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目からウロコ!日興門流、法華本門の御授戒を受けた直後の体験談!

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日目上人からの法脈は大石寺の日道師ではない。日郷上人に法脈あり


南無妙法蓮華経 日蓮大聖人 法華本門の座談会お知らせ
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2012年01月09日

御影本尊拝考 日蓮大聖人御在世の身延山には御影本尊は存していない。


こんにちわ! 竹本です。

拙論2011年11月15日付け投稿の
- 二尊一体の化儀・化法について詳しく -
二尊一体の化儀・化法について詳しくは、二尊一体の御本尊(御影本尊並びに日興上人形木御本尊) 安置形式の意味を教えて欲しいを御覧くださいませ。


“御影本尊の背後に大曼荼羅御本尊を奉る二尊一体の時には、御影本尊を中心として勤行を申しあげることが、日興上人以来の伝統法儀”については、様々な反響を惹起させているようですが、中には富士の麓の山寺徒輩より『■御影中心論の僻見を指摘す』などという仰々しいタイトルでの反論がネット上に現出されているが、その中身たるや、[前文に一々言及するまでもないので捨て置こうと思う]などと、いきなり果たし状よろしく上から目線での高尚な論かと思いきや、[竹本良一氏は恐らく冨士門流祖山たる大石寺の僧籍にある高橋粛道御尊師の御著書「御影本尊論」を読んだことがないのであろうと思う。同書は一部御僧侶方や有縁の優婆塞にのみ配布されたものであるから、竹本良一氏が読めなかったとしても詮無いことである]と、所詮どこかの山寺のローカルルールに終始、挙句は[大漫荼羅御本尊と御影像の両方を御安置することは、私とて理想の奉安式であろうとは思っている・・・]などと着地点を見失った痴盲の論で右往左往。

小生の個人名を掲げまでの評論なら、もう少しまともなご高説を賜りたかったものです。

それ以外にも、創価出身で、一応は大阪の某寺に所属するものの、未だに創価学会を恋慕して止(病)まない大石ケ原の迷惑信者Kに至っては、
・「お人形信仰」、保田妙本寺を徹底破折する!
・自称保田妙本寺信徒、竹本良一、完全敗北!
・保田妙本寺の邪義を粉砕する。奇妙奇天烈なる「人形信仰」
などと、複数の自身が管理するアンチ創価の掲示板、ブログに百花繚乱の賑わいながら、所詮身内(大石ケ原)の先師も呆れる邪義と無知を露呈するのみならず、元来御影尊信仰とは無縁のはずの創価の碩学諸兄からも嘲笑される始末。奇妙奇天烈、お人形信仰とまで蔑まされては、繰り返し駄文を掲載するのも恥を知る小生には辛い作業ではありますが、改めて迷盲の徒に以下の考察を披歴するので、顔を洗って目を醒ましてから御熟読乞うものであります。
 
尚、後日、御当代猊下の本「御影尊」に係る重要な御指南を掲載予定でございます。
貫首上人に先行しての愚論ゆえに甚だ非礼千万とは重々承知のみならず、かかる軽挙妄動に各方面よりの御叱責も覚悟の身、悪しからずご容赦の程お願い申し上げます。


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『御影本尊拝考』
日蓮大聖人御在世の身延山には御影本尊は存していない。
一山一仏であったからである。大石寺が日法作を以て在世の御影尊を主張するのは、板本尊絶対主義ゆえのねつ造であるということであろうか。いかがであろうか。

大聖人滅後、日興上人が相伝を以て造立された御影尊が初造立である。大聖人の三回忌に造立、というのは真であるか。保田妙本寺の御影尊は最初仏であろうか。

日興上人が御影尊を造立した義には四種見出す。


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一、大聖人からの相伝により造立
大聖人日興上人の師資相伝は奥義の授受である。故に日興上人は大聖人の指南遺言に拠って造立した。
日興上人は御影尊を拝して「法主聖人」とお呼びしていたのは史実である。日興上人は三大秘法の人本尊を造立した。
この御影本尊は本門戒壇堂に安置されるべき本尊である。

三大秘法の法門の成就が大聖人の本懐である。弟子の日興上人は師の本懐を実相に顕わしたのである。観心本尊抄に曰く「此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」この文を仏眼で拝せよ。

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二、大聖人が凡夫即極の仏身を顕示する為
色相荘厳の釈迦仏を廃し、末法適時の無作三身、名字妙覚の僧形仏を顕示す。
宗祖曰く、
「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。」(南条殿御返事)


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三、二尊一体の実相を以て人法体一の法義を示す
人即法・法即人の法義が大聖人の一身に成就され、南無妙法蓮華經日蓮と拝すべき人法不思議一の内証を帯する仏身であることを示す。化法即化儀を以て、人本尊を御影本尊と顕わし、法本尊を曼荼羅本尊と図顕す。二尊一体の化儀が一山一寺の正式である。
義浄房御書に曰く、
「一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。」
この「仏」とは在世ならば日蓮大聖人である。滅後においては御影本尊である。また人即法の本尊の時には、曼荼羅本尊を以て「仏」と拝するのである。本尊の奉安に正と准とあるが、功徳照覧は斉等である。


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四、仏恩の曠大なるを示す為
報恩抄には、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華經は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」
この御文に主師親の三徳を拝する。日興上人の境涯より拝した大聖人。大人格と大慈悲に溢れた御振舞い。この無量の御徳を末法尽未来際まで継承される事を願い、仏恩報謝の意義を以て日興上人が造立された保田の正御影尊である。
大聖人の眉間に刀の創が有る。この創を造立の時に白毫相と仕立て給いしは、法難を仏の行徳と拝した日興上人の仏恩報謝である。大聖人御命日の十三日に日興上人は心を留め給う。本尊書写の振舞いを以てこれを拝すべきである。

保田(妙本寺)の御影尊は名字凡夫の仏身である。白五条の袈裟、薄墨の衣は「教弥実位弥下」を顕わし給う。御手に数珠を持ち譬喩品の経巻を捧持するは「常住此説法」「娑婆世界説法教化」仏の説法像を示し給う。

御影本尊が横綱白鵬より大きいのは、日興上人が日蓮大聖人の偉大なるを感得した故であろうか。肩が直線的に描かれたのは厳父の律儀を顕わし給うか。
大聖人の三回忌に造立ならば、身延山より大石ヶ原、後に日郷上人が小泉に一時して安房保田に遷座し給う。蓮蔵坊日郷、正義護法の決断である。

阿呆が曰く「保田の御影は焼失、再造也」と。北山の御影は焼失したと聞く。真偽は不明である。保田の御影が万一再造であるとも、日郷師の認書もあるならば、よろしく御影本尊である。

大聖人・日興上人・日目上人の魂は化儀として日郷師に備わっている。末法万年に欠けたる事、露も無し。法義功徳は、日興上人造立の事と全く同じ事であり、何の支障があるものか。保田の今の御影本尊が日興上人の造立のままであれば尚更嬉しい事である。池上も中山も日興上人の化儀を以て御影本堂を建てたことは、六老僧の中、日興上人が法嗣であることを物語っているのである。

大石寺においても古くは堅樹院日寛の代は、御影は本尊である。『文段』の文に明らかである。

現在の大石寺は御影を本尊とせず、曼荼羅の文字を見るに邪魔として御影を払っている。

文字の曼荼羅は本尊で、御影は本尊ではないというのは、「人法一箇」の弊害、板本尊に執着する阿呆である。人法一箇という語句は、人法体一・二尊一体を隠すための邪義であり、悲しむべきことである。



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■大石寺の御影と保田妙本寺の御影尊とは相違
大石寺の御影は体内に「腹篭曼荼羅」を入れる。保田妙本寺にはこの法義は無い。
大石寺には御影を本尊と開眼する化儀が無い。あくまで「腹篭曼荼羅」を開眼し体内に入れ置くことで、御影体内の本尊に頼るのである。この本尊は「奉書写之」故に本門板本尊の分身、本地は悉く本門戒壇板本尊となるのは偽装の本質であろうか。曼荼羅を入れないのであれば御影は本尊義を帯せずと云うのは草木成仏の真を知らず、相伝無き教団の証左である。

真の開眼と申すは、
「但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ房をもてはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。」(佐前の真間釈迦仏御供養遂状)。
「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。止観の明静なる前代にいまだきかずとかゝれて候と、無情仏性惑耳驚心等とのべられて候は是なり。此の法門は前代になき上、後代にも又あるべからず。」(佐後の四条金吾釈迦仏供養事)に詳しい。その他、草木成仏口決、木絵二像開眼の事も参照すべし。


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釈迦仏開眼が法華経によるものであるならば、日蓮御影を人本尊と開眼することは事の一念三千の南無妙法蓮華經即日蓮大聖人の法力仏力を以て成就するのである。
開眼を否定することは草木成仏を否定することであり国土世間を否定することである。つまりは一念三千を否定することである。
但し開眼の事は僧によるのであり、在家には及ばぬことである。「伊よ房をもてはたしまいらせさせ」と仰っておられるのである。
今、御影を開眼する事は、生身の日蓮大聖人と開眼することである。
御影の開眼、御宝前に供え奉りて、一心に祈り奉る。一念三千即本仏と開眼さられるのである。

寺は一山一仏、故に御影本尊は一体に限るべし。客殿は本堂ではない。故に三幅一体である。
曼荼羅本尊の左右に大聖人・日興上人の絵像を掲くる。この絵像の両尊は斜め中心を向いて、正面には向かわない。大石寺の別体三宝はいかがなものか。日興上人の像に「南無」を冠している。
在家でも篤信あるならば、二尊一体を奉護すべきである。されども曼荼羅本尊一体を安置し勤行に励むことは、人即法の本尊にして二尊一体の功徳と全く斉等である。所詮信心なき者は、御影尊を本尊とは観えないのである。


◆近日中に御当代日誠上人猊下の本「御影尊」に係る重要な御指南を掲載予定でございます。
本稿は貫首上人の御指南に先行しての愚論ゆえに甚だ非礼千万との謗り、さらには、かかる軽挙妄動に各方面よりの御叱責をも覚悟の身、悪しからずご容赦の程重ねてお願い申し上げます。

posted by 法華本門ファン at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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