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第二部 少女覚醒
3
 滞りなく六限の授業が終了し、嬢瑠璃じょうるり彩未あやみとともに帰宅の途につくことにした。

 学校前のバス停まで歩いて、そこからバスに揺られること約一五分、バスを降りて徒歩三分。それが、嬢瑠璃と彩未の二人の住む寮への帰路だ。今朝は主人が用意した部屋から通ったためJRを使ったが、本来はバス通学だ。

 しかし嬢瑠璃は、JRで原宿まで出ようと彩未に提案した。しばらくぶりに「下界」の気散じをしてみようと思ったのだ。ここ数箇月、まともな人間付き合いをしていない。絶対無謬者たる「主人」や不可触アンタッチャブル辺境人マージナルやら同い年の荒事師やら科学に魂を売り渡した凶科学者マッドサイエンティストやら……。それらの人々を特別嫌悪している訳ではないが(特に主人に対しては絶対の忠誠を誓っている)、圧倒的に「普通」というものにかけていた(凶科学者マッドッサイエンティストについては、未来人を名乗っていた意外はそれなりに「普通」であったが)。普通やら日常やらといったものが本当に貴重なのかは判らないが、に《・》に《・》を《・》え《・》る《・》な《・》ろ《・》ば《・》、ある程度は体感しておく必要があるはずだった。

 JRで原宿へ。そしてセンター街や地下街をうろつく。特に目的はなかったし、ほとんど金を使うこともなかったが、それなりに「下界」の(麻帆良の外という点で)空気を感じ取ることはできた。

 冬至も近い十二月だから、日没も早い。すぐに空は夜へと変じた。

「そういえば、時間大丈夫なの?」

 クリスマスソングが流れ雑多な人々が行き交うアーケードを歩きながら、彩未が訊いてきた。

「時間?」

 携帯電話で時刻を確認する。

「まだ五時過ぎじゃない」

「でも、おばさんとか心配するでしょ?」

 そういうことか、と嬢瑠璃は得心した。今まで事情があって学園から実家に戻り、出ていなかった娘が遅くまで出歩くのを親は心配するだろう、と言っているのだ。

 しかし彩未の心配は杞憂だ。それは、嬢瑠璃の両親が冷徹な人間だということではない。そうではなく、両親はそもそも、嬢瑠璃が「帰って来ている」ことを知らない。今日は主人の用意した部屋から直接学校に行ったし、両親に消息を全く伝えていない。今日は久しぶりに自宅に戻る予定だが(そもそも寮生活なので、「行方不明」にならずとも夏休み以降帰る予定はなかったが)、両親にとっては不意打ちになるはずだ。

 だから嬢瑠璃は、彩未との時間を楽しんだ。

 そう、楽しんだ。

 嬢瑠璃にとって、こんな時間を「楽しむ」というのは稀有なことだ。

 以前から彩未とは、こうやってよく遊んでいた。彩未は嬢瑠璃にとって一番と言っていい友人だった。唯一心を許せる相手と言って良かったかも知れない。自分の心性が同年代の少女と較べて極端に殺伐としていることは嬢瑠璃も自覚している。嬢瑠璃にとって同級生は蘇鉄の木やモアイ像と変わらない存在だ。しかし彩未だけは違う。小学生からの幼馴染みで(学園内にいれば同じ境遇の者は多いだろうが、意識しているのは彼女だけだ)「物心」がついてからのほとんどの時間を共有してきた。中学生になってからはともに過ごす時間は多少減りはしたが、一緒にいることの心安さは変わらなかった。

 彩未は弱気で人が良く、暢気で心配性で、他人にものを任されやすい。ついでにうっかりしている。損な性格だ。だから今も委員長などをさせられている。

 二人の関係は、今となってはさほどでもないが、常に嬢瑠璃がリードし、彩未がついてくるというものだった。嬢瑠璃がリーダーシップを発揮していたというより、彩未の方がのんびりした性格のため必然的にそうなったのだった。

 結局、午後七時過ぎまで原宿をぶらついた。そこから寮に帰る彩未と別れ、嬢瑠璃は四箇月ぶりの自宅へと向かった。

 嬢瑠璃の家は敷地三十坪ほどの一戸建て。隣に建つ彩未の家も、ほぼ同じサイズ。

 自宅の玄関のドアを、開いた。

 鍵はかかっていなかった。久しぶりの自宅だった。数年ぶりのような気がする。もうずっと、主人の部屋の一つで暮らしていた。ここに戻って来る日が訪れるとは、正直考えていなかった。

 居間から、四〇前の女が顔を覗かせた。最初その顔が示す表情は、怪訝だった。呼び鈴も鳴らさずにドアを開けた来客に対するものだ。それは嬢瑠璃の姿を確認した途端に弛緩した笑顔に変わり、やがて泣き顔と笑顔の混交したぐしゃぐしゃな表情になった。

 女はーー嬢瑠璃の母、規律絵きりえは、娘の名を呼んで駆け寄り、玄関マットに膝をついて嬢瑠璃に抱きついた。

「嬢瑠璃……嬢瑠璃……」

 嬢瑠璃の耳元で何度も娘の名前を呼びながら、しゃくり上げる。今朝彩未と対面した際のシーンの、オーバーな再現だった。母親に抱きつかれながら、嬢瑠璃は立ち尽くしていた。声をかけることもなく、ただ直立していた。

 玄関で繰り広げられている再会劇に気づいたのか、居間から続いて父親ーー逃数にげかずが姿を現した。ち父親は呆然とした表情でやはり娘の名前を呟くと、ゆっくりとこちらに近づいいて来た。

「嬢瑠璃……今までどこに……」

 そして父親もまた目の端から涙を流した。母親のように声に出して泣きはしないものの、表情が少しずつ歪んでいく。

「ちょっと……ね」

 白けた気分で、情報の全く不足している言葉で返答した。

 嬢瑠璃の気分は白けきていた。泣かれれば泣かれほど、元々ほとんど持ち合わせていない興が醒めてゆく。

 しばらく母親のしゃくり上げる声だけが支配する時間が流れていたが、やがて落ち着いてきたらしく、涙を拭うと立ち上がり、目を充血させて言った。

「ーーお帰り」

 そこで初めて、そういえば儀礼的に言っておくべき言葉があることに気づいた。嬢瑠璃は小さく深呼吸し、やはり小さい声で言った。

「ーーただいま」

 その言葉の効果は大きかった。母親は再び泣き始め、父親も俯いて床に涙を落とした。そしてその効果は、嬢瑠璃にも及んだ。
 ただし、嬢瑠璃にもたらされたのは感傷ではなかった。それは、喩えようのない違和感だった。「ただいま」。すなわち「ただいま『帰りました』」の略。そこに、ひどい違和感があった。改めて気づかされたのだ。ここが自分の帰るべき場所ではないことに。

 最初から判っていたことではあるが、やはりそれを事実として確信することは大きかった。その確信は、悲しみをもたらすものではなかった。むしろ嬢瑠璃は、晴れ晴れとした気分だった。自分はやはり主人のものなのだ、と再認識した。それは大いなる喜びだった。

「ーーただいま」

 嬢瑠璃は偽りの言葉をもう一度口にし、靴を脱いで玄関に上がった。仮の住まいへと。

 母親はこれまでのことには何も触れることなく、「ご飯は?」とだけ訊いた。

「まだ」

「用意するから、着替えてらっしゃい」

「うん」

 嬢瑠璃は小さく頷くと、二階に上がった。そして手早く部屋着に着替え、階下に下りた。キッチンでは、夕食の用意がなされていた。嬢瑠璃は席に着き、両親とぽつぽつと会話を交わしながら夕食を摂り始めた。

 共働きである嬢瑠璃の両親は同い年で、共に三八歳。大学時代、同じ研究室におり、卒業して一年ほどで結婚した。両親は恐らく、恵まれていると言っていい境遇に育った。終身雇用時代の親を持ち、狂乱的な好況時にさほど苦労もせずに就職し、現在は管理職となって順調な暮らしを営んでいる。よって嬢瑠璃もまた恵まれていると言えるだろ。そのことに関しては、何の感想もない。

 夕食終え、自室で三〇分ほど文庫本に目を通してから風呂に入った。シャワーで軽く汗、流してから浴槽に浸かり、考える。両親のことだ。主人によるて、以前の「事件」の際に、葛葉くずのは刀子とうこに対して施したのと同様に、両親にもある程度のメタテキスト改変を行ったという。だからこそ嬢瑠璃の行方不明の件が大騒動にーー例えば警察沙汰になっていない。今日帰宅してさほど問い詰められることがなかったのも、薬指の件を追及されなかったのもそのためだ。

 実は帰宅するまで、少々心配していた。いきなり姿を現して、大騒ぎされるのではないかと考えたのだ。自身の矜持としては否定したいが、彩未と原宿まで出かけた理由の一つにそのことがあるのかも知れない。

 主人によるメタテキスト改変がどのようなものなのか、嬢瑠璃には判らない。教科書的な理解は持っているが、実感することはできない。嬢瑠璃自身の能力ーー「敗北鑑定」を強化したものだろうか、と想像してみたりもするが、実感を得られはしない。

 ただ主人は、メタテキストの改変量はさして大きくない、と言った。それでもこれまで大した騒ぎにならなかったのは、結局は主人が露悪的な笑みとともに言った言葉が正しかったということだ。

 ーー要するに、こういうことさ。ママもパパも、嬢瑠璃ちゃんのことをずっと「愛している」ってことさ。その素地が全ての前提にあるのさ。全くもう、えよ《ヤ》! だね。

 ふう、と息をつく。浴槽に張られた湯に小さな波が立つ。

 その許容こそが気持ち悪い。主を誉め讃える気になどとてもならない。しかし自分は、この気持ち悪さを乗り越えていかなければならない。全てを超克していかなければならない。なずならば、自分はーー荻浦嬢瑠璃は、主人のために革命者となり、勝利者の王国の建国者とならねばならないのだから。
 すでに火星人な未来人とフラグを建てているという罠。
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