012年1月24日

 1)「全国の原発の運転年数」
  標記の題名」は,2012年1月24日の朝日新聞デジタルがかかげた記事の見出しである。くわしく聞いてみたい。--野田内閣は1月23日,通常国会に提出する原子力安全改革法案で原発の運転期間を,原則40年に制限する方針を民主党に説明した。しかし,最長で20年間延長できる例外規定があることから,異論が相次ぎ,法案の了承は見送られた。

 法案は,民主党の環境,内閣両部門会議と原発事故収束対策プロジェクトチームによる合同会議で説明された。内閣から細野豪志原発相らが出席した。例外規定では,原子力事業者が希望する場合に施設の安全性や技術能力の基準を満たせば,1回に限り最長20年まで延長を認める。合同会議では例外規定の削除を求める意見も出た。法案について,野田内閣は1月27日の閣議決定をめざすが,例外規定の修正を迫られる可能性もある。

 細野氏は1月23日午前,都内で講演し,「誤解を生む部分があったが,40年で線を引く」と述べ,運転期間はあくまでも40年が原則だと強調。さらに「私が外遊している時で,皆さんに十分伝わらなかった」と,方針が迷走したことを陳謝した。細野氏は1月6日の会見で,原則40年で原発を廃炉にする方針を発表した。だが,細野氏が渡米中の1月17日になって,事務方が最長20年の延長を認める例外規定について説明。廃炉までの期間が原則40年なのか60年なのかで混乱を招いた。

 2)「『40年で廃炉』迷走」
 原発は40年間で廃炉にするのか,60年まで運転できるのか。原発の運転期間をめぐる野田政権の方針が定まらない。例外規定をめぐり迷走していることが,不信感を広げる。原発の寿命の根拠も明確ではなく,混乱は収まりそうにない。

 3)「例外延長『完全な骨抜き』 民主会合,法案に批判集中」
 1月23日の民主党環境・内閣・原発事故収束対策プロジェクトチーム(PT)の合同会議。野田内閣が示した方針は,原発の運転期間を「原則40年」とすること。だが,返ってきたのは,最長20年延長できる例外規定に対する批判の集中砲火だった。収束対策PTの荒井 聰座長は「法案を見れば,60年の運転を認めるとしか読めない」と指摘した。岡崎トミ子党副代表も「60年の運転延長は,メーカーが主張していたことだ」と訴えた。

 この方針を定める原子力安全改革法案を審議する予定の衆院環境委員会の生方幸夫委員長は,例外規定の削除を要求。約20人の出席者は,原発への依存を減らす「原発」を主張する人が多く,例外規定に賛同する意見はゼロだった。法案では,原発の安全性や原子力事業者の能力が基準を満たすと環境相が判断したばあい,延長を「認可しなければならない」と義務づけた。この書きぶりに,民主党内からは「霞が関文学で完全な骨抜きに」(谷岡郁子参院議員)との反発がやまない。

 民主党政権は「減原発」にかじを切ったからこそ,40年で廃炉にする方針を打ち出したはずだった。細野豪志原発相は1月6日の記者会見で,「40年以上の原子炉の運転は極めてハードルが高くなった」と述べ,延長を認めるのは極めて例外になることを強調。ところが,1月17日に事務方が例外規定を「最長20年」と明かし,混乱が生じた。この内容は細野氏も了承済みだったという。

 細野氏はこれまで例外規定の運用基準について「施設の経年劣化の評価,運転期間中に原子炉施設の保全を遂行する技術的能力などを厳格にチェックする」などと説明している。民主党内の了承を得るために,例外規定の明確化が焦点になる。

 4)「米,経済性で『60年』」
 運転年数が法律で制限されることになったことに対し,電力会社でつくる電気事業連合会は反発する。1月12日,40年に運転年数を制限する技術的な根拠や,40年を超えて運転を認めるさいの条件を,はっきりさせるよう内閣官房に要望した。商用原発が登場した1960年代後半,原発の寿命は「30~40年」といわれていた。原子炉圧力容器の金属は,核分裂で生まれた中性子が当たりつづけるうちにもろくなる。米国の原発設計にならい「この年数なら大丈夫」と予測,電力会社は地元にも説明してきた。

 米国は運転年数を40年と定めている。しかしその後,新規立地が進まないことから米国原子力規制委員会(NRC)は申請すれば20年間の延長が認められる仕組をとり入れた。原子炉を長く運転したほうが経済的であることが理由である。解析技術が向上して40年を超えても大丈夫か評価できるようになったことも背景にあった。今回の日本の「最長60年」も,米国を参考にしたという。

 日本はとくに運転年数を定めてこなかった。原子炉等規制法で定められた約1年に1回の定期検査を通れば運転はつづけられる。ただし,運転開始30年目以降は,10年後とに老朽化の影響を技術的に評価することも義務付けられている。資源エネルギー庁は1996年,福島第一原発,関西電力美浜原発1号機(福井県),日本原子力発電敦賀原発1号機(同)の3基を技術的に評価し,仮に60年運転したとしても安全だと結論づけた。

 今回の40年の運転期限を延長する際の審査基準づくりについては,原子力安全庁が発足する4月以降,専門家の審議会が組織され検討される。基準が示されて,適用されることになるのは来年になるという。
 註記)http://digital.asahi.com/articles/TKY201201230624.html 2012年1月24日03時00分 配信。

  ②「『40年で廃炉』法案固まる 20年延長は『例外』明記」2012年1月24日

 この見出しの記事は,同じ『朝日新聞』2012年1月24日中につづいて,20時間後に報道されていた。--野田政権は1月24日,原発の運転期間を「原則40年」に制限する原子力安全改革法案を固めた。最長20年間の運転延長が「例外」であることを明確にし,4月に発足する新たな規制官庁の名前は「原子力規制庁」とする。1月27日にも閣議決定して今国会に提出し,3月末までの成立をめざす。法案では,原発の運転期間を原則40年に制限する。そのうえで原子力事業者が希望すれば,施設の老朽化や事業者の技術能力などの安全基準に適合していると環境相が判断したばあいに,最長20年の運転を1回限り認める。

 この運転期間を延長する規定は当初,安全基準を満たせば「認可しなければならない」と義務づける内容だった。だが,民主党内から「60年の運転を認めるとしか読めない」といった批判が続出した。そこで「認可することができる」として,環境相が判断する余地を残した。細野豪志原発相が1月6日の会見で「40年廃炉」を発表してから迷走した原発の運転期間は,「最長20年」の延長を明確に例外と位置づけることで決着した。

 また,環境省の外局となる規制官庁の名前についても「原子力安全庁」とする案を変更し,昨〔2011〕年12月の民主党の提言を踏まえて,「原子力規制庁」とすることにした。こうした修正を受けて,1月24日に開かれた民主党環境,内閣両部門会議と原発事故収束対策プロジェクトチーム(PT)による合同会議は,法案の内容を大筋で了承した。

 これまで原発の運転期間に明確な基準はなく,経済産業省原子力安全・保安院が運転30年を超える原発を対象に施設の安全性を確認し,10年後とに延長を認めていた。法案が成立すれば,原発の「寿命」は原則40年,最長でも60年となる。すでに40年を超える原発もあることから,さっそく判断が問われる。
 註記)http://digital.asahi.com/articles/TKY201201240674.html?id1=2&id2=cabcabcf  2012年1月24日23時04分 配信。

 ③ 建造物の耐用年数

 一般に建造物の耐用年数はどのくらいの期間であるのか,つぎの解説が参考になる。

 a)「鉄骨鉄筋コンクリート造又は鉄筋コンクリート造のもの」

  ※-1 事務所用又は美術館用のもの及び下記以外のもの: 50年

  ※-2 変電所用,発電所用,送受信所用,停車場用,車庫用,格納庫用,
      荷扱所用,映画製作ステージ用,屋内スケート場用,魚市場用またはと畜場用のもの: 38年

 b)「れんが造,石造又はブロック造のもの」

  ※ 変電所用,発電所用,送受信所用,停車場用,車庫用,格納庫用,荷扱所用,
    映画製作ステージ用,屋内スケート場用,魚市場用またはと畜場用のもの: 34年

 c)「金属造のもの(骨格材の肉厚が4ミリメートルを超えるものに限る)」

  ※ 変電所用,発電所用,送受信所用,停車場用,車庫用,格納庫用,荷扱所用,
    映画製作ステージ用,屋内スケート場用,魚市場用またはと畜場用のもの: 25年
   註記)http://minna-no.com/mkaikei/taiyounensuu/taiyounennsuuFrameset-4.htm
    「耐用年数一覧表1(別表第一 抜粋)」参照。


 これによると発電所は最高でも38年という耐用年数が出ている。製造業において使用される設備・機械は10年から15年とみておけばよい。ところで原子力発電所の装置・機械は,はたして40年という耐用年数からして適切な評価であるのか。ましてや60年まで長期の耐用年数とされたら,はたして本当に大丈夫かという不安が,強い疑問として提示されて当然である。

 つぎに,舘野 淳『廃炉時代が始まった-この原発はいらない-』(リーダーズノート株式会社,2011年9月)の議論を聞こう。

 1) 科学者の批判を無視して大量導入された初期の原発
 日本原子力研究所(原研)にいた科学者(舘野もその1人)は,当時アメリカから導入され,原研に建設されていたJPDR(動力試験炉)と呼ばれる軽水炉がしばしば故障した経験にもとづいて,「軽水炉にはさまざまな欠陥があり,実用化された製品として通用するものでは,けっしてない」と強く感じ,そう主張していた。

 ところが,館野らのような科学者の主張は弾圧され押さえこまれ,欠陥原発が大量に建設された。そもそも40%,50%台という低い設備利用率の原発をつぎつぎに建設した電力会社の当時の経営者は,会社に損害を与えたとして株主から訴えられてもしかたない人たちである(93-94頁)

 本ブログの筆者は「2012.1.23」「■福島第1原発事故の衝撃・恐怖■」「◎日本国と原子力政策と東京電力◎」で「【電力会社幹部の無責任な逃亡状態を許しておいていいのか】」と論じていた。2011年3月中旬に世界中に放射能汚染を拡散させた東京電力福島第1原子力発電所の事故にもかかわらず,同社の当時の幹部がその地位を同僚に譲っただけで,いまだにのうのうと生きていける日本社会の甘さが問題である。

 舘野はさらにいう。欠陥原発を運転しつづけると大事故を起こす可能性が大きい。スリーマイル島原発事故(1979年)のような大事故も,ごく小さな故障がきっかけで発生している。小さい事故を起こして始終運転停止を繰りかえしている原発は大事故発生の予備軍なのである(94頁)。ここで話題はリニューアル原発に移る。

 2) リニューアル原発は安全か
 一般に工業製品は古くなり使用期限の来た部品を交換することによって,再び機能を回復し,長い期間利用することができる。原発も工業製品である以上,部品交換によってリニューアル(更新)されることも事実である。しかし,原発が自動車などの工業製品と異なる点は,とくに初期原発のばあい「最初から交換を予定していない部品まで交換を進めている」ということである。その典型的な例は,沸騰水型炉(BWR)のシュラウドや加圧水型炉(PWR)における蒸気発生器である。

 その部品の交換は,強い放射線のもとでの困難な特殊作業を伴い,修理によっても,もとのものと同等な性能が保証されるとはいいがたい。設計時には考慮されていなかった部品の修理・交換によって,予想もしていなかった変化が生じ,そこから事故が起きないとも限らない。事故は「思ってみなかったこと」つまり安全上の見落としが原因で起きる。設計・建設にさいしてはそのような見落としがないように努力するが,それでも盲点があり事故が発生する。部品交換のような,いわば応急措置の繰りかえしによって,新旧の設計思想・基準・材料・機能などが混在することになり,この次元での見落としの発生する確立は高まり,事故発生の可能性は増大する(95-96頁)

 3)「事故・故障原因の半数が『応力腐食割れ』」
 軽水炉,とくに1970年代初めに建設された軽水炉ではしばしば事故・故障が発生している。その原因の大半が「応力腐食割れ」である。その原因は水による金属材料の腐食,とくに応力腐食と呼ばれるひび割れがいたる箇所に発生する。これは軽水炉の宿命的な病といわれてきた。点検中に発見された異常の60%近くが応力腐食割れに起因すると考えてよい。問題は事故・故障隠しやデータ改竄の事件が多発してきたことである。しかも,その事実は1種の内部告発により初めて明らかになっていた。こうした企業のやりかたが,まだまだ隠されているという疑念を生み,信頼失墜につながっている(101頁,103頁)

 4)「原発チェックの基準」
 日本でこれまで稼働してきた原発を,いちいちその安全性を点検することは容易ではない。30年〔2000年発行の著作での話だから,いまから41年〕を超える原発運転史を通じての,完全な事故・故障リストはできていない。事故隠しなどは論外であるが,公表された事故・故障例に関してもその原因や対策などについて,最近でこそかなりくわしく公表されるようになったものの,以前はくわしい発表のないケースが多く,電力会社や国の秘密体質が色濃くにじんでいた。

 舘野が原発の安全性を点検する要点は,つぎの5点の判断基準である。

  a) 立地条件はどこか。地震,人口密度,過度に集中立地していないか。
  b) 設計・材料・製作上の問題点はないか。
  c) 事故歴とそれが現在の安全性に与える影響は。
  d) 老朽化の程度は。
  e) 住民に対する事故隠しや不誠実な態度などなかったか。
  f) 安全性と直接関係なくとも,原発が地元に与える社会的・経済的影響はどうのようなものか(109-110頁)

 ③ ポンコツ原発

 舘野は「ポンコツ」原発群という表現を使っている。部品をつぎつぎの交換して原子炉の寿命が延びたとする考えかたによれば,原子炉の寿命は当初20年程度とされていたけれども,いつのまにか30年・40年といわれるようになった。最近では60年という声も聞かれる。いくら部品の交換が可能といっても,圧力容器のような交換できない部品もあり,その結果,交換できない部品に欠陥が蓄積して老朽化が進み,それがある日,大事故の引き金にならないとも限らない。部分的修理を重ねてつつ使用期間をなし崩し的に延ばすのではなく,ひとつの装置としての寿命はどれだけかを真剣に考えるべきである(110頁)

 舘野は「使い古しの原発」(運転年数25年から17年〔これは2000年現在の話であるから,いまではそれに11年足していうと,36年から28年)がずらりと並んでいるのが日本の原発地帯であって,型式や材料が古く,設備利用率も低い(110-111頁)。冒頭に出ていた図表も,もう一度参照してほしい。

 いずれにせよ,いったん原発の大事故が発生したら災害はその地域に止まらない。それどころか地元から数百キロ離れた地域まで大きな災害をもたらすのであるから,地域性と全国的視野との両面から考えていく必要がある。それゆえ,すでに実現したが,舘野も第1に「浜岡原発(1・2・3・4号機)の廃止を挙げていた。

 一方で地震災害のための避難訓練をしておきながら,そこに原発を建設することは,行政が縦割りだからこそ認められてきたが,少しでも物事を合理的に考えようとすれば説明のしようがない。まして,原発の新増設が進められるなどというのは,正気のさたとは思えない(252頁)

 2011年5月初旬,浜岡原発の稼働停止を菅 直人前首相が決断するさい,その判断基準が明晰ではないと原発推進派からは執拗な反発と反対があった。しかし,この菅首相の決断は正解であった。

   
   出所)http://blog.livedoor.jp/erinamano/archives/51637968.html
      これは同心円(半径)での作図である。

 
   出所)http://www.stop-hamaoka.com/simulation.html
     これは風向きを想定しての拡散状況である。

 ④「原発事故対応,議事録なし 政府対策本部,認識後も放置」2012年1月25日

 枝野幸男経済産業相は1月24日,東京電力福島第1原発事故後につくられた政府の原子力災害対策本部が,これまでの議論を議事録として残していなかったことを明らかにした。経産省は事故後の混乱で手が回らなかったとしているが,事故対応を決める重要会議でなにが話しあわれたか検証できなくなるおそれがある。

 枝野氏は官房長官だった2011年5月11日の記者会見で「危機対応なので議事録をとるような場がほとんどなかった」との認識を示していた。ただ,その後も議事録は作成されないまま,同年11月にNHKが情報公開請求した後,年明けになって再び問題化した。

 対策本部の事務局を務める経産省原子力安全・保安院は1月23日の会見で「まだ議事録は作成していない。緊急事態では事後的に作成が認められており,会議の内容や決定は記者会見を通じて説明している」と弁明していた。しかし,枝野氏は1月24日の閣議後の記者会見で「事故発生後の緊急事態とはいえ,(手続が)整えられていなかったことをおわびする」と話した。

 枝野氏は,保安院に会議の内容を記した文書をつくるよう指示した。来月中にも公開する予定である。対策本部の会議には関係省庁の職員らが出席しており,保安院は他省庁にも協力を求め,出席者のメモや記憶をもとに文書をつくるという。

 対策本部は原発事故が起きた2011年3月11日に首相を本部長として作られ,同年12月26日までに23回の会議が開かれた。すべての閣僚が出席し,事故対応などの重要な政策を決めた。ところが,事務局を務める保安院は全会議を公式に記録していなかった。保安院はその理由を「事故後の混乱で文書の作成まで手が回らない状態がつづき,その後もそのままにしていた」と釈明している。

 公文書管理法では,省庁の職員には,政策が決まる過程をたしかめられるよう会議の文書づくりが義務づけられている。作成の期限や罰則などはないが,枝野氏は会見で「国民的関心,社会的影響の大きさを踏まえると,可能な限り迅速におこなうべきだった」と話した。また,政府の公文書管理を担当する岡田克也副総理は1月24日の会見で,東日本大震災を受けてつくられた緊急災害対策本部でも「(議事録が)作成されていない疑いが濃厚だ」と話した。

 岡田氏は「公文書はあとから行政を検証する民主主義のインフラ」と語り,震災対応で立ち上げた政府組織すべてで議事録があるかどうかを調べる考えを示した。また,各閣僚に公文書管理法にもとづく文書作成を徹底させる。ただ,「事後的につくることが認められないわけではない」として議事録作成を怠った関係者の処分はしないとした。
 註記)http://digital.asahi.com/articles/TKY201201240551.html  2012年1月25日03時07分 配信。

 政府がこのように「3・11」関連の公文書をきちんと作成したこなかった事実は,驚いていいはずである。原発事故の歴史を記録する文書管理の基本方針がない国がこの日本だとすれば,まことに情けない状況である。しかし,日本国の優秀な高級官僚たちは,いったいなにをしていたのか? まさか民主党政権の「政治主導」という当たりまえの理念に反抗してきたつもりではあるまい。


2012.1.23

■ 福島第1原発事故の衝撃・恐怖 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 10:22:54 ( 企業経営問題の分析・研究 )

 ◎ 日本国と原子力政策と東京電力 ◎

 【 電力会社幹部の無責任な逃亡状態を許しておいていいのか 】

 ① 吉岡 斉『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』2011年10月

 1) 吉岡 斉「原子力政策論」の3・11「以後」
 吉岡 斉[ヨシオカ ヒトシ]の経歴から紹介する。1953年富山市生まれ,東京大学理学部物理学科卒業,同大学院博士課程単位取得退学,現在,九州大学大学院比較社会文化研究院教授(社会情報部門社会変動講座),同大学副学長。専攻は科学技術史・科学技術社会学・科学技術政策で「産業技術と倫理の関係について研究し,科学社会学を構想している」。政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」委員を務めている。
 
 吉岡の原子力問題に対する思想や立場は,推進派でも反対派でもなく,またその中間ともいえないような《独自の路線》を描いて,原子力発電問題にもとりくみ,議論をしている。吉岡『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』(朝日新聞出版,2011年10月)は,まずこういう展望を記述している。

 2011年3月11の福島第1原発事故は,従来の原子力政策に対して大きな見直しを迫った。少なくとも,十数基の発電用原子炉が廃止されるみこみであり,日本全国の原発の総基数・総設備容量は大幅減となる。また,福島第1原発事故を契機に原子力開発利用を偏重してきた従来の原子力・エネルギー政策が転換される可能性は高く,そうなれば原子力発電は急速に衰退に向かうし,とくに核燃料サイクル事業は真っ先にリストラの俎上に載せられ,事業継続がきわめて困難になるはずである(43頁)

 2) 吉岡 斉「原子力政策論」の3・11「以前」
 本ブログ「2011.8.17」「■原発を捨てるなと日本に勧める変な英米人たち■」「◎『学問のすすめ』ならぬ「原発の勧め」を説く変な外国人◎」「【あるイギリス人の「余計なお世話」】」は,②「日本経済新聞紙上の原発推進派的な論調」「 2) 吉岡 斉の『脱原発』論」でも,吉岡 斉の思想・立場について,こう記述していた。

 吉岡は,2011年3月11日に発生した東日本大震災以前までの自分の立場を「脱原発論者ではないが,原子力発電の弱点と生存能力に対する評価においては,実質的に脱原発論者に近い」(吉岡 斉『原発の日本の未来-原子力は温暖化の切り札か-』岩波書店,2011年2月8日初版,9頁)と,いささか歯切れの悪い位置づけをしていた。だが彼は,東日本大震災を契機にその立場を急転させる。吉岡『原発と日本の将来-原子力は温暖化対策の切り札か-』2011年2月8日に発行されたが,4月6日に同書の2刷を準備する段階で,彼はこう告白した。

 福島原発親祭は,世界的にも前代未聞の「同時多発原発事故」であり,炉心および冷却ブールで核燃料棒の損傷・溶融が同時多発的に起こった。いま(2011年4月6日現在)も原子炉が大破壊へと移行する危険は去っていない。この原発震災の処理には,原子炉の解体・撤去だけでなく,広大な汚染地帯の除染も含め,数十年の歳月と数十兆円の費用がかかるとみられる。これは原子力発電コストを約2倍に押し上げる。数十万人の被曝要因が必要となるかもしれない。原発はクリーンだという言説はブラックジョークと化した。

 復旧のための人的,金銭的負担は子孫にも及ぶ。今後数年間は首都圏を含む東京電力管内で深刻な電力不足がつづくであろう。原発に依存し過ぎる電力供給システムの安定供給特性の劣悪さが露呈した。筆者は「人類は核とは共存できない」という立場はとってこなかったが,今回の震災を踏まえて原発の総合評価のバランスシートをみれば,日本は脱原発に向けて舵を切るのが賢明だと思われる(吉岡『原発の日本の未来』29頁)

 
   出所)吉岡『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』43頁。

 九州大学で教鞭をとる研究者としての吉岡は,そう簡単には明確に「脱原発」の立場はとれていなかった。しかし,いまではもう完全に「脱原発」,いいかえれば「反原発」の考えに向かわざるえなくなった。『原発と日本の将来-原子力は温暖化対策の切り札か-』(岩波ブックレット № 802)の増刷にさいして吉岡は,この本の余白部分を利用する方法でもって,その転向点をわざわざ前段の引用のように書いておかねばならなくなっていた。

 2) 吉岡『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』2011年10月
 吉岡の『原子力の社会史』(朝日新聞社,1999年4月)は,2011年10月25日に〈新版〉を公刊するに当たり,日本の原子力政策に関するこうした基本的な視座を定めていた。本書の目次(章構成)はこうなっている。

第1章 日本の原子力開発利用の社会史をどうみるか
第2章 戦時研究から禁止・休眠の時代(1939~53)
第3章 制度化と試行錯誤の時代(1954~65)
第4章 テイクオフと諸問題噴出の時代(1966~79)
第5章 安定成長と民営化の時代(1980~94)
第6章 事故・事件の続発と開発利用低迷の時代
     (1)世紀末の曲がり角(1995~2000)
第7章 事故・事件の続発と開発利用低迷の時代
     (2)原子力立国への苦闘(2001~10)
第8章 福島原発事故の衝撃

 本書の解説に聞こう。「福島事故後,再刊希望が殺到した旧版を改訂した待望の新版」。「福島第1原発の破滅的な事故に至るまでの70年間,日本の原子力開発はどのように進められてきたのか。大戦中の実らなかった原爆研究の後,戦後は核平和利用の旗のもとで世界にもまれな『安定成長』をとげてきた日本の原子力発電だが,核燃料サイクルも使用済燃料処理も計画どおりに進まず既設原子炉の老朽化が進む。それらを担ってきた政・官・産・学・自治体のせめぎあい,さらに背景にある核をめぐる国際政治などをあざやかに切り分けた本格的通史」である。

 吉岡は新版の「あとがき」でこう断わっている。「筆者はほとんど本能的に批判的分析をくわえようとする習性を,幸か不幸か身に付けてしまった。原子力だけに対して,特別に批判的なわけではけっしてない」(395頁)。トヨタ財団の研究助成〔1988年度以降〕を受けてもきた吉岡は「原子力の社会史を,もっとも重要な研究テーマとして位置づけて」研究する経歴を形成してきた。吉岡は「あらゆる科学技術分野が筆者にとって批判的分析の対象なのである」という学問的な信念をたずさえ,「3・11」以後においても「原子力に対して批判的立場をとってきた」(396頁)と,自信をもって断言している。ただし,本ブログの筆者は,吉岡がここまで断定的にいってもいい完全なる事由を探しあぐねているが・・・。

 吉岡『原子力の社会史-その日本的展開-』は1999年に初版を出したものの,「この作品の売れ行きは振るわず,重版ができないまま10年あまりが経過した」(398頁)。ところが,本書の新版が準備され公刊されるまでには,ツイッターには「日本の原子力政策の通史として評判が高い吉岡 斉『原子力の社会史』(朝日選書=絶版)がアマゾンマーケットプレイスで19980円と98000円の暴利で売られている(泣。再販してほしい。どうすればいいんでしょうか??」という投書も出ていた(2011年5月30日)
 註記)http://twitter.com/#!/ryk_dt/statuses/75148436340604929
    左側の画像:表紙は,吉岡 斉『原子力の社会史-その日本的展開-』の1999年版。

 「しかし,2011年3月11日の福島原発事故によって状況は一気にかわった」。「ソ連で1986年に起きたチェルノブイリ事故に次ぐ,史上最大級の原子力事故に発展してしまった」この「福島原発事故」は「基本的に考え直す必要がある」。「そのためには歴史を検証する必要がある」。「そこで前著〔初版〕で書けなかった1999年から2011年までの10年あまりの原子力開発利用の『現在史』について大幅に加筆した新版を,急遽出版することになった」(398頁)

 1999年初版のときにはそれより先「未来の事実」について執筆できるわけがないから,前段の吉岡の言及方法は若干疑問を抱かせる修辞である。それはともかく,本書『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』において追補された章のうち,とくに第8章「福島原発事故の衝撃」に聞いていきたい。

 ② 吉岡『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』2011年10月,第8章「福島原発事故の衝撃」

 1) 福島原発事故の発生
 2011年3月11日14時46分「東日本大震災」が発生した。マグニチュード 9.0の巨大地震であった。東北地方の太平洋岸,宮城県から福島県にかけての一帯は,世界一の「原発銀座」であり,これにくわえて青森県六ヶ所村には,核燃料サイクル諸施設の集中立地地点もある。これの原発が大震災により地震と津波の被害を受けたのである。地震動により原発やその関連施設〔とりわけ送配電システム〕は大きな被害を受けたとみられ,これに追い打ちをかけるように津波が襲来し,事態を大きく悪化させた(363頁,364頁)

 吉岡は,経済産業省原子力安全・保安院や東京電力が認めたがらなかった地震の被害」を,当然視する立場で説明している。「深刻な事故を招いた引き金は,地震動および津波という自然災害である」「地震動によって,致命的な破壊が生じた」と明言する。ただし,原発事故の特徴として「地震動の影響について決定的な証拠をえるには,配管の破壊状況などの実地検証が不可欠であるが,そのためには放射線レベルが十分下がる必要があり,検証可能な状態になるには少なくとも数年以上の時間が必要となる」(365-366頁)

 2) 福島原発事故の拡大
 福島第1原発の原子炉「格納容器・圧力容器の両者が,3基〔1・2・3号機〕すべてで破損している」「ことは,〔2011年〕3月中には専門家のあいだで共通認識となっていたにもかかわらず,なぜ東京電力が4月半ばを過ぎても格納容器が健全だと思いこんだか謎である」。いずれにせよ,3・11のときは「福島第1原発以外の原発も軒並み危機的状況におちいった」「他の原発も危機一髪だった」(369頁,370頁)という話を聞かされて,いまさらのように背筋が寒くなって当然である。

 東電が当時,自社の原発事故に対して示した認識の姿勢は,事故の現状を本当に推測も把握もできていなかったとすれば,その技術経営面における無能ぶりが批判されねばならない。また,本当は原発の破損状態を承知のうえで「メルトダウン」の認知を後送りさせてきたのであれば,これは21世紀初頭の歴史に刻みこまれておくべき大きな企業犯罪である。『万死に値する大事故』を起こした東電幹部たちが,いまもノウノウと生きていられる神経を許容できる人はいない。東京裁判〔から逃れた者も含めて〕の被告たちに匹敵するともいっていいような「製造物責任に関する重大犯罪」が起きたとみなされるべきである。

 3) 福島原発事故による放射能放出
 福島原発事故がINES(International Nuclear Event Scale:国際原子力事象評価尺度)のレベル7であると日本政府が認めたのは,事故の1カ月後の4月12日であった。3月12日にレベル4相当,18日にレベル5相当とあらためていたが,その後1カ月近くも見直すことがなかった。
 
 原発の周辺住民に対する避難などの指示は,3月11日21時23分に「半径3キロ圏内に避難指示,10キロ圏内には屋内退避指示」,12日早朝5時44分には「10キロ圏内の住民に避難指示」が発せられた。1号機建屋爆発事故を受けて,12日夕刻18時25分には「避難指示」の対象住民を「半径20キロ圏内に拡大」した(この指示がなぜ水素爆発から4時間近くも送れたのかは明らかではない)。

 さらに3月15日11時「半径20~30キロ圏内の住民に屋内退避指示」が発せられ,25日11時46分になると「自主避難要請」が付けくわえられていた。原発事故の発生にさいして周辺住民安全対策としては,世界的にみても避難指示と屋内退避指示の2つしかなく,自主避難要請というのは前代未聞である。しかも特筆すべきは,それらの指示・要請について政府は,なんら根拠を明らかにしなかったことである。

 避難指示や屋内退避要請を出すには,現実的に起こりうる最悪の事故シナリオを設定し,それが現実化したばあいの放射能の拡散を推定し,そこから予想される被曝線量を見積り,住民の予想被曝線量が容認できない水準に達する地域について避難などを勧告する,という方法論の適用が必要である。ところが,シナリオが公表された形跡どころか,それが作成された様子すらうかがえない。シナリオが発表されない状況下では,周辺住民は自主避難の可否を理性的に決定できるはずもなかった。自主避難は無理難題であった(371-372頁)

 本ブログが,昨日「2012.1.22」「■建材用砕石の放射性物質汚染■」「◎原発事故の波紋的影響,その具体例の発生◎」「【無為・無策・無能である国家の迷方針】」や,「2011.12.10」「■われわれの健康など二の次の原発事故対策■」「◎国民・市民・住民・人民に福島第1原発事故の真実を伝えない政治家・官僚◎」「【放射性物質に汚染された粉ミルクの製造・販売の経緯にみるこの国の体たらく】」でも言及したように,国側は福島原発事故にかかわる放射性物質の拡散・汚染状況に関する情報を,国民・住民の側に適切に提供・公開することに失敗していた。意図的にその責任を回避していた向きさえあった。

 2011年4月に入っても政府対策本部の動きは緩慢であった。半径20キロ圏内を警戒区域に指定する正式決定は,事故から1カ月以上も過ぎた4月21日にもなって下されていた。翌22日には年間積算線量20ミリシーベルトを超えそうな地域を,政府は計画的避難区域に指定したが,そこには福島県飯舘村など半径20キロ圏外の「ホットスポット」も含まれていた。同時に半径20~30キロ圏内の大部分については,屋内退避指示を解除し,緊急時避難準備区域にあらためた。

   
   出所)http://gigazine.jp/img/2011/03/15/sievert/Capture20110315-121014.jpg 以下の説明もここに参照。
「シーベルトとは『ある期間に被曝した量の合計』を表わす単位であり,1時間その場所で過ごした人が1シーベルト「被ばく」することになる。この状態が『1シーベルト毎時(Sv/h)』である」。
「マイクロ」というのは「ミリ」のさらに1000分の1。1マイクロシーベルトは1シーベルトの100万分の1である。200万マイクロシーベルトで5%致死線量なので,2000マイクロシーベルトでも5%致死線量の1000分の1である。10万マイクロシーベルト(100ミリシーベルト)を超えるとガンになる人が増加するとされている。      

 4月19日に文部科学省は,福島県内の幼稚園・保育園と小中学校の空中放射線量の上限を1時間あたり3.8マイクロシーベルトと定め,それを超えるばあいは野外活動を1時間程度に制限するように通知した。この基準は,年間20ミリシーベルトと被曝線量上限とする考えかたにもとづいて決められていたが,基準じたいが寛大過ぎることにくわえて,内部被曝を考慮しておらず,しかも放射線に敏感な子どもにも大人と同じ基準を適用するものだとして,きびしい社会的批判を呼んだ。

 福島原発事故では,作業員の放射線防護と被曝管理もずさんであった。政府は3月15日,緊急時の被曝基準を年100ミリシーベルトから年250ミリシーベルトへと引き上げることを決定していたけれども,その緩められた基準をも超える被曝をした作業員が続出したのである(372-373頁)

 ③ 福島原発事故の国民生活への影響

 1) 周辺住民への影響
 急性放射線障害の症状が確認された者は,2011年7月現在でまだ出ていない。死者者も確認されていない。しかし,地震・津波で負傷したり瓦礫に埋まった被害者のうち,迅速に現地で救助活動がおこなわれていれば助かったかもしれない人びとが犠牲になっていた。福島第1原発から20キロ圏内では,放射能汚染のため救助活動がほとんどおこなわれず,原発事故のために生命を落とした住民が少くなかったとみられる(373頁)

 2) 避難高導・避難生活の強要
 福島第1の半径20キロ圏内の市町村だけで7万8千人が居住していが,周辺住民のうちでも老人や病人には難儀であった。無事であった人びとでも例外なく家族・住居・土地・職場・学校などの生活基盤を完全に失うか,もしくは大きく損なっている。それにくわえて遠方に避難した人びとを除く多くの避難住民は,事故拡大リスクに直面しつづけた(373-374頁)

 3) 警戒区域範囲外の住民
 警戒区域=福島第1原発から半径20キロ圏内,計画的避難区域=「年間20ミリシーベルト」以上の被曝が予想される区域など,政府の指定した地域の範囲外に居住する人びとのなかにも,自主的に避難した人びとが多い。そうした人びとは高い放射能レベル・事故拡大の危険・子どもの健康への配慮など,事情を総合的に考慮したうえで,それぞれ判断を下したとおもわれる。しかし,彼らには東京電力や政府からのなんの保護・補償・支援もなされていない。

 4) 福島県は高濃度に汚染された
 福島県の相当地域は原発事故によって高濃度に汚染されてしまった。放射線管理区域〔年間5ミリシーベルト相当〕に匹敵する被曝線量の地域が,福島市・郡山市も含めて広範囲に広がっている。被曝による健康リスクや,それを最小限にするための対策によって生活上の不自由が生じている。

 5) 第1次産業の被害
 福島県およびその周辺地域の農林水産業者が農地や家畜を失い,あるいは生産物の出荷停止を強いられ,大きな被害を受けている。そのなかにはいわゆる風評被害も含まれている。周辺地域の商工業への打撃も大きい(以上,374頁)
 出所)録画には津波の襲来から逃げるように走る車が映っている。
    周辺はすべて農地であるが,津波で壊滅的な被害を受けた
    http://www.youtube.com/user/JiJi#p/u/0/jaYXK8FDOtM より。 


 6) 首都圏への影響 
以上のように原発事故のあった地元被災地とその被災者に関する概観を与えた吉岡は,つづけて「首都圏住民」にも達する広範囲な影響を,つぎの5点に分けて整理している。

 a)「事故拡大リスク」に直面させられた。--結果としては首都圏にさほど高濃度の放射能が降らなかったけれども,疎開が必要なかったことの根拠にはならない。「予防原則」が防災の基本である。「もし格納容器の爆発的破壊などが起きれば,風向きしだいでは首都圏一帯が高濃度汚染地域となり,放射線防護をせねばならず,さらには疎開の可能性も検討せねばならなかったからである。補注)なお,滞在していた外国人の日本脱出劇が現実に演じられていた事実は,いま一度指摘されておくべきである〕

 b)「首都圏住民の食生活への大きな影響」。--3月中には飲料水の摂取が一部制限され,また福島県を中心とする東北・関東地方でとれた農畜産物や海産物が放射能で汚染され,その安全性がについての懸念が高まり,なかなか解消されなかった(375頁)。前述の「粉ミルクの放射能汚染」は,第2次産業である食品加工業の製造工程で使用された空中の大気が汚染されていたのが原因で発生していた。

 c)「計画停電の被害」。--首都圏住民を含む関東地方全域の住民は,東京電力の「計画停電」(輪番停電)によて大きな被害を受けた。交通機関の減便,鉄道駅のエスカレータ・エレベータの使用停止をはじめ,ライフライン施設の停電は社会的に大きな悪影響を与えていた。そのなかでも東電は大口需要家は優遇し,とくに東京に本社をもつ大手企業が大事にされていた。

 計画停電は週末を除いて3月28日までの2週間にわたってほぼ全日実施されていた。その後はときおり実施される程度になり,ようやく4月8日になって,今後は原則的に実施しないと発表した。3週間以上にわたる国民生活への影響は甚大であった。東北電力は計画停電をしないで済んだ(375-376頁)

 d)夏季における電力不足」。--東京電力・東北電力管内はもとより,日本全国の企業や住民が,2011年夏において電力不足問題に直面させられた。この電力会社2社の管内では,37年ぶりに電力使用制限令が発令され,1974年以来の出来事となった。原発の立地する都道府県知事は,「定期点検等で停止していた原発運転再開」について慣例的に拒否権をもっており,これを発動させる判断が多く示された。このために電力会社は,燃料費のかさむ火力発電所の稼働率を高めたり揚水発電所をフル稼働させたり,自家発電施設の余剰電力を高値で売電したりなどで,大きな追加コストを背負いこむことになった。

 そこで,2011年春から夏にかけて全国の電力会社は,原発最稼働キャンペーンを展開した。だがその成果は乏しかったどころか,経済産業省,原子力安全・保安院,九州電力など原子力関係者の世論誘導の実態がつぎつぎの明らかになってしまい,国民・住民の原子力発電事業への信頼が,そのキャンペーンによってさらに大きく損なわれる結果となった。結局,2011年夏の電力不足問題は,電力会社の追加コスト負担を代償として,東京電力・東北電力管内を除き回避されていた(376-377頁)

 e)「原発事故の損害額:その莫大な水準」。--福島原発事故の収束・復旧と損害賠償に要する費用は数十兆円に達すると思われる。たとえば30年間で50兆円というのは現実的な見積りである。今後「巨額の国民負担が発生するのは避けられない」。単に原子炉施設の解体・撤去をおこなうだけでなく,周辺地域の汚染した表土の回収・処分も徹底的におこなうならば,数百兆円を必要とするかもしれない。その重荷が日本の財政破綻をもたらすおそれもある。それが回避されても大幅増税による国民負担とそれによるいっそうの景気低迷は避けがたい(377-378頁)

 以上が吉岡『新版 原子力の社会史-その日本的展開-』第8章「福島原発事故の衝撃」が解説する福島第1原発事故の始末に関する概括的な説明である。

 ④ 原発事故と大戦争-日本沈没-

 1) 政財界の責任問題
 アメリカという現代的帝国主義国家は,毎年の戦費だけでも日本の国家予算に相当するくらい費消している。しかし,2011年3月11日に起きた東京電力福島第1原子力発電所の大事故は,まさに大戦争に相当する損害を日本国にもたらしている。いまのところその顕著な被害は,東北地方の特定県と関東地方のごく一部に発生しているだけではあるが,日本全国に立地する原発54基のうち,その原子炉数基に事故が発生しただけでも「日本沈没」に相当する深刻・甚大な事態が惹起させられると予測してよい。

 前世紀も半ばの歴史的な段階で,大東亜戦争まで戦いを進めてしまった「日本帝国」は,敗戦することによってなのか,戦後の経済的繁栄に向けて「日本国」を再走させる契機を与えられてはいた。けれども,原発事故を発生させたばあいは「収束・復旧」にとりかかれるようになる時期を待つだけでも,数十年あるいは半世紀単位の時間を覚悟しなければならない。原発事故はそもそも,戦争の惨禍・被害とはまた根本より質的にも異なった「非常な困難」と「果てしない災厄」を発生させる。

  それにしても「3・11」という大事故を起こした東電幹部は,いまごろどこでなにをしているのか? これだけの深刻・甚大な原発事故を起こした電力会社の最高経営責任者たちが,なにも責任を問われずに,会社内の地位から退任だけしておけば,「なんの〈罪〉も追及されずに済む」というのは,まことに理不尽,これ以上にない日本社会における大矛盾である。
 
 なお,福島第1原発事故に関連しては,ジャーナリストの広瀬 隆とルポライターの明石昇二郎が 2011年7月15日,東電幹部や高木義明文部科学大臣(当時),福島県放射線健康リスクアドバイザーの山下俊一など合計32名を刑事告発している。

 2) 小松左京「日本沈没」1973年は,SF小説だったのか?
 小松左京『日本沈没』1973年はSF小説である。これを原作とした映画は1973年と2006年に,ラジオドラマは1973年と1980年にそれぞれ2度製作されている。「映画『日本沈没』」のストーリーから拾い説明する。以下は,2006年7月9日に語られたものからの引用である。

 日本近海の深海調査の結果,大地震と噴火活動によって日本が1年以内に沈没するという驚愕の事実が判明した。総理大臣・山本(石坂浩二)は諸外国に日本国民の受け入れを要請し,危機管理担当大臣の鷹森(大地真央)は日本を救う方法を求める。日本の地殻の下にもぐりこんだ太平洋プレートが,上部マントルと下部マントルの境界面に急激に沈みこむ異常現象・・・。

 地球温暖化の影響でバクテリアが大量発生してメタンガスを生成し,それが潤滑油の動きをして太平洋プレートの沈降は加速度的に引き上げられる予想。日本列島各地にある断層帯・活断層がそのエネルギーに耐え切れず割れていくことで日本列島はばらばらになり沈没していく・・・。33年前の小説とは思えない,明日にでも起こりそうなお話である。
 註記)http://blog.goo.ne.jp/granbina-h/e/e0671a5fe093650fea5bb710a5530a26

 今回の東日本大震災規模の大地震があと2つくらい同時に発生していたら,小松左京「日本沈没」に近い大災害が起きると想像しても構わないのではないか? ほかの原発事故も必らずいくつか誘発されるとすれば,日本中が,沈没しなくとも人間が住めない国になる。


2012.1.22

■ 建材用砕石の放射性物質汚染 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 13:38:17 ( 政府高官の行動把握 )

 ◎ 原発事故の波紋的影響,その具体例の発生 ◎

 【無為・無策・無能である国家の迷方針】

 ①「二本松の新築マンションで高線量 浪江で土台の材料採取」

 1)「室内に24時間滞在する仮定で計算すると,年間の線量は10ミリシーベルト前後になる」
 『朝日新聞』2012年1月16日朝刊1面に「二本松の新築マンションで高線量 浪江で土台の材料採取」という見出しの記事が出ていた。「砕石場とマンションの位置」という図解もかかげられていたので,最初につぎの文中に参照しておく。

 福島県二本松市の新築マンションの工事に,東京電力福島第1原発事故で出た放射性物質に汚染されたコンクリートが使われていたことがわかった。マンション1階の床からは屋外より高い放射線量が測定された。同市と国が1月15日発表した。コンクリの材料に,計画的避難区域内の砕石場の石が使われたのが原因とみられる。同じ材料が数百カ所の工事に使われたとみられ,国は石やコンクリの流通経路を調査している。

 発表によると,汚染されたコンクリが使われたのは,昨〔2011〕年7月に完成した二本松市若宮地区の鉄筋コンクリート3階建て賃貸マンションの土台部分。1階の室内の高さ1メートルの線量が毎時1.16~1.24マイクロシーベルトで,屋外の同0.7~1.0マイクロシーベルトより高かった。2,3階の室内は同0.10~0.38マイクロシーベルトという。

 コンクリの材料になった石は,計画的避難区域に入っている浪江町南津島の砕石場から搬出。コンクリ会社を通じ昨年4月11日,マンションの基礎工事に57.5立方メートルのコンクリが使われた。砕石場では原発事故前に採取した石を砕き,事故後も屋外に置いて避難区域に指定される同月22日まで出荷をつづけたという。

 経済産業省などによると,この砕石会社は県内の19社に系5200トンを出荷。このうち,マンションにコンクリを納入した二本松市の会社からは県内の百数十社に販売され,数百カ所の工事に使われたとみられるという。

 二本松市は昨年9~11月,子どもなどの積算線量を計測。マンションに住む女子中学生の3カ月間の線量が1.62ミリシーベルトと比較的高かったため,市が調べた。マンションには12世帯が入居している。マンション1階の室内に24時間滞在する仮定で計算すると,年間の線量は10ミリシーベルト前後になる。

 2)「出荷先 すべて福島県内」
 『朝日新聞』1月16日の夕刊になると,「放射能汚染石,出荷先は福島県内の19社 土木工事用に」という内容の記事も報道されていた。

 福島県二本松市の新築マンション工事に東京電力福島第1原発事故で出た放射性物質に汚染されたコンクリートが使われたとされる問題で,コンクリ材料の石を出荷した砕石会社は1月16日,取材に対し,汚染の疑いがある石の出荷先を明らかにした。いずれも同県内のコンクリ会社2社,建設会社など17社の系19社と説明。大半は道路などの土木工事に使われたとみられるという。

 砕石会社は,同県富岡町に本社を置く「双葉砕石工業」。猪狩 満社長によると,問題の石は計画的避難区域の同県浪江町の砕石場のもので,震災3日後の昨年3月14日から,同避難区域に指定される4月22日まで計約5200トンを出荷した。このうち,コンクリ用には,二本松市と本宮市のコンクリ会社2社に計約2千トンを出荷したという。

 砕石場では,土木用は野ざらしにし,コンクリ用は品質を保つため簡易式屋根の下で山積みにしていた。土木用の石を出荷した建設会社など17社は,二本松市や同県川俣町などの地元工事を主とする中小業者。問題の石やコンクリが県外に出た可能性は低い,と猪狩社長は説明している。猪狩社長は「マンションに住んでいる人に迷惑をかけたことはおわびするしかない」と謝罪。一方で「出荷当時は災害復旧に役立っていると自負していた。放射能汚染は全くわからなかった」と話した。

 双葉砕石から購入した会社のうち川俣町の建設業者は道路工事に石を使った。震災後,事業を再開したばかりだったという。同社は「石に放射性物質が付いているかどうか,気が回らなかった」という。二本松市の建設業者は,石を主に道路や住宅の基礎工事に使ったという。原発事故後,気になって,週1回ほど,石の線量を測っていた。毎時0.6~0.8マイクロシーベルトほどで,「心配するほどではない」とそのまま使いつづけたという。担当者は「石の使用について国が早い段階で指針を示していればこんな騒ぎにならなかった」と話した。

 ② なぜ,放射性物質の拡散・汚染状況は速報されず,故意に隠蔽されたのか?

 1) スピーディではなかった “SPEEDI” の公表-ほとんど隠蔽にひとしい運用-
  の報道を読んだだけでも,なぜ,このように建材用採石に放射性物質汚染が生じていたのか,なぜ,誰もこれに気づかなかったのか,関係する業者や国や地方自治体の責任問題が浮上してきて当然である。

 文部科学省のホームページに「放射線モニタリング情報(Monitoring information of environmental radioactivity level)」があり,そのなかで「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)等による計算結果」を公表しているが,これはつぎのように解説されている。

 「文部科学省では,福島第一原子力発電所の事故が発生した〔2011年〕3月11日以降,緊急時の対応として,SPEEDI を緊急時モードにし,単位量(1ベクレル)放出を仮定した場合の予測計算をおこなっています。また,文部科学省による支援が求められたばあいに,迅速かつ臨機応変に対応できるよう,仮想的な条件を設定し SPEEDI による試行的計算をおこなっています。そのさいの計算結果は以下のとおりです。また,世界版 SPEEDI(WSPEEDI)の結果も含みます」。
 註記)http://radioactivity.mext.go.jp/ja/distribution_map_SPEEDI/   

  SPEEDI に関するご託宣がひとまずそうではあっても,この実際の運用においてはまったくその真逆に走っていた。本ブログではすでに参照したことのある記述であるが,これに再度聞いておく。

 文部科学省〔など〕の「【放射能影響予測】SPEEDI がちっともスピーディじゃないうえに,国民はスルーして IAEA(国際原子力機関) にだけ,スピーディに予測情報が報告されて」いた。「SPEEDI(文部科学省)は『国民に隠されていた予測情報』となっていた。その『緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム,SPEEDI(スピーディ)』は,そもそも今回のような事故が起きたとき周辺にどのような影響が出るか,『すばやく予測』するシステム」であったはずである。

 ところが,2011年「3・11」のときは「全然すばやくないですし,発表があるはずの原子力安全委員会のサイトをチェックしていても,〔3月〕23日に発表された試算の結果へのリンクがひとつあるだけ」であった。「どうも変な感じなんですが,なんでうまく動いてないのかの説明もないので,なぜ情報が出てこないのかナゾなまんまです」。「推測するに,どうも分析するための元のデータがちゃんと収集できてないようなのです。じゃぁ,SPEEDI を使うのはあきらめて,他の方法を探ったり,海外の専門機関での分析結果を使えばいいのでは,と思うのですが・・・」。

 ともかく,4月5日で「大震災から25日経過しますが,発表1回。大気中の濃度や被曝線量,そして環境への影響についての予測は,公式には,それだけしかありません。またその1回の発表に関しても,以下のような問題点が指摘されています」。「ヨウ素に関することしか書いてない。他の核種は?」「1歳児のことしか書いてない。2歳以上の人はどうしたら?」「放射性物質の放出が1回(24時間)おこなわれたというばあいのシミュレーションしかない。継続的に放射性物質が放出されているとしたらどうなるのか,ということについては発表されていない」。結局「全然スピーディじゃない」。

 
     出所)http://radioactivity.mext.go.jp/ja/1770/2011/03/1305799_0325.pdf より。
       赤字の断わり書き「見苦しい」?


 「省庁は SPEEDI による分析と発表にこだわり,発表は一元化すべし,と考えているようですが,はたしてそれでいいのでしょうか。日本には優秀な科学者がたくさんいますし,世界中にも多くの頭脳があります。また, SPEEDI が情報源としている『モニタリングポスト』と呼ばれる測定機器以外にも,測定機器を設置して日々データ提供をおこなっているところはあります」。

 「さらに4月4日の官房長官会見や報道によれば,気象庁は国際原子力機関(IAEA)に対しては事故発生直後から予測情報を報告していたといいます。多い日は1日2回も・・・えっ?」「日本人には教えてくれないのに,IAEAには教えるの?」「いわく『仮定をもとに計算した放射性物質の拡散予測データなので公表にはふさわしくないと考えた』とのことですが,本当にめちゃくちゃな話です」。「これは国民に対する裏切りであり,情報隠蔽といわれてもしかたないと思います」。「気象庁によれば『要望があれば公表したい』とのことなので,早く公開して欲しい」。「国 放射性物質の予測公表せず NHKニュース」・・・。
 註記)http://getnews.jp/archives/108812 参照。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110404/t10015080851000.html

 2011年4月5日の時点ですでにこのように,国家が管理運営する「放射線モニタリング情報(Monitoring information of environmental radioactivity level)」である「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)等による計算結果」が,国民・住民に対して,適切に情報処理をほどこされて,迅速に伝達されてはいなかった事実があった。

 本日の本ブログの記述は「建材用採石の放射性物質汚染」という題名を付けておいたが,参照したニュースでは「問題の石は計画的避難区域の同県浪江町の砕石場のもので,震災3日後の昨年3月14日から,同避難区域に指定される4月22日まで計約5200トンを出荷した。このうち,コンクリ用には,二本松市と本宮市のコンクリ会社2社に計約2千トンを出荷し」ていたというのである。その間,SPEEDI の予想計測結果は3月23日分の1回しか公表されていなかった。

 「3・11」以降における東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故(原子炉溶融事件)が,いったいどのくらいの放射性物質を世界中に拡散させ,汚染してきているかについては,日本のみならず世界中の関係機関がその予測・予想を公表してきたし,現在では東北地方各地の放射性物質の汚染状況は正確に計測・記録されている。原発事故直後における放射性物質の拡散状況は,気象条件を科学的に計算したうえで合理的に推測:積算されている。

 2) 国家の怠慢
  『朝日新聞』2012年1月18日朝刊には「 コンクリ建材の基準,国が示さず 福島県は再三要望」という見出しの記事が出ていた。こう報道していた。

 福島県二本松市のマンション工事に放射性物質で汚染されたコンクリートが使われたとされる問題で,昨〔2011〕年5月以降,県がコンクリなどの建築資材について放射線量の基準を示すよう国に繰りかえし要望したにもかかわらず,国が具体的な対応をとっていなかったことが分かった。基準などが示されないまま,今回の問題発覚に至った。

 県や関係省庁によると,県から昨年5月下旬,政府の原子力災害現地対策本部に,公共工事で使用する資材などのとり扱い基準を示すよう文書で要望が出された。同県郡山市で下水汚泥から高濃度の放射性物質が検出されたのがきっかけだった。対策本部は内閣府に連絡。内閣府は国土交通省などに,基準などを示せないか相談した。しかし,関係省庁の間で結論に至らなかったという。県は7月下旬にかけ,対策本部に回答を再三求めたが,「検討中」などの答えがつづいたという。

 汚染されたコンクリ材料の石は,計画的避難区域の福島県浪江町の砕石場から原発事故後に搬出され,4月11日にマンションの基礎工事に使われた。内閣府の担当者は取材に「避難区域からの避難はほぼ終わり,汚染されたものが作られていないのが前提なので,建築資材についての基準づくりを追求する必要がないと思った」と釈明。「とくに切迫した問題がなく,新たな基準を設けて避難区域外の経済活動に影響を与えるのはどうかと思った」とも話した。

 県の関係幹部は「5月末に基準が示されても,マンション工事は終わっており,未然に防ぐことはできなかった」としたうえで,「国の考えが示されれば,さかのぼってチェックした可能性はあり,マンション住民への対応も早く始められたかもしれない」と話す。

 いずれにせよ,あれだけ大きな原発事故が実際に起きてしまい,放射性物質の拡散・汚染も広範囲にまで及んでいった。そうのであれば,地上にむき出し状態で保管される建材用採石については,当初から放射性物質が落下することを予想しておき,用心もされていてよかったはずである。国や地方自治体の担当責任者たちの引用中のごとき諸発言は,一様に「責任逃れを意識している」ものでしかない。

 いわく「汚染されたものが作られていないのが前提」とか,「とくに切迫した問題がな」いとか,「未然に防ぐことはできなかった」とか,「国の考えが示されれば,さかのぼってチェックした可能性はあ」ったとかいうこれらの弁解を聞くと,原子力村に連なる多くの面々が以前,自信をこめて「原発安全神話」を説いていたものと若干異なってはいるものの,基本的な思考方式としては,なお双方においてかぎりなく接近した内実がみいだせる。

 福島第1原発事故が発生した当初,枝野幸男官房長官は「野菜や飲料水などから基準(規制)値を超える放射性物質(放射能)が検出されたとき」,これについては「ただちに健康に影響を与えるものではない」という文句を繰りかえし使っていた。ということは「ただちに影響がなくても,何年かあとに影響が出る」と思いこまされた人も多くいるはずである。ということであれば,「実際は現在までに検出された値では将来的にも健康への影響はなく〔と解釈されるゆえ〕,『ただちに』という言葉を使ったことに疑問を投げかける専門家も少なくない」。
 註記)http://sankei.jp.msn.com/life/news/110406/trd11040614360010-n1.htm  2011.4.6 14:31 配信,参照。

 枝野官房長官は弁護士でもある。「ただちに影響ない」という表現を繰りかえしていた。あとで責任問題を惹起させえない表現に終始したつもりである。だが,法律の専門家である以前の立場でなにかをとりあげる〈感覚〉でいっても,ともかく「今後において放射性物質の汚染による影響が出ない」とは「いっていない」という点だけは,理解できる。問題はいずれにせよ「放射性物質の汚染・拡散」という現実の問題が発生しており,これが絶対に回避できない点に集約される。

 たまたま「放射能汚染石,出荷先は福島県内」に限定されてはいたものの,これが県外にまで出荷された分には,「福島県」そのものに対してすでに発生している「原発事故差別」が別様なかたちをとって重ねられかねないともいえる。

 ③ 上杉 隆の「枝野幸男官房長官」批判

 1)「何をどれだけ食べても飲んでも,『ただちに影響がない』わけではなかった!?」
 フリージャーナリスト上杉 隆は,“DIAMOND on line” 『週刊 上杉 隆』【第199回】2011年11月11日で,「3・11の原発事故」のすぐあとに,「『ただちに影響はない』は限られたばあいの話だった!?」と発言した「枝野前官房長官の “問題発言” と “政治家としての責任” 」を,こう批判していた。

     

 枝野幸男前官房長官は,2011年11月8日の衆議院予算委員会の席上,自民党の村上誠一郎衆議院議員の質疑に対する答弁のなかで,いってはならないことをいってしまったようだ。「私は3月11日からの最初の2週間で,39回の記者会見をおこなっておりますが,そのうち『ただちに人体,健康に害がない』ということを申し上げたのは全部で7回でございます。そのうちの5回は食べ物,飲み物の話でございまして,一般論としてただちに影響がないと申しあげたのではなくて,放射性物質が検出された牛乳が1年間飲みつづければ健康に被害を与えると定められた基準値がありまして,万が一そういったものを一度か二度摂取しても,ただちに問題ないと繰りかえし申しあげたものです」。

 上杉はこれを「開き直りもここまでくると見事である」と批判する。上杉は「枝野氏は当時,大手メディアではなく,内部被爆の危険性を指摘したジャーナリストたち,とりわけ自由報道協会所属のフリーやネット記者たちの報道を『デマ』だと断定し,とり締まるよう宣言した」。しかし,本当のところは「枝野氏こそ『安全デマ』『安心デマ』を広めて,多くの国民を被曝させた張本人で」あったと反論する。

 上杉の主張は正しい。「3・11」から早くも10カ月以上が経過した現時点で回顧していえば,とくに福島県人をはじめ原発事故の被災地・被害地の人びとは,「放射性物質による汚染」のせいで,衣食住の生活全般において甚大な物的・人的(精神的)損害を受けている。上杉が強調するのは,枝野が「仮に,一般論として述べたので〔は〕なければ,なぜ一般論として報じつづけた〔ことになっていた〕テレビ・新聞などの記者クラブメディアに抗議をおこなわないのか」と,枝野を追及する点にある。

 要は,枝野が『ただちに人体,健康に害がない』といったがために「それこそ,国民の健康に害が及ぶ可能性〔があるのにこれがないかのように受けとられる危険〕のある『誤報』」が日本中に広まったのである。だから,その誤報「に対して,速やかな訂正を求めるのは政治家として当然の義務ではないか」と,上杉は批判している。

 「枝野氏の『ただちに影響はない』ということばは,震災直後,一種の流行語になった。そのことばを信じて,被爆してしまった国民がいったい,どれほどいることだろうか。放射能の健康被害が明らかになりはじめる4,5年後を考えるだけで背筋が凍る思いである」。「さらに酷いのは,テレビなどに登場していた有識者たちだ。未曾有の犯罪的行為をおこなった政治家を『不眠不休でがんばっている』ともち上げたテレビコメンテーターや評論家たちが,なんと多く存在したことか。その行為ははっきりいって愚かということばしか当てはまらない」。
 註記)http://diamond.jp/articles/-/14805
    http://diamond.jp/articles/-/14805?page=2
    http://diamond.jp/articles/-/14805?page=3
    http://diamond.jp/articles/-/14805?page=4
    以上,参照。

 枝野は,原発事故関連に対する発言で完全に間違えていた。つまり『ただちに人体,健康に害がない』といい切ってしまい,『徐々に人体,健康に害がある』放射性物質の危険性から,国民・住民の関心をそらせる役目を果たした。「原発安全神話」の宣教師たちが「少しくらいの放射能であれば,これは浴びたほうが健康にはいい」ともいいはっていたが,この発言と枝野の『ただちに影響はない』という表現とは大同小異であり,かつまた近接している。

  2) 原発事故の恐ろしさ-どこまでも付いてまわる放射性物質の危険性-
 『朝日新聞』2012年1月20日朝刊の天声人語が,こう語っていた。

  東京電力が発表した企業向けの大幅値上げも,原発が止まるとこんなにコストが上がる,との「意見広告」にみえる。政府は家庭用の値上げも認めるようで,こちらは10%の攻防だとか。停電と値上げで脅されている気になる。

  原則40年で廃炉とする法案は,20年までの延長を例外的に認めるそうだ。これが「原則60年」になっては困る。老朽旅客機の低空飛行にも似て,めでたい長寿ではない。落ちたら終わりだから,会社にしてもこれ以上の経営リスクはあるまい。

  原発事故の災いは,核反応のごとく連鎖する。汚染された砕石は新築マンションに化けて出た。放射線が嫌われ,がれきの処理もはかどらない。そんな日本で生き続ける幼い顔を思えば,10年でも長いのだ。いささかの不便は甘受しても,原発との腐れ縁を絶ちたい

 「原発との腐れ縁を絶ちたい」といわれている他方で,原発を60年も使わせる意向も示されている。原子炉の物理的・化学的な耐性をしっている専門家であれば,つまり機械工学や化学工学(工業化学)の観点から判断するに,60年もの長期間にまで原発を稼働させようともくろむのは,非常に危険である。

 クラシックカーを趣味でもって大事に保守点検しながら,ドライブを楽しむのとわけが違う。こちらのカーはエンコを起こしたり,パンクをしたりしたら,車を停めて修理・交換すればいいけれども,原発事故の発生とはとうてい同じに考えられない。この種の比較の違和感を,いまさらここで説明する余地もあるまい。

 『日本経済新聞』2012年1月18日1面の「春秋」欄は,「建材用採石の放射性物質汚染」の問題発生を,こう批判していた。

 道路,橋梁,鉄道に港。空港や上下水道に学校,ビル・・・。こう列挙するのは山の岩盤を砕いて石にする企業の業界団体,日本砕石協会のホームページだ。あまり目にしないが,砕石は「あらゆる場所で使用されています」と自賛する。

  コンクリートなどに加工され,姿をかえて床や地面の下に眠っている。それだけに気がかりなのが「汚染石」の問題だ。原発事故後に福島県浪江町の砕石場から,石が出荷されていたことが分かった。それが使われたマンション,農業用水路や道路で,高めの放射線量が出ている。問題が広がらないか心配になる。

  ずさんなのは政府の対応だ。最初にみつかったマンションの問題で,経済産業省は昨年末に報告を受けながらくわしい調査を始めなかった。「石から高い線量が出るなど,想定外だった」という。が,牛肉汚染の原因がエサの稲わらと分かったときも,「想定外」と政府はいっていた。こんないいわけはもう通るまい。

  汚染された石は生コンクリート会社を通じ,200以上の建設会社に渡ったとみられている。生コンは固まらないうちに使う必要があるため,遠くに運ばれていないとも考えられるが,なにせ姿形をかえる砕石だ。油断はできない。政府や自治体はあらゆる可能性を想定し,居場所をつきとめてもらいたい。

 こうして,原発事故を契機に発生・拡散させられた放射性物質は,ゆく果ての定まらない旅路に向かい,さまよい出ていった。『日本経済新聞』2012年1月18日夕刊には「汚染石,福島・二本松の小学校にも 川俣では町道などに使用」されたとの報道がなされ,同紙1月20日朝刊には「福島のマンション高線量 砕石,規制なく出回る 県が基準〔を〕要請〔するも〕,国は半年放置」したとの報道もなされている。

 なるべく早めにそれも完全に「原発との腐れ縁を絶たなければ」,われわれの生活全般がさらに,「3・11」事故以上の〈放射能の恐怖〉に襲われるかもしれない。その意味では,日本国「原子力村」の面々がいままで,東電を中核に日本産業社会を政治経済的に統御・支配する堅固な階層集団を形成させたうえで,この国全体に浸透させてきた『原発推進体制』の危害性は,原発による電力の依存率を50%にまで高めるという欲望を達成させる以前の段階で,とうとうその〈負的な真骨頂:反人類的・非人間的な害悪〉を発現させたことになる。 


2012.1.21

■ 戦争責任-靖国神社-厚生省 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 15:28:19 ( 歴史の記憶をたどる )

 ◎ 戦争犠牲者をどのように慰霊するか,戦争に負けたらどうなるか ◎

 【 戦勝国でも戦敗国でも,本当は反省など,けっしてしない侵略戦争の経歴 】

 ①「靖国戦犯合祀,国が主導 地方の神社から先行」:2012年1月21日報道

 本日〔2012年1月21日〕『朝日新聞』朝刊の「靖国戦犯合祀,国が主導 地方の神社から先行」という見出しの記事は,つぎのように報じていた。

 戦争犯罪に問われた軍人らの靖国神社への合祀について,旧厚生省が日本の独立回復翌年の1953年に,公的援護制度の拡充などに応じて順を追って無理なく進める,との方針を決めていたことが同省の内部資料でわかった。方針に沿って,さきに地方の護国神社での合祀をめざすとの記述もあり,朝日新聞が調べたところ,6カ所でA級戦犯3人を含む先行合祀の記録が残っていた。

 天皇や閣僚の参拝や,戦争責任をめぐる議論を起こしてきたA級戦犯合祀の原点となる方針が,独立回復に際して政府内で練られていたことになる。政府は従来,国会答弁などで,戦犯合祀は「靖国の判断」とし,宗教行為である合祀には関与しておらず,政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた。だが,今回の文書で,終戦〔敗戦〕までと同様,政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め,戦犯合祀の環境を造りあげたことがわかった。

 その方針は,旧厚生省引揚援護庁に移った陸海軍出身幹部らが「戦犯問題の早期完全解決」のために作った同省の内部資料,『業務要旨』(1954年度分;写真)に記されていた。1951年9月のサンフランシスコ平和条約締結直後に検討に入り,1952年度分から1954年度分まで毎年作っていた。国立公文書館が保管していた。

  
 1952年度分の『業務要旨』は,「刑死者」も地方での慰霊祭で「一緒に祀ってもらうようにする」とした。1952年4月の平和条約発効を受け,1953年度分は「刑死者」について「時機をみて合祀を図る」と踏みこんだ。1953年12月に作った1954年度分は「最終的には『靖国神社への合祀』を目標」と明示し,「世論の動向と公的援護面進展の情況に応じ順を追うて無理なく措置する」とした。

 旧厚生省はみずからの方針どおり,1954年3月,都道府県に「英霊を靖国神社に合祀する前提として,護国神社へ未合祀の向(むき)は合祀方(かた)取り扱はれたし」と求めた。福岡,岡山,熊本の護国神社は,A級戦犯の広田弘毅(ひろた・こうき)元首相,土肥原賢二(どいはら・けんじ)元陸軍大将,武藤 章(むとう・あきら)元陸軍中将をそれぞれ靖国よりさきに合祀していた。大阪,札幌,神戸ではBC級戦犯を先行合祀した記録があった。

 旧厚生省が戦犯合祀を進めるさいに考えた公的援護制度の拡充とは,一般戦没者の遺族に国が支払う弔慰金や遺族年金,公務扶助料などの対象が,戦犯の遺族にも広がることを指す。国の制度上,戦犯も一般戦没者と同じ処遇になるので,合祀対象にする大義名分が立つと考えたとみられる。実際,1953年以降の法改正で実現し,1959~1966年にBC級戦犯が,1978年には東条英機元首相らA級戦犯14人が合祀された。

 文書の存在をしらなかったという旧厚生省幹部は,「しっていたら(戦犯合祀への関与を否定した)答弁はまるで変わっていた」と話した。なお,靖国神社は今回,取材に応じていない。

 ◇解 説◇〈戦犯合祀〉 靖国神社は幕末期以降の戦争などで亡くなった人たちを祀る。第2次世界大戦で捕虜虐待の罪などに問われた900人を超すBC級戦犯は一般戦没者の合祀をほぼ終えた1959~1966年に,東条英機元首相らA級戦犯14人は1978年に合祀した。
 註記)引用は,http://digital.asahi.com/articles/TKY201201200767.html 2012年1月21日03時03分配信 参照。

 ② 旧日本帝国陸軍省・海軍省から第1復員省と第2復員省へ

 1) 厚生省復員局
 国家当局の担当省である厚生省〔現厚生労働省〕は,敗戦後,この官庁にもぐりこんできた『陸海軍出身幹部らが「戦犯問題の早期完全解決」』をかかげ,A級戦犯も靖国神社に合祀するという目的を1978年に達成させていたことになる。

 現厚生労働省は旧厚生省時代に,敗戦前の旧陸軍・海軍の資料の一部を,日本帝国「陸軍省・海軍省」から引きついだうえで,遺骨収集事業や軍歴証明書の発行〔同省及び各都道府県が担当〕などの業務を担当してきた。靖国神社じたいも,そうした国家機関の意向を当然の動きとして踏まえてきた。結局は,1978年7月に靖国神社の第6代宮司となった松平永芳が,以前は「宮司預かりの保留」事項とみなし,合祀を避けてきたA級戦犯14名を,同年10月17日「昭和殉難者」として合祀した。

 以上のようなA級戦犯の靖国神社「合祀」にまで至る経緯は,敗戦後の日本においては,天皇家:昭和天皇自身による画策・工作を始め,陸軍省と海軍省〔→第1復員省と第2復員省〕による「敗戦処理への対応姿勢」,靖国神社側が「政教分離」を強制された宗教的な事情などが,複雑にからんだ様相となって現象させられていた。

   
  出所)2012年1月26日早朝,旧日本軍の「従軍慰安婦」を祖母とする中国人が放火した靖国神社の神門。
     左側の写真は,http://sankei.jp.msn.com/affairs/photos/111226/dst11122611220005-p1.htm より。
     右側の写真は,http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111226k0000e040145000c.html より。

 1945年12月1日,陸軍省・海軍省・参謀本部が廃止された。その代替機関として設置されたのが,旧陸軍関係と旧海軍関係との残務整理を,それぞれ担当する第1復員省と第2復員省であった。いわば,日本帝国の〈敗戦処理〉を始末していくこの「時代特殊な官庁組織」は,主に「引揚」業務に当たっていた。

 1946年6月15日,その第1復員省と第2復員省は統合されて復員庁の設置となり,内局に第1復員局と第2復員局を置く組織に変更された。1947年10月15日に復員庁は廃止され,第1復員局は厚生省に移管,第2復員局は総理府直属となっていたが,1948年1月1日には廃止されており,復員業務はすべて厚生省復員局に引きつがれた。

 2) 引揚援護
 厚生省の外局として,1954年3月31日に廃止されたが「引揚援護庁」があった。これは引揚や復員に関する行政事務を扱っていた。第2次大戦が終結に伴い,海外に残された日本人約660万人の引揚や復員が始まった。しかし,各省庁が個別に引揚援護をおこなっていたため,非効率で統制を欠いていた。そこで,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は,日本政府に対して引揚援護を主管する官庁を決定するよう指令を出し,協議の結果「厚生省」が指定されのであった。

 厚生省は社会局に引揚援護課を設け,全国各地の引揚者の上陸港に「地方引揚援護局」を設置した。1946年3月13日,厚生省の外局として「引揚援護院」が設置され,引揚援護業務が整備された。その後,復員業務をおこなっていた復員庁〔 1) の前出,参照〕と統合して「引揚援護庁」が設置されたのである。1954年,外局としての「引揚援護庁」は廃止され,内局としての「引揚援護局」が設置された。

 また,旧厚生省時代に戦前の旧陸軍・海軍の資料の一部を当時の陸軍省・海軍省から引きつぎ,遺骨収集事業や軍歴証明書の発行(同省及び各都道府県で担当)などの業務をおこなっている。なお,軍人恩給の支給については総務省人事・恩給局の所管である。2001年の統合で所管業務が膨大となっており,舛添要一大臣(当時)自身が医療・年金・労働の三省への分割を提案していた。
 註記)以上,ウィキペディアの記述なども参照してまとめた。

 靖国神社に送る合祀者の名簿作成は厚生省が担当してきたから,敗戦後は一宗教法人になっていた靖国神社との関係は純粋に民間の間柄に対するものとはいえなかった。また,昭和天皇がA級戦犯の合祀以降,靖国に参拝にいかなくなったとはいえ,天皇家=皇室と靖国神社の深い国家神道的な関係がなくなったわけでもなかった。

 ③ 靖国神社と天皇家・皇室

 1) 素人談義の靖国論
 たとえば,インターネット上にはこういう記述がみられる。『産経新聞』2005年10月20日に報道された記事を具材に書かれた記述である。

   ☆ 絶えることない皇族の靖国ご参拝 揺るがぬ追悼の中心施設 ☆

 三笠宮さまは〔2005年10月〕19日,秋季例大祭がおこなわれている東京・九段の靖国神社を参拝された。首相の参拝ばかりがクローズアップされる靖国神社だが,皇族のご参拝は絶えることなくおこなわれており,靖国が日本人にとって戦没者追悼の中心的施設である事実は揺らいでいない。 ・・(省略部分あり)・・

 天皇の靖国ご参拝は昭和50〔1975〕年11月の昭和天皇以来途絶えている。当時の三木武夫首相の「私的参拝」が政治問題化したことを昭和天皇が配慮されたと指摘されている。しかし昭和天皇もいまの天皇陛下も春と秋の例大祭には勅使を差し遣わされ,ご幣物が供えられている。18日は勅使として飛鳥井雅慶掌典次長が参拝した。靖国神社によると,20日は寛仁親王殿下が参拝される予定だ。
 
 
 出所)http://www.geocities.jp/bane2161/saitamakengokokujinjya.html

 いまの天皇陛下は平成5〔1993〕年に埼玉県護国神社(上の写真),〔平成〕8〔1996〕年に栃木県護国神社を参拝しており,陛下が靖国神社・護国神社を軽視されていないお気持ちがうかがえる。一方で,勅使を国家公務員である侍従から天皇の私的使用人である掌典に変更したり,埼玉,栃木両県護国神社ご参拝にあたって,いわゆる「A級戦犯」が合祀されていないか問い合わせるなど,宮内庁の事なかれ主義も目立っている。
 註記)http://blog.livedoor.jp/one_fire_ball/archives/50144728.html

 この素人談義的な「靖国神社と天皇家=皇室との関係」論は,いうなれば,ミーハー的な関心の域から少しも出るものではない。生きていたときの昭和天皇のみならず,いまの平成天皇までも,地方の護国神社に出向こうとしたさい「A級戦犯」が祀られていないか,事前に問いあわせていた。この「天皇家側が神経質にこだわっている,それもデリケートな〈歴史的事情〉」の奥底に潜む事情に,それこそまったく無知なまま,得意になって勢いもよく「宮内庁の事なかれ主義」などと非難している。

 しかし,宮内庁の「事なかれ主義」を指摘し批判するまえに,そもそも「昭和天皇の判断」にしたがい「A級戦犯を合祀する」神社を「忌避」する天皇家の行動に注目しなければいけない。それなのに,ただ宮内庁に対してだけ「天皇家の靖国非参拝」をめぐって非難の矢を放つのは,しごく浅薄な観察・表相の分析といわざるをえない。

 2) 超弩級戦犯者:昭和天皇
 なにせ,昭和天皇:ヒロヒト氏のせいで,310万人もの日本人・日本帝国臣民が死に,2000万人にもおよぶアジア地域での戦争犠牲者が出たのである。本来であれば,裕仁天皇がまっさきに負うべきであった重大な戦争責任を,東京裁判(極東国際軍事裁判)で身代わりになった東條英機ら主に軍人たちが,1978年という時期に靖国神社に合祀され「英霊」となった。

 天皇家の人びと,なかでも昭和天皇の直系子孫は,靖国神社のみならずその分社に相当する「全国各地に散在する護国神社」に,参拝にいくときは必要以上に神経質になっている。
 補注)護国神社については,http://ja.wikipedia.org/wiki/護国神社を参照。

 もっとも,靖国神社には昭和天皇の兄弟:家族である三笠宮などが,堂々と参拝してきている。皇室との切っても切れない靖国神社の「軍国主義的な国家神道の絆」は,否定しようもない事実である。ただし,昭和天皇とその息子が靖国に参拝にいけない理由は,もっぱら私的な事情しかない。ともかくまずいのである。なにが(?)と問われれば,その答えは簡単である。 
 出所)写真は,三笠宮:1915年12月生まれ
    http://www.asahi.com/national/update/0603/TKY201106020718.html

 あの戦争の《重大な全責任》はもともと,昭和天皇に集約されて負われるべきものであった。この消しがたい〈歴史的な真実〉は,彼〔昭和天皇および平成天皇〕がA級戦犯の合祀された以降の靖国神社に参拝にいき,英霊として祀られている彼ら〔A級戦犯〕の〈御霊:みたま=英霊〉に親拝するなどという宗教的=国家神道的な礼拝行為は,生きている者でいえば,天皇家の直系子孫である「いまの平成天皇」にとっても「自己をまっさかさまに否定される最大の矛盾」を表現する礼拝行為となる。

 したがって,A級戦犯を合祀している靖国神社や護国神社に天皇が参拝に「いかない」のではなく「いけない」のには,りっぱな歴史的事由があるのであって,宮内庁うんぬんの次元の問題に矮小化されうるような論点ではない。それは,天皇家にとってはいわば「《歴史上のアキレス腱》的な難題」である。

  で言及したように「政府は従来,国会答弁などで,戦犯合祀は『靖国の判断』とし,宗教行為である合祀には関与しておらず,政教分離を定めた憲法に反しないとの姿勢を強調してきた」けれども,1945年8月(9月)以後も,それ以前「までと同様,政府が合祀という靖国の根幹領域に立ち入って方針を定め,戦犯合祀の環境を造りあげたことがわかった」。

 厚生省の幹部がいまごろにもなって〔21世紀!〕,厚生省じたいが「靖国神社に合祀対象者の名簿を送りつづけてきた」という事実を「しっていたら(戦犯合祀への関与を否定した)答弁はまるでかわっていた」といったところで,一宗教法人になっていたはずの靖国神社は結局,戦争中と同じようにこれまでも「国営の神道神社」であるかのように処遇されてきたのである。

 その事実にくわえて「A級戦犯の合祀」が,靖国神社側による意図的な行為としてなされてもいた。これでは,どっちもどっちであって,つまり「国家も国家」「天皇家も天皇家」「靖国神社も靖国神社」,みな〈同じ穴の狢〉なような『協力的な同居関係』が,より明白となった。

  ④ 天皇家のディレンマ-靖国にいきたくてもいけないこの切なさ-
 
 あの戦争に日本は敗北した。だがこの負け戦に少しも懲りなかったかのようである。というのも,靖国神社は依然「敗けた戦争の犠牲者」たちも,ことごとく《英霊》として祀り,そのうえに皇室一族もここに参拝しつづけ,靖国神社側もいまもなおこれを当然とする,それこそ「政教分離」などへったくれもないような「国営神社意識」を払拭できていない。

 というよりも,皇室:天皇一族の関係でみれば「政教分離」などみじんも配慮してない。 の記事の最後に「なお,靖国神社は今回,取材に応じていない」と書かれていたが,さもありなんの対応である。
 出所)右側の写真は,東京裁判での東條英機
    左側の写真で手前の背中向きは中曽根康弘
       http://hirohito.tumblr.com/post/14670169/via

 かくして「戦争神社」である靖国神社の本質は,いまもなにひとつかわるところがない。

 皇室=天皇家との深い関係もけっして解消されていないどころか,根っこのところでは以前となにもかわっていない。ただ,昭和天皇とその息子の平成天皇が「A級戦犯の合祀された靖国」にはいけないと,いまだにひどく気にしている。

 事実,彼らは靖国にいって参拝することになれば,いまさらのように「東京裁判の結果」が東條英機から自分たちに投げ返されるほかない《歴史の因果》を,十二分以上にも知悉・認識している。


2012.1.18

■ 日本の大学はアホ,日本の学生はバカ ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 11:54:51 ( 大学教育の現場問題 )

 ◎ 日本の大学の惨状をバカ正直に語る本 ◎

 【 アホにでもならねば読めない本 】

 ①「ジョージョー企業」ってなんですか?

 1) 石渡嶺司・山内太地『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』2012年1月20日発売
 最近の大学生,就活戦線に出まわっている若者のなかには「上場企業」の字義が分からない者がいるというのである。これは,本ブログの筆者にいわせれば,「いまの日本の大学(2000年前後を想定)」の大学生であれば,それも非一流大学の若者のばあい,いくらでもありうる話であって,別に驚く話題ではない。

 ところが,本書:石渡嶺司・山内太地『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』(光文社,2012年1月20日発行)は,そのいくらでもありうる日本の大学での大学生に関する話題をたくさん蒐集して記述されている。早速,本書の解説に聞いておくことにしたい。

 --TOEIC〔設問と解答を読み,4択して,解答用紙にマークする〕で,100点台をとってしまう学生,ツイッターでカンニング自慢をしてしまう学生から,内定とりまくりのすごい学生,グローバル人材まで,今日もキャンパスは大騒ぎ。『最高学府はバカだらけ』『就活のバカヤロー』の石渡嶺司と日本の全大学を踏破した大学研究家の山内太地が,日本の大学・大学生・就活の最新事情を掘り下げる。難関大なのに面倒見の良い大学,偏差値は高くなくても在学中に鍛えあげて就職させてくれる大学,少数精鋭,極限の「特進クラス」をもつ大学,グローバル人材といえばあの大学,などなど,お役立ち最新情報も満載。募集停止時代の大学「阿鼻叫喚」事情。

 --目次はこうである。

 第1章 バカ学生,まかりとおる
 第2章 大学だってアホっぽい
 第3章 講演「受験生をゼロにするためのパンフレット作り」
 第4章 就活を巡る空回り-無責任就活業者vs.無責任学生,悪いのは誰?-
 第5章 難関大でも「面倒見がいい」時代
 第6章 日本バカ学生史-明治・大正を中心に-
 第7章 定員割れ大学のサバイバル競争-募集停止か復活か-
 第8章 マンモス大,グローバル人材とバカ学生の間で揺れる

 石渡嶺司(いしわたり れいじ)はライター・大学ジャーナリスト。1975年札幌市に生まれ,北嶺高校を経て,東洋大学社会学部社会学科卒業。大学・教育・就職等の評論・執筆活動をおこなう。大学見学校数は約350。著書に『最高学府はバカだらけ』(光文社新書,2007年),『就活のバカヤロー』(共著,光文社新書,2008年),『時間と学費をムダにしない大学選び2012』(山内との共著,光文社,2011年),『強い就活!』(共著,ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。

 山内太地(やまうち たいじ)はライター・大学研究家。1978年岐阜県中津川市生まれ,岐阜県立中津高校を経て東洋大学社会学部社会学科卒業。47都道府県11カ国および3地域の860大学1143キャンパスを見学し,日本国内の4年制大学778校(2010年度現在)はすべて訪問。著書に『大学生図鑑 2012』(晋遊舎,2011年),『こんな大学で学びたい! 日本全国773 大学探訪記』(新潮社,2010年)など。

 2) 前提の
 本ブログの筆者は,本書を昼休み時間に購入し,自宅に帰って寝るまえでのあいだ,時間をみつけては小刻みに読了した。文章はきわめて軽い,読みやすい本である。カバーと帯の画像は右側にかかげておいた。日本の大学はそれこそピンきりであって,このような「バカ学生」をまとめて受けいれている「アホ大学」が数百単位で存立し,実際に経営されている。

 アホ大学でもバカ学生を相手にまじめに教育をほどこし,それなりの効果を挙げているところもないわけではない。しかし,こちらの実例はごく少数例であって,バカ学生を入学させているアホ大学が「まともな大学たりうる」にはどうしたらよいのか,などと考えないほうが無難である。余計なことは想像しないほうがいい。

 ②  石渡嶺司・山内太地『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』2012年1月から「注目すべき論及」を拾う

 1) アホっぽい大学,バカらしい学生
 第1章「バカ学生,まかりとおる」いわく,会社側の立場:学生に関する「採用からすれば,学生の学力低下にはほとほとあきれている」が,「とうとう開き直る大学が登場した」。「千葉県柏市にある日本橋学館大学である」。「英語はアルファベットの書きかた・読みかた,数学は円の面積など中学生レベル」であるが,同大の横山幸三学長いわく「むしろ本学では基礎学力を教えていることを “売り” にしようと決めた」(20頁,21頁)。もっとも,この大学が「売り」に出しているという「その商品を陳列する売り場」を間違えていると,そう指摘しておく必要もある。中学校で売る(教える)べきことを大学で教える(売る)のだ,といって開き直るのもいいが,恥ずかしい話にかわりはない。なにせ「バカ学生は4択問題で特定の番号だけマークするよりも低い点数をとる能力がある」のである(33頁)

 2) 消えゆく大学
 第2章「大学だってアホっぽい」いわく「校名変更で起死回生?」。「大学業界のやることは,どこかにおかしみというかツッコミどころが多いのである。それが校名変更である」。「2003年から2011年までに名称変更をした大学は38校あった。そのパターンとしては3つある」(48-49頁以下)

 a)「女子大の共学化」--イ) 武蔵野女子大学→武蔵野大学,文京女子大学→文京学院大学(以上,成功例)。ロ) 中京女子大学→至学館大学,松陰女子大学→松陰大学,広島安芸女子大学→立志館大学〔この大学は廃校〕(以上,迷走)。ハ) 就実女子大学→就実大学,東海女子大学→東海学院大学(以上,苦戦)など 12校。

 b)「簡略化」--四天王寺国際仏教大学→四天王寺大学,大同工業大学→大同大学,宝塚造形芸術大学→宝塚大学など8校。最後の宝塚大学は「いいやすくはなったが,だから,という気がしないでもない」(52頁)とのコメント付きである。

 c)「スケールアップ」--「特定学部の名前を冠していたものを外す,地名を冠するなどとしてスケールアップをめざすパターンで18校が該当する」(52頁)。金沢経済大学→金沢星稜大学,武蔵工業大学→東京都市大学,秋田経済法科大学→ノースアジア大学,那須大学→宇都宮共和大学,松坂大学→三重中京大学,英知大学→聖トマス大学〔募集停止〕,第一経済大学→〔福岡経済大学→〕日本経済大学。

 以上の38校中,受験者が増えたのは8校のみ,ほかは減らしている。募集停止・廃校が4校,現状について非公表が5校という惨憺たるありさまである(55頁)

 
 出所)山内太地石渡嶺司
    http://www.ecosci.jp/n-cafe/report19.html
より。

 3) お水風の大学経営
 第3章「講演『受験生をゼロにするためのパンフレット作り』」はまったくのブラックジョーク的な1章である。この「第3章のまとめ」を箇条書き的に書いた頁の「上部の2項」のみを紹介しておく。

  「大学は受験生よりも理事長と学長と学内政治が大切です」
  「大学は理事長挨拶によって受験生が集まると信じています」

 一般的にいえば,相当数のまともな大学では遠の昔から常識になっていることが,この種の大学方面では,いまごろにもなってようやく問題点が「さかさまに」指摘されたに過ぎない。この2つの記述については,これ以上,説明の要もない。

 4) 幼稚園としての大学
 第4章「就活を巡る空回り-無責任就活業者vs.無責任学生,悪いのは誰?-」は飛ばして,第5章「難関大でも『面倒見がいい』時代」には,こう書いてある。

 「いまの学生は,東大・早稲田といえども基礎学力が足りていない。その点で『失敗している』といってもいい」。「だからこそ『失敗』を『成功』にかえるために初年次教育やライティングセンターなどが必要なのだ」。「『それを幼稚園化』云々という外野のヤジを気にして宣伝しない早稲田の態度には,大隈重信もがっかりだろう」。「はたして学祖は『幼稚園化』の施設開設にがっかりしているのか,それとも『失敗に打ち勝』とうとしながら,それを隠すことにがっかりしているのか。その答えはすでに出ている」(138頁)
 
 早稲田大学にして「このように幼稚園化している」というのだから,私立大学でこの大学と慶応義塾大学以上に偏差値の高い大学はほとんどないゆえ,前段に説明された「日本の大学全般の惨状」は推してしるべし,である。この「第5章のまとめ」を箇条書き的に書いた頁の「上部の3項」のみを紹介しておく。

  「難関大は学力低下を絶対に認めたくありません」
  「難関大は学力低下を実際にはよく理解しています」
  「難関大は初年次教育を始めていますが,学外には宣伝したくありません。学内でも同様です」

 早稲田大学の先生に何人もしりあいがいるが,最近は学生の学力差がはげしい,いいかれば2極化していると観察していた。超難関大学の早稲田も,大学経営のためには「学生の学力に2極化」が顕著になるような方途を採らざるえないのである。

 5) 歴史は繰りかえされる? 
 第6章「日本バカ学生史-明治・大正を中心に-」は,最近話題になっている大学生の就活開始の問題にも関連する記述を与えている。「結局のところ,企業は企業で優秀な学生を集めて自社を発展させたい,他社には渡したくない。学生は学生でなるべく将来性があって給料の高い企業に入りたい,とそれぞれ欲がある」。「どちらもそうした欲はそう簡単には捨てない(捨てるわけがない)」。「まして,企業からすれば,かつてはバカ学生といわれてきたことをコロッと忘れ,『いまどきの学生は』といいたくてたまらない。100年まえの明治・大正時代だってそうだったし,100年後だってそう大きくはかわらないだろう」(193頁)。とはいっても,大学進学率の増加を無視したまま,歴史を越えて,このような見解が妥当するかどうか疑問がある。

 本章で参考になるのは,つぎに引用する文章である。「最近の一般的な傾向として,合理化された健全な企業体であればあるほど,筆記による入社試験はおこなわないで,もっぱら大学の評価する学業成績を尊重し,むしろ学生の人物やリーダーシップを重視して,その可能性をみぬくような面接や小集団討議による入社試験で,優秀な社員を開発し採用しているところが多いようである」(192頁)

 6) 大学は真冬の時代
 第7章「定員割れ大学のサバイバル競争-募集停止か復活か-」については,以下のように小項目「見出し」を拾って紹介する。

  「学生・教員とも無気力-定員割れ大学の展開-」
  「定員割れ大学は『赤字会社』か?」
  「もはや定員割れを隠せない」
  「秋田の国際教養大とほぼ同じなのに・・宮崎国際大学」
  「宣伝下手が響いて定員割れ」
  「『マナー部』創設で変わった大学-長岡大学」
  「教員に対しても厳しく」
  「全学生の『カルテ』を作成」
  「とにかく公務員に強い-千葉科学大学」
  「親も巻き込む熱心は就職指導」
  「CDP(キャリア・ディベロップメント・プログラム)」
  「知名度が低くても定員割れでも,価値ある大学」

 著者たちいわく,最後の「知名度が低くても定員割れでも,価値ある大学」は「応援していきたいと考えている」(225頁)。要は,大学というのはそれも私立大学に多いのだが,高い授業料をとって教育をするのであればこそ,密度の濃い・次元の高い高等教育を学生に授ける義務があることになる。

 ところが,問題は学生側の学力にある。「とにかく公務員に強い-千葉科学大学」とはいっても,しょせんは下級公務員への就職実績である。「親も巻き込む熱心は就職指導」をしなければならない大学というものを,そもそも情けないと思わないか? そういえば,新潟大学を定年退職後「長岡大学」に勤務していたが,完成年次にはさっさと他大学に移動した,しりあいの先生もいた。

 7) 日本の大学の特徴
 第8章「マンモス大,グローバル人材とバカ学生の間で揺れる」は,こう述べる。マンモス大でも,時代が要求する「グローバル人材」と「バカ学生」との学力的・人間力的な格差に苦労させられている。「日本の大学は,外国人留学生比率,外国人教員比率が低い」「大学のグローバル化に関する取組の遅れが,大学全体の国際的な評価の足を引っ張っている」。たとえば韓国の大学に大きく差を付けられている(232頁参照,233頁,233-234頁参照)

 「米国名門大の教育システム」に関連させて,日本の有名大における「教員対学生の比率」を比較すると,米国が「1対10名以内」であるのに対して日本は「1対何十数名」であって,比較にもならない(235頁以下)。これでは,少人数教育におけるその中身の濃さでいえば,日米間に大きな差が生じるのは当然である。

 日本の大学の「キャンパスに学生寮がない異常」(238頁)という指摘は傾聴に値する。日本の大学でも全寮制の教育を一部の学部で限られた学年のみ実施している大学もないわけではない。だが,基本的に教育理念そのものが異なっていて,比較の対象になりにくい。 
 出所)右側画像。猫もインターネットする時代?
    http://karapaia.livedoor.biz/archives/51704241.html より。

 「猫も杓子も国際教養大」(240頁,小項目見出し)の記述では,「大学は就職のためにあるのではない」という国際教養大学(秋田県の公立大学)学長である中島嶺雄のことばを紹介しておく。しかしながら,就職実績ですばらしい成果を挙げている大学学長だからこそ,そのように余裕のある発言ができている。

 本章で注目したいのは「語学力にくわえて『教養』も」という見出しの付けられた小項目で,こう主張されていることである。「教養とは」「損得勘定を超越したスキルである」「もっといえば人生において必要なスキル」である(243頁)。「スキルという表現」と「教養ということば」とは,いったいどのようにつながりうるのか疑問がないわけではない。けれども「リベラルーアーツとしての教養」教育が大学から失われて久しい「日本の大学」に向かい,そのような発言がなされることは,本ブログの筆者にとっては歓迎すべきものである。

 いわば「教養教育に徹すれば就職にも有利に働く」ということになれば,大学が高等教育本来の目標でもあるはずの「教養教育」に力をもっと入れるに違いない,という見直しの方向も展望できる。いわく「リベラルーアーツとは,意訳すると『人間を自由にするための学問』なので」ある。それは「奴隷として,上の世代が作ったシステムにからめとられる可能性が高い。それも自分が気づかないうちに」受けるべき教育である。「だから教養が必要なので」あって「自由になるために」「自分の力で幸せになるために」(243-244頁)こそ,そのリベラルーアーツ=教養教育がぜひとも必要なのである。

 ③ まとめの議論

 1) 大学では大学らしい教育がなされねばならない
 石渡・山内『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』2012年は,前段に触れている第8章のなかで,早大国際教養「学部の教育は,アメリカで盛んなリベラルーアーツ教育をおこなっている」「文学,歴史,経済,自然科学に至るまで,特定の専門分野を決めず,幅広く学ぶ」のである。「しかもこれを,世界中からやってきた留学生や,学生同士で,英語による議論やワークショップでたがいの意見をぶっつけあい,理解を深めていく」(258頁)

 いま日本の大学の大学生で,そのような勉学のしかたができる,耐えうる学力・人間力をもちあわえている者が,いったいどれほどいるか? 「学生の負担はかなり重い」(258頁)のであるから,並大抵の,高校までの学力・実力では着いていけない。大学生とは大いに学んで生きる」と書くのであれば,その程度の勉強に励む学生」が大学生と呼ぶに値するのではないか?

 そのような,ごく当たりまえの要件を実現させていない日本の大学が,大部分である。だから,本ブログの筆者は「日本の大学は3分の2が不要・無用」であると断言している。しかし,前段までに言及した「大学らしい勉強を学生にさせる大学」といったら,その3分の1のまた「何分の1」の大学しか,実際にはありえない。もう,これ以上「日本の大学」のありかたを追及することはやめにし,つぎの議論に移る。

 日本の大学でも「理系〔の大学・学部〕に教養が必要なのは入学時ではなく,実は就職活動のときである」。と同時に,ここまで大学進学率が増加してしまった日本の大学では「できない学生,優秀ならざる普通の学生,バカ学生をかえていくのも大学の使命ではなかった」か。「あるいは地味な研究をコツコツと進めるのも大学の使命ではなかった」か(264頁,267頁)

  ここでは,著者の石渡・山内両氏,あまりに当然な主張をおこなっていた。問題は「できない・優秀ならざる普通の学生」そして,いうところの「バカ学生」たちは,いったいどのようにすれば「大学生らしい学生」に変身させられるかにある。しかし,いまここで話題にしている「学生群」は「日本の大学のうち,大学として存在する理由のある3分の1」のほうにごく限定された話ではないか?

 バカ学生救済策を「幼稚園化」だの「バカ田大学」だのと一般週刊誌に叩かれてむかむかするのはよく分かる。だが,どちらも,今の高校生にとっては必要な施策だ。とくに後者は,普通の学生,ないしバカ学生を日本の各大学が放置したまま社会に送り出すのか,それとも社会に必要な人材として教育して送りだすのか,日本の各大学はいま,その岐路にある。バカといわれてひるまない勇気。それがいま,日本の大学に問われているかもしれない(270頁)
 出所)右側の画像は『バカ田大学入学試験問題馬科-これで合格なのだ!-』講談社,2011年1月発行の表紙。
    http://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4062166259.jp より。 


 実は,本ブログの筆者もだいぶ以前のことであるが,勤務してきたいくつもの非一流大学で,自学が「バカといわれてひるまない勇気」をもって,「普通の学生,ないしバカ学生を日本の各大学が放置したまま社会に送り出すのか,それとも社会に必要な人材として教育して送りだすのか」という現実問題をめぐって,積極的に議論をしてきた体験をしてきている。しかし,そのたびに,所属する大学の経営者や管理者たちから嫌悪の情で排斥される体験もしていた。だが,いまさらのように石渡・山内『アホ大学のバカ学生-グローバル人材と就活迷子のあいだ-』2012年1月が,筆者の意見を支持してくれている,あるいはもっと過激にそして率直に同様な見解を示してくれている事実は,感慨無量である。

 2) 1月11日の日本経済新聞から
 『日本経済新聞』2012年1月11日朝刊「大機小機」欄は「学生の採用時期と企業経営」という題目のなかで,こう語っていた。

  説明会開始は4年生の4月以降,選考開始は夏休み以降とすべきではないか。新卒者を確保しようと内定時期を早めても,学生側の公務員志望や他社へのシフトなどで歩留まりが高まるわけではない。こうした求人方式をつづけた結果,若年社員はそれに応えうる質を備えているのか疑問である。全体としてみると,小回りはきくが基礎学力が不十分で,応用力にも乏しい層が増えているのではないか。

 大学3年生は通常20~21歳で,理解力・吸収力に富む時期である。大学側もこの学年を教育の中心に位置付けている。そうした時期に求職行動の負担が重いことは,人生のなかで最重要な期間を非効率に過ごすことに直結する。それは,勉学に十分にとり組むことなく,論理的な思考力も脆弱な社会人が増え,中期的に日本経済の活動を衰退させることにもつながる。これは経済全体として,ゲーム論にある目先の利益確保のために結果的に悪い選択をするケースと同じである。

 要するに,日本の大学生はもっと勉学に勤しむ時間を確保させろという企業経営側からの意見である。しごく当然の意見がこのように「就活の開始時期は4年制の夏休み以降にせよ」というかたちで出されている。これも経済界の利害=「損得勘定」での話であるが,めぐりめぐっては日本という国全体の利害にもなる〈問題意識〉でもある。

 3) 1月9日の日本経済新聞から
 こうした主張がなされるなかで,慶応義塾大学塾長で日本私立大学連盟会長も勤める清家 篤は『日本経済新聞』2012年1月9日朝刊に「国際化・地域活性化・高齢化,私大の多様性が解決の鍵-自律運営へ財政基盤強化を-」を寄稿していた。日本を代表する私学の雄の長が述べる主張であるから,それなりに敬意をもって,また同時に「割り引いて」聞く話ともなる。全文は紹介できないが,その段落の過半を任意に選んで引用する。
 出所)写真は清家 篤
    http://www.jukushin.com/archives/6881 より。 

 日本の大学学部学生のほぼ8割は私立大学で学んでいる。私立大学は高等教育の最大の供給源であり,健全な市民社会を支える「層の厚い中間層」を送り出す担い手である。また建学の理念にのっとり,特色ある教育や研究をおこなう私立大学は,日本社会に知的多様性をもたらすために,なくてはならない存在でもある。日本の高等教育において私立大学が,量的にも質的にも大きな役割を果たしていることは間違いない。そしてこの役割は,現在の日本が直面する課題への大学の貢献を考えるとき,さらに大きなものとなる。

 a)「留学の質充実」--まず国際化という点では,留学生の量的,質的充実が求められている。量的には海外からの留学生の8割強は私立大学に在学しているし,逆に協定等にもとづく日本人学生の送り出し数の7割強は私立大学からである。さらに重要なのは私立大学のもつ多様性がもたらす質的貢献である。ダブルディグリー取得が可能な交換留学の拡充や英語による授業で卒業可能なコースの拡大など,私立大学は質の高い国際教育に積極的にとり組んでいる。独自性をもち,またカリキュラムなどの柔軟性,多様性に富む私立大学は,海外の大学とも連携しやすいのである。

 国際標準をめぐる競争での日本の「ガラパゴス化」が指摘される。たしかに日本でしか通用しないものは国際的な市場性をもちにくい。しかし同時に,ガラパゴス諸島の貴重な動植物がそこにいかなければみられないように,日本が創り上げたユニークな価値もまた日本に来なければ学べない。そしてそれらについての特徴ある教育,研究をおこなっているのは,実は圧倒的に私立大学なのである。

 b)「各地に根ざす」--地域社会活性化のためにはその中核となる知的基盤が必要である。私立大学は人口の多い大都市圏にも多いが,それ以外の地域にも,国公立大学をはるかにしのぐ数が存在している。ちなみに,首都圏以外に立地する私立大学は400を数える。そしてそれぞれの地域の文化やニーズに根ざした,各地の私立大学の独自性・多様性が,地域社会の発展に大きな意味をもつ。

 地元の有力な篤志家によって創設されたり,地元経済界の協力などで設立された私立大学は,もともと地域社会と密接に結びついていた。昨年の東日本大震災では,私立大学が地域復興を物心両面で支えている例が多くみられた。たとえば石巻において石巻専修大学が,行政も含めたさまざまな活動の根拠地となり,またその教員・学生が智恵と労力を出して復興に貢献していることなどはその典型である。

 c)「生涯教育進む」--さらに高齢化社会への対応として生涯教育を進めるために,私立大学のもつ多様性が貴重である。社会人学生は,特定の職業能力向上をめざしていたり,ユニークな分野の勉強をしたいといった明確な目的をもっていたり,あるいは引退後の高齢者などが学問そのものを楽しむために大学に入ってくるといったように,そのニーズじたいが多様である。そうした多様なニーズに対応できるのは,柔軟性のある個性的なカリキュラムを組むことのできる私立大学である。また社会人学生等は,生活する地域から離れた大学に通うのは困難であり,その点でも地域に多様な私立大学があることの意味は大きい。

 個々の建学理念を守り,改革が必要であればそれを自律的に進めていく。国があるべき姿を示し,それに沿って大学をつくったりかえたりするのは画一性,効率性が求められる発展途上国の話である。現在の日本のような高度先進国で,社会に不可欠の多様性を担う私立大学のありかたは,個々の大学の自律的判断によって決められるのでなければ意味がない。国の政策は私立大学の自律的な動きを支援し,後押しするものであってほしい。

 そのためにも私立大学側の財政基盤強化が不可欠である。その中心は学生からの授業料と卒業生など篤志家からの寄付である。同時に,社会に人材を送り出し,不可欠の知的多様性をもたらすという公共的役割に対する公的支出を受ける必要もある。もちろんそれには財政等の経営情報の透明性の向上などが必須条件である。

 d)「大学の目的」--いうまでもなくこうした大学の社会的貢献は,教育の質を常に向上させ,なによりも学生のためを考えることで実現される。よく学生の「顧客満足」といったこともいわれるが,大学にとって学生は単なる顧客ではないと思う。顧客なら支払われた授業料分の教育をして,どこかいいところに就職させればそれでよしということになるだろう。しかし,大学教育はそういうものではない。学生がその生涯を終えるときに,良い教育を受けてよかったと思ってもらえる,それが目標であるべきである。
 出所)写真は,http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/now_and_future/message/index.html より。

 学生は大学にとって単なる一時の顧客ではなく,将来にわたって気がかりな,いわば大学家族の一員なのである。そしてそうした一体感をもつことができるのは,まさに建学理念を共有する私立大学の教職員と学生,卒業生である。それが,国際化・地域活性化・生涯学習という場でもますます大切になってくる。その意味でも,私立大学はその責務をしっかりと自覚し,将来に向けての持続可能性を高めていかなければならないと思う。

 本ブログ筆者から一言感想をいわせてもらう。--このように高尚・高邁な主張が披露できるというのも,さすが慶応義塾大学塾長の立場だからである。以上に主張された諸点は,慶応義塾大学ではすでに相当程度が実現されているし,これからも,よりよく実現させていくはずの目標が言及されている。問題は,こうした日本の大学全般に対する理解・認識・要求が,はたして非一流大学においてどこまで敷衍できるかという点にある。しかし,この範囲にまで清家塾長の議論を期待するのは無理である。

 本日〔2012年1月18日〕の『日本経済新聞』朝刊の1面冒頭記事は「東大,秋入学に全面移行 懇談会が早期実現を提言-入試は春,卒業まで4.5~5年 国・企業に協力要請」という見出しが出ていた。これも東大だからできる問題の提起である。片や私立大学の雄,片や国立大学の雄の話であって,それぞれ,並みの大学がとりかかりうるような課題ではない。


2012.1.16

■ 日本の大学のなにが問題か(続) ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 08:39:30 ( 大学教育の現場問題 )

 ◎ ニッポンの大学の問題点-イギリスからの観察- ◎

 【 来るところまで来た日本の大学 】

 ①『中央公論』2012年2月号特集「大学改革の混迷」(続)

 1月10日に『中央公論』2012年2月号が発売され,特集記事「大学改革の混迷」が組まれていた。本号のこの特集記事の執筆者と論題は,以下のとおりであった。本ブログはすでに1月11日,冒頭論稿「◎吉見俊哉 対 青木 保の対談◎」をとりあげ,議論していた。

   対 談:青木 保×吉見俊哉「日本の大学の何が問題か」   
   武田 徹「実用教育の場から若者の承認欲求を満たす場へ」   
   上山隆大「すべての大学人は市場の中で生きるしかない」   
   山口 進「ロースクールが失敗したこれだけの理由」   
   中井浩一「東北大,福島大,岩手大は震災にいかに対応したのか」   
   天野一哉「学力世界一の上海から日本の大学改革の欠陥が見える」   
   苅谷剛彦「『小さな政府』に高等教育は可能か-イギリスから見たニッポンの大学の問題点-」

 本日は,最後の苅谷論稿を引照しながらさらに,現在の「日本の大学」のかかえる深刻な問題点を考えてみたい。なお,引用の頁(原文,76-84頁)はいちいち記さず「引用した箇所に」「 印」を付す形式にしておいた。
 出所)写真は苅谷剛彦
    http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn511.html より。

 ② 小さな政府に大きな大学

 1) 国家の役割の変質
 ヨーロッパの大学のほとんどが国立であるが,問題なく維持できていた。それは,大学が高度な知識の生産や,そうした知識をもった人材の養成機関として,社会に裨益できる「公共財」としての認識が強く受けいれられていたし,くわえて大学に進学する人びとが一定数に限られていたからである。

 アメリカや日本のように誰もが大学に進学しようとは思わず,知識生産をおこなう研究機関であると同時に,限られた数の人びとの高度な教育を提供する教育機関が大学であった。とはいっても,その背後に「階級」があったのだが,社会や経済の側でも,多くの大卒者を必要としない仕組がつづいてきた。

 しかし,この20から30年あいだに高等教育の急速な拡大が,ヨーロッパでも起きていた。大学教育の機会をあまねく提供するためには,国の財政負担という隘路が存在する。説明責任が問われるようになれば,旧態依然とした大学を残したままで,そこに公的資金を投入しつづけることは許されない(以上

 「大学というもの」が本来的に「高等教育機関」であろうと努力しつづけ,その学術的水準を高度に維持しようとするかぎり,つまり「象牙の塔」というにふさわしい「教育と研究の水準」を質的に確保するには,そこに迎えいれる学生たちの量的範囲もおのずと制限されざるをえない。この点に照らしてでいえば,日本の大学のほうが歴史的には先んじて,核心の問題性を尖鋭的に現象させてきた。無用・不要の大学ならびに大学生がおびただしいこと,これを大雑把にいてしまえば「その3分の2」ほどは,大学あるいは大学生というための基本要件や最低資格を,もともと具備させていない実情にある。

 貧乏な家庭・世帯は大学に子どもをいかせられない。なにせ,私立大学はむろんのこと,最近は国公立大学の授業料も高い。つぎの表は,厚生労働省がかかげる「各種世帯の所得等の状況」のうち「所得の分布状況」である。2010年における日本の勤労者の平均所得は549万6千円であるが,統計上の中央値では438万円,その最多値は200-300万円に出現している。平均所得金額以下の家庭・世帯が全体のなかで61.4%である。年齢別に平均所得も異なっているが,低所得の家庭・世帯にとって子どもを1人,たとえば私立大学でも比較的学費の安い伝統校に通わせるにしても,4年間で無事卒業できたと仮定するに,最低で納入金だけでざっと400万円はかかる。

 
  出所)http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa10/2-2.html

 これでは,平均的な所得の家庭・世帯が子どもを1人だけでも大学に入れて卒業証書をもらわせるには,非常な経済的負担を強いられ,生活全体において相当の負担・我慢が必要となる。耐乏生活を強いられる。それでいて,当世の学生にとって就活戦線の実際は,常識的・感覚的にいっても「大卒」というイメージにふさわしい企業・職業・職種・職務に就けるという保証がえられない〈時代〉である。問題は大学教育のための経費・予算は,どこで誰がどのように支出・負担すればよいのかというところに逢着する。
          
 2) 私学と家計依存のニッポン
 日本の大学はいまでは国立大学でも納入金が高くなった。以前は,私立大学の納入金がとても高額であって国立大学の学費はかなり安いといえるほどに大きな較差があった。しかし,いまはそれほど顕著な差額ではなくなった。

 苅谷は,イギリスの大学での授業料の支払は,学生の大学卒業後にえる収入に応じて給与から天引きされる後払い方式である事実を指摘する。いわば,イギリスでの「大学教育はほぼ自動的に国からの学生ローンを引きうけるかたちで,受益者の負担となる」「から,将来学生になる若者たちが抵抗行動を起こした」と説明している。

 これに比べて「日本では大学にかかる費用の多くは,学生本人が負担するのではなく,親たちが支払う」ゆえ,「学生の側からみれば,自分が将来負担すべきみずからへの投資ではなく,親への依存によって大学にいっているという意識につながる」。このために「大学で学ぶことへの意識の低さにもつながる『甘えの構造』は,こうした費用負担の仕組と関係しているといってよい」。

 
  出所)http://resemom.jp/article/img/2010/11/15/324/1130.html

 日本の大学はその学生数の8割をかかえているのが私学である。その多くは,財政的にも弱い学校法人であり,授業料収入や入学金といった学生納入金への依存度が高い。いうなれば,この「小さな政府」ゆえの私学依存・家計依存による高等教育の拡大が,日本の大学教育のもっも本質的かつ構造的な特徴であって,さまざまな問題を生みだす隘路となっている。

 
     出所)http://resemom.jp/article/img/2010/11/15/324/1131.html

 教育機会を拡張しようにも,家計の経済力による不平等を残してしまうので,教育の質を高めようとする議論の多くが空振りに終わってしまうのも,その根本には,国による財政負担を小さくしたまま,高等教育の機会を〔安上がりに〕提供してきた日本型高等教育の発達史に,そもそものの原因がある。市場原理に任せて教育の拡充を図り,国による財政的な負担を最小限に留めておく「小さな政府」を,高等教育の世界では日本がいち早く実践してきたことのツケである(以上

 以上の苅谷「日本の大学論」に関していえば,たとえば日本の文部科学省が21世紀に入ってから設置させはじめた法科大学院のばあいを観察すれば分かるように,私立大学にも無計画にそれこそ野放図に認可した事実からもその問題点が明白になっている。苅谷の表現を借りれば,「分かっちゃいるけど止められない」状態に留めおかれている「日本の大学教育の問題点」=「隘路(ボトルネック)」:私学依存体制が,なんら見直しも反省もなく,現状のまま放置されてきているのである。

 ③ 日本の大学を囲む世界の状況

 苅谷は,日本の大学の現状を「日本をとり巻く外部環境,とりわけ他の先進国で進む教育と労働市場のグローバル化の流れのなかで」観れば分かるように,「それらの問題の深刻さがいっそう増しており,しかも問題の質にも変化がみられる」。ところが,それ「にもかかわらず」,日本の大学では「いっこうにその改善がみられない」「ことじたいを問題にしたい」と指摘する

 1) 就職活動
 「1つめの問題は,4年間の教育が十分に確保されていないことである」。日本の大学は「就職実績を挙げることが」,入学のほうで「学生集めのさいの重要な評価基準となるから」,この「就職活動を制約してまで,大学は学生に学習を強要することはできない」。

 2) カリキュラム
 「2つめに,カリキュラムの体系化ができにくく,広く浅い学習になっている」。「教育の質を維持するために退学者を出すことも容易にはできない」。「その結果,日本の大学生は,大学外ではほとんど学習を要しない学生生活を送ることになる」。「日本の大学とは,授業中にしか学ばないところなのである」。--〔筆者補記→〕文系では授業にさえろくに出ない学生も多いが・・・。

 3) 付加価値
 「第3に,以上の結果として,4年間(実質は3年以下)の学習を通じてどれだけの付加価値がついているか,それを厳密に評価できないまま,よほどのことがなければ卒業できる仕組を維持しつづけている」。「なにをどれだけ学び,身に付けたのかが問われないうちに,就職の内定が決まってしまうのは,日本の社会が大学教育の付加価値に関心をもたないことを象徴している」。

 4) 修士プレミアムの不在
 「一度仕事に就いたあとで,より高度の学歴を取得する,ほかの先進国ではいまや当たりまえになっている大学院レベルでのリカレント教育が〔日本で〕普及しないのも,修士プレミアムの不在による」。「人文社会系」「文系では,修士号をとっていてもそれが雇用市場ではまったく評価されない,つまり修士プレミアムが付かない」。

 5) 日本の大学がかわらない理由
 企業側は「仕事で必要な知識や技能は就職後に実際の仕事(OJT)を通して身に付けさせる。だから,大学は訓練のしやすさ(trainability)を示すシグナルだけ提供していればよい」。「大学入試で求められる偏差値や大学のランク(あるいは運動部での成績)が,そうしたシグナルになる」。

 6)「会社待ち行列」
 1980年代後半までの日本的な大学教育と就職の仕組は,『会社待ち行列』としてモデル化された」。「訓練能力が大学の偏差値ランクのような一元的な尺度として提供されていれば,その尺度上の順番(行列)で,望ましい就職先(会社)への選抜がおこなわれていく,という話である」。「こういう大学のランクと就職先の望ましさとの対応関係をもとに,就職先企業が決まり,就職後はそれぞれの会社がじっくり時間をかけて技能形成をする」。

 「そういう仕組が備わっていたことで,たとえ大学教育が付加価値を付けずとも,大学入試が訓練能力のシグナルを提供している限り,大学は一定の役割を果たしてきたとみることができた」。しかし「このような理解は,もちろん,日本という閉じた社会のなかでの競争の仕組をいい当てるもので」あって,「あくまでも相対的な順位が問題にされる」に過ぎない。日本「国内の閉じた空間のなかで狂騒をするかぎり,教育の中身が伴おうと伴うまいとそれは問題にされない」。「閉じた競争のなかでの総体的な順位争いが受験競争であり就職競争だった」。

 
    出所)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3240.html

 ところが「その構造は基本的にも現在もほとんどかわっていない」。「実際には雇用政策や雇用情勢の変化により,大卒正社員の比率が低くなり,企業内での長期に及ぶOJTが機能しなくなっているといわれる」。「そうであれば,大学教育の付加価値が問われそうなはずだが,企業の行動はそれとは逆行するものである」。「閉じた競争という枠のなかでは,自分だけ止めるわかにはいか」ず,「そのため,たとえそれが人材育成上マイナスだと分かっていても,旧来の仕組が作動しつづける」。

 7) 世界の動向
 「日本国内で閉じた競争がつづいているうちに,日本の外側では大きな変化が生じている。大学教育においても,企業の人材獲得においても,急速な勢いでグローバル化している」。「大学がグローバルな人材育成競争の担い手として注目され,いわゆるワールドクラスの大学がしのぎを削りあ」っている

 「しかも,そうした変化の舞台は,研究者養成だけに限らない大学院教育に移行しつつある。とくに近年生じているのは修士レベルの専門職教育であり,分野としてはビジネスや法律,政策(社会政策や公共政策)といった社会科学系である」。苅谷は自身が「所属するオックスフォード大学でも,研究者養成ではない,授業中心で修士号の取得をめざすコースが急増している」と指摘する。

 8) 大学のブランド戦略
 「世界中から集まった教員が,これまた世界中から集まる優秀な学生たちに,みっちり指導する。授業で課せられる課題文献の量は相当なものだ」。「しかも,個別指導が中心で,ゼミ形式の授業もきわめて少人数でおこなわれる」。「大人数の講義形式の授業を数多く受講するカリキュラムでない。少ない科目を個別指導を中心にみっちり学ぶのだ」。

 苅谷は各国,イギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの大学が世界中の学生を集めて,大学院教育「経営」を展開する様相にも言及して,こうも指摘している。『取り残されるニッポン』! 

 日本「国内の企業がさきを争うように,大卒者の採用活動を早期化することで大学での教育を中断してその価値を低めてしまうのも,人文社会系での修士課程の重要性を認めずに4大卒にこだわりつづけるのも,閉じた空間のなかで総体的な有利さを競い合っていればよいからだ」。「実際に,日本の大学も国内の新卒市場も,日本語という言葉の壁と日本企業の雇用慣行とによって守られている」。逆に観れば「日本という社会は海外から高学歴人材を引きつけるのに失敗している」。

 9) 日本の大学・大学院の基本問題
 「日本の高等教育人材は,海外から流入する高度な人材との競争を免れている」し,「大学教員の世界もしかりである」。日本企業もグローバルな人材調達を実施し,現地法人の経営者も日本人であることにこだわっていない。「ところが,それも日本国内の大学教育市場や就職市場に直接的な影響を与えるほどのものではない」。「日本の大学の国際化戦略も,少しずつであるが,始まっている」けれども「中途半端に映る」。「国による財政支援も企業からのサポートも少ない」。「結局は,国も大学も企業も含め,日本全体が本気でとり組んでいない」。

 「そもそも国際化戦略は,大学にとっても企業にとっても,理工系人材育成の一部を除けば,コストのかかる余計なことである。それをコストをかけずにやれば,ますます後ろ向きの対応になる」。「そうこうしているうちに,日本の外では大学院レベルでの人材育成の国際化が進んでいる」。「そこからとり残されてしまうのは,国際競争にさらされないで済むという,過度な市場規模と言葉の落差に保護されていることによる」。これは「大学だけに限らない,どこかで聞いた話である」(以上各所

 ④ 日本の大学に希望はあるのか

 苅谷いわく,結局「問われているのは,日本という社会そのものである」。昨日〔2012.1.15〕の本ブログは「■在日問題と孫 正義■」「◎佐野眞一『あんぽん-孫正義伝』小学館,2012年1月◎」と題して議論をしていたが,日本社会における在日差別はだいぶ減少してきたものの,「在日=反日(!?)」という無知蒙昧的な紋切型をもってする,旧植民地時代から帝国臣民の仲間であったはずの「特別永住権の保有者:定住韓国人」に対する偏見・差別が,あいもかわらず絶えないでいる。

 大学の国際化が本日の議論の中心内容であった。日本社会においてはだいぶ以前より「内なる国際化」という標語が盛んに強調されたこともある。「内なる」という意味は,人間の意識のなかにも入りこむ精神次元の問題でもある。日本の大学には言葉の壁があってウンヌンという論及もあったが,在日問題に言葉の壁はなく,心のなかに隠されている壁が問題の焦点となる。つぎの枠内に記述された文章は1991年のものであるが,20年以上経ったいまでも傾聴に値する中身がある。
 
   出所)益本仁雄「『内なる国際化』の現状と問題点」『慶応義塾経営論集』第9巻第2号,1991年11月,35頁。 
      http://www.booknest.jp/browse/00001778?w=1560 より。

 それはともかく苅谷は,日本の大学に「かえるためのインセンティブがないのだから,その構造が大きくかわるまで,少数の先端事例を除けば,じり貧になりつつも現状がつづくのだろう」か,「あるいは企業を含め日本社会が,全体としてみればマイナスを生みつづけている,この不合理さから集合的に脱することができるのか」と,非常に心配している。「だから,大学教育だけを嘆いても始まらない。公的教育を最小限にした『小さな政府』しておいて市場に任せれば,現状の大学教育市場,人材育成市場を前提にした合理的な選択がとられるのは当然である」

 最後に,本ブログ筆者の持論をもちだすことになる。「日本の大学3分の2は不要・無用」と断言する立場から,一定の国家予算でもって運営・維持できる規模にまで,日本の大学教育体制を縮小,圧縮し,精錬化するつもりはないのか? 大学ではエリート教育に耐えうる学力・人間力のある学生だけを相手にすべきではないか。私立大学,それも2・3流の大学,あえて偏差値でいえば「55にも達せず,45前後からこれ以下の数値」しかないもろもろの私立大学は,特別の事情があって設置しておく教育社会的な意義・理由のあるものを除外して,そのすべてを廃校にすべきである。事後,専門学校として実業教育のための中等教育機関に衣替えさせればよい。

 大学経営が営利企業の対象として強い関心をもたれるかぎり,この高等教育機関が本来の「大学としての教育と研究」を展開できないことは,分かりきっている。いったいなんのための《高等教育》であるのか,原点に戻っての再吟味が切実に要求されている時代である。

 「2012.1.11」「■日本の大学のなにが問題か■」「◎吉見俊哉 対 青木 保の対談◎」「【来るところまで来た日本の大学】」でも触れたように,具体例を挙げれば「看護師を養成する教育機関」として,いまの日本の大学には看護学部が急速に増えてきた。ところが,単に看護師の資格のある人材と育てるのと,医師や医療技師たちの協働作業に始めからとりくめるような「高度な看護の理論と技能をもつ看護師」を育てるのとでは,同じ看護師教育でもまるで異なる「教育の理念と体系」が要請されるはずである。ところが,日本の看護教育はその異同に関して徹した教育体系の整備ができていない。

 「正看護師と准看護師の違い」は,「国家資格免許にもとづく〈看護師〉がみずかの判断による主体的に看護がおこなえる」のに対して,「都道府県知事免許にもとづく〈准看護師〉は医師・歯科医師・看護師の指示により看護がおこなえる」ところにあるとされる。だが,さらに看護師が医師や医療技師たちといっしょに医療現場で働くさい,上下関係ではなく協働作業においてともに従事する医療関係者としてみるとき,どのような使命・立場・役割を果たしうるのか,まだ未解決の課題が多い。

 例を挙げれば,つぎに引用する看護師の仕事・職務を,さらに包括的・総合的に,いいかえれば,哲学的・思想的にも学術次元で説明しうる理論的な背景が要求されている。

 私たちは,心温まる看護をめざしています。

 東海大学の建学の精神は「ヒューマニズムと科学の調和」です。この精神を看護の場面で表現しようとすると,たしかな知識や技術と一緒に,心の温もりを1人1人の患者様に贈ること,つまり「心温まる看護」の実践ということになります。

 どんなに医療技術が進歩しても,それだけでは患者様の体と心の痛みを癒すことはできません。患者様とその家族がいま,直面している苦しみや不安を深く理解し,それらを少しでも和らげるためになにをすべきかを真剣に考え,実際に手を差し伸べることが私たち看護師の使命だと考えます。

 人が好き,看護が好き,ぬくもりをあなたに

 モジュール看護体制をとっており,チームで責任をもって患者様の看護に臨んでいます。

 モジュール看護体制なので新人の看護師さんも先輩看護師に支えられ,同じように看護が提供できます。プリセプターの先輩が一緒に関わってくれ,悩みを相談でき安心して働けます。
 註記)東海大学医学部附属大磯病院看護部。意味の分からない「モジュール看護体制」にはリンクを張っておいた
         http://www.tokai.ac.jp/oisohosp/Nursing/nursing.htm

 日本の大学附属病院内における医療管理の諸問題は,日本国内の課題でもある。だが,看護師を海外から人材調達するという現実問題もすでに進行中である。それはともかく,日本の大学全体を評価するさい,急速に国際化(グローバル化)しつつある「世界の大学市場」に対して,最近の「はやりことば」でいえば,だいぶ以前より「ガラパコス化」しつつある。これが,日本の大学教育における現場の諸状況を端的に表現している。もう一言いわせてもらうのであれば,そのなかにあっても2流以下の「非一流大学」は,「ガラパコス」諸島にさえ漂着して〔できて〕いるようにみえない。


2012.1.15

■ 在日問題と孫 正義 ■

日本経営学界を解脱した社会科学の研究家 @ 15:08:51 ( 在日外国人関連問題 )

 ◎ 佐野眞一『あんぽん-孫正義伝』小学館,2012年1月 ◎

 【 日本の古代史と現代史をむすぶ歴史的事例 】

 ① 佐野眞一が書いた伝記:『あんぽん-孫正義伝』

 1) 孫 正義「伝」が公刊された時期:好機
 佐野眞一『あんぽん-孫正義伝』が小学館から1月15日〔本日付け〕で発売された。本書は,同社の発行する週刊誌『週刊ポスト』に2011年1月7日号から3月25日号の「あんぽん」第1部,7月29日号から9月23日号の「あんぽん」第2部として佐野が連載してきたものに,さらにその後の取材で判明した事実も活かし,大幅に加筆して1冊にまとめ,公刊されていた(あとがき,394頁参照)

  

 『日本経済新聞』1月12日(木)朝刊は,上の画像で紹介する広告宣伝を3面の脚の部分に,このように大きく出していた。400頁近い本文の分量で定価は1600円〔+税〕である。相当の発行部数を用意したものと推察される。いつものように,本書の詳細を 紀伊國屋書店の bookweb に聞いてみよう。

 ここに孫 正義もしらない孫 正義がいる。いまから1世紀前。韓国・大邱で食い詰め,命からがら難破船で対馬海峡を渡った一族は,豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する佐賀・鳥栖駅前の朝鮮部落に,1人の異端児を産み落とした。ノンフィクション界の巨人・佐野眞一が,全4回の本人取材や,ルーツである朝鮮半島の現地取材によって,うさんくさく,いかがわしく,ずる狡く・・・時代をひっかけまわしつづける男の正体に迫る。

  “在日三世” として生をうけ,泥水をすするような「貧しさ」を体験した孫 正義氏はいかにして身を起こしたのか。そしてことあるごとに民族差別を受けてきたにもかかわらず,なぜ国を愛するようになったのか。なぜ,東日本大震災以降,「脱原発」に固執するのか。すべての「解」が本書で明らかになる。 】


 誤解のないようにあえて断わっておくが,ここで「国」といわれているのは日本「国」のことである。孫 正義が日本国籍を取得するにさいしては,こういう有名な話がある。佐野『あんぽん』の94-96頁に書かれている。次項で説明しよう。

 2) 孫 正義の日本国籍取得-という姓は日本になかったのか?-
 孫は,アメリカの大学留学時にしりあった2歳年長の妻:大野優美〔もちろん日本〔国籍〕人〕に頼り,彼女をてこに使うという高等戦術を案出・駆使して,日本国籍を取得した。孫 正義が通名:安本正義を棄て,その韓国の氏名のままで,日本国籍を取得するためには相当の時間を要した。というのは,法務省が孫という姓のままでの「帰化」申請を,長いあいだ認めなかったからである。

 日本人がアメリカ国籍を取得するさいは,たとえば「佐藤→サトウ:Satou」「鈴木→スズキ:Suzuki」「孫田→マゴタ:Magota」となるだけで,日本〔人〕の姓じたいを無理やりかえさせられることはない。孫はそこで,日本国籍取得での難問:アポリアを克服するに当たっては,「一休頓智話」のような逸話を残してみごと解決した。まず配偶者の大野に日本の法律にしたがい「孫」に改姓させ,つぎに日本にも孫という姓があるという実績を踏まえて,「孫」という姓への帰化=日本国籍取得を実現した。

 法務省は,日本人の姓には存在しない〔とする!〕「姓=孫」なのだから,日本国取得のさい選ばせる『日本の「姓」』としては認めていかった,というのである。もっともいまでは「金でも李でも朴でも」「〈帰化〉申請できる」ように改正されているが,孫という韓国の姓によるその申請がまだ認められない当時,正義は便法:迂回作戦を企図・実行し,「孫」という姓で日本国籍をとったのである。
 出所)写真は,http://teatime.xsrv.jp/t-koten-m.html より。

 ところで,日本国籍人の姓のなかには以前から「孫」というものがなかったという事実=証拠を,法務省が正義に明示していたのかどうか,本ブログの筆者には分からない。だが,筆者の手元にある『日本全国 名前(姓)の読み方』(プランネット・日武会,1983年)には,孫(そん)という姓が掲載されている。むろん,これは在日する韓国人や中国人の姓もすべて収集しての記載かもしれない。けれども,法務省の主張「孫という姓は日本にはない」という主張は,〈事実の主張〉として裏づけられていたといえまい。孫という姓が「日本国における日本〔国籍〕人の姓」として,絶対に無存在だという根拠を示しえていない。

 韓国籍の人びとが日本国籍を取得するさい,たとえば「金」という姓を,長いあいだ「日本国籍人の姓」として認めてこなかったという法務省の姿勢は,本当は完全におかしかった。なぜなら日本人にも「金」という姓がある。東北地方にみられる姓であって「こん」と読ませる。「今」や「昆」も姓としては同根であって,もともと「金」に発しているといわれる。「金」を「きん」と読ませるかぎり,韓国籍の人びとが日本国籍を取得するさい,たいていのばあい2文字の漢字にかえさせられて「金田・金本・金村・金岡・金城」などといった「日本人(風?)の姓」に直させ,代えさせておくという法律・行政上の強制は,理屈のうえでいえばまったく不合理・不当であった。

 韓国籍の人間が日本国籍に異動するさい「もとの姓」を認めないというのは,ある意味では「基本的人権」の侵害といっても過言ではない。自己同一性の指標の「大事なひとつ:部分」である〈姓〉や〈名〉が,なにゆえ,国籍異動のさいに強制的に変更されねばならないのか。考えてみればずいぶん理不尽であり,納得もいかない話でもある。日本人の佐々木一郎がロシア〔国籍〕人になるさい「イチロビッチ・ササキスキー」と称することになるのか。この冗談みたいな話よりもタチが悪いのが,日本帝国主義時代の末期,朝鮮統治の政治過程のなかで朝鮮人(韓国人)に対して強要された『創氏改名』である。しかも,これをそのまま戦後にまで継承させたような「手順」が,帰化申請にかかわって残されてきた。在日韓国人〔外国人〕の帰化申請時においては『日本的な姓名』への変更強制がなされていた。

 ② 佐野『あんぽん』から興味を惹く記述を紹介する

 1) 孫 正義もしらない「孫 正義」論
 いまさらいうまでもなく,孫 正義のルーツは韓国である。佐野いわく『あんぽん』は「私なりの在日朝鮮人論であり,孫一族の『血と骨』の物語である」。本書の目的は「孫 正義という特異な経営者はなぜ生まれたのか」「それを朝鮮半島につながる血のルーツまで遡って探ること」にあった。佐野は自信をこめていう。「本書で明らかにされた事実は,どんな孫 正義論にも書かれていない」「これらの事実はおそらく孫自身も半分以上はしらなかったはずである」。

 佐野はまたとくに,正直に孫を褒めている。2011年3月11日「東日本大震災」という日本国・日本人にとっての大きな不運が起きたとき,日本の政治家たちの非常に劣化した資質を嘆く佐野は「この大災害は,リーダーなきこの国の不幸もあぶりだした」とも批難すると同時に,「これに比べて,東日本大震災の被災者に百億円の義援金をポンと寄付し,十億円のポケットマネーを供出して自然エネルギー財団設立を表明した孫 正義のふるまいは,好き嫌いは別にして水際立っていた」というのである(以上,あとがき,395頁参照)

 朝鮮半島から逃げるようにして玄界灘を渡り,あからさまな在日差別を受けつづけてきた孫家と李家3代の歴史と〔李は孫の母方の姓〕,その反抗の血を胸の奥底に秘めながら佐賀・鳥栖駅前の朝鮮部落から這い上がり,世界的起業家となった孫 正義の物語は,同じシリコンバレー世代に属し,アップルを創業したスティーヴ・ジョブズの生涯に劣らず感動的である(あとがき,396頁)
 出所)画像は,http://www.google.co.jp/search?q=スティーヴ・ジョブズ&hl・・・ より。

 2) 在日差別の歴史的な現象
  佐野は前項のなかで「在日差別」「好き嫌い」という修辞も使って記述していた。佐野は「孫 正義という男は,在日差別にからんだ」「複雑な人間関係からしか生まれなかった」(336頁)と指摘するとともに,「孫 正義を産んだ家系の底光りにあらためて驚かさせる思い」(331頁)にも触れている。「朝鮮では食えず日本への渡航を繰り返した元炭鉱労働者の祖父と,朝鮮で戦前に生まれて日本に渡り,戦後母国に戻って,再び日本に密航してきた父」,「これはもうそのまま玄界灘をはさんで繰り広げられる大長編韓流ドラマである」(369頁)とまで,佐野はおおげさではなくいうのである。

 それでも「ネットをみると,たしかに右翼からの脱原発の旗振りになった孫 正義への攻撃はすさまじい」。「反日ハゲ爺の孫 正義が,国民の税金を使って環境ビジネスに乗り出した。孫 正義は売国奴。孫 正義を擁護するのは左翼か在日か・・・」(388頁)などという攻撃も紹介したうえで,佐野はこうも述べている。

 孫 正義の「一族を取材すればするほど,魑魅魍魎のイメージばかりが広がった」。「それは侮辱語ではなく,朝鮮から渡来した民族の悲しみと怒りの別名でもある」。「彼らは故国では僑胞(キョウポ)といって軽蔑され,日本では在日といって差別された」。「それを極限まで体現したのが,玄界灘を往復した安本三憲こと孫 三憲である」。

 正義の父である「三憲はみる立場によって,猛毒性の曼荼羅華(通称・朝鮮朝顔〔補注:マンダラゲと読み,キチガイナスビの異名もある〕)のように違った相貌をみせる」。「ある者には鬼畜にもみえ,ある者には菩薩にもみえる」。「孫 正義はこういう異様な家系から生まれた。そういうと,奇異に思う人がいるかもしれない」。「だが,こういう尋常ならざる一族からでなければ,東日本大震災の義援金をポンと提供し,事と場合によっては暗殺されるかもしれない反原発の旗振り役となるトリックスターは出てこない」(390頁)

 佐野はさらに孫の気持を,つぎのように忖度する。「孫は無意識のなかで,在日の血族のしがらみのなかでしか生きてこられなかった一族を激しく嫌悪しているのではないか」。すなわち「自分自身でも分からない過去に対するその信じられないほどの斥力が,未来への驚異的な推力を生みだしているのではないか」「そんな気がしてならない」。「孫は私のインタービューに,『親父や親類がやっているような仕事で金儲けしようと思ったらいくらでもできた。でもそれじゃ,在日をカミングアウトして帰化した意味がない。あえてつぎの道をいくことが,僕に与えられた使命なんです』と繰り返し語っている」とも,佐野は記述している(391頁)

 佐野は「暗殺される可能性」を孫 正義について語ってもいた。本ブログでとりあげたことのある中村敦夫の『簡素なる国』(講談社,2011年4月)は,「要は,危機をしりながらも,利権のために旧エネルギー産業にしがみつく政治家や企業をどう追放するかという問題」があると語っていた(同書,330頁)。孫はまさにこの追放する側の「大企業経営者の立場」を鮮明している。したがって,身辺においては細心の注意が必要である。日本国であっても,政治家や高級官僚や会社経営者のうち「不審な死にかた」をしている人たちがいないわけではない。

 3) 在日差別の今日的な本質
 孫 正義は,日本の言論・マスコミ界が「私個人を批難」す」「るのは,構わない」。「しかし,その時にわざわざ『在日』という言葉を使われるのは・・・」と苦言を呈している。インターネット上で「ツイッターにはお門違いの意見がめだつ」の「は脱原発問題への関心の高さと理解しておけばいい」。だが,「それよりも気になるのは,孫に対する風当たりの強さである」ことについて,佐野のほうではこう反論している。

 「それがまっとうな批判なら別に構わない。私がうんざりするのは,あいもかわらず『在日』に対する古くさい偏見にもとづいた批判が多いことである」。「孫 正義批判の援護射撃役となった『週刊文春』と『週刊新潮』の記事は,『週刊文春』が「孫 正義『強欲経営』の正体」,『週刊新潮』が「脱原発の政商になる『孫 正義』の果てなき商魂』とタイトルこそ勇ましいが,羊頭狗肉の見本を読むようで,これまでの孫批判記事と焼き直しただけの内容にまったく新味はない」。「この孫 正義バッシング記事は,脱原発の動きをなんとか封じこめたい東電の意向と,菅内閣の延命を是が非でも阻止したい勢力の意向に沿って書かれたとしか思えない」(佐野『あんぽん』258頁)

 佐野は結局,こんな批判にもならない批判がまかり通るのも,日本中に精神の瓦礫が広がっているからだといい,まさかこんな底の浅い言説をまともに受けとめる読者もいないと記述している(259頁)。もっとも,週刊誌に限らずインターネット上に氾濫している言説は,素人判断によっているために偏見と差別を満載したものも多い。これをいちいち気にかけていたら,どんなに神経の太い人でも嫌気が差すはずである。

 4) 佐野眞一の孫 正義に対する苦言的な評価
 佐野は「孫の背後には海峡を渡ってきた朝鮮人一族の3代の物語が渦巻いている」と理解したうえで,こうもいう。「情報革命という世界史的な言葉を説得力をもって」「語れる資格があるのは,孫のように大きな物語を抱えた人間以外は考えにくい」。「とはいえ,孫はその社会的成功に比して,応分の社会的評価をえているとはいいがたい」。「ブリヂストン創業者の石橋正二郎がやったような,うなるほど稼いだ金で美術館などを造って社会に還元するメセナ精神に乏しい。それが孫が日本一の金持ちにふさわしい社会的尊敬を集めていない一因となっている」。

 「孫がこのまま設けた金を息のかかった企業に投資する道だけに没頭すれば,最期は誰からもあまり尊敬されず,すっからかんになって死んでいったダイエーの中内 㓛同様の末路を辿る可能性もある」。「孫にはだいたい人間的スキがなさ過ぎる。一言苦言を呈しておけば,孫はもう少し経営者として器量のおおきなところをみせたほうがいい」(221頁)

 もっとも,ここに批判されている孫の経営者としての資質は,佐野も触れているように「東日本大震災への義援金百億円供出」や「再生可能エネルギー発電方式」を普及させるためにいって,ポケットマネー10億円を提供したこともあって,多少は変化してきている。
 出所)右側画像は,http://gamigame.jugem.jp/?eid=653 より。

 また,孫 正義だけを石橋正二郎に比較するのは気の毒である。在日系の経営者:孫だけでなく,一般の日本人経営者すべてに対しても同じように,「メセナ精神」の有無をきびしく問うてみる余地があるる。石橋正二郎は「社会貢献」には突出してかかわってきた経営者である。孫が突如もちだされて,この石橋に比較されるというのであれば,孫も日本産業社会において超一流の経営者群にくわえられたとみてよいのか?

 孫に対してそう提言する佐野はつづけて,別にはこうもいっている。「孫の軌跡に日本人ではまずなしえない物語をみている」。「私たち日本人はいまだ未練がましく,高度経済成長期の再来という “地上の夢” を夢想している」。しかし「孫はそんな地上の夢をはるかに離れて成層圏を突破しようとしている」。「孫は口先だけでは済まない実業家である」。「孫とIT評論家との違いは,その立場の差だけにあるわけではない」。「孫が〔は〕自分の口でいったことを確実に現実のものにさせてきた」(220頁,221頁)

 ③ 在日としての孫 正義の心配

 1) 孫 正義の立ち位置
 佐野は孫 正義の立ち位置を,つぎのように表現している。

 ☆-1 孫 正義は成りあがり者だから,いかがわしさを感じるのか? ノーである。

 ☆-2 孫 正義は元在日朝鮮人だから,いかがわしさを感じるのか? ノーである。

 ☆-3 それでも,孫に感じるいかがわしさやうさん臭さは,いったいどこから来るのか?

 孫は,1956年7月の『経済白書-日本経済の成長と近代化-』が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った翌年,鳥栖駅前の朝鮮部落に生まれ,豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いのなかで育った。日本人が高度経済成長に向かって駆けあがっていったとき,在日の孫は日本の敗戦直後以下の極貧生活から出発した。

 その絶対に埋められないタイムラグこそ,おそらく私たち日本人に孫をいかがわしい奴,うさん臭い奴と思わせる集合的無意識となっている。高齢化の一途をたどる私たち日本人は,年寄りが未来のある若者をうらやむように,底辺からなんとしてでも這いあがろうとして,実際にそれを実現してきた孫のたくましいエネルギーに,要は嫉妬している(219-220頁)

 ソフトバンクのテレビの宣伝広告は,誰もが観てしっていると思う。これについても佐野は議論する。「ソフトバンクは家族無料の携帯電話のテレビCMで,しきりに家族愛を強調している」。「だが,孫 正義を生んだ家では,それとは正反対の光景が展開されていた」。「孫 正義はいつ殺しあいしても不思議ではない,そんな血気にはやった父親や伯母や従兄弟たちに囲まれて幼少期を過ごした」。

   
  出所)http://blog.goo.ne.jp/aboboa/e/1ef9848a5a9e40f19a80d9c6fb581590 より。

 最近は,宇宙飛行士になって地球上空を飛んでいる白犬が,兄役の黒人モデルと母親役の日本人女優とのあいだで,きついことばのやりとりするCMが流されている。佐野が触れるのは,彼ら家族のあいだでは,娘役の上戸 彩もからんで「陶器の皿を振りあげておたがいの頭をかち割りあうシュールなシーン」である。これは「CMと現実とのあまりの落差に,驚きを通りこしてまさに “息もできない” 」(228-229頁)

 2) 孫 正義の真の姿
 ところが,ソフトバンクの御用ライターが書いた「孫 正義伝」の類には,孫一族の人間くさい,というより人間くさ過ぎる父親や,難破船で命からがら密航してきた彼らの「血と骨」の物語はまったく出てこない。孫 正義の物語はことごとく “青雲の志” に彩られ,一転のかげりも,誰からの援助もない独立自尊のストーリーとなっている。その臆面のない青春譜は,読むほうの顔が明らむほどである。

 しかし,人間はおあつらえむきの物語に生きられるほど都合よくはできていない。孫 正義はいまから約百年まえに,故郷を食いつめて開業を渡ってやってきた朝鮮人の末裔である。祖母は残飯を集め豚を飼って一家を支え,父は密造酒とパチンコとサラ金で稼いだ金をたっぷり息子に注いで立派な教育を付けさせた。孫一家にとって,在日3世の正義はなによりの誇りであった(229頁)

 そのことに触れず,孫をコンピュータ世代が生んだ世界的成功者ともちあげるだけもちあげた物語が,これまえどれほど多く書かれてきたことか。これはいくら切っても血が出ないお子さま相手のサクセストーリーでしかない。それだけではない。そこには,われわれ日本人が孫の世代から一番汲みとらなければならない『在日の苦い物語』がすっぽり抜けおちている。孫の額には子どものころ,石をぶつけられた傷跡がいまも残る。

 在日問題をみてみぬ振りをしたり,元在日の孫に批判にもならない差別的メールを投稿するみっともないマネは,もういいかげんやめにしよう。それは,日本人はやはり尻の穴の小さな島国根性民族だったのか,と世界中からバカにされるだけだからである。孫 正義はやはり,この祖母にしてこの孫(まご)あり,この父にしてこの子ありという3代の在日の物語のなかをたくましく生きぬいてきたのである(230頁)。 

 3) 感 想
  ここまで,佐野眞一『あんぽん-孫正義伝』2012年1月を紹介してきた。本ブログの筆者は実は,最近における日本相撲協会での「日本人力士が大関になった」「喜び騒ぎ」や,女子サッカーチーム「なでしこジャパン」「世界優勝」の活躍に大喜びした日本社会の狂騒ぶりを,いたって第三者的に観察しているつもりである。
 出所)写真は久しぶりに2012年初場所から日本人として大関に昇進した稀勢の里
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120114-00000046-spnannex-spo.view-000 より。

 以前,フランスサッカーの世界代表チームのメンバーが芝の上を走りまわっている光景を観たとき,そのほとんどがアフリカ系〔各地出身〕の黒人であったことに,いささかならず驚いた。白人系のフランス人選手がほとんどいなかった。地球の上にあるあちこちの国々では,早くからそんな時代にもなっていた。

 日本の古代史にまでいきなり遡って,この国の歴史も考えてみたい。本ブログは以前,「2009.11.10」「■日本史の百済史が百済史の日本史■」と題する記述を残していた。いきなり話は現代まで飛ぶが,いまの日本と韓国〔朝鮮〕にとどまらず,日本と世界〔地球〕へと注がれる視圏でもって,日本社会全体の出来事を観察する必要があるのではないか。

 孫 正義がこの日本のIT産業界を牽引する有数のリーダーの1人として存在する。若いとき「ありゃ,宇宙人だ」(103頁)といわれた孫 正義が「日本人であってもなくても」,そのどちらでもいいではないか。彼は日本国籍になって,この国を「自分の国」といっているではないか。佐野もつぎのようにいっていた。

 「孫 正義に対しては,いまだにツイッター上で『在日は早く韓国に帰れ」と口さがない投稿が絶えない」。「なにもわかっちゃないな」。「在日がいるから,日本人は辛うじて “生物多様性” を保持でき,どうにか “他人” とのつきあいができるじゃないか」。「こういう情けない」見解も現実にあるとはいえ,「孫 正義が日本の若者のあいだでいかに絶大な支持を集めているか」をしれば,「孫 正義に対するつまらない中傷」など,冬風に漂う秋の落ち葉の残りかすという風情か?


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