プロローグ  一人の少女がパトカーから降ろされた。大人っぽい紅のブラウスの上に、危うく地面に届きそうな白衣をまとっている。リスのように大きな瞳は眠たげで、苦々しく欠伸を噛み殺した。  ここらへんまで来ると空気にも味が生まれるのね。  少女は感心して、大きく伸びすると辺りを見回した。  小河内ダムへ続くなだらかな川、嵩(かさ)は足首ほどで、川辺にはカキツバタが自生している。鉄橋の姿がおぼろげに見える。街灯もついていない。頼りになるのは時々通る車のヘッドライトだけだ。都市化の波はここまで及んでいないらしい。ここも一応東京だと言うのに。  しかし、だからといって自然が活き活きとしているわけではなかった。  企業が棄てたものだろう巨大なコンクリート片や、洗濯機、そしておぞましい量のパソコンがそこら辺に散らばっている。パソコンは比較的新しい物まで捨てられていて、深い漆黒を溜め込んだ画面に、少女の整った顔が映る。  若い刑事は、現場で待ち合わせた上司に頭を下げた。 「坂田博士の所へ行ったのですが、留守でして……」 「……だからって『お』留守番をしていた娘を連れて来る事無いだろう?」 「坂田博士に電話で連絡を取ると、データを取るだけならばこの子で十分だから連れて行けと言われました」  少女は眠たそうにしているが、機嫌は悪くなさそうだった。まるで老人のように自分の腰を手の甲で叩いている。  少女――坂田巡(さかた めぐる)はついさっきまで祖父のパソコンを弄っていた。天体力学の権威である祖父の影響で、この時間は星の観測をするのが日課になっている。今は琴座のε(イプシロン)を観測している。εはダブルスターと呼ばれる星で、肉眼で見ると一つにしか見えないが、望遠鏡で百倍ほど拡大すると、二つの星である事が分かる。  それは、巡が一番好きな星だった。その星は遠くから見れば孤独のようだけど、近くで見れば、本当はそんな事ないのだ。巡はその星を見ていると安心することが出来た。望遠鏡に眼を近づけながら長い息を吐くけれど、それは嘆息ではなく、安堵ゆえの事だった。  壮年の刑事が「お嬢ちゃん、本当に大丈夫なのかい?」と訊くと、巡はお嬢ちゃんと言う言葉に過敏に反応した。 「私は十五歳です」  訳がわからず、刑事は首を傾げる。 「十五歳は子供じゃない!」  あまりの剣幕に、彼は閉口してしまった。  若い刑事がブルーシートを開けると、巡は感謝の言葉一つなくそこを通り抜ける。ブルーシートの内部には、スタンド型のライトが二脚、置かれていた。それは本来鑑識が使う道具なのだが、今は死体ではなく、別のものを照らしている。  岸壁にあるものが突きささっているのが見えた。上司が「ここで見たものは他言無用で――」と形式的に忠告するが、その声は既に巡の耳には届いていなかった。  ゴミ山に突き刺さっていたのは、金属の円盤。  買ったばかりのボウルのように曇りなく、ライトの光を帯びて一層神々しく光っている。半径五メートル、厚み一メートルほどの独楽型だ。ケネス・アーノルドだったらこう言うだろう。水切りには向かない円盤だと。  初めて巡は驚きの色を見せる。小さな唇を半開きにし、眉を痙攣させる。 「……これは?」 「これが何だか分からないから捜査協力を依頼したのです」  ゴミにその体の半分を埋めた円盤。第一発見者は小河内ダムの関係者らしい。仕事の帰り、鉄橋から何気なく皮を見下ろして、以上に大きい鉄の塊が捨てられていることを保健所に連絡した。保健所はその円盤を発見し、すぐさま警察に通報。爆発物処理班を引き連れてやってきた警察だが、爆弾にも見えないし、企業が捨てるような物にも見えない。これはどう見てもUFOだ。だが、警察の中にはもちろんUFOに詳しい人間なんていなかった。FBIを呼んで秘密裏に処理してもらうわけにも行かず、天文学者である坂田博士に連絡をとったのだ。  これは一体どこから出てきた物だ? まさか宇宙から?  巡は腕を組んだまま深く唸る。  ただの不法投棄だと言ってしまえば簡単なのだが、そういうわけにもいかない。この円盤は、見たところ重量一トンはありそうだ。表面はやすりに掛けられたみたいにピカピカで、何かを作ったときに出てきた廃棄物、と考えるのは不自然極まりない。誰かが、何らかの目的を持ってここに置いた。そう考えるのが道理だろう。  道理を通そうではないか。――じゃあ置いたのは誰だ? 「あの〜巡さん?」  声をかけて来た若い刑事の声で、巡は現実に引き戻された。  巡の一応の答えはこうだった。これが宙(そら)から降って来ることは、あり得ない。人為的工作である。 「どうですか?」  若いとはいえ二十前半である大の男が、十歳と少しである少女に敬語を使うのは不思議な感じがする。巡は「未詳」と答えると、持参したカメラで様々な角度から円盤を映した。 「ただ一つ言える事は、この事件を絶対に世間に公表してはいけないと言う事。あとは追って坂田博士が連絡する」  若い刑事はすごすごと頷いた。  この円盤がどういう意図でどこから降って来たのかは分からないが、これが世間に広まったら、模倣犯は出るだろうし、下手をすればパニックになる。警察の発見が早かったのが幸いした。 「少し削って持って帰っても?」  若い刑事は上司を呼ぶと、了解を取った。  パトカーに置いてあったポーチからメスを取り出すと、隆起した部分を削った。巡は、円盤の破片がおさめられているシャーレをビニール袋に入れると、大事そうに抱える。  パトカーに乗った巡は足を組み顎に手を当てた。ロダンの『考える人』そのままである。  さっきからずっと否定し続けている説がある。そう、あの金属の円盤が未確認飛行物体、つまりUFOだったという説だ。天文学が科学である以上、あらゆる説を検討しなければならないが、科学である以上SFは否定しなければならない。それに、巡は宇宙人の存在の正否を考えることがピーマンを生で齧(かじ)るくらい嫌いだった。  何故なら「宇宙はこんなに広いのだからいるかもしれない」と言われてしまったら反論の余地がないからである。これは悪魔の証明だ。いや、捜索場所が全宇宙なのだから悪魔よりも酷い。  祖父のように「いたら良いね」で済ませることができたら、どんなに楽だろう。  ドレイクの方程式を用いるのなら地球外生命体は『いる』ことになってしまうが、半世紀も前に考案された式を持ち出すなんて埃が舞って仕方がない。それに、この式はフェルミのパラドックスで否定されている。  あれが宇宙から来たのではないのなら、どこから来たのだろう。……もともと埋まっていた、とか?  しかし、これでは謎が増えるだけだ。どうしてあのようなものが埋まっていたかと聞かれたら、それは地質学や考古学の分野になってしまう。天文学はその二つの分野と密接に関係してはいるものの、分からないからと言ってカテゴリーエラーにするのは巡の望むところではない。  第一章 「あかつき」の宇宙(そら)                    1  天文学部の顧問である天体力学者、坂田弘典(さかた ひろのり)博士が種子島宇宙開発センターに呼ばれたのは、十二月の晦、年も終わろうかと言う頃だった。  彼は金星探査機『あかつき』の軌道計算プログラムの制作を行ったグループの一人であり、『あかつき』が無事金星の周りを旋回し始めたと言う報告を受け、種子島宇宙センターで受信するデータを解析しながらこの冬を過ごそうと言うつもりらしい。  博士は立派な口髭を人差し指で撫でて、金色の眉毛を気難しそうに動かした。 「拝島クンはどうする? よければ冬休みの間はこの地学室は解放しておくが」  高貴はこの冬休みの間、地学室が使えなくなるかも知れないと危惧していたが、彼はそう提案してくれた。高貴は「本当ですか?」と嬉々とした様子で返す。  地学室には何百万円と言う観測機や望遠鏡が平然と埃を被っている。果たして開けたままにして良いのだろうか。坂田弘典博士は今にもワイシャツが弾けそうなほど胸を張って「なに、問題ない。代理の先生を呼ぶ」と言った。  代理の先生、と言う言葉に不穏な空気を感じ取った高貴だったが、準備に忙しそうな博士をこれ以上足止めするのは躊躇われたため黙っていることにした。  博士が地学室を出ていってから数分後、校門を一台のキャデラックが通過していった。あれは博士の車だろう。相変わらず豪快な運転をしている。窪みの部分で車体が大きく上下した。  時刻は五時を回り、一般の生徒は帰ってしまった。それでも高貴が残っているのは、これから宵の明星の観察をするためである。冬は空気が乾燥しているため、天体観測には最高の季節なのだ(もちろん夏も捨てがたい)。高貴は博士に教わったとおり、窓際に置かれる大砲のような望遠鏡の操作を始めた。  博士特製のドブソニアン望遠鏡は角度決定を手巻式の装置に委ねており、ファインダーの筒はガムテープで補強されている。学生時代に作った物と言う話から逆算すると、この望遠鏡はおよそ四半世紀に渡って使われていることになる。一体どれほどの星の姿を、その鏡筒の中へ溜め込んでいるのだろうか。  宵の明星はマイナス四等星の星で、太陽、月に続く明るさを誇っている。よって、発見は容易だ。これくらい薄暗いと、肉眼で易々と見つけられる。一般の人が金星を発見出来ない最たる理由は、星の明るさや位置ではなく、金星が現れる時間帯を把握していないからに限る。  金星に望遠鏡の焦点を合わせ、ファインダーに取り付けられた小型カメラを通してテレビに映写する。そこに映るのは、ぼーっと光る金色(こんじき)の星。これくらい明るいとII(アイアイ)は必要ないので、比較的安価に観測することができる。高貴も、近いうちに博士に倣って、自分で望遠鏡を作りたいと画策していた。実は材料も買ってあるのだ。  博士達の人工衛星は、今もこの星の周りを回っているんだ。そう思うと、なんだか博士の存在が、急に遠くなったように感じられるのだった。そう、まるで博士が金星へ行ってしまったようにさえ感じる。  この冬休み、自分はこの星と、それに代理の先生と一緒に過ごすのだろう。高貴は画面に触れて、金星を慈しむように撫でた。  結果から言えば、次の日も、その次の日も、代理の先生は来なかった。地学室は四六時中開放されており、泥棒に盗んでくださいと言わんばかりだ。三日目にして、高貴はとうとう痺れを切らした。  代理の先生が来ないのは、百歩譲って良いとしよう。しかし、これで盗難騒ぎなどあった日には、困るのは坂田博士ではないか。せっかく自分を信用して開けたままにしてくれたのに、彼に迷惑かけるわけにはいかない。せめて代理の先生から鍵を預かってこなければならない。  高貴はいつもよりも早くに登校すると、カーボンブラック色の長机に鞄を置いて、坂田博士に電話した。彼は一回目のコールが鳴り終わろうかという時に電話に出た。時間にルーズで、待ち合わせ時刻には三十分以上遅れることもしばしばな博士だが、携帯電話は決して手放さない。職業病という奴らしい。 「もしもし。坂田博士ですか? 代理の先生の件ですが――」 『拝島クンか。久しぶり。巡とは上手くやってるかい?』  巡? 代理の先生とは女性なのだろうか。それにしても、馴れ馴れしい言い方である。博士と巡先生は旧友か何かなのだろうか。  高貴は、その巡先生が全く地学室に来ないと言う事、鍵が開けっ放しなのは防犯上看過できない事を出来るだけ簡潔に告げた。すると博士は、巡は仕事をサボるような子じゃないんだけどなぁーと納得できないと言った調子で漏らした後、『よかったら家まで迎えに行ってくれないか?』ととんでも無い提案をしてきた。  坂田博士は、『拝島クンならば大丈夫だよ』と、荒唐無稽な発言をする。その家というのは学校の最寄駅に出来た新しいマンションであり、歩いて行くのは難くない。難くないのだが……。 「それは、まあ、構いませんが……。僕が単身乗り込んで大丈夫ですか?」 『坂田弘典博士の助手、って自己紹介すれば分かってくれると思うよ。ついでにお願いしたいんだが、巡は今、警察からある事件の調査を依頼されているらしいんだ。その事件についても私に報告しちゃくれないか? きっと一人で調べていると思うんだ』  助手か……。悪くない響きだな。と高貴は博士にばれないようにほくそ笑んだ。それでから、自分もまだまだ幼稚なのだなと冷静になってしまい、長い息を吐く。 「警察から調査って、巡先生は名探偵かなにかですか?」 『そんな訳ないじゃないか。彼女は私と同じ天文学者だよ。それも、とても優秀な』  坂田裕典博士が認めるほどの秀才とは、いかほどの物だろうか。  高貴は早速鞄に持ってきた本、輪ゴムで止められたスナック菓子の袋を詰めると、地学室を出た。申し訳ばかりに、箒をドアの突っ返にしてみるが、それはほとんど意味をなさないだろう。  巡先生の家は、学校の最寄駅というだけあって、歩いて十五分ほどで到着した。天にそびえる高層マンションで、全面ガラス張りの玄関や地球温暖化に配慮した屋上ガーデンなど、近代的な印象を受ける。さらに言うならば、オートロックを搭載、監視カメラが合計百台近く建物の中に設置されているという話だ。オートロックの鍵は指紋認証システムを採用しており、ルーブル美術館がごとき厳重な警備体制を誇っている。  インターフォンはマンションの入り口に一括して付けられており、高貴は巡先生が住んでいるという202号室のインターフォンを押して、反応を待った。  反応を待ったのだが、一向に返事が来る気配がない。インターフォンに付けられているカメラばかりが、じーっと高貴の事を見つめていた。高貴は自動ドアの向こうに構える守衛室の方を一度確認してから、小声で言った。 「あのー、巡先生、いらっしゃいますか? 僕は坂田博士の助手の拝島高貴です。使いを頼まれて来ました」  聞こえているのかいないのか。高貴は黙するインターフォンとしばらくの間にらめっこしていた。すると、自動ドアが音もなく開いた。  エレベーターの中にも、もちろん監視カメラが付いていた。内部は全面ガラス張りであり、このエレベーターを使って最上階には行きたくないなと高貴は思った。宇宙に思いを馳せていても、それは高いところが好きというわけではないのだ。  二階で降りると、赤紅色のタイルが敷き詰められた廊下に出た。廊下はマンションの外を伝うように作られており、川の向こうを電車が走っているのが見えた。ここからだと騒音は殆ど聞こえない。届くのは心地良い川のせせらぎばかりである。  202号室のインターフォンを押しても、やはり返事はなかった。  学者には変わり者が多い、というのはかなり有名な話である。こと、天文学においてはそれが顕著である。坂田博士から聞いた話だが、天体観測に傾倒しすぎて、世俗に興味をなくし、山の奥で墨を焼きながら空を見て生活している者もいるそうだ。まるで仙人のような人だ、と思ったのを覚えている。  この巡先生もまた、浮世離れした人物なのだろうか。高貴は固唾を呑む。  玄関の鍵が重い音を立てて開いた。  これは、入れということなのだろうか。高貴は恐る恐るそのドアを引いた。  部屋の中はおぞましい臭気で満たされており、逃げ場を得た生ごみの腐った臭いが、突風のような勢いで外に飛び出してきた。それは高貴の短い髪の毛をふわっと立たせるほど凄まじい物で、最早毒ガス兵器の妙地に達していた。眼から涙をこぼし、咳き込みながら、扉から離れる。心臓がドクンドクンと今まで聞いたこともないほど大きな音を立てた。  一体中で何が起こったんだ。  高貴はハンカチを口に当てながら、そーっと室内を覗くと、玄関マットの上で一人の女の子が力尽きているのが見えた。うつ伏せなので顔は見えないが、ずいぶん汚い服装の子だ。親は一体何をやってるんだ? これが俗にいう育児放棄か。もしや巡先生とやらは、天文学に傾倒しすぎて子どもをほったらかしにする母親?   このままでは彼女の命が危ない。高貴は外で大きく息吸うと、決死の覚悟で中に飛び込み、うつ伏せで倒れる彼女を、ずるずると引きずって廊下へ出した。  髪は艶を失い、目元には墨のようなクマが出来ている。両手はオイルのような液体で栗色に染まっており、着ている白衣はケチャップやジュースの染みで酷い有様だ。ガラガラの声で、うー、うーと唸っており、細く開いた瞼の向こうで、血走った目がグルグル回っている。 「だ、大丈夫か?」  高貴は彼女の肩を揺らしながら問う。彼女は高貴の手を勢いよく叩くと「気安く、触らないで」と、力のない声で言った。  とりあえず、命に別状はないようだ。  高貴は立ち上がると、人命救助に向かう消防士よろしく、部屋の中へ入っていった。そこは、とてもじゃないが人間が生活できる環境ではない。食べ散らかされたコンビニ弁当や、何かを作ろうとしたのだろうか人参の切れカスが、それこそ発展途上国の最終ゴミ処理場のような状態で、台所を占拠している。せっかくのシステムキッチンは、最近は給湯室くらいの役割しかしていなかったらしい。  リビングにはスタンドライトが一個だけ、部屋に光をもたらしており、凄まじい量のレポートが机に平積みされている。高貴は締め切られたカーテンを解き放つと、窓を開けた。  幸いにして、ベランダにゴミは無い。そこで一時休息して、再び部屋に戻ろうとすると、今にも倒れそうな足取りで、あの女の子がリビングへ入ってきた。 「……不法侵入、不法侵入よ」  いきなりそう責めて来たので、高貴はムッとした。反論してやろうかと思ったが、女の子は続けて「慰謝料として、何か食べさせてよ……」と、罰が悪そうな態度で言ってきたので、最初からそう言えばいいのにと高貴は頭を掻いた。  結局、部屋の中にこれ以上いるのは危険と判断し、二人はベランダで話をすることになった。幸いにして、昼ごはんにと持ってきた菓子パンが鞄の中に入っており、それを彼女に手渡すと、彼女は死した牛に群がる子ライオンがごとき勢いで、それを完食してしまった。高貴が飲みかけていた麦茶を、嫌がる素振りも見せずグビグビ飲み終えて、「ぷはー」っと大きく息吐いた。 「ふぅ。生き返った」  彼女は壁に背を預けたまま体の力を抜き、その場所に腰を下ろした。  僕は子供のお守りをしに来たんじゃないんだけどなぁ。と溜息吐きながら、高貴は「巡先生に会いたいんだけど」と、今にも眠ってしまいそうな少女に訊いた。 「何の用?」 「だから、巡先生に……」 「だ〜か〜ら。私に何の用よ」  え?  高貴は戸惑いを禁じ得なかった。なにせ目の前にいる少女は、どうみても高貴よりも年下。高校生と言われても違和感を覚えるほどだ。博士から巡先生――というか巡ちゃんの外見的特徴は聞いていなかったので、このような事態に陥ったのは自業自得とも言える。 「巡ちゃんは、博士のお孫さん?」 「ちゃん付けで呼ぶな。失礼な奴ね」  年上に対して「奴」呼ばわりも失礼ではなかろうか。  高貴はこう考えてみることにした。代理の先生というのは何かを教える立場ではなく、あくまでも監督するための立場。きっと博士はお孫さんを一人で家に残しておくのを躊躇い、形式上は代理の先生として、高貴にお守りの役目を押し付けたのだと。  それならばまだ納得が行く。高貴は一人合点すると、尋ねた。 「僕は坂田裕典博士が勤めている学校の天文学部に所属しているんだけど、部室を開閉するのに代理の先生が必要で、巡『先生』に学校へ来て欲しいんだ」  先生と呼ばれた事に気を良くした巡は、鼻を鳴らして腰に手を当て、小さい胸を張った。 「それでいいのよ。……でも、残念ながら学校へは行けないかもしれないわ」  ごめんね。と、巡は本当に申し訳なさそうに謝った。さっきとは打って変わってこの対応。豚も煽てれば木に……これ以上言うのは止そう。 「どうして? その、……警察の捜査協力にてこずってるのか?」 「……誰から聞いたの」  突然怖い顔をされ、少しビビりながら「坂田裕典博士だけど」  巡は舌打ちすると、誰にも秘密だって言ったのに、と苦虫を噛み潰したような表情をした。 「あの、なんなら僕も」 「あんたに何が出来んのよ」  ぴしゃりとそう言われてしまい、高貴は閉口した。  天文学者が駆り出される警察の捜査とやらに興味があったのだが、こう言われてしまうと、高貴に出来る事なんてほとんどないのだった。巡は目に見えて苛々し始めていた。その証拠に、親指の爪をガリガリ噛んでいる。癖なのだろう、彼女の親指の爪はギザギザに削られていた。 「第一、なんでこの私が一般高校の代理教師なんてやんなきゃなんないのよ。本当に失礼しちゃう。日本の警察も警察よ、天文学者(わたしたち)に丸投げしてハイオワリって、小学生かっつーの!」  巡の不良顔負けの毒に、虚を突かれてしまった高貴は、彼女の愚痴を静かに聞いていた。本当は、母校を軽んじられている事に腹が立っていたのだが、なんだか怒る事が出来なかった。  初対面なのにこんな風に感じるのはおかしいのかも知れないが、巡の文句は怒りよりも悲しみによって吐かれているような気がしたのだ。  たった今高貴の存在を思い出したかのように、巡はグルルと唸りながら彼の事を睨んだ。 「いつまで居るつもりなのよ! さっさと出てけ!」  高貴は巡にせっつかれながら部屋を飛び出した。巡はドアノブに手を掛けたまま、白衣のポケットに入っていた地学室の鍵を、まるで犬に餌を与える様に放り投げた。 「二度と来るな!」  マンション全体が揺れたと感じるほどの勢いで、彼女は扉を閉めた。その衝撃は、隣の部屋の住人が様子を見に来るくらいのものだった。高貴は投げ捨てられた地学室の鍵を拾いながら、ため息ついた。  自分は彼女を怒らせるような事言ったか。いや言っていない。反語表現を使うほどなのだから、確信を持てる。  きっと、今日はたまたま機嫌が悪かった日だったのだろう。そう取り繕ってみても、高貴は失望せざるを得なかった。巡の言動には知性の欠片も感じられなかったからだ。博士は嘘をつかない。そんな不文律が壊れてしまったように感じた。 「ねえ」  扉の向こうから、声が漏れて来た。  去ろうとしていた高貴は、立ち止まり、「ん」と返事する。 「宇宙人って、居ると思う?」  その脈絡ない問いかけに、高貴は沈黙した。  脳裏を、黒服に両脇を挟まれたグレイ型宇宙人のスナップ写真が過る。宇宙人、宇宙人、それは天文学のロマンだろう。もっとも、『マーズアタック!』のような宇宙人が来るのは御免こうむるが。 「僕は――」 「やっぱり、何でも無い」  訊いといてそれかよ……。高貴は肩をすぼめると、沈黙するドアの前を去った。                     2  地学室に戻ると、そこには意外な人物がいた。新聞部部長の狭間文月(はざま ふづき)である。彼女は藍色のカーディガンに赤の腕章を付けており、それには『部長』と刻まれている。短い茶色の髪は、たびたび染髪疑惑を掛けられるそうだが、地毛だと言っていた。部費などを決定する部長会で知り合って以来、度々話しているが、冬休みに会うのはこれが初めてだった。 「お久しぶりっスね。高貴さん」  彼女は高貴の姿を認めると、ショートカットを揺らしながら手を振った。長机には彼女の物と思われる学生鞄と、書類などを纏めるためのフォルダケースが置かれていて、そのケースの中身はノートパソコンである。最新型の物で、バイトして貯めたお金で買ったらしい。 「本当だね。どこか行ってたの?」 「はい! 東奔西走としていましたよ。昨日は浅間神社の方へ取材に」  浅間神社は、町境にある倉戸山の中腹に建つ神社で、縁結びの神様として有名だ。しかし、その立地条件の悪さから、参拝者は多くないと聞く。なにせ、その神社は奥多摩のさらに奥地にあるのだから。  文月は冬休みが始まる前日、「凄い記事を冬休み中に書いてやるっス」と意気込んでいた。彼女がこれほどまでに気合いを入れるのは、冬開けに朝日新聞公式で開催される新聞コンクールに提出するためだ。優勝賞金は三十万円、作品は朝刊の一面を飾るらしい。文月のことだから、金の事は二の次、三の次だろう。重要なのは、彼女の書いた記事が印刷され、多くの人に読まれると言う点だ。 「でも、浅間神社の記事じゃあ分が悪いんじゃないか?」  恋愛特集記事なんて送ったって、棒にも触れないことは明明白白。  文月はチッチッチと指を鳴らした。 「神社を取材した訳じゃないっスよ」  もっと重要で、興味を引く内容っス。と文月はしたり顔で述べる。彼女の掌で踊らされているような気がして、嫌な気がしないでもないが、高貴は「じゃあ何の取材をしたんだ?」と訊いた。  すると文月は辺りを警戒して声色を変えた。 「高貴さんは、宇宙人っていると思いますか?」  宇宙人、宇宙人、それは天文学のロマンだろう。もっとも、『マーズアタック!』のような宇宙人が来るのは――ってあれ? 同じことをさっきも考えたぞ?  最近はこの質問をするのが女の子の間でブームになっているのだろうか。豪く質の悪い質問である。「パンはパンでも食べられないパンは?」という謎掛けと同じ匂いがする。つまり、どう答えようが正解にはならないのである。  高貴は唸ってから首を傾げた。正直な話、高貴は宇宙人という物を信じていない。この信じていないというのは、『いない』と言う訳ではない。ここが難しい所で、話すと長くなってしまうので割愛しよう。  女の子と言うのは総じてスピリチュアルなお話が大好きであり、男の冷めた対応を嫌がるものだ。しかし、女子と同じテンションで宇宙人談話が出来るほど言葉達者ではないので、高貴は苦笑して頭を掻きながら「ちょっと良く分かんないな」。 「ふっふっふ。高貴さんは天文学部員の癖に宇宙人のことは詳しくないみたいっスね」 「そうだな。僕なんて所詮、空を見上げて『あの星は良く光ってるなー』とか呑気に考える程度だからね」 「じゃあ個人的にはどう思うんですか?」 「こ、個人的に?」 「ほら、天文学者ともなると、曖昧な予想で結果を発表することは難しいじゃないッスか! だから、高貴さん自身、個人的見解として『いる』と思うっスか?」  これじゃあまるで記者会見だ。ここまで問い詰められてしまうと、答えを出さないわけにはいかなかった。高貴はしばしの沈黙の後、 「……いない……かな?」  結局この結論を出さねばいけないのか。  やはりと言うか。文月は凄い剣幕で「私はいると思うっス!」と、机を両手でバンと叩き、身体を乗り出しながら言って来た。その勢いに圧倒され、高貴は危うく椅子から落ちそうになった。 「月並みな理由ですけど、宇宙はこんなに広大なんスよ! 人間以外に知的生命体が居ないほうがおかしいじゃないッスか! いえ、言ってしまえば、私達人類も、宇宙人から見たら『宇宙人』っス!」  唾を飛ばしながら熱弁する文月。高貴は彼女が言い終えてから、ふぅと長い息を吐いた。だから結論を出したくなかったのだ。 「狭間さんの言い分はよーく分かった。だから落ちつこう?」  文月はやや顔を赤くしながら、でも満足げに椅子に座りなおした。  そして、急に静かになると、何かを悔やむように唇をかむ。 「高貴さんには宇宙人がいると言って欲しいっス……」 「挟間さん?」 「皆、皆、宇宙人なんていないって言って……私は孤軍奮闘っス」  彼女に何かあったのだろうか。高貴はそのことについて訊こうか否か迷ったが、結局言及は止しておいた。あまり立ち入ったことを訊くのは憚られる。彼女は少しだけ高貴の返事を待つかのような素振りを見せた後、 「やっぱり何でもないっス」  と冷めた態度で言って、鞄を持った。きっと新聞部の部室へ戻るのだろう。  高貴は「あんまり根を詰めないようにな」と注意した。  文月は熱中するとワンマンになってしまうことがあるからだ。空気が読めないわけではない、彼女は誰よりも情熱家なのである。頭よりも心で考えるタイプ、と言った方が綺麗だったか。 「ありがとうっス。高貴さんのおかげでちょっぴり元気出たっス」  彼女は悲しそうな表情を浮かべたまま――それでも無理に微笑んで、高貴に一瞥くれると地学室を出て行った。  文月が立ち去ってから間を置かず、地学室の窓が叩かれた。この学校はロの字型をしており、中心は中庭になっている。三階にある地学室は中庭と面しており、ベランダが存在する。ベランダは一般廊下にも通じているため、少し風に当たりたい時などはここに出るだけで充分だ。  そのベランダに続くアルミの扉がガタガタ揺れる。ここの扉は内側から鍵をかけられるので、今は施錠してある。高貴は椅子から飛び降りると、慌てて客人を出迎えた。  アルミサッシの向こうには、滅多に見ないような麗人が立っていた。艶のある金髪は二つに結ばれており、腰まで伸びている。真新しい白衣からはコロンの香りが立ち上っており、大きな蒼い瞳が高貴のことを見上げていた。リップが薄く塗られたさくらんぼ色の唇は、現在への字に曲げられている。  巡は兎のステッカーが貼られたキャスターグバッグを引いており、扉が開くと、挨拶一つも無しに我が物顔で地学室へ入ってくるのだった。朝会ったときの彼女とは、雰囲気が一変している。ついまじまじと見てしまう。  彼女は、マッチを乗せられるんじゃないかと思うほど、長い睫毛を(これが地毛だというのだから驚きだ)バチバチ瞬きながら、「流石に良い機器(モノ)が揃ってるわね」と、地学室の中を見渡して感想を述べたのだった。 「どうして来る気になったんだ?」  高貴はこう訊かずにはいられなかった。  巡は持ってきたキャスターバッグの中身を弄りながら次のように述べた。 「私が持っている光学顕微鏡はこう言う大きい物を観察するには不向きなの。この地学室には実体顕微鏡があるみたいだし、使わせてもらおうと思って――って、なんでアンタにこんな事言わなきゃいけないのよ」 「そりゃあ一応部長だし……」 「私はセンセーよ。あんたよりも偉いんだからね。ケーゴ使いなさいよ、ケーゴ」  巡は相変わらず不遜だ。しかし、彼女が代理の先生であるのは間違いない。全く、博士もとんでもない置き土産を残して行ってくれたもんだ。 「じゃあ一応先生をやってくれるってことでいいんだな?」 「ま、まあね。私は大人だから引き受けた仕事は放棄しないの。……それにパンのお礼もあるし……」  後半、小声で言った。 「その代わり、毎朝私を迎えに来なさいよ。リムジンで」 「いきなり無理難題だな。そもそも免許持ってないし」 「はぁ? 高校生なんだからそれくらい取りなさいよ。なっさけないわね」  高校生は車の免許取れないです。  本当にnot usealyねと毒を吐いて、彼女は迷わず地学準備室の方へ歩いて行った。その造語の意味を理解するのに時間はかからなかったが、彼女のそういった言動に一々腹を立てていては身がもたないので、聞き流すことにした。  巡の持ってきたキャスターバッグの中身が、長机にぶちまけられており、食べかけのパンや、見るからに難解そうな洋書、鞄の中身からじゃ何歳の持ち物かが推測できない。  その中でも異彩を放っていたのは、ダブルクリップで留められた数枚の白黒写真である。写真の右隅には白のペンで日付・場所が記されており、一九〇〇年前半の物から二〇〇〇年初頭の物。撮影場所もアメリカ、インド、ロシアと多岐にわたっている。その写真に共通するのは一つだけ、被写体が『空』と言う点だ。  高貴は何の気なしにそれをパラパラとめくっていたのだが、盗み見したことがばれたら彼女は烈火のごとく怒るだろう。写真をキャスターバッグに戻し、素知らぬ顔で席に座った。  どうして空の写真をこんなにも持っているのだろう。高貴は顎に手を当てた。それが真夜中の写真で、IIを使って撮影されたものならば、夜間の天体撮影だと決めることが出来る。しかし、写真は朝の物もあれば夕暮れの物もある。むしろ、夜の写真が少ないくらいだった。何を意図して撮られた物なのか、高貴には検討もつかなかった。  それにしても巡は遅い。一体なにをやっているんだろう。  地学準備室は巡の部屋に負けず劣らずの散らかりっぷりである。初見の彼女が目星の物を見つける事なんて不可能だ。下手したら遭難しているかもしれない。しかし、やたらとプライドの高い彼女の事だ。「手伝おうか?」なんて言ったら「どっか行け!」とどやされる事うけあいである。  怒られると分かっていながらも、高貴は地学準備室のドアをそっと開いた。自分のお人好し具合に辟易する。虎穴に入り虎児に襲われるのだから苦労無い。  ガラスケースに陳列される金属や宝石の標本、そして、数多の望遠鏡。雑木の様に床から生えるそれらを、丁寧によけながら簾(すだれ)を通ると、ダンボールを漁る一人の少女を発見した。  折角の綺麗な髪の毛が、屈んでいるせいで床に着いてしまっている。ダンボールには埃が積もっており、彼女はゴホゴホと咳き込みながら、その実体顕微鏡とやらを探しているようだった。 「巡先生、良かったらお手伝しましょうか?」  と、出来るだけ丁寧な口調で言うと、彼女は「うっさい! 邪魔しないで!」と吠えた。  どうしてコイツはいつも腹を立てているんだ。高貴は苛立ちを微笑の下へ隠したまま、「顕微鏡はそんな所に入ってませんよ?」と、少しばかり嫌味な口調で言った。 「そ、そうなの?」 「はい。顕微鏡はあの戸棚に纏めて仕舞われてます」  『あの戸棚』と言うのは、高さ1,7メートルほどもある白塗りの棚で、顕微鏡はここに入っているのだが、その実体顕微鏡と言うのがここにあるのかは不明である。巡はムスっとした表情になると 「フン。良い気にならない事ね」  と、忠告してダンボールから顔を上げた。  次々に棚を開けて行き、なんとか背伸びして一番上の扉を開ける。そこにお目当ての物があったらしく「わぁ」と黄色い声を上げた。こう言う時だけは年甲斐である。  実体顕微鏡は、通常の顕微鏡よりも一回り大きく、電気のコードが輪ゴムでまとめられていた。巡はそれを取ろうとするが、指先が微かに触れるだけで、引き寄せるに至らない。  巡が奮闘する姿を黙って見ている高貴。  彼女は物欲しそうな目で、一瞬、高貴に視線を送るのだが、いつもの不機嫌そうな顔に直ぐ戻った。どこまでも強情な奴である。素直に取ってと頼めばいいのに。  高貴は困ったように頭を掻くと、一度息吐いて覚悟を決め、巡の腰辺りを両手で掴んだ。丁度高い高いするみたいに持ち上げると、巡は顔を真っ赤にして抵抗を始めた。それが怒りゆえか恥かしさゆえか、とにかく良い感情ではないだろう。 「汚い手で私に触るな変態!」 「早く取りなよ。取ってもらうのは嫌なんだろ?」 「うるさいうるさい! 分かったような口をきくな! 私はセンセーだぞ! さしずめ私の腰のくびれを触りたいんだろ!?」 「んなもんねーだろ……」 「失礼なっ!」  下ろせ! と、巡は頑として目の前にある顕微鏡を取ろうとしなかった。なぜ彼女がここまで頑なに助力を拒むのか、いや、それともただ単純に自分が嫌われているだけなのだろうか。高貴は人知れず落ち込みながら、 「じゃあ好きにすればいいよ」  巡を下ろし地学準備室を出て行った。  生来、高貴は自分の怒りを他者にぶつけて発散する方法を身に付けておらず――かと言って習得しようとも思わないが――、こう言うもやもやした気持ちを溜め込みやすい性質を備えていた。今も同様だ。  自分は知らぬ間に彼女から嫌われるような事をしてしまったのだろうか。蛇蠍のごとき嫌われ方をしている。理由がないのに、こうはならないだろう。  何かが倒れる音が地学室に響いた。  嫌な予感が頭をよぎり、高貴は走って準備室に戻る。かろうじて均衡を保っていたダンボールの塔が崩れ、何かが下敷きになってもがいているのが見えた。高貴はやれやれと額に手を当てると、スリッパで引っぱたかれたゴキブリのような体勢で悶え苦しむ巡を救出した。 「し、死ぬかと思った……」  巡はペシャンとそこにへたり込みながらそう漏らした。  高貴はてきぱきとダンボールを片付けると、実体顕微鏡を棚から下ろし、それを地学室に持っていった。駆け足で巡が付いてくる。何か言おうと口を開く彼女を右手で制し、高貴は言った。 「今朝、僕に何が出来るって訊いたな?」 「だから何だってのよ……」 「僕は、君が今調べてる事には全く歯が立たないかもしれない。でも、高い所にある物を取ってやれるし、下敷きになっている君を助ける事も出来る。だから、僕に手伝わせてくれないか?」  高貴が突然真面目に語り出したので、巡は面喰っていた。彼女は高貴が言い終えた後、ちょっとの間思案してから、こう呟いた。 「……なにが目的……?」 「も、目的?」 「そうよ。力を貸すと言うからには、隠された目的があるはずでしょ。金? 名誉? それとも知識欲?」  高貴は黙り込んだ。  そう言えば、どうして自分がここまで彼女に固執するのか、考えてもいなかった。巡が気に食わないのならば、無視してやればいいじゃないか。どうして自ら巻き込まれに行く。  自分は、巡の生き方に興味を持っていたのかもしれない。彼女が見せる寂しそうな仕草に同情し、自分の無力さへの憤慨に共感した。高貴はやっと気付いたのだ。自分は、巡と言う少女に自己を投影していると。  誰かに嫌われるから、人を嫌いになれない。反論されるのが怖いから、自己主張しない。しかし巡はどこまでも自分に正直で……、なんというか、放っておけない危なっかしさがあるのだ。この思いを端的に、効果的に述べるならば――。 「惚れた……からかな」 「……」  巡はわなわなと拳を震わせると、酷く混乱した様子で「と、突然なに言ってんの!? 気でも狂った!?」と、顔を逸らしながら怒鳴った。 「確かに今のは言葉にあやがあった。惚れたって言うのは、何と言うか、巡の生き方が尊敬できるって言うか」 「全く訳わかんない!」  彼女は信じられない程動揺し、赤面していた。それは言った張本人である高貴も心配になる程で、いつも冷静沈着な巡がこのように取り乱すのは、心底意外だった。しかし、それは彼女にマイナスの感情を抱く原因にはならない。むしろ、巡の人間らしい一面が見えて嬉しかった。高貴が微笑すると、巡は「なにがおかしいのよ!」と吠える。 「だからさ。僕は君の力になりたいんだ。こき使ってくれても構わないよ。いいじゃないか、手が一本増えると思えば」  巡は大きく深呼吸して、親指の爪をがりがり噛んだ。 「……仕方ないわ。光栄に思いなさいよ。助手にしてあげるんだから」  そして。これは大出世なんだからね。と、誇らしげに言った。                          3  こうして共同戦線が張られる事になったのだが、高貴は巡がなにを調べているのかまだ教えてもらえなかった。  巡は実体顕微鏡の電気プラグを接続し起動させた。バッグの中に入っていた金属の塵のような物を、ピンセットを用いてシャーレに置き、スライドガラスの上にそれを乗せ、ステージにセットした。その間、高貴はライトを設置し、自然光が入らないよう暗幕を引いた。  金属の塵、大きさは0,1ミリ程だ。それが三粒シャーレに転がっており、一粒はスライドガラスに置かれている。外見はアルミニウムに似ている。 「巡、これはアルミニウムか?」 「これがアルミニウムに見えるなら眼科行ったほうがいいわよ」 「僕は天文学者を目指しているのであって、科学は守備範囲から外れてる。さも常識のように言われたって困るよ」 「まずアンタのその歪んだ根性をたたき直さなきゃ駄目ね。あなたのマスターとして教えてあげる」  こっちだって、お前のひねた根性をたたき直してやりたいよ。高貴はぐっと拳を握りしめて巡と向かい合う。 「天文学(ほし)を知るには、地学(つち)を調べ、気象学(そら)を調べ、科学(たいき)を知らなければならない。天文学という分野に、必要ない学問は存在しない。分かった?」  高貴は素直に頷いた。  悔しいことに、巡の言うことは筋が通っている。それに、彼女は彼女なりに、自分に教えようとしてくれているようで、その不器用な優しさが妙に嬉しかった。  しかし、科学の分野となっては、まだ未勉強で、話について行けそうもなかった。学校で教えられる程度の知識しかないのだから当然だ。  だが、助手である以上、巡に付いていけなければ話にならない。なんとか理解しようと奮闘する。 「……他に何か分かっている事はあるか?」 「耐熱性に優れモース硬度は6〜7、じん性にも優れる。一方、粘性には難がある。断口は貝殻状で、樹木の年輪を思わせる同心円状の模様が刻まれている」  いきなりそんな風に言われたって理解することは勿論叶わない。だが、巡もそれを察しているようで、空気には慣れろと言っているように感じた。 「材質は?」 「まだ分からない。どうやら多段構造になっているみたいなの」 「X線に掛けてみれば、内部構造が分かるんじゃないか?」 「外装に鉛メッキが使われてて放射線を弾いてしまう」  つまり、その金属の中身はまだ分からないわけだ。彼女が調べているのは、発掘された金庫か何かか?  巡は顕微鏡のピントを合せた後、キャスターバッグからファイルを持ってきた。兎の模様が描かれたコミカルなファイルで、高貴が微笑すると「ほっときなさいよ!」と怒った。彼女はこういうファンシーな物が好きなのだろうか。なんだか意外だった。  巡はファイルを抱きかかえたまま、少しの間黙った。  熟考の末、意を決した様子で彼女は口を開く。 「……あんたって宇宙人の存在をどう思う?」 「またその話か。今度は最後まで言わせてくれるんだろうな?」 「いいから早く答えなさいよ。これはすっごいじゅーよーな話なんだからね」  高貴は今まで自分が培ってきた知識を総動員させる。させた結果、一つの答えに行きあたる。 「いると思う、が、地球に来ない。人類に会うことは絶対出来ない」  高貴には、巡がホッとしたように見えた。 「私も同じ考えよ。――だから約束して、この先何が起ころうとも、絶対にその理論を覆さないって。それが私の助手であるための条件だから」  そんなの、約束するまでも無い。  少しでも天文学を齧った者ならば、リスだって同じ結果に行きあたるであろう正論。ガリレオだってコペルニクスだって、正論を覆すことは出来ないのだ。  巡はバッグから一枚の写真を取り出し、それを机に、至極丁寧に置いた。  それが何なのか、高貴にはさっぱり理解できなかった。ソーサーを二枚重ねたような形の金属物質が、ゴミ山に突き刺さっている。映画のセットだろうか。それにしてはあまりにも現実味が無い。まるでアフリカ奥地の原住民が、スーツを着て携帯を操っているかのような……。 「この写真は、なんだ?」 「倉戸山、小河内ダムの手前にある不法投棄現場で発見された金属円盤の写真」  高貴は額を片手で撫でると、そのまま両目を覆い、天を仰ぐかのように姿勢をのけぞらせた。オーマイゴッド、とでも言いたげな表情のまま「悪戯だな」と精いっぱいの反論を述べる。 「悪戯でモース硬度7の金属を加工する? 日本人は余程のユーモアの持主みたいね」  そもそも、モース硬度7の金属を一般の人間は加工出来ない。巡の趣味が悪いジョークを無視して、高貴は写真をもう一度しっかりと見直した。  ご丁寧にも煙草の箱が円盤に乗せられている。大きさは直径十メートルと言ったところか。厚みも十分あり、二メートルとは行かないまでも、それに近いくらいはある。推定される重さは何百キロ単位じゃ追いつかないだろう。トンはある。これをここに運ぶこと事態困難である。 「これを踏まえても、宇宙人はいないって、勿論言えるわよね」  すぐには返事できなかった。  そう質問してくる巡も不安げだったのだ。高貴と巡は視線を交差させたまま、どちらが先に否定するか譲り合うかのように黙った。口火を切ったのは高貴だった。 「オカルト的な考えは、この際排除しよう。これは誰かによって置かれた物か、それとも、偶発的に置かれる事になってしまったのか。どっちだと思う」  巡は即答した。きっとこの問いを何度も頭の中でしていたのだろう。台本は書いてあったのだ。 「人為的な物だとしたら――」  モース硬度7の金属を加工できる機材、スペースを持ち。なおかつそれらの作業をする仲間がおり。その仲間は決してこの事を口外しない約束を交わしており。この場所に円盤を置く事で利益が生まれる人間。  高貴は連想クイズのように、その人物像を思い浮かべる。  一番の難関は『利益』の部分だ。この円盤の材料を集める所から作ろうとすれば、億単位の金が掛る事は言うまでもない。その虎の子金属円盤を、わざわざ倉戸山の麓なんて辺鄙な場所に放置する。その動機が見当つかない。 「例えば、カルト宗教団体による物とか」 「宇宙人を信奉する団体は確かにある。でも、もし宇宙人の存在を知らしめるのが目的なのだとしたら、もっと人目のある場所に置くのが適当じゃない?」  確かにその通りだ。  金、仲間はクリアできても、目的の部分だけはどうしてもしっくりこない。 「偶発的・自然的に置かれた物だとしたら、その『目的』の部分はクリアできる。でも、突然金属の円盤が出現するなんてことはあるのか?」 「無いわね。仮にこの円盤が宇宙(そら)から落ちて来て、大気圏を超え、ここにインパクトしたとするなら、山は無くなってる」  寒気がした。  地球に当たる隕石のほとんどは、先三十年分は見通してある。しかし二メートルほどの小隕石を予想するのは難しい。さらに、NASAなどは市民の混乱を避けるため、隕石の接近を公表しない事まであるのだ。我々一般人は、いつ自分の身にメテオストライクが起こるのか、本当のところは知る事が出来ないのである。 「じゃあ地面が削られて――」  それも考えた。と巡は高貴の言葉を遮った。 「地面が削られて現れたって言うのは一番筋が通るシナリオだけど、仮に、過去に落ちてきた物ならば隕石孔(クレーター)がどこかに残っているはず。隕石孔が風化して消えてしまうほど大昔の物ならば、逆に隕鉄が完全な形で残っているのが不自然」  巡が言葉を区切ったとき、丁度学校の鐘が鳴った。  もう四時半になっていたのだ。冬は日が暮れるのが早いので、一般の生徒は五時には学校を出なければならない。高貴は顕微鏡に視線をやる。あの中を見てみたい。が、できれば時間があるときにじっくりと観察したい。  巡も同様の事を考えたようだ。なにせ彼女は準備したのにも関わらず、討論に熱中して一度も接眼レンズを覗いていないのだから。 「……また、明日にしようか」 「……そうね」  顕微鏡を準備室(巡の手が届きそうな場所)に片付けて、持ってきた金属は標本が飾られている陳列棚に隠した。巡はキャスターバッグを引きながら高貴に付いてくる。彼女は鍵を決して高貴に押し付けようとはしなかった。自分で地学室の扉を閉める。高貴はなんだかほっとした。 「あんた自転車?」  玄関まで来て、彼女は訊いた。 「いや。電車だよ」 「明日から自転車できなさいよ。私ん家まで」  高貴が露骨に嫌そうな顔をすると、巡は「じゃあ部室開けてあげないからっ」と、いたずらっこ様に言うのだ。彼女の家に寄りつつ学校へいくのは、それほど苦ではない。せっかく来てくれると言っているのだから、ここで機嫌を損ねるのは利口ではないか。  高貴は渋々了承した。  巡をマンションまで送った後、高貴は駅のプラットホームで静かに電車を待っていた。しとしと降る雨が、駅の天井を叩く音が聞こえる。ホームの中は蒸していて、十二月とはとても思えない。  どたどたと、騒がしい音を立てながら階段を降りてくる者がいる。水が滴る茶色の髪に、人懐っこそうな大きな瞳。これだけは濡らすまいと守っていたのか、ポリ塩化ビニルのハンドバッグを胸にかかえている。  文月である。高貴と同じように、最終下校の鐘で学校を出てきたのだろう。彼女は高貴の事を発見すると、小走りで近寄ってきて、隣に座った。 「いやぁ〜突然降られて大変でした」  高貴は目のやり場に困りながら、自分のブレザーを脱ぐと、彼女にかぶせる。文月は首をかしげた。 「別に寒くはないっスよ?」 「そうじゃなくてさ。ワイシャツが……その……」  彼女は自分の下着が透けていることを確認すると、ブレザーのボタンを慌てて全部止めた。 「あ、危なかったっス……。このままじゃ痴女扱いされるところでした」 「挟間さんは女の子なんだから、もっと気をつけるべきだと思うよ」  彼女は「余計なお世話っス!」と反論してきた。  文月は去り際に「明日ブレザーは返すっス〜」と手を振った。  雨は弱まり、肌寒い影がホームを駆け抜ける。高貴はくしゃみすると鼻をすすった。 第二章 奥多摩・ウッズ・モンスター                       1  久しぶりに自転車をこぐな。高貴はふとそう思った。一年の頃は三年間自転車で通い通してやるぞと燃えていたが、二年になってからは段々とことになり、二学期からは電車の定期まで買ってしまっている。  二十分ほど走っただろうか。巡の住む大きなマンションが見えてきた。駅の周りには何個かのビルがあるのだが十七階の巨大マンションは明らかに景色から浮いている。  一体家賃はどれほどのものなのだろう。そして、彼女はどうしてここに一人で住んでいるのだろう。  そのバベルの塔が如しマンション前には、一人の少女が自転車に跨って待っていた。サドルの高さがあわないのか、つま先立ちになってバランスを保っている。大きすぎるキャスターバックは、前かごに押し込められていた。学生がよく使う銀フレームの自転車で、高貴の物と同種である。  昨日は二つに結んでいた金髪を、今日はゴムで一つにまとめていた。若馬のたてがみのような金髪は、自転車の荷台に軽く触れている。 「遅い!」  高貴が隣につけると、開口一番に彼女はそう言った。待ち合わせの時刻にはまだ早い時間だ。高貴は早めに着いて彼女を迎えようと考えていたのだったが、どうやら先をこされたらしい。  高貴は心配気に訊いた。 「大丈夫か? なんだか倒れそうだけど……」 「うっさいわね。私は年齢に合致した適当な自転車を選んだのよ。高い訳ないわ」  いや、どう考えても高い。  彼女は、自分の背丈が同年代に比べて低いとは思っていないようだ。そう思い込んでいると言ったほうが適切か。しかしこんなことを言ったら彼女は怒髪天の勢いで怒るだろうから、今は生暖かい目で見るだけにしよう。  この自転車は新品に見える。どうやら昨日買ったようだ。どうしてわざわざ自転車なんて買ったのだろう。疲れるだけなのに。 「さっさと行くわよ! 私に付いて来なさ――」  巡は恥ずかしいくらいの声でそういった。まるでジャンヌ・ダルクのようである。しかし次の瞬間、巡は盛大にずっこけると前かごに入っていたキャスターバッグをぶちまけた。通行人の失笑を買い、通りかかった主婦から「お嬢ちゃん大丈夫?」と声をかけられ、高貴がバッグを拾い自転車を立てなおしても、彼女は突っ伏したまま起き上がろうとしなかった。  やがて、巡はむっくりと起き上がると、形の良い鼻を両手で抑えながら、「なんで」と呟いた。 「どういう意味?」 「なんで乗れないの?」  あの人も、あの人も乗れてるのに! と、巡は颯爽と車道を走るカッコ良いスポーツバイクを指さしながら怒鳴った。 「そもそも、何で自転車に乗ろうと思ったんだ?」 「移動運動学の観点から見て、学校へ行くのに最適な乗り物は自転車だと判断したまでよ」 「自転車に乗ったことあるのか?」  無いに決まってるでしょ、こんな庶民的な乗り物。と、彼女は新品の自転車を軽く蹴った。そして、うんざりといった様子で両手を広げ天を仰ぎ、軽く髪をかきあげて 「あーもう。気分を害したわ。歩いて行くわよ」  キャスターバッグを引きながら歩き始めてしまった。  高貴は放置された自転車と自分の自転車を、マンションの駐輪場へ片付けると、小走りで巡の後を追った。巡は信号に引っかかり、またもや苛々しているようだった。高貴はさして深く考えず提案した。 「今度、一緒に自転車に乗る練習しようか?」  巡は充分思案した後、「付き合ってあげてもいいわよ」と偉ぶった口調で言った。  高校の周りを野球部がランニングしていた。体育館からは吹奏楽部の合奏音が微かにこぼれている。  来客者用スリッパをぺたぺた鳴らしながら巡が付いて来る。天文学部の部室前には、ある人物が待ち構えていた。  狭間文月だ。彼女は相変わらずポリ塩化ビニルのハンドバッグを片手に持っており、腕には「取材中!」と書かれた腕章が巻かれている。文月は高貴の姿を認めると、もう片手に持っていたブレザーをつきだした。 「高貴さん、昨日は助かったっス」  丁寧にアイロン掛けされている。彼女がやったのだろうか。  思わぬところで家庭的な面を垣間見てしまった。  巡が高貴の袖を軽く二度引っ張り、紹介を求めてくる。 「彼女は新聞部部長の狭間文月さんだよ。昨日駅で一緒になってさ、ある事情からブレザーを貸したんだ」 「……どういう事情から服を貸すことになるのかしらね。別にあんたの交友関係につべこべ言う気はさらさらないけど、高校生なんだから自重しなきゃ駄目よ」  と明らかに年下の女の子に諭されてしまった。  今更言うまでもなく、巡が想像するようなことは一切起こっていない。  文月は巡の目線に合うように、軽く腰を折ると、まるで保育園の先生のような口調で「可愛い女の子っスね。高貴さんの妹さんっスか?」と訊いた。巡は目に見えて苛々した様子だ。高貴は苦笑した。巡にケンカを売る――例え意図していなくとも――とは、災難である。 「失礼な奴ね。私は天文学部の顧問よ。アンタよりもよっぽど偉いの。敬いなさい」 「あはは。高貴さん、この子超可愛いっスね!」 「ちょっと! 頭を撫でるな!」  驚いたことに文月の方が上手(うわて)だった。  巡の罵詈雑言も文月には効かない。というか、自分が馬鹿にされていることに気付いていないようだ。文月の「お触り」にとうとう巡が音を上げた。 「こおきぃ。助けろお」  背後から文月にハグをされつつ、巡が片手を伸ばす。  こうしてみると、仲の良い姉妹のように見えるが、巡は心の底から困窮しているようだ。こんな風に困っている巡の姿は新鮮であり、しばらくは放っておいてもいいかと思われたが、これ以上は個人の尊厳の問題に足を踏み入れるので、高貴は「狭間さん。彼女は本当に天文学部の顧問なんだよ。臨時だけどね」 「ええ!?」  文月が驚いて手を離す。巡は息をぜぇぜぇ吐きながら「よくやった」と高貴を褒めた。 「こんなに小さいのに先生なんスか?」 「大きさは関係ないでしょ! ……やっと私の凄さが理解できたようね……」 「ますます可愛さアップっス! お名前はなんて言うんですか!?」 「全然懲りてない……」  巡は愕然とした様子で、文月に抱きつかれてぶんぶん振り回されていた。彼女には悪いが、高貴はさっさと鍵を開けて地学室に入り、実体顕微鏡をセッティングして金属をステージに乗っける。昨日からずーっと気になっていて、よく眠れなかったのだ。 「あ! ずるい! 助手のくせに私より先に見るな!」  と吠える声が廊下から聞こえたが、そんな事は気にせず接眼レンズに瞳を近づけた。  実体顕微鏡が結ぶ像は、光学顕微鏡とは大きく異なり、まるで8ミリカメラで取った映画のようだった。陰影はほとんど無く、かわりに表面についた傷が目立つ。これはきっと採取するときに削れた傷だろう。  高貴がこの画像を見て気づくのはそれくらいだった。正直、期待していた物よりも面白みがなく、象形文字も謎の紋章も財宝の地図も刻まれてはいなかった。文月の事を振りきった巡が、高貴の事を押しのけて実体顕微鏡の中を覗いた。  先鋭ピンセットを用いて金属を転がしながら観察する巡。その瞳(め)は真剣そのもので、つい黙ってしまった。彼女はそうやってじっくりと金属を観察した後、一言漏らした。 「……全然分かんないわね」 「じゃあ収穫ゼロか……」 「はぁ!? じゃあアンタはなんか分かったわけ!?」 「僕は……その……」  悔しいことに何も分からなかった。強いてわかったことを挙げるならば、自分の知識の浅さだけだ。やっぱり、と言うように巡が呆れた視線を送ってくる。しかし、二人でいがみ合うことが無益であることに気づき、同時に長い息を吐いた。 「他にこの金属について調べられそうな事ってあるのか?」 「炭素14法に掛けるくらいね。もっとも、この金属の精錬年代が分かったところで、あの円盤の謎解決にはほとんど関与しないんだけど……」  今まで高貴と巡の様子を見ていた文月が「円盤!?」と黄色い声を上げる。巡はしまった、というように口を隠した。この円盤の事は極秘だと聞く、文月(きしゃ)に知られるのはなんとしても避けたいところだ。 「じゃあこの金属はその円盤の欠片って事っスか!?」  しかし文月は妙な洞察力を発揮し、語らずとも真相に近づいていく。巡が高貴に視線を送った。何とかしろと言っているようだ。仕方ない、一肌脱いでやるか。研究については全く力を貸せなかったし。 「あのだね。この金属は――」 「やっぱりUFOも宇宙人も存在したんスね! 信用ならない学者たちは、口をそろえていないって言ってるっスけど、それらは全部カモフラージュっスね」  この言葉に反応したのは、やはりと言うか、巡だった。彼女はどこから出したかもわからない様な「あ?」と不良の恫喝がごとき声を上げ、文月に詰め寄った。 「私らがカモフラージュしてなんの意味があんのよ」 「それは……宇宙人の存在を知られると国がパニックになるからっス!」 「もっとマシな理由を出しなさいよ。政治的とか宗教的とか、……こんな頭の悪い奴が世界に六十億はいると考えると本当に辟易するわね。あんた見たいな野蛮人が『NASAは月へ行ってない』だとか、そういうどうしようもない妄言を吐いて先人の偉大な一歩を帳消しにしようとするのよ。私は記者って生物がゴキブリ以上に嫌いだわ!」  巡がはっきりとそう言うと、文月は顔を真っ赤にして「記者は偉大な職業っス!」と反論した。 「じゃあNASAが月へ行ったと言う話を広めたのは誰っスか!? テレビ関係者、もとい記者っス! 発表されない事実は何の力も持たないんスよ!」 「面白いからって記事を書きたててる癖に、よくそんな恩着せがましい事が言えたものね!」  二人はぐぬぬぬと唸りながら視線で火花を散らせる。  結局レベル的には同じくらいなんだなと高貴は他人事のように思った。 「……もういいっスよ! 折角宇宙人に関する凄い情報があるのに教えてやらないっス! 行きましょう高貴さん!」  突然腕を掴まれた高貴。もう片腕を巡が掴んだ。 「助手を離せ馬鹿たれ! こいつは私の所有物だ!」  いや、所有物ではないだろう。 「いい加減察しろっス馬鹿天文学者! 高貴さんは私にべた惚れっス! 彼の意思を尊重するっス!」  これについては事実無根である。  高貴は「やめろ! 千切れる!」と悲鳴を上げるが、二人はそんな事お構いなしに引っ張り合った。二人はただ意地を張り合っているだけで、本当のところ、自分を必要としているのはどちらでもないのだ。そう考えると、複雑な心境である。  その争いは、文月が突然手を離した事で幕を閉じた。全力で引っ張っていた巡が倒れ、結局彼女に掴まれていた高貴も、乗りかかるような具合で倒れた。しかし、そこに恋愛的ドキドキが生まれる事は無く、「邪魔よ!」と蹴り飛ばされて高貴は彼女の前から退いた。 「そんな円盤の話なんかもうどうでもいいっス! せいぜい二進も三進も行かず苦しめっス!」  文月はそう言い残して地学室を出て行った。巡は去る文月に対して舌を出す。本当にガキの喧嘩だなと高貴は思った。  あームカつく! と率直に感想を述べて、巡は席に座った。彼女は自前のマグを長机に叩きつけて「助手! コーヒー!」と怒鳴る。結局、頼まれる仕事はお茶汲み係ではないか。  だが、文月の言うとおり、二進も三進も行かない現在、研究するようなことも無かった。これならばまだ文月に頼んでその「宇宙人に関する情報」とやらを聞いた方が有意義であったかもしれない。巡もその事に気付き始めていたようだが、彼女は決して口にはしなかった。例え頭で気付いていても、プライドが赦さない。これが彼女の本心であろう。 「巡、少し言い過ぎだったと思うぞ」  と、彼女に怒られる事覚悟で言ってみた。  巡は前に置かれたコーヒーを両手で持つと「……確かに」と、同意したのだった。これには「え?」と訊き返してしまうほど驚いた。あの高慢で高飛車な巡が、反省している?  きょとんとする高貴、それに気付いた巡が「なによ、そんなに意外?」と、じとっとした眼で見る。答え方を間違ったら襲いかかって来そうだ。 「少し意外かな。でも、どうして急に反省を?」 「私は滅多に熱くならないたちなの。感情論をぶちまける奴は嫌いだから、常に冷静な部分を残して事に当たろうって考えてる。でも、さっきは完全に頭に血が上ってた」  さっきは、常人だったら心が壊れるくらいの罵詈雑言を吐いていたよ。幸い、対峙していたのが文月だったから良かったが、普通の女の子だったら口論に発展する前に、泣いてしまっている。 「私は絶対口にしちゃいけない事を言った。――相手の夢を穢した。……私って本当最低……」  彼女が言っているのは、記者はゴキブリ以下の下りだろう。あれは、そう言う事に寛容の高貴も、苦笑で済まされる文句ではないと思った。だが、巡がこのように落ち込むとは本当に意外だった。そしてそれと同時に、嬉しくも思った。 「私もさ、小学校の頃、担任の先生に『天文学なんてやっても意味無い』って言われた事があったの。っま、私は他の分野も優秀だったから、そっちに力を入れなさいって意味だったんだろうけど……。とにかく、当時の私は椅子を投げるくらい怒った」  その教師には気の毒だが、彼が否定するのも無理はない。  天文学と言うのは、宇宙のように果てがない。ネバーエンディングな学問なのである。それが魅力でもあるのだが、一般の人には「金にならない趣味の学問」、哲学と同程度くらいにしか扱われていないのが現状だ。 「夢ってさ、傍から見ればバカバカしい事でも、その人にとっては自分の人生を賭けるに値するくらい重要な事で、その価値を知らない人に『ゴキブリ以下』なんて言われたら、そりゃあ頭に来るよね」  信じられない変化があった。  なんと、あの巡が泣いているのである。  晴天の霹靂(へきれき)とはまさにこの事だった。 「め、巡! 泣くな! 文月の事だから、謝ればきっと赦してくれるさ」 「本当かな? 私なら死ぬまで――死んでも赦さないけど」 「大丈夫だ! とにかく新聞部の方へ行こう。だから、な?」  巡はまだぼろぼろと泣きながら、大きく頷いた。                    2  新聞部の方へ歩いている途中、巡は高貴の手を掴んだ。彼女の手はまるで作り物のように小さくて、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうだ。 「握ってて。前、良く見えない」  もう涙を流してはいなかったが、眼がはれている、その上充血しているため、せっかくの整った顔が台無しである。だが、今の高貴には彼女がこれほど無いまでに魅力的に映った。 「手を繋ぐと、オキソシンが分泌されて、心が落ち着くのよ? 知ってた? 知らなかったでしょ?」 「うん、知らなかったよ。ちゃんと謝る言葉を考えておきなよ?」 「うん」  彼女はそう涙声で答える。  巡は我の強い奴で、自分が一度こうと決めたらそれを貫き通す。それが良い方に働くこともあるし、悪い方に働くこともある。融通の利かない性格なのだ。故に、彼女は自分のルールを破った自分自身に、とても腹を立てていた。  それは、高貴からしてみれば不思議な事だった。人間は自分のルールを持って生きているが、それによって号泣するなんて聞いたこともない。皆ルールは持っているのだけど、大抵の場合、どこかで妥協してしまって、月日の経過と共に、ルールは更新されていくのだ。  高貴もその一人だった。しかし、それは彼が特別意志薄弱だからという訳ではない。つまるところ、成長とはつまり「ルールの更新」なのである。  巡の更新が止まっているのは、彼女が今のルールに過剰に固執しているからなのか、それとも、彼女は精神的に成熟しきっていて、これ以上の成長は望めないのか。それは分からない。  だが、一つわかることがある。それは、巡は信用の置ける人間である、ということだ。  新聞部は部活棟の二階に存在する。印刷室の隣にあるので、ここには生徒よりも教師のほうがよく行き来する。原則、出入口の窓は見えるようにしておくのが約束だが、新聞部は写真の現像も行っているので、活動中は暗幕を許可されている。よって、中の様子が分からなかった。 「巡、なんて謝るか決めたか?」 「う、うん。……多分、大丈夫だと思う。私だったら許さないだろうけど……」  と、再び彼女は弱気な発言をする。  やれやれ、と高貴は肩をすくめた。いつもはあんなに偉そうなのに、今の巡は衰弱状態のウサギみたいに弱々しい。デコピン一発で死んでしまいそうだ。他人に謝る、という行為は彼女にとって、それほど特別なことなのだろう。  高貴が扉に手を掛けた時だった。まだ力も入れていないのに、扉が勝手に開く。彼は一歩後退した。扉の向こうには、何名かの新聞部員が各々バッグを引っさげて立っていた。その光景は、勇んでエレベーターに乗ろうとしたのに、意外にも乗客が多かったときとよく似ていた。  彼らは高貴と、特に巡を気味悪そうに見て、さっさとその場を立ち去った。後から出てきた文月が「ちょっと待つっス!」と呼びかけるが、誰も取り合おうとはしない。彼らはこの後、どこへ行って遊ぶかを楽しそうに話し合いながら、部室棟から出て行った。  新聞部の部室に戻ってきた文月は、高貴と巡の姿を見つけると、きまり悪そうな顔をして、「……何か用っスか?」と、部室の中へ入ることを勧めながら言った。高貴と巡は彼女に差し出された椅子に腰掛けて、部室の中を見回す。  その場所は、ただ新聞を作る、というだけには使われていないようだった。大きな円卓には食べ終わったスナック菓子の袋や、散らかされたトランプがそのままになっていた。机の一部はジュースが乾燥したせいで、べとべとしている。しかし、印刷機はピカピカに磨かれていたし、新聞を書くためのスペースだろう作業机は整然としている。それはまるで、気の合わない相手とすることになったルームシェアリングみたいに、不恰好な部屋だった。  高貴たちの視線に気付いた文月は、余裕ぶって肩をすくめると「三年生が受験で引退してから、新聞部はいつもこんな感じっス。私が力不足だから、皆付いて来てくれないんス」  笑ってくれっス。と、文月は苦笑する。  これは文月に問題があるのではなく、他の部員に問題があるのだと高貴は思った。いや、そんな事は文月にだって分かっているだろう。ただ、彼女は自分の努力だけではどうしようもないって事を、認めたくないだけなのである。  他人の心と言うのは、自分がどんなに強く働きかけたってどうしようもないのだ。  彼女は悔しそうに唇を結ぶと「……こんなんじゃダメなんスけどね」と、自分の頭を掻く。本当は愚痴の一つも言いたいのだろう。だが、もしも自分がこの部活を見放してしまったら、それは記者になるという夢自体を手放すのと同じ気がして、割り切れずにいるのだ。  高貴も、よっぽど「君は悪くないよ」と言ってやろうかと思った。君はよく頑張ってるよ。周りの人が悪いんだよ。でも、そんな気休めを述べたって、この新聞部がなにか変わるわけではない。真面目に記事を書く気も無い奴らに、遊び場代わりに使われるのがオチなのである。  少し前の自分だったら、迷わず文月を擁護したと思う。でも、今の自分には無理だ。高貴も「成長」してしまったのである。 「あんたはなんも悪くないじゃない」  そう、巡がきっぱりと言ったので、高貴は反射的に横を向いた。どうして彼女はこんなにも簡単に言ってしまえるんだ。何も考えていないのか、それとも、十分考えた末にその発言に至ったのか。  巡は、椅子に腰掛ける文月の元まで行くと、彼女の手を包むように握った。 「私のいた大学にも、やっぱりそういう輩はいたわ。頑張ってるこっちからしたら本当に邪魔よね!」 「でも、そんな酷い事は言えないっス。同志っスから」 「同志? あんた本当にそれでいいの? 自分の志とあいつらの志を同じにしちゃって。言っておくけどね、それは宝石をドブに投げ込むような、もったいない行為なのよ」  巡は夢とか志とか、そういう事には異常に執着しているから、その言語にも自然に熱がこもった。一方、高貴は、自分がにやにやと笑っていることを悟られないようにするので必死だった。つまり、彼の言いたいことはこの一言だったのである。巡、もっと言ってやれ。  文月は巡があまりにも真剣に語っていたので、すっかり毒気を抜かれてしまい、戸惑いながらも頷いていた。きっと彼女の心にも刺さる言葉だったのだろう。巡は、皆が溜め込んでいた疑問・不満を代弁するかのように――そう、彼女はまるで自分が絶対的な正義であるかのように言い放つ。 「あんなのさっさと閉め出しちゃいなさい。それが貴方のためでもあり、部活のためでもあるわ。もしも一人で新聞を作るのが厳しいなら私たちが手伝うわよ。ね? 高貴」  突然話を振られたので、高貴は反射的に頷いた。巡は満足気に笑う。どうやら自分のいいたいことを一通り言ったことで、気を良くしたらしい。  まくし立てられた文月は、巡の言葉を十分理解したようだった。あれだけ長い話を訊き返すことなくそのまま受け入れたという事は、やはり彼女は心の何処かで同じようなことを考えていたのだろう。  文月は不安気に 「……本当に手伝ってくれるんっスか?」  と、高貴に訊いてくる。彼は一度巡の方を見た。きっと巡は、助手が一人増える程度の認識しか持っていないのだろう。この事件は秘密厳守と言ったはずなのに、その張本人が率先して破っているのでは苦労ない。  この冬休み、高貴の個人的な予定といえば、天体観測の他にはなにも無い。巡の研究を手伝うという約束で今は動いているが、その巡から新聞部を手伝えと言われたのだ。断る理由は何も無い。 「微々たる力でよければ、出来ることはするよ」  高貴たちは会議用の大きな机に向かい合うようにして座った。巡は上機嫌だったし、文月はこれから語られる現状報告を心待ちにしているようだった。だが高貴は浮かない表情だ。  彼は文月を巻き込むことに対して疑問を捨てきれなかったのである。彼女の新聞の手伝いをするのは構わない。だが、まだあの円盤がどういう物なのかわからない以上、一般人である文月を巻き込むのは危険な気がしたのだ。  それを言ったら、高貴も同じ立場なのだが。  でも、最終決定権は巡が握っている。自分が助手という立場にいる以上、彼女の決定に対し強く意見することは出来ない。それに、例え意見したとしても、頑固な巡が決定を覆すとは思えなかった。 「高貴、今までの経緯を説明してあげて。彼女もチームメートなんだから、情報は共有するべきだわ」  高貴は説明に取り掛かる前に、一応巡に「本当にいいんだな? 文月を敵視してるわけじゃないが、相手は記者の端くれだぜ?」と耳打ちした。すると巡は「どうせ新聞を書く頃には事態は収束しているわ。何も分からなかったのならば、この件はもみ消されてあの円盤もどこかの地下に保存されるだろうし」と言った。  巡が恐れているのは、この円盤によって国民がパニックを起こす。という点であり、彼女はただの独占欲から円盤の存在を隠しておきたいだけではないのである。だから、例え文月が記事を完成させ、極論、それが新聞の一面を飾ろうとも、終わった後の出来事ならば全く無問題だというのだ。  この円盤の事件が終わったら、か。高貴は巡に視線を移す。この冬休みが終わったら、巡は自分の場所へ戻り、文月とも疎遠になってしまうのだろう。そう考えると、まだ時間はあるというのに、寂しい気持ちになってしまう。  巡に促され、高貴は経緯をしゃべり始めた。  円盤が小河内ダム近くの不法投棄現場に出現したこと、その捜査を巡が警察から委託されたこと。聞く文月の眼は、それこそ銀河を二三個詰め込んだのではないかと思うほど輝いていて、なにも負い目はないのだが、高貴はその無垢な視線に煙たさを感じてしまう。 「僕たちが分かっている事はこれくらいだよ。言ってしまえば、捜査はほとんど進展していない。とも取れる」  巡が不満げに「まだ本格的な調査をしてないんだから仕方ないわ」と、自分たちの無力を隠蔽するかのように言葉を重ねた。  文月はワナワナと震えると、高貴と巡の手を掴んで「こんな面白い事に巻き込まれていたんスね!」と、感極まった様子だ。面白い事と言う言葉は、ある意味不謹慎な気がした。巡のことだ、きっと「これは遊びじゃないんだからね!」と言い返すのだと思ったが、彼女は仏頂面のまま、沈黙を貫いた。  面白い事。  それは、高貴も抱いていた思いだった。きっと巡だって持っていると思う。  謎の円盤が落ちてくる。それの単独捜査を任されている。これが面白くないはずがないではないか。シャーロック・ホームズばりの謎解きで事件を解決すれば、一躍ヒーローだ。  しかし、現実はそう上手く行かない。捜査は難航し、ろくな手がかりも得られないまま行き詰まっている。新たな手がかりが見つかる宛てのない今、天命を待つくらいしかやることがない。  高貴は、文月の姿を、捜査を始めた頃の自分たちに重ねてしまい、まぶしそうに眼を細めた。 「じゃあ今は何を調べているんスか?」  と、文月に訊かれてしまい、二人は返す言葉を無くしてしまった。文月が気まずそうな顔をしたので、巡が慌てて「次は円盤が刺さった崖の地質を調べることになると思うわ」と返答したが、文月はもう大体の現状を察してしまったようだった。それでも、彼女はそれを責めるとも馬鹿にするでもなく、「じゃあ私たちも実際に円盤を見れるんスね!」と拍手する。 「円盤の近くは関係者以外立ち入り禁止になってると思うから、私しか入れないと思う」  文月は肩を落とした。 「ま、まあ常識的に考えれば、そうなりまスよね……」  彼女は熱心に書いていたメモ帳からペン先を離した。そして「推理映画みたいにすらすらと行かないもんスね」と、猫のようにぐっと背伸びする。彼女の身体は驚くほど伸びた。  高貴は薄々、この事件はここが終点なのではないかと思い始めていた。もうこれ以上の『ヒント』は与えられず、後は警察に提出するための当たり障りの無い調査を進めて、結局この円盤を悪戯として報告する。そんなあまりにもお粗末な結末が、もうそこまで這って来ている気がした。  こんな面白い事に巻き込まれているというのに、自分は何も出来ない。それが歯がゆさとなって、高貴を苛立たせた。だが、彼は生来自分の苛立ちを他人に向けて発信するタイプではなかったので、誰も高貴の変化に気付くことはなかった。  ふと、あることを思い出した。  彼は文月に視線を向けると「そういえば狭間さんは宇宙人がいる証拠を手に入れた、とか言ってなかったっけ?」  文月は手を打つと「すっかり忘れてたっス」と言って、バッグの中からノートパソコンを取り出し始める。巡は肩を竦めると「どうせ胡散臭いUFO写真かなんかでしょ。今更見るまでもない」と言った。 「UFOの映像とは全く違いまスよ。実は私もこれが何の映像で、誰によって何の目的で撮られた物なのか分からないっス。あるハッカーが個人所有のパソコンからこのデータを盗み、それを動画サイトのアップしたのですが……」 「そういう『曰く』はいいからさっさと見せなさいよ」  見るまでもないと言ったくせに、巡はパソコンの真ん前に陣取って、やや前かがみになっていた。  横から文月が操作する。パソコンのトップ画面にはいくつものフォルダが存在し、件の動画は「奥多摩・ウッズ・モンスター」と題されていた。高貴が「奥多摩・ウッズ・モンスター?」と首を傾げる。巡が「『フラットウッズ・モンスター』の奥多摩湖バージョンってわけね」と、呆れ気味に言う。 「やっぱりよく知ってるっスね坂田先生は」  巡は高貴に説明した。  フラットウッズ・モンスター。別名十フィートモンスター。ウェストヴァージニア州のフラット湖で目撃された体長三メートルの大型エイリアン。光る瞳と赤い皮膚が特徴で、多くの目撃者を生んだ。 「……じゃあそのエイリアンが奥多摩湖にも現れたって言うのか?」  奥多摩湖は、小河内ダムによって堰き止められている湖だ。この奥多摩・ウッズ・モンスターの発生と金属円盤の出現が無関係であるとは言い難い。  巡もその事に気付いたのか、真剣な表情で動画が読み込まれるのを待っていた。これこそが、待ちに待った天命だ。そう高貴と巡は感ぜずにはいられなかった。  パソコンに真っ暗なウィンドウが出現すると、ハエが飛び回っているかのような音がする。何度か画面が光った後、そこにコンクリートを打ち付けただけの個室が映しだされた。中央にはコンクリート柱が立っていて、窓は奥にひとつだけ。床には壁の欠片やアスファルト詰めの袋などが転がっていて、建てたばかりのマンションみたいだ。  窓からは夕日が差し込んでいる。時間にしたら午後五時くらいか。  それから三分くらいは何の変哲もない部屋をカメラは映し続けた。怒りっぽい巡の事だから、そろそろ文句を言い出すだろうと高貴は思ったのだが、彼女は口を真一文字に結んだまま、画面を凝視していた。  やがて、足音が聞こえてきた。何かを引きずるような音と、……長靴の音? ゴム質の靴であるのは確かだ。  画面が一度暗転した。そしてつぎ点灯したときには、何もなかったコンクリート柱に、人形(ひとがた)の何かがもたれかかっていた。体長ニメートルを越す大男。髪の毛はなく、全身は真っ赤だった。酢酸カーミンにじっくり漬けられたみたいだ。  皮膚は腫れぼったくなっている。高貴は、ウルシにかぶれた時の事を思い出した。 「……まるでモルモットね」  巡が呟いた。 「試験ネズミの変化を見やすくするために、皮膚を赤く染めるって聞いたことがある」 「試験ネズミって言ったって、これはどう見ても人だぞ?」 「科学者の中にはね、人類の進歩に犠牲はつきものだって本気で考える人間はいくらでもいるのよ」  巡はそう冷たく言い放った。それは、悪寒を感じてしまうほどだった。  画面に変化が訪れる。  中央に写る大男の腕が、少し動いた。彼は立ち上がろうと試みるが、下半身が一切動かない。大男は、何かを訴えるように口を開くが、それも声にはならなかった。ただ、ヒューヒュ―と風が喉を通り抜ける音だけが聞こえている。一度暗転すると、その声はもう聞こえなくなっていた。 「声帯を切り取られてるわね」  巡のコメントは、どこまでも人間味を欠いていた。  やがて、大男は自分の手で顔を覆うと、杏仁豆腐みたいに白い眼を指の隙間から見せた。その眼は、間違いなくカメラに向けられている。いや、カメラのさらに奥。彼を見る全ての人間に、憎悪や殺意を向けている。  やがて、大男は暴れるのを止め、静かに動きを止めた。  力なく投げ出された両手が、生命の終わりを物語る。 「これで終わりか?」  高貴が文月に訊いた。それは確認という意味もあったし、願望という意味もあった。少し一人になりたい。このどうしようもない気持ち悪さを、冷たい空気で癒したい。だが、文月は静かに首を振る。  カメラが留まる直前、何かの音が聞こえた。それは、一秒か二秒程度だったと思う。携帯の着信音だろうか。  そして画面は本当の意味で暗転した。  少しの間、沈黙が新聞部の部室を支配した。なぜか、誰も喋ろうとはしなかった。皆、あの男から沸き立つ負の感情に圧倒されていたのだ。酷く後味の悪い映像だった。これが円盤の情報に役立つのか、高貴には判じかねた。だから巡に意見を仰ごうと視線を送ったのだが、彼女は三人の中で一番青ざめた表情で、じっと俯いていた。 「巡、大丈夫か?」  高貴が巡の肩を突っつくと、彼女はその手を振り払った。かなり乱暴だったので、高貴は赤くなった自分の手を抑える。我を取り戻した巡は、一瞬申し訳なさそうな表情を浮かべるが、次の瞬間には毅然とした態度を取り戻し、「コーヒー飲んでくる」と残して部屋を出て行った。  文月が心配そうに、「やっぱりショッキングな映像だったからでしょうか?」と不安げな表情を浮かべる。高貴は苦笑しながら「巡はあれくらいじゃへばらないよ」と返すと、文月は首を振った。 「高貴さんは巡ちゃんの事をもっとよく見るべきだと思うっス」 「え?」 「巡ちゃんは確かに強い女の子だと思うっス。でも、やせ我慢してる時も多いと思うっス」  文月に諭された事に、高貴は意固地になって「どうして僕がそんな事まで気を使わなきゃならないんだ。助手だからか?」と、眉をひそめる。すると文月は「助手とか、そういう事関係なく、それは高貴さんしか出来ないことだと自分は思うっス」  自分にしか出来ないこと……。  高貴は文月の言葉の意味が、まだよく分からなかった。でも、もし巡が傷ついているのなら助けたい。それは真意だった。 「ちょっと心配だから見てくるよ」  高貴が立ち上がると、新聞部の部室から出た。  中庭に巡の姿があった。  中庭には、一本の桜の木が植えられており、今は葉も付いていない。それが何の木なのかは、きっとこの学校に在籍していないと分からないだろう。巡は、その木の根本のベンチに座っていた。  高貴が巡の隣に座ると、彼女は高貴の気を悪くしない程度に距離をとって、コーヒーをぐびぐびと飲んだ。缶口から立ち上る湯気が、空気に解ける。  お互い何も話すことはなかった。いつも感じていた居心地の良い沈黙とは別の種類の静けさだ。お互い、何かを言い出したいのだけど、何も言えない。そんなもどかしさがあった。  空はどんよりと曇っていた。冬の天気は大体こんな感じだ。雪が降るでもなし、雨が降るでもなし、曇り。時間の感覚がよく分からなくなるが、今の時刻はもう四時過ぎだろう。間もなく下校時間だ。このまま何も話さず終わってしまうのだろうか、高貴は不安になった。何か話さなくては、そんな義務感に駆られて、話題になるような物を捜すが、あの映像が頭から離れなかった。  ――奥多摩・ウッズ・モンスター。  真っ赤な怪物。その実は、人体実験の犠牲者? 「……この木、ソメイヨシノ?」  高貴は顔を上げる。巡は、まるでコーヒー缶から立ち上る湯気を目で追うみたいに、視線を空に投げていた。彼女が見ているものが、樹の枝であることに、少し経ってから気付いた。 「ああ。……よく品種まで分かったな」 「桜だって言うのは樹皮から判断できたんだけどね、品種は半分勘かな」  巡は桜の木を見上げている。その瞳からは何の感情も読み取ることが出来なかった。  高貴も、巡に倣って桜の木を観察した。花も葉もない桜の木を、こんなにも見つめたことは初めてだ。 「……ソメイヨシノは一斉に枯れるって話、聞いたことある?」  高貴は頷いた。  ソメイヨシノは品種改良されて生み出された一本の桜がその種の起源だ。以降、接木する形で増やされている。つまり、このソメイヨシノも、川原に埋められているソメイヨシノも、全員が分身ということになるのだ。  だから、一本ソメイヨシノが枯れれば、全てのソメイヨシノが枯れる。俗説であり、確証はないが、ただの都市伝説だとは言えない信憑性がある。 「私はそっちの学問に関しちゃ門外漢でよく分からないんだけどね。きっと、一斉に枯れるって言うのは、良いことなんだと思う」 「良いこと?」  高貴には巡の言わんとすることが理解できなかった。  桜の木が一斉に枯れるのが、どうして良いことなのだろう。巡にとって、それが好都合になる『何か』があるのだろうか。 「人間にとってどうってわけじゃないのよ。ほら、動物園にもいたじゃない。一匹だけ生き残った亀の話」 「……話が飛躍しててよく分からないけど……。亀の話って?」 「確か、『四十年の孤独』ってタイトルの新聞記事だったと思う。サンタクルス島に飼育されてるゾウガメのジョージって言うのが、その種の最後のオスなの。だから、子孫を増やすことが出来ない。仲間がいないまま一人ぼっちで四十年も生き続けてる」  記憶が曖昧の癖に、細かいところだけは緻密だ。  巡はその亀の事を本気で憂いているようだった。話口に、感情的な部分が見受けられる。巡は何事も客観的に物事を見ていて、あまりこう言ったことに主観を混ぜないと考えていたのだが、どうやら、そのジョージに感情移入しているようだった。亀に心を移すとは、器用な事をする奴だ。 「私はさ、こう見えても寂しがり屋だから――なによその顔!」 「いや、寂しがり屋って言う割に、一人になりたがるよな、お前」 「考える時は一人になりたいの! つべこべ言うんじゃない!」  寂しがり屋なんて言うんじゃなかった! と、巡はそっぽを向く。高貴は少しだけ笑うと、亀の話の続きをするよう急かした。 「話が脱線したわね。つまり私が言いたいのは〜、誰だって一人は嫌って事。それだけ!」  彼女は勢い良く立ち上がると、まるで怒っているみたいに大股になって、校舎の中へ戻っていった。ソメイヨシノの話、ゾウガメの話、結局言いたかったのは、『私を一人にしないで』って事なのだろうか?  高貴はもう一度、ソメイヨシノに視線をやった。風によって枝を揺らしている。まるで寒さに凍えているみたいだった。それとも、孤独で震えているのだろうか。  新聞部前に戻ると、文月は帰りの準備を終えていた。部室の鍵は閉められ、彼女はプラスチックの鞄を両手で持っている。  文月は巡に何かを熱心に説明していた。 「あの奥多摩・ウッズ・モンスターはエイリアンだと思うっス! だって、身長はあんなにも大きかったし、動きが人とは思えなかったじゃないっスか? 宇宙人の解剖映像が時一期世間を騒がせたでしょ、あれと同じ類の物っス」 「……そこら辺はまだなんとも言えないけど……、もしも賭けるとするなら、私は『悪戯映像』にオールインするわ」  文月は憤慨して 「あんなにリアルな映像が悪戯なはずないっス! ね? 高貴さん」  突然話題を振られ、高貴はたじろいだ。  確かに、あの映像は悪戯というのは物々しすぎた。映画はよく見るが、あの映像には作り物には出せない切迫感のような物が含まれていた。ヒッチコック映画と似た成分、それの、毒をもっと強くした物。  文月の意見など歯牙にも掛けず、巡は文月の手からディスクを奪い取る。どうやら、あの映像をDVDに焼いたみたいだ。 「貴方がどんな感想を持とうが私には知ったこっちゃ無いけど、助手を誘惑するのはやめてほしいものだわ。眼が曇るから」  巡は、そう自分のいいたいことだけを言うと、踵を返した。そして、まだぼーっとなったままの高貴を、つま先で蹴って意識を覚醒させると、天文学部の部室に向かって歩き始める。もう下校時間は間近だった。 「今にNASAやJAXAが宇宙人の存在を認めるっス!」  文月がこちらに向かって吠えていたが、巡は気持ちいいくらいすっきり無視した。  巡と文月の見解が割れている。それも、徹頭徹尾一貫して。  文月は宇宙人がいると信じているし、巡は宇宙人が地球上にいないと信じている。二人の主張は平行線であり、おそらく和解の道は無いだろう。チームとしてやっていくと言ったくせに、なんと息の合わないメンツだろうか。水と油じゃないか。  地学室まで着いたとき、巡が高貴に訊いた。 「あんたの家って門限ある?」 「明言されたことはないけど、十時くらいに帰れれば大丈夫だよ」 「じゃあ十時まで学校にいなさい」  突然の提案に、高貴は眼を白黒させた。 「十時って……。最終下校はそれよりも五時間以上も早い四時半だよ?」 「先生権限でなんとかするわ」  そういえば、一応巡は先生なんだっけ……。  でも、いくら巡が先生とは言え、そんな夜遅くまで実験を手伝えるほど、高貴は無茶ではない。第一、十時に学校をでたら、テレポーテーションでもしない限り家に着くのはそれ以降になってしまうではないか。  そう考えているうちに、最終下校の鐘が鳴った。あと三十分もすれば、学校の全体の鍵が閉められ、巡の持つ教員用の特別な鍵がなければ、学校から出ることができなくなってしまう。  高貴は恐る恐る尋ねた。 「十時までなにする気なんだ?」 「もちろん、このDVDの調査よ」  巡がそう、悪びれる様子もなくしれっと言ってのけたので、高貴は身を乗り出して 「悪戯じゃないのか?」 「……私もそう思いたいけど、これは無視できない映像だわ」  お前は文月に向かって偽物だって――。そう高貴が言いかけたので、巡は右手で高貴の言葉を遮った。 「この映像では、人が死んでる。それは分かってる?」  認めたくない事実だったが、認めないわけには行かない。この映像に映る男は、九分九厘絶命した。カメラの前で、正真正銘生き絶えたのだ。自分以外の全ての人間を恨むような思いを抱いて。 「じゃあそれを調べる私たちも、かなりの危険が伴う。それも分かるわよね?」  高貴は手を打った。やっと巡の考えがわかった。 「文月さんには悪いけど、ここから先は一般の人が立ち入るには危険過ぎるわ。この映像の撮影者を警察に突き出した暁には、ことの顛末を詳らかにしようと思う。それでいい?」  それでいいもなにも……。高貴は自分の見識の狭さを反省した。文月に嘘を吐くのは、まるで手柄を横取りしているみたいで釈然としない。そう考えたが、巡の言うとおり、このビデオをこれ以上調べるということは、失敗が死に直結する可能性がある、ということだ。  文月を命の危険に曝すことはできない。  高貴は頷くと 「このDVDを警察に持って行って調べてもらう、ってことは出来ないか?」 「信じてくれないわよ。それに、この映像はハッカーが他人のパソコンから奪った物だっていうじゃない。下手したら私たちが逮捕されるわ」  じゃあ、本当に僕達二人で解決するしか道はないのか。高貴は頭を掻く。円盤の謎の解明、それが巡、ひいては高貴に与えられた任務のはずだった。このDVDの映像がどれだけの意味を持つのか分からないが、ちょっと逸脱しすぎじゃないか?  自分の身が危険に曝されるのはまだ良い。でも、巡の身に何かあったら……。坂田博士に殺される……。 「どうしたのよ青い顔して。まさかビビったの?」  だらしないわね! と、巡が高貴の背中をばしっと叩いた。  当然のことながら、高貴が怯えているのはその事とは別だった。  巡が地学準備室にプロジェクターを用意している間に、教職員の放送が二回掛かった。一度目は、事務員が校舎を回っているってことと、二度目は学校の鍵をこれからロックする事だった。放送が入るたびに、高貴は、まるで自分が説教されているかのような気持ちになったのだが、巡は持ち前の図太い精神力で、放送に対して「うっさいわね」と文句を垂れた。 「巡、いくら先生でもこんな時間まで残ってたら責任問題が……」 「私の通ってた学校には仮眠室があったわよ」 「それは大学だろ!? ここは高校だ!」 「吠えてる暇あったら暗幕をしっかり閉めなさい。それと、灯りが漏れないようにガムテープで裾をしっかりと止めるのよ」 「手際の良さが怖いよ……」  高貴は巡からガムテープを渡された。  それを使って光が外に漏れないようしっかりと暗幕を固定した。これだけ密閉すれば、この地学準備室に人が残っているとは思わないだろう。巡はプロジェクターの映像がしっかりとスクリーンに映ることを確認すると、文月から貰ったDVDをセットした。 「ところで、このDVDで何を調べるんだ?」 「そうね。撮られた日時、場所は特定したいわね」  そういえば、なんでここが奥多摩だと分かったのだろう。 「文月が言うにはもともとのフォルダのタイトルが奥多摩・ウッズ・モンスターらしかったんだけど、……今はそれを信じるしかないわね」  巡は部屋の電気を小さくした。部屋が暗くなるに連れて、プロジェクターの映像が鮮明なものになる。これからあの映像を大画面で見なくてはいけないのかと考えると、気が滅入った。  巡はプロジェクターが置かれる机に腰掛け、高貴は背もたれのない木の椅子に座り、巡の座る机に肘を置いた。巡は今さっき印刷してきた奥多摩湖周辺の地図を膝に広げている。 「……でも、この映像を多くの人が解析しようとしたんだろ。僕達二人だけで、詳しい場所まで見つけることは出来るのか?」 「何人挑もうが関係ないわよ。そんな考えで研究してたら、フェルマーの最終定理だって解かれることはなかった」 「そもそも、答えがあるかも定かではないわけだ」 「こんだけ長い映像撮ってんだから、当然のように答えはある。それに、気になる点もあるわ」  巡の断言がとても心強かった。だが、それは同時に、彼女をより危険な場所へ導く結果を生むような気がして、この心強さが果たして正しいものなのかは分からなかった。  巡は少しだけテープを早送りすると、一回目の暗転の少し前、何かを引きずる音と、ゴム靴の音の所でテープを一時停止した。 「何に聞こえる?」 「……映画みたいな話だが、防護服に身を包んだ人間が、あの大きい男を引きずっている、そんな映像が浮かぶ」 「多くの人はそう考えると思うんだけど、多分それは間違ってるわ。だってゴム靴の音が一つしかしないでしょ? あの試験体は体長がニメートル以上あった。それを防護服なんて動きづらいものを着用したまま一人で運んでくることは難しいわ」 「じゃあ別の物を持ってきている。そう言いたいのか?」 「う〜ん。……ちょっと待って」  巡はもう一度同じところを流すと、眼を閉じて耳を澄ませる。青白い光に照らされた彼女の顔は、まるで聖母の彫像みたいだった。目鼻立ちが日本人とは思えないほどくっきりとしていて、朝露が滴るのではないかと思うほど、長いまつげを湛えている。 「これって重い扉が開く音じゃないかしら」 「え?」  巡に見惚れていた高貴は、彼女の言わんとすることが分からなかった。そして慌てて我を取り戻し、あの音の原因究明が現在の議題であることを思い出した。 「あれだけ大きな試験体を持ち込むことは難しいわ。だから逆に、この会場がラボ、もしくはそこへ通じる秘密の入口なんじゃないかって思ったの」 「じゃあこの場所が分かれば……研究所の場所も分かる、そう言いたいのか?」 「確証はないけどね。もうちょっと先に進めてみましょう」  スクリーンには、一度目の暗転を終えた後が映しだされた。真っ赤な大男。奥多摩・ウッズ・モンスター。先程は生理的嫌悪感からその姿をじっくりと観察することが出来なかったが、今ならしっかり見ることが出来る。  鉱夫が履くような青のブルージーンズに、ベルトは無し、上半身は何も着衣しておらず、筋肉の付き方はかなり良い。身体の至る所に切り傷と縫合の後がある。でも、その縫合と言うのはかなりお粗末な作業だったようだ。まるで子供の作ったテディベアのように、縫い目が不規則である。  人間が一人死んでいる。  そんな衝撃的な映像を、こんなにもじっくりと、そして冷静に観察していると言うのは、少し前の自分からしたら考えられないことだった。一週間前の自分ならば、それは非人道的な行為だと非難したことだろう。だが、今必要なのは『科学者の眼』であり、この犠牲者を「可哀想だ」と嘆き切り捨てるよりも、結果的に救うことになるのだと高貴は信じていた。 「ふむ。この手術痕、どう見る?」  巡が一時停止ボタンを押すと、高貴に訊いた。  手術痕は、左胸に一箇所、へその下に一箇所、それに乳首よりも少し外側に一箇所ずつ、喉にも一箇所あった。人体実験なんてしたことがないから、どう見ると言われても返答に困るが、「器官を集中的に調べてる?」と高貴は言った。 「多分そうでしょうね。ということは、さらに発展させて考えてみるとその実験は身体の器官に影響を及ぼす物だった。そういう事になるわね。でもそれじゃあカメラで変化を撮っているって行為に矛盾しない?」 「確かに。毒薬などによって内部で変化が起こってるんじゃ、動画で外を撮ったって意味ないはずだよな」  血を吐いたり、白目を剥いたりする映像が欲しかったと言うことか? じゃあこの動画は、テロなどに使うウィルスの実験映像なのだろうか。ますます大変じゃないか。早く警察に知らせないと。 「まあ待ちなさい。実験をする場合、あらゆる角度から触っていくのはよくあることよ。それに、もしかしたらこの映像は記録よりも報告のために撮ったものかもしれないし」  もう少し動画を進めてみましょう。と、彼女は再生ボタンを押した。だが、この後に流れる映像といえば、奥多摩・ウッズ・モンスターが暴れる映像だけであり、他に変化はない。このシーンは日時、場所を特定するという目的の場合はそれほど重要ではないからか、巡も一時停止をすることなく終わった。一度観終えてから、巡は高貴に電気をつけさせた。 「奥多摩湖周辺でこういう撮影が出来る場所と言ったら……」  巡は印刷した奥多摩周辺の地図に、次々に丸をつけて行った。小河内ダムから十キロ圏内で、かつ廃ビル・廃病院などの大型施設。この条件に見合う物はそう多くない。高貴は 「これ全部を虱潰(しらみつぶ)しに探したら?」  と提案すると、巡は 「きっと同じこと考える人が沢山いるでしょうね。まだ見つかっていないって事は、この中に無いって事なんじゃないかしら?」 「逆にそう考えるか……」 「でも、とにかく先入観は持たないほうがいいわね」  巡は地図を見て、深く唸る。 「一つ、どうしても気になる点があるのよね。もう一度電気落として」  巡の指示通り電気を消すと、彼女は再び奥多摩・ウッズ・モンスターが暴れるシーンを放送した。一見すればただのスプラッター映像だが、彼女には違う物が見えているのだろうか。高貴は二見しても三見しても、同じスプラッター映像にしか見えなかった。  注目すればするほど、その映像はリアリティを持った。風が通り抜ける空虚な音は悲痛な叫び声に聞こえてきたし、粗い縫合の後からは血が滴っていた。ドドメ色の爪は地面を引っかき剥がれ、そこから新たに血が噴出し……。高貴は耐え切れなくなり目をそらす。  自分の心拍数が上がっていることを確認し、血の気が失せていくのを実感した。巡はなんの感情もない瞳で、スクリーンをじっと見ている。高貴には、どうして彼女がそのように冷静でいられるのか分からなかった。それはある種の腹立たしさに発展しかけていた。 「高貴、売店までコーヒー買いに行って」  巡はポケットから花柄の財布を取り出すと、顔も向けず、それを高貴に向かって放り投げる。高貴は慌ててキャッチした。 「ホットとコールド、小銭で買えるだけお願い」 「……でも、僕も見ていたほうが」 「助手なんだから私の言う事聞きなさい」  彼女は初めて高貴に視線を向けると、有無を言わさぬ口調でそういった。  高貴は渋々地学室を出て行った。  外はもう真っ暗だった。携帯電話で現在時刻を確認してみると、もう午後七時を回ろうとしていた。二時間以上も、自分たちはあの映像を見続けていたことになる。  巡の財布はファンシーな柄だった。白の生地に、赤や白や黄色のハイビスカスがプリントされている。金の留め具を外し中を覗いてみると、一万円札が十数枚入っていた。中学生が持つような額ではないのは明らかだ。それに、ドル札も入っていた。外国のお金を持つのは初めてだったので、高貴はじっくりとその大統領を観察する。  その時、お札の間から、一枚の写真がこぼれ落ちた。  高貴は慌ててそれを拾い上げる。ずいぶん古いものだ。カラー写真なのだが、色がくすんでいる。そこには、一人の女性と、女性に抱かれる一人の子供が写っていた。  女性は金髪でメガネを掛けている。白衣をまとっており、黒革の椅子に腰掛けていた。長いまつげや砂金のように美しい金髪。そして気の強そうな眼。一目で巡のお母さんだと分かった。この家系はどうやら白衣を普段着にする風習があるみたいだ。  じゃあこの小さい女の子は巡だろうか。今とは全く違う、毒気のない笑みを浮かべている。この子に羽が生えていたら、天使だと信じてしまう人もいるだろう。  そういえば、巡の両親の話を聞いたことがないな。人には立ち行ってはいけない領域と言うものが存在する。巡はこの年齢でひとり暮らししているから、他人には触れられたくない、のっぴきならない理由があるのだろうか。  彼女はデリケートな所があるから、あまり深く追求すべきではないのだろう。いつか話したくなったら勝手に話してくれるさ。もっとも、冬休みの間だけでそんな時が訪れるかは分からないが。  ホットとコールドのコーヒーを沢山買ってから、高貴はふと、巡はわざとこうしてコーヒーを買いに行かせたのではないか? と思った。自分が辛そうにしていたから、休憩させるために。  いや、まさか、あいつにそんな思いやり深いところがあるわけない。きっと、「助手なんだからこき使っちゃえ☆」って考えの元の行動だろう。高貴はコーヒー缶を両手に抱えると、階段を登り始めた。 「遅い!」  地学室の電気は点けられ、巡が机の上に仁王立ちしている。いつも見下ろしている立場だったので、こうして巡に見下ろされると居心地の悪さを覚えてしまう。 「一体どこまでコーヒー買いに行ってたわけ? てっきりブラジルまで行ってコーヒー豆を輸入してきたのかと思ったわ」 「僕にだって色々と一人で考えたい時があるんだよ」 「じゃあ場所・日時のどちらかを特定できたわけ?」  高貴は持っていたコーヒー缶を一本一本机の上に並べ、最後に、巡からあずかっていた財布を返した。 「時間は四時半の少し前、だな」 「そんな事は小学生でも分かるわよ! 重要なのは日にち」  窓の外を見る限り、秋か夏、それくらいだろう。でも紅葉していなかったから夏や春の可能性も捨てきれない。 「……はぁ……もういいわ……」  巡は買ってきたコーヒーをグビグビと音を立てて飲み干した。それはもう気持ちいくら位の飲みっぷり。即CMに起用できそうなほどだった。高貴は自分の分のコーヒーを買ってこなかったことを強く後悔した。  これだけたくさんあるのなら、一つくらいくれてもいいのではないか。普通なら一本くらい分け与えてくれるだろう。そんな一縷の望みにすがり、巡に視線で訴えると、彼女は首を振った。 「世の中弱肉強食なのよ」  そういうと思った。  彼女は、もはや脳に直接カフェインを注射したほうが早いのではないかという勢いでコーヒーを三缶も飲むと、眼をギラギラさせながら、再びプロジェクターの電源をつけた。それは、電気を落とせという無言の合図だった。  高貴が電気を落とすと、彼女は再び暴れるシーンを流す。情操教育にこれほど悪影響を及ぼす仕打ちは他にあるまい。巡は2Bの鉛筆の尻を噛みながら、酷い目つきで映像を見ていた。 「……何か、何かヒントがあるはず……」  その鬼気迫る雰囲気は、最早警察に頼まれたから仕方なく捜査している、とは言い難い。この謎が解けなければ死んでしまう。そんな強迫観念に駆られているのではないかと心配してしまうほど、切迫した表情をしている。  助手として……というのはあまり関係なく、一、友人として、高貴は巡の事が心配で仕方なかった。彼女はろくに休みもせず映像を見続けているのだ。それも、神経をぴりぴりとさせながら。普通の人間ならとっくに限界が来てもおかしくない。 「巡、一旦切り上げないか?」 「……うっさい」  せっかくの気づかいも、彼女はこのようにして取り合おうとしない。高貴は呆れを通り越して、尊敬に近い念すら抱いていた。  何が巡をここまで駆り立てるのだろう。ただの好奇心? それにしては、あまりにも余裕がなさ過ぎるのではないか。  同じシーンを流し続けるということは、何か理由があるはずだ。  巡が五杯目のコーヒーを口につけたとき、彼女は猛然と立ち上がると、まるで産気づく妊婦みたいに、口を抑えながら地学室を出て行った。まさか巡の限ってそんなはずはない……と、真面目に考えそうになり、頭を振って考えを改める。高貴は慌てて巡の後を追った。  彼女はすぐに見つかった。なぜなら、地学室の流しで口を洗っていたからだ。吐いた後は見受けられなかった。だが、顔は真っ青だった。灯りのない地学室でも、巡の顔色が悪いことはよく分かった。 「巡?」  そりゃあ何時間もあんな映像を見続けていたら、普通はそうなる。むしろここまで耐えてきたのだから凄い。  巡はドボドボと音を立てて蛇口から溢れる水を、手で一掬いして、自分の顔に掛けた。ポケットに入っていたハンカチで丁寧に拭くと、ハンカチを口に当てたままこちらを向いた。 「高貴、少し休んでもいい? 結構疲れてたみたい……」 「そんな許可取らなくていいよ。むしろ、少しくらい休んでくれ。こっちが気が気じゃない」  巡は照れくさそうに笑うと、「一本、コーヒー飲んでもいいわよ」と言った。  地学準備室に積まれるダンボールの中には、坂田裕典博士がベトナムで買ってきた簡易ベッドがしまってある。向こうの言葉ではなんと言ったっけ、何か特別な言い方があったはずだ。  坂田博士に「どうしてわざわざ簡易ベッドなんて買ってくるんですか?」と尋ねたら、彼は得意げに「向こうではシエスタという『お昼寝』が一般的でね、公務員だって午後三時はお昼寝するんだ」と言っていた。それとこれとは全く別問題だと思ったが、その時は何も言い返せなかった。  巡はその簡易ベッドをてきぱきと組み立てると、ダンボールの奥地で一人眠りについた。高貴は白雪姫を思い出した。髪の毛は黒炭のように黒く――はないが、ダンボールがそれとなく小人っぽく見えた。 「……じゃあ見てみるか……」  高貴はコーヒーの蓋を開けると、再生ボタンを押した。  もう何度目だろうか、このシーンが映しだされるのは。  午後九時を回ろうとしていることに気付いたのは、巡がのっそりと起きてきた時の事だった。彼女はまるで、獲物を求めるオオサンショウウオみたいに緩慢な速度でこちらへやって来ると、自分の額に手を当てて、長い息を吐いた。 「……ごめん。へばって」 「そんなこと気にしてたのか?」  高貴は呆れた様子でそう言い返す。 「もっと頼ってくれてもいいだよ。チームなんだから」 「……次、機会があったらそうさせてもらうわ……」  巡はまだ納得して無さそうだった。彼女はまだ意地を捨てていないらしい。だがいつまでもこの問答を続けているわけには行かない。十時までもう時間がないのだ。無限にあるとまで思われた今回の研究時間は、既にカウントダウンを始めていた。 「なにか分かった?」 「分かったってわけじゃないけど、この場面、なにかおかしいと思わない?」  高貴は早送りして奥多摩・ウッズ・モンスターが叫び声をあげようとしているシーンの直前で止めた。心が麻痺しているのだろうか、もうこの映像を見ても可哀想だとも気持ち悪いとも思わなかった。  ヒューヒューと虚しい声を出す奥多摩・ウッズ・モンスター。一回目見たときは、その姿にだけ眼を取られていて分からなかったが、今なら分かる。 「この空気が切れる音って、この人が発している音じゃないと思う」 「……え?」 「だって、口の動きと音が合わないんだ」  巡はよく耳を澄ます。  高貴は緊張していた。これが自分の聴き違いであるという可能性もある。この状況から解放されたいがために、勝手に脳が創りだした幻聴。祈るような思いで巡を見ていた。  聞き終わると、彼女は 「確かにズレてる……ブレスの間隔とか」 「それに、声が聞こえ出してからすぐにカメラを止めてるだろ? これって最初にあったのと同じように『聴かれたくない音』が入ってしまったからカメラを止めたんじゃないか?」  聴かれたくない音。  これに気付けたのは、巡の最初の推理があってこそだ。高貴は長い繰り返しの中で、音だけに集中する試行、映像だけに集中する試行を分けて行っていたのだ。  だがこの事に気付いたところで、何も変わることはない。この音がなんなのか、どうして聴かれたくないのか、高貴には分からなかったのだから。  すると巡はポンと手を打った。 「この音って、サイレンの音に似てない?」  サイレンって、救急車とかが鳴らしている奴か。  街で度々見かける救急車の音を思い出す。確かに少し似ているが、もしこれがそれと同じ物だというのなら、一定というのはおかしい。ドップラー効果が全くないということではないか。救急車が近くで停まっているのか? 「違う違う。私が言いたいのは、この音ってダムの開放警告音じゃないか、ってことよ」 「開放警告音?」 「そう。小河内ダムは排砂のため、大雨があった後とかにダムの一部を解放するの、本当に極たまにだけどね。この音って、その警告音じゃないかしら」  巡は地学室に備え付けられているパソコンを操作すると、小河内ダムの警告音にサイレンが使われていることを調べた。 「やっぱりそうだわ! ダムの開放年月を調べれば、この映像が撮られた日に合致するものが必ず見つかるはず!」  でかした! と、巡が大興奮して高貴に抱きついた。  高貴はまだ信じられなかった。たったこれだけのことで時間が判明してしまったことに。 「でも、時間が分かったって場所がわからないんじゃ仕方なくないか?」 「そうでもないわ。サイレンの音が聞こえるってことは、小河内ダムの近くであるということが分かった。この音の大きさから、警告用のメガホンとの距離を逆算して……ここからは物理学の範囲だけどね」 「その計算は出来るのか?」 「知り合いの教授にその筋の人がいるから、音源の大きさ、地形、聞こえた音の大きさを言えば計算してもらえると思う。明日にはおおよその場所が判明するわ」  知り合いの教授ね。  高貴は苦笑いした。当然のように言っているが、普通の中学生は教授と個人的親交なんて持ってない。 「明日何曜日だっけ?」 「えーっと、金曜日だな」 「じゃあ明日の九時半にマンションの前に来なさい。昼ごはんは食べてくるのよ」  その時間に飯を食べたら朝ご飯になるだろ。 「……一応聞くが、明日はどうするつもりだ?」 「もちろん、奥多摩湖に行くわ。実際に場所を特定するの」  『当たり前』ではないときに『もちろん』を使うのは不適当だ。  もう大体の場所は特定したというし、それこそ、ここから先は警察の領分ではないか?  もしも本当に人体実験が行われていて、組織規模の犯罪に関わってしまったら……。 「警察を動かすには証拠が必要よ。それに、まだ人体実験と決まったわけじゃない」 「なあ。なんで僕達がここまでやらなきゃならないんだ? 僕達の目的はそもそも金属円盤の解析だろ? これ以上は本当に、出過ぎた捜査だと思うよ?」  巡は明らかに機嫌を損ねた様子で 「じゃあ目の前で行われてる犯罪を見過ごしてもいいわけ?」 「そういう意味じゃないのはお前もよく分かってるはずだろ? 僕は心配なんだよ。後に戻れない危険な場所まで、君が行ってしまいそうで」  巡はしばらくの間黙っていた。  十分考えてから、重い口を開く。 「高貴の言いたいことはよくわかる。でも、私は行くわ。例え一人でも」                      3 「……わかってねーから一人でいこうとするんだろうが……」  高貴は寝返りをうつと、抱きしめていた枕を部屋の壁に放り投げた。  巡と別れ、自分の家に帰ったのは午後十時半。さすがに怒られるだろうと思ったのだが、幸い、まだ父親は帰っておらず、母にやんわりと窘められるだけだった。  今日は特別疲れたから、すぐに眠りにつけるだろう。そう思ったのだが、目を閉じると、あの映像が瞼の裏に映写され、とても眠れる状態ではなかった。巡はもう眠っているだろうか? あいつの神経は鉛筆並に太いから、今頃、あの汚い部屋でぐーぐーいびきを立てているのだろう。  巡の事を考えると、ますます眠れなくなった。  自分は多分後悔しているのだ。巡に助言をしてしまったことを。  それは結果的に、彼女を危険にさらす事になってしまった。こんなことなら、なにも分からないふりをしていればよかったんだ。  もどかしい気持ちになり、高貴はベッドの上で体をよじらせる。  その時、ポケットに入っていた携帯電話を思い出し、何気なく取り出してみると、文月から電話が入っていることに気付いた。別れてすぐ後に電話を貰っていたらしい。全く気づかなかった。  高貴は時計に視線をやる。  文月のことだからきっと起きているだろう。それに、無性に誰かと話をしたい気分だった。リダイヤルすると、文月はすぐに出た。「はい!」と甲高い声で応答してきたので、高貴は反射的に耳から携帯電話を離す。音量を下げてから再び耳を近づけた。 「こんばんは高貴さん! どうかしたっスか? もちろん、どうもしていなくとも、電話をするのは好きなんでスけど」 「お、おう。電話もらったからかけ直したんだけど」  こいつは酒でも飲んでいるのだろうか? 「あはは。すっかり忘れてたっス。そうでしたそうでした。――えーっと、明日って何の日か分かります?」 「ああ。キリストの降誕祭前夜だろ?」 「一般の人はそれを『クリスマスイブ』って呼ぶんスよ。そして、一般の人は彼氏や彼女と一緒に過ごしてるのでスが、もちろん高貴さんにはそういう相手はいませんよね? 意外にも、私にもいないっス」  文月の彼氏になると、色々と大変そうだ。そう高貴は思った。 「だから、寂しい者同士、どこかへ行かないかなぁーって……」  高貴は頭を掻く。 「いや、明日は厳しい」  明日は巡と奥多摩まで捜査しに行かなければならないのだ。  だがこの件は文月には内緒だ。これは彼女の安全のためでもある。理由を聴かれたらどう答えようかと思ったが、彼女はあっさりと引き下がった。 「そ、そうっすか」  明らかに動揺している。  まさか断られるとは思っていなかったのだろう。高貴はそれがなんだか気の毒で、慌てて「でも、明後日なら暇だよ」と付け足した。 「明後日って、記憶が正しければ、クリスマス当日っスよ? そのー、なんというか、巡ちゃんと過ごさなくていいんでスか?」  電話は顔が見えないから、相手がどういう意図で質問してきているのか、測りづらい。  どうして僕が巡とクリスマスを過ごさなければならないんだ? 「いや、特に理由はないのでスが……」  変な奴だと、見えもしないのに首をかしげてしまった。  自分が文月の誘いに対して案外乗り気なのは、明日の探索に彼女を誘えなかった罪悪感が原因だ。全く意味合いは違うけど、こうして埋め合わせしようと考えているのである。 「文月さんはどこか行きたいところってある?」 「え? ええ? 本当に? えーっと、どこにしようかな……」  いつもの体育会系な喋り方ではなくなっていたので、普通にしゃべることもできるんだなと、高貴は思った。彼女は三人の兄を持つ末っ子で、その兄三人がそれぞれ、警察官、体育教師、自衛隊と男臭い職業についている。文月の男勝りな性格や体育会系な喋り方も、そこから影響を受けているらしい。 「ちょっと時間が欲しいっス! というか、こう言うのは高貴さんが決めるもんなんじゃないっすか!?」 「僕が決めると、松屋かすき家になっちゃうけど、それでもいいの?」 「やっぱり私が決めるっス! 明日の夜までにはかけ直すので、必ず出てくださいよ!」  文月は別れも言わず、ぶつっと電話を切った。  高々友達と遊びにいくってだけなのに、どうしてあそこまでテンションを上げることが出来るのだろう。よほど一人で過ごすのが嫌だったのだろうか。高貴はなんとなく、文月が選ぶ店を考えてみた。  ケーキ屋とか、そういう少女趣味なところは行かないだろう。……どこであれ、楽しいかどうかを左右するのは一緒に行く相手の部分であり、文月は、それに十分足るパートナーだった。  電話、ということであることを思い出した。坂田博士から、捜査の経過を報告しろと言われていたんだった。これも明日でいいだろう。思えば、自分は巡の電話番号もアドレスも知らなかった。もしも巡が突然どこかへ行ってしまったら、自分はもう、巡と話すことはできなくなってしまうんだ。  そう考えると、妙に寂しい気持ちになった。  こんな気持ちになったのは初めてだったので、どうしていいのか分からなくなってしまった。  この冬休みが終わったら、巡はどうするのだろう。やはりアメリカへ帰ってしまうのだろうか。彼女の財布には、外国の紙幣が入ったままになっていた。それは、彼女が近々日本を出て行くことを示唆しているように見えた。  冬休みが始まった頃は、自分はあの地学室で静かに星を見て過ごすものだと思っていた。何万キロも離れた惑星の地表に思いを馳せ、太陽のプロミネンスを観測し、月面の模様を記録する。そんな生活を送るものだとばかり思っていた。一年の頃と同じように。  別に、その過ごし方が駄目だと言っているわけじゃない。一人でいることは好きだし、新しい星をみつけられるかも知れないなんて思いながら望遠鏡を動かすのは、宝探ししている感覚を味わえる。  でも、今のこの生活を味わってしまったら、もうあの頃には戻れない。  例えるなら、自分は今、ずっと憧れていた星に降り立ち、その惑星構造を自分の足で探索している。そんな感じだ。この星へ連れていってくれたのは、間違いなく坂田巡だ。だから、自分は巡に対して一種の恩を感じているし、ゆえに、恩人を危険に曝したくないとも思う。  けれど、巡はそんな自分の気持ちを考えてくれないし、まるで火に飛び込む夏の虫みたいに、考えなしに渦中へ足を踏み入れようとしている。まるで自殺志願者みたいに。  高貴が起きたのは朝の九時だった。妙な考え事をしてしまったせいで夜更かしし、結果、寝坊することになってしまったのだ。彼は慌てて制服に着替えると、ネクタイを締めてから、今日は学校へはいかない事に気がついた。食卓に上に置かれているバターロールを両手に持って、昨夜準備した『いざとなったら使えそうな物』をたくさん入れたショルダーバッグを、肩に掛けた。  昨夜の事が気になっているのか、母親が今日は早く帰ってきなさいよと注意した。口にバターロールが入っていたため、返事することが出来ず、頷いて家を出た。  昨日の巡の態度からして、本当に九時半になったら一人で行ってしまいそうだ。こんな日に、めったにしない遅刻をしてしまうなんて、なんと間が悪いことだろう。高貴は片道三十分かかる道のりを二十分で走破すると、九時半前になんとか巡の家に到着した。  彼女は、まるで不審者みたいに、マンションの入口前の花壇に腰掛けていた。いつものとは違う白白とした真新しい白衣――根本的には同じなのだが――を着ていて、長い髪を抑えつけるように、ねずみ色のハンチングをかぶっている。金の長髪は、項の当たりでゴムによってまとめられ、若馬の尾のように自由に垂らしている。  高貴は乗ってきた自転車を、マンション関係者専用の駐輪場に停めると、巡の元まで走っていき、息を整えながら「ごめん、遅れて」。巡は眠たそうな眼をこすりながら、顔を上げると、「……別に来なくても良かったし」と冷たく言い放つ。  それに対して高貴が憤ることは無かった。それが彼女の真意ではないことを、自分は無自覚のうちに汲みとっていたらしい。彼女はすっと立ち上がると、駅に向かって歩いて行く。彼女の持ち物は、ピンク色のポーチひとつだけだった。 「結局場所は特定できたのか?」 「おおよそはね。その教授に地図を送って、遮蔽物なども考慮して、あのDVDの音と同じ大きさで聞こえるポイントを線で書いてもらった。そこをなぞるように歩けば、きっと建物が見つかるわ」  地図はポーチに入っているらしかった。彼女はそれをぽんぽんと叩く。どこか得意げだった。 「小河内ダム周辺は、というか奥多摩全体は森が深いから、今日一日掛かることは眼に見えてるわね。二日通うことになる可能性が高い」 「じゃあ明日も奥多摩か?」 「明日は個人的な用事があるから……。行くとしても明後日ね」  駅は閑散としている。この中途半端な時間だと、社会人の通勤ラッシュとも、学生の登校ラッシュともかち合わないらしい。巡と高貴は裕裕と切符を買い、『拝島』までの金額を払った。そこで青梅線に乗り換える。奥多摩駅は青梅線の終点であり、小河内ダムへ行くには、そこからさらにバスに乗らなければならない。到着は十二時頃になると予想される。  車両の中は、巡と高貴を除けば、たった二人しか乗客がいなかった。朝に起こる地獄のような登校ラッシュを経験している高貴は、ここが同じ電車の中であるとは思えなかった。高貴が座席に座ると、巡もすぐ横に座った。彼女のポーチが高貴の太ももに触れている。  巡はやはり背が小さい。座席に座ると、彼女の足は辛うじて床を撫でる。  二駅ほど進んだところで、高貴は言った。 「個人的な用事って?」 「え?」  と、巡は聞き返す。さっきの話はもう終わったものとして処理されているらしい。  だがすぐにさっきの話のことだと気付き、巡は 「今回の事件とは全く関係ないことだから、気にしなくていいわよ。ちょっと人と会うだけ」  人と会う。巡にしては珍しい用件だった。  捜査のためなら歯医者の予定すらすっぽかしそうな巡が、人と会うために一日のブランクを空ける。それは何かしら別の意味を持っていた。  訊いたからには何か言わなければと思ったのだが、思考がまとまらず、閉口してしまった。普通に考えれば、巡にそういう相手がいないほうがおかしい。彼女は性格も実直だし、容姿だって、道行く人が振り返るくらいじゃないか。  その事に対して、自分が多少なりとも『残念』だと思っていることに気付き、驚愕した。慌てて、巡にそういう相手がいることによって調査が遅れてしまうから、という理由を付加する。その間に、電車は終点の拝島に到着した。  青梅線に乗ったら、あとは奥多摩に着くだけだ。幸い、急行に乗ることができたので、予定よりも早く奥多摩へ着けそうだった。奥多摩行の電車は、無骨な印象をうける作りだった。青色の車体に、シルバーの横線が入っている。 「着いたら何か食べましょうか。お腹減ってきちゃった」 「あっちの方に食べるところあるのか?」 「あんたどんだけ奥多摩のこと舐めてるのよ。駅周辺だったらレストランくらいあるでしょ。テキサスの荒野にだってマクドナルドはあるんだから」  それだけ言うと、巡が急に黙った。  腹が減り過ぎて限界が訪れたのかと思ったが、そうではないようだ。彼女は新しく乗車してきた一組の母子を、じーっと観察していた。あの二人は巡の知り合いなのだろうか。いや、まさか。こっちの方に親類がいるのは不自然だ。それに、向こうはこちらを見もしない。  なんとなく声をかけづらくて、高貴は巡から視線を外し、窓の外を見た。  いつの間にか、外の景色は大分変わってしまっていた。自分が住んでいたのは都会というわけではない。二十階建ての高層マンションが建ったくらいで、日照権がなんだと小さいデモが起きるくらいの町だ。でも、この当たりは三階建ての建物すらなく、コンビニやチェーン店のレストランも見受けられない。人々は谷合にいくつかの家を作り、そこを集落として暮らしている。  空は透き通るように青く清々しい。予報によれば、今日一日は快晴らしい。明日からは崩れると、お天気お姉さんが自信満々に語っていた。  やがて、車内放送が次の駅の名を呼んだ。  高貴は巡を肘で啄いた。 「降りるぞ」 「……分かってる」  彼女は、心ここにあらず、といった調子だった。  何が彼女の心を奪っていったのかは分からないが、巡はゆっくりとした動きで立ち上がり、電車のドアボタンを押した。  青梅線の終点、奥多摩駅には霧が掛かっていた。都会では見られないような規模の濃霧で、十メートル先が見えないくらいだった。もちろん、突然霧が駅を覆ったわけではないので、この事にもっと前から気付くことは出来たのだが、色々と考え事をしていたせいで、高貴は電車から降りて初めてその霧を認めた。 「あまりよろしくない天気ね。捜索には不向きだわ」  巡はいつの間にか、いつもの調子を取り戻していた。  彼女はカツカツと音を立てながら改札まで歩き、大人料金で買った切符を改札に通した。もちろん、高貴もその後に続く。  霧が出ているせいか分からないが、道路に車の通りはほとんど無かった。それどころか、通行人の姿も見られない。高貴は奥多摩に着いてから、巡以外の人の姿を見ていなかった。過疎の町と言うのは、こんなにも寂然としているものなのだろうか? 「さすがに、これはちょっと異常ね」  と、巡が辺りを見回しながら言う。高貴は同意した。 「映画とかだと、そろそろ白髪の老婆が『祟りじゃー』って出てきそうじゃないか?」  巡は少しだけ笑う。 「それでこの町に何が起こってるのか解説してもらえれば一番なんだけど、あいにく、そう上手くは行かないわね。何か食べましょ。お腹と背中がくっつきそう」  巡は自分のお腹を摩ると、霧の中を歩き始めた。  二人が入ったのは、駅から程遠くない場所にある定食屋だった。霧の中、ぼーっと蛍光看板が光っていたのを巡が発見したのだ。  名前を聞いたこともない店だったが、店内には『○月×日のX番組で紹介されました!』と言う宣伝文句と、どこかで見たことのある俳優が店主と握手して笑っている写真が飾られていた。なんでも、特大カツ丼と言うのが売りらしい。二十分以内に食べられたら無料。ただし、たべきれなかったら二千五百円。壁にかけられたメニューの中で、唯一写真付きで紹介されていた。  三個のテーブル席と、いくつかのカウンター席。巡がカウンター席に座ったので、高貴は巡の隣に座った。カウンターの向こうの厨房では、くすんだ白の前掛けを着る壮年の男が、大きな鉄鍋を特大のしゃもじでかき混ぜていた。  巡はお手拭きが出なかったことに文句言いながら、わざわざトイレまで行って手を洗ってくると、首だけ曲げて壁にかかるメニューを確認する。 「ハンバーガーは無いのね。パンが食べたい気分なんだけど」 「定食屋に入っておいて喧嘩売ってるのかお前は……」  巡は渋々生姜焼き定食を頼んだので、高貴も同じ物をオーダーした。店主は初めに、鉄鍋の中から味噌汁を注ぐと、木の器に入れて巡と高貴の前においた。高貴はセルフサービスだった水を巡の分も注いでやる。  巡は物珍しそうに、味噌汁を眺めていた。 「こういう所、あんまり来た事ないのか?」 「言っておくけどね、行けなかったわけじゃないのよ。来る機会が無かっただけ。駅前にはマクドナルドが二件もあるし、美味しいたい焼き屋さんも知っているわ。私の食生活の場合、それらで十分足りるの」 「たい焼きとマックだけの生活は体に悪いと思うぜ」 「ちゃんとサプリを飲んで栄養バランスを考えてるわ。心配ご無用」  と、巡は言い切り、出された味噌汁を一気に飲もうとして舌を火傷した。  やがて出された生姜焼き定食は、まさに生姜焼き定食だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。多くの家庭、学食、定食屋、丼もの屋、ファミレスで出されているものと、何一つ変わらなかった。印象的だったのは、巡が案外生姜焼きを気に入っていたことだった。高貴の分の肉を物欲しそうに見ていたので、彼は一枚だけさし上げた。生姜焼き定食を食べ終わると、彼女は生姜焼きに含まれる玉ねぎについての熱い思いを語り始めた。  こんな瑣末なことまでも、巡はまるで気難しい学者の書く研究レポートのように、持って回った言い回しをするので、高貴は何度も巡の話に笑ってしまった。だが、それが終わると、二人は本来ここへ来た目的を急に思い出し、自分たちの自由奔放さに呆れた。  巡は鉄鍋をかき混ぜていた主人を呼び寄せた。彼は不快そうな表情はしなかったし、嬉しそうな表情もしなかった。そこにはただ、部外者に抱く疑問が浮かんでいた。なんでこんな時期にここへ? そう顔に書いてあった。 「街で何かあったのかしら? 静かすぎると思うんだけど」  巡がそう訊くと、店主は呆れが浮かんだ表情で 「あんた達もインターネットを見て来たのか? ずいぶん若いのに」  高貴が「インターネット?」と聞き返す。 「ああ。最近ここへ観光に来るやつは皆そうだ。そのせいで住民は不気味がってな、小学校じゃ集団下校までしてる。俺はわざわざ奥多摩を宇宙人が支配しようとしてる、なんて思わんがね」  店主は吹き出しそうになりながら言う。  高貴と巡は顔を見合わせる。  やはり、あの動画を見て多くの人間がこの奥多摩へ訪れたんだ。 「それで、その人達は?」 「みーんな肩落として帰って行くよ。あんまりにも可哀想なんで、まぁ、ちょっと昔話を披露してやったりもするんだが、あんたらも聞きたいかい?」  巡が話を急かすと、店主はまるで寄席のように、こぶしの利いた口調で話し始める。 「丑の刻の事、ジメジメした強風の夜に、山で化け物が出ると言う噂が広まった。そこで、まち一番の力持ち次郎坊が退治に行った。しかし翌朝、次郎坊は無残な死を遂げた。そこで藩士の長兵衛が、刀を持って退治に向かう。長兵衛は刀で化物を斬ったが、化物は死なず、以降も出続けた」 「……なんか後味の悪い話ですね」  と高貴が感想を述べる。すると店主は「話の落ちが弱いんで、最近の子供に話しても不評なんだ」と言って笑った。 「その化物って言うのがな、ビカビカ光る人魂だってんだ。今考えてみると、もしかしたらそれが宇宙人だったのかもなぁ」  バス停でバスを待つ間、巡は顎に手を当ててじっと何かを考えていた。さっきの『丑の刻の事』を聞いてから、巡はずっと考え事をしている。  人魂が宇宙人。以降も出続けた、の部分に妙なリアリティを感じる。江戸時代から伝わっている伝承らしいし、信憑性は高い。 「今の話を聞いて、もしかしたらいるかも知れない、なんて気を起こしてないでしょうね?」  巡が突然口を開いたので、高貴は顔を上げた。  彼女なりに考えがまとまったのだろうか。 「さっきの話は奥多摩に限らず全国各地で伝わっているわ。と言っても、こんな北の方で聞くのは初めてだから少し驚いたけど」 「全国で同じことが起きているのか?」 「うん。夢を壊すようで悪いけど、その『化物』って言うのはただの化学現象よ。現代でも起こってる」  ビカビカ光る人魂が化学現象?  その時、丁度バスが見えてきた。  巡は、まるで初めて登校する小学生みたいに、軽い足取りで階段を登ると、一番後ろの席に座った。バスには運転手以外誰も乗っていなかった。  いつまでも巡が話の続きをしなかったので、高貴はとうとうしびれを切らし、「化学現象って?」と尋ねた。すると巡はきょとんとして「え?」と聞き返す。 「さっきの話の続きだよ!」 「え、ああ。すっかり説明を終えた物と思ってたわ」 「こっちは話の枕しか聞いてないよ……」  巡は一度咳払いすると 「人魂の原因は、『球電現象』だと言われているわ」 「球電現象?」 「そう。雷って見たことあるわよね? ……ちなみに雷のメカニズムは分かる?」 「なんとなくは分かるよ。と言っても、NHKの教養番組程度だけど」  雷は雲の中で起こる静電気が、地面に落ちてくる現象。高貴の認識はその程度だった。 「それじゃあダメよ。天文学をやろうって考えてるなら、気象・地理にも精通していないと話にならないわ。これからはその二つの本も読みなさい。おすすめはねぇ〜」  巡はいくつかの本のタイトルと著者を列挙した。 「私のお古でよければあげるわよ」 「分かった。読んでみようと思う。だから続きを」  巡は頷くと話をすすめる。 「分かりやすく言うと、雷が落ちるとき、雷の先端には電気の塊――球電が存在するの。これはとても不安定な物で、落ちる瞬間に風が吹いたりすると空中を彷徨うのね。電気の塊が」 「それって雷の欠片だろ? めちゃめちゃ危ないんじゃ……」 「そうよ。すっごい危ない。アメリカの方では、この球電が人間の上半身を吹き飛ばしたなんて事件も起こったわ。つまり、この『丑の刻の事』って言うのも、この球電現象によるものよ」  そこまで話して、巡は納得行かなそうに首を傾げる。  彼女は人に話しながら考える癖がある。きっと誰かに説明している間に、自分の理解も深めていっているのだろう。巡は頭で考えてから喋るタイプではないのだ。だから度々、他人に質問をしておいて、答える前に勝手に答えを出してしまう。 「でも、他の伝承と違う点が一個だけあるわ」 「それって?」 「もしもこれが球電現象なら、刀で斬れるはずないのよね。相手は電気なんだから、感電死してしまうはずだし……」  それはそうだ。藩士が化物を一応追い払ったというのは納得が行かない。  ということはやっぱり、球電現象でも何でもない、純粋なオカルトなのではないだろうか。――そう言っても、巡は頑として認めないだろうから、高貴は何も言わないでおいた。  巡は論理的思考よりも先に、「オカルトなんて物は存在しない」という既成概念がある。だから、その論理的思考も最初っから「オカルトは含めない」思考になっている。  もちろん高貴も、オカルトなんて信じてはいない。巡と高貴の違いとはつまり、一メートルのタコのような生物が「私は宇宙人です」と家に挨拶しに来たとき、高貴は宇宙人の存在を認めるが、巡は「これはタコの突然変異種よ」とその存在を認めない。彼女にとって、自分の常識であり得ないことは、そもそも存在しないということなのだ。  バスは山沿いの道を進み始めていた。いくつかのトンネルを潜り抜け、眼下には渓流が広がっていた。冬真っ只中の今、山は、枯木の住処となっていた。こうしていると、まるで巡と駆け落ちでもしたような気になってくる。彼女の物憂げな顔が、ますますそれに説得力を持たせていた。  やがて、バスはロータリーに飛び込んだ。運転手が小河内ダム前であることを知らせる。巡は、ぼーっとしているかと思いきや、高貴よりも早くすっと席を立ち、ファンシーな財布から小銭をじゃらじゃらと出して勘定を済ませた。  小河内ダム前のバス停はロータリーになっており、中央には一本の木が植えられていた。バスを待つためのベンチが一つだけ設置されており、湖――奥多摩湖に続く砂利道が伸びている。巡と高貴は、まるで親に置き去りにされた子供のように、そのベンチ前の石畳で立ち尽くしていた。人の気配と言うものが一切無く、そこにはただ雄大な自然が広がっている。世界の果てまで来てしまったかのような錯覚さえ覚えた。  巡が動き出さなかったので、高貴は二度足を踏んでいた。彼女しか地図を持っていないし、彼女しか決定権を持っていない。自分はあくまでも助手なのである。巡は景色を端から端までじっくりと見渡した後、高貴を見上げた。 「向こうに行きましょ」  彼女が指さしたのは、道とも言えぬ道だった。それは道と言うには粗雑すぎる、そう、草むらの切れ間と表現したほうが的確かもしれない。 「まずはダムの方を観に行ったほうがいいんじゃないか?」  と、高貴は提案する。  別にダムが見たいわけではない。すくなくとも、あの道よりはマシだと思ったのだ。  だが巡はそんな高貴の言葉を無視して一人でどんどん進み始める。彼女の足取りは軽かった。横顔を見てみると、口はきつく結ばれていたが眼は笑っていた。彼女はずっとここへ来たかったのだろう。今考えてみると、彼女が警察に捜査を任せるのを拒んだ理由は、自分でカタを付けたかったから、ということなのかもしれない。  つまり、彼女はあの動画の犯人を捕まえたいのではなく、動画の謎に興味がある。  踏みならされた獣道を歩くこと数分、巡はポーチから地図を出し、さらにコンパスを出した。そして気難しそうな顔で針を見つめる。  針が下を向こうとしているのが見えた。  それは背筋を凍りつかせるような光景だった。化物の話を聞いた直後に、こんな超自然的現象が起こった。引き返したほうが良いのではないか。そう巡に言おうと思ったが、彼女はコンパスを自分のポケットの中に入れると 「奥多摩は鉄の産地だったから、多少磁場が乱れていても不思議じゃないわよ」  と鼓舞した。 「でも、コンパスが使えなかったら地図も意味ないんじゃないか?」 「携帯のGPSで現在地を確認しながら見れば何も問題ないわ」  彼女はホワイトカラーの携帯電話をポーチから出すと、画面にマップを展開し、GPS機能を使った。彼女の言うとおり、確かに何も問題はなかった。そのマップと地図に記した線を照らし合わせて進めば、撮影場所が見つかるかもしれない。  巡は地図をよく見比べた結果、踏みならされた道を放棄し、草むらを分入ることを選んだ。  普通、女の子ってこういう行為は何よりも嫌いなはずだろ? なんで率先してやるかなぁ……。  高貴は巡の後に続く。巡が草を踏み慣らしてくれるおかげで、幾分歩きやすい。だが、巡とは身長の差があるから、蜘蛛の巣は容赦なく顔にかかった。草道は幸いすぐに終わった。景色が開け、木が何本も生える勾配に出る。足場は広葉樹の葉に埋め尽くされており、足に力を入れていないと滑り落ちてしまいそうだった。木の切れ間からは、向かいの山が見えた。それに、青々とした空も。殺人動画の撮影場所を見つけに来るという目標さえ忘れてしまえば、巡と楽しいピクニックでも来たような気持ちになる。 「しっかり捜すのよ! 鼻も使わなきゃ駄目、血の匂いがするかもしれないから」  と、巡は平然と夢をぶち壊す。  高貴は「へいへい……」と返事して、さらに奥へ向かって歩き始める。巡は地図をなんども見ながら線を確認する。幸いな事は、当分草道にぶち当たらなかった、というところだけだった。  それからニ時間くらい歩いただろうか、巡が地図を持っているからどれくらい進んだのか分からない。もしかしたら、まだ目標の十分の一もいっていないのかもしれない。山道は何の変化もなく続いていた。 「ねえ」  と、巡が口を開く。さっきから捜すことに集中していたので、彼女の声を聞くのは久しぶりだった。 「あんたってお母さんいる?」  唐突に訊いた。 「一応有性生殖で生まれてるから、いるとおもうよ」 「……それは分かるけどさ」  彼女はそう言ったっきり、何も言わなかった。三分くらい待ったところでも、彼女が話の続きをしなかったので、高貴はふと「巡は続きを促して欲しいんだなぁ」と気付いた。彼女は自ら話しはじめることを吉としていない。それが何故なのかは分からないが、巡のこだわりというやつだろう。 「お母さんと何かあったのか?」 「はぁ? なんであんたなんかに言わなきゃいけないのよ」  お前が話したがっている素振りを見せたからだろうが。  よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、巡が続けて「っま、ちょっと色々あるのよ」と付け足した。 「明日ってクリスマスじゃない? だから、お母さんに会う予定なんだけど……」 「クリスマスに母親と?」  巡が両親と一緒に住んでいないのは知っていたが、一体どういう理由なのだろうか。  高貴はどこかほっとした。もしかしたら、両親との関係がうまく行かなくて一人で住んでいるのかと思ったからだ。クリスマスに会うと言うことは、仲は良好なのだろう。 「どうせあんたは明日も一人寂しく部屋で漫画でも読んでるんでしょ」 「酷い言い草だな……」 「暇なら、一緒に来てよ。明日」  高貴は訝しげに巡に視線をやった。  彼女は不服そうな表情で、地面を見つめていた。今まで止まることなく動いていた足が、枯葉を割る音を最後に、ピタっと止まった。 「僕が?」 「アンタ以外に誰がいるのよ」 「いや、そうだけど……」  一応、辺りを見回してしまった。  周りには、木と葉と数羽の鳥しかいない。高貴と巡は明らかに不自然な存在だった。そして、巡と母親の会瀬に高貴が同伴するというのは、これ以上の不自然のように思える。 「この私が誘ってるのに来れないっていうの?」  前に円卓があったら、手を叩きつけているかひっくり返しているかしているだろう。無くて幸いである。 「僕は……邪魔になるだろ?」 「なるかもしれない」 「じゃあなんで僕を――」 「あんたの役目は話を盛り上げることでも、MCでもなくて、……遠くから様子を見ててほしいってことなの。何事も無く、円滑に、事務的に、話が弾んでいるようだったら帰っていいから」  酷く勝手な言い方だった。  高貴は文月との約束を思い出した。彼女は明日のクリスマスをとても楽しみにしているようだ。それに、明日暇を出すと言ったのは巡自身ではないか。今更仕事を与えるなんてずるい。  先約がいる以上、巡の頼みに答えることは出来ない。だが、巡の頼みを断るのはこれが初めてなので、かなりの勇気が必要だった。烈火のごとく怒ったらどうしよう。そうビクつきながらも、高貴は言った。 「明日は、文月さんと過ごすことになってるんだ」 「……なんで?」  巡がギロっと睨む。虎くらいだったら逃げ出しそうな殺気だ。 「なんでって言われても……。君が、明日は暇になるって言ったからじゃないか。そりゃあ非番だって言われたら予定を入れてしまうよ」 「キャンセルできないの?」 「それは無理だし、する気もないよ」  そう、と、巡は呆気無く返事して再び歩き始めた。  高貴は巡の後ろ姿だけを見ていた。彼女がどんな表情を浮かべているのか、予想できなかった。励ますようなことを言ったほうがいいのだろうか? でも、そもそもどうして巡がそんなお願いをしたのか、高貴には分からなかった。母親と会う、たったそれだけのことだろう? 緊張しているのか?  だが断った手前、これ以上の言及は失礼な気がした。  突然、巡が身を伏せる。  考え事をしていた高貴は、すっかり乗り遅れてしまい、巡に腕を引っ張られて地面に膝を着いた。突然どうしたのだろう。ただならぬ雰囲気の中、巡が声をひそめて「あそこに建物ない?」  高貴は少しだけ目線を高くして見てみた。勾配の上にそびえる崖、それと隣接する距離に、一件のコンクリート・ビルが建っていた。三階建てであり、窓はすべて外されている。蒼い藻がたくさんへばり付いており、そのビルはまるで、数千年ぶりに海底から引き上げられたばかりみたいだった。ビルごとひっくり返せば、そのがらんどうな窓からたくさんの水が溢れでてきそうだ。 「建物はあるけど、人はいなさそうだ」  巡は勾配に流されぬようしっかりと足に力を入れて屈んでいた。その長い後ろ髪が、枯葉のカーペットを撫でている。 「……入ってみましょう」  巡は近くの倒木から、見るからに頼りなさそうな枝を手に入れると、びゅんびゅん振り回して握り心地を確かめた。 「それで戦うつもりなのか?」  と笑いを堪えながら訊くと、彼女はグルルと喉を鳴らして 「違うわよ。これは蜘蛛の巣があるか確かめるためのものよ!」  巡が先頭に立って建物の中へ入ろうとしたので、高貴は巡を呼び止める。彼女は面倒くさそうに振り向いた。「僕、懐中電灯持ってきたから」と高貴が言うと、彼女は「なかなか役に立つじゃない」と言って、早速高貴からそれを奪い取る。  高貴はさらに巡の手から懐中電灯を取り返すと 「僕が先に行くから」  と、強い口調で言った。  巡は不満を漏らしていたが、高貴は一切取り合わなかった。                     4  もしもここが何らかの研究施設なのならば、それなりの証拠があるはずだ。例えば、研究レポートだとか、謎のディスクだとか、でも、建物の一階には本当に何もなかった。窓から差し込む光が、濃い闇を切り裂いていた。懐中電灯の光で部屋の隅々まで照らしてみるが、壊れたタイルの欠片一つ無い。綺麗すぎだ。  巡は今一度地図を確認する。そして、ここが線の軌道上にあることを確認した。 「ここが当たり……かもしれないわね」  巡はゆっくりと、踏みしめるように、闇の中へ足を踏み入れていく。おかしな仕掛けは無いと分かっていても、彼女が闇の中へ消えて行くのは不安で、高貴は懐中電灯の光を彼女の足元に当てて、自分も後を追った。  部屋の奥にある鉄の螺旋階段は、まるでジャックが植えた豆の木のように、まっすぐ空に向かって伸びていた。上から光が漏れている。巡がなんの警戒もせず階段を登り始めたので、高貴は注意しようかと思ったが、鉄を叩く彼女の足音はとてもしっかりした物で、この先百年はこの階段が壊れることはなさそうだ。  二階は一階と同じように、すべての物が処分されてしまっていた。奥の壁に付けられている長方形の窓から、荘厳な山の風景を見ることが出来た。それはまるで、一枚の絵画のようだった。  巡は全く足をとめること無く三階に足を踏み入れる。そして、そこでハッと息を呑んだ。  あの撮影場所がそこにあったのだ。  あの実験体を除いて、全てがそのままになっている。縛り付けられていた柱も、窓も、そして滴った血も、拭ききれずそこに残っている。遅れて上がってきた高貴も、言葉をなくしてしまった。口を開けたまま、階段も上りからぬまま、そこに棒立ちしてしまう。  先に我を取り戻した巡が、高貴の肩を叩いた。  彼女はポーチから黒革の箱を取り出すと、その中に整頓されてしまわれている、ピンセットや突針の中から、綿棒を取り出すと、それを摘まんで血に近寄った。巡の肝っ玉のでかさには、感服せずにはいられない。  高貴は「男の僕がなにしてんだ」と、自分を鼓舞すると、大股で巡に近寄った。  血はほとんど乾いていて、綿棒で擦ると、パリパリと表層が取れた。だがその下には、まだ固まっていない血液の膜が出来ており、綿棒は少しだけ赤く染まった。この血が、映像に写っていた男の血。  巡は柱を一周して他に何かがないかを確認する。やはりというべきか、血を除いて、他に証拠はないようだ。むしろ、血があっただけでも吉とするべきか。  高貴と巡は手分けして、この部屋になにか仕掛けがないかを調べ始めた。  直方体の簡素な部屋だ。家具は一切無く、部屋の中央の柱くらいしか、視界をさえぎるものがない。捜索は容易だったが、隠し戸の気配というものがまるでなかった。二十分ほど探しまわっても、埃一つ発見することが出来なかった。長時間の行軍が祟り、まもなく、二人は一箇所に集まって休み始めた。高貴は窓枠に肘をかけ、長い息を吐く。 「なんもないわね」  そう、彼女は自然な口調で言う。  ここは一応敵地だというのに、警戒心の欠片もなかった。 「やっぱり、ここは撮影に使われただけなんだろうか?」 「あるいは、そうかも知れないわね」  巡は窓外の景色に目を向ける。 「……捜査も、ここまでかもね」  それこそが高貴の望むものだった。  この件は危なすぎる。とてもじゃないが、一般人が好奇心で足を踏み入れていい場所ではない。謎に迫っていくのが楽しくなかったかと言われれば、嘘になるが、もう十分楽しんだ。これ以上は本職の人間に委託するべきである。 「この場所を伝えれば、警察は、事件性があるとしてしっかり捜査してくれるよ」  高貴は巡を元気つけようとしてそう言ったのだが、彼女はまだ釈然としない様子だった。警察に任せるという当然の結果に、彼女は満足していないのだ。 「ねえ。なんでここだけ柱があるのかしら?」 「え?」 「だって、建物を支えるのが柱の役割なら、一階、二階、にも柱はあるはずでしょ?」  言われてみれば、たしかにそうだ。  この柱は何のために存在しているんだ?  巡と高貴は一度顔を見合わせると、柱に近づき、その壁を手の甲で叩く。コンコン、コンコンと音が鳴るが、巡の叩く壁だけが、やけに空虚な音を立てた。壁の一面だけ、鉄板で出来ていたのである。  巡はその壁を足で蹴った。すると、この壁が回転扉になっており、柱の中に金属のはしごが現れたのだ。巡が顔だけだして中の様子を確認する。そして、はしごの先がハッチになっていることを告げた。  さっさと登って行こうとする巡を、高貴は止める。 「何も準備してないのに、危険だよ。それに、今さっき警察に任せるって話が決まったじゃないか」 「……解決しなきゃ意味が無いのよ」 「意味?」  巡は頷くと「あんたは残ってていいから」と言って、自分だけ梯子を登り始めてしまった。もちろん、はいそうですか、と返事するわけにも行かず、高貴は渋々巡の後を追った。ハッチを回す音が上から聞こえる。やがて、金属の戸が開き、太陽の光が差し込んだ。  ビルの屋上だ。タイル床で、縁には転落防止のフェンスが張られている。だが、そのフェンスには切れ間が出来ており、外に出られるようになっている。ビルと隣り合った絶壁には、洞窟が出来ており、そこから風が外に向かって吹いていた。まるで、こっちに来いと言っているようだった。その洞窟とビルの間には、電車とホームの隙間くらいしか距離がなく、むしろ落ちるほうが難しいくらいだ。  巡はもう相談もしなかった。当然のように、フェンスをくぐると、洞窟へ進んでいく。懐中電灯も持たずに行こうとしたので、高貴は巡を追い越した。  この洞窟は人によって掘られた物のようだった。それも、かなり以前からあるもののように見える。地面は小さな石――それも、日本庭園などで見られる黒石だ――が敷かれており、壁はつるつるしていた。  このまま進んでいったら、本当に研究施設に着いてしまうかもしれない。そうなったら……どうなるのだろう? 発見して、はい終わりというわけには行くまい。自分たちは再びあのビルから下に降りなければならないのだから。  それに、もしもその研究施設の関係者に見つかったりしたら、誇張表現でもなんでもなく、消されてしまうかもしれない。人体実験の素材にしてしまえば、死体の処理は楽だ。それに、相手は人の命を実験のために平然と犠牲にできるような狂った科学者だ。良心なんてない、と考えるほうが現実的である。そう考えると、今から引き返すという決断ほど、建設的な物はないと思えてきた。 「巡、やっぱり――」  そう、前だけ見て、歩みを止めずに言いかける。でも、巡の答えがあんまりにも簡単に予想できてしまって、高貴は続きを口にすることが出来なかった。彼女は、「一人で帰れ」と言うだろう。  どうして巡は僕の気持ちを分かってくれないんだ。高貴はだんだんに苛立ちを募らせていた。こいつは自殺志願者なのだろうか。それならばまだ納得ができる。彼女をここまで駆り立てる『何か』が気になって仕方がない。  やがて、T字路に直面した。右の道からは光が差し込んでいる。左の道は、さらに奥まで続いていて、道の先を深闇が飲み込んでいる。高貴は角から頭だけだして外を確認した。光の先にあったのは、古い配電所だった。小河内ダムで作った電気を、電線に乗せて都内に配るのを仕事にしていた場所。立ち入り禁止になっているため、辺りは有刺鉄線付きの金網に囲まれている。  研究するにはうってつけの場所だとは思うが、古い配電所の前には道路も敷かれており、こうして眺めている間にも、数台の車が行き来した。あんまりにも目立ちすぎているんじゃないか?  外はすっかり暗くなっていた。街灯が点々と灯火を始めていた。  今日はここまでか。いや、『今日は』ではない。もうここまでだ。巡は名残惜しそうにT字路のもう片方の道を見ていたが、今からそっちに行こうとは言わなかった。彼女も、そこまで思慮の浅い人間ではなかったようだ。  巡と高貴は、崖と鉄柵の間にある、数十センチの隙間からなんとか外に出ると、巡が地図に、この配電所の場所を記録した。それはまるで、RPGで『冒険の書』を付けるみたいに。だが、もうコンティニューするつもりはない。巡がなんと言おうが、あとは警察に任せる。  でも、その話し合いをするには二人は疲れすぎていて、二人は近くのバス停へ向けて歩き始める。会話はなかった。 第三章 メンデルとえんどう豆                        1  両脇をブロック塀に囲まれた細い道路には、プラスチックの椅子が一脚だけ置かれていた。雨の中、吹きさらしにされていたのだろう。緑色のカビがところどころに付着している。いつもの二人ならば、間違えてもそんな椅子には座ろうと思わないだろうが、巡は何の躊躇もなく腰を下ろし、高貴はそれを少しだけ羨ましいと思った。  バスが来るまで、二十分は時間があった。高貴は、巡が座る椅子の背もたれに右手を置くと、長い間肺に溜め込んでいた空気を、一気に吐き出した。それはそのまま欠伸に変わってしまった。  巡が居心地悪そうに自分の右足のかかとを、左足のつま先でさすっていたので、高貴は「どうかしたか?」と訪ねる。巡は少しの黙考のあと、「もしかしたら私の右足が何らかの原因によって負傷したかもしれない」と仰々しい言い方で返してきた。  高貴はやれやれと肩をすくめると、巡の足元にかしずいて、その小さな靴を脱がせようとする。だが、彼女は足を前にだそうとはしなかった。折角見てやると言っているのに、なんなんだこいつは。と、高貴は抗議の視線を向ける。すると巡はきまり悪そうに 「臭かったら……嫌でしょ」 「は?」 「……結構歩いたし、嫌な臭いとかするかもしれないし……」 「そんなもん気にするわけないだろ、ばかばかしい」 「はぁ!? ばかばかしくないでしょ! 生意気な――」  と、巡が立ち上がろうとして足を地面につけた。彼女は肩を跳ねさせると、そのままぐったりと椅子に倒れこむ。その隙をついて高貴が新品のトレーニングシューズを脱がせると、象のイラストが印刷された幼げな靴下が姿を現した。  その毒気のない象の絵が、妙に面白くて、高貴はクスっと笑った。 「巡って、意外に可愛い物好きだよな」  と、彼女の口下を脱がせながら言う。巡は恥ずかしさや痛さで、返事することが出来ず、自分の顔を両手で覆っていた。  彼女の右足の踵(かかと)には、直径二センチほどの水ぶくれが出来ていた。  それが靴ずれによるものだと、言わずとも分かる。  長く歩く嵌めになると分かっているのだから、履きなれた靴で来ればいいものを、新品のスニーカーなんて履いてくるからこうなるのだ。だが、そんな注意を今の彼女に言うのは、あんまりにも酷で、持ったままになっていた彼女の靴下をスニーカーの中に突っ込んだ。 「もう片足は大丈夫なのか?」 「こっちは……まぁ……」 「よくもまあ、こんな状態でついてこれたな……」 「探検してる時は全然痛いなんて思わなかったのよ?」  どんだけ熱中してるんだよ、お前は。  道の向こうに、バスの姿が見えた。高貴は巡の靴下をポケットに入れると、スニーカーを彼女に突っ掛けさせる。 「肩、貸すよ」  と、巡の背中に手を回すが、あまりの身長差によって彼女の体を釣り上げるような形になってしまい、全く楽にはなっていなかった。きっと恥を晒されたと思ったのだろう。巡は高貴の事をドンっと押しのけると、片足を引きずりながら、なんとかバスの中へ入っていった。  ヘッドライトを点灯させたバスには、数人の客が乗っていた、きっとダムの観光者だろう。声をひそめて何かを話していた。高貴達は、行きと同じく、一番後ろの席に陣取った。巡は靴下も履いていない片足を、膝を立てて椅子の上にあげて、水ぶくれになった踵を憎々しげに睨んでいる。だが、そんな事をしても痛いのは治らないのだと気付いたのか、溜息をつくと、椅子から足を下ろした。 「ともあれ、私は疲れたから、寝るわ」  彼女はそれだけ言うと、高貴の肩に頭を預ける。  話し合わなければならないことがたくさんあった。誰が警察に伝えるだとか、金属円盤との繋がりについてはどう説明するだとか、それらは可及的に速やかに終えなければならない議題であり、今日中には決めてしまいたい事柄だった。  だが、疲労困憊の巡をこれ以上働かせるのは悪い気がして、高貴は真一文字に口を結んだまま、背筋をぴんと伸ばして、奥多摩駅に着くのを待っていた。  結局、学校の最寄駅を出たのは夜九時頃だった。高貴は巡の持ってきたピンク色のポーチを代わりに持っているため、なんらかの偏向趣味の人間に見える。  今日、奥多摩に行ったことで多くのことが分かった。それに、T字路のもう片道という謎も残している。概ね満足な探検結果だったのではないだろうか。……それに、身の危険に晒されるということもなかったし……。  巡は自然な足取りで、高貴の前を歩いていた。きっと、足を引きずって歩くなんてことを、大衆の面前でしたくないのだろう。「おぶろうか?」と奥多摩の駅で訊いた時も、「そんな恥ずかしいことはしたくない」と言われたし。  幸い巡のマンションは駅のすぐ近くだったので、数分で到着できた。巡がオートロックを解除すると、まだ付いて来ようとしている高貴をジトッとした目で見る。 「……こんな遅くに、どうして平然と女の子部屋に上がろうとしてるのよ」  いつもなら怒鳴るシーンだろうが、今は元気がなかった。 「このまま帰したら傷口をろくに洗いもせず寝るだろ、お前。包帯くらい巻いてやるから上がらせてよ」 「私はね。『何々してやる』って言葉を言われるのが一番腹立つのよ。『何々させてください』に言い直しなさい」  高貴も疲れていたので、そんなわがままには取り合わず、自分もマンションの中へ入った。ガラス張りのエレベーターに乗ると、夜景が見えた。繁華街のネオンを真っ黒の川が反射させ、まるで天と地が入れ替わったみたいだった。  巡の部屋の前まで来ると、ついつい口と鼻を手で覆ってしまった。今、あの臭気に当てられたら、死ぬ自信がある。巡は両手を前に突き出して「ちょっとここで待ってて」と言う。 「どうしたんだ?」 「ちょっと部屋を整理してくるから、ここで待ってて」  高貴が何かを言う前に、巡は鍵を開けて、部屋の中に入っていった。  部屋の一番ひどい状態を高貴は既に目の当たりにしているので、今更『見られて恥ずかしい』なんて事はないだろうに。それに、『ちょっと整理』で片付けられるような次元の話ではないぞ、あの部屋は。ゴミ屋敷改装スペシャルとか、そういうテレビの特番を組んでやっとまともになるレベルだ。  三時間も待たされたりしたら嫌だなぁと思いながら、待つこと二分。巡がドアから半身を出して手招きする。あの程度の掃除では、間違いなく焼け石に水だろうと考えていたのだが、臭気はほとんどなくなっていた。一体どんなマジックを使ったのだろうと思ったのだが、見てみれば、リビングの扉が固く閉ざされている。磨りガラスの向こうには、積み上げられたごみ山が見えた。  リビングの扉の手前には、書斎に続く扉があり、高貴はそこに導かれた。書斎はほとんど使っていなかったようだ。三畳ほどの空間には、家具というものが全くなく、座布団二つと、救急箱だけが置かれていた。 「巡って掃除できないタイプ?」  と、高貴が座布団に座りながら言うと、巡は風呂場で洗ってきた足をタオルで拭きながら「やろうと思えば、できる……と思う……多分」と答えた。  やろうと思っていても、やらなきゃだめなんだぞ? と嗜めると、巡はグーの音もでない様子だった。  高貴は巡の右足を持つと、タオルを借りて、その足をよく拭いた。巡の足は、まるで作り物のように小さくて、小指なんかは、落花生くらいの大きさしかなかった。靴、何センチ? と尋ねると、二十二、と彼女は答えた。  高貴は救急箱の中から、全く使われた形跡のない消毒液でティッシュを湿らせて、それで傷口を拭く。当てた瞬間、巡が足を引く動作を見せた。だが、傷が外気に晒されてから大分経っている。今更痛いはずがない。  余分な消毒液を拭きとっていると、巡がぽつりと 「……なんか、高貴ってお兄ちゃんみたい」  そうつぶやいた。 「僕が兄貴?」 「何だかんだ言って面倒見がいいし、ひどい事言っても許してくれるし……。あー何いってんだろ私。今の無し」  巡は恥ずかしさに耐え切れず、立てた左膝に額を当てる。  高貴は目を細めて 「巡みたいな妹は、欲しくないな」  と言って、巡の頭をぽんぽんと叩く。  その時はなにも言わなかったが、包帯を巻き終えようかという時になって、巡は「本当?」と訊いてきた。  何が「本当?」なのか分からず、高貴が首を傾げると、「私みたいな妹が欲しくないって話……」と、自信なさ気に言い出した。まさかそんな言葉を気にしているとは思わなかったので、高貴は俯いた後 「こんな優秀な妹がいたんじゃ、僕の立つ瀬が無いからな」  と言って笑った。すると巡は得意げになって「それもそうね」と言って、ふふんと鼻を鳴らした。  巡の足に包帯を巻き終えた後、高貴は時計を見た。  もう十時になろうとしている。今日も父は残業だと言っていたから、まだ帰ってはいないだろうが、二日連続で夜帰りの息子を、母は嘆くだろう。あまり心配かけさせるわけにもいかないので、高貴が立ち上がると、巡が「帰るの?」と訊いてきた。 「うん。何か都合が悪い?」 「……別に」  巡が吐き捨てるように言う。  しかし続けて「今は、あんまり一人になりたくないのよ」とも言った。 「いつになく弱気だな。明日は初雪か?」 「弱気になんか、なってないわよ。……きっと、今が本当の私なんだと思う。ときどき、どうしても気付いてしまうの。自分が無力なお子様だってことに、ね」  どうして突然巡がこんな事を言い出すのか、高貴には分からなかった。  今日は、謎の核心に迫れたはずだ。捜査は順調に進んでいるはずなのに。 「巡、明日はお母さんに会うんだろ?」 「……うん」 「じゃあ沢山甘えてくればいいじゃないか。お前はまだ十ニ歳だろ? もっと子供っぽくてもいいはずだ。寂しいなら寂しいって言えばいいよ。むしろ、言わなきゃだめだよ」  巡は「そう、かな?」と首を傾げる。 「もちろんだ。だから、今日は早く寝なよ。事件のことも、全部忘れてさ」  家に帰ると、やはりまだ父は帰っていなかった。代わりに、母にガミガミと言われてしまった。こんな時間まで何してたの? という問いに対して、「先生の家で勉強をしていた」といういいわけを使えるのは便利だ。一応巡は先生代行だ、嘘にはならない。  自分の部屋に戻ると、すぐに坂田博士に電話した。  長らく出来なかった報告を、今日中にはしてしまおうと決めていたからだ。彼はやはりすぐに電話に出た。電話の向こうは、かなり騒がしく、坂田博士の「もしもし」という声すらも、聞こえないくらいだった。  だが、扉が開閉する音を最後に、その騒音はピタっとやんだ。まるで、スピーカーの電源を切ったかのようだ。きっと研究のことで色々と忙しいのだろう。悪いタイミングに掛けてしまったかもしれない。 「こんばんは高貴くん。なにかあったのかね?」 「……そっちこそ、何かあったんですか?」  坂田博士は高らかに笑った後 「ラボラトリメンバーの国広君の焼きそばパンに、わさびを仕込むという悪戯が成功してね。大盛り上がりだったんだ」 「……なんか、楽しそうですね……」 「彼は辛いものが苦手だから、食べた途端に涙目になってね」  まさか国広君も、種子島宇宙開発センターまで来てこんな悪戯をされるとは思っていなかっただろう。  これは多少長電話しても問題なさそうだ。  高貴は「捜査の結果ですが」と切りだして、円盤で分かったこと、そして、奥多摩湖で撮られた殺人動画について話した。現地に赴き、実際に調査を行ったことも話した。高貴は、自分がいかに危険なことをしていたのかよく理解していた。だから怒られるのも覚悟の上だったが、今話さなくともいずれはバレることだ。自己申告のほうがいい。  坂田博士は話の全てを聴き終えて 「それで、高貴君はどうする気だね?」 「はい。警察に残りの全てを任せて、捜査から手を引くつもりです」 「それに対して巡は?」 「まだ話し合ってはいません。……多分、反対されると思います。彼女は、事件を自分の手で解決したいって思っているみたいです」  高貴には、巡がなんでそんなことを考えているのか、さっぱり分からなかった。  高貴の知る巡は、表彰されたいが故に危険を冒すようなタイプではないし、自分の行動をある程度は客観視出来る、そう思っていた。だが、事件のことになると巡は盲目になり、後さき考えずに行動するのだ。これじゃあ生命がいくつあっても足らない。  坂田博士は「やっぱり」と言ったあと 「巡君を悪く思わないでくれ。彼女は、別に手柄が欲しくてやっているわけじゃないんだ。複雑な話になってしまうけど、それでもいいかな?」  高貴は「はい」と返事した。 「巡が日本に来たのは、大学が卒業できなかったからなんだ。彼女はアメリカでも有名な大学にスキップで入っていたんだが、……きっと、あの年で注目されすぎたんだろうね。半ばひきこもり、みたいになってしまった」 「あの巡が?」  高貴は咄嗟にそう返してしまった。だが冷静になって考えてみると、彼女は特別精神が強いわけではなかったのだ。ただ、他人よりも意地っ張りで、我慢強い。違うのはそれだけで、心は普通の十五歳じゃないか。  きっと、「他の人と違う」と言うところが、彼女にプレッシャーを与えていたんだろう。 「うん。……本当はこんな話をする予定ではなかったんだけど……。とにかく、巡は大学を追い出されてしまったんだ。天才だと騒いでいたメディアも一遍に彼女を見放した。そして、母親も見放した」 「母親、ですか?」 「うん。坂田時峰(さかた ときみね)。教授をしている生物学者だ。巡が天才だと騒がれていたときは彼女のことを大切に育てていたんだが、大学を追い出されたとなると、巡を私のもとに預けて自分だけアメリカに帰ってしまった。それが今年の秋に起こったことだ」 「でも、それがどうして今回の事件につながるんです?」 「つまりだね。巡君はもう一度自分が『天才』として注目されれば、母親が迎えに来てくれると思っているんだよ。そんな事しても無意味だというのに……でも仕方ないのさ。彼女は生まれてから『勉強』以外してこなかったんだから、本に書いてあることを除けば、幼稚園生よりも無知なはずさ。例えば、他人の感情だとか、そういうものに関しては」  坂田博士との電話を終えて、高貴はベッドに体を投げ出して、携帯電話を枕の裏に隠した。巡は、明日母親に会うと言っていた。自分は、母親というイメージから勝手に推測して、その人に甘えればいいと教えたのだが、その母親こそ、巡がもっとも頼ってはいけない人物ではないだろうか。  高貴の考える母親は、当然のように自分の娘に愛を与える。だって、お腹を痛めて生んだ子なんだ。可愛くないはずがないだろ? でも、坂田博士の話を聞く限り、その母親はろくでもない奴だ。偉い学者だかなんだか分からないが、これだけはきっぱりと言える。ろくでもない奴だ。  でも、それを巡に言えるはずがない。だって、巡には何の責任もないじゃないか。子供は親を選べないんだ。「母親には会わないほうがいい」、それをどうして他人である自分が言えるだろう。  ……巡は、付いて来て欲しいと言っていた。それは、母親に拒否されるのではないかという不安から来た言葉だったのだろう。他の誰でもなく、巡は自分を頼ってきてくれたんだ。それなのに……。  携帯が振動して、着信を知らせる。  本当は出たくなかったが、出ないわけには行かない。  やはり文月からだった。 「高貴さん! こんばんはっス! あの、あの、明日の予定を組んでみたんですけど――」 「文月さん。その前に、どうしても言わなくちゃいけないことがあるんだ」 「な、なんでしょう? 改まって」  その声には、ある種の期待が寄せられていた。でも、自分は彼女を最悪の形で裏切らなければならないのだった。明日がクリスマスでなければ、もう少し罪も軽くなっただろうに。 「明日、どうしても外せない用事が出来たんだ。ごめん」  と、見えもしないのに頭を下げてしまった。  電話の向こうから、文月の乾いた笑い声が聞こえた。 「やっぱりそうですよねー。なんか、一人で舞い上がっちゃってばかみたいっスね。明日は巡ちゃんとお出かけですか?」 「いや。違うんだ。でも、なんて言ったらいいのか分からない。せっかくのクリスマスなのに、本当にごめん。出来るなら埋め合わせしたい」 「あははは。そんな今生最大の後悔みたいに言わなくていいっスよ! どうせ、兄貴達がパーティに誘ってくれていたんで、そっちに参加します。だから、全然気にしなくていいっスよ」  よかった。文月にもちゃんと身の振りようがあった。  その事に、高貴は本気で安堵した。 「……高貴さん。何かあったんですか?」 「何かって?」 「はい。凄い、悲しそうな声ですから……。あ、でもあんまり気にしないでくれっス。それじゃあ私はこれで」  文月からの電話が切れ、急に、部屋が静寂を取り戻す。  高貴は持っていた携帯電話を放り出すと、「あー」と声を出してみた。  悲しそうな声、なのかは判断がつかなかった。                       2  クリスマスの朝、高貴は寝台に引っかかっている脱いだ靴下を確認もせず、すぐに言えを出た。時間にして、八時くらい。白い靄がかかっており、太陽の輪がその形を歪めていた。自転車に乗ると、頬を撫でる風が、まるで凶器のように鋭く感じた。  文月との約束を断ってしまったことに、罪悪感があった。でも、後悔は感じなかった。もしも巡を放っておいて遊びに出かけてしまったら、きっと自分は巡のことばかり気にしてしまって、文月に悪い思いをさせてしまうだろうから。  巡はただ、自分の母親と一緒に過ごすだけ。  たったそれだけのはずなのに、どうにも胸騒ぎが収まらないのである。杞憂に終わってくれるのが一番いいのだが……。  マンションに着くと、関係者専用の駐輪場に自転車を停めた。そこには巡が乗ろうとして挫折した自転車が、そのままの形で停められていた。やはり巡には少し大きすぎるだろう。何度見てもそう思う。  マンションの入り口で、ばったりと巡に鉢合わせてしまった。彼女はいつも着ている白衣を脱ぎ、デニム生地のショートコートを着ており、ショートパンツ、そして黒のニーソックスを合わせている。どことなく、ボーイッシュな印象を与えられる服装だ。  巡はショートパンツのポケットに手を突っ込みながら 「どっかで待ち合わせ?」  と首を傾げる。 「いや、そういうのじゃないんだ」  と両手を振って、「なんて言うか、約束がなくなっちゃってさ。君に会いに来たんだ」  巡は口門を釣り上げると 「ふーん。最初からそんな約束なかったんじゃないの?」 「いや。本当にあったんだって」 「見栄っ張りね。素直に負けを認めなさいよ。僕はクリスマスを無駄に過ごそうとしていた寂しい男ですーって」  誰のために誘いを断ってきてやったと思ってんだ。と、恩着せがましいことを言いそうになったが、それを飲み込んで、「どこで会う予定なんだ?」と話を変える。 「えっとね。駅のすぐ近くにある喫茶店なんだけど」  巡は軽い足取りで歩いていた。  このまま彼女に羽が生えて、空に吸い込まれてしまっても、まったくおかしくないと思ってしまう。  彼女が歩くたびに、金色の髪の毛が揺れている。いつもは寝ぐせがついていて飛び跳ねているのに、今日に限っては、そういう事が全くなかった。きっと入念に梳(と)かしたのだろう。  喫茶店に入ると、巡がなにか言いたげな――不満そうな目でこっちを見てきた。高貴は「はいはい」と返事すると、巡とはす向かいの席に座った。巡に目配せするが、彼女は俯いたまま、こちらを見ようともしない。店員が注文を取りに来たのだが、連れがいると言って、自分だけ頼もうとはしなかった。目的を見失った店員が、続けてこちらに注文を取りに来たので、高貴はとりあえずコーヒーを頼んだ。特別にコーヒーが飲みたいわけではなかった。なんでも良かったのだ。  巡は指を組んで、じっとその時を待っていた。禅の修行でもしているんじゃないかと思うくらい、表情が強ばっていた。彼女にとって今日のイベントは、それほどまでに大事なことなのだろう。高貴は自分の母親のことを思い出した。――思い出すと言ったって、母は今頃家で洗濯物を干し始めているはずだし、会いに行こうと思えばすぐ会える。  自分は、母親に注意されたり、怒られたりすることが当然の事だと思っていた。子供はそうやって「なにが駄目なのか」を学んでいくものだと思っていた。でも、巡は違う。彼女は誰にも叱られたことがないし、怒られたこともない。そして、それに疑問を感じていない。  巡にとっての母親って、一体何なんだろう?  差し出されたコーヒーからは湯気が立っていた。おかわりの際はお申し付けくださいと店員は残して去っていった。白いマグカップに溜まる真っ黒いコーヒーにミルクを注ぐと、大分マシな色になった。思えば、自分はこういう店でコーヒーを頼んだことがなかった。コーヒーといえば、缶でしか飲んだことがない。何度も飲んだコーヒーなのに、こうして顔を合わせるのは初めてだったのだ。それは、なんだか意外なことだった。  クリームを入れたはいいものの、巡があんまりにも神妙な面持ちで待っているせいで、どうにも飲む気になれなかった。結局、コーヒーの湯気が消えるまで、巡の机を見ていた。一体何時に待ち合わせているのだろう。喫茶店に入ってから、もう三十分は経過しようとしていた。約束の時間に遅れているのだろうか。  そう思った矢先、ドア鈴が来客を知らせる。さっきの店員が犬みたいに、その客の元へ寄って行った。  一目で巡の母親だと分かる容姿だった。年齢不詳、と言う言葉の代表例みたいな女性で、白衣を身にまとっている。童顔であり、背丈は高貴よりも少し低いくらい。紺色のネクタイを首から垂らしていた。スカーレット縁のメガネは真新しく、頬には笑みを蓄えている。巡と容姿は似ているが、その雰囲気は全然違っていた。巡は初対面の時、獰猛な肉食獣みたいな殺気を辺りに払っていたが、彼女は柔和で落ち着きのある空気をまとっている。  母親の登場に驚いた巡が、肩を少しだけ跳ねさせて、卵から孵ったばかりの雛鳥みたいな顔をする。嬉しさや戸惑いが滲み出ている。  僕と一緒にいたとき、あんな顔を彼女はしてくれただろうか。  そう考えると、高貴は誰に責められているわけでもないのに、暗い気持ちになった。巡と母親、この間には、自分では到底太刀打ち出来ない血のつながりがあると、思わないわけにはいかなかったのだ。 「メグちゃん。ごめんね待たせちゃって」  と、母親――時峰が言った。その雰囲気に似合う、穏やかな声だった。  巡は首を振ると「私も、今来たところだよ」と言う。本当は何十分も待っていたのに、気を使っている。再び注文を取りに来た店員に、巡が「コーヒー」と言った。 「それだけでいいの?」  と、時峰に言われ、巡は続けて「あの、じゃあトーストも……」と頼む。 「時峰さんは?」  巡の問いに対して、時峰は「私も同じ物を」と店員に告げる。  店員が去っていったのを見計らって、時峰がこう切り出した。 「三ヶ月ぶりね。背、伸びた?」 「うん。一センチだけ」 「そう。でも、あまり背の方は期待しないほうがいいわよ。それに、胸もね」  普通に談笑しているのを見て、高貴はやっと安堵することが出来た。冷め切ったコーヒーを一気に飲んで、長い息を吐く。どんなに酷い人が来るのだろうと思っていたが、感じのいい人で良かった。巡も、本当に楽しそうに話しているし。  そう思い始めた自分に対して、高貴は頭を振って思考を切り替える。時峰は巡を捨てた母親だぞ。そんな奴が、いい人であるはずがないじゃないか。巡にその自覚がないとしても、捨てたのは事実。それは留意しておかなければならない。  トーストとコーヒーを持った店員がやって来た。  厚切の食パンの上に、はちみつとアイスを乗っけた物で、なかなか美味しそうなものだった。朝ご飯も食べずに家を飛び出してきた高貴は、今になって空腹に気付いたのだった。巡はフォークとナイフを使って丁寧に切り分けると、まるでステーキでも食べるみたいに、口へ運んだ。一方、時峰は、出されたものに触ろうともしていなかった。トーストの上に乗るアイスが、消えようとしている。  いつまで経っても手をつけない時峰を、巡は気まずそうに見ていた。 「美味しい?」  時峰はにこにこ笑っている。肘を机に着き、指を組んでいる。  巡が頷くと、時峰は「こっちの生活はどう?」と訪ねる。  巡は答えづらそうだった。どう言う意味か高貴には分からなかったが、一度、高貴と眼があった。その瞳には、困惑が色濃く反映されている。この質問は、そんなにも難しい問いだろうか。  時峰が巡の返答を諦めて、次の質問を口にした。 「電話のお話の続きをしましょうか」  巡が顔を上げる。  電話のお話。高貴は全く聴いていない話だった。もちろん、巡に私生活全てを赤裸々にしろなんて言うことは出来ないので、親子間だけで行われるやり取りに口出しすることはできないのだが、自分をここへ呼んだ以上、「何を話し合うのか」についての予備知識くらいは欲しかった。 「メグちゃんに、アメリカへ帰ってきて欲しいの」  高貴は思わず立ち上がる。その時、膝をテーブルにぶつけてしまい、ソーサーの上からマグカップが転がった。幸い、全部飲みきっていたため、テーブルの上に世界地図が描かれることはなかったが、巡と時峰がこっちを見る。高貴はあくまでも居合わせた他人という設定なので、素知らぬ顔で席についた。  巡がアメリカに帰る?  あまりにも衝撃的な話だったので、高貴はなにも考えることができなくなっていた。  巡とは、いつかは離ればなれになる。それはよく分かっているつもりだった。結婚しているわけじゃないんだから、いつまでも一緒というわけには行かないだろう。でも、これはあんまりにも「あんまり」じゃないか。  動揺の色を隠しきれない高貴を、巡は少しだけ見た。申し訳なさや、諦め、そのようなものが汲み取れた。でも、そこに後悔はなかった。彼女はこの話を聴かせるため、わざとここへ導いたのだ。そう、高貴は直感した。 「メグちゃんを助手に欲しいって大学の教授がいるの。Astrophysicsを専門にしている先生なんだけどね、分野が出来てまだ間もないから、新しい才能が欲しいみたい。彼はその学問の先駆者的な位置にいるから、きっと最先端の研究が出来るとおもう」  Astrophysicsとは天体物理学の事だ。名前くらいしか聞いたことがないから、どのような研究をするのか分からない。でも、そんなのは関係ない。高貴は祈るような気持ちだった。  巡、断ってくれ。  でも、それはとても自分勝手な願望だ。巡には巡の人生がある。彼女にとって、その助手のホストが良いものならば、選ぶべきである。これは千載一遇の機会なのだから。 「私は今、日本の警察から捜査の依頼をされています」 「それは聞いたわ。でも、それって本来は裕典博士の仕事でしょ? メグちゃんが責任を持つ必要はないわ」 「そうじゃなくて、私は仕事を途中で投げ出したくないんです」  巡がはっきりという。  時峰は面白くなさそうだった。 「じゃあ助手の件は断るの?」 「……捜査はもう大詰めまで来ています。だから、ほんの数日だけ待ってもらいたいんです。この件が終わったら、帰国します」  話し合いは十分ほどで終わったと思う。結局、時峰は出されたトーストとコーヒーには、一口も手を付けなかった。巡の前には、すっかり冷めたそれらが、そのままの状態で置かれており、まるで透明人間とお茶会しているみたいだった。  高貴はそんな巡に声を掛けることができなかった。それは、彼女の前に座る透明人間が邪魔しているからではない。自分はまだ、さっきの話を飲み込めていなかったし、心もかなり混乱していた。  事件が終わったら、巡はアメリカに戻ってしまう。  彼女の口から、はっきりとその言語が出た。  どうしてだよ、なんでこっちに居ちゃ駄目なんだよ。そう、見苦しいくらい問い詰められたら、どんなに楽だろう。体面、体裁気にせずに、自己中心的な部分を全面に押し出して、「帰るな」と言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。  とても怒るかもしれない。困惑するかもしれない。もしかしたら、喜んでくれるかも。  でも、自分には到底無理な話だった。 「高貴」  名前を呼ばれて顔を上げると、巡がこちらの席に移ってきていた。円状の金属には、二つ分の伝票が突っ込まれている。  巡は酷く悲しげだった。いや、もしかしたらそう見えるだけで、彼女は心の底では喜んでいるのかもしれない。最愛の母親と再び暮らせることを、自分の才能を活かす場所に再び舞い戻れることを。日本は彼女にとって仮の宿でしかなく、自分もまた、体(てい)の良い小間使い程度なのだろう。  苛立たしさが募ってきて、段々と、考え方もシャープになってきてしまった。こういう時こそ冷静さを失っては駄目なのに。 「今の話、聞いてくれた?」 「うん」  ああ、とてもよく分かったよ。むしろ、分かりすぎて困るくらいだ。  それから、大分間を開けた後。 「……どう、思った?」  と、巡が訊いた。  どう思ったか、そんな事聞かれるとは思わなかったので、高貴はつい「え?」と聞き返してしまった。巡が懲りず同じ質問をする。  どう思った?  なぜ自分にそんな事を訊くのだろう。  道を歩いていたら突然カメラを向けられ、パレスチナ・イスラエル問題について語ってくださいと記者に聞かれる。これくらい唐突で、畑違いで、容易に口を出せないことだった。  この感じを、自分ば最近味わったことがある。それは、文月に「宇宙人はいるか?」と質問されたときのことだ。あの時も、自分は同じように混乱した。  近頃の女の子は、このように、難しい質問をして人を困らせるのが流行っているのだろうか。いわゆる、小悪魔系女子って感じか。勘弁してくれ。僕を巻き込まないでくれ。  目を耳を塞いで、体育座りして、膝の間に頭をうずめたいくらいの気持ちだった。こんな惨めな思いをするくらいだったら、時峰が帰るとき、自分も一緒に店を出てしまえばよかったのだ。そうすれば、少なくともこんな質問をされることはなかった。 「高貴、聞いてる?」 「ああ。よく聞こえてるよ。むしろ、聞こえすぎて困るくらいだ」 「なんで苛々してんの」  そう図星を指されてしまい、 「してないよ」  と、見え見えの嘘を吐くしかできなかった。  巡がどう思っているのか分からないが、あの母親は一度お前を捨てているんだぞ? どうしてまた、あいつに付いていく気になれるんだ。  最初は、時峰の無責任さに対する怒りを覚えていたけど、今は少し違っていた。時峰のことを、何の疑いもせず信用する巡に自分は苛立っていたのだ。 「……本当に、行く気なんだよな?」  少しの沈黙のあと、巡は頷いた。 「なぁ、日本も良いところだろ? そりゃあ、こっちじゃ君はただの十五歳かもしれないけど、どうしてそれが不服なんだ」 「……ただの十五歳じゃ、駄目なのよ」  巡はつぶやいた。  ただの十五歳じゃ……駄目? 高貴には、その言葉の真意が読み取れなかった。 「出来の悪い助手と離れるのはちょっと心配だけどね。なにも今生の別れになるわけじゃ無い。アンタも本気でこっちに進もうってんなら、すぐに会う事になるわよ。なにせ、広い世界を研究する割には狭い世界だからね」  それよりも、と巡が話を変える。 「今から少し、付き合ってくれない?」 「絶対離さないでよ!? 離したら殺すから!」  巡の大声が、河川敷に響く。場所が違えば、通報されそうな言い方だった。  川から吹く風が容赦なく二人の髪をざわつかせる。巡のあまりの慌てぶりに頬を解くと、乾燥した唇が割れた。巡はネズミ色のサドルに不恰好に腰掛けて、腕をクワガタの角みたいに広げてハンドルを握っていた。  巡のお願いとは、これのことだった。  今日を除けば、あとは残りの捜査をして帰国だけ。今日という日を逃したら、もう自転車の練習はできないと言い出した。なにもメリー・クリスマスに練習なんてしなくてもいいんじゃないか。お洒落なレストランに入って夕食を食べるのも良いし、電車に乗って美しいツリーを観に行くのも良い。クリスマスしかできない事がたくさんあるのに、彼女はわざわざこれを選んだ。  高貴は銀色フレームの自転車の、荷台を両手で掴んでいた。  まずはバランスの練習をするらしい。自転車の両足スタンドを立てたまま、ペダルを回している。これならば、高貴が抑えている意味は皆無なのだが、手を離したら殺されるらしいので、力をいれるふりだけしておいた。 「巡、そろそろバランスの練習はいいから、こいでみたらどうだ? 案外簡単だぞ?」 「自慢じゃないけどね、私はエスカレーターに乗るのが今でも怖いのよ。降りるタイミングを間違えたら、あの隙間に巻き込まれるんじゃないのかと……」 「それは本当に自慢じゃないな」  高貴は自分が初めて自転車に乗ったときのことを思い出す。父親が後ろを支えてくれて、掴みながら走ってくれたのだ。そして、手が離れたことに気がつかず、いつの間にか一人で走れていた。  自転車は子どもだった自分の行動範囲を、『町』から『市』の規模に変えてくれた。今では、公共機関を利用することで『市』から『都』の規模で移動することが出来る。いつから免許を取り、都道府県間の移動すら簡単になるのだろう。 「そろそろ良い頃ね」  と巡が言ったので、高貴は両足スタンドのロックを解き、自転車を下ろす。 「次はハンドルの操作を――うぎゃあ」  と、巡は叫び声を上げて呆気無く倒れた。両手を前に伸ばして、まるでヘッドスライディングするみたいに。 「あっ、まだ走りださないの?」 「この役立たず!」  と、膝に土つけた巡が、高貴のことをぽかぽかと叩く。 「でも、習うより慣れろって言うだろ? 多くの子どもはそうやって沢山の擦り傷を作って体得していくんだ」 「私は子どもじゃないし、そのやり方は非効率的だわ。とてもじゃないけど真似できない」 「じゃあどうやって学ぶのが効率的なんだ?」 「それを今やろうとしている!」  それなのにあんたは自分勝手に進めた挙句、多大な犠牲を払って……と、巡が説教を始めたので、高貴は倒れていた自転車を立て直し、練習を再開するよう勧めた。巡は不満気に「次勝手に発進させたら嫌いになるから!」と怒鳴る。  はいはい。と、高貴は適当に相槌を打った。  ハンドルの使い方、ブレーキの使い方、それぞれ数分練習して、巡はとうとう「よ、よし。試行するわよ」と言った。彼女はまるで銅像みたいに全身の筋肉を萎縮させていた。眼を閉じていたので 「流石に目隠し運転はまだ早いと思うよ?」  と注意すると 「だって、倒れるとき怖いじゃん……」 「せめて倒れるときに目を閉じなよ。失敗する前提で試したって、うまくは行かないよ」 「……なんかむかつく」  巡はジトっとした眼で高貴を睨む。  高貴は苦笑して顔をそらす。その時、川の向こうに巡の住む高層アパートが見えた。他の建物とは一線を画す大きさだった。  両足スタンドを外した巡が、なんとかペダルを半周させる。だがそれまでだった。ハンドルを九十度曲げたせいで、彼女の体は再び自転車から投げ出されることになった。巡は黙々と立ち上がると、自転車を立て直す。もう文句は言わなかった。  そんな彼女を見ていると、胸の苦しみがますます強くなっていくのを感じた。自分がどうしてこんなにも巡をアメリカに返したくないのか。それが高貴にはよく分からなかった。自分の感情がこんなにも不鮮明に思えたのは、これが初めてだった。自分が自分じゃないような気にさえなる。  巡が四度目にずっこける。それを、高貴は少し離れたところから監督していた。時々「足動かさないと駄目だぞ」なんてアドバイスをするのだが、果たしてそれが耳に入っているのか。  黙ったまま立ち上がる巡に近寄った。せっかく新しい服を着ているのに、それらは土で酷い有様になっていた。せめて汚れてもいい服に着替えてから練習を開始するべきだったのだ。高貴は巡の手をとると、その小さい手のひらに付く土を手で払う。 「巡。後ろから押してやるよ」 「……『してやる』って言うな……」  巡が泣きそうになっていたので、高貴は慌てて 「後ろから押させてください」  と言い直す。巡はこくっと頷くと、酷く緩慢な動作で自転車に乗った。その動作の合間に、なんとか気を取り戻しているようだった。  高貴は自転車の荷台を掴んだまま言う。 「途中で勝手に離すから」 「そういうのって言わない物じゃないの?」 「言わないほうが良かった? 知らずのうちに手を離されてると、案外寂しいもんだよ」 「……変な奴ね」  巡が笑う。  高貴が荷台を押す。巡はなんとかハンドルを握っている。 「じゃあ離すからな!」  宣言した一秒後、手を離すと、巡はふらふらと自転車を進めて、二十メートルくらい進んだ。遠くから「やっぱり私って天才ね!」と言う、酷く高慢な叫び声と高笑いが聞こえ、そのまま川原に突っ込んだ。  もちろん、これ以上の練習の続行は無理だった。巡の服はびしょびしょだし、自転車も前輪がパンクしていた。だが幸い、巡自身に大きな怪我はなく、川原に突っ込んだばかりだと言うのに、彼女はひどく嬉しそうだった。  高貴は、自分が着ていたホワの着いたジャンパーを彼女に被せ、彼女をおぶっている。左手で巡がずり落ちないよう支えて、右手では自転車を押している。巡は、そのボリュームのある髪や服が濡れているので、いつもよりは重く感ぜられたが、それでも、負担になるほどじゃなかった。  練習に熱中していたときは全く分からなかったそうだが、どうやら膝小僧をすりむいていたらしい。おんぶなんて、てっきり嫌がると思ったが、テンションの高さが幸いして、彼女は全く嫌がる素振りを見せなかった。  巡から滴る水が、高貴も濡らす。十二月というだけあって、水は氷の粒のように冷たかったが、寒いとは思わなかった。 「私、自転車乗れたよね?」  何度目だろう。この確認をされるのは。 「ああ。乗れたね。それに、E・Tみたいに空も飛んだし」 「自転車で空をとぶなんて、なかなかできないわよね」  皮肉のつもりだったのだが、彼女は得意満面。  確かに、自転車で空を飛ぶなんて、普通の人はまず出来ないだろう。というか、やらないだろう。大した奴だ。間違いなく天才だ。巡が「次は車道を走る練習をするわ」と言い出したので、高貴は慌てて「それだけは絶対にやめろ!」と言った。こいつが車道なんて走ったら、十メートル毎に事故が起こる。命がいくつあっても足りないとはこの事だ。  巡はひたすらに上機嫌だった。全身ぼろぼろの癖に鼻歌なんて歌っている。彼女の柔らかい頬が、高貴の肩に当たった。そのシルクのような金髪は、高貴の頸動脈に触れている。刃物を突き付けられているような感覚がして、高貴は緊張した。  巡がおもむろに口を開く。 「高貴」 「ん?」 「捜査、頑張ろうね?」 「ああ」  どうしたんだろう、突然改まって。  もう、外は大分暗くなっていた。あちこちで街灯が点き始め、駅前に飾られるクリスマスツリーが点灯する。巡が住む高層マンションの前に来た時、そのツリーがビルの間から見えた。えらく綺麗だった。 「まるで作り物みたい」  彼女の言葉が、とても印象的だった。  巡を下ろした。彼女はジャンパーの袖に腕を通すと「これは洗って返すから」と言う。別にいいのだが、今日は彼女の好意に甘えることにした。 「自転車、駐輪場に入れておくから」 「サンキュー。助かるわ」  これで別れの挨拶のはずなのだが、お互い、なんとなく言い出せなくて、その場に立ちすくんでツリーを眺めた。ここからだと、盆栽くらいの大きさしかないクリスマスツリー。もみの木じゃない、アメリカフウと呼ばれる落葉樹に、無理やり電灯を巻きつけているだけだ。頂きには星の姿もない。でも、それでも綺麗だと思えた。 「巡。携帯電話って持ってる?」 「な、なによ突然」  明らかに警戒されていた。 「え〜っと。ほら、一応僕は助手だろう? だから巡の電話番号くらいは持って置いたほうがいいかもって思ったんだ。くだらないメールをしたいってわけじゃないんだ。あくまでも、必要事項の連絡とか……」 「ま、まあそういう事情なら仕方ないわね。確かに、番号くらい上げておいたほうが今後なにかあったときに役に立つかもね。幸い、こっちに来た時おじいちゃんが買ってくれた電話があるから、その番号でいい?」 「おう。……でも、その、どうしようもなく暇な時とか、掛けてもいいか?」  女の子から電話番号を訊くなんて、高校に入ってから初めてのことだった。彼は、特に誰かと電話をしたいなんて考えたことはなかったし、訊かれれば答えるが自分からは訊かないというスタンスを取り続けていた。  だから聞き方なんてとっくのとうに忘れていたし、かなり恥ずかしかった。文月はこんなにも恥ずかしいことを平然とやっていたのだと考えると、彼女に敬意の念さえ抱きそうだった。 「まあ、私が暇なときは出てやってもいいわよ」  と、巡が顔をそらす。  便宜上は、あくまでも事務的な番号交換だったのに対し、二人の言動は酷く稚拙で、かなり幼稚だった。巡の姿がマンションの中に消えて、高貴は電話帳に新たに登録された『坂田巡』の名を見て眼を細める。  だが、ふと冷静さを取り戻し、「何をやっているんだ僕は」と自戒した。巡の電話番号が手に入ったくらいでこんなに喜んで。これは個人的な理由で使うものではなく、助手として、というのが本分である。巡は、まあ少しくらいだったら電話に付き合ってやると言ってくれているが、彼女の好意に甘えては駄目だ。  高貴が携帯電話をポケットにしまったとき、電話が震えた。相手は、巡だった。 『ちゃんと掛かってる?』 「うん。聞こえてるよ」 『そう。一つ言い忘れてたことがあったから電話したの。……今日は色々ありがと』  思わぬ言葉に、高貴は「え?」と聞き返してしまった。  あの巡が嫌がる素振りひとつ見せず、自分から感謝の言葉を口にしたのである。初めて地面に立とうとする仔馬を見たような、高貴はそんな気持ちになった。 『それじゃあエシュロンに監視されてるかもしれないから切るわよ』 「そんな都市伝説を信じてるのか?」 『まさか』                      3  今日は二日ぶりに、早く帰宅することが出来た。母親が台所の小さなテレビでニュースを見ている。クリスマスと言うだけあって、なかなか手の凝った料理が食卓に並べられていた。我慢できず唐揚げを摘む。咀嚼している最中に母親がこちらには目もくれず 「怖いわねぇ」  とつぶやいた。  連日夜帰りだった息子に対しての言葉かと思って、慌てて口を手で隠すが、そんな下らないことではなかった。なんと、テレビには奥多摩湖近くの映像が映されていたのだ。高貴は食卓に手を着くと身を乗り出した。  金属の円盤が、全国放送されている。  それだけならばまだ納得できる。いつまでもごみ山に突き刺さったままの円盤を、警察は隠しておくことは出来ないだろう。だが、高貴が驚いたのはそれだけではなかった。  ヘリから撮影されているのだろう。夕焼けによって、山火事にでもなっているんじゃないかと思うほど赤い山々を、上空から見下ろしている。そこには、いくつもの金属円盤が存在したのだ。  円盤は、一つではなかった?  TVレポーターが胸のうちをさらけ出す。  奥多摩に不法投棄された重さ二トンの円盤、これは宇宙人からのメッセージなのでありましょうか? それとも、爆発物の類なのでしょうか。警察は国道四百十一号線を封鎖。厳戒態勢を敷いています。  高貴は慌てて携帯電話を取り出すと、すぐに巡に電話を掛けた。まさかこんなに早く電話を使う破目になってしまうとは思わなかった。  巡は二回目のコールが鳴り止まないうちに応答した。その出かたは、坂田裕典博士を彷彿とさせる。 「巡、今テレビ見てるか?」 『もちろん。今回の放送大学はスペイン語講座だからね。見逃せないわよ』  放送大学を心待ちにする十五歳なんて、世界広しと云えどもお前だけだ。 「そんな物はいいんだよ! 今すぐ別のチャンネルをつけろ!」 『Por que?』 「今スペイン語の練習をするなっ。とにかく、ニュースを見てみろ! 円盤のことが放送されてる」  電話の向こうから聞こえていた異国の言葉が途絶え、代わりにニュースキャスターの声が聞こえてきた。巡は十秒ほどの沈黙の後、『全部で九個か』と、至極冷静な声で言った。 「どう思う?」 『記者に先越されたのは悔しいわね。でも、まぁまた新しい情報が手に入ったから吉とするか……。今すぐ私の家に集合して。あの小娘にも連絡すること』 「小娘? 文月の事か」  お前のほうが年下だろう。 『こう言うことには人一倍詳しいはずだから、きっと役に立つと思う。それと、もしかしたら今日は帰れなくなるかもしれないから、親には先生の家で勉強会してくるって言っておくこと』  そして電話は切れた。  ニュースを見た途端に慌て始めた高貴を見て、母親は訝しげにしている。妙な事に顔を突っ込んでいると思ったらしい。残念なことに、それは当たっていた。高貴は夕食をかきこむような勢いで食べ終えると、脱いだジャンパーを再び着直した。内側はまだ湿っていたが、特に支障はない。 「またどこか行くの?」  と、母親は呆れ気味に言った。  この事件がどこへ向かっていくのか、それは高貴も分かりかねることだった。  自転車をこぎながら文月に電話をかけると、彼女はひどく慌てた様子で『高貴さん見ました!? さっきの!』と言った。 「……まさかスペイン語講座の話じゃないだろうな?」 『何のことっスか?』  わからないならいいんだ。と、高貴はくだらない話を適当に切り上げて、すぐに本題へ移った。 「その事で話があるんだ。今から駅に来れるか?」 『もちろんっス』