2012/1/22
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世界のデリバティブ残高
不正融資事件 その1
不正融資事件 その2
スキャンダル大盤振る舞い
泡沫・ピエロ(富士銀行)
ペイオフとは、銀行が経営破綻したときに、銀行預金保険機構が、預金者に支払われる保障金額が、「1000万円」とプラス「アルファ」までというルール......第一勧業銀行+富士銀行+日本興業銀行=みずほ銀行はペイ・オフの噂が耐えない。
住友銀行のドン磯田一郎
(1)超ワンマン・利益至上主義とその崩壊
http://www.rondan.co.jp/html/dokusho/itoman/no7.html
いま私の机上に近藤弘著「住友銀行七人の頭取」(日本実業出版社刊)が積みあげた資料の上に置いてある。出版された当時(昭和六十三年秋)行きつけの書店の平積みの中から、題名に興味を抱いて購入したものである。しかし当時は現役時代の多忙さにかまけて「積ん読」で放置してあった。
この原稿を執筆するにあたり、改めてひもといているのだが、巻末の「住友銀行戦後史の歩み」をみると、戦後の昭和二十年以降、歴代頭取(昭和二十六年までは社長と呼称していたようだ)は、野田哲造、鈴木剛、堀田庄三、浅井孝二、伊部恭之助、磯田一郎、小松康、巽外夫と交代している。現頭取の森川敏雄をいれると九名が戦後頭取の座についたことになる。
このなかで、堀田庄三が頭取十八年半(頭取の座についたのはまだ五十三才の若さだった)会長六年、計二十四年余の長期にわたり権力の座についていた。会長になっても人事権を一手に握って実質において「堀田体制」の院政を敷いてきた。
次に住銀・イトマン事件の住銀側の主役でもあった磯田一郎が堀田庄三に次いで十三年半(頭取六年半、会長七年)君臨してきた。
一方、短命内閣は浅井孝二が一期二年、伊部恭之助が二期四年、小松康が任期中に解任されて四年足らずだった。
歴代頭取の中では、堀田、磯田の両名が長期政権を確立し、権力の座について「法皇」とか「ドン」、「天皇」とか呼ばれて君臨してきたことになる。
磯田一郎は堀田庄三によって頭取に抜擢されたが、前出の「住友銀行七人の頭取」を読んでいたら、堀田は「磯田君は、安宅産業や東洋工業(現マツダ)の経営問題が起らなくても頭取になる男だった」と語っている。一方ではこういう磯田の人物評もある。磯田の二代前の頭取だった浅井孝二が次のように語っているのが目についた。興味深いので紹介しておきたい。
「彼はね、タムキですよ。タムキ。タヌキとムジナとキツネがいっしょになっているところがある。やさしいことをいっとるが、腹の中は何を考えているのかわからん。腹が太いですよ。安宅(産業の解体)のとき、『一,〇〇〇億円をドブに捨てた』といったのもそれですよ。顔の表情からハラの中は読めん」と。
また、住友不動産のある元会長は磯田を評して「きれいなヤクザ」といったといわれる。
モンタネツリーのローマの歴史によれば「魚は頭から腐る」といわれる。また、ローマの歴史家タキトウスの言によれば「人間は地位が高くなるほど、足もとが滑りやすくなる」という。更に「権力というものは腐敗の因子を内蔵し、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という故事成語もある。
住銀における通算十三年余に及んだ磯田一郎体制、超ワンマン政権の末路は上の成句の通りの結果となり、平成二年十月七日の突然の辞任発表、かつてのたのみとしていた磯田人脈の離反もあって取締役も辞任する破目となり、「磯田イズム」は終焉をとげた。そして本人自身は平成五年十二月三日心不全で蓋棺の身となった。享年八十才だった。
彼の死去を報じた朝日新聞は「型破りのバンカーだった。頭取就任と同時に『逃げない銀行』『積極路線』へ大きく転換させ、金融自由化の流れに乗り、実行力が注目を浴びた。しかし順次強大な権力をふるうようになり、かつ路線の転換が収益至上主義の土壌をつくり、これが銀行家としての評価を失わせたのかも知れない。晩年には『イトマン事件』などの負の遺産を残した。銀行家としては、功罪相半ばする評価だ」と評論した。まさに簡潔にして当を得て妙なる論評だと感心しながら読んだ。元首相故田中角栄についても、磯田一郎とはスタンディングは違うが、死後功罪相半ばするとする評価が多かったのと同様である。
磯田の関連会社を含む一切の人事権を一手に掌握する等の人事政策、超ワンマン体制、「向う傷を恐れるな」の何ものにも優先する利益第一主義の数々については、一般マスコミ、経済マスコミ等が繰返し採りあげてきた。週刊誌、月刊誌はもとより単行本も数多く出版されている。なかには「住友銀行残酷物語」と題したセンセーショナルなものも私の書棚の片すみに残っている。
もの書き素人の私がこれらマクロの住銀物語をここで再度採りあげることは遠慮して、身近かなミクロの問題について紹介し、読者各位に「なるほど住銀の収益第一主義とはこういうことだったのか」とご理解をいただければ幸と思う。
プロローグの頂で少し触れたが、私の旧制専門学校、大学時代の同窓生で、江商→安宅産業→イトマンといずれも一部上場の商社でありながら、合併又は解体によって元の社名が業界及び証券市場等から永遠に抹消されてしまい、なに人も経験したことのない奇異なサラリーマン生活を転戦してきた私の朋友がいる。
彼は住銀の手による安宅産業の生体解剖に伴い、当時輸出繊維部門長だったので、伊藤忠商事の繊維引取りの拒否にあい、イトマンへ部下とともに入社してきた。
イトマンへ入社後しばらくして輸出繊維部門内に新らしく設けられた新規事業開発部門の責任者となり、その後は子会社の伊藤萬石油販売の社長として、第五章(1)で詳述した石油業転事件の逆風をまともにうけ、村八分的業界の雰囲気の中にあって、一人前の企業にまで育てあげた男だった。根からの商才にたけた商社マンだった。
住銀がらみのある事件が彼の身辺に発生した時、彼から直直生々しい話を聞いた。このある事件については彼自身が、雑誌「新潮45」平成四年十二月号に詳しく記述している。また私自身も前出の「月刊Asahi」の私の拙稿で引用した。住銀磯田イズムを端的に象徴していて、読者各位によく理解していただけるものと思うので、ここでこの事件を再録したいと思う。
昭和五十三年に輸出繊維本部内に、業容拡大のため非繊維事業を拡大すべく、新らしく物資部が新設された。先に述べた通り彼が部長に就任した。「紙・パルプ課」「物資開発課」「燃料課」の三課をおき、特に紙・パルプ課では人材手薄のため、すでにパルプ・メーカーへ転職済の元安宅産業のベテラン課長をスカウトした。安宅の紙・パルプの取扱いは商社中一位だった。
ところが入社してわずか二ヵ月後の六月の休日、当日は早朝からドシャ降りの豪雨だった。彼は取引先と一緒にゴルフに行く途中、西名阪道路で大雨のためハイドロプレーン現象をおこし、中央分離帯を突破してきた大型トラックに馬乗りされて、彼の小型車はペシャンコになって即死した。新設の紙・パルプ課のまことに悲そうな門出となった。
これからを期待していた有能な部下の突然の交通事故死という悲運にあい、茫然自失の担当部長は翌月曜日に出社したらすぐ社内各部署へ連絡手配をすませた。自席へ戻りホッとしたが、やはり自然と何ともいえぬ悲しみがこみあげてきた。そこへ秘書課から管理部門担当常務(住銀OB、元本店支配人、故人)からの「チョット役員席へ来てほしい」との連絡が入った。
「きみ、たった今、住銀奈良支店長から電話があって、交通事故で亡くなったうちの課長について、四十才すぎの働きざかりで、生命保険金や補償金が多分一億円以上入る見込やそうな。その金が入金になり次第すぐに住銀奈良支店(故人の自宅は奈良近郊にあった)へとにかく預金するよう、遺族の方へきみが早速責任をもって手配してくれたまえ。ええな。頼んだぞ」
大きな期待をかけていた課長の突然の事故死に気も動転し、涙も乾いていなかった部長は、なんと表現してよいのか、呆れてものが言えなかったようだ。部下の死と引きかえに、預金のノルマを常務から与えられた格好になった。
後日この担当部長と会社の近くの炉端焼きで盃を交しながら、この常務からの血も涙もないような無理難題について話題が移った。担当常務は人間性豊かな温厚な人柄の人だった。しかし、彼が三十余年にわたって育ってきた企業環境、企業理念──すなわち住銀のなにものにも優先する利益至上主義、儲ければいいのだという方針、きびしいノルマを中心とした人事評価、昇進制度等々──が、彼をして非情なセリフを吐かせたのだ。常務の身には、入社以来の住銀イズムが染み着いているのだ。糾弾されるべきは住銀の磯田イズムそのものであり、常務個人ではないとの結論に達した。磯田が標ぼうした利益至上主義については、この事件に象徴され、すべてを物語っているのであって、これ以上の多言は要しないと思う。
なお、私の自宅の机の引出しに、イトマン時代に面談した方の名刺が残してある。全部だと大変な量になるので相当数整理したが、住銀の奈良支店長がこの事件に関して、たしか社長、常務及び人事担当だった私に表敬訪問に来社したようなおぼろげな記憶があった。そこで名刺の束を面倒だが一枚一枚くってみた。ブルー色の名刺(当時住銀はブルーの名刺を使用していた)の中の一枚を見つけ、思わずアッと声をあげた。そこには住友銀行奈良支店長、大上信之と印字してあるではないか。支店長の名刺は普通の白を使用していた。
住銀・イトマン事件の主役であった伊藤寿永光と親交があり、「伊藤番」を担当していた元常務名古屋支店長であり、その後本店営業本部長へ昇進した人物である。今回の事件で見えかくれする住銀側の重要人物であり、法廷の証言台に立って是非証言してほしいと願っている人物でもある。
イトマンの住銀OBの管理部門担当の常務とは、「利益」という至上命題の一つ穴のムジナだったが、運命の悪戯というか、イトマンとは腐れ縁のある人物だった。
彼も住銀と伊藤とのかかわりが問題になると子会社の東京総合信用に転出させられている。
磯田一郎はノンキャリア組のただひたすら収益の倍増、いや三倍増を目指して私生活をも犠牲にして頑張る働き蜂をことのほか寵愛し、いわゆるアメとムチとの人事手法で引き上げていった。異例の昇進を認められた者は恩義を感じ、さらに業績をあげて応えていくという構図だった。
その代表格が副頭取にまで出世コースをのぼりつめていった西貞三郎であり、常務にまで昇進した河村良彦だった。西は住銀へ入行後に大阪の関西大学二部(夜間)を七年もかけて卒業した苦学生であり、仲々の努力家だったという。
一方河村も旧制帝国大学をはじめ一流大学卒のエリートのうごめく中にあって、名古屋市内、東京都内の有力支店長を歴任して業績を大巾に向上させ、イトマン入社直前に常務に昇進したこれまた抜てき組だった。
この二人はノンキャリア組の目標であり、一種のはげみでもあったし、かつせん望の的でもあったという。
この抜てき組は住銀と磯田一郎個人双方のダーティ部分を社内外で分担し、お得意というか、十八番の水面下で水かきで目立たぬように、そして波紋が拡がらないように水をかきまわすこともしばしばあったという。
このことを裏づけるように、河村自身「文芸春秋」の平成三年四月号(三月十日発売)イトマン問題と私の副題で、「なぜ磯田一郎氏を恨むか」という独占手記(以下「文芸春秋手記」と称す)で「磯田さんのいうことはなんでもきいてきました。自分で『磯田一家』の第一か第二の番頭格のつもりでこれまでやってきたのです」と心情を正直に吐露しているほどのいわば親分、子分の間柄だった。
この三人のキズナはアフター・ファイブの私生活にまで延長され、東京六本木の高級クラブ(奥に『西さんの部屋』と称せられる専用室があり、密談や限られたメンバーとの歓談によく利用されていたという情報も事件当時さかんに流れていた)や浅草の料亭などで盃を重ね、時にはあの「星影のワルツ」の歌手千昌夫もグループに加わって、深夜までカラオケなどに興じたこともよくあったという。
歌手千昌夫は芸能マスコミがいみじくも「歌う不動産王」とネーミングしたように、日本国内はもとより香港、オーストラリア等の海外にもビル・ホテル等の不動産を保有するアベ・インターナショナルの代表者でもある。
バブルの崩壊で今や「歌う借金王」に様変りし、負債総額は二千億円に達するといわれ、一日の支払金利は約五千万円近いという。住銀とも取引きがあり、会長磯田とも極めて親しい間柄だったようだ。住銀のドン磯田の交友関係も、右から左(?)までずいぶん多岐多彩にわたっていたものだ。
さて、話がまたまた余談にすぎたが、磯田は周辺をこのような人物、かつての部下らの親衛隊で固め、行内でも磯田派の発言力が順次増大していった。かくして磯田グループに対しては次第に余人が口をさしはさむ余地が縮少されていき、イトマンの経営も磯田腹心の子分の河村がその任に当っていることもあって、漸次聖域化され、極論するならば治外法権的な取扱いがなされるようになっていった。
かくしてイトマンは、世間で住銀の「タン壷」だとか「フロ焚き」とかいわれるようになり、「住銀商事」として別働隊的な機能も住銀からの要請によって果すようになっていった。
このような行内における体制が、のちのち河村暴走経営にメインバンクとしての打つ手がおくれ、また機能の欠落を来たした一因となっていく。そして磯田個人も腐敗し、数々の私的スキャンダルが周辺でキナ臭くささやかれるような、おきまりの結末となっていくのである。
社長を解任された河村自身、自分が育ってきた、そして或る時には自らも信奉していた住銀・磯田イズムについて、週刊誌記者の取材に応えて「今回の事件は住銀の利益追求第一型経営の当然の結末だと思う」と淡々と語っている。(週刊現代「河村良彦イトマン前社長が“反撃”を開始」平成三年四月二十七日号)
次に住銀に関するたいへん興味深いアンケート結果があるので、是非とも紹介しておきたいと思う。
「週刊ダイヤモンド」誌(平成元年六月十日号)の財界トップ六〇〇人のアンケート調査によると、住銀をメインバンクとしたくない財界人は、前年調査時の一五〇人から一八六人と二四%も増加している。平成元年六月といえば、同年末には日経平均株価が三八,九一五円の史上最高値を示した例に見られるように、バブル経済の最盛期であり、住銀自身不動産融資他であくどい商法によって利益をあげていた時代である。住銀・イトマン事件もまだ発生していない時期である。
さらに、同誌はバブル経済が崩壊し、長びく不況下企業トップ五六九人に同様のアンケート調査を実施した。(平成五年四月十日号)その結果は、メインバンクにしたくない銀行として住銀をトップにあげている経営者は一九五名に達した。他行を抜いてだんとつのワースト・ワンに躍進(?)し、実に三人に一人という割合になる。不信票は昨年の調査結果と比較しても、二十七名も増加している。逆に三菱銀行については一二二人がメインバンクにしたいと支持票を投じている。何がそのギャップを生むのであろうか。住銀への企業トップの苦言、直言の主要なものを列挙してみよう。
1. 自己の利益最優先の取引姿勢
2. 不明朗、ダーティー・イメージが強い
3. 自己中心的体質
4. 変り身が速い
5. 日ごろの対応が冷たく、ドライ
6. 逃げ足早し
7. 関西的体質に肌が合わない
8. 取引が強引、えげつない
9. 取引条件が厳しく、いろいろ注文が多すぎる
10. 世間、業界での評判の悪さを伝え聞く
管理人注:一言でいえば「晴れの日に傘を貸し雨の日に取り上げる」ということだろう。
泡沫(ピエロ)富士銀行
富士銀行赤坂支店の7000億円融資事件
富士銀行夜の戦略室
いずれにしてもイトマンを非上場の住金物産へ合併させたことが、住銀の利益第一主義の取引姿勢と相まって、アンケートに応えた企業トップにとってマイナス・イメージの拡大に働いたことは否めない。
住銀の法皇堀田庄三、ドン磯田一郎と二代四十年間に及ぶ利益至上主義は崩壊してしまった。
磯田一郎によって小松解任後に頭取に引きあげられた元頭取巽外夫は、新頭取森川敏雄へのバトンタッチ(平成五年四月二十八日の取締役会で内定、記者発表)を前にして、朝日新聞記者のインタービューに答えて次のように語っている。
「もうけ主義とか、ダーティーな印象を変えたい。収益至上主義と言われないためには、社会に受け入れられる範囲で歯止めをかけることが必要だ。行内でやかましく言っている。高い授業料を払った。もうけ主義には戻らない」と。
(朝日新聞「ダーティーな印象を変えたい」平成五年四月二十四日)
(2)主力銀行としての機能の欠落
いま私の手許に平成六年二月五日付の朝日新聞朝刊がある。私は朝刊の見出しを見ながら朝食をとる行儀の悪いくせがあるのだが、第一面から順次頁をめくっていくと、十四頁〜十五頁の二面ぶち抜きで全面広告がでていたので、思わず頁をくる手をとめた。
「私たちは『ボディ性能』のマツダです」
との販売全車種の写真をのせた広告だった。一頁大の広告は過去よく見かけるが、二面ぶち抜きというのは、不況下広告掲載量が大きく減っている昨今、全く見かけなくなった。
マツダ株式会社(広島)が、二月五日、六日の両日「春の商談会」を開くという巻き返しの大キャンペーン広告だった。
いま自動車業界にはバブル崩壊の「不況風」が吹きまくっているが、マツダも高級車の売り出し、販売店の増強等の積極拡大路線が裏目に出てその例外ではなくなっていた。
平成六年三月期決算は、売上高が前年比一九.三%減、売上げ台数は二〇%減と業界大手五社の中で落ち込みが突出、経常赤字が四四一億円に達し、上場以来初の無配に転落するという最悪の業績下にある。
このマツダの主力銀行は読者各位もご承知の通り、以前から住銀である。かつて第一次石油危機に直面して業績不振に陥入った時、住銀からの人材派遣、資金援助によって立ち直った経過がある。しかし祖父、父の後を継いで社長だったオーナーの松田耕平は経営責任をとり、放逐され昭和五十五年には取締役に退いて、広島東洋カープの運営に当っている。
現社長も住銀OB(元神戸支店長(兵庫県))で昭和五十八年専務としてマツダ入り、平成三年十二月に社長に就任している。
平成四年十月二十七日付の日経産業新聞はその第一面で、「マツダ苦悩の決断、北米の高級車販売網中止」と担当記者の署名入りで報じた。その要旨は「北米における高級車販売網(アマティ)の整備、拡張計画の続行を主張するマツダ生え抜き派と、リスクが大きすぎると計画の修正を迫る住銀との間でせめぎ合いが続いていた。住銀は終始「冷徹」そのものだった。社長はまず社内で議論をつくすことが先決だ。銀行の意見はきくが、重要なことはすべてマツダが独自に決定すると銀行とは一線を画す姿勢を明確にし、一切銀行色を表面に出さないでいた。しかしマツダ首脳陣も軌道修正止むなしとの判断を固めたようだ」というものだった。
住銀頭取巽にとって(一)に年々販売シェアーが低下し、その業績低迷に呻吟していたアサヒビールは新製品「スーパー・ドライ」が起死回生薬となり見事再生を果たしたし、(二)に大きなお荷物となりその処分に苦悩していたダーティー・イメージのイトマンも合併の強行で一応のケリが付いたのだが、その(三)としてマツダが気がかりな企業となっていた。だから頭取自身も自ら当事者感覚でマツダに接していたようだ。マツダの急激な業績悪化というきびしい現実を前にして、住銀の例の冷徹な対応が前面にでてきて、今回の中止勧告となったのであろう。
同年十二月にはマツダの象徴的存在だった会長山本健一が勇退し、かつ国内販売不振でその責任をとり他の経営陣も刷新され、住銀の指導力の強化がはかられることとなった。
さらに、平成五年十二月には米フォード・モーターと、「新らしい戦略的協力関係を構築し、提携を強化する」と発表した。
住銀サイドは、国内販売の不振、円高傾向、対米摩擦等から輸出は低迷し、収益の拡大も極めて望み薄と判断して、平成四年に入ってから秘かに具体策を検討して、マツダの経営安定のために根まわしを行ってきた。この結果、平成六年二月には、副社長としてフォード・ベネズエラの社長を迎えるほか、専務二名を受け入れることを発表した。この結果マツダのフォード側の役員は計七名となった。
このように対マツダ対策の底流には、住銀らしい冷徹なきびしい資本の論理があったにしても、長期的観点に立って主力銀行としての機能を充分に発揮し、熱心な責任ある経営指導を実施してきた。
私が仮にマツダの幹部だとしたら「内政干渉」だと生理的に拒否反応を示すのではないかと思われるほどのきわどい指導、アドバイスの場面もあったのではないかと思われるほどだった。
また一方、同じく住銀がメインのゼネコン大手熊谷組は、総事業費七千億円に上る海外開発事業の大巾赤字、国内における受注の大巾減、未収工事代金の増加等の「三重苦」にあえいでいた。住銀は平成五年三月専務を先方の副社長として送り込む人事を発表、同時に日本長期信用銀行からも海外事業担当役員を迎え入れることとした。両銀行の支援、主導のもと、海外事業の縮少、整理、人員削減を含めたリストラが着々と進行中である。熊谷組が副社長を金融機関から迎え入れるのは、はじめてのことだという。住銀は間髪を入れず、タイミングよく、リストラへ向けての積極策を打ったのである。
本項で本論とはおよそ関係のないマツダや熊谷組の住銀の手による再建のことに何故ふれたのかと言えば、この二社に比し、イトマンについては住銀の主力銀行としての機能が全く欠落していたことを指摘し、読者各位に訴えたいがためである。以下本旨にもどり、時系列的に住銀のイトマンの緊急事態に対する対応について解説してみたいと思う。
平成二年三月十六日
住銀の大物顧問弁護士が頭取巽を訪問し、イトマンへ理事として入社した伊藤寿永光(第九章において詳しく述べる)なる人物及びイトマンへ与える悪影響と、その危険性について警告。
同月十九日
頭取巽は会長磯田と伊藤寿永光の人物、素性をめぐって協議、両者共通の危機感をもつ。
同月二十日
日経新聞記者イトマンの過大不動産投融資について、住銀会長私邸での夜討ち取材。
磯田、巽、西(副頭取)が今日かかり切りで三者会談を開催。磯田が巽にとにかくイトマンの実態を調べるよう指示し、自分もバックアップすることを確約したことが判明。磯田は「河村が伊藤寿永光を本部長に据えたこと」に非常に立腹していた由。(筆者注・河村は伊藤寿永光を同年二月一日付で理事待遇で入社させ、新設の不動産開発関連事業部の本部長に登用している)
同月二十二日(三月二十一日は春分の日で休日)
住銀本店で巽・河村会談開催。巽は不動産投融資の早急な削減、伊藤寿永光の即時退社を要求。河村は頭から拒否し突っぱねる。
同月二十九日
日経新聞記者住銀会長に対する三回目の夜討ち取材。「巽君がおとなしくなってしまい、皆がびびっている。度胸のあるのは西君ぐらいだ。本店営業部で少しずつ調べている。四月末ぐらいかかる。伊藤寿永光には一,〇〇〇億円ぐらいやれば縁が切れるだろう」と恐ろしいことを話したという。日経記者はこの言葉が頭にこびりついて離れず、バブル経済破裂の象徴的な事件になるだろうと確信したようだ。(筆者注・住銀の頭取ともあろう大物が河村会談後なぜびびったのか、また、会長磯田の「伊藤寿永光に一,〇〇〇億円ぐらいやれば……」云々の奇異な発言の真意は奈辺にあったのか、今もって不詳である。今回の住銀・イトマン事件のナゾがここらに秘められているのかも知れない)
同月三十日
住銀はイトマンに対し、銀座の土地(伊藤寿永光関連)を担保に三〇〇億円を融資。以降の融資は停止す。
同年四月二日
磯田、河村会談開催。河村は会長に勇退、西(副頭取)が社長に就任の磯田人事案を提示。河村は猛烈に反発、拒否す。
同月二十四日
磯田は伊藤寿永光の素性を承知の上で彼と初会談。於ホテル日航大阪の一室。(筆者注・この二者会談の紹介者、立会人及び会談の目的、その内容等は全く不明。私にとっての事件のナゾの最大のものと言ってよい)
同年五月二十二日
日経記者住銀会長邸で四回目の夜討ち取材。磯田曰く「徹底的に調べさせる。安宅産業のようなことはないだろう。伊藤寿永光君は二年で辞めさせる。とにかく調べるまで待て」と。(筆者注・頭取巽は三月二十二日に伊藤の即時退社を要求。磯田はその丁度二ヵ月後に「二年で辞めさせる」と大きくトーン・ダウンしている。約一ヵ月前の伊藤寿永光との極秘会談内容が影響しているのであろうか)
同月二十四日
日経新聞が朝刊第一面にスクープ記事を掲載。
「イトマン、土地・債務圧縮急ぐ。住銀、融資規制受け協力」、当日はイトマンの平成二年三月期決算の記者発表の日であった。河村はこの日経記事に猛反発、反論文書まで配布。
日経記者この日五回目の磯田邸の夜討ち取材。磯田は日経記事への河村の対応は悪いとし、「この反論文書はなんだ」と怒鳴りつけ、ご機嫌極めて斜め。
同月下旬の某日
磯田、河村会談。伊藤は二年間使い、平成三年三月まで河村に経営を任せる。両者合意し住銀の他のトップも了承したという情報あり。
同年六月初旬
大蔵相銀行局、住銀の事情聴取を始める。住銀側にイトマンへの対処方針の決定先送りの空気強くなる。(筆者注・磯田は三月下旬からイトマンの「住銀独自調査」を断言していたが、住銀首脳の発言はなぜか「六月から……」と後退していった)
同年七月〜日銀考査局が動き出す。
同年八月三十一日
住銀のイトマン調査チームが当初二週間の予定で本格的内部調査を開始。
イトマン問題が住銀首脳間で本格的に採りあげられてから、なんと五ヵ月ぶりに住銀の重い腰がやっとあがった。
同年九月十四日
巽・河村会談、再度河村の退任を求める。河村は前回同様これを拒否す。
同月二十五日
大蔵省の住銀検査開始。この検査は過去の調査では例を見ないなんと四ヵ月の長期にわたった。
同年十月七日
住銀会長磯田一郎、日曜日の朝突然の辞任発表。
同年十一月八日
イトマン常務伊藤寿永光、河村により解任さる。
同月二十日
住銀常務十河安義ら五名のチームをイトマンへ派遣。本格的調査と投融資の圧縮策の検討等に乗り出す。実に問題が惹起してから八ヵ月ぶりという主力銀行としては異例の対処だった。この八ヵ月に及ぶ空白期間中に、イトマンの経営が整斉と運営されていたのであれば特に問題はないが、実態はさにあらず、巨額の資金が伊藤寿永光プロジェクトや絵画取引に流出していき、世間や業界のひんしゅくを買った新規事業計画推進の発表も大々的に行われた。
その主要なものを参考までに列挙すれば次の通りである。
瑞浪ウイングゴルフクラブへの融資二三四億円(四月)
さつま観光への融資二〇〇億円(四月)
日本レース(株)(一部上場)の株式二五〇万株(発行済株式の一二.五%)をイトマングループで取得。
イトマンから社長派遣の予定。必要資金三十五億円(五月)
広島市庄原市(自民党代議士亀井静香の選挙区)でのリゾート開発計画を大々的に発表。開発資金約六〇〇億円の大型プロジェクト(五月)
コスモワールド(代表者熊取谷稔)の四ゴルフ場の会員権の独占販売権を取得。取得代金は九五〇億円の巨額に達す(六月)
米国カリフォルニアとハワイでの大規模住宅開発計画を発表。投融資額八九二億の大プロジェクト、伊藤寿永光の義兄スイニーが関与(七月)(筆者注・このスイニーは六月になぜかイトマンの取締役に選任されている)
専用ジェット機を発注。購入代金四十四億円。平成三年六月の引取り契約(七月)
コスモワールドのオリックスから借入三六〇億円を債務保証。これでコスモワールドに対する信用供与は計一、二一〇億という巨額に達す(八月)
許永中関連の絵画二一一点、計五五七億円を購入(一月〜八月)
絵画取引の別会社「エム・アイ・ギャラリー」ら三社を新規設立(六月〜八月)
東京・ピサ(住銀会長磯田一郎長女園子が勤務)から、ロート・レックコレクション他の絵画計一二三億円を購入(平成元年十一月〜平成二年九月の十ヵ月間)
社長河村、米国西海岸のペブルビーチゴルフ場他を視察(九月下旬の一週間)
東京・アルカディアコーポレーション(代表者小早川茂こと崔茂珍)に対し箱根霊園開発資金十億円を融資(十月)
広島庄原市のリゾート開発は予定通り実施の旨強気の説明会を再度現地で開催(十月二十二日)
河村は臨時ボーナス一ヵ月分を社員に対し支給。経常利益一〇〇億円台に乗り業績好調が理由(十月二十四日)
主力銀行たる住銀の適時、適切な対処が欠落し、いわば主力銀行不在の間に、以上列挙したような巨額の資金が無暴とも言える流出をした結果、イトマングループ主要三社の借入金の推移は次の通り膨張していった。(イトマン本体、イトマンファイナンス、伊藤萬不動産販売の主要三社分)
平成二年一月 八,四〇〇億円
同 二月 九,六〇〇億円(伊藤寿永光入社)
同 四月 一〇,〇〇〇億円
同 八月 一一,二三三億円
約2,800億円増加
(金利負担月額約五十億円に達した)
売上高が一兆四千億円となり、前社長水島広雄の拡大路線により、在任期間(三十二年間)中に三店だった店鋪数を四十店にまで増加させ、日本最大の百貨店グループに急成長したそごうも、その経営路線がウラ目に出て業績不振に陥っている。そのグループ全体はなんと一兆二千億円を超える借入金を抱えている。また一方巨大スーパー「ダイエー」の借入金総額は膨張に膨張を重ね続け一兆四千億円に達しているという。
百貨店・スーパー業界の雄、この二社の借入金とイトマングループ三社の借入金約一兆一千億円を比較すれば、イトマンの企業規模、業態から考えればいかに異常なものであるかは判然としてくるであろう。
さて、ここでマツダに話を戻しイトマンの経営陣の構成について調査、分析してみたいと思う。
私はマツダの社長は住銀OBなので、少くとも十名程度の同行OBが役員として送りこまれ、その名簿に名を連ねているものとばかり勝手に思い込んでいた。
同社の平成四年三月期の有価証券報告書を閲覧して、取締役四十三名のうち、同OBは社長、副社長、常務、平取締役のわずか四名に過ぎず、約一割程度だったことが判明した。他に住友信託銀行の出身者が一名いる。
一方、イトマン役員は平成二年度で総数四十二名、うち住銀OBは十五名の多きに達し、その構成比は1/3を越え三六%にものぼっている。よってイトマンは同行の本店支配人、調査役、検査役等の定年前(後)の管理職の格好の第二の職場になっていた。役員以外にも理事待遇の部長クラスも相当数送り込まれていた。
しかし、残念ながら彼らは河村の暴走・乱脈経営について早い時期に本店のしかるべき幹部にその具体的内容について報告、あるいは意見具申等をして、ブレーキをかける、阻止するような具体的な手立てを講じることもなく、只々傍観者的立場に立ち、かつ河村司令官が高らかに吹き鳴らす勇ましい進軍ラッパに、軍靴の靴音も高く歩調を合わせ、無暴な攻撃を繰返し、最終的には玉砕してしまった。主力銀行として送り込まれた自分達の機能というか位置づけをどのように認識し、行動していたのであろうか。まことに無責任極まる情けない十五名にも及ぶ大集団だった。先にイトマンは住銀OBの第二の格好の職場だったと述べたが、敢て表現を変えれば「姥捨山」だったと言えると思う。
マツダの住銀OBの社長は、イトマンの河村とは違って、うまくバランス感覚をとり、社内のプロパー幹部、社員からの信頼、人望も高い人物だったようだ。それにしても、イトマンサイドにはマツダ住銀OBの約四倍にも達する役員が、雁首をそろえておりながら、イトマン抹殺という現実を迎えたということは、極めて遺憾と言わざるをえないし、住銀首脳陣の経営責任は極めて重大である。
次に指摘しておきたいのは、住銀サイドのイトマンの経営実態の調査が五ヵ月間も放置され、副社長クラスの派遣まで八ヵ月も要したということ。一イトマンOBの立場からは住銀の内部事情の詳細は知る由もないが、イトマンの経営なるものが、前述の通り会長磯田の手によって、いわば聖域化され、他の人により介入、手をつける余地のなかったこと。派閥抗争、権力闘争のまさに飛ばっちりをうけたことである。
巽頭取は平成三年八月三十日、衆議院証券金融問題特別委員会に参考人として招致をうけ、与野党委員の質問に答えた。当日、日本興業銀行、富士銀行の各頭取も招致されたが、巽頭取は午前中の一番バッターだった。
巽頭取はある委員の質問に答えて「イトマンへの対応は各種の情報の撹乱もあって遅れた」と弁明したが、(筆記注・情報の撹乱とはどういうことなのか、いまひとつはっきりしないのだが……)いずれにしても重ねて強調するが、主力銀行としての責任は極めて重大である。
もちろんイトマン自社内にチェック能力、自浄機能が無ければならず、一方的に主力銀行頼みをするわけではないが、主力銀行としての適切な諸対策がもっと早い時期にタイムリーに打たれておれば、住銀・イトマン両社が被った損害をはるかに少く、かつイトマンの抹殺もあるいはなかったのではないかと悔まれてならない。
まさに主力銀行としての機能の完全な欠落だった。
「私は昭和二十八・二十九年のデフレのころから日本のメインバンクがいかに企業を手ごめにしてきたか、随分見てきたが、いまだかつてメインバンクが企業を革新するような役割を果したケースを知らない。日本のメインバンクは企業を解体するだけで、何ものも作り出していない」
(龍谷大学経済学部教授(当時)奥村宏「週刊東洋経済」平成四年十月十日号)

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2012/1/21
主役伊藤寿永光の登場
(1)伊藤寿永光なる人物
『伊藤 寿永光(いとう すえみつ、1945年 - )は、イトマン社の元常務。中京商業高校卒業。
イトマン事件において、1991年、イトマン元社長河村良彦、元不動産管理会社社長許永中とともに特別背任罪で起訴された。(2005年10月7日、最高裁で上告棄却が決定し、懲役10年の実刑が確定)
伊藤萬(のちのイトマン)が東京・青山に東京本社を建てるための地上げが進まなかった際に、住友銀行名古屋支店が山口組の関係者である伊藤を仲介屋として伊藤萬に紹介していたことから、伊藤は、イトマン社の常務に就任していた。
保釈・公判中の2003年3月に格闘技イベント「K-1」の興行会社「ケイ・ワン」の脱税事件に絡み、元社長石井和義に隠蔽工作を指南したとして、証拠隠滅罪で逮捕され、後に懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪が確定した。』(Wiki)

バブル最大のスキャンダル事件は消費税法案を通過させた。
原文
私は伊藤寿永光なる人物に直接会ったこともないし、もちろん話したこともない。事件の熾烈なマスコミ報道の最中に、TV番組でゴルフのスイングをする映像と、新聞・雑誌での顔写真を見ただけだった。端正な顔立ちとすばらしいスイングをする人だなあという印象が残っていた。
現物(?)をはじめて見たのは、平成三年一月二十八日、第二回公判での手錠・腰縄での法廷への入廷姿だった。次いで彼の肉声に接したのは同四年七月十七日の彼らの第十三回公判時だった。検察側の証人尋問終了後、伊藤担当の当時の竹村弁護人(元広島高検検事長)が突然立ち上がり、特別要請を行い、被告伊藤が異例の陳述を行った。内容は、「現在拘置されている大阪拘置所の独房は、弁当の差入口の小さい窓があるだけで、四面窓がなく風が全く通らずムシ風呂のような中で生活している。この独房は二〜三ヵ月の短期用だと聞いている。この猛暑とストレスによって、私の家系は低血圧の血統で、自分も下が七〇〜七五、上は一〇五程度だったのが最近は上が一五〇にまで上昇し、後頭部がナマリを張ったような状況になった。ついては風通しのよい部屋への移転と、指定病院での診察を特にお願いしたい」との趣旨だった。弁護人からも「若し万一のことがあれば誰が責任をとるのか、非人間的扱いについて改善措置を早急に講じてもらいたい」との強い要請があった。当時伊藤は逮捕されて丁度丸一ヵ年が経過し、肉体的、精神的疲労が限界に到達していた時期だったと思われる。
私がここで伊藤のこの陳述を採りあげた所以は、伊藤の独房のひどい非人道的ともいえる実態を明白にすることにあるのではない。伊藤の話術の巧みなことを読者各位に理解していただくためである。彼のじょう舌、多弁ぶりには相手がコロリと参ってしまうというかつてのマスコミ報道が、私の頭にこびりついていた。わずか三〜四分程度の時間だったが、彼の話しぶりは実に巧みだった。漫才でも落語でも語り口なりシャベクリには間が大事だとよくいわれる。彼の話術には適当に間があり、イントネーションもよく、丁重な敬語もわざとらしくなく交えての要請だった。当日私と同席し傍聴にきていた同じイトマンOBもひとしきり感心していた。傍聴席の私も彼の巧みな弁舌に、詐欺師というものはもって生れた天性、才覚を具備しているものだと感心しながら聞き入っていたのだった。
雅叙園観光の元社長山本満雄は、かつての勤務先だった西武ポリマーの常務時代に伊藤寿永光を知り、山本自身の表現を借りれば若い時代から“親子の関係”のように可愛いがり、かばい続けてきた。山本は公判で「伊藤はそんな悪い男ではない」とも証言し擁護したが、伊藤は恩人ともいうべき山本を裏切り煮え湯を飲ましてしまった。山本自身も残念ながら裏切られたと周辺に洩らした。その山本が公判の法廷で伊藤の人間性について次のように証言した。
「彼の発想、着想には天才的なものがあり、これを商売に生かせばすばらしいと思う。反面、虚栄心と自己顕示欲が強く、嘘も多い。意外に気が弱くノーと言えない面もある。さらに人にとり入るのが極めてうまいという特技をもっている」と。(元大阪信組理事長南野洋公判、平成四年十月十四日)
伊藤は西武ポリマー建装部で壁紙販売を担当していたが、この仕事には満足せず行詰っていた。伊藤が内装関係をやりたいというのでやらせてみたが、計画倒れに終ってしまった。「組織の中では働けない男」だと判断したので、山本が独立して仕事をやれと西武ポリマーを退めさせた経緯もあったようだ。
次に伊藤のプロフィールをうかがい知ることのできる関係者の話を紹介しておこう。
伊藤を子供の頃からよく知っている近所の主婦。
「イトマンの新聞記事を見て、またやってるって思ったわ。スエちゃん(寿永光)は子供のころからそう。ウソがばれて怒られても平気。悪びれるところなんてない。翌日には『こんにちは』って笑顔であいさつしていく」
伊藤の古い友人。
「ほんとうのことは、千に三つぐらい」
伊藤と一緒に仕事をしたことのある名古屋の会社経営者。
「彼のウソには夢がある。ウソを楽しまなくちゃ。信じ方が悪いよ」
(以上三談話、朝日新聞「バブルの履歴書」(2)、平成三年七月二十五日付)
一方イトマンのナンバー2の副社長は、伊藤について法廷証言で「平成元年十一月に、八事(名古屋)の伊藤経営の結婚式場を見学、夕食をともにし、翌日春日井ゴルフ場で一緒にプレーした。
『口八丁、手八丁のやり手。ただし一匹狼で会社組織、管理になじまない人物のようだ』
との第一印象だった。帰阪直後に社長河村の北陸出張に同行したが、河村から『伊藤は不動産のプロで、らつ腕、やり手、平安閣グループの総師だ。イトマンへ入社させて仕事をやらせたい』との意向の表明があったが、強烈な第一印象があったので『入社反対』の意思表示をしたが、河村自身からはうまく使っていくから大丈夫だとの反論があった」と語った。(河村良彦ら公判、第五回、平成四年三月二十四日)
次に伊藤寿永光の身上経歴について驚くべき事実をここでつけ加えなければならない。
大阪地検はその冒陳において、伊藤寿永光の素性について次の通りきびしく指摘している。
「かねてから暴力団五代目山口組若頭で宅見組々長でもある宅見勝と親交を深めており、イトマン入社後でも宅見組長秘書が、イトマンの被告人伊藤のもとに出入りするなどしていた。前科として、軽犯罪法違反で科料に処せられた一犯がある」と……。
以上述べたような関係者の語る伊藤寿永光なる人物の手短なプロフィールなり、印象及び検察の指摘は、伊藤のイトマン入社後の言動のすべてを端的に物語っていると思う。
伊藤案件と称する不動産開発プロジェクトは、多大の利益を生むと喧伝し、また自ら冠婚葬祭事業の平安閣グループの総師なりと吹聴し、イトマン社長河村に取り入り、イトマンへ正式入社のうえ、一部上場企業の筆頭常務にまでに昇進した伊藤寿永光とはこういう人物だったのだ。
(2)イトマンとの接点
前項の通りの大阪地検の札つきのこの人物がどうして一部上場、年商六千億円、資本金約五〇〇億円の中堅企業、しかも創業以来一世紀にも及ぶ老舗へ入社できたのか、さらに、入社と同時に筆頭常務(副社長就任案もあったという)に就任するという異例の人事が何故安易に行われたのであろうか。誰しもがもつ疑問だと思う。以下その経緯、背景等について解説してみたい。
イトマンと伊藤との接点はこともあろうに主力銀行の住銀による紹介だった。当初マスコミは同行の常務取締役名古屋支店長の紹介と報じたこともあったが、実際は栄町(名古屋)支店長であった。少し余談になるが、この支店長は後年河村に懇請されて、本人は熟慮のうえちゅうちょこしたようだが、理事(準役員)としてイトマンへ入社し、皮肉なことに名古屋支店長(故人)を補佐し、自分が紹介した伊藤寿永光プロジェクトを担当することとなった。しかし名古屋支店長がその内容を第三者に知られることを敬遠したためか、満足な仕事は与えられなかったようだ。上司の名古屋支店長(伊藤プロジェクトの窓口責任者)の自殺とも事故死とも伝えられる急死、伊藤と河村両名の解任等により、平成三年三月傷心いやしがたく、彼は静かにイトマンを去っていった。入社前の本人のちゅうちょが当ったわけで、いわば事件にまき込まれ第二の人生を他人の意思で狂わされた悲劇のサラリーマンだった。河村との出会いはこの時が最初ではなく、河村の渋谷(東京)支店長時代に新入行員として部下だったようだ。河村との二度目の出会いだったわけである。
彼は昭和五十九年豊橋(愛知)支店長、同六十一年大塚(東京)支店長を歴任し、同六十三年に栄町支店長に就任した。特別のエリートコースを歩んできたわけではないが、河村の勧誘なかりせば、住銀系列の企業で第二の充実したサラリーマン生活が送れたのではないかと推測される。イトマン退社後も住銀のあっせんによって系列企業へ再就職したが、何故か退社したようだ。まさに同情に値する悲劇の第二のサラリーマン人生を送ることとなった。
さて本論に戻るが、この栄町支店長も検察の喚問をうけ、検察並びに弁護側の尋問に答えた。この証言によれば、伊藤とは以前からの知己ではなく、栄町支店長に就任後間もなく同六十三年五月ころ、当時の住銀豊橋支店長に「名古屋によい人がいるよ」ということで、和合カントリークラブで引き合わせてもらった。
伊藤の経営する「協和綜合開発研究所」(以下「協和」と称する)と住銀との取引は、麹町(東京)支店が窓口だったが、(二〇〇億円ぐらい預金があった由)現在は名古屋支店と取引があるということだった。栄町支店長としては、取引のある名古屋支店とのかね合いがあり、直接取引はできないので、伊藤の実兄の経営するイブキ(名古屋)に融資を実行したり、伊藤からゴルフ場開発資金八十億円(ノンバンクから調達)について一時外貨預金に入金してもらったことがあった。しかしボリュームメリットだけで、金利メリットはなかった。
さて、伊藤をイトマン名古屋支店へ紹介した切っ掛けは、平成元年五月〜六月ころ、関ゴルフ場(岐阜)の開発資金(約一二〇億円)及び関東の相武カントリークラブの過半数の株式買収資金(約一二〇億円〜一三〇億円)の融資並びに関ゴルフ場の会員権の販売委託先の紹介について、伊藤から依頼があったことにある。栄町支店長としてはなんとか自店で融資できないかその方法を検討したが、直接の融資は不可能だし、迂回融資、イトマン保証による融資もイトマンの窓口になっている住銀本店営業部との関連もあって、無理があるので中止せざるをえなかった。
そこで同年五月下旬か六月初めころ、イトマン名古屋支店長にアポイントをとったうえで、伊藤を同道訪問し、引き合わせた。名古屋支店長は住銀OBであり、先輩でもあった。
伊藤は関ゴルフ場について認可書、設計図等二〇〜三〇センチ程のぶ厚いファイルをもとに説明を加え、融資を依頼した。相武カントリーについては口頭ベースで話をした。名古屋支店長は河村社長へも報告し相談、検討を約してその日は別れた。伊藤にとってはまさに「渡りに船」であって、このチャンスを絶対逃すまいと心に決めて、いろいろ秘策を練ったものと推測される。人のよい生真面目な名古屋支店長はまさに伊藤にとっては「かも・ねぎ」の存在となった。
当時伊藤の資金繰りは、雅叙園観光(東京一部上場)を乗っとった仕手集団池田保次(広域暴力団山口組系)時代の乱発簿外手形のサルベージ資金、銀座一等地の地上げ資金等のため、大阪府民信組のほかアイチ、丸益産業その他の街金融業者からの借入金が極度に膨張し、パンク状態になっていた時期だった。雅叙園観光については次項で詳しく触れる。
二週間ほどして河村社長の了解をとったとの連絡が栄町支店長の許にあった。栄町支店長は伊藤のことは銀行ではよくわからないので、イトマンサイドでよく検討してほしいと名古屋支店長に申し入れた由であるが、すでに住銀の麹町・名古屋両支店で取引実績があって銀行審査もパスしているので栄町支店長も安心していたものと推測される。住銀栄町支店としてはゴルフ会員権販売資金の協力預金のメリットがあり、イトマン名古屋支店長とは、同じ銀行マンとしての暗黙の了解事項だったようだ。
河村は名古屋支店長からの報告をうけて、伊藤が計画中と称する各プロジェクトに非常に関心と興味を抱き同年八月三日夜、伊藤を大阪へ招き、住銀栄町支店長を交え、名古屋支店長も同席し会食した。河村と伊藤はこの席上初めて名刺を交換した。いわば河村が伊藤プロジェクトへのめり込んでいくきっかけとなった運命の日だった。
栄町支店長はこの会食は、イトマンが関ゴルフ場プロジェクトを進めるので御礼の意味があったと理解していた。当日午後六時から開宴の予定だったが、名古屋からの参加であり銀行の所用もあったので、七時〜七時半ころに到着したが、すでに河村と伊藤は親しく話し合っており、特に支店長は確認はしていないが初対面ではなく以前から知っていたという印象をうけたようだ。なんとか「利益」のほしい河村のことだから、名古屋支店長と伊藤との初対面から二ヵ月もあったのだから、すでにどこかで両者は会っており、相当込み入った話をしていたのかも知れない。
栄町支店長が遅れて席につくや、河村は「いい事業家」とプロジェクトを紹介してもらったことに対し丁重に礼を述べた。伊藤は自分の計画案件に対しとうとうと説明し、名古屋高岳町にいい土地をもっているので、高層ビルを建設しイトマン名古屋支店が入居すると同時に伊藤の経営する八事の結婚式場も移転させ、一階には高級輸入品の専門店を出せば繁盛すること間違いなしと、河村の歓心を買うような発言もあった。また東京の雅叙園観光の再建に奔走している旨強調もしていた。河村の雅叙園観光をまとめた伊藤の手腕はたいしたものだとの称賛のやりとりがあるうちに九時頃となりお開きとなった。河村が持病の糖尿病のため飲酒を控えているせいもあるのか、二次会への誘いもなく、伊藤は栄町支店長と共に新幹線で帰名した。車中は雑談に終始し、特に込み入った話はなかった。名古屋支店長は何故か別行動だった。当日は一人当り約三万円程度の比較的安あがりの会食であった。もちろん河村の会社交際費から支出された。
場所は河村がよく利用していた例のミナミの料亭「たに川」だった。連日熱帯夜の続く風のないむし暑い夜だった。「たに川」の近くには戦前の歌謡曲にもうたわれた有名な「道頓堀川」が流れている。両岸の広告看板のネオンに映えてドス赤く淀んだ水が、緩りと流れていた。何かを予知するような光景であった。
なお、本項は河村良彦らの公判、第十一回、平成四年六月二十三日、第十四回同年八月二十五日での元住銀栄町支店長(元イトマン理事名古屋支店勤務)の二回にわたる証言を中心として構成した。
(3)雅叙園観光の怪
第十四章(1)項で日経新聞(夕刊)平成二年一月二十三日付の「雅叙園観光三月に第三者割当、イトマングループ傘下に」の記事のことに触れているが、この報道が住銀・イトマン事件発覚の発端となったのだが、詳しくはこの章を読んでいただきたい。
雅叙園観光はこの日経記事の通り、同年二月二十八日に、一,〇〇〇万株の第三者割り当て増資を実施した。老朽化したホテルの改装などが名目だった。このうちイトマン本体とその複数のグループ企業が九七〇万株を引き受け、増資資本一〇七億円を払い込んだ。そしてイトマン社長河村良彦が五月には代表取締役会長に就任し経営権を握った。
日経新聞のこの増資報道もさることながら、住銀・イトマン事件の原点は雅叙園観光にありと言えると思うのだが、以下その事由について解説を試みたいと思う。
雅叙園観光は東京JR山手線目黒駅から歩いて約十分。閑静な住宅地の杉木立に囲まれた一等地に建っている。敷地は約二,六〇〇坪、うち三分の二は国有地の借地で、残余は昭和初期の創業者細川一族の経営する会社の所有となっている。鉄筋五階建て、九十六室あり。昭和初期に高級料亭(上階は洋館、下は和食料亭)として開業したが、昭和二十三年日本ドリーム観光の代表者松尾国三がホテルに改築し、経営に乗り出した。松尾は同二十四年には株式を公開し東証一部に上場した。
同五十九年にオーナー松尾国三が死去したのを機に、未亡人ハズエ(会長に就任)と社長阪上(故国三の一番番頭だった)との間に、日本ドリーム観光の経営をめぐる主導権争がはじまり、社長派は知人の紹介をうけた大阪の仕手集団コスモポリタン会長だった池田保次(前出)と手を組んで自社株を買い占めて、オーナーのハズエの追い出しに動いた。この時すでに池田は雅叙園観光株の買い占めを逐次進めていた。
一方ハズエ側は警察官僚OBら(元法相秦野章ら)に協力を依頼防戦につとめた。爾来三年間、両派の対立はエスカレートする一方で見にくい泥仕合が展開されていった。
両派は激しい攻防戦のあげく、同六十二年四月に「ハズエ派はドリーム観光を、社長派は雅叙園観光を夫々取る。両社の兄弟関係は解消する」ことで手打ちを行い和解した。
かくして、雅叙園観光株を買い占めた池田保次が一ヵ月後の株主総会で、かねてからの念願だった一部上場企業の代表者の地位に就いた。「仕手集団」「あくどい不動産屋」といわれた親分から「経済人」の表舞台へおどり出た華麗な転身だった。
池田保次の肩書きについては、「仕手集団コスモポリタン会長」と紹介したが、実は前にも触れたが広域暴力団山口組系の組長で、前科十一犯という裏街道を歩く男だった。
全国各地の一等地の地上げを強行し、大掛りな仕手戦を展開し二,〇〇〇億円から三,〇〇〇億円にも及ぶ巨額の資金を動かしたといわれる。株式の買占めは数十社に及ぶようだが、その主要なものを列挙すると、前記の日本ドリーム観光、雅叙園観光のほか、東海興業、新井組、石原建設、丸石自転車及びタクマなどであった。
彼の経歴からいって大手金融機関が直接融資するはずがなく、すべて街金融業者からの高利の借金ばかりだった。伊藤寿永光、許永中、大阪府民信組の元理事長南野洋ら、住銀・イトマン事件の主役たちも融資をしていた。
池田が一部上場企業の表舞台に立ち権勢をほしいままにしていたわずか五ヵ月後の十月十九日、例の「ブラック・マンデー」が襲ってきた。アメリカニューヨークの株式は五〇八ドル安(二二.六%暴落)と史上最大の暴券を、翌二十日には東京・兜町の市場も三,八三六円安というやはり史上最大の下げ幅を記録、全世界にわたり株価は大暴落をきたした。
このブラック・マンデーの打撃をもろに受けたコスモポリタンの資金ぐりは急激に悪化し、その台所は文字通り火の車と化した。窮地に立った池田がタクマの仕手戦に最後の勝負に出たが、ものの見事に敗北したのが命取りとなり、同六十三年二月に雅叙園観光の会長職を降り、その経営権を別人に譲渡した。
当初「香港資本グループ」が経営権を譲り受けたとされていたが、これは彼ら独得のみせかけであって、事実上引き継いだ人物はあの住銀・イトマン事件の主役許永中グループ企業だった。
会長を辞任した池田は引き続き実権をにぎり、許永中とタッグ・マッチを組んで、同六十三年春先きから商行為を全く伴わず、しかも決済資金のアテも全くない簿外のいわゆる「融通手形」を乱発しはじめた。
当初その総額は約二六〇億円〜二七〇億円ぐらいといわれていた。しかし、雅叙園観光の元代表取締役社長山本満雄は次のように法廷で証言している。(南野洋第八回公判、平成四年九月二日)
「社長に就任後弁護士に依頼して、雅叙園観光振出しの簿外・乱発手形の精査をしたところ、その総額が約七八〇億円にも達することが判明した。驚いて早速伊藤寿永光に連絡し、当初の想定額との差額があまりにも巨額すぎるので、『会社更生法』の適用を強調し彼に申請を要請したが、伊藤は『力強くがんばります』と言い張った」
この簿外手形の主要な振出先は、
丸益産業 約二〇七億円
((注)平成三年三月末のイトマン株の大株主名簿の第九位にランクされている。その保有株数は三四〇万株となっている)
許 永中 約二〇一億円
アイチ 約一二六億円
佐川急便 約 四〇億円 他
(チェイス特別号「住友銀行事件の深層」アイペックプレス発行による)
これらの手形はコスモポリタンの債務保証に用いる他、池田サイドの資金繰りに活用されていた。また雅叙園観光の有力営業拠点だった神戸ニューポートホテルも同六十三年一月に伊藤寿永光の「協和」へ売却してしまうという乱脈の限りをつくした。
池田は精根尽き果て、軍資金も完全に枯渇したのか、「今から東京へ行く」こう言い残して同年八月十二日に失踪した。当時、海外逃亡説、拉致説、殺害説などが噂として流れたが、今だにその行方はつかめず迷宮入りとなっている。
この池田保次に対し伊藤寿永光は、同六十二年四月〜七月にかけ約二七〇億円(雅叙園の連帯保証を入手)を、大阪府民信組の南野洋は三月〜九月にかけ、約一五七億円(雅叙園観光株、神戸ニューポートホテル担保)を夫々貸しつけていた。
一方、許永中は前記の通り雅叙園観光の経営権を掌把したものの、池田時代の乱発手形の仕末に窮し、そのサルベージ資金として、アイチからはピーク時(同六十三年十二月末時点)約六〇〇億円という高利の借入れを余儀なくされていた。大阪府民信組も約一四七億円(同六十三年秋〜同六十四年一月)を許永中に融資し、彼を支えたのだが、許は雅叙園の経営の維持と、資金繰りに喘いでいた。大阪府民信組の南野も、乱発手形が取り立てに回され不渡りになれば許、南野は伊藤も含めて、彼らの保有していた同社の株式が紙クズ同然になってしまうので懸命だった。
乱発手形サルベージ資金の大スポンサーだったアイチの会長森下安道は、許に対し「もうあんたには貸すことはできん。雅叙園からは手を引いた方がいい」と忠告し、継承候補として伊藤寿永光の名を挙げ、彼を推薦した。
一方、伊藤の手許資金繰りもコスモポリタンへの巨額の融資がこぎつき、四苦八苦の状態が続いていた。許と同様にアイチからの借入金等でなんとかしのいでいた。この様な状況下、伊藤は担保として入手していた雅叙園観光の手形二八四億円(金利含む)の支払いを求める内容証明便を翌六十四年一月早々に送りつけた。
大阪府民信組の南野はこの内容証明便が届くやいなや、雅叙園観光に支払い能力がないことは充分承知の上だったので、貸金約一四七億円は回収不能となり、南野がオーナーのグループ企業が保有する雅叙園観光の株三八四万株は紙切れとなることを恐れ、急拠許と鳩首協議し、アイチ森下からの忠告も受け入れて伊藤へ経営権を譲渡し、債務処理を実施させることで合意に達した。
前述したが「親子のような間柄だ」と自ら称し、伊藤寿永光を若いころから可愛いがり、後見人的な役割を果し、彼の拘置所からの保釈時の保証金についても面倒を見たといわれる山本満雄は、伊藤からのたっての要請と、南野らも加わっての再三再四にわたる説得に最終的には折れ、雅叙園観光の社長職を引き受け、平成元年五月に就任した。この山本は伊藤の「協和」の会長でもあったが、彼は昭和六十二年暮から同六十三年春にかけ、伊藤に対して「手許の保有資産を売却して借金をすべて返済してすっきりし、ゼロからスタートせよ」と繰返えし説得した。伊藤はこの山本の忠告、説得をうけ、最終的は「そうします」と返事していたが、結果的には実行せずに突っ走っていった。(南野洋公判、第八回、平成四年九月二日、山本満雄の証言)伊藤自身も後日のことではあるが「二七〇億円は人生の勉強として、一時はあきらめようとした」と語ったという。コスモポリタンは同六十三年十月には倒産し、伊藤の貸金二七〇億円は焦げつく結果となった。一般の民間企業の常識からすれば、全く桁の違う巨額の貸し借りだった。
伊藤が人生の恩人とも言うべき山本満雄の忠告をまともに受け入れ、事業全般の見直し、精算を実行しておれば、伊藤自身の人生も、住銀・イトマン事件もその局面が大きく変化していたであろうと推測される。
しかし、山気の多い性格の彼にとっては、一部上場の企業である東京・雅叙園観光(伊藤も名古屋市内で結婚式場を経営していた)の魅惑、魔力にとりつかれ、まさに垂涎の的であって、精算を許さなかったのであろう。しかし、多額のサルベージ資金で倒産寸前に追い込まれた伊藤は、当時をふり返って、いかに強引な手法、強気で鳴る彼も、この雅叙園観光について「人の生き血を吸う魔物のように思えてならない」と周辺に弱音を吐いたという。
話を元へ戻し、雅叙園観光の今後の収拾策について合意をみた許、南野の二人は平成元年一月、大阪北の千里にある料亭「石亭」(南野がオーナー)で伊藤寿永光を招き三者会談をもった。
席上許は訥訥と一部上場企業の経営権を握ることのメリットと価値を説得し、南野も資金面の面倒を見ると全面協力を確約した。伊藤と許との初対面の席だった。やがて両名は緊密なタッグ・マッチを組み、今度はイトマンの生き血を吸うことになる。
その後一月中旬に南野は伊藤の誘いで大阪・北区にあるホテルの割烹店に出向いた。伊藤のほか、山口組のナンバー2の宅見組組長宅見勝とその秘書及び許がそろっていた。宅見組長は席上「今後この伊藤が雅叙園観光を経営していくので、三人仲よくよろしく頼む」と話した。
南野と宅見組組長はこの席上が初対面だったが、後日部下に宅見組長に食事をご馳走になったし何か品物を贈ってお返えしをするよう指示した。その後宅見組長に南野は会っていない。(河村良彦ら公判、第二十二回、平成五年一月十九日、南野洋の証言による)
住銀・イトマン事件の源流ともいわれる雅叙園観光をめぐる三者会談に山口組ナンバー2の若頭が出席していたということは、今回の事件の深層を垣間見ることのできる現象だったと思う。やがてイトマン社長河村は、後述するようにこの雅叙園観光の第三者割当増資を引き受けることになる。
「協和」の代表取締役だった伊藤は、平成元年四月に雅叙園観光に対し「当社は貴社振出しコスモポリタン関係の一連の約束手形については、当社において決済することをここに約し、本書を差し入れます」との念書を代表取締役印を押印して提出した。
伊藤が経営権を手にして以降、大阪府民信組の「協和」(雅叙園観光分)に対する融資は、膨張に膨張を重ねていき、平成元年七月末で三五六億円にも達した。いかな南野もこれ以上は融資ができないと伊藤に対する融資をストップした。
伊藤寿永光がこの進退谷まる窮地に追い込まれたこの時期に、彼の前に住銀栄町支店長の紹介により、救世主というべきか、まさに伊藤にとっての貯金箱となった河村良彦がタイミングよく現われることになる。
雅叙園観光の敷地の2/3は国有地であることは冒頭に述べたが、伊藤は河村に対し彼の得意とする言辞を弄して「この土地の払い下げが実現すれば、一,五〇〇億円ぐらいにはなりますよ。知り合いの政治家に工作しているし、必ず実現しますよ。目黒駅近辺の再開発事業にも組み込まれているので、将来立派な高層ホテルに建て替えましょう」と吹き込んだ。伊藤だけではなく、コスモポリタンの池田も許もこの払い下げ話をネタにして巧みに商売をしていたようだ。許も「知り合いの政治家が総理になれば、払い下げは確実」と吹聴していたという。
しかし雅叙園観光社長だった山本満雄は、次のように法廷で証言した。
「平成元年九月ころ大蔵省と敷地の払い下げについて接渉したが、その実現は不可能であることが判明し、細川エンタープライズ(敷地の1/3の所有者。係争中だった)との和解も目途がたたず、再開発はとうてい無理だった」(南野洋公判、第八回、平成四年九月二日)
また、住銀OB(東京・品川区の目黒支店次長の経験あり)でイトマンへ昭和六十年四月に入社し、東京の不動産事業本部長等を歴任した元常務(平成六年七月死去六十才の若さだった)も次のように証言している。
「『雅叙園観光の敷地の大部分は、昭和四十四年ごろに先々代社長が相続税として大蔵省へ物納したものであり、もし払い下げになるとすれば細川一族側であって、雅叙園観光側にはその権利は全然ない。伊藤は一,五〇〇億円ぐらいの敷地借地権の含み益があると言っているが、こんなことは決してないはずである。奥まった部分の囲み地で道路に面していないし、取引きの対象としては極めてむつかしい物件である』この内容について、平成二年一月のイトマンの系列企業の居酒屋“つぼ八”の新生三周年記念パーティーの席上、後半の部分の時間に、出席していた河村、伊藤の両名に話したことがある。伊藤との間には気まずい雰囲気が残ったような感じだったが、河村は特に反論もせず、だまってジーッと聞いていた」(河村良彦ら公判、第二十八回、平成五年四月十三日)彼は目黒支店勤務だったので、雅叙園観光に関する情報には詳しかった。
また次のような注目すべき証言がある。
「雅叙園観光の増資の際、あるマスコミ経済記者から『借地で大蔵省からの払い下げは非常にむつかしい』との情報を入手したので、すぐ河村社長へ報告したが、河村は『そんなことは無い。伊藤は大蔵省にも顔がきく。含み益は一,五〇〇億円はあるし』」
これは当時のイトマン副社長(財・経担当)のはっきりものを言った証言である。(河村良彦ら公判、第六回、平成四年四月十日)
河村は伊藤の言葉巧みな吹聴を疑義も抱かずに一方的に信用していたのか、それとも、こんなことは百も承知だが増資による伊藤への迂回融資的資金コントロール(本項の最終で詳しく述べる)が最優先していたのかは、私の段階では詳かではない。副社長のご注進も河村によって頭から無視されてしまった。
雅叙園観光山本社長は前記の通り、平成二年一月二十三日イトマングループによる第三者割当増資を発表し、あわせて宅地開発、ビジネス賃貸などの業務提携を含む巾広い再建築を推進していくことを表明した。
イトマンはこの増資に加えて、同年三月五日には伊藤の大阪府民信組からの借入金計五五〇億円について、連帯保証する旨の念書を提出している。府民信組の監督官庁である大阪府の監査対策に協力したのだった。
この増資の新聞発表を額面通り受取れば、イトマンとの提携による鮮やかな再建策と一見思われる。当時われわれイトマンOB有志が集った際も、この雅叙園の増資引受けがもっぱらの話題となり、伊藤の「協和」を押えてイトマンが筆頭株主となったことでもあり、しかも相手が一部上場の企業であり、ホテル、結婚式場等を主たる営業種目としているので、業界にも顔のきく相当の大物が、社長か副社長として、経理担当の役員(部長)を同道し、送りこまれ就任するのではないかと議論し、勝手に二〜三名の候補者をあげたりしていたほどだった。
しかし実態は驚くなかれ雅叙園観光の資金繰りマシーンとして利用されていたのだ。当時このようなウラを読み取っていた関係者はほとんどいなかったのではないかと思われる。実態は発表とは異り複雑に絡み合う増資資金の流れだった。この増資直後に八十六億円が伊藤が経営する「協和」へ融資されている。この九〇%に近い七十六億一,五〇〇万円(金利含む)がまわりまわって、「協和」が前年秋に伊藤萬不動産販売から融資をうけた借入金の返済に充当された。イトマンからの増資資金がすぐさまイトマンへ還流するという、まことに奇怪な構図だった。金利等はイトマンの収益として計上された。
イトマンの当時の財・経担当の副社長が、この還流を裏づける証言を行っている。
「イトマンから雅叙園への増資資金の使途はよくわからないが、「協和」への貸付金七十三億円(金利除く)は増資後に返済されてきた」(河村良彦ら公判、第六回、平成四年四月十日)
イトマン河村と伊藤寿永光とが事前に話し合い済のいわば「出来レース」の資金の融通だった。今にして思えば、イトマンから大物の首脳を派遣する必要性も、お目つけ役の経理担当者を送りこむことも全くなかったということになる。この間雅叙園観光において、商法上必要な取締役会の決議等は全く取られていなかった。一部上場企業の社長としては常軌を逸した無暴な増資であり、水面下の暗躍だった。
ここで再び雅叙園観光元社長のこれら水面下の水かきの動きを裏づける法廷証言を引用しておきたい。
「伊藤が平成元年夏にイトマンの河村社長に会った時、借金づけの雅叙園観光の実態を河村に告白し『雅叙園乱発手形の回収資金が一〇〇億円ほど不足しているんです』と訴えたら、河村は『増資の方法でやったらどうかね』と言ったと、伊藤から平成三年六月ごろに述懐されたことがある」(南野洋公判、第九回、平成四年九月十六日)
また伊藤に対し河村は「雅叙園の再建について君は、お国のためにいいことをしている」と激励もしたという。(朝日新聞「バブルの履歴書」イトマン事件(6)、平成三年七月二十九日付)
伊藤にとってはイトマン河村は前述の通り「渡りに船」だった。彼は後日「地獄で生き仏に会った」としみじみ周辺に洩らしたという。
前年の平成元年九月に(伊藤寿永光のイトマンへの正式入社は同二年の二月。従って伊藤の入社前)伊藤に対する融資第一号(ウイングゴルフクラブ等への一六四億円)は実行済だったが、この平成二年二月の雅叙園観光に対する増資そのものが、一部上場企業としてのモラールも失なわせ、この時期にすでにイトマンは崩壊の兆を内包していたと言ってよいと思う。
本項を「雅叙園観光の怪」と題した所以もここにある。
(4)河村の伊藤寿永光へのご執心
第一項で述べた伊藤寿永光をよく知る関係者の人物評及び経歴とは裏腹に、イトマン河村の伊藤に対するご執心は異常なものがあった。
当時の河村には平成二年三月期の公表利益目標をいかにして達成するか、その利益の原資をどこに求めるか、そして自己の社長の地位を住銀サイドからの雑音を排除して、いかに保持していくかということしかその視野になかったのであろう。だから、伊藤をとりまくバックグラウンドとか、その人間性とか、或いは上場企業の商社の幹部としての素質、力量等は全く捨象されてしまっていた。伊藤が計画中と吹聴していた各種のプロジェクトとその利益に目がくらんでしまったと断定してよいと思う。
そこで、河村の伊藤の人物評、力量評価、そして常務に登用した根拠にどういうものがあったのか、通常誰れしも極めて疑問に思うので、ここで明確にしておきたいと思う。
イトマンの二元副社長の法廷証言をまとめれば次の通りとなる。((人事・総務担当の元副社長(河村良彦らの公判、第五回、平成四年三月二十四日)財・経担当の元副社長(本人の自社株売買の商法違反の公判第二回、同年三月二日)の証言による))
一、立川株のアイチによる買占め時に(本件第十二章で詳述する)第三者割当増資の根まわしを手ぎわよくやったこと。
二、イトマンファイナンス(系列のノンバンク)融資先の大平産業の倒産寸前に債権の保全をタイムリーにやり、二〇〇億円の不良債権の発生を防止したこと。
三、東京・南青山のイトマン東京本社ビル建設用地の地上げは、当該地の一部を所有しているある企業が買収に応じず暗礁に乗り上げていたが、伊藤所有の銀座物件との交換で見事に完了させたこと。
四、冠婚葬祭の平安閣グループの総帥であり、平安閣とタイアップすればいろいろのビジネスチャンスが見込めること。
五、銀座の一等地(約四〇〇坪)の地上げを見事にやってのけた不動産のプロであること。
六、雅叙園観光の簿外手形の整理を泣きを入れずにやり遂げたこと。
等々があり、数々の事業に取り組み、人脈も豊富な伊藤に魅力を感じた河村は、年は若いがさすがは不動産プロで、たいした有能な人物だと手放しの絶賛ぶりだったという。
しかし、この河村のほれ込みとは反対に、南青山未買収分と銀座物件との交換完了の話は、伊藤の単なる願望であって、伊藤独特の吹聴で実現をみなかった。また平安閣の総帥云々については、これまた伊藤のホラ吹きで平安閣グループに対する支配力はほとんどなかった。本件については次項で詳しく述べる。
さて、伊藤にこのようにぞっこんほれ込んだ河村は、名古屋支店長経由融資の申出のあった関ゴルフクラブへの五十四億円、相武カントリーの買収資金一一〇億円の計一六四億円に達する巨額の第一回の融資を前述した通り、同年九月上旬に実行した。もちろん伊藤のイトマンへの正式入社前のことだった。
しかし伊藤はこの借入金を借入目的以外の用途に流用し、さらに担保として差し入れた相武カントリーの株券は、伊藤の実兄の泰治に指示して印刷作成させた偽造だった。伊藤は有価証券偽造、同行使罪及び有印私文書偽造、同行使罪で特別背任罪とあわせ起訴されている。
早や伊藤の本性がもろにあらわれ、イトマンの伊藤プロジェクトへの取り組みに対する前途の波らん万丈を予知させる第一回の融資だった。
河村は伊藤が計画中のプロジェクトについて、さらに詳細内容を知り積極的に取り組むべく、名古屋支店長に命じ調査をさせた。この調査内容を説明させ、かつ自分の積極的方針を表明するため、同年十一月六日、河村は東京本社へ三副社長、審査・法務担当の専務(住銀OB)、及び名古屋支店長(住銀OB)を招集し、六名で伊藤プロジェクトに関する説明会を開催させた。事前に特定議案の提出もなく、急きょなぜか東京で開催された会議だった。後日この会議は「六人会」と称せられるようになった。
ここでしばし、約一ヵ月前に時計の針を戻してみたい。実はイトマン元副社長(人事・総務担当)が十月十二日に名古屋支店へ出張した際、支店長の許には伊藤関係のゴルフ場案件や「協和」の会社に関する資料等が山積みされていた。この山積み資料を前にした支店長が、「『協和』の会社の全容、経営実態がもうひとつよくつかめないので弱っている。更に資料を集めて整理しなければならん」とぼやいていたという。(河村良彦ら公判、第五回、平成四年三月二十四日における副社長証言)
この証言に見られるように準備の不足もあったのであろうが、支店長は几帳面な性格の人ではあったが、伊藤独特の誇大な自己宣伝をそのまま鵜呑みにしたうえで、伊藤から入手した資料をもとに、簡単な配布用資料を用意しただけでこの会議に臨んだようだ。この「六人会」については法廷でも度々採りあげられ、特に弁護人側の反対尋問の対象となった。
伊藤プロジェクトの窓口責任者を命じられた名古屋支店長は、「六人会」で概要を次の通り説明した。
(一)伊藤が地上げした銀座の四〇〇坪の土地開発については、新会社を設立して、ビルの建設他イトマンの事業として積極的に展開していく方針である。 (注)伊藤のこの地上げ買収費用の肩代り資金四六五億円という巨額の融資が、十一月二十日には実行された。
(二)平安閣については伊藤が同グループの総帥であり、グループの組織は全国約三六〇社、結婚式場二六七ヵ所に達し、互助会組織のうち六〇%のシェアーを占め、預託金九,八〇〇億円を保有中。うち五五%は運用可能である。イトマンとしてはあらゆる分野で商社としてのビジネスチャンスがあるので、積極的に展開していく方針である。
(三)雅叙園観光の土地は係争中で、大蔵省がからんでいるが、伊藤は大蔵官僚に顔がきくので払い下げ(国有地)交渉中だが了解がついている。当該払い下げ地の前向き活用、開発をはかっていきたい。
その他の案件の記載は省略するが、上記の(二)、(三)とも伊藤の吹聴をそのままストレートにうけたもので、嘘のかたまりのような案件だった。
さて、河村は同年八月ころから、月初の訓示とか朝会の席上で、従来のフォロー的な商売からストックへの転換、すなわち従来の不動産の転売、短期融資・返済の商売のパターンから、ストックへの展開、ストック経済の利益を取る方式への転換の必要性を繰り返えし力説していた。
この「六人会」の席上でも、河村からは伊藤プロジェクトを利益確保のための源泉として積極的に推進していく旨の自信にあふれたと表現してよいほどの力強い方針の表明があった。加えて、伊藤は平安閣グループの六〇%に支配力が及び、内装、インテリア、物販、会員への通信販売等商社としてのビジネスが大いに期待できる。また、雅叙園観光の土地は所有者の細川合名が物納したものだが、いずれ大蔵省から払い下げになるので(伊藤が前もって河村に吹き込んでいた宣伝文句通りのセリフだった)これを有効活用して、マンション他の開発をやれば、一,二〇〇億円〜一,五〇〇億円の利益を見込むことが可能であると、名古屋支店長の説明に加えて補足の方針説明があった。なお、雅叙園観光に対しては債務処理のため七十三億円の融資が、銀座の肩替り融資と同じ十一月二十日に実行されている。私から見ればいわれのない無目的の融資だと思われる。
伊藤と親しい名古屋の会社経営者が「伊藤の嘘には夢がある」と語ったことは前に述べたが、この河村の補足説明、方針、特に雅叙園観光の土地の開発による予想利益は、イトマンの経営規模から見ればまさに天文学的計数であり、なにか「利益」という妄想にとりつかれた河村の戯言のように聞こえてならない。ロマンをかきたてる夢ではなく、実現の全く不可能な夢想だったのだ。
「平安閣の総帥」「雅叙園観光の土地払い下げ」については、真っ赤な嘘で、言葉巧みにだます方もさることながら、赤子の手をねじるように軽くだまされてしまった一部上場企業の代表者たる河村も、お粗末極まるとしか言いようがない。私の現役時代に充分承知している「中興の祖」と称賛された当初の五年間のあの鋭敏な河村が、なぜこうも簡単に変質していったのか、私にはどう考えても不可解である。
ここで河村ひとりを責めるのではなく、他の代表取締役の経営責任も本件を例にとってきびしく追求しておきたいと思う。そうでなければいわゆる片手落ちになってしまう。
「六人会」に出席した三副社長、専務は、伊藤案件については資金の流出が先行し、充分な詮索、徹底した調査もほとんどできていない案件だと不安に思いつつも、いずれ河村、伊藤、窓口責任者の名古屋支店長の三者間で綿密に練られるものと考えていたとのことだった。イトマンの経営路線の一大変換であり、経営として重大な意思決定をしなければならない段階にきているのに、まるで他人事のようだった。三副社長らが後日弁明する超ワンマン社長の前とは言え、突っ込んだ質問とか疑問の提示はもちろん無く、だれひとり条件をつけるとか、質問はもとより異論や反対のひとつも唱える者もいないという極めて無責任極まる代表取締役の面々だった。まるで河村の独演会だった。
さらに、元副社長(財・経担当)の証言によれば(河村良彦らの公判、第六回、平成四年十日)年末ギリギリの同年十二月二十八日ごろ、河村から名古屋支店長に対し、この副社長同席の席上、伊藤プロジェクトに二千億円の融資を実行するので、その一割の二〇〇億円の「企画料」をとって入金するよう突然の指示があった。しかも伊藤に迷惑をかけないように、プロジェクトの開発で負担せよ。かつ翌年の三月までに半分の一〇〇億円の「企画料収入」の計上ができるように、早急にプロジェクトを組むようにきびしい指示があった。
名古屋支店長も「社長はたいへんなことを言うなあ」と渋い浮かぬ顔をし、指示をジーッと聞いていたという。三月期末までに残された期間はわずか三ヵ月しかないのに、今からプロジェクトを組むのはたいへんなことであり、むしろ不可能に近いと副社長も感じたようだ。しかし例によって、天皇河村に対する恐怖感から、意見も異論も申し述べることはできなかったのだ。
証人席で証言を続けるこの元副社長は、前にも述べたのだが後方二メートルぐらいのところにある被告席で、かつての天皇河村が座り、表情ひとつ変えずジーッと聞き耳をたてている視線を意識してか、「非常に言いにくいことであるが……」と断ったうえで「『まず最初に企画料ありき』で担保の保全とか、プロジェクトの採算性は二の次にならざるを得ない状況下にあった。最高責任者の地位維持と、増益路線の継続及び住銀よりの経営の独立性の確保等のためにも、河村には必要な企画料だった」と大きな声で堂々と証言をした。
「中興の祖」河村良彦も、この時期には社長の地位の継続と利益の「亡者」に化身してしまっていたのだ。嗚呼!
(5)ひとり歩きする“平安閣の総帥”
社長河村は平成二年三月十五日平安閣グループとの業務提携をぶちあげ、記者発表を強引に広報部長に命じ実施させた。翌日の朝日新聞は「イトマン、結婚式用品販売、平安閣と業務提携」の見出しのもと、「平安閣グループと業務提携のうえ、生鮮食糧品、ギフト商品、家具、寝具などのブライダル商品を供給する(仮称)「平安物流センター」と、冠婚葬祭互助会員を対象にした無店舗販売会社、イトマン・互助会ダイレクト・マーチャンダイジング・アソシエーション(略称DMA)を今年九月までに設立する」と報じた大掛りな内容の発表だった。
結婚式場等冠婚葬祭事業の平安閣の組織や、その経営の実態の詳細をよく承知している関係者がこの新聞記事を読めば、イトマンの真意、その企図するところをはかり兼ね、一驚するような内容だったと思う。
話は約九ヵ月前の伊藤寿永光のイトマン名古屋支店長との初対面の時にさかのぼる。伊藤はその後名古屋支店長に接触し、巧みに取り入りながら自分は平安閣グループの総帥であって、自分の支配下にある会社が全国各地に約百ヵ所もある。イトマンと提携し、商社の事業として取り組めば多大の利益が見込めると言辞を弄して吹き込んだ。と同時に、伊藤が計画している不動産開発事業について、都市再開発(東京・雅叙園観光)、ビル建設と経営(東京・銀座、名古屋・高岳町)、宅地の造成(東京・我孫子他)、ゴルフ場開発(岐阜・瑞浪・関他)等々について、開発許可の申請・認可済・地元の反対等実態が全く未整備、或いは未実現で見込みがほとんどないにもかかわらず、名古屋支店長には、その実現性と多額の開発利益を生むという採算性について声高らかに吹聴していたのだった。本項ではその詳細は省略するが、この伊藤の誇大妄想とも言うべきプロジェクトはそのまま名古屋支店長から社長河村の耳にストレートに入っていった。このことは前に述べた通りである。
また、先に述べた伊藤寿永光と河村との初対面の会食時にも(平成元年八月三日)、伊藤は平安閣の総帥、並びに伊藤プロジェクトの内容についても、同様に河村に吹き込んだようである。
第二章で詳しく述べるが、金融業・仕手集団のアイチに買い占められたイトマン提携先企業の立川(東京)への対応について、伊藤は河村の要請をうけて、手際よく解決したことによって、河村は伊藤を殊の外信頼するようになっていた。
河村は直接伊藤から多大の利益が見込まれるとの甘言を聞き、また名古屋支店長を通じての吹聴によって伊藤への信頼と相まって、これに乗せられる結果となった。
イトマン元副社長(人事・総務担当)は平安閣との取り組み発表の経緯について、次のように法廷で証言している。
「『伊藤は平安閣の総帥である』との表現は、平成元年十月〜年末ごろに社長河村と名古屋支店長から聞いた記憶がある。二六〇ヵ所の結婚式場をもっており、そのうち伊藤が影響力をもち、息のかかったところは百ヵ所以上ある。建設、内装、改装、インテリア等ビジネス・チャンスがあり、また一千万人〜二千万人ともいわれる互助会々員に対する内見会の開催、物品販売、通信販売等が期待できるとのことであった。社長が毎月初実施していた「月初訓示」でも平成二年当初から、こういった内容の話しが採りあげられ、積極的に取り組み方針が示達されたと記憶している。そして平成二年二月に「事業開発部」という営業部門を社長指示によって新設し、平安閣ビジネスに取り組むこととした」と。(河村良彦ら公判、第九回、平成四年五月二十二日)
この新設部門の担当部長に平成二年二月一日付で任命された営業部長が、検察側の証人として出廷し自分の調査・体験にもとづいて伊藤が総帥と称する平安閣の実態について生々しい証言を遠慮することなく大声で闊達に行った。
「新任務について辞令を受け取り、上の副社長証言と同様の内容の平安閣グループについての概要を社長から聞き『平安閣グループを事実上取り仕切っている伊藤君とよく相談して、君が責任をもって推進せよ。うまくいくはずだ』との指示をうけた。伊藤については、社内の噂等で、山口組系暴力団組長とのつながり、雅叙園観光とのかかわりあい等たいがいのことは事前に承知していたし、伊藤のイトマンへの入社についても、企業社会における一般常識から判断すれば、理解に苦しむ面が多く、精神的に今ひとつすっきりしない面があり、前向きな気もこんなことでなかなか持てなかった。しかし、社長指示をうけていたので、平安閣グループとの取引きをどこから着手するか、とり急ぎ先方の実態を把握することが肝要だったので、二月中旬過ぎから調査に着手した。まずその手始めに伊藤に富山と福山の平安閣を訪問し、取引きについていろいろ相談したいので、先方の責任者を紹介してほしいと数回にわたり繰り返し依頼したが、伊藤からは全然返事がなかった。仕方なく独自に調査を進めたところ、平安閣グループという一つにまとまった組織は存在せず、全国に散在する平安閣は夫々独立企業であり、オーナーがいて、なかには商社の伊藤忠商事の資本の入っているところもあった。三月中旬ころには平安閣の凡その実態、組織が把握できた。河村指示とは大きく異り、伊藤の平安閣各社に対する支配力は全くないといってよい結論だった。支配しているのはわずか七〜八ヵ所だったと記憶している。(筆者注・大阪地検の冒陳は、富山、釧路、福山、名古屋、恵庭、室蘭等で結婚式場や賃貸ビル、駐車場等を経営していたと指摘している)全国に散在する独立企業である個々の平安閣一社毎に取り組むような非効率なことは商社組織でできるわけもなく、『イトマンとして取り組むメリットなし』との結論を河村指示には全く反するが、社長宛報告書として三月下旬、四月中旬の二回にわたり提出した。しかし社長からはこれに対し何の指示もなく、ノーリプライだった。伊藤へもコピーを提出したが全く無視されていた。
実は平安閣担当の営業マンを異例の社内公募制によって広く社内全般から募集し、近近そのメンバーが配属される予定だった。新設部の存続のため、また部下のためにも営業計画を練り直す必要があった。私の判断で社長指示に反するが、平安閣プロジェクトは基本的に打ち切ることにした」(河村良彦らの公判、第三十三回、平成五年六月二十二日)
これに対する社長の反応について、元副社長は「『伊藤の本拠地は名古屋だから現地で突破口をつくれ』との社長指示だったので、平成二年五月ごろ名古屋に本社とは別個に企画開発部を新設し、伊藤の経営する結婚式場のブライダル商品の取扱いを始めたが、期待する成果はあがらず、大阪本社の方も全国を十ブロックに分けての展開構想も全く頓挫してしまった」と証言している。
社長河村は平成二年九月の月初訓示で、さらに平安閣グループとの取引拡大、互助会会員(一千万人以上といわれる)との新ビジネスの展開を相変らずの調子で強調していた。担当部長が「ノーの結論」を出してから六ヵ月近くも経過していたし、新設部門は何の営業活動もしていない時期だった。担当部長は「社長は何を今さらバカなことを言っているのか。社長も“裸の王様”になってしまったとの印象だった。平安閣グループの総帥云々ということは本気で調査すればすぐ判明することだったのに……」といかにも残念そうに法廷での証言につけ加えた。社長河村は担当部長の答申は全く無視し、これに対する具体的指示も出さずに、絵空事のように方針を繰り返えしていたのだ。
また弁護人側は反対尋問の際に、平成元年七月中旬に入手した審査部名古屋駐在の受付印のある帝国データー・バンク作成の「平和綜合開発研究所(伊藤寿永光が経営)に関する調査報告書」を提示し、「伊藤が平安閣の総帥であるとの表現とは程遠い内容であり、伊藤が関与しているのはわずな七ヵ所に過ぎない」と記載してあるとの指摘があった。イトマン社内ではすでに平成元年七月下旬には「平安閣の総帥」は伊藤お得意のはったりをきかせた言辞であったことは明確になっていたし、窓口責任者だった名古屋支店長も審査担当者からの報告によって、また直接興信所の報告書を読み当然承知していたものと思われる。
イトマン全社内でも社長の言っている「平安閣の総帥」とその実態とは相当違うぞとの噂は平成二年二月〜三月ごろから流れており、特に管理職中心に「オカシイゾ!」という不信感が横いつしていたようだ。
ところが、社長、名古屋支店長の段階だけで“平安閣の総帥”という表現がひとり歩きしていた。私のイトマン現役時代の取引先の信用状況の調査、与信供与に関するチェック等システムが整備されていた審査部が存在する以上、想像もできない現象だった。
当初私は「中興の祖」と称えられた河村政権初期のあの経営感覚が一時麻痺したのではないかと想像していたが、大阪地検の冒陳を読み、各関係者の法廷証言をじっくり聞くに及んで、河村の抱く利益第一主義、自己の社長の地位維持の野心が優先し、何が何でも伊藤をしっかり抱き込んで(伊藤が自ら逃げるはずがないのだが……)伊藤プロジェクトなる不動産開発事業(もちろん平安閣との取り組みも含む)に投資し、将来に予想される利益に期待をかけると同時に、目先きの緊張を要する決算対策として公表経常利益の達成のために、伊藤に対する融資手数料収入と役務の提係を伴わない企画料収入がのどから手がでるほど欲しかったのだ。だから、暴力団とのつき合いとか、実態とは異る「平安閣の総帥」のまやかし宣伝は、あの鋭敏な河村が承知していないはずがない。どうも不可解だと先に述べたが、これらは意識して捨象してしまったのが真相だったと、ここでは断定しておきたいと思う。

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