2012.01.09 Monday 13:40

頑張ることの限界

 

 正月休みは家でのんびりと過ごし、久しぶりに長時間テレビを見た。昨年は大震災があったため、年末年始の番組の中でも被災者との連帯や絆を強調する話が目立った。それ自体は大いに結構だと思う。逆境に挫けず、新しい生活や仕事に取り組んだり、元の場所での生活再建に取り組んだりしている人の姿を見ると、頭が下がる。時間が経っても、連帯の努力を続けなければならない。

 それにしても、復興を祈る新年のイベントを次々に見せられると、何か違うのではないかという疑いも抱いてしまう。少なくとも原発事故と放射能汚染は人災であり、被災者が頑張っていますという話では解決できないことが、山ほどある。

 メディアが情報を伝達できる時間、空間は極めて限定されている。その中に何を盛り込むかに、各メディアの見識が現れる。逆境にめげない人々の善意でメディアが埋め尽くされると、それだけ問題を追及するスペースは小さくなる。問題が余りにも巨大なので解決不能であり、ここは善意と精神論で表面を覆うということなのだろうか。

 個人の頑張りでは、被災地域の復興はできないし、被災生活も続かない。大震災から1年が近づく中で、問題の真相解明と、真に現実的な地域再建策について、希望的観測を排した議論を始めるべき時だと思う。


2012.01.09 Monday 13:38

決意の行方

 

 新しい年が始まり、今年こそは平和な年にしたいと誰もが願っている。しかし、今年の政治はかつてない混迷の中を漂い続けるように思える。3年前の政権交代が政治変革の第一歩なのか、政治の液状化をもたらすきっかけに過ぎなかったのかが問われる一年となる。

 政府・民主党は、昨年末に消費税率の引き上げの法案を通常国会に提出することを決定し、野田佳彦首相も年頭記者会見で不退転の決意を強調した。確かに、税制調査会の会議に首相自ら長時間参加し、政治家たちを説得したことは異例であり、野田氏の信念が固いことは疑わない。その決意に水をかけるつもりはないが、信念を貫く一生懸命さだけで政治家を評価するのは誤りだと言いたい。

 この点は政治家のリーダーシップというものをどう意味づけるかと関係する。これは私の先入観かも知れないが、野田氏を含む松下政経塾出身の政治家は、司馬遼太郎が描く明治維新のリーダーを生き方の手本としている印象がある。私心を捨てて国のために身をなげうちたいという気持ちは分かる。しかし、今の野田首相を見ていると、同じ司馬作品中の登場人物でも、日露戦争の旅順攻撃で二〇三高地の正面攻撃を繰り返し、いたずらに犠牲者を生んだ乃木希典に重なるように思える。一途な信念は、自己満足的な精神主義に陥る危険をはらんでいるのである。

 私自身はヨーロッパ型の福祉国家を理想としているので、負担増には賛成である。自国の税金を安いと思う国民は世界中どこにもいないが、それにしても日本の場合、アメリカ並みの負担率でアメリカよりはるかに立派な社会サービスを提供している。医師や学校の教師など現場の人々の頑張りでサービス水準を何とか持たせてきたが、もはや限界である。政府の責任として医療・介護や教育の分野でどの程度のサービスを確保し、そのために国民はどれだけの負担をすべきかを具体的に議論する最後のチャンスである。さらに、バブル崩壊以後、租税収入は減少傾向にある一方、社会保険料は上昇の一途をたどっており、逆進性が強まっている。つまり、財政と社会保障が、弱い者から多めに取り、相対的に余裕のあるものに再分配するという、格差拡大の機能を持っているのである。

 野田首相の後世にツケを回さないという決意は立派なものであるが、それは政治家の胸の内にしまっておく話で、国民にそうした美徳を訴えるのは賢明な策ではない。税・社会保障改革の本題は、政府がどの程度のサービスを供給し、その対価として国民がどれだけの税金を払うかという損得勘定の問題である。日本人が普段空気のように当然だと思っている国民皆保険や皆年金の制度が手を拱いているともうすぐ崩壊し、国民自身が塗炭の苦しみを味わうことになるという現実的な政策論議が必要である。

 今、政治の最高指導者が訴えるべきことは、震災を契機に高まった社会連帯の気運を政策として具体化することである。税・社会保障の一体改革と言うなら、国民の相互扶助により不幸な人をなくすという基本理念を明らかにした上で、財政の再分配機能をいかにして回復し、困難に見舞われた人をどのように支えていくか、基本的な枠組みを明らかにしなければならない。医療や子育て支援の拡充策を示す一方、所得税の累進制と資産課税の強化、非正規労働者に対する均等待遇などを組み合わせてこそ、国民は負担と受益のバランスを感じることができる。一体改革と言いながら、消費税率の引き上げばかりに焦点が当たっているところに、野田政権の誤りがある。

 通常国会は混乱が必至である。政治家は近づく選挙に向けて危機感を持っているのだろう。しかし、本当の危機は国民が政党政治に丸ごと絶望していることである。次にどの党が政権を取るかなど、もはや二の次の問題である。日本社会で崩れていく雇用、社会保障をどう再建するか、政党、政治家が具体的な構想を描くことなしには、何度選挙をしても政治の混乱は深まるばかりである。

熊本日日新聞1月8日


2012.01.02 Monday 13:26

民主主義による新生

 

 読者の皆さん、あけましておめでとうございます。このコラムを書き始めて今年で5年になる。この間支えてくださった方々に心からお礼申し上げたい。このコラムを書き始めた頃は、もっぱら自民党政権の悪政を批判し、政治の転換を訴えていた。その後政権交代は成就したが、今度は民主党政権の腑甲斐なさを嘆く場となってしまった。

 昨年から日本を取り巻く状況は一層厳しくなった。大状況としては、大震災と原発事故、世界金融危機の深刻化があり、国内政治では民主党の掲げたマニフェストが有名無実となって政治不信が一層強まっている。私が生きてきた50年あまりの中でも最も厳しい危機だと思う。こんな時に希望を語ることができるのだろうか。

 昨年の大震災を契機に、戦後が終わって「災後」が始まるという人もいる。確かに大災害は日本に大きな衝撃を与えたが、それで世の中が変わったとはとても思えない。この特報面は今時の新聞には珍しく、原発事故や放射能対策の真相に迫る特集記事を連発して、私のように政策決定過程を研究している者にとっても教えられることが多い。

そこから浮かび上がってくるのは、戦前−戦中−戦後を貫通する「無責任の体系」である。この言葉は、政治学者、丸山真男が満州事変以後の日本の指導者による戦争政策の決定・遂行過程を分析する中で考え出したものである。事実を国民に知らせず、希望的観測に基づいて自己満足的行動を取り、政策が破綻しても誰も責任を取らない。丸山が描いた「大本営体質」は戦後日本にも引き継がれ、原子力政策の基調を規定している。福島第一原発の爆発と、それに続く政府の不手際は、現代日本国家の大本営体質を嫌と言うほど見せつけた。

今年を再スタートの始まりとするためには、私たちは、経済、エネルギー、地域開発など戦後進めてきた様々な政策に関して、はっきりと「負け」を認めなければならない。そして、敗因を徹底的に糾明しなければならない。そのための道具が民主主義である。

昨年末、北朝鮮で金正日総書記が亡くなった。それを悼む人々の様子を見ると、何か無理をしているように思える。しかし、隣の独裁国を見下すことで、私たちの国の政治が立派になるわけではない。民主主義と独裁の最大の違いは、多様と一様である。一様な国では、支配者が倒れた途端に方向喪失に陥り、国は危機と混乱に直面する。これに対して、日頃から多様な議論が行われ、ある政策が間違ったら、速やかに他の見解に基づく政策転換が行われるというのが、民主主義の強みである。多様性があるからこそ、民主主義は危機を乗り越えられるのである。

では、私たちは本当に多様な社会の中で、多様な意見をぶつけ合っているのだろうか。原子力ムラの実態は、日本でも重要政策が一様な集団によって壟断されていたことを教えた。多様な民主政治は、私たちの意志でこれから作り出すものである。

「災後」を「最後」にしてはならない。そのためには、モア・デモクラシーの理念の下、再出発を期するしかない。

東京新聞2012年1月1日


2011.12.26 Monday 13:31

政治家の一念

 

 予算編成の季節である。消費税率の引き上げが最大の争点となっている。私はこの問題については、多少政府に同情的である。財源に関する見通しが甘かったのは責められるべきだが、世界の財政・金融危機の中で日本も財政健全化に向けた動きを始めなければならない。また、震災、原発事故対策など、世の中の不幸を減らすためには、財源はいくらあっても足りない。議論の仕方には疑問があるが、負担増について正直に議論することは必要である。

 しかし、どうしても許せない変節もある。八ツ場ダムの建設再開がその筆頭である。政府や来年度予算に事業費をつけると言いだした。今でこそ、政官業の癒着といえば原子力ムラがその代表とされるが、古くから公共事業の世界でもムラが政策を壟断してきた。民主党はそのような構造に切り込むために政権交代を起こしたはずである。

 マニフェストを百パーセント実行するなど、所詮不可能である。しかし、これだけは絶対に譲れないという確信まで失ったら、そんな政治家や政党は不必要であり、有害である。

 前原政調会長は国交相時代に、ダムの中止を宣言した。あの言葉を今どう考えているのだろうか。前原に限らず、民主党の議員がこれからも政治家を続けたいのなら、政府と論争する最後のチャンスである。

東京新聞12月25日


2011.12.26 Monday 13:24

我々はどの程度の民主政治を持っているのか

 

 多難な一年だったと振り返っているところに、北朝鮮から金正日総書記の急死というニュースが飛び込んできた。この機会に金正恩氏の新体制が経済的困窮を脱するために、国際社会との協調の路線を取ることを願うばかりである。

 テレビで北朝鮮の人々が指導者の死を嘆き悲しむ様子を見ると、暴君の死をなぜかくも大げさに悲しむのかといぶかしく思う。あの人々はマインドコントロールされているのかと気の毒に思う人もいるだろう。しかし、隣の独裁国家を見下しても、それで日本がよい国になるわけではない。むしろ、今年起こった様々な出来事に照らして、一見自由な日本の社会で、私たちがどの程度の民主政治を持っているか、考え直す必要がある。

 今年最大の事件は、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故である。地震と津波は自然現象であるが、災害に対する救援策を考え、実行すること、原発事故の原因を究明し、安全対策を取ることは、人間の仕事である。一連の対応の過程に、日本の政治や行政の能力が現れた。

 ここで露呈した最大の問題は、原子力政策を決定、実行する過程に民主主義が欠如していたということである。原発事故に関しては、事実を国民に知らせない、希望的観測を振りまいて国民を欺くなどの点で、日本の政府に大本営体質が残っていた。それが証拠に、原子炉のメルトダウンに関する公式発表が事故後2か月経った時だった。原子炉が地震によって損壊したのか、津波によって破壊されたのかという基本的な事実さえ、究明されていない。仮に地震によって破壊されたのであれば、他の原発も浜岡原発同様危険とみなされ、停止を余儀なくされることになる。他の原発を温存したいから、津波によって壊れたことにしているのではないかという疑念を払拭できない。要するに、経産省の官僚は、国民の生命、健康という価値よりも、特定業界の利益を確保することを政策目標に据えているとしか言いようがない。

 地震、津波の被害に対する復興策も遅れている印象がある。閣内で政策決定に参加した片山善博前総務相はその理由について、財務省が財源の目処が立たなければ補正予算を組めないと突っ張ったからだと説明している。片山氏自身は、救急車で病人が運び込まれた時に、治療費の目処が立たなければ治療しないなどということはあり得ないと言って、財務省と対立したが、他の閣僚には片山氏に同調する声がほとんどなかったそうである。

 官僚組織というものは、目先の目的だけを追求するという性を持っている。経産省が電力業界を保護し、財務省が形式的な健全財政にこだわることは、官僚らしい行動である。問題は政治の指導力である。大局的な判断に基づき、官僚組織に目標を設定することは、政治の役割である。民主党は、政治主導を叫んで政権交代を起こしたはずである。しかし、こうした国難に当たって政治家は官僚の視野狭窄を是正できず、官僚の省益追求を放置している。

 北朝鮮の様子を見て分かるように、民主主義と独裁の最大の違いは、多様と一様である。一様な国では、支配者が倒れた途端に方向喪失に陥り、国は危機と混乱に直面する。これに対して、日頃から多様な議論が行われ、ある政策が間違ったら、速やかに他の見解に基づく政策転換が行われるというのが、民主主義の強みである。多様性があるからこそ、民主主義は危機を乗り越えられるのである。あれだけの大事故を起こしながら政策転換が進まないというのは、日本の民主主義に欠陥が存在することを物語る。私たちには表現の自由や集会結社の自由が保障されている。それを十分生かして、多様な議論を積み重ねる中から、国の針路、政策の方向を決めることに、改めて取り組まなければならない。

 来年は消費税率の引き上げ、TPPなど、まさに私たちの生活や社会のあり方に大きな影響を与える政策決定を迫られる。国民にも、言論機関にも、考えて議論する決意が必要である。

山陽新聞12月25日


2011.12.19 Monday 13:22

イラクと福島

 

 オバマ大統領がイラク戦争の終了を宣言し、米軍が撤退した。今さら何?というのが率直な感想である。終わったというのは、アメリカがこれ以上厄介に巻き込まれたくないというだけの話である。ブッシュ前大統領はイラクに自由と民主主義を広めると公言して戦争を始めた。しかし、後に残ったのは、罪のない人々のおびただしい犠牲と、中東地域の不安定化である。

 日本では、福島第一原発の冷温停止が宣言された。これも、政治家が状況の呼称を変えただけという印象である。工程表に合わせて冷温停止を宣言することは、これからの事故対策にどのような意味を持つのだろうか。首相にはその点こそを明らかにして欲しい。

 呼び方を変えても実態は変わらない。むしろ、呼び方を変えることで現実が好転したかのような錯覚を与える点で、言葉を入れ替えることは有害かも知れない。米軍が撤退してもイラクの混乱は続くし、冷温停止宣言が行われても放射能汚染は続く。

 今政治家に求められるのは、現実を直視し、常に国民に真相を伝えることである。希望的観測を一切排する知性こそ、政治家の持つべきリアリズムである。そして、リアリズムの上に、問題解決のための実質的な対策を地道に積み上げることこそ、政治の課題である。

東京新聞12月18日


2011.12.12 Monday 13:20

政治家の言葉

 

 補正予算を通した以外、何のために開いたのか分からない臨時国会も終わり、政治の焦点は来年度予算の編成と消費税率引き上げに移った。私も一般論としては、増税はやむを得ないと考えている。私たちが日頃水や空気と同じように享受している教育や医療などの公共サービスも、私たちが税金によって支えるしかない。

 しかし、今の政治家の言葉の軽さを思うと、国民を説得するのは無理だろうとも思う。言葉の重みについて、思想家の内田樹氏は近著で次のように述べている。マルクス主義者はマルクス主義の名の下に行われたすべての愚行に対し、自分にも責任があると言わねばならなかった。そのように、自らの主義主張に責任を取る人がいてこそ、言葉は重みを持つ。

 原発事故にせよ、財政赤字にせよ、人間の作為あるいは不作為の所産である。そのような作為を決断した政党や官僚組織に属する人々は、過去に決められたことに対して今でも責任を逃れることはできないはずである。

 太平洋戦争開始から70周年の今は、政策決定に対する責任を論じる好機である。大本営が象徴する無責任の体系が今も続くならば、国民も国に対する忠誠心を失い、まさに亡国の危機に突き進むしかない。官僚も政治家も、それぞれの立場で何を失敗したか、自分の言葉で語ることから政策論議は始まる。

東京新聞12月11日


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