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ライフ
【産経抄】1月22日
2012.1.22 03:04
[産経抄]
作家の故立松和平さんが昭和29年に小学校に入学したとき、すでに給食が始まっていた。後にその思い出を産経新聞連載の『戦後史開封』に寄せている。「脱脂粉乳はまずかったです」「サンマの煮付けとコッペパンなど変な取り合わせも多かったかな」といった具合だ。
▼それでも給食は楽しかったという。「みんな一生懸命生きていたから」まずいのも楽しさのうち、という感じだった。変な取り合わせも「あるだけの材料買ってきて作ったから、そうなったんでしょう」と、その「苦労」に感謝をしていた。
▼立松さんの時代、地方によっては、貧乏で弁当を持ってこられない子供もいた。だが給食が始まり、まずくともみんな一緒に食べられる。そのことでお互いの絆や連帯感を感じていた。これこそ給食の教育的意味だったが、一部の大人の受け止め方は違った。
▼脱脂粉乳は米国からの輸入だけに、「余り物の押しつけだ」などの批判が渦巻いた。『戦後史開封』によれば、左翼系雑誌は脱脂粉乳の放射能汚染問題を取り上げた。「脱脂粉乳の輸入は原子力潜水艦の寄港と同じだ」というビラも配られた。
▼むろん風評にすぎず、後の牛乳とともに子供の体格向上に役だったことは間違いない。だがそれから半世紀以上たっても、同じような風評が給食制度を揺るがしている。食材の放射能汚染を心配して給食を拒否する親が増え、自治体の中には弁当を認める所もあるという。
▼そうした不安の声にはきちんと応えるべきだ。しかしそれを一方的に受け入れては、一部の農産地の風評被害を大きくするばかりである。「みんな一生懸命生きてきたから」感じた日本人の絆もズタズタに切れてしまうだろう。
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