何か、最近では多少おとなしくなったとも聞くけど、一時期の日蓮宗系教団の「折伏」っていえば、それはそれは酷い話であった。要するに、彼らなりの理論を立てて「法戦」を挑み、相手を屈服させて、それまでに所属していた宗教教団から離脱させるという話である。相手を屈服させる様子が、「折伏」という語として考えられたわけだ。
昨年のことだが、山梨県内の御寺院様にて、ミャンマーから来た上座部仏教の三蔵にお会いした。とても温和であり、理知的であり、まさに学僧そのものである。三蔵とお話しさせていただくとき、たまたまその部屋には、禅宗で用いる「掛け軸」が掛かっていて、そこには「竺土大仙心」と大書してあった。これはもちろん、中国禅宗の石頭希遷禅師が詠まれた『参同契』の冒頭句である。
そして、拙僧の方から、簡単に字句の説明を申し上げたのだが、その時の三蔵は、「「心」が仏教ではとても大切なことです」と感想をいわれた。確かに、「竺土大仙心」は、禅宗にあっても、仏陀の御心に触れるのが大切だということを意味している(無論、仏心が本具することも意味するが)。心の統御は、仏教では極めて大切なことだ。禅宗でもそれを忘れたことはない。禅問答という言葉遊びに興じているばかりではないのである。
そんなことを思っていたとき、我々大乗仏教にとって、大切な経典の一である『仏遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経)』に以下のような文脈が見えた。
心の畏るべきこと毒蛇・悪獣・怨族よりも甚だし。大火の越逸なるも、未だ喩えとするに足らず。譬えば、人有り、手に蜜器を執って、動転軽躁し、ただ蜜のみを見て、深坑を見ざるがごとし。また、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して禁制すべきこと難きが如し。まさに急やかにこれを挫いて放逸ならしむること毋るべし。
この心を縦にすれば、人の善事を喪う。これを一処に制すれば、事として弁ぜずということなし。
この故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏すべし。
『遺教経』で折伏すべきだといわれているのは、「比丘の心」である。修行者の心である。つまり、恣に活動しがちな心を、良く統御するように説いているといえる。そして、そこに「折伏」という訳語を用いているのである。折伏とは、いたずらに相手にのみ向かうことではない。ただ、統御するということである。
さて、そのようにいうと、一部の日蓮宗系の方々は、「我々の信念に基づく統御をしてやっているんだ」とか、「折伏による広宣流布こそが、もっとも良いことなのだ」とかいうのかもしれない。だが、それは大きなお世話である。一部の、他力門の方々には申し訳ないが、仏教の基本は、自力門である。歴史的には、それが末法思想などによって信用されなくなって、阿弥陀仏の本願を期待する信仰が出て来たわけだろうし、或いは日蓮聖人は、『法華経』そのものを信仰の対象にし、それから直接救済されようとしたのだろうが、これらは、「心」を統御できなくなってしまった時代に生み出された、或る意味方便である。無論、専修念仏も、日蓮教学も、それが方便ではないように、様々な「教義体系」を生み出してはいるが、結局は時宜相応説に過ぎない。
拙僧はいたずらに、禅こそが本来の仏教だ、等というつもりはない。無論、拙僧に於いては、両祖の教えこそが普遍的道理であって、余事は所詮余事に過ぎない。なお、念仏であろうと、唱題であろうと、それを「行」として考えれば、心の統御に繋がると思う。無論、その程度に収めないような教学こそが、彼らの生命線であるのだろうが。
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昨年のことだが、山梨県内の御寺院様にて、ミャンマーから来た上座部仏教の三蔵にお会いした。とても温和であり、理知的であり、まさに学僧そのものである。三蔵とお話しさせていただくとき、たまたまその部屋には、禅宗で用いる「掛け軸」が掛かっていて、そこには「竺土大仙心」と大書してあった。これはもちろん、中国禅宗の石頭希遷禅師が詠まれた『参同契』の冒頭句である。
そして、拙僧の方から、簡単に字句の説明を申し上げたのだが、その時の三蔵は、「「心」が仏教ではとても大切なことです」と感想をいわれた。確かに、「竺土大仙心」は、禅宗にあっても、仏陀の御心に触れるのが大切だということを意味している(無論、仏心が本具することも意味するが)。心の統御は、仏教では極めて大切なことだ。禅宗でもそれを忘れたことはない。禅問答という言葉遊びに興じているばかりではないのである。
そんなことを思っていたとき、我々大乗仏教にとって、大切な経典の一である『仏遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経)』に以下のような文脈が見えた。
心の畏るべきこと毒蛇・悪獣・怨族よりも甚だし。大火の越逸なるも、未だ喩えとするに足らず。譬えば、人有り、手に蜜器を執って、動転軽躁し、ただ蜜のみを見て、深坑を見ざるがごとし。また、狂象の鉤無く、猿猴の樹を得て、騰躍跳躑して禁制すべきこと難きが如し。まさに急やかにこれを挫いて放逸ならしむること毋るべし。
この心を縦にすれば、人の善事を喪う。これを一処に制すれば、事として弁ぜずということなし。
この故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏すべし。
『遺教経』で折伏すべきだといわれているのは、「比丘の心」である。修行者の心である。つまり、恣に活動しがちな心を、良く統御するように説いているといえる。そして、そこに「折伏」という訳語を用いているのである。折伏とは、いたずらに相手にのみ向かうことではない。ただ、統御するということである。
さて、そのようにいうと、一部の日蓮宗系の方々は、「我々の信念に基づく統御をしてやっているんだ」とか、「折伏による広宣流布こそが、もっとも良いことなのだ」とかいうのかもしれない。だが、それは大きなお世話である。一部の、他力門の方々には申し訳ないが、仏教の基本は、自力門である。歴史的には、それが末法思想などによって信用されなくなって、阿弥陀仏の本願を期待する信仰が出て来たわけだろうし、或いは日蓮聖人は、『法華経』そのものを信仰の対象にし、それから直接救済されようとしたのだろうが、これらは、「心」を統御できなくなってしまった時代に生み出された、或る意味方便である。無論、専修念仏も、日蓮教学も、それが方便ではないように、様々な「教義体系」を生み出してはいるが、結局は時宜相応説に過ぎない。
拙僧はいたずらに、禅こそが本来の仏教だ、等というつもりはない。無論、拙僧に於いては、両祖の教えこそが普遍的道理であって、余事は所詮余事に過ぎない。なお、念仏であろうと、唱題であろうと、それを「行」として考えれば、心の統御に繋がると思う。無論、その程度に収めないような教学こそが、彼らの生命線であるのだろうが。
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> かなりご自身の己義が入っているように感じられます。
まぁ、そもそも、個人のブログなので、御指摘のようなことは、あって当たり前。なお、それであっても、「拙僧はいたずらに、禅こそが本来の仏教だ、等というつもりはない。無論、拙僧に於いては、両祖の教えこそが普遍的道理であって、余事は所詮余事に過ぎない」と論じている、或る種の自己への「制限」については、よくよく読み解いていただきたいと思います。
> 記事を引用させていただき反論をブログに掲載しました。
アハハ(笑)
過剰反応も良いところですな。笑えます。
反論っていったって、その権利すら無いでしょ?
こっちの都合も聞かず、勝手にこのブログの文章を引用する権利があると思っているんでしょうかね?その「規定」を良く良くご覧なさい。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/578b9d5a0f582b8d06701a4ec037cad3
なお、貴方のような人には、引用を許可しませんので、もし、そんなたわけた反論記事があるのなら、直ちに削除するように要求いたします。
いえいえこちらのブログで論評されることは憲法に保障された権利ですよ。
反論されたから権利侵害だというのは少々大げさな発想です。
※勝手にこのブログの文章を引用する権利があると思っているんでしょうかね
引用の権利は法律にて保障されております。
和尚のように、無断引用禁止などというのは著作権上なんら法的な拘束力はないのです。
※直ちに削除するように要求いたします
従って上記の要求は承伏いたしかねます。
それよりも、『仏遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経)』における和尚の解釈と
反論は不可だという仏典的な根拠おさがしねがいたいものです。
和尚はけっこうネットを使って広報活動をなさっていますね。
貴殿が思った事をテキストなどで表現されるという事はその記事に対して論評の対象にもなりえます。
表現の自由は批判できる権利も含まれていますし、和尚の今回の記事も全く問題在りません。
お互いがお互いの権利を尊重したうえでやりとりをするのは仏法的にありえないことでしょうか?
出家もしていないドシロウトに指摘される事が不快だとおっしゃるのなら心の統御という概念自体が空虚だなと私は感じました。
少々残念です。