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生産管理闘争

「生産管理闘争」について・ノート

*吉田美喜夫(1975)
階級闘争のモメントそれ自体に極限にまで接近した争議形態としての生管闘争
1.民主主義革命の推進、民主的経済復興という当時の労働運動の課題と結合
2.資本家の存在意義を無にするものであった
3.労働するものが自ら生産し取得するという社会主義的規範意識を何程かは担っていた
4.法的には資本主義社会の根幹でもある資本所有権に肉迫するものであった

・生産管理闘争の二つの評価
@労働者管理へ発展しなかったことの原因を前衛党の指導上の誤りに帰するもの(山本潔)
→生管闘争の今日的意義を十分に評価できない。それを可能にさせた条件や労働運動史のける位置付け、などが必要となる。
A諸階級・諸階層の統一戦線的な運動の成長と関連づけて捉える(佐瀬昭二郎)

・自然発生的な闘争から自覚的な共同闘争・統一戦線へ
・戦後労働運動の課題―生管闘争の積極的意義
@民主主義革命の遂行―直接的な社会主義革命への情勢と特徴付けることは誤り
→人民政府の樹立が目指された(?)
A民主的経済再建―経済再建の二つの道→独占本位か反独占か
→生管闘争が経営参加を強調するようになった
B労働戦線の統一―戦前の教訓から、資本に対する有効な統一闘争を組む
→産別会議、総同盟などの結成
「生産管理が権力奪取闘争としての永続的な闘争として指導されなかったことに力点を置く総括」はこれらの意義を考える点で不十分。

・生産管理論
違法論
(1)政府当局の法理
(2)諸学者の法理
@高橋説
A吾妻説
B平賀説

合法論
(1)債権侵害を本質とする生産管理論
@末弘説
A有泉説
B森永説
(2)物権侵害を本質とする生産管理論
@川島説
A沼田説―労働基本権=生存権の強調
・階級的規範意識の対立
・運動を領導するという立場

*中田真司(1975)
「戦後労働運動史のへき頭に展開されたこの闘争は、生産の再開と経営民主化のスローガンのもとに闘われながらも、かなり長期間にわたり資本家・経営者にとってかわって労働者自らが生産の主導権をにぎり、業務を管理したという事実において、それは単に生産と経営の民主化にとどまらず、客観的には社会主義への道の第一歩をも意味するものであった。」(p5)
・弾圧の強化―46年2月四相声明、3月石炭庁通達(「炭代支払」に関する生管妨害)、5月20日マッカーサー「大衆示威行動警告声明」、6月13日吉田内閣「社会秩序保持に関する政府声明」
・共産党の路線―主体的問題。生管闘争からゼネスト戦術への移行。生管闘争=争議戦術論の問題(第5回大会以降、46年1月)
→読売争議―探ある要求獲得の争議戦術ではなく、経営方針の改革闘争そのものであった。
「「生管を解いた後」において、労働者管理のための日常闘争をいかなる内容と形態で持続するかについての観点が全く見失われてしまったことである。」(p10)
→経営協議会が生産協力のための労使協議会に堕していった。争議戦術論の誤り、その背景にある政治革命先行主義(人民政府が出来てこそ生管が最も良く為され得る)。また、人民権力の一手段としての位置付けがあったため、その闘争の可能性を内在的に深めることができなかった。アメリカ軍の解放軍規定の問題。産業復興闘争という方針の問題。
「かくして、四五年十月から四六年中にかけて労働者の果敢な闘争として高揚をみせた生管闘争は、労働組合の多分に自然発生的な性格をおびていたとはいえ、第二次大戦後の新しい民主主義体制下のもとでの労働者管理をめざす闘争の開始であったし、その後の一層の発展を秘めていたのであった。しかし、労働運動の指導とくに当時、その主導権をにぎっていた日本共産党の政治指導の重大な欠陥と誤謬の故に、要求かくとくのために一時的争議戦術及び、要求獲得と民主革命政権樹立のための闘争戦術として規定され、生管闘争の困難性とゆきづまりに際会するや安易に、労働者管理をめざす恒常的闘争の探究は放棄された。こうして、十月闘争から二・一ストにかけての労働運動の高揚と労働者の闘争エネルギーをもっぱらゼネスト戦術に転換してゆく結果となった。」(p12)
 
<欠けていた認識>
・労働者階級の要求構造(京成電鉄闘争、高萩炭坑闘争)
「生管闘争が、単に待遇改善(労働条件)実現のための争議手段につきるものでないこと、また、その逆に、労働者の賃金倍額引上げを中心とする労働条件の改善や労働組合の承認、団交権の確立と遊離した経営参加のみをめざす闘争でもなかったこと、である。」(p15)
・労働組合の組織と機能(東洋合成新潟工場の闘争、高萩闘争)
→産業別共同闘争や社会的、全国的な連帯行動に向かう傾向。しかし、指導者層の問題意識は、革命的労働組合(共産党)か改良的労働組合(社会党)かにあった。
→職場組織による抵抗闘争や日常活動の土台がなかったことが、生管闘争後退期において、職場組織不在の執行部中心の経営参加に堕していくという状態を生み出す。
「それは、全体の労資間の力関係によるものであるが、直接的には、労働組合の経営民主化のための活動が、(1)もっぱら経営協議会の場だけに向けられていったこと、(2)さらに経協が、職場経協(職場委員会や職場協議会など)から構成されるものが少なかったこと、(3)経協の労働者側委員が、労働組合の執行部のみから選出され、職場組織の代表をもって構成されなかったこと、などに示されるごとく、基本的に経協が職場大衆の要求や意見、職場組織の日常活動と結びついていなかったことに起因するものであった。」(p25)

*猿田正機(1978)
・職場組織の軽視、日常活動の怠り
→客観的情勢が労働者側に有利であった時期には隠れていたが、支配者側の攻勢が強まると、この矛盾が露呈した。
「労働者は「生産管理」や経営協議会を階級的・民主的意識の覚醒、団結の強化に積極的に役立てはじめていたが、それはまだ十分ではなく、それゆえに労働戦線の統一を下から支える力とすることができなかった。しかしながら、生管闘争の意義を、西村氏のように独占資本の再建に役立ったから「無意味」だ、というごとく全く否定的にとらえたり、山本氏のように社会主義革命を目差す「工場ソヴェト化の萌芽形態」とみるのは極論にすぎるであろう。また、大河内氏の指摘するように、労働者階級が「生産管理」によって「資本主義的な経営のからくり」を知った意義は大きいが、そこにのみ意義を認めるのは当時の生管闘争を矮小化するものでしかない。労働者階級が自らの力で、多くの欠陥を秘めつつも、企業を管理・運営し前近代的な経営の民主化を事実上推し進めながら、賃上げや解雇反対闘争を闘った点に、当時の生管闘争の大きな意義を認めることができるであろう。」(p71)

*鎌田慧(1978)
ペトリカメラ―1977年10月倒産→自主管理
「経営者や管理者がいなくても工場は順調に稼働するのである。それが生産管理を通じての最大の教訓となる。」
「不況の中で自然発生的にはじまった「労働者のための労働者管理」をもしいま見捨ててしまったとしたなら、こんごの労働運動は、すべて経営者と政府によって許容される運動の中に包摂されてしまうであろう。労働者の運命は労働者がにぎる、それが生産管理闘争の思想である。」

※論点
・70年代の合理化という文脈の中で登場した「自主管理」と戦後直後の生産管理闘争との共通点と差異はどこか。

*山本潔(1979)
・大量解雇の時代
生産管理闘争:45年10月〜46年5月まで攻撃的性格(戦犯追放・賃上げ)、48年〜49年の戦後危機の終焉期における生産管理は、防衛的性格(帰休制反対・首切り反対)が強かった。
・東芝工場(加茂工場・川岸工場)―48年12月29日「生産管理宣言」
→「工場占領解除、立入禁止」仮処分執行(加茂工場:3月30日、6月17日川岸工場:3月9日)により、生産管理闘争に終止符。第2次仮処分における激烈な争い。その後の「労働者の工場」の創設へ。

*横川清(1977)
生管闘争―工場ソヴェト化する萌芽形態として捉えられる
・諸段階
第1段階(45年10月〜12月)―読売新聞
GHQの容認/資本主義の枠内/経営参加
第2段階(45年12月〜21年2月)―京成電鉄、東京芝浦電機、日本鋼管鶴見製鉄所、三菱美唄炭坑
合法性とその限界/「人民裁判」
第3段階(46年3月〜8月)―高萩炭坑、東洋合成新潟工場
社会的拡がり/
※この区分の意義は良く分からない
・「闘争委員会」という形態
@労働者管理、A立法主体、B行政の主体、C初歩的な軍事組織
→日本の労働者組織が米英のような「労働組合」というより、工場ソヴェトやレーテとの比較において捉えられること。
・大量解雇・徹底弾圧の時代
49年7月―国鉄10万人、東芝6,600人首切り、レッドパージ
→以降、総評左派の伸び

*広川禎秀(1979)
・全日本鉄鋼産業労働組合(全鉄労)の大和製鋼分会の生管闘争(47年10月〜48年5月)
→生管闘争の後退期に当る(46年6月13日吉田内閣声明・占領軍の攻勢・産別民主化同盟の展開)
「要するに、大和における組合結成は、前述した鉄鋼個別企業における組合結成の第一の波にやや遅れ、第二の波の一つとして、かつ全国的産業別結集に合流する一つの波として、あったといえよう。それが労働者としての権利意識喪失状況と労働運動経験者がないに等しい職場から出発した組合結成であったことは、当時の組合結成のパターンの一つを示しているわけである。」(p40)

・労働協約の提起(46年5月)→会社側は承認
→鉄鋼業経営者連盟の発足(同月)―鉄鋼資本の立ち直り
・二・一スト以降―協約の延長など(47年4月)→妥結
・この時期、共産党細胞の伸張―生管闘争時には130名中94名まで党員に。
・会社側が工場閉鎖方針(47年9月)→交渉決裂(10月15日)、生産管理方針の決定(10月20日)。
「この時点で予想されたとくに困難な問題は、第一に賠償指定工場である以上GHQの介入の可能性が濃厚なこと、第二に生産管理の合法性が問題となり、裁判で違法判決もありうること、第三に鉄鋼製品が指定生産資材である関係上、統制もあり、製品の販売の見通しがきわめて厳しいこと、であった。」(p49)→賠償指定工場では初めての生産管理
・GHQの介入―様々な交渉により当初は控えていた
・大阪地裁は合法、政府は消極的態度から資材割り当て拒否、大手問屋も生管製品買入れの拒否など→「異常な努力の末」、取引が成功。
「大和の生産管理は、鉄鋼業のような部門の場合、たんなる生産・販売の行為が、資本家団体の妨害はいわば当然としても、国家の官僚統制の網の目にいたるところで衝突せざるをえないことを実証した。」(p54)
・管理機構は会社機構をそのまま利用。階級的自覚の高まり、脱落者をほとんどうまなかったことなどで、闘争は軌道に乗った。
・法廷闘争―会社側からの仮処分申請、告訴(民事)、大阪地検による刑事告訴
→民事裁判において緊急においてやむを得ないものとして生管を適法とした。同時に、逸脱の可能性にも言及し、保全処分に関して仮処分を命じる。
・生産継続の困難から、48年5月24日「争議解決覚書」に調印し、生管闘争は収束。
「大和の生産管理闘争のそもそもの目的は、工場再開と全員解雇の撤回、そして会社の真の狙いである組合潰滅と共産党細胞破壊を阻止することにあったのであるから、さきの解決条件は基本的にはこの目的を達したものだった。」(p60)
→地区委員会と全鉄労グループの対立。離党者も出る。
・評価
@敗戦直後の日本の労働者階級の階級的成長の急激さの一典型
A大衆の自然発生的エネルギーが強く、政治闘争が立ち遅れ、政治的自覚には歴史的限界があった。
B国家・資本家階級の系統的妨害との衝突と一定期間の闘争が継続できることを実証。GHQに対する干渉に対する敗北主義的見方を克服。
C強力な全鉄労の分会と共産党細胞の存在の大きさ。地区機関の指導の弱点→共産党建設の立ち遅れ。
D職員層の積極的役割。
E法廷における労働法の解釈をめぐる争い。

*安井二郎(1980)
「労働者の団体が、労働争議の目的を達するために、使用者の意思に反し、使用者の工場事業所や設備・資材など一切を、自己の手によって企業経営を行う闘争」(p29、日本労働協会、労使関係研究会報告書「労使関係の運用及び問題点」第3巻(昭和42)、p.164より重引)
→「戦後の混乱期における一つの争議手段」という理解(吾妻光俊)
→ユーゴや仏社会党などの「労働者自主管理」などに注目が当っている現代(70年代後半)

・生管闘争発生の背景(原因)
A.経営者の生産サボ
@経営者陣の虚脱状況―消極的サボ
A「負け肥り」の執念―積極的サボ
B.労働階級の深刻な生活難
「こうした状況に追いこまれた労働者が、生産も行われずにこのまま推移しては、餓死状態に追いこまれるという切迫感によって生管闘争に走ったことは想像にかたくない。」
→「新日本ノ経済復興ハ先ズ以テ労働者ノ生活安定ニアリマス」(神奈川県工場代表者会議)
C.民主化の進展と、従来の権威と秩序に対する反感
D.労働界に絶対的権力のあった日本共産党系の積極的指導と促進
→1920年12月第4回大会「重要企業の労働者管理」。野坂帰国後以降方針転換、生管闘争の衰退の一因。
→読売、京成電鉄における党員の指導
E.産業報国会時代の労働経験
「要するに、産業報国会運動は、俺たち仲間だけでも生産できるという経験と自信と地盤を与えたことはたしかである。そのために戦後、経営者が虚脱状態になったとき、容易に、労働者は生管に移ることができたと考えられる。」(p35)

・生管闘争の実態
―「中労委資料」から
読売争議/京成電鉄争議/日本鋼管鶴見争議/三菱美唄炭坑争議以外にも多数の生管闘争
「大原社研」―1945年10月〜47年12月:269件
「中労委資料」―1946年1月〜47年11月:270件
産業:機械器具、金属工業、化学工業などに多く、土木建築業、自動車運送業、船舶運輸業では行われなかった。
期間:100日を超す闘争も多く、「短期間」というイメージとは異なる。
参加人数:「少数」というイメージがあるが、万単位、千単位もざらであった。
要求:賃上げのウエイトが高いが、経営参加・人事参与・機構改革・監督者反対などもある。要求貫徹率・妥協率も高く(85%)、「失敗」というイメージを反証している。

・生産管理の組織と運営
A.最高指導機関
@新たに別機関を創設した場合―読売争議、日本鋼管鶴見争議
A組合の執行委員会が最高指導機関となる場合―京成電鉄争議、阪急電鉄争議
B工場経営及び生産委員長に工場長をあてる場合―日本カーボン横浜争議
B.管理機構
@新たに管理機構をつくった場合―日本鋼管鶴見争議、阪神電鉄争議
A従来の機構そのままを利用する場合―日本精機足立工場争議、古河工業横浜電線争議
C.職員の参加の有無―資材の入手、資金の調達、製品の処分、生産の技術的指導
初期(1946年8月まで)における調査(厚生省)では、職員・技術者の参加は80.5%=58件、技術者のみが5件、両者不参加は8件(残り1件は不明)というのが実態であった。
→三菱美唄(両者不参加)→三井美唄(技術者参加)→北海道炭坑15鉱(両者参加)
D.販売関係
前期:手持ち資材及び製品を事業主の意に反して処分するというのは少ない
後期:生管闘争の名で製品販売・処分するものが出てくる(オリエンタル写真工業争議、小倉製鋼争議)
E.賃金・経理関係
前期:会社側から支払われることが多かった
後期:組合が、経営者側の賃金支払い停止を受け、自身で支払うケースが出てくる
F.生産意欲の向上
生産高及び出勤率の向上
G.生管に付随する困難性
賃金措置問題、原材料の調達、製品の販売、賃金の支払いなどで限界に来ていた。
→後期における訴訟の増加

・生管闘争の性格
A.争議手段として(の)性格
同盟罷業との違い―労働力と生産との結合を切断せず、生産手段の占拠を行った
怠業との違い―使用者の指揮・命令に代えて、労組の指揮・命令をもって生産を行った
B.第1次大戦直後の「工場占領」との類似
背景・争議手段の類似
→指導理念の違い:「民主主義革命」か「プロレタリア独裁」か
C.生産主義労組論の立場
大河内一男:「崩壊に瀕した敗戦の日本をその死滅から救出」するためには「生産主義の労組」、つまり経営参加を求める生管闘争は本質的な任務である。
D.労働者支配制の一形態
体制の如何を問わず、労働者自主管理の実態と運動を合わせて、労働者支配制とすべき(⇔ケン・コーツ)
→労働者自主管理:@企業の管理(企画化、組織化、命令、調整、報告、予算)が労働者のみの手によって行われ、A労働者が企業の幹部を互選する
<具体的内包>
(A)労働者自主管理の実態
 (イ)所有面も支配しているケース―生産者協同組合
 (ロ)管理面のみを支配するケース―ユーゴスラビア、アルジェリア、ポーランド、北欧の職場自主管理など
(B)労働者自主管理運動―サンジカリズム、ギルト社会主義、職場委員運動、パリーコミューン、独伊の工場占領、ハンガリア革命、フランス社会党の闘争(リップ時計闘争など)、イギリスIWC運動など。
→生管闘争を「労働者支配制の一形態」としたい。

・衰退要因
@GHQ及び政府の弾圧的態度
「四相声明」→マッカーサー発言→吉田内閣声明
A経営陣の経営自信の回復
B労働者側の生管の行きづまりと、その実施の困難性の自覚
C共産党系の戦術変更―第5回大会(46年12月)での「労働者参加制」への変更
<闘争の影響>
1.その後の経営参加運動の発展に大きく貢献
2.現在の職場自主管理運動などに教訓・逆教訓を与えている。

※論点
・「管理」から「参加」へという問題

*平尾武久(1989)
45年秋〜46年夏にかけて―組合の急速な結成と経営民主化運動
・経営権に対する徹底した組合規制力の強化
・大企業に発生したという特徴
・「工場ソヴェト運動」の原基形態と位置付ける見解(山本潔)
→労働者の現実的認識からして無理がある

・GHQによる外からの「改革」
45年9月10日「日本管理方針声明」
10月4日 治安維持法など廃止
11日 労働組合助成―「労働組合の結成奨励」指令
11月10日 労働統制法規8種の撤廃
→GHQのこの民主化政策は敗戦直後の労働組合運動の昂揚に途を拓くとともに「労働者のイニシアティブによる産業復興の理念」をも与えるものとなった。→組合の叢生(45年〜46年の上半期に大方が組織を完了し終わっている)。

・「上からの組織化」
単位産業報国会の基盤であった工場委員会や会社組合の存続と労働組合法の立法過程の繋がり
「「企業整備」をめざす経営者側は、職制と管理組織を使いながら、実質的には低賃金体制と経営内身分制を温存し、労働者の自主的工場委員会の活動を峻拒しつつ、「生産サボタージュ」とインフレ政策に依拠する資本合理的な「自主改革」を資本家的工場委員会をつうじて推し進めようとした。当面、企業別組合組織化の主導権を掌握しようとする資本の労務管理とはそうしたものだったのである。」(p94)
⇔「下からの組織化」
「こうして、一企業、一工場・職場を単位とし、最初から企業内的に発生した労働組合運動は、工員と職員とを一本化した全員組織の工場組合主義的性格をもって経営民主化に取り組み、温情主義的・経営家族主義的労務管理を打破し変革を迫る急進的機能を果たしえた。」(p96)
→「産別会議」、「混合組合」

・生管闘争
「生産管理闘争は、当時の軍隊的指揮監督制度や前近代的労働組織にもとづく労務管理の残滓を直接的に打ち破るとともに「生産サボタージュ」に対する労働者の実践的批判にうらうちされた「民主化闘争」そのものであった。」(p101)
→「全く新しい特徴」
cf.日本鋼管鶴見製鉄所
1945年12月26日「5項目要求事項」→46年1月10日会社側回答
→不服として、生産管理闘争に突入。26日「本社デモ」による全要求無条件承認、28日生産管理解除
・生産管理闘争機関の組織
・生産性の向上
・「工場組合主義」―当時の諸条件と労資の力関係の上では最も適当な闘争形態
・民主主義的闘争の契機―「利益追求の方向」を強制的に変更しただけ(山本潔)という理解への疑問
「生産管理闘争は、「生産サボタージュ」と組織的インフレーションに依拠した日常的な経営側の反労働者的な経営・労務管理の性格、とりわけ解散した産業報国会の御用組合化や労務報国会の一時存続、さらには、人員整理、低賃金・過度労働、無権利状態の固定化に対抗して、生産復興の要求に結びついた階級的な組合の経営民主化運動として、企業の経営労務や生産に関する実質的な規制力を確実に獲得していくという側面を内包していた」。(p112)
→経営協議会の設置、産別会議の発展に向かう
・戦後日本の労務管理史上における意味
@経営側が協調的御用組合工作を開始したその時点で、職制までも労働者側にひきつけた鶴鉄労組の「職場民主化闘争」として展開された
A工員職員の差別待遇撤廃闘争が企業をこえた鉄鋼労働者全体の運動へと具体化した
B「本社大衆デモ」によって生管闘争が収拾され、それを理由に「四大臣声明」が発せられた→新たな労働運動規制の動きが具体化していく(経営協議会指針)。

※論点
・「管理」から「参加」の視点がない
・経営協議会や産別会議運動へ向かっていったことを肯定的に捉えている点などが疑問。

*飯島孝(1998a、1998b)
「東洋合成に焦点を合わせて戦後を映してみると、危機に陥った硫安独占資本が復活強化され、高度成長に続く過程であったことがわかる。その過程において戦後混迷の中、生産管理闘争を闘った東洋合成労働組合は光芒のうちに消えていった。」(1998b:75)

<総論点>
・戦後直後の文脈の再確認―占領期、民主化、飢餓状態、
・運動主体の評価―労働運動、政党運動
→労働運動のあり方―特に、産別会議の位置
→共産党の路線の妥当性、社会党の位置
・支配原理の変遷の意味―容認・黙認から弾圧へ
・その後の労働運動との関わり
→総評左派の登場、55年体制の確立(春闘路線)、民間労組の陥落、三井三池、高度成長期という流れの中で
・戦後労働法制と生管闘争
・ポスト高度成長期における合理化の中での自主管理労組(70年代後半)
→担い手としての青年層。戦後民主主義への問いかけ。
・その他、気になる点―朝鮮人労働者、沖縄労働者などの位置


<参考文献>
飯島孝1998a「むかし生産管理闘争があった(上)」『技術と人間』通巻308号、技術と人間社
―――1998b「むかし生産管理闘争があった(下)」『技術と人間』通巻309号、技術と人間社
大和田幸治2001『企業の塀をこえて―港合同の地域闘争』星雲社
鎌田慧1978「ある生産管理闘争―ペトリカメラの場合―」『ジュリスト』No.659、有斐閣
久米郁男2005『労働政治 戦後政治のなかの労働組合』中公新書
猿田正機1978「戦後民主変革期における「生産管理」闘争の役割」『三田学会雑誌』71巻1号、慶応義塾経済学会
自主管理労組・全金山科鉄工支部1981『南大阪 流民の論理』現代企画室
中田真司1975「戦後『生産管理闘争』の現代史的意義―日本における「自主管理」の芽―」『現代の理論』1975年2月号、現代の理論社
平尾武久1989「敗戦直後の生産管理闘争と労務管理」『経済と経営』第20巻第2号、札幌大学経済学会
広川禎秀1979「大和製鋼の生産管理闘争」『人文研究』第31巻第8分冊、大阪市立大学文学部
安井二郎1980「終戦直後の生産管理闘争に関する一考察」『立正経営論集』第21号、立正大学経営学会
山本潔1979「解雇問題と「生産管理」闘争」『月刊 労働問題』No.260、日本評論社
横川清1977「資本主義の危機と「生産管理」闘争」『月刊 労働問題』No.236、日本評論社
吉田美喜夫1975「生産管理闘争と生産管理論の現代的意義」『立命館法学』No.1・2、立命館大学法学会
ワーカーズ・コレクティブ調整センター編1995『労働者の対案戦略運動―社会的有用生産を求めて』



作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科)
UP:20050720 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/pcs.htm

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