原発マネーに負けなかった男 (高知)

高知県民は、過去の放射能との困難な戦いで、実に3連勝している。窪川原発(1988128 窪川町)、高レベル放射性廃棄物(2007422 東洋町)、低レベル放射性廃棄物(200924 大月町)をその入り口で追い返した。最初の窪川原発については、私は何も知らなかったが、昨年1130日に高知大学で行われた島岡幹夫さんの講演を聴き、そのあと1時間ほど彼と雑談する機会があったので、およその経緯を知ることができた。それは、語るに値する話であった。

○ 島岡幹夫さんたちの地道な原発反対運動が、漁業のできる海を残した。

1975年、旧窪川町に原子力発電所建設計画が持ち上がった。島岡幹夫さん(当時38歳)は、この時、高知県窪川町自民党支部広報副委員長だった。25歳までは大阪府警の警官だった人である。この種の話は、一般の人が知る前に保守系の有力者の間で根回しされるの常である。ある会合で計画を打ち明けられた時、町の有力者がだれも反対しない中で、彼だけは、「ちょっと待ってくれ!」と異議をはさんだ。放射能が気がかりだったのである。その時、放射線治療の末に52歳で亡くなったお母さんの死体を思い浮かべたと言う。有機農業をやっていたから本能的に放射能を嫌ったということもあったかもしれない。

「窪川町には、当時、農業と畜産で80億、林業で30億、縫製工場などの加工産業を合わせると、150億近い自力があったのです。四国有数の食糧生産地なのに、たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは、愚の骨頂です」というのが、島岡さんの主張であった。しかし、窪川町自民党支部の中で、彼のこの正論に同調する人はなく、彼は孤立感を深めていった。

行動力のある島岡さんは、孤立しているだけではなかった。共産党の反対集会に乗り込んで行って、こう言った。「この町の有権者は13000人、革新は3000人、保守は10000人、革新が運動を主導したら、原発は建設されてしまいます。この反対運動は、私のような保守の人間が中心にならなければ、大きな力になりません。私を反対運動の代表にしてください」 そして、彼は、窪川町原発反対町民会議の代表となった。まもなく、彼は、窪川町自民党支部に呼び出され、除名処分を言い渡された。

賛成派と反対派、町を2分しての長い闘いが始まった。賛成派は、13億の宣伝費、接待費を使ったと言われている。一方、島岡さんは、「郷土懇談会」と名付けた学習会を毎週のように開き、住民と一緒に原発を学習することから始めた。「岩波新書の『原子力発電』(武谷三男)を教科書にして勉強しました。あの本は、私たち反対派のバイブルになりました」と当時を振り返る。

原発は未来に禍根を残す。反対町民会議は、任期4年の町長や町議会に議決を委ねず、全町民有権者の投票による住民投票条例の制定を要求した。「その時の町長は、当選して1年半後、公約に反し、賛成派に回っていたのです。その町長は、私の家内のいとこでしたが、私はリコール運動の先頭に立ちました。その町長の実の母親もリコール賛成派でした。1981年3月の解職投票で、賛成6332、反対5844で、私たちが勝ちました。しかし、私たちに油断があったのでしょう。その後の出直し選挙では、私たちの候補者が899票差で解職町長に負けてしまったのです。1票5万円だったと言います。私たちは再び危機に陥り、町は一層混乱していきました」 東洋町の高レベル放射性廃棄物の時(2007・4・22)も、1票5万円だった、と聞いた。

島岡さんたちの学習会をベースにした地道な反対運動は、原発マネーに負けることなく、徐々に賛成派を包囲しつつあった。県原発反対漁民会議は、「海洋調査が強行されるなら、5000隻の漁船を動員して、海上封鎖する」と宣言していた。そして、1986年4月、チェルノブイリ原発事故が起こった。1988年1月、町長は、「窪川原発は今日的課題ではなく、海洋調査を棚上げにする。私は、公約の責任をとって辞任する」と発表した。こうして13年間に及んだ窪川原発建設計画は、阻止されたのであった。

      ○ 自宅前の島岡幹夫さんと和子夫人(島岡さん提供)

島岡さんが命がけで原発反対運動に走り回っていたのは、13年間である。車に轢き殺されそうになった。また、腹を刺されたこともあった。しかし、彼は、原発マネーにも暴力にも屈することなく、己の正義を貫いた。たぶん、彼なくして、窪川原発は阻止できなかったであろう。その間、彼に代わって本業の有機農業をやっていたのは、和子夫人で、働き過ぎて、背中が曲がってしまったと言う。高校時代、彼は、2年間も生徒会長を務めていた。その同じ高校の2年先輩だった和子夫人いわく 「父ちゃんはえらい。私は父ちゃんを誇りにしています」

(筆者の感想)

窪川原発を止めた男・島岡幹夫さんは、現在74歳だが、まだまだ現役で、席の温まる暇がない。会えばわかるが、全身からエネルギーをほとばしらせていて、50代にしか見えない。彼は、現在、韓国の反原発運動を応援しているが、韓国の空港に降り立つと、両側に公安警察がピタリとついて迎えてくれると言う。また、自宅には、月に1度、黒いスーツを着た2人の高知県警の公安が訪れると言う。日韓両国の公安が彼の動静をマークしているのは明らかである。しかし、皮肉なことに、25歳まで彼自身がその公安警察だったのである。

また、彼は、「大地を守る会」国際局の要請を受けて、タイ東北地方のタラート村に毎年、有機農業の指導に出かけている。自ら泥まみれになりながら、「立体農業」を指導している。村人の笑顔が増えることを楽しみに、私財を投じて、村人の生活改善に貢献している。

また、彼の1枚65円の名刺には、「朝霧森林クラブ会長」とも書かれている。仲間を募って、植林の間伐にボランティアの汗を流しているのである。「窪川ジャガイモクラブ会長」でもある彼は言った。「経済を繁栄させるために農業を犠牲にしてエネルギーをつくりだそうとするのは、根本的に間違っています。私は、農業を基礎にした国づくりを考えるべきだと思います」

徳川封建時代が長かったからだろうか、日本では、「長いものには巻かれろ」という処世術の人が多い。いわゆる「大勢順応型」である。しかし、時々、社会の価値観に自分を合わせるのでなく、自分の価値観に社会を合わせようとする人が出てくることがある。島岡幹夫さんや澤山保太郎さん(高レベル放射性廃棄物が東洋町に入ってこようとした時、命がけで阻止した)は、そういう日本人離れした逸材である。己の正義を信じて、巨大な敵に立ち向かう「命知らず」が1人いること、それが原発マネーに負けない必要条件であるように思った。

小倉文三記者のプロフィール

2007年5月からJanJanフィールドに参入しています。2011年12月末までに、「ニホンオオカミ『もどり狼』問題の真相」(上)(中)(下)、「南京事件フォト紀行」(1)-(9)、その他合計すると280本の記事を書きました。「自然生態系の保全」にこだわりがありますが、記事のテーマは森羅万象、多岐にわたっています。「徒然なるままに・・・そこはかとなく」南国土佐より情報発信しています。
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HP: http://www.kcb-net.ne.jp/narijun

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