ジャパン・タイムズが報じた「三光作戦」

―KILL ALL,ROB ALL,BURN ALL―


 1996(平成8)年9月26日付の「THE JAPAN TIMES」 は、

"殺しつくし、奪いつくし、焼きつくせ"

元軍人、支那における残虐行為を後悔

 というセンセイショナルな見出しのもと、ほぼ1面を使いきった大報道(下写真。下の一部をカット)となりました。
 ジャパン・タイムズは、発行部数約8万部と聞いています。部数自体は大したことはないのですが、問題は読む層にあるでしょう。日本語のわからない英語圏の人たち、わけても日本駐在の海外メディアの記者、大使館関係者たちは、これら英字新聞を情報源とするはずです。
 そこにこの類の記事がでてきます。よりによって日本の新聞が、根拠もなく自国軍の残虐行為を告発するとは考えないでしょうから、事実と受けとって当然でしょう。おそらく喜んで記事にしたに違いありません。
 しかも、この種の記事が頻繁に紙面に現れるのですから、いかに日本軍が残虐な軍隊であったかというイメージ を確かにしたことでしょう。ですから、われわれから見れば、実にバカバカしいと思うものが、堂々と記事になって登場します。
 そして、この記者をはじめ、日本に在住する外国人は、語り部 となって本国やあらたな駐在地に赴くわけですから、日本がうけたダメージ ははかりしれません。

  1  訳文をご覧ください

 とにかく訳文をご覧にいれます。文中の赤色は私がつけたものです。なお、新聞コピーおよび訳文は前田修氏 から提供いただきました。

 〈 金子安次(76歳)は前線の歩兵であった50年以上前に、自分が支那人に加えた恐ろしい仕打ちを鮮明に憶えている。
 金子(東京都東大和市在住)は、1941年10月に山東省にいた。この地で金子の所属する部隊はある村を襲ったのである。
ジャパン・タイムズ 金子によると、その村は頑丈な城壁で防御されていたので、部隊は攻めあぐんでいたという。そこで帝国陸軍の部隊は秘密兵器毒ガスを取り出した。
 部隊は「赤筒」(赤筒というのは、激しいくしゃみや吐き気を生ぜしめるガスが充満した筒を示す暗号名である)に火を点けた。煙がその村に立ちこめると、支那兵および支那民間人は苦痛のあまりよろめきながら街路へ出てきた。
 「われわれは彼らを撃ちまくりました。彼らは束になって地面に倒れました。」と金子は回想している。
 かつて支日戦争(訳註、支那事変のこと)に従軍し、現在は電気部品会社を経営している金子は、最近東京の新宿で開かれた「毒ガス展示会」で、化学兵器は「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」ことを目的とする「三光」作戦(原文は"sanko" operation) の一環として用いられた 、と語った。
 金子によると、多数の兵が赤筒や「緑筒」(催涙ガス弾)を携帯していたという。
 支那人の激しい抵抗に遭遇したときに陸軍部隊はガス弾(原文はthe gases)をよく使った。
 1941年のその日、ガス弾が発射され(原文はthe gas was released) 、ガス弾を受けた人々が倒れた後、金子と金子の上官とが村に入った。
 「生き残っている者は女子供を含めて全員殺すように命ぜられました。女は子を産むし、女が男の子を産めばその子は将来、大きくなってわれわれに歯向かうでしょうから。」と金子は語った。
 金子の記憶によると、中年の女と幼な子とが家のうしろに隠れていたという。金子の上官が女を辱めた後、金子は女を井戸に投げ入れ、その井戸に手榴弾を投じた。
 金子はまた、村の広場に中年の支那人の男が縛りつけられているのを見た。一人の日本兵が刀をとってその男の首を斬り落とした。
 斬られた首は蒼白となって地面に転がった、と金子は回想して言う。男の娘らしい若い女が駆けだしてその首を持って泣いた。
 金子によると、約130人がその作戦で殺されたという。 〉  
  (注)・・「アカ筒」の原文は「aka-to(red pipe)」 と表記されています。

 中国における化学戦に関する陸軍報告書を1984年に発見した中央大学教授・吉見義明によると、日本政府は昨年11月に赤筒や緑筒が戦争中に使われたことは認めたものの、致死性の毒ガスが使われたことを確証するに足る文書はないと主張していることなどに触れた後、以下の証言がつづきます。
 〈 金子によると、金子自身は致死性薬品が戦闘で使われるのを見たことはなく、涙やくしゃみを生ぜしめる「非致死性」ガスを使うこともなかなか許されなかった―「非致死性」のガスを使ったら、常にその後で刺したり撃ったりして支那人を無差別に殺さなければならなかったから― という。
 「非致死性ガスを使うことは、マスタードガスを使うことよりも問題がありました。」と金子は語った。 〉

 この後、シベリアに送られたこと、他の日本兵968人とともに撫順に移送され、6年間の監獄生活を送ったことなどが、簡単に記されています。
 〈 金子の回想によると、監獄の看守(彼らの親の多くは日本人に殺された)は、投獄されている者を極めて寛大に扱い、1日に3度、白飯を食わせた ―看守自身は粗食に耐えていたのに― という。
 「支那の寛大な取り計らいによって、われわれのかたくなな心は次第に解きほぐされていきました。われわれは、被害者の感情に思いを巡らし始めました。われわれは、支那人の寛大さにお返しをしなければと痛切に思いました。」と金子は語った。
 支那の日本人戦犯に対する寛大な姿勢もあって、金子は起訴を免れた。金子は1956年に故郷に帰った。
 帰ってから、金子と他の元戦犯らとが「中国帰還者連絡会」という団体を結成した。
 この団体は、日本全国に500名の会員を擁し、自分たちの犯した残虐行為を戦後世代が繰り返すことのないよう、一般の人々に自分たちが犯した残虐行為を伝え続けている。
 「銃撃したり拷問したりして100人以上を私は殺しました。このようなことを決して繰り返してはいけません。」と金子は語った。 〉


  2  考慮すべき事項

 検証の前に、証言者・金子安次についての参考知識として、次の2点を記しておきます。

 ・  「供述書」の信頼性はゼロだった
 金子安次は、中国抑留者(中国戦犯)で、「中帰連」の活動家の一人といって差し支えありません。すでに、別項「731部隊とコレラ作戦」に登場しました。
 1943(昭和18)年9月、第59師団独立歩兵第44大隊が実行したという「衛河決壊」と「コレラ菌散布事件」に関して、他の十余人とともに「供述書」を中国に残してきました。ですが、この事件そのものが、中国側に誘導された、あるいは抑留者たちの想像によって作られた話であったことは、十分立証できていると思います。
 金子安次の「供述書」は、金子の私あての「抗議の手紙」などからも、相手のいうがままに書かされたものと断定してまず間違いないと思います。
 しかもその供述内容が、機関銃分隊に所属する上等兵であったにもかかわらず、大隊長から1943年8月27日、「衛河堤防を破壊し解放区を埋没させてコレラ菌を散布せよ、との命令を受けた」というのですから。
 詳しくは別項をご覧ください。

 ・  NHK特集「問われる戦時性暴力」からの「証言」カット
 2001年30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」 は、安倍官房副長官(現首相)をも巻き込み、NHK対朝日 の論争に発展しました。番組は「戦争をどう裁くか」という4回シリーズの2回目で、2000年2月に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」 なるものを素材にしたもので、法廷の主催者は元朝日新聞記者・松井やより が代表の「バウネット・ジャパン」でした。
 「問題の核心は偏向番組の放映にあり」「朝日VsNHK対立で目奪われるな」(2005年1月28日付、産経新聞)と題した西尾幹二の論考に、法廷の模様が書かれていますので、その部分を引用します。
〈 その日、会場の九段会館には朝鮮の民族衣装の老女たちが「昭和天皇に極刑を」のプラカードを押し立てて続々と集合。最初にビデオが流される。「日本の責任者を処罰しろ」と老女たちが日本大使館に向かって抗議するシーン。最後は木に縛りつけられた昭和天皇とおぼしき男性に朝鮮の民族衣装の女性がピストルを向ける画像で終わる。それからシンポジウムが開かれる。日本の従軍慰安婦問題が徹底的に批判されていれば、ユーゴの殺戮と強姦も起こらなかったろう、とまさに一歩的議論。そして裁判が始まる。
 被告人は今や地上にいない昭和天皇、旧日本軍人。弁護人なし、弁護側証人なし。検察官は二人いたが、いずれも北朝鮮の工作員だと指摘され、その後入国ビザが発給されていない人物もいる。かくて裁判官が「天皇裕仁には性犯罪と性奴隷強制の責任により有罪の判決を下す」というと、場内は拍手のウエーブと興奮の坩堝の中で歓喜に包まれたそうだ。 〉

   こんな愚にもつかない「裁判ごっこ」をNHKは無修正で放映しようとしたというのですから、いかに左がかった非常識な連中がNHKに巣くい、番組制作にあたっていたかがわかります。
 当初、この番組のなかに、2人の加害兵士の証言が収録されていました。一人が金子安次、もう一人が鈴木良雄でともに中国抑留者。鈴木良雄も証言者として頻繁に顔を出すおなじみの兵士です。
 ところが、試写を見たNHK吉岡教養部長が、「違和感がある」 としてこの2人の証言に疑問を呈したといいます。ですが、制作チームの抵抗で最後まで残りますが、結局、削除され放映には至りませんでした。
 これに対し「中帰連」のホームページは、「NHK番組改ざんに抗議する」「政治圧力によって消された戦場の証言」として、“法廷”での金子証言を紹介しています。「違和感がある」とされた金子証言の一部を末尾に記しておきます。

  3  信じるに値する「証言」か

  ・  場所、所属部隊、作戦名などが不明
 時は1941年10月、場所は山東省。金子の所属する部隊がある村を襲ったというわけですが、これでは、その場にいたであろう将兵の証言と突き合わせようもなく、事実かどうかの検証がきわめて難しくなります。
 「異説にさらされない説を簡単に信じてはいけない」 (藤岡信勝・拓殖大教授)という警告を、私たちは肝に銘じなければいけないことですが、この記事は「異説」をも封じた一方的な報道といわざるをえません。
 そもそも、こんなあやふやなな話を、ウラ付けも取らずに報道すること自体が問題で、厳しく批判されなければなりません。ですが、ジャパン・タイムズほか英字新聞のウォッチャーは少ない(ほとんどいない?)でしょうから、こういった記事が大手を振って紙面に載り、日本在住の外国人記者や大使館勤務者、海外の図書館などを通して、日本軍の残虐ぶりがそのままあった事として 、世界に浸透していくというわけです。
 まず、金子の所属部隊ですが、「1940年11月に北支那方面軍入隊」とありますが(末尾の注記参照)、独立混成第10旅団第44大隊 (第12軍)と思います。
 また、金子が後悔しているという「残虐行為」を行った1941(昭和16)年10月の時点で、独混10旅・44大隊に所属していたこともまず、間違いありません。
 1942(昭和17)年4月、独混10旅は新設された第59師団の基幹部隊となり、大部分の将兵が59師団に移籍します。金子もその一人で、独歩44大隊の機関銃小隊(後に機関銃中隊)に所属することになりました。
 別項 “「労工狩り」証言―11人の証言者たち” で取り上げた大木仲治 証言は、所属部隊が金子と同じの独混10旅・第44大隊で、時期も1941年8〜9月頃と金子の「残虐行為」の時期とほぼ一致します。 
 というわけで、大木仲治の「労工狩り」証言の調査のさい、金子証言についてもザッとですが、聞き取っておきました。それらも参考にしながら、金子証言について検討してみます。

  ・  「三光作戦」という言葉を知っているわけがない
 見出しに「KILL ALL、ROB ALL、BURN ALL」とあることからも類推できるでしょうが、金子は記者に対して「三光作戦」なるものを、したり顔で強調したに相違ありません。「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくせ」は実にセンセイショナルな表現ですから、新聞記者がとびつくのも無理ないでしょう。
 そもそも「三光作戦(政策)」というのは、共産八路軍が組織的に山西省駐留の日本軍を急襲、大きな被害を与えた百団大戦(1940=昭和15年)に対し、日本軍(第1軍)がとった根拠地掃討作戦を指して中国が非難したものでした。
 ですが、第1軍の将兵で「三光}などという言葉を聞き知った人は、1.2の例を除いてほとんどいないのです。まして、「三光作戦」という作戦名は、まずなかったといっていいはずです。
 それに金子の属した独混10旅は第12軍の隷下にあったわけですから、この掃討作戦とは関係ありませんし、「三光作戦」などという言葉を知っていたわけがありません。撫順の戦犯収容所で仕入れた(教えこまれた)知識と断定して間違いないはずです。
 ですから、〈 化学兵器は「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」ことを目的とする「三光」 の一環として用いられた 、と語った。〉などという発言は、勝手に作り出したヨタ話ということになります。
 また、「生き残っている者は女子供を含めて全員殺すように命ぜられました。女は子を産むし、女が男の子を産めばその子は将来、大きくなってわれわれに歯向かうでしょうから。」という話も、別項の城野宏ほか、何度か読んだ記憶がありますが、いずれも中国抑留者でした。
 女子供を含めて全員殺害する、などということは、特別な状況下ではありえたかもしれませんが、独混10旅の在隊者に聞いたところ、ただ首を振って苦笑しているばかりでした。これも「三光」、つまり「殺しつくす」(殺光)と話が合うように、収容所の一部で、言われていたことかも知れません。

  ・  秘密兵器「アカ筒」の使用について
 「アカ筒」はクシャミ性、「ミドリ筒」は催涙性のもので、500ミリリットルのビール缶より少し細く、長めのものと考えれば大差ないでしょう。上部のフタを開け、このフタで中のマッチのようなものを擦ると発火すると聞いています。
 「ミドリ筒」より毒性が強い「アカ筒」と聞いていますが、とくに調べたことはありません。これらが「化学兵器」かどうかの議論もありますが、どちらも人命にかかわるもの、つまり「致死性」のものでないことは確実です。
 金子は、〈 その村は頑丈な城壁で防御されていたので、部隊は攻めあぐんでいたという。そこで帝国陸軍の部隊は秘密兵器毒ガスを取り出した。・・・煙がその村に立ちこめると、支那兵および支那民間人は苦痛のあまりよろめきながら街路へ出てきた。〉などと証言しています。
 アカ筒が「秘密兵器」というのは笑わせますが、アカ、ミドリ筒は穴や塹壕などに隠れた敵を追い出す、つまり「いぶり出す」ために使用するのが普通だったはずです。というのも、アカ筒の有効範囲は狭く、煙は風しだいで拡散しますので、なかば閉鎖された空間でないと効果があがりませんし、煙が味方に向かうかもしれないからです。
 華北におけるアカ筒の使用例を2,3聞きとってありますが、いずれも穴に隠れた敵に対するものでした。ただ、穴といっても、逃げるための通り抜けの道だったり、なかには人が居住できるほどの広さがあり、8畳くらいの「部屋」に兵器が保管されている例もありました。
 金子証言にあるような、村一帯を「アカ筒」で攻撃したという例がなかったわけではありません。ですが、このような場合、まとまった数の「アカ筒」が必要になりますから、相応の規模を持った作戦であったはずです(なのに作戦名、場所等が不明)。
 八路軍、つまりゲリラ作戦で立ち向かってくる敵に対して、通常の中隊、小隊規模の警備・討伐行動では、「アカ筒」は所持しなかったと聞いています。また、所持する場合でも1〜3人程度の教育を受けた兵が持つ程度で、使うことはめったになかったとも。これらは、独混10旅、59師団、27師団の兵士からも聞いています。それに、訓練を受けている兵が少なかったことも理由だったようです(その教育も名ばかりだったといいます)。
 金子証言の「多数の兵が赤筒や「緑筒」(催涙ガス弾)を携帯していた」は、他の証言との食い違いが大きいとだけ指摘しておきます。
 そのほかの証言については、話が細かくなりますし、何とでもいえる(理屈がつく)ことでしょうから、読者の判断にまかせたいと思います。

 ただ、次の「女性国際戦犯法廷」での金子証言の「くじ引き強姦」 は、昭和18(1943)年の蛮行といいますから、59師団独歩44大隊時代に間違いありません。金子の属した独歩44大隊の機関銃中隊の隊員から、いろいろと話を聞いていましたが。
 この話、場所も不明、時期もあいまいですから、この“法廷”で反対尋問ができれば、結果はどうなるでしょうか。
 また、「私たちたちはどうせ殺すのならどんどん強姦してもいい、そういう考えで私たちは強姦しました」についても同じことがいえます。
 しかし、本人がかかる強姦を事実といい張るのなら事実だったのでしょう。それなら、金子というとんでもない「ワル」が日本軍にいたことは、日本にとってまことに残念なことだったというしかありません。でも、「私たちは」などと、他の戦友たちが金子と同じレベルの「ワル」だったという言い方はやめてもらわなくてはなりません。あくまで、金子の個人的犯罪 なのですから。


   注 記 ・・・「女性国際戦犯法廷」での金子証言

検 事  金子安次さんは1920年1月28日生まれ、80歳ですね。あなたは1940年11月に北支那方面軍に入隊されたのですね。
金 子  はい。
検 事  それ以後、中国山東省などを転戦されて終戦を迎えられたのですね。
金 子  はい。
検 事  あなたの軍隊における最後の地位は何でしたか。
金 子  伍長です。
    (中 略)
検 事  あなたが見た「慰安所」というのは、女性たちは自分たちの意志できていた人たちですか。
金 子  違います。日本には公娼制度というのがあり、それは営業であり金儲けです。しかし、そこで働いている人は、みんな苦しいから働いているんです。金で縛られているから自由に行動できない。そこに「慰安婦」の「慰安婦」らしいところがあるんです。
検 事  自由がないということですね。
 こうした「慰安所」があることは、強姦の防止に役立ったと思いますか。
金 子  役立っていません。
検 事  それは何故でしょうか。
金子  「慰安所」にいって1円50銭払うんだったら、強姦だったらただです。我々の月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい、上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をとられるんです。ですから金があまりありませんから、1円50銭払うくらいだったら、作戦にいって強姦をした方がただだというような考えがありました
検 事  あなた自身も、そういう考えの中で強姦に加わったことがありますか。
金 子  あります。昭和18年、作戦にまいりました。その時にある部落で若い兵隊が一人の若い女性を連れてきました。21、2歳でしょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きをひいて順番を決めて、ひとりひとりその女を輪姦しました。こういう事実がございます。
検 事  そういった強姦をすることについて、あなたの所属していた軍隊は、どのような指示が出ていたのでしょうか。
金 子  昭和14年から15年、当時日本では「生めよ増やせよ」というスローガンがありました。男の子がうまれたなら、労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来のいわゆる再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える、こういうスローガンがありました。だからそのつもりで戦地に行きました。そうしますと命令がくるっと変わりました。女は殺せ。子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったら我々に反抗するから子どもも殺せ、というように上官の命令がくるりと変わったんです。そういうことですから、私たちたちはどうせ殺すのならどんどん強姦してもいい、そういう考えで私たちは強姦しました
検 事  くり返しますが、上官は女を見たら殺せという指示が出ており、どうせ殺すのなら強姦してもよい、このような考えでいたわけですね。
金 子  そうです。
検 事  このような証言をするのは楽なことではないと思いますが、あなたはなぜこのような場で証言をする気になったのですか。
金 子  はい。これは正直なことをいいますと、私も自分の妻や娘にこういうことはいっさい話しておりません。実際できないんです。しかしながら、私たちがやったことについてどれだけ中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみとわかったんです。これは二度とこういうことを起こしてはならない。これを止めるのは、現在残されている私たちしかないんだ、こういうことからこの問題を皆さんに聞いてもらいたい。こういう気持ちです。(拍手)
金 子  先ほど強姦の問題がありましたが、陸軍刑法では強姦をすると7年以上、現場にいただけでも4年以上という刑罰があります。しかしながらなぜ私たちが強姦したかというと、確かに金の問題もありますが、現在では私たちは中国人といっていますが、しかし当時は支那人、あるいは差別的に「チャンコロ」といっていました。「チャンコロ」の女を強姦して何が悪いんだ、どっちみち殺すんじゃないか、こういうような気持ちをもって強姦したわけです。従いまして、中隊長あるいは大隊長でも自分の部下がたとえ強姦罪を犯しても陸軍刑法を出さない。自分の功績に関係するんです。そしてもう一つは、チャンコロだという劣等視があるんです。だから、われわれ兵隊は強姦をしたんです。以上です。
検事 これで質問を終わります。
   (以上、「中帰連」のホームページより)

― 2006年10月18日より掲載 ―


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