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第二部 少女覚醒
第一章 敗北者の群れの中で lmitation 1
 荻浦おぎうら嬢瑠璃じょうるりは、久しぶりに制服のブラウスに袖を通した。ボタンを止めるのに少し難渋した。

 久しぶりだったが、サイズに問題はなかった。それは身体的に成長していないという事実を示すものであり、喜ぶべきことか否かは判らなかった。しかし喜ぶという感情をわざわざ「べきか否か」などと考えること自体馬鹿馬鹿しいことであり、その志向は放擲することにした。冬服のジャケットもまた、過不足なく身体にフィットした。さらにその上からコートを羽織る。

 ほぼ一人暮らし状態となっているマンションの一室を出て、ドアに鍵をかける。

 十二月の朝だった。冬の大気を小さく胸に吸い込む。これから、しばらくぶりの学校だ。緊張するというほどではないが、微小な覚悟を要することではある。

 最寄りの駅までは徒歩。嬢瑠璃の通う中学校まで寮にいた頃はバスで通学していたが、現在の住処からはJRを使用する。ほとんど何も志向することなく歩き、駅に着いたら切符を買い、自動改札を抜けてホームでほんの少しの待ち時間を経過した後、電車に乗り込む。

 混み合った車輌の中で、吊革に掴まる。そのまま、やはり何を考えるまでもなく電車に揺られていると、ふと隣に立つ男の視線が時たまこちらに向けられているのに気づいた。正確には、嬢瑠璃にというより、嬢瑠璃が掴んだ吊革に。 ほんの少しだけ、心の中で溜息をついた。この種の視線には、既に慣れている。多少変わったものが視界に入ると、人はそんな反応を示さざるを得ない。人間にとって自然な反応だ。だから嬢瑠璃は気にしないことにしている。

 やがて電車は麻帆良まほら学園都市東駅に滑り込んだ。そこが学校への最寄り駅だ。ここから学校までは、徒歩で十分ほど。同じ学校以外にも、学園内の他校の制服がちらほらと見える。部活の朝練には遅いし、普通に通うには早い。そんな中途半端な時間帯だ。

 これまで嬢瑠璃は、しばらくの間学校に顔を見せていなかった。病気や怪我をしていた訳ではない。家庭の事情があったのでもない。な《・》で、世間的には「行方不明」の状態に、自発的になっていたのだ。行方不明のままでも良かった嬢瑠璃が再び通うことになったのは、ひとえに「主人」に命じられたかた、ただそれだけだ。主人の言葉は絶対だ。

 久しぶりの学校までの道のりを、一人でゆっくりと進んでいく。以前、実家から通っていた頃は、嬢瑠璃の隣には常に一人の少女がいた。山縣やまがた彩未あやみという名のその少女は、いわゆる幼馴染だ。寮が一緒であるため、一緒に通学していた。その彩未も、今日はいない。その方がいい。とりあえず今日は、一人の方がいい。

 校門が近づくにつれて、心の中のもやもやとした感情が少しずつ湧き上がってきた。憂鬱というほどには強烈ではないが、それでも快いものではないことは確かだった。今まで行方知れず人間が突然姿を表すのだ、周囲は騒ぐに決まっている。それも電車内の男の視線と同様に人間として自然な反応であり、また基本的にくだらない「下界」の心配事であることは充分に承知していたが、それでもそもそも、騒がしいのは好きではない。薬指のことも含めて、事情説明するのも面倒だ。

 私立麻帆良芸大附属中学校。その中高一貫の女子校の中等部が、嬢瑠璃の通う学校だ。門を入ると両側からメタコイアの並木が覆い被さってくる。並木道の右手はグラウンドで、朝練に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくる。それを抜けると、校舎が見えてくる。ここから見えるのが職員室や保健室、特別教室などがある管理棟で、その向こうに中等部教室棟、そして高等部教室棟がある。この学校を俯瞰すると、三棟の校舎から右手として並木道が、左手として体育館とプールが伸びてグラウンドを抱え込んでいるように見える。

 幸いなことに校舎に入るまでに知り合いに出くわすことはなかったが、その幸運も長くは続かなかった。教室へと続く廊下を歩いている途中で擦れ違った一人の少女が、驚いた声を上げて振り返ったのだ。

「うわ、嬢瑠璃しゃない!」

 数歩で距離を詰めたその少女は、嬢瑠璃の顔を色んな角度から眺めながら言った。

「超久しぶり! 今まで何やってたのよっ。葛葉くずのはに訊いても何か今いち要領得ないしさ。何か事情があるらしいみたいなこと言うだけだし。一体どうしてたの?」

 何のこだわりがあるのか知らないがずっとそうしている三つ編みを揺らしながら、少女は言い募る。釘森くぎもり皐月さつき。クラスメイトだ。

 ーーこういうのが面倒だったのよ。

 心の中で軽く嘆息しながら、嬢瑠璃は応えた。

「まあ、色々あったのよ」

「もう、色々って何さ。それじゃ葛葉と一緒じゃない。嬢瑠璃もあれ? 『人間、知らない方がいいことだってあるのだよワトソン君』とか言っちゃう人な訳? あーやだやだ。嬢瑠璃も汚い大人の仲間入りね。尾崎おざきも泣いてるわよ」

「ホームズがそんなこと言ったのかどうかは知らないし、尾崎にも興味はないけど……まあ家庭の事情よ。ちょっとプライベートな感じの」

「そういう風に言われると突っ込んでは訊けないけど……。でも、連絡の一つくらいくれても良さそうなものじゃない。携帯にも出てくれないしさ」

「そういうところが『色々』な所以なのよ」

 嬢瑠璃は適当に言った。皐月は納得した訳ではなさそうだったが、それでもそれ以上突っ込む気もないようだった。

 まだ夏服だった頃に遭遇したそれに続く諸々の事件について、他人に話すつもりはない。家庭の事情というのは嘘だが、嬢瑠璃にとってプライベートな事柄であったのは事実だ。これはあくまで、嬢瑠璃と主人の間の話なのだから。

「それより、わたしがいない間、何か変わったこととかあった?」

 話題を変えることにした。皐月もそれに乗ってくれた。

「変わったことって言ってもねー」

 皐月は首を捻り、記憶を絞り出そうとする。

「えーっと……そうだ、未歩音みふねのお父さんがヨットで太平洋横断したってニュースになってたけど……別にわたしたいには関係ないし……あとは……体育祭とかあったけど、これだって別にどうってことない年中行事だしねえ……」

 その他、皐月はクラスの中の細々とした人間関係の変化について話したが、要約すると「変化なし」と言う他ないようなものだった。そしてそれらの情報は、ほとんど嬢瑠璃が知っていることでもあった。しばらくの間通っていなかったとはいえ、都草とぐさりなこを通じて定期的に情報収集は行っていたからだ。

「って、こんなとこで道草食ってる場合じゃなかった。もう、嬢瑠璃が唐突に現れるのが悪いんだからね。 ーーそれじゃわたし、日直だから」

 そう言って、皐月は慌てて職員室の方に走り出した。途中で擦れ違った教師にたしなめられるとその時だけ歩調をスローダウンさせ、そしてすぐにまた元のスピードで駆けて行った。その様子をぼんやりと見送ってから、嬢瑠璃は再び教室へと歩き始めた。

 その後誰とも出会わずに、教室に入った。生徒はまだまばらで、全体の四分の一程度だった。それでも教室の各処で会話の群れが発生して、それなりに騒々しかった。そのざわめきが急に消えたのは、嬢瑠璃が教室に足を踏み入れて数秒が経過した時だった。

 誰かが嬢瑠璃の出現に気づき、それが一瞬で教室中に伝播したのだった。教室は一瞬にして沈黙に支配された。沈黙の中、控えめな視線が自分に集中しているのを感じた。しかし誰も話しかけてこようとはしない。有難いことであり、妙な牽制が少しばかり鬱陶しくもあった。

 視線を浴びながら、自分の席へと向かった。数箇月の間「留守」にしていても、嬢瑠璃の席は残っていた。担任にはあらかじめ今日登校する旨を連絡していたが、座席はずっと残っていたものだろう。それが、学校的な優しき習慣というものだ。

 席について鞄を机の上に置くと、隣の席でノートに向かっていた少女がふと顔をこちらに向けーー目が合った。

「ーーえ?」

 少女は最初理解不能の表情を作り、やがてゆっくりと目を見開くと、瞳を潤ませながらやや掠れた声を上げた。

「嬢……瑠璃……?」

 その反応に、嬢瑠璃は心の中で苦笑した。

「語尾に疑問符つけなくても、見れば判るでしょ?」

「嬢瑠璃……だよね?」

「当たり前でしょ。何言ってるの」

「でも、だって……今まで全然帰って来なかったし……おばさんとかに電話しても何か事情があるってことしか教えてくれないし……ひょっとしたら嬢瑠璃、ずっといなくなっちゃうのかなって思い始めてたところだから……」

 そして少女は、潤んだ両の瞳から涙を零した。

「もう、泣くことないでしょ」
 ーー感動の再会、か。

 嬢瑠璃は心中で溜息をついた。この少女に関して、こんな展開になるであろうことはあらかじめ予想していたが、再会のシーンは果たして予想をそのままトレースするものだった。

 少女のは山縣彩未、嬢瑠璃の「幼馴染み」だ。嬢瑠璃とて再会を喜ぶ気持ちがない訳ではなかったが、涙を流すほど感動的なものではもない。

 とりあえず涙をどうにかしたくて、ボケットティッシュを彩未に手渡した。

「それより、ほら、宿題か何かしてたんじゃないの? そっちはの方は大丈夫なの?」

「……べ、別に平気だよ。それより、嬢瑠璃……ほんとに……うっ……無事で……う、うえーん」

 ティッシュを渡したのがむしろまずかったのか、彩未はそれまでより盛大に泣き始めた。クラスメイトたちは、こちらの様子をやはり控えめにちらたらと窺っている。

「もう、そんな泣かないで。みんな見てるでしょ。ほら、わたしはここにいるでしょ? だったらそれでいいじゃない。むしろ笑ってよ」

「だって……だって……」

 などと言いながら彩未はしゃくり上げ、鼻水をすする。元々使いかけだったポケットティッシュは、すぐに空になってしまった。仕方なく新品のティッシュを渡した時、彩未の嗚咽がふと止まった。

「嬢瑠璃……それーー」

 彩未の視線は嬢瑠璃の手、その薬指に向かっていた。正確には、薬指のあった場所に。

 嬢瑠璃の薬指は、根元から欠けていた。

「ああ、これね。 ーーちなみにこっちも」

 嬢瑠璃はもう片方の手も広げて彩未に見せる。そちらの薬指もまた、根元から失われていた。

「……ど、どうしたの?」

「まあ、ちょっと怪我してね。生活するのにそんなに不自由はしてないから、あんまり心配しないで」

「そ、そんなこと言われても気になるよ。どうしたらそんなことになるの?」

 面倒だと思っていた嬢瑠璃だが、ふと思いついた。

「……知りたい?」

「う、うん」

 彩未はぐしゃぐしゃになったティッシュを手にしたまま頷く。

「言っておくけど、グロいよ?」

「……グロ?」

「うん、そう。彩未に耐えられるかなー?」

 わざとらしくそんなことを言ってみる。

「うー……」

「彩未、寝られなくなるんしゃないかなー」

「あわ……」

「厭な想像がぐるぐるするんじゃないかなー」

 恐ろしい想像を色々と巡らせたらしい彩未は、考えた末に言った。

「……やっぱいい」

「うん、その方がいい。ーーさ、そんなことより、宿題やってないのがあるんでしょ? ほら、ティッシュすてて来て。見てあげるから」

「う、うん。……でも大丈夫? 嬢瑠璃がいない間に習ったところどよ?」

「何言ってるのよ。わ《・》た《・》し《・》を《・》だ《・》と《・》っ《・》て《・》る《・》の《・》?」

 戯画的に言って彩未に微笑みかける。

「ふふ、そうだね」

 彩未はそこで初めて笑顔を見せた。

「嬢瑠璃、だよね?」

「そそ、その通り」

 それから彩未の宿題を見てやっているうちに教室にクラスメイトたちが次々に入って来た。彼女たちはやはり久しぶりの嬢瑠璃の姿に興味深げな視線を送ってきたが、嬢瑠璃は彩未の宿題に没頭することによってそれらを黙殺した。

 チャイムが鳴り、担任教師が現れた。タイトなスーツに身を包んだ、三十歳前後の女だ。担任教師ーー葛葉刀子とうこは、事務的に朝のホームルームを進行させると、最後に嬢瑠璃について触れた。「家庭の事情」によってしばらく学校を休んでいたが、今日から再び通常通りに通学する、と。

 葛葉には、今日から登校することをあらかじめ告げてある。そして今、嬢瑠璃の意向に添った説明を行った。この担任教師の精神は、嬢瑠璃の意に添うよう「メタテキスト」が改変されている。数箇月の間学校を休んで大した問題になっていないのも、その「改変」のためだ。もっとも、この麻帆良学園においてはそれほど騒がれる事態に陥ることはないが。

 葛葉の説明が終わると、嬢瑠璃は挙手して立ち上がった。広げた両手を胸の位置に上げ、クラス中に見えるように一周させると、葛葉の説明を補足した。

「見ての通り、怪我して薬指がないけど、気にしないで。配慮される方が傷つくから、当たり前のこととして受け入れたら嬉しいです」
 葛葉刀子先生は、麻帆良芸大付属中学校の教員という設定。


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