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水力で原発を代替させよ - 火力の燃料コストは不要だ
前回(1/21)、再稼働なしでも今夏の電力不足は生じないと政府資料がコミットしていること、国が巨額の税金(5794億円)を投じて対策し、安定的な電力環境を国民に保障していることを指摘した。本日(1/23)、この問題に関わる重要なマスコミ報道が飛び出し、昨年の政府の電力需給予測に捏造があった事実が暴露された。発表された政府の試算では、今夏、約1割(-9.2%)の電力不足になるという結論が示されたが、実際には、「6%余裕」が生じる試算を国家戦略室内の別のチームが出していた。この別チームこそ、菅直人の直属で、経産官僚から独立して実態を調査していた特命部隊であり、政府内の事情に詳しい飯田哲也が「Bチーム」と呼んでいた民間の集団である。私は、政府発表(7/29)で示された予測に対して、自家発電(埋蔵電力)の供給量を不当かつ姑息に過小評価し、供給量の全体を小さく見積もっていると8/1の記事で批判した。さらに、政府が莫大な税金を投じて、原発全基停止後の電力環境を保障した対策やコミットについても、もともと列島の発電設備に余力があり、その裏があるから、官僚は安んじてコミットができるのだと指摘した。今回の報道は、この推理が正しかったことを証明するものだ。つまり、5794億円の対策予算など使わなくても、今夏、原発全基停止後の電力供給に何も問題はなかったのである。国民は騙されたのだ。


原発を全基停止しても、空前の猛暑だった2010年夏ピーク時の電力供給は可能であり、なお6%の余裕を持っていたのだ。つまり、需給予測は-9.2%ではなく、+6%だったのであり、-9.2%という数字は真っ赤な嘘で、国民は玄葉光一郎と霞ヶ関に騙されたのである。昨年6-7月の試算作業の時点で、原発を全基止めても、他の発電設備の稼働で+6%の電力供給の余裕があった。小出裕章の『隠される原子力・核の真実』のP.107に、「発電設備容量と最大需要電力量の推移」と題した図がある。3.11の事故以来、昨年前半、何度も見てきたグラフであり、広瀬隆も繰り返し紹介したデータだが、それによると、何と、日本の発電設備容量たるや、全体で2億7500万kW(2005年)もあり、2010年夏のピーク時記録である1億7964万kWをはるかに超えていて、ピーク需要時でさえ全体の3分の1以上の設備が休眠しているのである。原発を除いた水力・火力・自家発の合計でも2億3000万kW超の発電容量があって、2010年夏のピーク時需要の130%に達する。また、本のP.106に、水力・火力・自家発・原子力の設備利用率を示した図表(2005年)がある。原発は70%だが、火力は48%、自家発は55%、水力はわずか20%。発電をしていない。止めている。原発を止め、水力・火力・自家発の遊休設備を稼働させればよいというのが、広瀬隆や小出裕章が言ってきた主張だった。

ずっと言ってきたことだが、昨年夏、やらせ事件で騒動になった九電管内で、あれほど電力不足だから再稼働だと喚きながら、一度として利用者に節電が要請されたことはなかった。四電も同じである。冬になって、形だけ節電要請を始めているが、この動きは原発停止後の「電力不足」を演出するアリバイ工作の疑いが強い。再稼働に向けて政治環境を固める一環だ。九州と四国の冬は暖かくで、電力不足が生じるなら夏だろう。原発の発電比率が41%の九電、同38%の四電で、昨年、次々と定期点検で原子炉が停止する中、どうやって真夏の電力を調達したのか。節電を強いられた首都圏の住民から見て、その対応は手品のようだった。60Hz帯の西日本は、関電(48%)を中心に原発依存率が高く、電力会社間の電力の融通もタイトだろうと誰もが想像する。手品の仕掛けがなければ、九電と四電の「節電なし」の事実は説明できない。九電と四電は、正直に言わないが、休眠中の水力設備を稼働させたのだ。毎日の暴露記事には、需給予測の-9.2%が本当は+6%だった電源の中身が一覧表で示されていて、火力で+584万kW、揚水で+596万kW、再生可能エネルギーで+350万kW、それぞれ大幅に上方修正されている。これほど大きな予測ミスを官僚がしたのは、意図的な隠蔽行為としか思えない。国家戦略室には説明責任がある。以下、本題に入るが、水力については過小評価はなかったのだろうか。

資源エネルギー庁のサイト内に、水力発電に関するデータが掲載されていて、参考になるので紹介したい。2003年の古い統計だが、円グラフの数字に注目すると、日本全体の発電容量は2億6829万kW、(ピーク時の)発電量は1億7472万kW、そのうち水力は17.4%の4678万kWとなっている。原発も17%の4574万kW。水力と原発はほぼ同じ。小出裕章の本(P.106)のグラフ(2005年)に戻って、水力の年間発電設備量は4000億kWとなっている。そして、その設備の稼働率が20%であり、800億kWの発電しかしていない。原発は稼働率70%、火力は48%。日本の水力発電は、実にピーク時に対応した電源なのであり、フレクシブルな位置づけが政策で与えられているのだ。その真相を最もよく図解したグラフが、同じエネ庁の公開情報の中にある。これは、1日の時間帯別の電源の構成を示したものだが、基本的に、日本の電力がどう生産されているかを一図で捉えている。概念が示されていて分かりやすい。時間軸を1年に置き換えても同じだ。最も基底に原発が位置され、その上に石炭・LNG・石油の順で火力が積み重ねられ、最後に水力で加減が調整される。この順序と発電量の調節が全てを物語っている。ウランを燃やす原発は、最初から発電量が固定されているのであり、原発に調整と変動の契機はないのだ。だから原発の稼働率が高い。原発依存率30%は、他電源と比較したときの稼働率の高さのためにもたらされている。

つまり、原発を動かすために水力の設備を止めているのであり、原発と水力を同時に稼働させると、供給がオーバフローになるのだ。これは、逆に言えば、水力をフルに稼働させれば、原発を停止させても需要をカバーできることを意味する。水力はテンポラリーな電源にされている。断りを入れるが、私はダムを新規に増設しろと言うのではない。既存の設備を活用せよと言っているのであり、原発の代替電源として着目せよと提起している。エネ庁も宣伝しているとおり、水力はクリーンエネルギーである。風力や太陽光と較べても、単位当たりのCO2の排出量が少ない。それと、水力に焦点を当てる最大の理由は、燃料のコストがかからない利点である。水力には燃料がない。一般に、水力の発電コストが火力より高いデータが出回り、それが常識として定着しているが、そこには留意すべき条件が二点ある。第一に割高になる揚水発電を含んでいること、第二に設備稼働率が低く抑えられているため、固定費に対して発電量が小さいことである。稼働率を上げて発電総量を増やせば、単位当たりの発電コストは低下する。現状、原発の再稼働をめぐる議論においては、火力で代替する方法のみが喧伝され、水力は候補から除外されている。その前提の下、火力の燃料コストの増大がプロパガンダされ、料金値上げを容認しろとか、それが嫌なら再稼働を認めろという方向に収斂している。その論理で脅迫がされ、東電と官僚の主張が正当化され、二者択一を扇動されている。

火力は一つの選択肢だが、唯一絶対の代替策ではないのだ。まして、風力や太陽光が立ち上がるまで、原発が必要だなどというエネルギー論はない。東電は、原発を火力に置き換えるために今年度8000億円の燃料費増となり、利用者に負担しろと要求している。もし、火力ではなく水力で問題解決できるとすれば、単に設備稼働率を上げるだけで、高い化石燃料を購入する必要はなく、この8000億円コスト増は半減以下に圧縮できるはずだ。私自身は、将来のエネルギーの主力は非在来型の天然ガス(シェールガス、メタンハイドレート)を燃料とするGTCC(ガスタービン・コンバインドサイクル)だと想定していて、後者はエネルギー効率で世界最強の性能の持った国産機であり、また欲を言えば、前者も国内の資源で充当できれば望ましい。この組み合わせをメインフレームに据え、その上に、地域の特性と必要に合わせた小規模な水力や風力や太陽光をサブシステムにする未来像が理想的だと考える。地産地消を設計思想にしたベスト・ミックスを考えたい。GTCCを動かすのは製造業(工場)や都道府県(ゴミ焼却場)で、彼らが徐々に発電事業の主体となり、電力会社がコモンな送電業者に変身する図はどうだろうと思う。そうすれば、料金低下の実現と同時に供給と品質の安定を確保できるのではないか。そこへ移行する繋ぎとして、現有施設である水力(ダム)に役割を期待するのであり、原発全基停止後の列島の発電において、獅子奮迅の働きで国民に最後のご奉公をして欲しいのである。

これもまた、昨年からずっと言い続けていることだが、脱原発を言う者の半分ほどが、脱原発の意味を「原発を自然エネルギーで置き換えること」だと定義づける集団である。そして、その「自然エネルギー」の中身は風力と太陽光の二つである。代表的な論者として、飯田哲也と金子勝と孫正義を挙げることができるだろう。この「脱原発」は、何より自然エネ産業の立ち上げを主眼とする「脱原発」であり、化石燃料を地上から根絶することを重視し、風力と太陽光のみを電源とすべしとする一派である。5-10年の時間をかけた「脱原発」でよいとする穏健派であり、安全基準を新しく設定した上での原発再稼働を認める立場である。したがって、GTCCやシェールガスの可能性に無関心で、テレビやネットの議論でその意義に言及しない。脱原発主義者と言うよりも、むしろ自然エネルギー主義者である。しかしながら、彼らが「脱原発」の論壇の中心で活動しているため、マスコミでは「脱原発」の一般像が飯田哲也と金子勝に象徴され、この二人の言説が「脱原発」の標準になってしまっている。われわれ、広瀬隆や小出裕章のような、全基即時停止の立場は、脱原発の正統ではなく異端にされていて、「原理主義」だとか「感情論」などという不快なレッテルが貼られている。金子勝や飯田哲也の「脱原発」が主流のように報道され、その観念が一人歩きした結果、原発の再稼働を容認する政治家たちも「脱原発」の括りに入る欺瞞を許してしまった。今、声を大にして言わなくてはならないのは、金子勝と飯田哲也は脱原発ではないということだ。

そして、原発の代替電源として水力をクローズアップし、東電の「燃料コスト増」論を一蹴することだ。

by thessalonike5 | 2012-01-23 23:30 | Trackback | Comments(0)
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