野々村禎彦氏寄稿「シュトックハウゼン素描」
シュトックハウゼン素描―――野々村 禎彦
少年時代から修業時代まで
シュトックハウゼンは両親とも代々農民で、父が小学校の臨時教員として辛うじて家計を支えており、文学や美術の教養に回す余裕はなかった。やがて母は精神を患ってナチスに処分され、左翼シンパとして秘密警察に監視されていた父も前線に志願して戦死し、孤独な青年時代を送った。音楽大学に進んだのは、家庭内合奏を通じて手品の伴奏で喰い繋げる程度にはピアノを弾けたからにすぎない。作曲家になろうとは夢にも思わず、父に倣って教員を目指していたが、ベルギーの作曲家カレル・フイヴェルツと知り合い、全面的セリー技法という最新の作曲技法に触れて運命は大きく変わった。師範学校では戦争孤児として苛め抜かれ、戦争末期には野戦病院に徴用されて人間と有機物の塊の間には明確な差などないことを五感に叩き込まれて育った彼には、「人間的」な音楽は信じられなかった。あらゆる音楽要素を均質化した絶対零度の響きこそがリアルだった。
だが、全面的セリー技法第一作《クロイツシュピール》を作品1とするほど彼は純朴ではなかった。フイヴェルツの背中を追っているうちは自分の作品ではない、という作家意識が既に芽生えていた。次作《フォルメル》ではあえてセリーの旋律的な扱いを試みた。この曲は完成時点では主題的すぎると判断して封印されたが、先例に盲従せず自分で手を動かして考える姿勢が見て取れる。この管弦楽曲は演奏こそ封印したが自己アピールには活用し、ドナウエッシンゲン音楽祭から委嘱を得た。それが、《クロイツシュピール》の音世界を管弦楽に拡大した《シュピール》である。しかし彼は、この作品にもまだ作品番号を振らなかった(作品1から遡った、作品1/2、作品1/3…という便宜的な番号が後に振られるが)。
彼が作品番号を振るに値すると自認する作品を書くには、パリに留学してブーレーズと出会う必要があった。ブーレーズは、40年代後半の全面的セリー技法以前のヨーロッパ戦後前衛において、12音技法を駆使して歴史に残る傑作を残した唯一の作曲家であり、セリー操作の勘所を熟知していた。全面的セリー技法を厳格に適用した音楽はあまりに静的で均質的すぎる、制限を上手く緩めてダイナミックな偏りを生じさせることが肝要、という先輩の助言は大きなヒントになった。むしろ、音楽性は全く違うふたりだから批評的距離が取れたのかもしれない。文化的教養とエクリチュールに裏打ちされたブーレーズと、ヨーロッパ的教養からは生まれ得ない素朴だが斬新な発想を、強い意志の力で構造化してしまうシュトックハウゼン。
初期の模索(クラヴィア曲を中心に)
複数の音のグループ=「群」をセリーで管理する発想に、彼は最初にオリジナリティを見出した。作品1の《コントラ=プンクテ》もクラヴィア曲I-IVも、セリーの構成単位が「点」から「群」へと向かう様子が聴き所。だが、全面的セリー技法で厳密に作曲しても、人間が演奏する限り再現精度には限界がある。彼はパリ時代にもミュジック・コンクレートの習作を制作しているが、作品番号付きの電子音楽《習作I/II》で正弦波発振音のみを素材に、全面的セリー技法の厳密な適用を目指した。演奏者を介さない利点を生かし、オクターヴを12の約数以外で分割した「音階」を用いており、黛敏郎や諸井誠の初期電子音楽もこの路線を踏襲している。だが、当時のスタジオの精度はその目的には程遠いことを思い知り、クラヴィア曲V-Xで器楽曲に復帰した。
ただし彼は、電子音楽制作を通じてさまざまな啓示を得た。その中でも特に重要なのは、音群の再生テンポを順次上げてゆくと、それが毎秒数十個=最低可聴周波数を超えたところで音群自体がひとつの音として聴こえ始める、すなわち音価と音高は連続的であり、同一の尺度を用いて管理すべきだという発想だった。クラシック音楽の伝統では音高は特に精密に扱われており、1オクターブを対数目盛で12等分する平均律が全面的セリー音楽の基礎になっているが、同様の尺度を音価にも適用すると、基本テンポと倍テンポの間を対数目盛で等分した「テンポのセリー」で音価を制御することになる。彼はこの組曲をテンポのセリーを器楽曲に適用するプロトタイプにしようとした。だが、そもそも五線譜は1音ごとにテンポが変わる音楽の記譜には向かない上、曲想に合わせたテンポの精妙なコントロールは、現代曲においても演奏家の「解釈」の根幹をなす。この組曲の作曲は難航した。
むしろ、ブーレーズが提唱した「管理された偶然性」をシンプルな「可変形式」で実現したクラヴィア曲XIの方が先に完成した。また、音を詰め込まないアンサンブル作品では、奏者によって音群のテンポが伸び縮みしてもセリーで管理できる。彼はこのような音群を「領域」と呼び、《ツァイトマッセ》で「領域」のセリーを使い始めた。ブーレーズは40年代末からケージと親交を結んだが、シュトックハウゼンと出会った頃からケージへの関心は薄れ、「管理された偶然性」はケージとの訣別宣言とみなせる。逆にシュトックハウゼンは、管理された偶然性を契機にケージに近づき始めたようだ。図形を多用した《ツィクルス》の譜面や透明プラスティック板の可動部を持つ《ルフラン》の譜面には、同時期のケージ作品の直接的な影響が見て取れる。
初期代表作概観
シュトックハウゼンの初期代表作は、クラヴィア曲V-Xの作曲期間に生み出された。なかでも《少年の歌》は、専ら発振音を素材にしてきた狭義の電子音楽と、専ら具体音を素材にしてきたミュジック・コンクレートを止揚した出世作である。発振音と具体音(少年の歌声)の融合に成功したポイントは、声の意味の聴き取りやすさや電子的加工の度合までセリー化し、発振音と同列に扱えるように処理したことにある。またこの作品は5chテープのために制作され、音像の定位と移動方向もセリーで管理した「空間音楽」である。この作品と並行して作曲された管弦楽曲《グルッペン》は、さまざまなテンポのセリーの同時進行を正確に演奏し、聴取するために管弦楽を3群に分割して3人で指揮するように構想されたが、この配置ならば「空間音楽」の手法が効果を発揮すると彼は気付き、その方向で練り直して完成された。このように、ある作品で見出された手法が他作品にも波及し発展してゆく様子が、この時期のシュトックハウゼンの好調な創作活動の証である。
「可変形式」を発展させた「モメンテ形式」は、この時期の彼の発想の集大成である。「可変形式」は個々の断片の規模がほぼ等しく、入れ替え可能であることが前提だったが、「モメンテ形式」では各モメントは内容的なまとまりに過ぎない。実際、この形式を体現した作品《モメンテ》の各モメントの長さは十数秒から数十分まで幅がある。むしろこの形式は、抽象絵画の連作に喩えられる。各モメントは1枚のキャンバスに相当し、内容もサイズもさまざまだが、1枚ごとに内的統一性を持っている。連作の並べ方は展覧会ごとに、会場の規模や形状等に応じて変わる。連作は原理的には無限に作り続けることが可能で、それが向かう先は作者も含め誰にもわからない。このような作品観にも米国実験主義の影が見え隠れするが、その端緒となったのが、電子音楽《コンタクテ》である。素材はあえて発振音に限定し、クラヴィア曲V-Xの出発点になった音楽思考をまとめた論文『…いかに時は過ぎるか…』の論点を具体的な音にしたような魅力的な「瞬間」が続く。テープ作品ではモメントの並び替えはできないが、打楽器とピアノを追加した版が違和感なく作れたのは、モメント間の断絶ゆえだろう。
このような作曲経験を経て、クラヴィア曲IX/Xは1961年にようやく完成した。結局IXは、一度聴いたら忘れない特徴的な音型(B.A.ツィンマーマン《ユビュ王の食卓の音楽》で盛大に引用されている)と弾きやすいテンポを持つ、「現代弾き」以外にも幅広く取り上げられる(ロマン派の即興的解釈で知られる一方、近現代レパートリーにも意欲的に取り組んでいたチェルカフスキーが、80歳を超えた来日公演で披露していたのが思い出深い)作品に仕上がった。対照的にXは、クラスターに含まれる音符数や音楽のカオス度といったパラメータまでセリーで管理し、テンポのセリーを厳格に指定する部分では譜面を一段増やし、テンポと加減速を同時に示す通常の音符に似せた記号で制御する一方、「領域」概念に基づいて柔軟なテンポを許容する部分も挟んでメリハリをつけている。音楽的にも技術的にも全面的セリー技法の頂点に位置する大作だが、それだけに「現代弾き」を自認するピアニストはこぞって挑戦してきた。
第1のピーク:プロセス作曲と世界音楽
「モメンテ形式」と「領域」概念の先には即興の世界が広がっているが、一見全面的セリー技法の対極にあるだけに、彼は慎重に足元を固めていった。まず《プルス・ミヌス》で、+/ー/= などの記号を用いて音楽の成り行きを奏者の主観的判断に委ねて制御する「プロセス作曲」を提唱した。ラジオの局間ノイズのような音量と持続程度しかパラメータ化できそうにない素材でも、人間の統合的判断力というフィルターを通せば多様な定性的パラメータの設定が可能になり、楽音と同様にセリーで扱える。彼は並行して器楽のエレクトロニクス操作の探求も進めた。《ミクストゥール》では4群の管弦楽を4人のリング変調器奏者(音楽の進行に応じて変調の基準になる正弦波の周波数と音量を刻々変化させる)が操作する。篠原眞はこの作品の浄書と初演の変調操作を担当した。《ミクロフォニーI》は、巨大なタムタムを打楽器奏者とマイクロフォン奏者2組が両側からほぼ交互に擦り、各々の音響をフィルタリングし増幅するエレクトロニクス奏者が各組に1人ずつ付く。タムタムを擦り、音をマイクで拾う操作の指定には、初期フェルドマン風に大雑把な音域やマイクの位置のみ指定した図形楽譜が用いられる。
この続篇にあたる《ミクロフォニーII》では、4群の混声合唱を4人のリング変調器奏者が変調し、変調の基準となる信号は図形楽譜で書かれたハモンドオルガンの演奏が使われる。「時間窓」と呼ばれる部分でこの音楽は中断され、《少年の歌》等の旧作の音源がステージ後方のスピーカーから再生され、合唱はこれに合わせて囁く、というのがユニークだ。この手法は《行列》に発展的に継承された。この作品の素材はシュトックハウゼンの旧作のみ。4奏者が記憶に頼って演奏し、《プルス・ミヌス》の記号に従って他奏者との反応や素材の変更を制御する。どの曲のどの部分が(しかもうろ覚えで)弾かれるかわからない状況で、協調/中立/破壊等のシンプルで主観的な指示に従って反応するところに妙味があり、即興的要素が強まっている。このような作品では固定メンバーによる演奏が望ましく、《ミクロフォニーI》演奏メンバーを中心にケルン・グループと呼ばれたアンサンブルが結成された。60年代半ばには現代音楽界でも集団即興への関心が高まり、Nuova Consonanza, MEV, New Phonic Art 等のグループが結成された。シュトックハウゼンの即興志向もこの流れの中にある。
1966年にNHK電子音楽スタジオで制作された《テレムジーク》は、リング変調器とフィルターを用いて、日本の雅楽や寺社の儀式の録音をはじめとする世界の民族音楽と正弦波発振音を相互変調した作品。強烈な高周波発振音が降り注ぐ中に民族音楽の断片が浮かんでは消え、世界中の音楽には原型があり、民族や文化の壁を越えた相互浸透の中で理解できる、という彼の「世界音楽」理念を体感させてくれる。《ヒュムネン》では「世界音楽」を世界の国歌同士のリング変調で実現しようとした。国歌/国家の微妙さに無頓着過ぎるが、音響には全く隙がない。そこに日常の中のさまざまな言語素材を投げ込んだ深遠さとポップさが同居した音楽は、彼の意図とは別な意味で、音楽ジャンルの孤立した世界を結ぶ「世界音楽」なのかもしれない。ビートルズがかの《ペッパー軍曹…》のジャケットに彼の写真をコラージュしたのは、彼は当時既に「現代音楽」という記号を代表していたという以上の意味はないが、マイルス・デイヴィスがこの作品を聴いて「プロセス作曲」を理解し、《On the Corner》を作ったという逸話は、この作品ならば信じたくなる。またフランク・ザッパ最晩年の大作《Civilization Phaze III》は、アンサンブル・モデルンとの共同作業やシンクラヴィア打ち込みによるヨーロッパ戦後前衛風の張りつめた音楽と、スタッフらのダラダラしたお喋りが交互に現れる謎めいた構成を持つアルバムだが、この作品へのオマージュと捉えれば腑に落ちる。
直観音楽、そして再び模索の時期
ケルン・グループは、《ヒュムネン》の素材を即興的に変形して音楽的注釈を付ける版でも見事な録音を残しているが、4奏者が短波ラジオを操作し、受信した素材を《プルス・ミヌス》の記号による指示に従って変形・発展させてゆく《短波》の録音も素晴らしい。素材は事前に予測できず、音楽番組から局間ノイズまで幅があり、《行列》よりも即興の難度は格段に高い。同様のコンセプトで1/2/3奏者のための《螺旋》《極》《エキスポ》も作曲され、大阪万博ドイツ館では主にこのシリーズが演奏された。だが、その次の段階にあたる、テキストによる観念的な指示のみで演奏する「直観音楽」は十分な成果を挙げられなかった。このシリーズ最初の作品《7つの日より》の15曲中12曲は、ケルン・グループ+New Phonic Artという現代音楽系即興グループ最強メンバーで1969年に録音され、うち11曲がCD化されているが、AMMやデレク・ベイリーら、既存イディオムの痕跡を極力排除した「自由即興」を目指したジャズ出身の音楽家たちの同時期の録音と比べると微温的で因習的と言わざるを得ない。ただし直観音楽という様式の問題ではないと、ボストンの即興グループThe BSCによる崇高とすら言える数曲の実演に接した筆者は断言したい。後に書かれた《来るべき時代のために》からも数曲が録音されたが、音楽的にはさらに退行してしまった。1971年11月のロンドンにおける講演の質疑応答では、ケルン・グループの数人のメンバーは西洋古典音楽の演奏伝統の限界に囚われており、何年も前から取り替えようと思ってきたと彼は語っており、グループの活動は程なく終わった。
「プロセス作曲」期のシュトックハウゼンで見落とされがちなのは、この方法論に基づく作品以外では、《別れ》《シュティムンク》や《モメンテ》のi(k)モメント(1969年加筆)等、既に調性回帰が始まっていたことである。むじろ彼は、全面的セリー技法による厳格な縛りがなければ、たちまち調性的旋律に戻ってしまう作曲家なのだろう。「プロセス作曲」作品の録音が全面的セリー技法期の諸作品と変わらない緊張感を保っていたのは、ケルン・グループの解釈の賜物である。ただし、《シュティムンク》を調性回帰の側面のみから捉えるのは一面的だ。この合唱曲はある倍音列の構成音を基音にした倍音唱法のみで構成されており、ホラチウ・ラドゥレスクらの音楽に大きな影響を与えた。すなわち彼は、シェルシと並ぶスペクトル楽派のもうひとつの起源なのだ。なお、この作品で用いられた自作詩は、発情したマッチョな男子高校生の便所の落書きのような内容だが、このような悪趣味な要素を含むことは彼の60年代半ば以降の調性的な作品ではお約束になっており、誤解を生む原因にもなっている。
大阪万博で「プロセス作曲」作品を演奏しながら、彼は2台ピアノのための《マントラ》に着手した。この作品では冒頭数小節の旋律が基本単位になっており、全曲中のイヴェントの配分もすべてこの旋律に由来する。セリーを旋律的に扱う実験を行った初期作品《フォルメル》も同じ構造を持っていたことに気付いた彼は、この旋律を「フォルメル」と呼んだ。全面的セリー技法では極力調性感を持たないセリーを選んでいたのは単なる習慣であり、一見鼻歌のような旋律でも、同等に扱えば同等の複雑な構造を生み出せる。ただし、70年代半ばまでにこの技法で書かれたのは《祈り》《ハルレキン》程度で、次の一歩を迷っていた彼のさまざまな試みのひとつにすぎない。ケルン・グループ活動停止後も直観音楽は諦めず、《イレム》《秋の音楽》を作曲した。《シュティムンク》同様に倍音列上のみで構成した野外音楽《星辰の響き》や夢の情景をそのまま音楽化した《トランス》など、調性回帰として捉えられる作品も多い。また1971年から77年にかけて彼はケルン音楽院教授を務めたが、この間の弟子として名高いのはヴォルフガング・リームやクロード・ヴィヴィエである。すなわち、この時期の彼はむしろ新調性主義の生みの親と看做せる。
《シリウス》と《暦年》をめぐって
シアターピース《おなかの中の音楽》で使うオルゴール用に作曲した《黄道十二宮》の12旋律を全部用い、うち4つに四季を代表させて複雑に変形し、大型シンセサイザーによる電子音楽パートと融合させた《シリウス》から、フォルメル技法が作曲の中心になる。ケルン・グループ活動停止以来特定のアンサンブルと親密な関係を結ぶことを避けていた彼は、この作品の演奏実践を通じて「2人の内妻と子供たち、及び家族同然に暮らす献身的な音楽家たち」の「家庭内合奏」メンバーのみを主要ソリストとする方向性を固めた。この作品は「1年12ヶ月の四季の移ろい」がテーマだったので、次作《光》は「1週間の各曜日」をテーマに、上演に1週間を要する超オペラとなったが、その契機となったのは国立劇場による雅楽《暦年》の委嘱だった(後に《火曜日》第1幕に組み込まれた)。
《シリウス》の来日公演及び《暦年》の世界初演は、少なくとも批評は批判一色だった。70年代前半の迷走の底でようやく進むべき道を見出した2作を、全面的セリー技法期やプロセス作曲期の傑作群と比較したら見劣りするのはやむを得ない。音楽界での評価は創作状況とはタイムラグがあり、全作品がドイチェ・グラモフォン・レーベルで録音される特権的地位を得たのは70年代に入ってからだったことも批判の要因のひとつだろう。だが、それ以外の日本での批判は概ねピント外れだった。「終わった」という判断が早計だったのは言うまでもない。調性化を問題にするのは彼の創作歴への無知であり、ましてや新調性主義は肯定するが彼は否定するのは噴飯もの。「神秘主義」を問題にするならコーネリアス・カーデューのように、《ルフラン》にまで遡って批判するのでなければ筋が通らない。《暦年》を「伝統に反する」と批判するのは、伝統の範囲内でのマイナーチェンジに留まってきた新作雅楽に不満を抱いた木戸敏郎氏が、楽器の根源に立ち返った新作を求めて委嘱した経緯を理解していない。しかも具体的批判は、猿の着ぐるみがオートバイで現れ、少女が「優勝者には百万円!」と誘惑するという類の悪趣味な演出に集中し、緊張感の高いソロ等における音楽的密度は殆ど注目されなかった。
第2のピークへ:《光 LICHT》と《音 KLANG》
《光》に関して詳述する余裕はないが、演奏会での上演では鼻についた悪趣味な要素は、オペラの制度の中では気にならない。単独上演可能な曲のパッチワークを「オペラ」と呼ぶ構成も議論を呼んだが、モメンテ形式の発展とみなせば創作歴中では自然だ。ブライアン・ファーニホウもオペラ《影の時》で同様の構成を採用している。そもそもファーニホウらの「新しい複雑性」のトレードマークである不合理時価の起源は、クラヴィア曲I-IV等のシュトックハウゼン初期作品だと示唆しており、関わりは深い。「新しい複雑性」の次世代を代表するリチャード・バレットも、エレクトロニクス即興を作曲以上に重視しているだけにシュトックハウゼンを深くリスペクトしており、《グルッペン》等の管弦楽による空間音楽と、《マントラ》等の《光》シリーズ以前のフォルメル技法による作品に強い影響を受けたという。《光》に戻ると、デジタルシンセを駆使したポップな宇宙戦争の《火曜日》を経て、重厚な電子音楽に覆われ、オペラの形態は殆ど留めていない白昼夢《金曜日》の頃から音楽的には一層充実してくる(木→土→月→火→金→水→日の順に作曲された)。《火曜日》と《金曜日》の境の1991年は、彼がドイチェ・グラモフォン・レーベル録音の権利を買い取り、ウニヴェルザール社の未出版譜の権利も順次取得して自主出版を始めた年でもある。当初はドン・キホーテ的にも見えた行為だが、大資本の経営悪化と技術革新による小規模出版の容易化を思うと、先見の明のある決断だった。
《光》に続く未完の遺作《音》シリーズも詳述する余裕はないが、「1日の24時間」がテーマの小編成連作。21曲目まで完成したものの、同一素材で編成のみ変更、電子音楽の一部を取り出してソロパートを加筆といった、かつての彼ならば派生作品として処理したと思われるものも1曲に数えての21曲であり、死期を悟って完成を急いでいたことを窺わせる。ともあれ、電子音楽《宇宙の脈動》は傑作だ。シリーズ共通の24音セリーから導かれ、可聴域をほぼ覆う24層ループ(オルガンのストップをシンセサイザーでシミュレートした比較的穏当な24音色)を順次重ねる一見単純な構造だが、《ヒュムネン》に倣って「追加された要素で前の要素を変調する」操作を加えると、2ch再生でも時空が歪む異様な音世界を体験できる(本来は8ch再生)。原理的にはデジタル操作不要の「究極の初期電子音楽」で創作歴を締め括る鮮やかな引き際は、「音響派」以降の初期電子音楽(そして、その首領の彼)への関心の高まりにふさわしい。なおクラヴィア曲との関連では、「4-6-1-3-5-2 のセリーに基づく全21曲」という当初の構想は、クラヴィア曲が《光》の派生作品になった時点で放棄されたかに見えたが、《光》のピアノ曲が計3曲、《光》のシンセサイザー曲が計5曲、《音》の鍵盤曲はオルガンのための《昇天》とピアノのための《自然の持続時間》で計2曲、と数えると密かに達成されていたあたりにも、彼の執念を感じる。
少年時代から修業時代まで
彼が作品番号を振るに値すると自認する作品を書くには、パリに留学してブーレーズと出会う必要があった。ブーレーズは、40年代後半の全面的セリー技法以前のヨーロッパ戦後前衛において、12音技法を駆使して歴史に残る傑作を残した唯一の作曲家であり、セリー操作の勘所を熟知していた。全面的セリー技法を厳格に適用した音楽はあまりに静的で均質的すぎる、制限を上手く緩めてダイナミックな偏りを生じさせることが肝要、という先輩の助言は大きなヒントになった。むしろ、音楽性は全く違うふたりだから批評的距離が取れたのかもしれない。文化的教養とエクリチュールに裏打ちされたブーレーズと、ヨーロッパ的教養からは生まれ得ない素朴だが斬新な発想を、強い意志の力で構造化してしまうシュトックハウゼン。
初期の模索(クラヴィア曲を中心に)
むしろ、ブーレーズが提唱した「管理された偶然性」をシンプルな「可変形式」で実現したクラヴィア曲XIの方が先に完成した。また、音を詰め込まないアンサンブル作品では、奏者によって音群のテンポが伸び縮みしてもセリーで管理できる。彼はこのような音群を「領域」と呼び、《ツァイトマッセ》で「領域」のセリーを使い始めた。ブーレーズは40年代末からケージと親交を結んだが、シュトックハウゼンと出会った頃からケージへの関心は薄れ、「管理された偶然性」はケージとの訣別宣言とみなせる。逆にシュトックハウゼンは、管理された偶然性を契機にケージに近づき始めたようだ。図形を多用した《ツィクルス》の譜面や透明プラスティック板の可動部を持つ《ルフラン》の譜面には、同時期のケージ作品の直接的な影響が見て取れる。
初期代表作概観
このような作曲経験を経て、クラヴィア曲IX/Xは1961年にようやく完成した。結局IXは、一度聴いたら忘れない特徴的な音型(B.A.ツィンマーマン《ユビュ王の食卓の音楽》で盛大に引用されている)と弾きやすいテンポを持つ、「現代弾き」以外にも幅広く取り上げられる(ロマン派の即興的解釈で知られる一方、近現代レパートリーにも意欲的に取り組んでいたチェルカフスキーが、80歳を超えた来日公演で披露していたのが思い出深い)作品に仕上がった。対照的にXは、クラスターに含まれる音符数や音楽のカオス度といったパラメータまでセリーで管理し、テンポのセリーを厳格に指定する部分では譜面を一段増やし、テンポと加減速を同時に示す通常の音符に似せた記号で制御する一方、「領域」概念に基づいて柔軟なテンポを許容する部分も挟んでメリハリをつけている。音楽的にも技術的にも全面的セリー技法の頂点に位置する大作だが、それだけに「現代弾き」を自認するピアニストはこぞって挑戦してきた。
第1のピーク:プロセス作曲と世界音楽
この続篇にあたる《ミクロフォニーII》では、4群の混声合唱を4人のリング変調器奏者が変調し、変調の基準となる信号は図形楽譜で書かれたハモンドオルガンの演奏が使われる。「時間窓」と呼ばれる部分でこの音楽は中断され、《少年の歌》等の旧作の音源がステージ後方のスピーカーから再生され、合唱はこれに合わせて囁く、というのがユニークだ。この手法は《行列》に発展的に継承された。この作品の素材はシュトックハウゼンの旧作のみ。4奏者が記憶に頼って演奏し、《プルス・ミヌス》の記号に従って他奏者との反応や素材の変更を制御する。どの曲のどの部分が(しかもうろ覚えで)弾かれるかわからない状況で、協調/中立/破壊等のシンプルで主観的な指示に従って反応するところに妙味があり、即興的要素が強まっている。このような作品では固定メンバーによる演奏が望ましく、《ミクロフォニーI》演奏メンバーを中心にケルン・グループと呼ばれたアンサンブルが結成された。60年代半ばには現代音楽界でも集団即興への関心が高まり、Nuova Consonanza, MEV, New Phonic Art 等のグループが結成された。シュトックハウゼンの即興志向もこの流れの中にある。
直観音楽、そして再び模索の時期
「プロセス作曲」期のシュトックハウゼンで見落とされがちなのは、この方法論に基づく作品以外では、《別れ》《シュティムンク》や《モメンテ》のi(k)モメント(1969年加筆)等、既に調性回帰が始まっていたことである。むじろ彼は、全面的セリー技法による厳格な縛りがなければ、たちまち調性的旋律に戻ってしまう作曲家なのだろう。「プロセス作曲」作品の録音が全面的セリー技法期の諸作品と変わらない緊張感を保っていたのは、ケルン・グループの解釈の賜物である。ただし、《シュティムンク》を調性回帰の側面のみから捉えるのは一面的だ。この合唱曲はある倍音列の構成音を基音にした倍音唱法のみで構成されており、ホラチウ・ラドゥレスクらの音楽に大きな影響を与えた。すなわち彼は、シェルシと並ぶスペクトル楽派のもうひとつの起源なのだ。なお、この作品で用いられた自作詩は、発情したマッチョな男子高校生の便所の落書きのような内容だが、このような悪趣味な要素を含むことは彼の60年代半ば以降の調性的な作品ではお約束になっており、誤解を生む原因にもなっている。
《シリウス》と《暦年》をめぐって
第2のピークへ:《光 LICHT》と《音 KLANG》
by ooi_piano | 2012-01-24 04:20 | POC2011 | Trackback | Comments(0)