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この国と原発:第4部・抜け出せない構図/4 環境省、口を挟めず

京都議定書を採択し、エストラーダ全体委員会議長と抱き合う大木浩京都会議議長(当時の環境庁長官・左)=国立京都国際会館で97年12月11日、佐藤賢二郎撮影
京都議定書を採択し、エストラーダ全体委員会議長と抱き合う大木浩京都会議議長(当時の環境庁長官・左)=国立京都国際会館で97年12月11日、佐藤賢二郎撮影

 ◇温暖化対策と一体化

 温室効果ガスの排出削減目標を話し合った97年の地球温暖化防止京都会議。日本は交渉で浮上した「90年比6%削減義務」が受け入れ可能かを検討する中で、エネルギー供給をどうしていくかが課題となった。

 だが、温暖化対策の中心であるはずの環境庁(現環境省)は蚊帳の外だった。当時、通商産業省事務次官だった渡辺修・石油資源開発社長は当然のように語る。

 「6%削減受諾の前提として、原発は織り込み済みだった。(通産省としては)原発がこれくらいできれば、これくらい(温室効果ガスが)減らせる、と」

 原発推進に慎重な職員も多い環境庁。当時の幹部は「エネルギー供給に環境庁が関わることに通産省の抵抗は強く、口を挟めなかった」と打ち明ける。

 国際社会は冷戦終結後、新たな危機として地球温暖化に目を向けた。原発は「温暖化防止の切り札」と位置づけられ、新増設の「アクセル」に使われた。長く温暖化対策に携わった別の環境省元幹部は「原発推進は国の政策に盛り込まれていた。我々が原発を話題にするのはタブーだった」と振り返る。

 そもそも環境省は温暖化対策を守ることにすら苦労していた。京都議定書批准のため国内制度作りを目指したが、産業への影響を心配する与党議員や経済界が「不平等条約」と反発。「批准が最大の環境対策と考え、原子力に注文を付けることは念頭になかった」(元幹部)。02年3月、批准のためにまとまった政府の地球温暖化対策推進大綱に「原子力の推進」という項目が作られ、「原発の発電量を10年までに3割増やす」との目標が明記された。

 環境省には「圧力」もかかった。92年の国連環境開発会議(地球サミット)後、民間団体を支援する地球環境基金を創設する法改正を巡り、自民党から「反原発の団体には援助しない」という条件を付けられた。与党議員から「環境省も(原発を)応援しろ」と詰め寄られた幹部は多い。

 政権交代後、さらに原発は深く入り込む。09年9月、鳩山由紀夫首相(当時)は20年までに温室効果ガスを90年比25%減という新目標を表明した。その直後、九州電力川内原発3号機(鹿児島県)建設の環境影響評価を巡る環境相意見に「温室効果ガス排出削減には、安全確保を大前提として原発の着実な推進が必要」と、原発の環境影響評価で初めて「原発推進」が入った。

 温暖化対策推進の先頭に立つ研究者も、原発推進の一端を担わされていた。安倍、福田両政権で内閣特別顧問として温暖化政策に助言した山本良一・東京大名誉教授は08年、原子力委員会の懇談会座長として、温暖化対策のために原子力利用の拡大を求めるという報告書をまとめた。

 山本さんは「原発は有効な手段と思った。だが、事故時に制御できない原発は技術とは呼べず、県民の人生を壊すという倫理的問題もあると分かった。それらの問題を指摘できず後悔している」と話し、こう続けた。

 「政府は、進まない原発の新増設や放射性廃棄物の問題などで閉塞(へいそく)感が漂っていたところ、温暖化対策が厳しい状況になり、『それに乗ろう』となったのだろう。温暖化リスクの方が原発よりはるかに高いと考えていたが、地震国日本では逆だった」=つづく

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 ◇温暖化対策と原発政策の流れ

97年 京都議定書採択

02年 地球温暖化対策推進大綱策定(10年までに原発発電量3割増盛り込む)。日本が京都議定書批准

03年 エネルギー基本計画策定(原発を基幹電源に位置づけ)

05年 京都議定書発効

06年 新・国家エネルギー戦略策定(原子力立国を提唱)

07年 主要国首脳会議で日本などが50年までに世界の温室効果ガス排出半減を提案

08年 福田康夫首相が50年までに日本の排出最大8割減を提案

09年 鳩山首相が20年までに排出25%減と国連演説

10年 エネルギー基本計画改定(30年までに原発14基の新増設盛り込む)

11年 東日本大震災。東京電力福島第1原発事故

毎日新聞 2012年1月25日 東京朝刊

 

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