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2011冬 北海道(5)北サハリン抑留2011年12月10日
■地位ある人ほど逃亡 食品会社社長の船橋富吉さん(85)=小樽市在住=は、1941年12月8日の対米英開戦のころ、日本領土だった南樺太(現ロシア・サハリン州)の豊原(現ユジノサハリンスク)郊外の青年学校で軍事教練に明け暮れていた。 「父が病気で生活が苦しかったことと、連日の軍事教練で疲れていたためか、高揚した気分にはならなかった」と振り返る。 召集令状が来て入営したのは大戦末期の45年5月。「軍装品に驚いた。軍服はつぎはぎだらけ。鉄砲の弾はほとんどなかった。怒りを覚えた」 8月11日にソ連軍が国境線を越えて、南樺太へ侵攻した。船橋さんは重機関銃部隊に配属されていたが、戦闘のないまま武装解除された。ソ連側の命令で部隊は大泊(現コルサコフ)に移り、住民の引き揚げ船への誘導や警備をした。 「港には住民が殺到していた。みんな少しでも早く日本へ帰りたがったが、先に帰って行ったのは役人と警官と憲兵、そしてその家族。地位や責任ある連中が真っ先に逃げていく。腹が立った」 □ ■ □ 8月末にやっと船に乗った。しかし、到着したのは日本ではなく、北サハリンのオハだった。 5年にわたる抑留生活が続いた。森林伐採が主な仕事だった。配給された食料は、わずかな黒パンと大豆。日本人同士が盗み合った。泥棒を捕まえると、かつて警察署長をしていた男だったこともあった。 伐採事故や病気で仲間を失った。なかにはトイレ休憩で急いで走ったため、逃亡と間違えられて銃殺された人もいた。土の凍っている冬、遺体を埋める深さと大きさの穴を掘るのは、丸1週間がかりの仕事だった。 抑留3年目ぐらいになると、仕事の要領やロシア語も覚え、作業班長になった。大学を卒業したばかりのロシア人の現場監督たちからも頼られた。 「ソ連軍はさておき、個々のロシア人はみんないい人だった。食糧事情はひどかったが、後にウクライナで大飢饉(ききん)があって、ロシア人も食料がなかったのだと知った」 □ ■ □ 50年に京都府の舞鶴港へ引き揚げ、両親の出身地だった北海道へ戻った。小樽市の電話線敷設の受託会社で長年働き、60歳で中国に食品工場を起業、小豆あんを日本に輸出している。 「福島第一原発事故での東京電力幹部や年金記録問題での厚生労働省の官僚たちは、大泊の港から我先に逃げていった将校の家族や役人の姿と重なる。12月8日に思うのは、昔も今も、日本では責任を取るべき地位にある人ほどすぐ逃げる、ということだ」 (三木一哉)
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