コラム

2012年01月21日号

【政治家の被告人質問】
鷲見一雄の視点、小沢一郎氏の法廷供述


●週刊文春と週刊新潮
 今発売中の「週刊文春」、「週刊新潮」とも小沢一郎氏を取り上げている。

「文春」は《小沢一郎を国会に「証人喚問」せよ 「政治資金収支報告書は見たことない」法廷を愚弄する男を許すな》と題する森功氏の読み物。「予想外の質問にたじろいだ」「元秘書証言との食い違い」「説明不足は一貫したスタイル」「印鑑なんか押しません」という小見出しがついていた。

「新潮」は《元筆頭秘書が看破!嘘に始まり嘘に終わった「小沢一郎」証言》という見出しの松田賢弥氏の「特別読物」、記事には「金庫番は小沢本人」「脱兎の如く逃げるのよ」という小見出しが付されている。

●鷲見一雄の視点
 いずれの記事も分かり易い。私も森氏、高橋嘉信・元小沢氏筆頭秘書とほぼ同じ捉え方である。

 私は小沢氏ほど大物ではないが、これまで3人の政治家の裁判に深く関わった。当然弁護団会議には毎回出て被告本人に代わって意見を述べた。
 その体験から言わせてもらうと、政治家の被告はおしなべて「公訴事実」と向き合おうとしないことで共通していた。被告本人に代わって裁判に参与する私や弁護人に対する説明は「意見」もしくは「見解」であり、「事実」については記憶していないのか、どうかはわからぬが、はっきりさせない。「こういう事情が事実なのだから、公訴事実はえん罪なのだ」とは言わない。「何もやましいことはしていない」としか言わない。その上、自分の言うことは何でも認めてもらえると思い込んでいる。ここが問題なのである。

 だから「罪状認否」の際も、「被告人質問」における陳述も、上申書等も「意見」もしくは「見解」を述べているにすぎない。弁護人は被告の「意見」もしくは「見解」に基づいて無罪弁護の組立てを行う。これまで政治家の事件が石川知裕氏を含めて「検察不敗」なのはそのせいなのである。裁判官は首肯できないのだ。当然と思う。弁護人はそんな主張は裁判所が認めることはないです、とは言わない。

 私の今は政界と何の関わりもない。私はどんな主張については「裁判所が認めないか」が分かる。若い頃、帝人事件の陪席裁判官で「水中に月影を鞠するが如し」という判決文を書いた石田和外氏らから「裁判官の物の捉え方」について懇切丁寧な教えを受けたからである。私が裁判所や法務省に出入りし出した頃は帝人事件の裁判官4人は全員現役だった。もっとも裁判長の藤井五一郎氏は公安調査庁長官だったが。石田氏は東京地裁所長だった。
 それで今はなぜ、あの時、あんな陳述をさせたのか、何であんな裁判所が認めるはずのない上申書を出させたのか。と思っている。裁判所が認めるはずのない陳述や上申をしても無駄なのである。それが分からない私ではなかったからだ。言えなかったにすぎない。

 裁判所が食いつく陳述をしなければ認められる訳がない。裁判所が無罪判決を出さないことについて無能、検察寄りの思考、証拠に基づかない推理小説などと批判する識者も少なくない。それも全くあたらないとは思わないが、私の3つの政治家事件の体験では「明らかに被告が嘘を言っている」ことにより全員有罪となった。無罪の判決をしてもらうには「事実説明に嘘を言っていると一つでも思われたら裁判所は絶対的に無罪判決を出さない」。小沢氏の説明は私の経験則からも頷けない供述が少なくなかった。

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